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神と人と従属生物

第2章−1

 

 ーベルが街に戻ると、待ちかまえていた兵士の家族たちが彼女を取り囲んだ。
 
しかしカーベルはそれをかき分けて、大佐と僧兵たちが集まるマウライ寺に向かった。この場で不用意に神の存在を言うことはできない。それは手のつけられない騒乱を巻き起こすことだろう。
「ちょっと、カーベル。私の人はどうなったの」
 肉付きの良い婦人があたりの人垣をはねのけながらカーベルの前に割り込んできた。
「帰ってきた人たちはみんな気が狂ったみたいになって寺にかつぎこまれちまったよ。私の人は帰ってこないんだよ。教えとくれよ。あんた正気だろ? カーベル」
 彼女は神様の死体を口にして倒れた男の妻だった。強い力でカーベルの肩口を掴み、すがりついてきた。
「ロイマ、ロイマ。お願い、落ちついて。グラチスの死は誰も見ていないわ。彼は勇敢な人でしょう?」
 カーベルは女を強く抱きしめると、彼女にだけ聞こえるようにつぶやいた。
「……あなたは強い人でしょう?」
「お、おおっ。カ、カーベル」
「…………」
「おっ……ああっ……あああ」
 女はその場にしゃがみこむと、地面を叩き嗚咽を漏らした。
「カーベル! 無事か。寺へ。皆が待っている」
 人混みをかき分けて装備をつけたままのビドゥ・ルーガンがやってきた。彼は兵を使ってカーベルを囲むと、口々に騒ぎ立てる人々から隔離して、寺へと誘導した。
「カーベル! あの人を返して!」
 失われた兵の妻が彼女をなじった。
 マウライ寺は、エルアレイの中心街であるエルワンの北端にある。海を航行するエルアレイには絶対的な方位というものがないのだが、便宜的にアッツの丘を 東として方位を定めていた。寺は発掘された神の寝室を部材に築かれていた。緑色の重い木材と石の組み合わせを構造材として骨格が組まれていた。
 汎神族は人に比べてはるかに巨大だ。神の住まう部屋は、それ自体が人の家屋の二階建てにも相当する。人は無粋にも広大な空間を錆臭い金属で区切っていた。
 マウライ寺はエルアレイに人が住みついて、ほとんど最初に建てられた建築物である。長い時間のなかで、少しずつ拡張を繰り返されてきたために、高さ四十 メンツルにも及ぶその姿は、おせじにも美しいとは言えなかった。色が使われるでもなく、錆止め塗料と、木材を守るオイルが匂うだけの無骨な建築物。様式す ら統一されず、その時々の流行と建築者の趣味が盛り込まれていた。西方風であり、東方風であり、柱に彫刻を刻んだかと思うと、アスファルト壁むき出しの回 廊があったりする。
  いかにも人の仕事であり、機能的にすぎた。神の住居を模倣して荘厳な造りを醸し出そうという気概すら感じられなかった。ただひたすらに人の利便性だけを追求した寺だった。
 貴重な森を丸く大きく切り開き、二重に木の門を構えたたたずまいには、汎神族の流儀に似た雰囲気を感じとる人もいる。しかしそこかしこに見えかくれする 鉄色の金属が、明らかに人の建物であることを主張していた。それでも神のものを多く使っているからであろう。寺の壁の半分以上はツタが厚く張り付き、鳴く 虫が数多くとりついていた。
 彼らが一の門に入ったとき、そこは大変な騒ぎになっていた。先に帰りついた兵と小麒麟が狂ったように暴れ回り、小屋につながれた小麒麟までもが、興奮していなないていた。
「手がつけられん。いったいなにがあったんだ」
 足早に進むカーベルに追いすがり、ビドゥ・ルーガンが聞いた。しかしカーベルはそれに答えずに奥の門に進んだ。
「カーベル。なぜ話さない。皆は不安がっている」
「話すさ。ビドゥ・ルーガン」
 カーベルは振り返りもせずに言うと、院に入る重い木の門に手をかけた。
「待て」
 閉じた門の向こう側から鋭い命令が放たれた。
「カーベル。入門を禁ずる」
 太く低い老人の声が、扉をも震わせて轟き渡った。カーベルとビドゥ・ルーガンは顔を見合わせた。
「その鎧にとりついた数多くの黒き印。御肉と御血に染まった香り高き印の数々。それは人になにを求める印か? 汚れでなき証しはあるか。おまえに答を解し語る覚悟はあるや」
「老公! この御印は汚れにあらず」
 カーベルが叫んだ。門の向こうの声の主は、マウライ寺を預かる、ガクタ国出身の高僧だ。名をゲイゼウス・ベクロウドと言った。髪も髭も持たない彼は、老 公と呼ばれる高齢にもかかわらず、猪のような首と象のような足首を持つ偉丈夫だった。外の国々との交渉を担う、エルアレイ島長ショーマン・ネイサンに対し て、ゲイゼウスとその取り巻きは、島の内政を一手に取り仕切っていた。
 カーベル、ビドゥ・ルーガンをはじめとして、兵の統率までの一切は、ゲイゼウス・ベクロウドの手にあった。
「開けよ! 老公」
 カーベルは渾身の力で門を叩いた。
「この御印は貴きものであることを知りながらの詰問であるか。神の要請を深く染み込ませた、希有の御印であるぞ。不義を成すことの責任を自ら取る覚悟ありや」
「カーベル。その印は二度と消えることなし。この門は我がエルアレイの民人の意志を統一した門である。その印を招き入れることは、我個人にとってたやすい。しかしそのことを民人にたださずに決することはしがたし」
 凛と張りのある声で老公は言い放った。
「なんと……老公は神の尊厳よりも人のそしりを恐れるか。この門は真理に沿う門か。人の誹膀中傷にいじける門か!」
「聞け。カーベル。帰った兵の一人が、いま畏れ震えて息を引き取った。見よ。その兵士の武具が門の傍らにあろう」
 門の傍らの低木に、神の血にまみれた軽装甲と剣が架けられていた。それはアカミズという名の兵士が身につけていたものだった。
「おまえはなにを望む。巨龍を退けて街を救う任務は全うした。多くの犠牲を払ったが人々は救われた」
「老公! 神の顕現を知ったのだぞ。龍が傷害しようとするは、人には非ず。なぜにこれを捨ておけるか。人と神とどちらが守らるるべきか!」
 カーベルはゲイゼウスの意図を理解できずに絶叫した。人が神を守ることに対して、なんの理屈をこねまわす必要があるのか。夫を失った女の泣き声が、神の血に比してどれほどの価値があるというのか。
「……カーベル。神は死しているのではないのか? 人は生きており、子を成しているぞ。人の子を増やしているぞ」
「人の子を成す? 死んだ神と生きた人を、等しく比べようと言われるか! 不敬とはなにか私に語らせようというか!」
「カーベル……門は開けられぬ。立ち去れ」
 カーベルはゲイゼウスの言葉が信じられなかった。首を左右に振り、自分の理解に彼の言葉が符号する可能性を探った。
「カーベル……」
 ビドゥ・ルーガンがやりとりに介入もできずにおろおろと手を差しのべた。
「……ビドゥ・ルーガン。手伝え!」
 カーベルは力いっぱい門を蹴りつけると、印に染まった鎧を脱ぎ始めた。激しい攻撃法呪の反呪に耐えられるように金具と封印呪札で複雑に固められた彼女の鎧は、自分ひとりでは脱げない種類のものだった。
「解きまし嘗めまし因程子定むる意。心正、心基、皆これ自明なり。乳剥離、界剥離、膠着絶離」
 解呪の言葉を紡ぎながら二人は装甲と内装札を一枚ずつ剥いでいった。
「仕舞いおけ」
 最後の胴巻きが地面に落ちた。ビドゥ・ルーガンに命令したカーベルは、あられもない肌着姿で再度門を叩いた。
「開門せよ! 我は人としての身ひとつ!」
 数瞬ののち、木の葉がすれるさわやかな香りを放ちながら、重い門が内側から開けられた。そこには僧兵に囲まれて立つゲイゼウスがいた。屈強な僧兵の中にあって、頭一つ抜きんでたゲイゼウスは、従属生物であるインスフェロウほどもあろうかと思うほどにたくましかった。
 彼は、ぎらぎらと熱い瞳で睨みつけるカーベルを、穏やかな瞳でみつめて立っていた。高位を示す純白の僧衣がかすかな風にそよいでいた。
「入門を許す。カーベルよ。おまえの手助けに人は出せぬ。しかし設備と要員を寺内で使うことは許そう。神への信仰を私が持たぬわけではない」
 カーベルは長い脚で門の敷居を跨いだ。素足が冷たい敷石を踏む。
「尊意」
 吐き捨てるようにそれだけ言うと、カーベルは寺の地下に向かって長い回廊を走りだした。
 地下は経理室である。神々の遺産のうち活用できるものは活用しつつ、島と外国の商取引きの料金精算を総合的にまかなっていた。階段を降りたそこは、珠算 士の女性たちが二十人も詰める算術室である。ザーーッという雨音にも似た響きが部屋を満たしていた。一分に四百五十もの演算をこなす乙女たちが、一心不乱 に珠算機を操っていた。彼女達の集中を乱さないように隔離された廊下を渡ると、経理事務室が広がっていた。
「カーベル殿!」
「戻られたか、カーベル殿」
 事情を知らない僧たちが、彼女の扇情的な姿に目を丸くした。
「巨龍の軌道を予測したい。蟻算器用意」
 彼女の指示に応えて、見習いの少年たちが倉庫から蜂箱のような木箱を運んできた。箱の蓋が開けられると、中には黒土がびっしりと詰まっていた。少年たちは朝顔を栽培するように、土に細竹を十本も刺していった。
「因果療法師のサインです。カーベル様」
 算術士の資格を持つ僧が進み出た。二十代の半ばころであろうか。聡明な顔つきをした僧だった。漆黒の瞳と金色の眉を持つ青年だ。きれいに剃りあげた頭は オイルでよく手入れされていて清々しい。因果療法師の資格は極めて厳しい試験を合格する必要があった。しかも試験会場は国に一つと限られている。彼が優秀 な算術士であることの証明だった。
  カーベルは箱の脇にあぐらをかいて座った。ばさりと髪がひるがえる。
「ごめん」
 サインはカーベルの長い髪を手櫛ですくと、一掴みを持ち、口にくわえた。そのまま彼女の横に腰を降ろし、数珠を手首にからめて蟻算器の黒土の中に右手を差し入れた。
「深き処に埋もれる真理のありかに通ずるかしこき群がる賢者どもに請うは我が問いを地の上に持ち出し人の知るものの姿としてあらわせ」
 僧の呼びかけに応えて、土の表面がかすかにうごめいた。次の瞬間、無数の黒蟻が土の中から這いだして、細竹に群がった。蟻は脚と脚を絡めて、綿がしのように竹を覆い尽くした。
「巨龍の現れるはいずこであることか」
 カーベルが聞いた。そのとたんに蟻のほとんどがぼたぼたと土に落ちて、再び中に潜っていった。後に残った蟻たちは、なにやら象徴的な図式を空中にその体で描いていた。
「……これは」
 カーベルがうめき声をあげた。
 四角い島を模した形があり、回りを巡る不規則な円形。それは明らかに巨龍が進んだ軌跡だった。カーベルたちが龍を見失ったアッツの丘があり、線はその先 までも延びていた。線はいちど海に出たあと、大きく円弧を描き島に戻ろうとしていた。その上陸地点は島の頂点のひとつに当たっていた。それが蟻たちが予測 した龍の軌道だった。
「ショウカの丘に……ショウカの丘に突入しようとしているのですか」
 サインがカーベルの髪を口から垂らしたままつぶやいた。
「時間をどう見るか?」カーベルが聞いた。
「一週間程度で再上陸すると考えます」
「ショウカの丘にも、きっと神がおられるわ」
 つかれたようにカーベルが言った。脳裏にアッツの丘の歳老いた女神の惨状がまざまざとよみがえった。背筋を走る恐怖に二の腕が粟立った。
「お助けしなくちゃ……」
 がたん、と音を立てて彼女は立ち上がった。視線が宙をさまよい、惚けた口元が情けなく聞こえない言葉をつむいだ。
「カーベル様? どうされたのですか?」
 サインがカーベルの様子に驚いて肩を支えた。
「お気を確かに、カーベル様」
 ゆっくりと蒼白な顔が、サインに向けられた。
「……うっ……」
 カーベルは口を押さえると、若い助手たちを突き飛ばしてかわやに駆け込んだ。心配して後を追ったサインたちの元にまで激しい嘔吐の音が聞こえた。そして唐突にその音は止んだ。
「カーベル様? カーベル様。どうかお開けください。カーベル様……いかん、お助けするぞ」
 戸が叩き割られる音を聞きながら、カーベルは意識を失っていった。


 こぽこぽ、と水の中を空気の泡が昇っていった。水性過酸化草は鑑賞用としても美しい草だった。白い石造りの病室には、高い濃度の酸素が満たされていた。ベッドに横たわるカーベルの枕元と足元に置かれた大きな瓶の中で草はたゆたい、彼女の呼吸を助けていた。
「…………」
 彼女の長い指が、かすかにシーツを握りしめた。閉じた唇の下で顎が小さく動いた。
 眼にかかった前髪を大きな手がすくい上げた。その温もりを感じたかのように、カーベルのまつげが震えた。目尻から、ついっと涙が一筋こぼれ落ちた。
「……っ……」
 乾いた唇を湿らせようと、無意識に舌が動いた。その先が甘い果実に触れた。冷たい果汁がすべるように口の中に広がった。
「気がついたか。カーベル」
 ゆっくりと視点の合う先に、オレンジを握りしめたインスフェロウがいた。
「インス……。私、どうしたんだっけ」
「巨龍の軌道を明らかにしたあと、意識を失った。緊張が続きすぎた。休めたか?」
 急速に意識が焦点を結んだ。そうだ、巨龍はショウカの丘に向かう。カーベルは起きあがろうとしたが、うめき声を上げて枕につっぷした。
「急に動かない方がいい。お前は二日も寝ていた」
「ふつか……たいへん。巨龍が来るまで一週間よ」
「知っている。聞いた」
「どうしよう。インスフェロウ。私たちは勝てるの? あの不死身の巨龍に」
「勝つ? 勝たねばならないのか?」
「なにを言うのよ。だって、きっとショウカの丘にも神様がおられるわ」
 カーベルはやっとのことで身体を起こした。
  インスフェロウは、フードの前をはだけて両手を差し出し彼女の肩を支えた。彼の高い体温が心地よく肌に広がった。
「安心しなさい。因果療法師たちの見解では、巨龍の目的はショウカの丘自体の破壊だ」
「安心しなさいって……」
「巨龍は強力すぎる。しかし巨龍は丘を破壊するために多大な力を消耗するらしい。それならば、巨龍には丘を爆破することにより力を使いきってもらうのが懸命だろう」
「はっ! ちょっと、なにを言っているの」
「先に神をさらってしまえばいい」
 怒るカーベルの言葉をさえぎり、こともなげにインスフェロウは言ってのけた。金色に光る眼が三角に笑った。
「……なんですって? まさか……でも、どうやって?」
  さらうという言葉に恐怖した彼女は、無意識にその単語をはずして聞き返した。
「簡単だ。掘り出せばいい」
「ほ、ほりだす?」 
「知らないか? こうやってスコップで」
 インスフェロウは、枕元にあった棒果物で土をおこすような仕草をしてみせた。
「そんな、そんなことができるの? 想像もつかないわ。神様の寝所を暴いて、おまけにお連れするというの? もし、お目覚めにならなかったら、いったい……」
 現実的なカーベルは、その様を思い浮かべて、具体的な手順を当てはめようと試みた。しかしそれは全く理解を越えた映像だった。
「……でも、なぜ? なぜ、巨龍がこの島を襲うの? なぜ神様が丘におられたの? 巨龍はどうして……」
「カーベル、それを知りたいのか? 知ってどうするつもりだ」
「私たちがこの島にいるからなの? 私たちは知らないうちに神様のタブーを犯しているの? 巨龍は正しいものなの?」
「おまえはすでに知ったはずだ。これは神の争いであることを。なぜそれを人のせいにしたがる?」
「もしかしたら、私たちがここにいなければ、アッツの女神は……無事だったかもしれない」
「迷いは良い結果を生まない」
 インスフェロウはカーベルの長い茶髪に触れながら言った。
「真実はひとつではない。ましてや正義は誰もが持っている。神も我々もだ」
 カーベルはすがるような眼で灰色の従属生物を見上げた。
  その心は混乱し、誰かの力強い言葉を求めていた。
「悩むと」
  インスフェロウは、広く知られている不思議な甘い口臭が彼女にかかるほど顔を近づけた。
「おまえは便秘になる」
「……はあ?」
 つられてカーベルは調子はずれな声を出してしまった。
「私はいつだっておまえを愉快な気分にさせる用意がある」
「それは……ありがとう」
「私を心から締め出すとは愚かなことだ」
「ええ? ええ。そう。まさか。閉め出す? そんな」
「意外と甘いものが好きだからな、おまえは」
「ラ、ラズベリー・パイの食べ放題に行ったこと?」
「私をおいていったな?」
「あれは! あのときはビドゥ・ルーガンと……インスも行きたかった?」
「便秘になったおまえが、巨龍なみに狂暴なことを私は知っている」
  ビドゥ・ルーガンは知らないだろう?  インイフェロウの目が笑った。
「ーー時間が貴重なのよ。あなたと私だけの問題じゃない。あなたのことばっかり考えているときじゃないんだから」
  話しを逸らそうとカーベルは言葉を選んだ。
「私はいつでもおまえのことだけを考えているが」
「……えっ。そう? ほんとうに?」
 ちょっとだけ頬を赤らめて、カーベルは上目使いで彼を見た。
  彼のペースから逃げられない。
「こんなにすてきなレディだ」
「そ、そうかな? そうなの?」
「私を想って階段を踏み外さないか心配でならない」
「……なっ」
「言葉を失うほどかい?」
「インス……」
「なんて素敵な女性だ。信じられない」
「インスフェロウ」
「私がこんな美人と話しをしているなんて、だれが信じてくれる?」
「ねえ、おねがい」
「しまった。プレゼントを忘れてきてしまった。ああっ、どうしよう。おまえに嫌われないか心配だ」
「インスフェロウ、いいかげんに……」
「そうだ。ここにキスマークをつけてくれないか? そうすれば私は安心できる」
 インスフェロウは、マスクを指してカーベルに顔を近づけた。
「もう。いじわるなんだから」
 くすり、と笑ってカーベルは彼の灰色のマスクにキスをした。
「ふん……口紅のあとがつかないのが心残りではあるな」
 インスフェロウはキスのあとを指先でなでながら、金色の瞳で器用に微笑んでみせた。 彼は背筋をのばしたまま、高いところからはっきりと言った。
「私はおまえがいるから判断できる。おまえのために決断できる。おまえの正義を守るために躊躇はしない。結果を畏れずに宣言するがいい。私はなにを惜しむというか」
「私の正義?」
「人を取るも神を取るもおまえの自由だ。私は従うよ」
 カーベルは不思議なことを言う従属生物をその緑の瞳で見つめた。
「人を取る? 神を取る? なにを言っているの? インス」
「カーベル。知っているはずだ。私は人の従属生物だ。そして主属印はおまえにある。カーベル、おまえの正義を成せばいい」
 カーベルはいまにも泣きだしそうに眉を歪めた。エルアレイの法呪戦の頂点に立つ彼女は重い責務を担っていた。強い意志は常に成功を意識し張りつめてい た。それが彼女にとっての日常であり、資質をもって生まれた者の義務であると信じていた。彼女には家族がない。インスフェロウが彼女の中で占める大きさ は、余人が考える以上のものであった。
 カーベルは外ではけっして見せない少女の表情でシャツの裾を握りしめた。
「……そんな、まさか。無理よ。神さまが関わられる問題よ。私だけの判断でなんて動けないわ」
「当然だ。それは構わない。衆人一致の決定であろうが、おまえの独断であろうが」
 彼女は自分自身に問いかけてみた。なにをなすべきか。そしてそのことを島の意志として統一することができるかを。しょせんは彼女もエルアレイの一市民にすぎない。島を防衛する重大な任務の中枢にいることは間違いないが、島の政治をつかさどる者ではない。
 事件のすべてを知るからといって、方針を決定する立場にはいない。
「誰も決断はできない問題だ」
 彼女の迷いの核心を見抜いたかのように、インスフェロウは言った。
「ならばこそ私はおまえの決断に従う」
「……わかったわ。考えさせて」
「時間がないことを忘れるな。おまえの迷いは自分を説得するための過程にすぎないぞ」
「いやなことを言うわね」
「明日まで待とう」
 インスフェロウはマントをひるがえして部屋をでていった。彼の巻き起こした風がカーベルの元に不思議な香りを運んできた。
「……あっ……」
 カーベルはおもわず小さい声をあげた。彼の香りは甘ずっぱく切なかった。
 あのときの神の血と同じ匂いだった。

 

 

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