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聖火香の城の奥

第2章−5

 

 らは部屋の奥に続く扉を開けた。
 すでに誘導する力は消え失せ、人の気配も神の気配も、従属生物たちの息使いすらかすかにしか感じられなかった。
 廊下を照らす発光植物があちらこちらで枯れかけていた。ただでさえ薄暗い窓のない空間がいっそう暗くよどんでいた。
「どうなったんだ。この城は。変だぜ」
 ラブドエリスがつぶやいた。虫が少なすぎる。明らかに神の城の調和が崩れていた。
「見て、ラブドエリス。このタペストリー」
 ギュリレーネが廊下の壁に飾られた立体模様の巨大なタペストリーを指した。それは人間の幼い娘を型どったものが織り込まれていた。
 複雑な色と線で縁どられた意味ありげな模様に囲まれて、汎神族ではない人間の姿が描かれていた。
「……見たことがあるな。これは」
 ラブドエリスは目を細めて思いだそうとした。
「見たことがある? 忘れたってやつ?」
 ギュリレーネが皮肉っぽく言った。
「マロウン。だと思います。この方」
 アピアがさらりと言った。
「マロウン? アリウスの婚約者のばあちゃんか。あの最後の贄の。知ってるのか?」
「……マロウン。マロウン。リュー……」
「どうした。アリウス」
 ラブドエリスがアリウスの顔をのぞきこんだ。妙にかん高い声でアリウスは繰り返した。
「リューがいた。彼女はすでに失われた。リューはマロウンと記憶の線を関係付けられている。マロウンは彼の記憶のなかに老人としてある。彼女の若い姿は記憶にない。リューはやさしい子だった。三歳のころがもっとも古い記憶のようだ……断続的な、なにかのシーンとセットになって姿と言葉がある」
「おい、アリウス」と、ラブドエリス。
「後天的な感情が感覚による記憶に多大な情報を付加している。これを不正確と言うべきか……芸術的というべきか」
 ぶぅん、と聞き取りがたい低音が響いた。
『アリウス自身の記憶を客観視している』
 その声は彼らの頭上から降ってきた。
「な……!」
 ラブドエリスは剣に手を掛けて振り返った。
  しかしそこに生物の気配はなかった。
「ラブドエリス、注意して。アリウスは神の気配に共震しているわ。近くになにかがある」
 ギュリレーネが背中を丸めて言った。
「み、見てください。タペストリーが」
 アピアが消え入りそうな声で言った。全員の視線が壁に集中した。そのときを待っていたかのように幼い人間の姿がタペストリーからはがれだした。めりめりと音が聞こえそうなゆっくりとした動きで立体化した。
 はじけた無数の糸でつるされるマリオネットのように、少女は床に降り立った。
「えっ、おい。俺の目が変なのか」
 ラブドエリスは暗い廊下の中で目をこらした。糸に操られる舞台人形のように少女の姿が変身し始めた。
「げっ、隷ラディオ……」とラブドエリス。
 恐竜の姿が現れだした。しかし姿は定まらずに、少女と恐竜のあいだを行きつ戻りつ繰り返した。
「不安定……」
 聞き覚えのある聖火香の声がつぶやいた。
「クンフやモンスターどものようにはいかないものよ」
 しかし姿は見えない。
「聖火香様。おられるのですか? お姿をお見せください。我々は雅流様の使命を受けて貴柱をお尋ねいたしました」
 ラブドエリスが上を向いて大声で言った。
「ここに。ここに雅流様の御玉がございます。実験の継承を御依頼いたします」
「……むつかしい。なぜだ。なにがたりない。わからない。わたしにはわからない」
「聖火香様?」
 ラブドエリスが聞いた。
「事象発生確率の制御」
 驚くほど切ない声で、聖火香がささやいた。
「クンフ・モンスター階層事象発生確率のペドロ値確保は五十年の過去に実現を見たものの、人間・神従属生物階層への到達は今に至るも不完全である。なぜ? なぜ安定しない。安定しない……安定しない」
 ぞくぞくするほど艶っぽい声で聖火香はささやいた。
 ラブドエリスはアピアとギュリレーネを振り向いた。ふたりも頬を紅く染めて眼をうるませていた。
 汎神族の持つ全ての生物への強制力がこのような形でも発現することをラブドエリスは初めて知った。それには逆らうすべがない。
「マロウンと隷ラディオは私の実験体」
「マロウンが……?」
 ラブドエリスはこの城を訪れた過去のシーンを思いだした。あのときの少女の足……。
「いま稼働が可能な事象発生確率制御装置は、わずかに一機。それはマロウンの属性により完成をみたものである」
 聖火香の実験体マロウン。役目を終えてレンスファの村に生きたまま戻された、哀れな聖火香の贄。
「彼女はなぜ? 実験体がなぜレンスファの村で歳老いていたのですか? 雅流はそれを知っていて贄にしたのですか?」
 ラブドエリスは神に近かった者の率直さで、聖火香に聞いた。
「マロウン……幼かったマロウン。素直に私の意志に従い、幾多の実験を耐えてくれた。痛かったろうに、辛かったろうに。私の実験の成果があるのは、けなげな彼女のおかげ。私はそれゆえ彼女に自由を与えた。十二分に私に尽くしてくれた彼女に平和な人間としての幸せを持ってほしかった」
 ……その優しさが彼女を苦しめた……
 ラブドエリスは言いかけた言葉を呑み込んだ。それを言っても聖火香に理解できたか、あやしいものだ。
「採取したふたりの情報を元に事象発生確率の制御を次の段階に延べねばならない。人間段階の事象発生確率を制御できずして、我が汎神族の自在なる制御は困難なり」
 話すことに夢中となるあまり、油断したのか聖火香は涙声となった。
「……マロウンは良い娘。隷ラディオは良い子。ふたりの属性は申し分なし」
「よ、良い子ぉ?」
 声にならない声でラブドエリスはうめいた。
  だめだ。汎神族の感覚を自分の尺度で考えては。それは犬畜生に人間の考えを求めるに等しい。しかしそうは考えられないのが人間だ。
「アリウス」
 突然に聖火香は指名した。
「アリウス」
 女神の姿が亡霊のように実在化した。
 それが御柱の実態か否か定かではない。ラブドエリスたちの身長を遥かに越える二メンツル以上の高みから、濡れた青い宝石の瞳が涙を流した。頬をつたう涙を拭こうともしない。
「グリュースト閥号羅氏の介入は悲しい」
「畏れながら、あのような非道が許されるはずがありません」
 ギュリレーネが言った。
「すでに宗派間調停委員会に提訴した。裁決は下った。彼の神は死後に墓を十五ヶ所に分けられることになるだろう」
 聖火香は静かに、満足気に言った。
「……御墓を、十五ヶ所。でございますか?」
 ラブドエリスがおずおずと聞いた。
「おだまり。人間が」
 ギュリレーネが制するように言った。
「僕なら記憶溢れを望むほどの恥辱です」
 アリウスがまっすぐに聖火香を見据えて前に出た。少年の姿は神の強制力を正面から跳ね返す力を秘めていた。
「アリウス。君の姿を見ていた。位相遷移座標は巧みに組まれていた。しかし君を規定した式は、私の個人式をかすめるように設定されていたため、私の夢は君の姿をいつも認めていた」
「僕を取り巻く美しい女人の奥に、いつも神々しい光がおられました。あたたかく厳しい光は食をすすませてくれました」
「アリウス。汎神族の記憶を食し人間よ。雅流の実験を帯びし若者よ。私は乞う」
「なにを」
 きぜんとアリウスは言葉を受けた。
 ラブドエリスとギュリレーネは息を飲んだ。人間が神に発する言葉ではない。
「おまえに記憶潜行を試みる」
「応」
 そのとき城のどこかで鈍い音が響いた。重いものが石垣にぶつかるような音だ。戦いになじんだラブドエリスは、いまの音が人間の発するものであることを瞬間的に悟った。音は一度でやまなかった。短い間隔で続いた。
「おい。ギュリレーネ。聞こえているだろう」
「物の焼ける臭いがする」
「遠地像結合。城頂上附観図」
 聖火香がそんな意味の言葉を紡いだ。
「うわ」
  ラブドエリスは小さな悲鳴をあげて退いた。立っていた場所が悪かったらしい。彼の頭のすぐ脇で像が結合した。
 小さな四角い像の中に、城の真上から見た外界が映し出された。
「なんだ。これは!」
 ラブドエリスはおもわず怒りの声を上げた。人間の一群が城を攻撃していたのだ。
 数百人はいようかという人間の軍勢が城攻撃の臼砲を一列に並べて、愚かにも突撃の用意をしていた。
「恐れながら、聖火香様。この無法にはいかなる意味があるのでしょう」
 ラブドエリスは状況を理解できずに聖火香に詰めよった。人間が私利私欲のために、神の城を攻めることなど有り得るはずはない。
 しかし聖火香はまったく興味を示さなかった。アリウスに意識を集中していた。
「アリウス。意味深い実験体よ。おまえの記憶は汎神族のものである。おまえが理解できるかはわからない。しかし理解できずに記憶潜行を行うことは不可能である。目も見えず言葉もわからずに旅をするに等しい」
「了」
「案ずることはない。記憶を人間に理解できるように最大限変換を行おう。そのためにはおまえと並びて記憶潜行を行い、介入する必要がある。リ・ラヴァー・アピアよ」
「……はい」
 アピアは言葉を待ち構えていたかのように落ちついた返答をした。
「供を命ずる」
「応」
「おまえの意識をアリウスと同調させることは容易である。供をして記憶潜行を行え。おまえの役割は用意されるだろう。そして意識に私が寄生する。そこで反応を変換し、私は状況を知る」
「応」アリウスが了解した。
「良きかな。心を楽に持て。アリウスよ。アピアよ。私に心を開き、すべてを受け入れる豊かな魂を用意せよ」
「……応……」
 アリウスの声が遠く揺れ始めた。
 アピアがゆっくりと、床に伏せていく。
「記憶潜行…………」
 聖火香の声を遥かに聞いて、アリウスは意識を失った。


 

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