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最終章

 

――封印たされた宝玉はこれを語る。



『時は、光の国第十一代国王ロードリンクの代の、世である。
 ロードリンク王は、いと気高く、優しき王であった。慈悲に溢れ、広く世界と人々を愛していた。
 王は長きに渡る敵国ダークネシィアとの確執に心痛め、両国の間に立ちふさがる壁を取りのぞかんと、深く考えていた。
 さて、王には五人の子供があった。
  ふたりは男、三人は女であった。ある時王は三人の娘にこう語った。
「娘たちよ。我はおまえらのうちの一人を、闇の国の王子に嫁がせようと思う。敵国の花嫁となり、友好の使徒となりて、ふたつに別れし人の心を、ひとつになしたいとそう望んでいる。誰かその願いをかなえてはくれまいか」
 ふたりの娘は強く首を振った。またふたりの息子は強く反対の意を唱えた。
 だが最後に残りし末の娘は、大きくうなづき答えた。
「最愛なる父上、私がそのお役をお受け致しましょう。私は闇紋の花嫁となりて、光の国の暖かさを、父上の優しさを、地底の国へと届けましょう。閉じられし門を開けに参りましょう」
 かくして、ロードリンクの末の娘は、純白の衣装まといし花嫁となった。
 娘の名はミュルゼリといった。
  その花嫁を妻としたのは、闇国の第二王子イリュウスであった。
 ふたりはひとめで恋に落ち、十月の後にひとりの御子をもうけた。御子は、額に銀の紋をもちた、透けるような白い肌の、輝くような金髪の、美しき男児であった。ミュルゼリとイリュウスは心からその誕生を祝福した。
 だがその命を快く思わぬ者がいた。闇王と、その第一王子であった。
 第一王子には長く子がなく、闇の世継ぎに恵まれなかった。彼らは額に銀の紋を持ちた子供が、先の世に闇の座を危うくすることを深く恐れた。
 ある晩彼らはその御子の寝所へと忍び、その首に手をかけて幼き魂を葬った。御子は声ひとつあげる間もなく、生まれし前の世界へと旅だっていった。
また彼らは御子の親、ミュルゼリ、イリュウスも亡きものにせんとした。ふたりは手をとりあって、闇の国を逃亡した。
 途中ふたりはふりかえり、闇の国へ向けてこう語った。
「さても醜きは闇の者の心なり。おまえたちはその心ゆえに、未来永劫、地に封じられ、日の光浴びることはないであろう。呪われた一族は、一生己の血に縛られるであろう」
 ふたりは涙とともにその国をあとにした。
  ふたりは光の国、光の王宮へと着いた。だが出迎えたのは、ふたりの兄とふたりの姉であった。彼らは恋人達の入城を拒んだ。
「闇の紋を持つ王子、そしてその腕に身をまかせた汚れし花嫁。どちらもこの清らかなる宮に入れるわけにはゆかぬ。いますぐこの場を立ち去りて、遥か遠き地の底へと帰るがいい。一刻も早く光の大地から消えるがいい」
 ふたりは絶望とともにそこをあとにした。
  ふたりは光の国にむけてこう語った。
 「狭き心、奢れる者、それは銀紋の一族なり。慈悲深き仮面をつけた冷たい者どもよ。おまえたちはいつの日にか、その奢る心ゆえに、闇紋の人々に生きる地を奪われるであろう。豊かな大地を失うであろう。それは自業自得である。いつかその身に、報いを受けるときがくるであろう」
 ふたりはまた、明ける太陽にむかってこう語った。
「我らの愛は、愚かなる人々の心の前に打ち砕かれた。我らはそれを許さない。我らの怒りは長くこの世に残り、ここに闇と光への復讐を誓う。ふたつの国は互いに傷つけあい、この世を血で汚し続ける。絶えず戦いに手をけがすであろう。
 だがまた、我らは願う。二度と我らのごとく、悲しき運命のなきように。血に裂かれし愛のなきようにと。
 我らは請う。もしも再び光の血と闇の血が真実の愛を持ちて出会う時、ふたつの血が清らかなる想いの前に融合する時、美しき御子の生まれんことを。
 願わくばその御子が、ふたつの国を統一せんことを。
 我らは我らの命をかけて、この思いをここに残す」
ふたりは互いの喉に剣をあて、その生涯を終結した。
  哀れなる恋人達の、悲惨なる末路を知りて、光王ロードリンクはおおいに悲しみ、そのあまりに惨き真実を、恋人達の命をもって封印した。
 かくして、真実は封印され、ふたりの熱き想いは永遠にこの世から失われたのである』

 これは、封印された宝玉が内包する、第三の、真実の伝説である。ーーーー


    三章  復活  


 ゼルファは閉じていた目を、そっと開いた。
 眼前に美しい庭園が広がっていた。冬の季節にもかかわらず咲き乱れるたくさんの花々。白い大理石の壁に差し込む、暖かな日差し。見つめていると熱い感情がこみあげ、自然と口元に笑みが浮かんだ。彼は今、シャインフルー王宮の中庭に立ち、至上の喜びに震えていた。
(ついに私は成し遂げたぞ。光の国への報復を、闇を封じるものへの復讐を。とうとう奪略したのだ、シャインフルーを!)
 彼は声をあげて笑った。心底うれしかった。ずっと夢みていたことが実現したのだ。それも無条件降伏という、敵方にとって最も不名誉なおまけまでつけて。最高の満足感に包まれて、ゼルファは光の下に立っていた。
 光王メイアを人質に取られ、シャインフルーはすべての抵抗の力を奪われてしまった。彼女を盾にされては、なにも手出しをすることはできなかった。メイアは最後に残る銀紋の後継者。なによりも貴重な光の血を持つ者なのだ。その王を見殺しにすることは、国を失う以上に許しがたい行為であった。
 彼らはいっさいの要求無しに、王宮を手放した。光が闇に屈服するなど決して有り得ないと信じていたのに、無惨にもその信頼は打ち砕かれた。全員が断腸の思いで、闇の国の前に敗北を受け入れたのであった。
 メイアは王宮の一室に閉じこめられ、誰とも会うことを許されてはいなかった。闇王ゼルファの凱旋行進のさいに、その無事は確認されたものの、そのあと誰ひとりとして彼女の姿を見たものはいない。大臣から側近まで、誰もが王の健在を知るすべがなく、皆が不安な思いで牢獄の日々をすごしていた。
 悦にいるゼルファのうしろに、ナハトが寄ってきてひざまづいた。ゼルファは背後の部下にむけ、機嫌よく語りかけた。
「どうだ、ナハト。美しいであろう、光の王宮は」
「はい、誠にもって。想像した以上の素晴らしさにございます。もっとも、闇に暮らしていた私には、いささかまぶしくはございますが」
「ふふん、そうかもしれぬな。しかしじきに慣れる。異和もやがては感じなくなる。この私がそうであるようにな」
 ゼルファは目を細めて微笑んだ。依然ここにいた時の、あのいたたまれぬような異質な感覚は今はなかった。光の民の突き刺すような憎悪の視線がないせいもあるが、なによりも自分が紛れもなく王であるという自信が、それを打ち消しているに違いなかった。
 そう。彼はいまや世界最強の王であった。光と闇をその手に握る、この世の唯一の支配者だった。疎外されたちっぽけな国の、権威なき弱者ではない。ましてや、幽閉され死の恐怖におののく捕虜ではないのだ。
 ナハトは満足そうにくつろぐ王に、この時とばかりに親しげに話しかけた。
「本当に美しいところです。闇王様があれほどにここを欲しがられたのも、わかる気がいたします。なにものにも代えがたい景色だ」
 と、それまで笑っていたゼルファの顔にわずかだが影がさした。
「誤解するなよ、ナハト。私はこの宮殿が欲しくて戦ってきたのではないぞ」
「は、も、もちろんです。もちろんシャインフルーを奪うために王様は……」
「いや、違う。シャインフルーのためでもない。私は光の国を欲しいと思ったことなど一度もない。玉座などは誰にくれてやってもよいのだ」
「は……あ、しかし王様、そのお言葉は……」
「私はな、ナハト。この世に欲しいものはたったひとつしかないのだ。だがその夢はかなえられぬ。永遠に。だから私は己の運命に従ったまでだ。闇の王として、銀紋に復讐を誓った者として、光の国に報復しただけ。私を苦しめ続けた奴らに、仕返しをしただけなのだ」
 ゼルファは庭に入った。かぐわしい花の香りが全身を包みこんだ。彼は誰に語るともなく独りごちた。
「この世に光と闇がある。人の血に正義と邪悪がある。誰が分かちたものであろうな。私にはわからぬわ。だがそれはどうでもよいことだ。なぜなら、私がすでに統合したのだから。ーー私の中の二つの血。そう、これこそが運命やもしれぬ。私こそがこの役にふさわしい。私だけがこの世の王となることができるのだ。私だけが……」
 眼前の花に手を伸ばし、彼はそれを握りしめた。ゆっくりと手を開く。ちぎれた花びらが指の隙間からこぼれていった。それはゼルファに、遠い昔の、ほんの些細な出来事を思いださせた。
 彼はふとメイアを思った。

    *      *      *

 南の部屋に、暖かな日差しが差し込んでいた。
 生まれてからずっと慣れ親しんできたこの部屋。どこよりも心安らぐ場であったはずの空間。しかし、今はここにいても安住を得ることはなかった。ここはもう部屋ではない。牢獄なのだ。
 メイアは格子をはめられた窓から、ぼんやりと外を眺めていた。なにをする気力もなくただ毎日を生きているだけだった。羽をもぎ取られた小鳥のように、さえずることも忘れて、そこにいた。少女はすべての希望を失っていた。
 そこに突然扉が開いて、闇の王が入ってきた。メイアはわずかに首を向けたが、なんの感情を見せるでもなく再び外に目をやった。
「ご機嫌いかがかな、光の王は」
 だがゼルファの言葉にも答えず、メイアは黙って座っているだけであった。ゼルファは彼女の側に歩み寄ると、正面に立ち、生気のない顔をじっと見つめた。
「ほとんどものを口にしないそうだな。自ら飢えて死ぬつもりか? しかし、それは許されぬことであろう? おまえは唯一の銀紋の王女。額の紋を残す義務があろうに」 
 しばらくの間メイアはなにも聞こえていないかのように反応を見せなかったが、やがて消えいりそうな声でつぶやいた。
「……いいの。もう、どうでも。国も、王族の血も、どうなったってかまわないの。私はなにもかも無くしてしまったのだから」
その驚くほど無気力な少女の様子に、ゼルファは眉をひそめ、訝しげに問いただした。
「どうしたのだ。あの燃えるような憎しみは、私すらをも気おくれさせた、射抜くような眼差しはどこにいった? 私が憎いのであろう、メイアよ」
「……憎しみ。それすらも、もう感じることはできない。きっと私はもう死んでいるのだわ。草原のあの場所で、あの人と一緒に命を失ったに違いない。これは死してなお見る悪夢なのだわ」
「死んでみる夢などはない。おまえは生きてそこにいる。目を覚ませ。そしてこの世を見ろ。闇が支配するシャインフルーを。私を見るのだ、メイア!」
 いらだだしげにゼルファは怒鳴った。その声に、メイアはそれまで窓の外に向けていた視線をゆっくりとゼルファにむけ、静かに言った。
「もし私が生きているのなら……、今すぐ殺して。この抜け殻の息の根を止めて。生ける屍の、心の臓を止めて。そうすればあの人のもとへ行くことができる。この悪夢から抜けられるのだわ」
「メイア……」
「殺して、ゼルファ。あなたもそれを望んでいたのでしょう? 私が死ねば、もう王となる者はいない。反旗をひるがえす者もいなくなるわ。私は抵抗などしない。遠慮はいらないわ、さあ、早く」
 死にとりつかれた悲壮な瞳をむけ、メイアは迫った。ゼルファはその異様な迫力に思わず身をひいた。信じられぬような少女の変化に、なぜか強烈な呵責を感じて彼は戸惑った。動揺を悟られぬよう、無理に冷たい笑みを浮かべて彼は言った。
「ざ、残念だがまだおまえを殺すわけにはいかぬのだ。おまえには民衆の前で、王位継承の宣言をしてもらわねばならぬからな。この私に、国を譲ると」
 メイアは小さくあざ笑った。
「宣言ですって? 王位継承の? そんなものがなんになるというの? あなたがこれまでやってきたことは誰もが知っているわ。みんなあなたを憎んでいる。私がどう言い飾ろうと、素直にあなたを王と認めるものなど、この国には誰ひとり存在しないわ。あなたはいつまでたっても闇の王。光の王になどなれはしない。あなたはそんな愚かな夢を見て闘ってきたというの? 光の人々に王と呼ばれることがあなたの望みなの、ゼルファ」
 冷やかなメイアの言葉に、ゼルファはたじろぎ、身をこわばらせた。確かに彼女の言うとおり、彼がこの国で王として受け入れられることは絶対になかった。王として君臨しても、それは王ではない。単なる支配者でしかない。光の王にはなれないのだ。
 だがそれを望んできたわけではなかった。シャインフルーが欲しかったのでも、人々に敬われ、愛されたかったわけでもなかった。自分はただ光の者どもを、己の惨めな運命を、見返してやりたかっただけなのだ。封印され、消し去られた自分の存在を、世に思い知らせてやりたかっただけなのだ。
 しかし、それをかなえた今、ゼルファの得たものはなんの意味もないものばかりだった。半身を失い、孤独の中で得たものは、愚かな復讐劇の末に手にいれたものは、光と闇が入れ替わった、ただそれだけ。
 ふとゼルファは顔をあげメイアを見た。すっかりやつれ、生き生きとした生命感は失われてはいるが、その美しさは変わってはいなかった。いや、憂いを秘めているぶんだけ、奮い立つような色気があった。
 ゼルファは目を細め、微笑んだ。
「良いことを思いついたぞ。銀紋の民に私を認めさせる方法が、誰ひとりとして私を受けいれざるえない方法が。そう、これは面白い見せ物かもしれぬ。どんな未来になることやら」
 メイアはかすかに眉をしかめ、闇王に顔をむけた。ゼルファは目をきらめかせて語った。
「メイア、おまえは私の妻となるのだ。私達は結婚し、世継ぎをつくるのだ。はたして生まれる赤子はどちらの紋を持っていることであろうな。興味深いとは思わぬか?」
「な、なにを……! なにを愚かな」
 メイアはそれまでの無表情をうち捨てて、大きく目を見開き首を振った。
「馬鹿なことをいわないで! あなたと結婚なんて絶対にいやよ。死んでもあなたの妻になどならない。いや!」
 しかし彼女の叫びもむなしく、ゼルファは冷たい笑みを浮かべ、ささやいた。
「さても紋とはどのように現れるのであろうな。人の心を映すのだろうか。ならば憎みあう私達の間に生まれる子は、みな闇の紋を持つ子かもしれぬな。邪悪な血に満ち満ちた、呪われた魂の子供かもしれぬ。いや、それとも、私が得ることのできなかった、光の魂に包まれた子かもしれぬぞ。は、これは愉快。決めたぞ。闇と光のすべての民の前で、盛大なる結婚式だ。これこそが復讐なのだ!」
 満足そうに笑うゼルファの前で、メイアはおののき震えあがった。彼と結婚。妻となり子をつくる。とても考えられないことだった。
 あの誰よりも憎み嫌っていたゼルファと、すべての幸福を奪っていったこの男と、生涯の契りを結ぶなどとは絶対にできないことだ。
 メイアは悲壮な悲鳴をあげた。
「いや、いや、いやよ! それだけはいや! 殺して。私を楽にして。あなたが私からもっていくものなど、もうなにもないはず。お願いだからもう解放してください。お願い!」
 ゼルファは薄笑いを浮かべた顔をぴくりと震わせ、細く白い指でメイアの顎をつかむと、触れるほど間近に顔を寄せた。
「……なにもない、か。いや、まだひとつ残っている。それはおまえだ。おまえ自身だ。私は幾度おまえをうらやんだであろう。おまえとして生まれていたら、無償の愛を手にいれられたであろうに。おまえを奪ってやる。おまえの血、おまえの体、おまえの心を。それに……」
 彼は一瞬口ごもり、そして真摯な眼差しをむけ呟いた。
「……愛せるかもしれぬ。おまえなら……」
 ゼルファは突然くるりと身を返すと、呆然とするメイアを残して出ていった。あとには、身動きすることもできぬほど、うちのめされた少女がひとり座っていた。

 
 澄みきった冬の夜空に、蒼白い月がくっきりとその姿を浮かびあがらせていた。草原の厳しい天候とは違い、湿った夜風もそれほど冷たくはない。同じ国、同じ季節であることがまるで嘘のようだった。
 閉ざされた部屋で独り、メイアは闇夜を見つめていた。
 彼女の行く道は、もうどこにもなかった。闇王ゼルファとの結婚式を明日に控え、今夜この月が沈むまでのわずかな時間が、自分に残された最後の時だった。明日からは己すらをも失ってしまうのだ。
 王宮は眠りの世界に包まれていた。この奥まった南角の部屋までは、聞こえてくる物音もない。静かな夜であった。
 純白の寝着に着替えたメイアは、編んでいた髪をほどき、身につけた飾りをすべて外して、ゆっくりと窓を開けた。格子がかかっているので外へ出ることはできないが、冷たい夜風が流れこんでくる。それはほんの少しだけ草原を感じさせた。
 メイアは顔をあげると穏やかに空にむけてしゃべりだした。
「明日、私は結婚いたします。私が私でいられるのは今宵が最後。明日からは、この世のすべてを憎むでしょう。あの男を生みだした世界を、そして……あの男を愛し、選んだ、あなたをも……」
 メイアはうつむき嘆息した。夜風が頬を撫でてゆく。
「私は……あの男の妻にはなれません。それだけはどうしてもできない……。この先ずっと彼の妻として、そばであの者を見ていかなければならないのなら、共に生きてゆかねばならないのなら、私は……。ああ、父上様、母上様、そして光の民達よ。弱い私を許してください。私には本当にもう、こうするしか手だてはないの」
 メイアは掌の中にある小さな花の実を見つめた。けし粒ほどの大きさの緑の実が三個。いざという時のために、耳飾りにしこんであった猛毒だった。一瞬にして体がしびれ、鼓動が止まり息絶えるという。
 彼女は迷うようにしばらくそれを見つめていたが、再び顔をあげると闇にむかって語りかけた。
「兄上様、……ユウラファーン。どこかでこの言葉を聞いていらっしゃるのでしょう? 私がこれからなにをしようとしているのか、知っていらっしゃるのでしょう、あなたは。ならば、もし、もしこの妹を哀れに思ってくださるのなら、少しでもまだ愛してくださっているのなら……、お願い、ユウラファーン。今すぐいらして。そして助けて。私を。その手で絶望の縁から救いあげてください、兄上様」
 メイアは最後の望みをかけて願った。しかし、その声に答えるものはいなかった。遠い森で季節外れの夜鴬が鳴いているだけだった。
 涙が頬をつたった。とうに渇れはてたと思っていたのに、あとからあとから溢れでた。
 妹の死すらも、もはや彼にはなんの意味ももたぬのか。最後の願いすらも、ひとことの返事すらなく無視するのか。あんなに優しき者であったのに。
 メイアは肩を震わせながら寝床にむかった。静かに横たわると、足をそろえ、衣服の乱れを整えて天井を見つめた。驚くほど心は落ち着いていた。もうこのはりさけるような悲しみから逃がれられるのだと思うと、安らかな気持ちにすらなった。
 ゆっくりと手を口に運び、実を含んだ。なんの味もしないが、それは確実に死を運んでくれるはずだ。穏やかな世界に導いてくれるはずだ。メイアは瞼を伏せ、奥の歯でそれを噛みしめた。一瞬全身がけいれんし、そしてすぐに動きが止まった。
 静かな死が彼女を包んでいった。


(なに? なんだ、いまの胸の痛みは?)
 ゼルファは寝床の上に飛び起きた。えもいえぬ嫌な予感が精神を震わせた。なにかが起きたのだと、心の中で叫んでいた。
 彼はあわてて枕元の上着をつかむと、それを羽織り寝室を出た。不吉な感覚がいっそう強まる。彼はひどく動揺しながら、その原因を探った。それは南の方から感じられた。
(南……メイア? メイアになにかあったのか?)
 激しく心が乱れ、彼はわきめもふらず少女の部屋へむけて走りだした。がんがんと不安が頭をつらぬいた。なぜこんなに心が騒ぐのかわからない。たかが一人の少女のために、どうしてこれほど恐ろしさを感じるのか。
「メイア!」
 ゼルファは部屋に着くなりノックもせずに駆けこんだ。きれいに片付けられた部屋には誰もいなかった。彼は奥の寝室へと続く扉を開けた。その中央にあつらえれた広い寝床に、少女は静かに眠っていた。
 それが普通の眠りでないことはひとめでわかった。日が昇っても、彼女の上に朝はこない。未来永劫、二度と目を覚ますことはないのだ。それは永遠の眠りだった。魂は失われたのだ。
 動かぬ胸、ものいわぬ唇。閉じた瞳。消えてしまった彼女の命。ゼルファは呆然としてメイアの側に歩み寄った。そっと手を伸ばし、恐る恐る頬に触れてみる。まだほんのりと温もりが残っていた。しかし命の息吹は感じられない。死んでいるのだ。間違いなく。
 メイアは死んだ。
 全身の力が抜け、ゼルファはがっくりと膝をついた。頭の中が真っ白になり、なにも考えることができなかった。遠くで耳鳴りがして、しびれるような感覚が全身を包みこんだ。
 ひきつれたような声が口から漏れた。
「嘘だ……。これは夢であろう? 魔物の見せる悪夢であろう? 私は信じないぞ。さあ、メイア、起きるのだ。起きて私を見ろ。たのむ、目を開けてくれ! メイア!」
 ゼルファは少女の両肩をつかんで力の限り揺さぶった。だがメイアの体はぴくりともせず、ただなされるがままに搖れているだけだった。つかんだ手に伝わってくる温もりが、だんだんとその暖かさを失っていった。
 メイアの、胸の上に組んだ手がはずれ、ぱさりと音をたてて夜具の上に落ちた。細くはかない指。微動だにしない、冷たい冷たい死人の手。
 その小さな音が、ゼルファの中のなにかを打ち壊した。体の中でなにかがはじけ、溶けて、全身に広がっていった。
 熱く強いものが、とてつもなく悲しいものが、驚くほど純粋な感情が、心の深い深い奥底に生まれだした。
 彼は生まれて初めて人の死を悼んだ。初めて人の命を惜しんだ。
 わきおこる感情が精神を埋めつくし、激しい悲しみの波が襲ってくる。彼は少女の遺体にすがり、我を忘れて叫んだ。
「だめだ! 死ぬな! 私を残して逝ってしまってはだめだ。戻ってくれ、メイア! メイアァァ!」
 こらえていた涙が溢れ、彼は絶叫した。
「どうして! どうして運命は私からなにもかも奪おうとするのだ! やっと、やっと彼以外に愛せる者を手にいれたと思ったのに。この娘とならば、きっと生きてゆけると思ったのに!ーーすべて……私のせいなのか? なにもかも、私のなしてきたことの報いだというのか。……答えてくれ、ウネメス。運命の女神よ。教えてくれ。私はどうすれば良かったのだ。どう生きれば良かったというのだ! メイア!」 
 彼はものいわぬ冷たい躯にすがり、号泣した。怒りとも悲しみともつかぬ、行き場のない思いが胸に渦巻いた。後悔や失望や、そして、初めて味わう他人への愛情。憎むことのむなしさというものを。
 彼はぽろぽろと涙を流し、唇を噛みしめながら、寝床の上に拳を震わして叫んだ。
「もうたくさんだ! まっぴらだ! 愛する者を失うのは……、もう……いやだ。人の死は二度といらない。もう誰が死ぬのも見たくなどない。ーーもういやだ!」
 そのうしろに、騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた側近や大臣達が集まった。
 皆は一様に驚いて目を見はった。光王の遺体を目にしたからではない。死んだ少女にすがる主君の体が、燃えるように光輝いていたからである。
 それもいつものような真紅の炎ではなく、神々しいばかりの、真っ白な光に。
 

ーー目覚めた。

(目覚めた。鍵なる御子が)
(闇と光は統合し、ふたつの血はとけあった)
(彼は目覚めた。そして復活する)
(復活する。我らの王が)
(復活する。時は満ちた。さあ、目覚めよ、我が王、我が創造主)
(偉大なる御神よ、時は満ちたのだ!)

 ユウラファーンはゆっくりと目を開けた。
 精霊達がさざめいているのが感じられる。世界のありとあらゆる場所で、あらゆる魂が喜びに震えている。運命の転換に沸きたっている。
 彼は静かに身を起こした。
 肉体が変わっていた。指の先、髪のひとすじに至るまで、すべての部分に力が満たされていた。
 もう人としての器に収まっていられるのも、ほんのわずかな間でしかないであろう。残された時間は少ない。
 彼はふりむき、うしろにいる生き物を見やった。
 一匹だけであったそれは、いつの間にか何十匹となく群れ集まり、みな静かに彼が動きだすのを待っていた。ひたすらに。彼につかえ、従うために。
 彼は居並ぶガルブ達にむかって語りかけた。
「長い日々であった。すべての者達にとって。そしてーー私にとっても。だがやっと運命の子は目覚め、また私も目覚めた。封印の時は終わる。時代は変転する。世界は終結し、そしてーー始まるのだ」
 彼は天を見あげ手を伸ばした。体から発する光に、指先が透き通っていた。
 冴えわたる声で彼は叫んだ。
「時は満ちた! さあ、我につかえるあらゆる魂よ。今こそこの身に集うがいい。王は目覚めた。聖霊王は復活したのだ!」
 荘厳なその言葉に、世界中の精霊の魂がうち震えた。空気が振動し、大地が揺れ動いた。霊達はいっせいにユウラファーンめがけてその魂を投じていった。
 ユウラファーンは静かに目を閉じ、彼らを受けいれた。

    *       *       *

 地面がかすかに搖れた。
 眠っていた人々は夢の中でその異変を感じ取った。地の上の銀紋族も、地の下の闇紋族も、誰もが同じようにおののき、おびえた。
飛び起きる者もいた。悪夢にうなされる者もいた。動揺し、寝床の上でいだきあい、人々はみな不安な夜をすごした。
 光の王宮にも、それは同様に起こっていた。光王の自害という思わぬ事態に、真夜中にもかかわらず寄り集まっていた者達は、その異変にざわざわとざわめき、わけもわからぬまま緊張した。
 誰よりも深く異常を感じていたのはゼルファであった。怪訝そうに辺りを見まわし、不安げに呟いた。
「なん……だ、これは?」
「地震、にしては妙な搖れ方ですな。それにこの、えもいえぬ奇妙な感覚。いったいなんでございましょう?」
「なんとも恐ろしい。まさか、光王のたたりではありますまいな」
 ひとりの側近の気弱なひとことに、皆が蒼白になって反論した。
「馬鹿を申すな! あんな聖なる石も持たぬ小娘になにができるものか」
「そうとも。ましてや国を捨てて自害するような心弱い女になんの……」
「静かにしろ」
 王の叱責に皆が口をつぐんだ。無言のまま各々が不安そうに視線を交わした。
ゼルファは窓辺に寄り、外を見た。窓からみる景色にはなんの変化もないが、なにかが変わりつつあるのがひしひしと伝わってきた。
(なんだろう? 不吉なものとは違う。世界中が喜び、踊っているような。空気が、気配が動いているのだ、どこかに向かって。それに……、そう、精霊がいない。どこにも。なぜだ? 闇のものも光のものも、すべてが消えている。どこにいった? いったいなにがおきているのだ?)
「闇王様?」
 大臣が恐る恐る声をかけた。その声に我に帰って、彼はもといた椅子に戻って座った。
「話を続けよう。特に危険はなさそうだ」
 王の言葉に皆安心し、ほっと息をついた。ゼルファはぐるりと見渡し、冷静に話しだした。
「ついに、名実ともに世界は私のものとなった。最後の光王は死に、後継をなす者はいない。私は闇王であり、光王だ。これを揺るがす者はいない」
「しかしまだひとり、行方知れずの……」
 家臣の一人が言いかけて、あわてて口をつぐんだ。闇王の前ではその者のことは絶対禁句であったからだ。これまでに幾人の者がその逆燐に触れ、命を失ったことだろうか。
 しかし彼は激することもなく、穏やかに答えた。
「彼は……帰ってはこない。しかし……もし戻った時には、私はこの座をあけ渡すつもりだ」
 全員が驚きざわめいた。
「ゼルファ様! そのお言葉は」
「黙れ、いっさい口出しは許さぬ。これは世界の王である私の決めたことだ。だが安心しろ。彼は二度と帰るまい。ーーそれより、明日は結婚式のかわりにメイア王の葬儀をとりおこなう。牢獄の者もすべて出席させ、彼らの教えにのっとっって盛大にして正式なる儀をなすのだ。最後の銀紋の王を尊厳をもって送るのだ。確か王族の死は、夕刻にだびに付すのが通例のはず。くわしい手順は光の者に聞くといい」
 全員が唖然として、はさむ言葉もなく聞きいっていた。互いに顔を見あわせ、訝しげに眉をひそめ首をかしげた。無理もない話であった。光王の死は彼らにとってもっけの幸い。祝いこそすれ、正葬をとりおこなうなどとは思ってもいなかったのだ。ましてや闇王の口から尊厳を示せとは。
「牢の、者達も、皆参列させるので?」
「もちろんだ。私は盛大にと言ったはずだ。異存のある者は言うがいい。ただし、今の地位を失いたくなければの話だがな」
 厳しい眼差しでゼルファは見まわした。その瞳の前に反論を唱える者はいなかった。彼らは物々しくうなづき、了承した。
 ゼルファは悲しげな表情で小さく笑った。
「私の妻となるはずの女であった者だ。せめてそのくらいのことはしてやってもよいであろう? なんの……罪滅ぼしにもならぬだろうがな」
 聞いていた闇の者達は、その言葉にもう一度仰天し、信じられぬといったふうに目を見開いた。しかし、誰もなにも言わなかった。

    *       *       *

 冬の夕暮れは早い。時は三・四時間前に昼の訪れを告げたばかりなのに、早くも西の空にはうっすらとした赤い幕がおり、少しづつ辺りの輝きは力を失っていた。
 光の王宮の前庭には大勢の人々が集まり、中央にあつらえられた大きな燃やし木のまわりを取り巻いていた。
 半分以上は褐色の肌をした銀紋族の者達であった。しかし束の間に得られた自由にも、誰も不遜な行動を起こすような者はいなかった。皆厳かに、その燃やし木を見つめていた。
 高く積まれた木の上に、少女の体が横たえられていた。薄紅色の衣装をまとい、丁寧に化粧され、まるで今にも目を開けて起きあがってきそうなほどに生前となんら変わりなく輝いていた。その姿は目を見はるほどに美しかった。胸におかれた水晶石が悲しい光を放っていた。
 荘厳な雰囲気が漂い、重々しい静けさが辺りを満たしていた。
 時を告げる鐘が鳴り響く。その音とともに、居並ぶ者達の中から一人の男が進みでた。喪の服を着た戦士、光王腹心の部下シンオウであった。
 彼は途中ちらりと闇王を見、また前方に視線を戻して歩いた。かがり火のそばに立つと、その中から一本の松明を取りだし、頭上に捧げ持った。
 彼はしばらくの間その燃える炎をじっと見つめていた。
 誰よりも大切で、誰よりもいとおしんできた娘を天上に送る。美しい肉体は燃やすには忍びないが、このまま朽ちさせてしまうのはもっと辛い。せめてこの手で最後の別れを告げるのが、自分にできるたったひとつの愛の証であろうと彼は考えていた。 ふりむいて背後に並ぶ者達に一礼する。そしてゼルファに身を向けると、もう一度深々と頭を下げた。怒りや憎しみは少女を亡くした悲しみに押さえられて、わきあがってはこなかった。ただ絶望だけが胸にあった。
 彼は燃やし木のそばに立ち、心の中でメイアに最後の別れの言葉を告げ、手にした松明を積まれた木々に近づけた。
その時、耳の奥に声が響いた。
(ーー待て)
 シンオウは驚いて手を止めた。不思議そうに辺りを見まわす。うしろで見守っていた人々は、彼の不可解な行動に怪訝に眉をひそめた。
 シンオウは誰も何も言わぬのを見て、聞き間違いであったかと、もう一度火を近づけようとした。
 ーー待てーー
 再び声が響いた。だが今度は誰の耳にもはっきりと、空気を震わせるような凛とした冴え冴えしい声が、どこからともなく聞こえてきた。
「待て、燃やしてはいけない。肉体がなくなっては、たとえ私の力をもってしても、再生はかなわぬ」
 それを聞いた者の中、二人の人間はその声に息を飲んだ。それが誰の声であるかすぐにわかったのだ。シンオウとゼルファは同時に同じ名をつぶやいた。
「……ユウラファーン」
 その言葉に答えるかのように、薄闇の訪れはじめた天の一角から、雲を割って光の帯がひとすじ射しこんできた。神々しいまでの白い光がまぶしく辺りを照らしだした。光の帯は前庭の上空に降りてきて、いっそうその輝きを強めた。
 やがてその中に、人の姿が徐々に現れでてきた。
 くっきりとした輪郭が見えてくる。短い髪、痩せた体。片方だけの腕と、そして深い傷痕を残しながらも、端正な顔立ち。若い男の姿だった。それははっきりとしていながら、どこか透きとおったように影が薄く、まるで光の中に映された陽炎のように見えた。
その者は人々を見おろしながら、ゆっくりと空中を歩いてきた。まるで見えない道がそこにあるかのように、彼は平然と進んできた。体から発する光が、歩いたあとに尾をひいてついてくる。それは空を滑る流れ星のような不思議な景色だった。
 人々は驚きあまり、声を発することすら忘れ、呆然とその光景を見入っていた。
 青年が発するあまりの神聖さに、全身が硬直してしまって、身動きひとつできないでいた。全員がわけもわからぬまま、激しい感動に包まれた。
 彼は燃やし木の上まで来ると、静かに降下してきた。居並ぶ者達ははっきりとその顔を見、それが誰であるのかを知った。額の紋を失いこそすれ、まぎれもなく唯一の銀紋の者、光の王子ユウラファーンであった。
彼は大地に降り立った。だがその足は地を踏みしめてはいず、わずかながらに宙に浮いたままであった。
「それを捨てろ、シンオウ。もう必要ない」
 彼はシンオウにむきあうと、穏やかに言った。だがその声は彼の口からというよりも、世界のすべての空間から響いてくるように聞こえた。声は尊厳に溢れ、清廉で、気高く、それでいて人を越えた冷たい異和を感じさせた。
 シンオウは思わず恐れ、身をひいた。ユウラファーンはそっと手をあげた。するとそれに応え、シンオウの持っていた松明の火がすうっと消えた。彼は驚いて投げ捨てた。
 震えおののく人々を後目に、ユウラファーンは燃やし木に近寄ると、そこに横たわる少女に静かに語りかけた。
「光王メイアよ。おまえの憎しみ、おまえの死が、わが御子を目覚めさせた。礼をしよう。さあ、おまえの魂を受けとるがいい」
 その途端、彼の体から小さな輝く光の玉が現れ、それがひきこまれるようにメイアの体に進入した。一瞬少女の全身がまぶしく輝き、それがおさまった時には、それまで微動だにしなかった彼女の胸が小さく上下して、息を吹き返したのがはっきりと見てとれた。
 人々の間にどよめきが起こった。命を取り戻した少女の体がふわりと浮きあがり、すべるように宙を飛んでシンオウのもとへとむかった。彼はあわてて両手を差しだし、その体を受け止めた。抱きとめた体には間違いなく生命の暖かさが宿っていた。
「メ、メイア様!」
 彼は声をつまらせて叫んだ。するとそれに応え、メイアはゆっくりと瞼を開いた。
「……シンオウ? あなたなのね。私は、私はいったい……」
「よかった! ああ、メイア様」
 まだ夢から覚めきらぬようにぼうっとするメイアを、シンオウは力の限り抱きしめた。眼前の奇跡を確かめるかのように。
 黙って見ていたユウラファーンは、少女の生還を確認すると、くるりと背を返し人々の方へとむきなおった。そしてゆっくりと皆を見わたした。
 全員その眼差しに震えあがった。ここにいるのはただの光の王子ではない。もっと強大な者、遥かに力ある者であることを誰しもが理解した。
 ゼルファだけは少しもおびえることなく、神妙に口を結び、前へと進みでた。だが数メートル手前まで近寄ったところで、ユウラファーンが厳しい口調で彼を押しとどめた。
「そこまでだ、御子よ。それ以上近寄ってはいけない」
 その妙に緊迫した口調を不思議に思いながらも、ゼルファは従順に立ち止まった。
 体が熱くなるのを感じた。激しい感情が溢れだし、唇が震えた。歯を強く噛みしめ、彼はぶざまに泣き出してしまいそうになるのを懸命にこらえた。ゼルファは一度大きく深呼吸すると、長い間考え続けていた再会の言葉を静かに語った。
「いつか……、いつかこんな日がくると、ずっと思っていた。私の前に立つおまえの姿を知っていた。もういいのだ、ユウラファーン。復讐は終わった。私を殺してくれ。そしておまえの王座を取り戻すがいい。帰ってこい、おまえの国へ」
 だがユウラファーンは小さく首を振った。
「王はそなた、人の世を治めるのはそなただ。私は戻るためにきたのではない。この世の中に、私がいる場所はもうどこにもない」
 彼はじっとゼルファを見つめ、低く荘厳な声で物々しく語りだした。
「長き苦しみの時代であった……。鍵なる御子よ。遥か古より、私はそなたの誕生、そなたの目覚めを待ちわびていた。そなたはようやく光と闇を統合し、運命の扉を開いた。私を復活させてくれた。私はやっと成すべきことを果たすことができる。御子に祝福あれ。そなたこそがこの世を変転させる。ゼルファ、運命を授けられし、光と闇を持つ子供よ」
 それは、ユウラファーンの言葉ではなかった。彼の唇から語られた言葉でありながら、彼の言葉ではなかった。いや、やはり彼自身のものであった。変化していたのは、彼自身であったのだから。
 ゼルファは当惑した。目の前にいるのは、あの少年のユウラファーンでも、また魔動の谷で見た孤独な青年でもない。恐るべきものに変化したこれは、これは誰だろう? 怖いほど神々しい気を放ち、物々しく語るこれは、ユウラファーンではないのか? 彼は激しい不安に包まれた。
 ユウラファーンの体が再び高く浮きあがった。数メートルほどの高さでその場に止まると、彼は目を閉じたまま手を前に差しだした。
「分かちた瞳よ。この手の中に戻れ」
そう語った途端、掌の上にぽうっと二つの石が現れでた。ひとつは銀紋族には馴染み深い、それまでメイアの胸の上で搖れていた聖なる水晶石だった。
 だがもうひとつは、それと全く逆の姿をした真っ黒な石だった。中央に銀の星が光る不思議な黒水晶だ。まるでそれは、ふたつの国、闇と光の人々の姿を象徴するかのようであった。
 彼は手の上の石を見つめ、かすかに微笑みかけた。
「最愛なる我が妻の瞳よ。どれだけの苦しみ、どれだけの血を、おまえは見てきたことであろうな。ーー哀れな右の瞳。その存在すらをも忘れ去られ、深き地の底で地の人々の憎しみに嘆き悲しんだのであろうか。かわいそうな左の瞳。幾たびの戦いと幾人の人々の死を、その目に捕らえてきたのであろう。さぞや辛い日々であったろう。さあ、もう帰るがいい。妻にして母、母にして妻であった者の躯へ。遥かなる古の時代へ。ーーさあ、ゆけ」
 彼は高く手をあげた。二つの石は彼の言葉のまま、空中で霧散して消えていった。
 ユウラファーンは再び眼下を見おろした。人々が声もなく成行きを見守っていた。ゼルファも、シンオウも、その腕にいだかれたメイアも、じっと彼を見つめていた。いったいなにが起きるのか、不安な眼差しであった。
 彼は再び手をあげ、厳かに命じた。
「呪われし封印の宝玉よ、我が前にいでよ」
 ぱっと鋭い光とともに、彼の目の前の空中に五つの宝玉が現れでた。
 美しい丸い玉。内部が虹のように様々に色をうつりかえる。人の世に語り伝えられることを禁じられた呪われた伝説を、その身にいだく不思議な石であった。
 ユウラファーンはひとたび深く息を吸いこむと、天に向けて叫んだ。

「聞け! 世界の人間達よ!」

 凛とした声が、全世界にとどろきわたった。
 その場にいる者達も、そうでない者も、誰しもがその声を聞いた。
 ある者は家の暖炉の前で、またある者は夕暮れの街道で、そして光の国の遠い外れでも、地の底の闇の国においても、皆がその叫びを受け取った。恐怖と畏敬に震えあがった。
 腹の底、頭の芯に響いてくる彼の声を、語る言葉を聞いたのである。
「ーー我こそは聖霊王である!」
 声は世界に響き、伝わった。
「我は復活した! この世に生きとし生けるものすべて、聖霊王の言葉に耳をかたむける時がきたのだ!ーーいまから私は、この五つの封印されし宝玉を解放する。すべての者にここに眠る伝説をあけわたす。知れ。そして考えろ。受け取れ。そして目覚めるのだ。戦いが、憎しみが、正義が、邪悪が、愛と嫌悪がいったいなんであるのかを、おまえ達自身の手でつかむがいい!」
 空気がびんびんと振動し、痛いほどにはりつめていた。
 広場で目の前のさまを見守る人々は、地の底から吹きあげてくる激しい風に、身を吹き飛ばされぬよう足を踏みしめて立っていた。
 清らかでかつ激しい声が、割れんばかりに大きく天に広がった。
「第一の封印!」
 聖霊王は叫んだ。
「人の生まれし、故。その銀と闇の紋をなした、最初の過ちが綴られし真実よ! 今ここに、天と、地と、聖霊王の名において我が命ずる。ーー伝説を解放しろ!」
「きゃっ……」
「うわっ……!」
 人々の口から悲鳴が漏れた。強烈な衝撃とともに、一瞬にして太古の出来事が脳裏に蘇った。
 源の伝説が。偉大な王の苦悩や後悔が、鮮明にして生々しく、心に焼きつき、描かれた。
 人々は頭を押さえた。その時彼らは初めて真実を知ったのだ。自分達の創造されし意味を。彼らが誰から生まれ、そして誰とともに生まれてきたのかを、誰もが知ったのだ。
 ふたつが、ひとつであったことを。

「第二の封印!」
 続けて彼は言った。
「人の別れし、故。光と闇の最初の戦い、最初に流れし血の、苦しみ綴られし真実よ! 今ここに、天と、地と、聖霊王の名において我が命ずる。伝説を解放しろ!」
 たたみかけるように第二の伝説が蘇ってきた。
 閃光が頭の中で爆発した。
 人々は知った。悲しき戦い、愚かなる双子の憎しみを知った。流れでる血と母の痛みを、不幸の始まりを、失われてしまった最初の命を知った。双子達の深い悔恨といたわりの感情、そして……別離のわけを、世界の誰もが知ったのだ。
 ひとつが、ふたつとなったことを。 

 皆が激しい衝撃にうちのめされ、がっくりと肩を落とした。銀紋族の者も闇紋族も、すべての人々が深い感傷に包まれた。
 悲壮にして悲惨な事実だった。あまりにも悲しい人々の歴史のはじまりだった。
 だが決してそこには邪心はなかった。愛するがゆえに行われた王の行為。愛ゆえの憎しみ、愛ゆえの別離。その結果がーーこの、いま世の姿なのか。
 光と闇に別れ、闘い続けてきた人々。まるで生まれながらにしての仇のように、憎しみの炎を燃やし、そねみ、拒絶し続けてきた長い時間。それはいったいなんだったのだろう。人間は、長い歴史の中、なにをしてきたのだろう。
 それは世界のすべての者の心の中に、悔恨と疑問をもたらした。人々は皆、考えた。自分達のいる意味を。

 おしづまるような沈黙の中、光輝ける者は三度語り始めた。
「第三と第五の封印。これは……おまえ達人間の過去である。愛。別れ。運命に翻弄されし者達のたどった、哀れな生きざまである。悲痛なる死の故が綴られし真実。己らのなしたことを、しかとその目でみるがいい。ーー天と、地と、聖霊王の名において我が命ずる。伝説を解放しろ!」
 残った三つのうちの二つの玉が、同時に閃光とともに砕け散った。
 解放された伝説は、人々の胸の中に吸いこまれていった。
 悲しい過去の恋人達の、光にも闇にも拒絶された恋人達の、呪いと、そして悲痛な願いが、人々に聞こえた。壮絶な思いが、すべての者の心の奥にしみとおっていった。
 そしてーーその恋人達の願いに導かれたかのごとく生まれた、闇王ゼルファの出生の秘密。
 その隠された真実を知った。光と闇の、ふたつの血に奪われた命と愛を知った。さまざまな憎しみを、流されたたくさんの涙を……知った。人々の誰もが、ゼルファの苦しみを知ったのだ。

 メイアが呆然として呟いた。
「そんな……。知らなかった。彼が、ゼルファが、伯母上様の子であったなんて。私と、同じ血が流れていただなんて。父上がーー彼の母親を殺しただなんて!」
 彼女は激しく首を振って絶叫した。
「なぜ! なぜ父上様はそんなことをしたの! どうして教えてくださらなかったの、どうして封印などをしてしまったの! ああ、なんてこと……。私はずっと同じ血の流れる者と闘ってきたというのね。罪のない者を罪人として憎んできたというのね。……私は」
メイアは地に泣き崩れた。
「では……私のしてきたことは、いったいなんだったの? 私の信じていた正義や平和はなにもかも間違っていた。すべて嘘の上に塗り固められた虚構だった。でも、ずっとそう思い続けていたのよ。それが正しいことだと教えられてきたのよ。ああ……、誰か教えて。私達の戦いの意味を。流れていった多くの血はどこに消えたの? 教えて! どうして私はこんなにも憎まなければならなかったのか! どうして……!」
 それはすべての人々の心を代弁したかのような叫びであった。世界中の者達が、彼女の流す涙と同じ涙をこぼした。同じ後悔に苦しんだ。同じ悲しみを味わった。
 ユウラファーンはその様子を黙って見守りながら、最後に残された宝玉にむかって静かに語りかけた。
「第四の封印。これはもう意味がない。時は満ち、予言は真実となった。御子は運命の扉を開き、我を復活させた。さあ、消えるがいい。おまえは力を失ったのだ」
 最後の宝玉が砕け散った。


 伝説は、残酷な真実であった。
 衝撃に、誰もなにも言うことができなかった。皆が無言のまま、ただじっとその場に立ちつくしていた。
 沈黙する人々の上に、ユウラファーンの、聖霊王の、穏やかなる声が広がった。淡々と、深い悲しみと慈しみを込めた静かなる声が響きわたった。
「光の者達よ、我が声を聞け。ーー闇の同族を憎むことなかれ。彼らは同じ血、同じ魂を分けあった者である。彼らは愛しき半身のために、自ら地の底に潜っていった、優しき兄弟であったのだ。暗く冷たい地下の世界で、いつしかその子供達が傷つきすさんでいったとしても、それをどうしてとがめることができようか。なんの罪もない。むしろ罪深きはおまえ達。大きな懐とありあまる富を持ちながら、決してそれを分け与えようとしなかった、おごる一族。それがおまえたち銀紋族なのである」
 そしてまた闇の人々にむけて彼は言った。
「闇の子供よ、我が声を聞け。ーー愚かなる愛し子よ。ひたすらにそねみ、憎み続けて、無益なる戦いだけに目をむけてきたおまえ達。その血塗られた歴史を見るがいい。愛もいたわりも捨て、多くの命を奪ってきた己らの、心の弱さこそを恥じるがいい。ずっと一族の血の故だと信じてきた醜き心根は、決して血のせいなどではないのだ。すべては己の弱さゆえ。思いやることを忘れた愚かな心が、自ら招いた結果なのだ。憎むべきは弱き心」
 それからユウラファーンは目を閉じると、高く天空を仰いだ。彼を包む光がゆらゆらと搖れた。悲しみ嘆くようにまわりの空気が震えていた。彼は世界中の人々に懺悔した。
「しかし子供達よ、……最も罪深きもの、それはこの聖霊王である。慢心し、おごりたかぶった我が心である。我は己の中にある暗き部分に目を閉ざし、自分が最良であると自惚れた。己が善のみにあると信じ、尊大に魂をわけあたえた。そして……おまえ達の中に現れた自らの悪に恥じいり、隠そうとして自分勝手に封印した。憎むべきはその傲慢なる行為である。許してくれ、子供達よ。おまえ達すべての憎しみの根源は、我が愚かさに起因する。おまえ達が真に憎むべきは、この聖霊王なのである」
 ユウラファーンの体がいっそう光輝き、輪郭がぼやけて光との境界の見分けがつかなくなった。透明にすら見える。彼は目を開け再び人々に視線を戻した。
 人々が皆、じっと耳を済ませて聞き入っていた。その場にいる者も、また遠く離れた場所にいる者も、誰もが一言一句を聞きもらすまいと、真剣に耳を傾けていた。
 ある者は胸を震わせ、ある者は涙し、独りで、あるいは隣あう者と手をつなぎ合わせながら、聖霊王を見守っていた。
 王はゆっくりと彼らを見渡すと、厳かに語った。
「今この世に、この肉体この魂をもって聖霊王は復活した。今我がすべての力をして、古に封じられしおまえ達の紋を、肉体にかけられし別離の呪いを解き放とう。私の犯した大きな罪を正そう。ーー銀紋と闇紋の世は終結する。世界は変転し、地上からあらゆる封印は消える。生まれる子供達は誰しもが、光と闇をその身に持ちて生を授かるであろう。おまえ達はひとつになる。ふたつの魂は統合するのだ」
 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼の肉体から天にも届くがごとく白い光が立ち昇り、壮麗で巨大な光の柱となって輝きだした。
 それは恐ろしいほど荘厳な光景であった。
 一点の汚れもない、目もくらぬような神々しい輝きであった。いと気高き聖なる力の技であった。すべての者が心うたれ、その存在の前に屈服した。
 すでに辺りを包んでいた星ひとつない夜空に向けて、その柱は一直線に立ち昇っていった。世界中の空気がぴんと張りつめ、大地は絶え間なく振動した。深い地の底から聞こえてくる地鳴りが慟哭のように大地に響きわたった。
 森や谷間に住む動物達は恐怖の叫びをあげ、鳥達は闇まに逃げまどった。人々は遠き空に輝く光の柱におびえ、側にいる家族や仲間の手をとって、震えて身を寄せあった。
 その場にいたる者達は、皆まばゆさに思わず手で目をおおい隠した。だが指の隙間から漏れてくる光ですら、想像を絶する輝きがあった。言葉につくせぬ感動が彼らを包んだ。
 彼らはひたすらそのさまを見守っていた。その場から逃げだすものは一人としていなかった。これからなにが起きるのか、誰しもが息を飲んで見つめていた。恐怖からではない。大いなる希望に揺り動かされて。
光の中、すでにユウラファーンの姿は埋没し、見極めることはできなかった。ただ、凛とした若者の声だけが、神聖な響きをもって高らかに聞こえてきた。
「すべての精霊達よ!」
大気が震えた。
「光なるものも闇なるものも、妖鬼も、ジンも、我が魂から生まれいでし、あらゆる魂のものよ!」
 大地が揺れ動いた。
「さあ、この身に集え。そして力を与えよ。復活した聖霊王に、その命を捧げもて。私と同化せよ!」
 世界中の魂が、その命令を受け取った。
「……ひっ……」
 ゼルファは強く口を押さえ、漏れる悲鳴を飲みこんだ。その場の中で、彼だけは彼の持つ力ゆえに、はっきりと見たのであった。
 何千何万という霊が、魂が、その輝く光の柱に飛びこんでいった。そしてそれらは燃えあがり炎となって、ユウラファーンの中に吸収されていった。
 それはほとんど恐怖であった。言語を絶するすさまじさ、想像もかなわぬ、人の技をはるかに越えた壮絶な力の姿であった。
 ゼルファは愕然として目の前に繰り広げられる驚異の光景を凝視した。がくがくと体が震え、全身が総毛だった。目頭が熱くなり、涙が溢れ、頬を熱く濡らした。
 彼は恐れながらも、深い悲しみに鳴咽を漏らした。
「お……ユウラファーン、おまえ……」
 そこにいる者もはもう、かつての双子ではなかった。彼の愛した、優しい少年ではなかった。恐れおおい偉大な王、世界の創造主聖霊王なのだ。もう……人間ですらない。
 しめつけられるような胸の痛みに、彼は両手で体をかかえるようにしてうずくまった。
 その上に響く、美しい声。
「地上の人間達よ、さあ、受けとれ! これが聖霊王最後の力である!ーー魂は結集し、力は充足した。いまがその時。この一瞬のために聖霊王は復活したのだ。ゆけ、我が全精力よ。世界から人類から、その封印を解き放て。紋を消すのだ。光と闇を統合しろ! うおおおおぉぉっ!」
 絶叫がとどろいた。
 壮絶な叫びとともに、光の柱は瞬時にして砕け散った。
 光がいっせいに外へとむけて発散される。世界が、地上のあらゆる場所が、そして地の底までもがその光に照らされた。その光を感じ取った。
 その力にーー包み込まれた。

ーーーー静寂。

 ゆっくりと……、静かに……、広まってゆく。
 聖霊王の大いなる力が、限りない優しさが、祈るような願いが、底しれない悲しみとともに浸透する。
 血が、少しづつ変化する。肉体が、少しづつ変わってゆく。精神が、意識が、ゆるやかに解放される。
 封印が解けていった。徐々に、確実に、そしてしっかりと。
 世界はーーひとつの魂におおわれた。

人々から、口ぐちに驚嘆の声があがった。
「あ……、か、髪が……」
「見ろ。肌が、肌の色が変わった!」
 皆互いの姿を見、驚き、あっけに取られて立ちつくした。
 人々は変わっていた。
 銀紋族の褐色の肌は、闇の人々のように白い肌となっていた。人によって白さに差はあったものの、すべての者がその変化に息を飲んだ。
 闇紋族の人々もまた、己の変わりように目を見はった。漆黒の髪が、優しい色になっていた。大地の色、太陽の色、それに亜麻色とさまざまに、皆が闇の色から解放されていた。
 そして、彼らの中にひときわ美しくはえる、二人の姿があった。
 輝くような金髪と、透きとおるような白い肌に包まれた、メイアとゼルファ。まるで兄弟のようによく似ている。
 古の世に最初に生まれた双子のごとく、同じ肌、同じ髪の色に包まれた二人の王。だが彼らの額からは、それを証とする紋はすっかり消えてなくなっていた。
 二人は唖然として互いの姿を見やった。
「なんという……、夢でも見ているようだ」
 ゼルファは震えながら自分の髪を手に取って見つめた。目に暖かなまぶしい輝き。そして恐る恐る額に手をあててみる。彼はいまだ信じられないように呆然とつぶやいた。
「消えたのか? この私からも……。あの紋が、忌まわしい闇の呪いが……」
 それに答えるかのようにユウラファーンが言った。
「それがおまえの本来の姿。これこそが人々の真の姿なのだ」
彼は居並ぶ者達にむけて静かに語った。
「封印はとかれた。おまえたちはあるべき姿をとりもどした。しかし、決して誤ってはいけない。憎しみも愛も、その姿にあるのではない。見目はうわべだけのもの。髪も、肌の色も、そんなものはどうでもよいのだ。私はいま、すべての者を最初に戻した。おまえ達はもう一度初めから進むがよい。私が愚かにも奪ってしまったものを持ちて、いまこの時から始めるのだ。人としての、この世の歴史を」
清廉な思いが人々の心に浸透した。彼は神の声で語った。その果てなき愛の心を。
「子供達よ。忘れることなかれ。封印はいつの時も心の奥にある。それを閉じるのも、解き放つのも、おまえ達の心ひとつにかかっているのだ。慈悲といたわりを忘れるな。いつの時も優しくあれ。そして自分達の手で、世の正しき道がどこにあるのかをつかむがいい。いま新たな世が始まるのだ!」
 黙って聞きいっていた人々の間から、少しづつ声があがり始めた。
「……せ、聖霊王、万歳」
「万歳、……聖霊王、万歳」
「ーー万歳!」
 いつしかそれは大きなひとつの叫びとなり、広場をあまねく満たした。
「聖霊王! 万歳!」
「万歳! 万歳!」
 人々は心からその名を熱唱した。
 いま、この世に、偉大なる伝説の王が蘇った。もう未来に不安はない。世界は統合された。闇と光はひとつになったのだ。彼のもとに。
 シンオウが恭しく進みで、膝をおってその前にかしづいた。
「ユウラファーン様、いえーー聖霊王。御身の復活、心より祝福いたします」
 だがユウラファーンは無言だった。光の柱は消え、体から発する光もすっかり弱まっていたので、彼の姿は再び目にすることができた。だがその姿はひどく影が薄く、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。
「聖霊王様、この世界の命あるものはすべてあなたのしもべです。どうぞ古の世のごとく、広く正しくお治めください」
シンオウは神妙に頭を下げた。しかしユウラファーンはかすかに首を振り、悲しげに目を細めてつぶやいた。
「それは……できぬ」
 シンオウは眉をひそめ、問い返した。
「なぜでございます? この世はすべて聖霊王のもの。あなたさまが復活した今、あなた以外に王となるものはおりません」
 人々の間から口ぐちに、そうだ、そうだといったつぶやきが漏れた。だがユウラファーンは静かに目を閉じ、穏やかに否定した。
「違う。違うのだ、シンオウ。もうこの世は私のものではない。私はもう、この世にはいられない」
「兄上様……」
 メイアが不安そうにささやいた。彼は少女を一瞥し、そしてぐるりと辺りを見まわして、遠い視線を投げかけた。すでにまわりは闇に包まれ、すっかり夜のとばりが降りていた。ユウラファーンの放つ光と、かがり火のあかりだけがその場を照らしていた。
 不思議な静寂があった。
「見よ、シンオウ、メイア、そして子供達。おまえたちにもわかるであろう、この変化が」
 彼はひどく生気のない声で語った。
「もうこの世に精霊はいない。すべての精霊は私に吸収され、その魂は力となって使いつくされた。この世にはおまえたち人間だけ。私が、聖霊王が、存在する必要も隙間もない。ここは人の住む場所。人間の……世界」
 彼の体がいっそう透きとおって揺らめいた。神聖な輝きではあったが、威力は失せつつあるのがはっきりと見てとれた。
 彼は亡霊のようにぼんやりと空中に漂ったまま、寂しげな眼差しをむけた。
「言ったであろう。道はおまえたちの手でつかめと。私にできるのはここまでなのだ。ーー私は消える、この世界から。二度と復活はしない。干渉しない。二度と……戻らない。おまえたちの前へ……」
「聖霊王ーー兄上様。そう呼ぶことを許して。お願い、行かないで」
 メイアはおいすがるように手をさしのべ、ユウラファーンをひきとめた。しかしそれがどんなに無駄な願いであるのかも心のどこかで確信していた。
 ユウラファーンは穏やかに首を振った。メイアは泣きながら尋ねた。
「どこへ、どこへ行かれるのです? あなたは」
「ーー遠く。違う次元、違う空間、違う時間へ。誰もなにも存在しない、無の世界へ」
「独りで?」
「独りでーー」
「どうしても?」
 彼は無言のままうなづいた。その姿はすぐ側にありながら遥か彼方にいるような、寂しい錯覚を感じさせた。彼はもう異質なもの。人間ではないのだ。誰とも溶けあうことはできないのだ。
 その時、かたわらで悲壮な叫びがあがった。
「違う! 独りではない!」
 ユウラファーンはゆっくりとその声のもとへと顔をむけた。悲壮な面もちをしたゼルファが食いいるように彼を見つめていた。
「独りでなど行かせたりはしない。私も一緒に行く! 連れていってくれ、ユウラファーン!」
 ゼルファは唇を震わせて叫んだ。瞳が濡れて潤んでいた。
 ユウラファーンはすべるように空中を進むと、ゼルファの前へと移動した。高見から静かに降下し、再び地上すれすれの所でとどまる。
 彼は初めてその顔に人間らしい笑みを浮かべ、優しい眼差しでゼルファを見つめた。それはせつないほどに悲しく、美しい笑顔であった。
 彼はゆっくりと首を振った。
「だめだ。それは不可能だ」
「なぜ!」
「ーー君には……できない。君はすでに、力のないひとりの人間にすぎないから。それに……もう俺は、君に指一本触れることすらかなわない。今の俺はすべての魂を吸いつくてしまう。だから俺と接触した瞬間に、君の魂は俺に吸収されてしまうだろう。だから、別れの抱擁すら……無理なんだ。つれてはいけない」
「では行くな。私の側にいろ。いるだけでいいんだ。頼む……」
 ユウラファーンの顔が悲しみに曇った。悲哀に満ちた瞳を震わせ苦しそうにささやいた。
「ゼルファ、許してくれ。限界なんだ。この肉体が。人の体にとどまるのは、もうとても……辛いんだ」
「ユウラファーン」
「……行かなくては」
「私を置いてゆく気か!」
 ゼルファは叫びながら無我夢中で走り寄った。
「寄るな!」
ユウラファーンが絶叫した。その途端ゼルファの足もとに強い雷光が落ち、彼の行く手を阻んだ。ゼルファは激しい衝撃に足を取られ、その場に転倒した。
 皆がはっと息を飲んだ。衆人の環視の中、誇り高き王は地に転がって、土にまみれた。しかしゼルファはそんな自分の醜態など眼中になく、体を起こすと、膝をついたままユウラファーンを見あげた。透きとおった滴が頬を伝い落ちた。
「おまえは……二度も私を捨てるのか? ユウラファーン。おまえは私を運命の双子だと、決して離さぬと誓った。なのに……もう一度裏切るのか? また私を捨ててゆくのか? そんなことは許さぬぞ。絶対に。……私はもういやだ。独りは……いや。耐えられない」
 清らかな透明のしたたりがあとからあとからこぼれ落ちた。細い声が震え、かすれた。
「……この世のどこかに、生きておまえがいるのだと、それだけが唯一の生きるかてであった。なのにそれすらも失って、どうやって生きろというのだ。置いていかないでくれ。独りにするな。頼む、私も共に……」
 ゼルファは顔をおおって咽び泣いた。
その悲しみのさまは深く人々の胸をうった。いつの時も冷やかでとり乱すことのなかった闇王ゼルファ。その彼が見せる涙は、彼の悲しみの深さを語っていた。冷酷な王が人知れず堪え忍んできた孤独な日々の苦しみを伝えていた。
 メイアもシンオウも声もなく見守った。
 ユウラファーンの影がゆらりと揺らめいた。もう向こう側が透けて見えるほどに人の姿を失いながらも、放つ輝きがほんの少しだけ増したように思われた。
 彼はその身に残された片方の瞳をゼルファにむけ、厳しくかつ優しい視線で彼を見つめた。長い間無言のまま凝視する。やがてゆっくりと口を開いた。
「ーー生きてゆけぬのか?」
 ゼルファは顔をあげ、きっぱりと言った。
「生きてゆけない」
 熱い視線がふたりの間に交わされた。ユウラファーンは再びたずねた。
「生きることより死を選ぶか? 我にその魂を捧げるか?」
 ゼルファは瞳をきらめかせて答えた。
「答えるまでもない。おまえにこの命与えるのならば本懐」
「我と同化するか? 真に運命をわかちあうか?」
「それこそが至上の幸福! たったひとつの願い!」
ユウラファーンが叫んだ。
「ならば、こい! 俺の双子よ! 俺のーーゼルファ!」
「ユウラファーン!」


 人々はそれっきり、聖霊王の姿も、闇王ゼルファの姿も、二度と見ることはなかった。
 彼らのいた場所にはなんの痕跡も残ってはいなかった。足跡も、なにも、気配すらもなかった。
 世界はなにも起こらなかったかのように平穏な空気に包まれ、ただ静かに夜風が吹いているだけであった。冬の季節の少し冷たい風が、やわらかに頬を撫でていった。
 皆、声もなく立ちつくしていた。
 メイアはシンオウの逞しい腕にすがりついたまま、その胸の中で震えていた。が、やがてそっとその従者に呟いた。
「私……見たわ、シンオウ」
「メイア様」
「いいえ、見えたように思えただけかもしれない。けど……、彼が、ゼルファが、兄上様としっかりといだきあうのを、兄上様がその腕で彼を力強く抱きとめるのを、消えてゆく光の中ではっきりと見たのよ。ふたりの幸せそうな、喜びの笑顔を」
 シンオウもまた、それを聞きながら深くうなづいた。
「私も、見たように思います。ユウラファーン様も、あのゼルファも、なんとうれしそうに微笑んでいたことか。やっと彼らは運命に定められし双子として、二度と離れない者達になったのですね。やっとひとつに……なれたのだ」
「ひとつ……。そうね、もうなににも邪魔されることはないのだわ。永遠に」
 メイアとシンオウは堅く手を握りあいながら、ふたりが消えていったその空間をじっと長い間見つめていた。
 やがてシンオウが誰に語るともなく、独り言のようにそっとつぶやいた。
「私は忘れない。決して。彼らの存在、彼らの姿を。彼らが残していった大いなる財産を。絶対に、忘れはしない……」  


  終章


 やがてーー長い時がすぎた。
 世界は聖霊王が語ったとおり、人間達だけのものとなっていた。
 花々の上に群れ飛んでいた妖精も、神秘の森に住むジンも魔物も、空中に人知れず漂う精霊すらも、すべての人間以外の魂はどこかに消え失せ、世界のどこにも存在してはいなかった。
 深い谷間に暮らすガルブの姿はとうになかった。
 人々は自分達がこの世の孤独な存在となったことを知ったのであった。
 それはとても悲しい出来事ではあったが、しかし、いかにしたところでもうどうにも取り戻すすべもなく、しばらくの悲しみの後、いつしか彼らは忘れていった。
 精霊の存在を。不思議の時代を。
 闇王の手によって統一されたふたつの国は、聖霊王によって解放された封印により、ひとつの国となって新たによみがえった。
 だがふたつの種族の長きにわたる確執はそうたやすくとけることはなく、しばらくの間は、世は内乱や謀反が相次いで、戦いが世界から絶えることはなかった。多くの血が流れ、また多くの命は消えていった。
 それでも人々はたくされた思いをずっと胸にいだき続けていた。希望を失うことなく、未来を夢みて、辛抱強く力強く生き続けた。
 そうして風のように日々はすぎ、何十年の時の後ーー。
 最後の戦いの末、やっと世はひとつに治まり、世界は真に新しい時代を迎えることになる。平和で、愛に満ちた、幸福の国。人間の国を。
 第一代国王シンオウ、歳六十。そしてその妻メイア四十五歳の年であった。

 そしてーー
 また時はすぎ、やがて人々の記憶からすべてが失われ、伝説はその意味を失い、人々の間に新たなる憎しみと戦いの日々が生まれる。
 しかし、それまでの数百年の間、世界はひとつとなり、幾万、幾億の幸福が世を満たすこととなる。
 これは古の伝説である。

<終>

 

 

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