ーーーー封印された宝玉はこれを語る。
『時は、光の国第二十七代国王ランスロウ王の時代における世である。
ランスロウには、ひとりの娘とひとりの息子があった。娘の名はルフレイア、息子の名はキィリンクといった。
王の家族は皆心優しく、深く互いを慈しみ、いとしんでいた。幸福の一家であった。
ある時、王女ルフレイアは闇紋の手に落ち、遥か地の底ダークネシィアに連れ去られ、気高き血の人質となった。
ルフレイアはその地において、ひとりの男と出会った。
黒い髪、黒い瞳、透けるような白き肌に闇色の紋を持つ、美しき若き王子クトルリン。ただひとりの闇の紋の世継ぎであった。
王子は、その黒き瞳がルフレイアと出会いし瞬間、血が熱くたぎるのを知った。そして王女の身を引き寄せ、一夜の契りを結んだ。
その契りは実を結び、王女の体にひとつの魂が宿った。光と闇の血を持つ魂であった。
ルフレイアは母となるわが身、その新たな魂を案じ、秘かに闇の国の者の手を借りて、遠き光の国へと帰還した。
戻りし時には父王ランスロウ既に亡く、かわって弟キィリンクの治める世となりていた。
さて、十月の後、ルフレイアはひとりの御子を出産した。
御子は、母のかんばせに瓜二つの、美しい男児であった。
だがその髪は黒く、瞳も黒く、そして透けるような白き肌を持ち、その額には闇色の紋が刻まれていた。闇の姿をした子供であった。
二年の間、ルフレイアと闇の姿の子は人知れず暮らした。闇の御子はゼルファと名づけられ、母の愛だけをその身に受けて育った。
聡明なる御子であった。
しかし光王キィリンクに第一王子ユウラファーンが誕生したとき、御子の運命は変転した。
光王とその家臣らは、遥か行く末において、闇の紋を持つ子供がユウラファーンの光の王座を脅かすやもしれぬ未来を懸念した。御子の身の半分は闇の血だったが、残りの半分には紛れもなく光の血が流れていたために。
そして長き話合いの末、光王らは御子を葬りさることを決意した。
御子の母ルフレイアは、涙流して子の助命を嘆願した。しかしその願いは聞きとどけられず、母ルフレイアの目の前で、光王キィリンクの持つ剣が、御子の体に振りおろされた。
だが、剣が葬ったものは御子の魂ではなかった。
ルフレイアはその身をもって子を守り、銀の刃に倒れた。そして死の縁にありて、なお御子の命の救われることを王に願い請い、自らの血の海でその命を閉じた。
悲壮なる最期であった。
キィリンク王は、最愛なる姉のその有様の前に、御子の命取るにしのびず、御子を秘かに連れだして、ある洞窟に封じた。
そして姉ルフレイアの命をもって、光王の力をして、御子の出生とそれに関わる事実を封印した。
かくして真実は封じられた。
ふたつの血を持つ御子の出生の真実は永遠に世界から失われ、未来永劫宝玉の内に隠され、眠り続けるのである』
ーーーーこれは、封印された宝玉が内包する、第五の、真実の伝説である。
王は一心に息子の姿を見つめていた。
血の気のない顔をして目の前の寝床に横たわるユウラファーン。肖像の間に倒れていた彼を見つけてから、既に三日がすぎている。その間少年はぴくりともせず、死んだように眠り続けていた。
彼の両手はひどい火傷を負ってはいたが、なんとか切断は免れた。痕は残るかもしれないが、それは仕方がないだろう。女ではないのだから、ことさら見目にきづかう心配もない。ともかく元のように動かせることは不幸中の幸いであった。
王にとって一番気がかりなのは彼の心だった。
封印の宝玉の持つエネルギーはすさまじい。何の力もない人間がただ触れただけならば、火傷を負うことはあっても心まで侵されることはないだろう。
しかし、なまじ半端な能力を秘めた者が宝玉の内を覗こうなどと考えて触れたならば、宝玉は必ずや激しく進入者を拒むに違いない。
ユウラファーンはその心に、拒絶の攻撃を受けたのであろうか?
王の頭の中には、不安や疑問の念が渦巻き入り乱れていた。
いったいユウラファーンはなぜあんな馬鹿な真似をしたのだろう。なにを急に思いついて封印の宝玉に触れようなどと考えたのか。いや、それ以前に、どうしてその在処を知ることができたのか。
(封印の禁を犯すことが国にどんな意味を持っているのか、ユウラファーンだってよく知っていたはず。なのに何故……。いや、そんなことはどうでもよいのだ。もし、もしユウラファーンの精神が破壊されていたりでもしたら……。たったひとりの大事な息子、大切な世継ぎなのに……)
キィリンクは祈るような気持ちで、ずっと側につき添っていた。
その時、ユウラファーンの唇が微かにうごめき、閉じた瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。王は身を乗りだして叫んだ。
「ユウラファーン! しっかりしろ、ユウラファーン!」
その声に答えるかのように体が震え、やがてゆっくりと彼は目を開いた。
「ユウラファーン、気がついたか。私がわかるか?」
「……父上?」
「わかるのか? わかるのだな? ……よかった! ああ、守護の神よ。感謝します。……よかった」
王は深い息をついた。ずっと張りつめていた緊張がやっと解ける。少年はぼんやりとした瞳をむけ、力なく尋ねた。
「ここは……どこ?」
「おまえの部屋だ。どこか苦しいところはないかね?」
「……手が」
「ああ、火傷をしたのだ。……馬鹿なことを。もう少しで両の手をなくすところだったのだぞ。それだけの怪我ですんだのは奇跡だ。いったい何故あんなことをしたのだ? どうして封印の宝玉に触れようなどと考えたのだ、おまえは」
「偶然……見つけて、なにか……と思……」
「つい触ったというのか? 馬鹿をいえ! 偶然で見つけられるような場所ではないぞ、あそこは」
「偶……然、……見つけた」
話すのも億劫そうにユウラファーンは荒く息を吐いた。体力がすっかり落ちているのだろう。王は思わず荒げた声を静め、もう一度穏やかにたずねた。
「それで、あれに触れてどうだった? なにか伝わってきたのか?」
「なにも。すぐに……気絶……」
「本当か? 本当に何も知らないのだな。で、おまえはどの宝玉に触れたのだ?」
「覚えてな……。父上、もう……勘弁してくださ……。僕は……」
ユウラファーンは辛そうに目を閉じた。
そんな息子の憔悴しきった顔を見て、キィリンクはそれ以上の質問をあきらめた。彼の言葉はいまひとつ真実味に欠けるが、とりあえずは回復の方が先だ。無理をさせる時ではないのだ。
王は静かに立ちあがると、優しくユウラファーンの頬に手をあて微笑んだ。
「ゆっくりおやすみ。そして早く良くなっておくれ。メイアも心配している。明日には会わせてやれるだろう。……おまえが無事でよかった、ユウラファーン。愛しているよ」
そっと額に接吻すると、そのまま部屋を出ていった。
残されたユウラファーンはしばらく眠ったように身動きひとつしなかった。が、やがて目をあけると、幾重にも巻かれた包帯だらけの自分の手を持ちあげて、じっと見つめた。
大きな灰色の瞳から、透きとおった滴がつうっとこぼれ落ちた。後から後から、絶え間なく流れ落ち、頬をつたい、金の髪を濡らした。少年は唇を噛みしめ、押し殺した声でしゃくりあげるように泣いた。
いつまでも、いつまでも、疲れきった体が安らぎを求めて眠りにつくまで、彼はひとり泣き続けた。
切なさに耐えきれなくて……。
* *
「ユウラファーン!」
ゼルファは、久々に訪れた愛する友人を、溢れるような笑顔を見せて迎えいれた。滅多に出迎えなどすることのない彼だったが、真っ先に走り寄ってきては腕に身をからませた。
「十日以上もこないので、なにかあったのかと心配していたのだぞ。……どうしたんだ、その手?」
「なんでもないよ。ちょっとした火傷だ」
「火傷? どれ、見せてみろ」
「つぅっ!」
何気なく触れられ、そのあまりの痛みに、ユウラファーンは思わず悲鳴をあげ手を引いた。ゼルファは驚いて顔色を変えた。
「見せろ。……なんだ、これは? ひどい火傷じゃないか。それに体が熱い。熱があるぞ。なにがあったんだ、いったい?」
ユウラファーンは無言で彼の手をふりはらうと、奥の間に行き、疲れはてたように椅子に座りこんだ。
ゼルファは、いつもの元気あふれる彼の姿とあまりに違うその様に、なんといって話しかけてよいのか戸惑った。椅子の足元にひざまづくと、下からそっとのぞきこんで話しかける。
「大丈夫か? なにか飲むか?」
ユウラファーンは一言の返事もせず、押し黙ったままじっとゼルファを見つめていた。
ゼルファは困惑した。悲しい色の瞳だ。あの呆れるほどに陽気なユウラファーンの目ではない。いったいどんなつらい出来事が彼にあったというのだろうか。
「笑ってはくれぬのか、ユウラファーン。私はおまえの笑顔が一番好きなんだ」
「……ゼルファ」
「なんだ?」
ふいに彼は身を踊らせてゼルファの首に抱きついた。手の傷にもかまわず力をこめて抱きしめ、耳もとで消えいりそうな声でささやいた。
「……帰りたいか?」
一瞬その言葉の意味が理解できず、ゼルファは聞き返した。
「え?」
「君は帰りたいのか、闇の国へ。どうしても帰りたいのなら……、僕がいますぐ帰してやる。ーー来い」
ユウラファーンは突然立ちあがると、ゼルファの腕をひっぱって歩きだした。ゼルファはひどく面食い当惑した。
「急になにを言いだすんだ、ユウラファーン。だいたい帰るもなにも、結界があってここを出られないであろうが」
「結界? そんなもの、僕がこの命の全ての力を使ってでも消してみせる。君が通り抜けられるくらいの時間はどうにかする」
「そんなことをしたらおまえが死ぬぞ。なにを馬鹿なことを言ってるんだ」
「死んだっていい。僕はもう充分生きた」
「ユウラファーン!」
「君に罪はないんだ!」
ユウラファーンはふりむくなり絶叫した。
「君にはなんの罪もない! それなのに!……何故、何故十七年間も……。あんまりだ。なにもかも間違ってる」
「ユウラファーン、まさか、おまえ……」
少年の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ユウラファーンはゼルファの腕を離すと、包帯に包まれた手で顔をおおい、声をつまらせながら言った。
「僕はなにも知らずに、ずっと幸せに暮らしてきたんだ。君がここでひとり苦しんでいる時間を、すべての人々、すべての光に愛されて生きてきた。ずっと、ずっと……。どうして? それはみんな君のものであったはずなのに……。君の肌が黒く、君の髪が金色で、額の紋が銀に輝いてさえいたならば、そうであれば許されていたというのか? たったそれだけのことで、それだけのことで……。君がその姿を選んで生まれてきたわけではない。君にはひとかけらの罪もないのに。……ひどい」
ユウラファーンはゼルファの両肩をつかむと、涙に濡れた顔をむけて訴えた。
「僕は、どうやって君に償えばいい? 父が、この国が、君に犯した仕打ちを、どうすれば償えるんだ? 教えてくれ……、ゼルファ」
ゼルファは絶句した。返す言葉が見つからなかった。彼はとうとう知ってしまったのだ。隠された出生を、すべての事実を、この優しい少年は、なにもかも。
「君がもし、もうひとつの君の故郷に帰ることを望むのなら、僕が……かなえてあげるよ。君にはここを出る権利がある。罪を犯しているのは父のほうだ。だから……ゼルファ、僕は、なんでもする。だから、許してやってくれ。僕の……父を」
そう言い終えた途端、ユウラファーンはゼルファの胸の中にくずおれた。回復していない体に無理をしてやってきたのだろう。力尽きたように身を預けた。
ゼルファは慌ててぐったりとしたその体を抱きかかえると、必死の思いで寝床に運んだ。華奢な彼にとって決して楽な作業ではなかったが。
床に横たえるとすぐにユウラファーンは寝入ってしまった。ここまで来るのは余程苦行であったらしい。ゼルファは眠っているユウラファーンの傍らに腰掛けると、彼の寝顔を見ながら深いため息をついた。
心境は複雑だった。彼に自分の出生を知られたことは、はたしてよかったのか、それとも悪かったのか。
ありあまる愛情の中で純粋に育てられたユウラファーンにとって、それは大きな衝撃であったに違いない。誰からも望まれず、全ての幸福に見放されて生きてきた子供の存在は、信じられぬものであったろう。ましてやそれが自分と同じ血を継ぐものであったならばなおのことに。
敬愛する父の許しがたい行動は、それだけで彼をうちのめすに充分だったはずである。父親と友の狭間に立って、どんなに辛く苦しい思いをしたことだろうか。
(それでもな、ユウラファーン。おまえにはどうしたって理解することはできぬだろう。私の憎しみがどれだけ深いものであるか。私の中に流れる闇の血が、どんなに黒く汚いものであるのかを。私はおまえとは違う。光の結晶のようなおまえとは違うのだ。私にはたやすく人を許す優しさはない。私の優しさはおまえの為だけのもの。他の誰にもむけようとは思わない。たとえそれがおまえの頼みであろうとも、私はキィリンクを許せない。決して。決して……)
その時、ユウラファーンがうっすらと目をあけた。弱々しく手を差しだす。ゼルファはそっとそれを掴み、自分の両手で包みこんだ。
「もう起きたのか? もっと眠らなければだめだ。体力がつかないぞ」
「僕は……、ゼルファ」
「しゃべるんじゃない。疲れるぞ」
「僕は君に、知らせたくて。僕達は……、やっぱり双子だ。運命に導かれた兄弟なんだ。それは……間違いじゃなかった」
「ユウラファーン……。おまえ、わざわざそれを私に言うために……」
「だから……一緒にいられるよ、ゼルファ。ずっとね」
ユウラファーンはかすかに微笑んだ。ゼルファもつられて笑みを浮かべた。
「運命の双子、か。だけどおまえ、私がダークネシィアに帰ると言ったら、どうするつもりなんだ? 一緒についてくるか?すべてを捨てて」
「それは、できない。でも……運命が僕らをつないでる。離れることはない。きっとうまくゆく」
「は、相変わらずの楽天家だ。恐れいるな。ーーだが、私もそれを信じられれば、そう信じて生きられればどんなに救われるか」
「信じればいい。君にも、月と星の守護がある」
ユウラファーンはじっとゼルファを見つめながら言った。その眼差しには限りない優しさが秘められており、ゼルファの心に染み渡った。
「私の守護神はおまえだよ、ユウラファーン。それ以外にはない。でも……そう、信じてみようか、その運命。私達は双子。生涯をともに生き、互いの運命を分かちあう。そうだったな」
「ああ、そうだ。決して離れない。ーーゼルファ、一時間したら起こしてくれ。僕は……寝る」
ゼルファはユウラファーンの手をそっと夜具の中にしまい、冷たい洞窟の気温から守るように、羽織っていたローブを脱いで上にかけた。瞳を閉ざしたユウラファーンの唇から、すぐに安らかな寝息が聞こえてきた。
寝床の側に椅子を引き寄せ、ゼルファはずっとその寝顔をみいっていた。
* *
いつのまにか日差しは強まり、王宮に吹きこむ風も熱いものに変わっていた。
夏真っ盛りのシャインフルーは、春にも増して咲き狂う花々と、その甘い蜜を目当てに集まってくる虫や精霊達に溢れ、一年中で一番にぎやかな季節を迎えていた。
キィリンクは執務室の窓から、前庭で武術の稽古に励むユウラファーンの姿を眺めていた。
遠目にみる息子の動きは以前にもまして機敏で正確だ。くわえて、ここにまで伝わってきそうな張りつめた緊張感がある。王の肩ごしからのぞきこんだアプロスが感心したようにつぶやいた。
「ほう、王子はすっかり良くなられましたな。あの時はまったくどうなることかと思いましたが、事なく済んでよかった。それどころか、あの事件以来めっきり大人っぽくなられたようだ。以前は随所に子供子供したところが残っておられましたのに、いまではもう一人前。私ですら前に立つと迫力に圧倒される時がございますよ」
「ああ。私にも時折、これがあのユウラファーンかと思うような厳しい表情を見せることがある。子供というものはあっという間に変わってゆくものだな」
「うれしいような、寂しいような、といったところですかね。ははは」
王は窓から離れ、執務台に戻った。しばらくの間なにかを考えこむように押し黙っていたが、やがて低い声でつぶやく。
「あれは……封印の内容を知ってしまったのではないかね」
アプロスは目を丸くして反論した。
「なにをおっしゃられる! 不可能なことです。たとえ光の王子といえども、聖なる石なくしてあれを吸収できるはずはございません。あの程度の怪我ですんだのも、まさに奇跡というものなのですぞ」
「わかっているさ。だがあの子のあまりの変わりようが、私には不思議なのだ。最近のユウラファーンは無理をして明るく振舞っているような所がある。メイアといる時にすら遠い目をしている。私にはあれがなにを考えているのかわからぬのだ」
「ユウラファーン様だっていつまでも子供ではございませんよ。それだけ成長なされたということ。ご心配は無用なものと思いますがね、私には」
「ならば良いのだが……」
その時、突然外から激しく泣き叫ぶメイアの声が聞こえてきた。何事かとふたり窓から身を乗りだすと、庭の芝の上に肩から血を流して座りこむシンオウと、それを心配そうにうかがうユウラファーンの姿が見えた。メイアが乳母にすがって泣きじゃくっていた。
キィリンクとアプロスはあわてて外に駆けだした。その場に着いた時には、すでにシンオウは立ちあがって、傷を押さえつつも大事ない様子を示していた。
「どうしたんだ。なにがあった?」
王がたずねると、シンオウは奇妙な顔つきで曖昧に返答した。
「はあ、その……」
ちらりと横目でユウラファーンを見る。まるで彼の機嫌を伺うかのようである。そんなシンオウにかわって、ユウラファーンが冷やかに返答した。
「ちょっとやりすぎました。僕の不注意です。たいしたことはありません。そうだろう、シンオウ?」
「あ、はい。……ただのかすり傷です」
シンオウは力なく相づちをうった。それっきり二人は押し黙ったまま、なにも言い訳をしようとはしなかった。
キィリンクはユウラファーンの冷たい口調に、えも言われぬ不安を感じた。たとえ事故とはいえ、かりにも自分が怪我を負わせた者に対して、こんな物言いをする子ではなかった。もっと優しさにあふれていたはずだ。
それに、あのメイアのおびえかたは尋常ではない。流れる血に驚いただけとはとても思えない。
ユウラファーンはそんな父親の疑惑を感じとったかのように、努めて優しげな声でメイアに呼びかけた。
「泣かなくていいよ。おいで、メイア」
だがメイアは恐れおののいて父のもとに逃げより、腰にすがりついて激しく震えた。王はメイアを抱きあげると、厳しくユウラファーンをにらみつけた。
「部屋に戻れ。謹慎しろ。外出はゆるさん」
「はい、父上」
ユウラファーンは従順に頭を下げ、宮内に戻っていった。王はその後ろ姿を見守りながら、彼がいなくなったのを待ちかねて、シンオウに問いただした。
「シンオウ、なにがあったか話してみろ」
だが彼はうつむいて口ごもった。
「いえ……、ただの事故です。私がよけそこねたのです」
「王の私に隠しだてするのか?」
「本当に……それだけなのです、王様」
キィリンクは射るような眼差しを向けたがそれ以上の追求はしなかった。彼は口止めされている、そう直感した。
「もう良い。行って手当をしろ」
シンオウはひざまづいて一礼すると足早に立ち去った。王はメイアを抱いたまま娘の部屋へと向かった。メイアはきつくしがみついたまま離れようとはしない。自分の部屋に戻り、父に促されてやっとその小さな手をほどいた。
王は娘を寝床に横たえると、やわらかな髪を愛撫しながら優しくたずねかけた。
「さあ、メイア、私に話してごらん。なにがあったんだね?」
メイアは一瞬おびえた瞳を見せたが、父の手にすがり、ぽつりぽつりと話しだした。
「兄上様とシンオウが剣のお稽古をしていらして、私は側で見ていたの。兄上様はとても強くて、でもシンオウも強いのよ。二人とも同じくらいだったわ。ーーとても長い間続いて、そうしたら、兄上様が絡んだ芝草に足を取られてよろめいたの。それでシンオウが……。ああ、恐いわ! あんな恐ろしい兄上様は初めてよ! 兄上様の目が変なふうに光って、それで光が、光がシンオウを……!」
「光? どこから?」
「……わからないわ。ううん、兄上様の体からよ。兄上様のまわりがすごく光って……。恐い!」
メイアは再び王の胸にしがみついた。
「大丈夫だ。もうなにも恐くはないよ。泣くんじゃない、メイア」
王はおびえて泣き続ける娘を抱きしめながら、愕然として宙を見つめた。
(光か……)
王の頭の中に、有り得ぬべき疑惑が生まれていた。
手当をすませ、兵士達の控えの間に休んでいたシンオウの前に、王が威厳にあふれた姿を現し、彼はあわてて立ちあがった。
「キィリンク王! このような場所へ。お呼びくだされば私が参りましたものを」
「良い、座れ。無理をするな」
王に促され、シンオウは戸惑いつつも再び腰をおろした。キイリンクはその前に膝がつきそうなほど椅子を寄せて座ると、声を押し殺して尋ねた。
「シンオウ。ユウラファーンは……闇の力を使ったのだな」
シンオウは驚き、秘めごとを暴かれたかのように堅く表情をこわばらせた。
「隠さずともよい。メイアの話で大方の察しはついておるのだ。その時の状況をくわしく教えて欲しい」
シンオウはしばしの間無言で王を見返していたが、やがてゆっくりとした口調で語りだした。
「……確かに、尋常なものではございませんでした。只、あれを闇の力といえるのかどうか……」
「どういう意味だ?」
シンオウはふっと一度息をつくと、ささやくように話した。 「あの時、バランスを失って芝の上に転んだユウラファーン様にむかって、私は絶好のチャンスとばかりに上段から切りつけたのです。すると突然あのかたのまわりに無数の精霊が集まって、それが一瞬後に私めがけて襲ってきました。あれは闇紋の騎士が時折見せる技です。それに間違いはない。ーーですが、闇の者が使う精霊は邪気に満ちた悪霊ですが、ユウラファーン様の体から放たれたのは、決して邪悪なものではなかった。あれは光の精霊です。闇の力ではない……。なんにせよ凄い威力で、ユウラファーン様が制してくださらなければ、今ごろ私は棺桶の中でしたね」
「ユウラファーンが、止めたのか? ……それを?」
「はい。私に飛びかかる間際にひとこと、よせ、と叫ばれて」
王は苦悶の表情を浮かべてうつむいた。シンオウの最後のひとことは、わずかな希望すらをも奪い去るものであった。
つまりユウラファーンはあきらかに精霊を支配し、操ったのだ。その力は偶然の産物ではないということの証しである。
王はおもむろに立ちあがると、シンオウを見おろして言った。
「シンオウ、このことは他言無用。よいな」
彼は神妙にうなづいた。もちろん命じられなくとも誰にも語るつもりはなかった。それが大事な剣の生徒、愛する若き王子の未来に関わる重大ななにかであるのを、彼は敏感に感じとっていたのである。
王は深刻な表情を浮かべながら、シンオウを残して立ち去った。
一方、ユウラファーンは自室に閉じこもって、深い後悔の念にさいなまれていた。
あの時、たかが剣術の稽古にあれほど真剣にさえならなければ。ゼルファを救おうと秘かに独り鍛錬していた闇の力が、思わぬ所で裏目に出た形になってしまった。
だが決して意識して使ったわけではなかったのだ。彼自身ですら、あれだけの力の技に驚いたほどなのである。己の意志というより、回りにいた精霊達が勝手に彼を守ろうとしたかのようであった。
だがどちらにせよ、大変な失敗だった。多分、感のいい父王はすべてを悟るに違いない。そして火のように怒るであろう。それはいつかは避けられぬ事態であったとしても、このような形で事が進むのは、決して望んだ状況ではなかった。彼は慎重であろうと心に決めたばかりだったのだ。
呪われた宿命を背負ったゼルファを救うのは、たやすいことではない。たとえ王子という立場をもってしても、勝手に彼を逃がすことは大罪であろう。真実を知ってしまったからこそ、その重さはわかりすぎるほどよくわかっていた。
だが、それでもやらなければならないのだ。父の愚行のつぐないとして。そして、愛する運命の双子のために。
ユウラファーンはかたく唇を噛みしめた。
(せめて、あの光の結界を消せるだけの力が使えるようになっていたら……、なにがあっても彼を解き放してやれるのに)
その時、背後で荒々しい音とともに扉が開いた。ふりむくとそこには険しい表情を浮かべたキィリンクが立っていた。
ユウラファーンはゆっくりと父のほうに向きなおって云った。
「もうそろそろ、いらっしゃる頃だとは思っておりました。どうぞお入りください、父上」
それは静かすぎるほどに落ち着いた口調であった。
キィリンクは勧められるまま部屋にはいると、しっかりと後ろ手で扉を閉めた。そしてたっぷりと数分は無言でユウラファーンを凝視した後、厳しい面もちで口を開いた。
「誰に教わった?」
ユウラファーンは白々しくとぼけて答えた。
「なにをです? 剣をですか、学問ですか?」
「その力だ。シンオウを襲った闇の力……。おまえひとりの仕業ではあるまい。誰に習ったのだ、ユウラファーン」
ユウラファーンはごくりと唾を飲んだ。
父は気づいている。気づいて、そしてその事実を確かめようとしている。どうとぼけてみせようと、ごまかせるものではないだろう。ならば今こそが対決の時だ。弱気は許されない。強い父の威信を打ち破るほどの、より強い意志で立ち向かわねばならないのだ。
ユウラファーンは王の鋭い眼差しにひるむことなく、不敵ににらみ返し、答えた。
「僕にその名を申せとおっしゃるのですか、父上? あなたがとうてい口にだすことのできぬ、その者の名を」
王は思わず一歩後ずさり、よろめいて背後の扉にもたれかかった。すっと顔から表情がひいてゆく。ショックを隠しきれぬ様子で顔を歪め、長い間沈黙していたが、やがて重たげに一言発した。
「……ゼルファか」
王は低くうめいた。またしばらく口をつぐみ、そして上目使いにじっとユウラファーンを見据え、かすれた声で聞いた。
「……いつから、いつから知っていたのだ?」
「最初に会ったのは春です。まだ夜露冷たき春。だが彼の秘密を知ったのは……ご存じの通り、ごく最近のこと」
「おまえは! やはりおまえは、あの時封印の宝玉を吸収していたのか! ……なんてことだ」
ユウラファーンは苦笑し、思いだすのも苦痛であるかのように眉をしかめてつぶやいた。
「ひどい結果でしたがね、あれは。ものすごい抵抗だった。本当に……死ぬかと思った。だが、事実は伝わってきました。なにもかも」
彼は立ちあがると、ゆっくりと窓辺へと向かった。
大きく開け放たれた窓からは、城下町へと続く長い道が見える。道路の両脇に立ち並ぶミュルゼリの木々が、薄紅色の花に埋まっている。その坂の下、森のむこうに、明るい日差しに包まれた町があった。
遠い眼差しでその景色を眺めながら、ユウラファーンは静かに語った。
「僕は、悲しかった。貴方のしたことが許せないと思った。そしてなによりも……、何も知らずにぬくぬくと生きてきた自分が許せなかった。僕が笑って、貴方や母上やメイアと暖を囲んでいた間、ずっと彼は、あの冷たい牢獄で孤独と絶望に震えていたのに。この部屋もこの世界も、皆彼のものであったはずなのに……」
ユウラファーンは言葉をつまらせ、しばし沈黙した。そしてくるりと振り向くと、窓を背にして真っ向からキィリンクと向かい合い、きっぱりと言った。
「父上、今すぐ彼をあの洞窟から出してください。自由の身にしろとまでは申しません。せめて、この王宮に迎えいれ、暖かな部屋を与えてやってください。彼が、この世の暖かさを信ずることができるように。せめてもの償いに……。お願いです。でなければ僕は生涯あなたを許すことができない。あなたを憎みたくはないのです、父上」
キィリンクは一言の言葉もなく立ちつくしていたが、やがて震える声でたずねた。
「おまえは……あれがどういう者であるのか知っておるのか?ユウラファーン」
ユウラファーンは静かに答えた。
「僕が彼を見つけたのは、決して偶然ではありません。守護の啓示が僕を導き、会うべくして出会ったのです。彼は、ゼルファは……僕の双子だ」
キィリンクの唇がぴくりと動めき、歪めた顔にいっそう苦渋の表情が浮かんだ。
「……そうか。そこまでも知っておるのか、おまえは……。当然かもしれぬな。それこそが運命というもの。だからこそ、我々の築いたすべての壁を乗り越え、おまえ達は会ってしまったのだ。なんという結末だ。封印までしたものを……」
キィリンクは額に手をあて、堅く目を閉じた。
遥か遠い、十七年前の悲劇が王の頭の中に蘇る。悩み、苦しみ、引き裂かれそうな思いでつくりあげた結果が、今がらがらと音をたてて崩れてゆく。
王はうつむいたままつぶやいた。 「そうだ。我々がなによりも恐れたのは、その忌まわしき事実だった。たとえ運命とはいえ、光の世継ぎであるおまえが闇の血をひく者と結ばれた関係にあるなど、決して許されぬこと。ましてやゼルファは……。皮肉なものよ。あれはその血ゆえにおまえと離され、そしてまた結びつく。いっそ真に闇の者であったなら、そんな運命などなんの効力もないものを」
王はきっと顔をあげると、訴えるような眼差しを向けた。 「愛しい息子よ、すべてはおまえの為にやったこと。おまえを守り、輝ける光の王とするべく為したことだ。ーーよいか、ユウラファーンよ、よく聞け。確かにおまえ達は運命によって結ばれている。生涯をともに生き、互いの運命を分かちあう。だが考えてもみろ。おまえはこの国の王となるもの。そしてあやつは闇の一族なのだぞ。まるで生きる世界が違うのに、どうしてそんなことが可能だというのだ。絶対に無理だ。共に生きられるわけなどない。離れずにすむなど有り得ない。ーーならばその無理をウネメスはどうする? 答はひとつ。おまえとゼルファのどちらかが片方の運命に巻きこまれる。どちらかが犠牲になるのだ。わかるか? そして、もしそれがおまえのほうであったとしたら……」
キィリンクは言葉をとぎり、祈るような視線で息子を見つめた。
「どうして私があのようなことをしたか、わかるであろう、ユウラファーン? おまえは跡取りなのだ。世継ぎなのだ。おまえを失うわけにはいかぬのだ。頼む、目を覚ましてくれ。そしておまえにまだ王子としての理性が少しでも残っているなら……、忘れてくれ。なにもかも」
父王の必死の嘆願を、ユウラファーンは顔色ひとつ変えずにじっと聞きいっていた。
長い間黙って立ちつくしていたが、やがて天を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「すべては……この僕のため、と」
「そうだ、ユウラファーン。何もかもおまえのために、おまえの幸せ祈ればこその……」
キィリンクはなんとか彼に理解させようと、熱心に説得を試みた。しかしユウラファーンはそんな父の言葉を最後まで聞くことなく、窓辺から離れると、ゆっくりとキィリンクのもとへと歩みよった。
息の触れるほど間近に立って、真正面から王の瞳を凝視し、静かに尋ねた。
「目をつぶれとおっしゃるのか?」
「……そうだ」
「目をつぶり、耳をふさぎ、心を閉ざして、僕を愛し信ずる者を捨てよと申されるのか?」
「そうだ」
「そうして、すべてを隠して王になれと? 真実を封印し、正義をも封印して光の王となれと、貴方はそう僕に言われるのですか、父上」
「そう……だ、ユウラファーン」
ユウラファーンの顔がぐにゃりと歪んだ。それは一瞬泣き出しそうなほどに悲痛に歪み、そしてすぐさま嘲りの笑みへと変わって、彼は高らかに笑い声をあげた。
乾いた声が部屋中に響く。ユウラファーンは冷たい瞳をむけ、唖然としている王に向かって冷酷に言いはなった。
「それは父上、僕に闇の者になれと申されているのだ。ふっ、はっはっは。なんて茶番だ。ーー気づかれぬのか、父上。それはもうすでに僕は闇の血に、貴方の言う、ゼルファの運命に巻き込まれているということに他ならぬではないか。貴方は僕を虚構の王にしようと云うのですか? 光の衣を着た、闇の王になれというのか、キィリンク王よ?」
灰色の瞳が燃えるようにきらめく。 「それとも、貴方自身がすでに見せかけだけの光の王ということか? 血に汚れた手を、偽善で拭ったあの時から。ーーふふふ。は! 結構ですよ、父上。あなたの申されるとおり、僕は光の心を捨てましょう。そうして僕は闇の者となる。さすればいっそう闇の力が増しましょう。そして僕はその力であの結界を破り、ゼルファを逃がすことができるのだ。王になって、聖なる石の力を借りる日を待たなくともよいわけです。は、それは名案です、父上。願ってもない。はっはっは!」
ユウラファーンは呆然と立ち尽くす父の前で、高らかに笑った。
王は絶句した。一言も返す言葉がなかった。
もうなにを言っても無駄なのだ。少年の瞳には狂気の色が浮かんでいる。穏やかで、深い理性をたたえていた彼の眼が、憎悪と嘲笑に支配され、きらめいている。
彼はとりつかれているのだ。あの冷たく美しい闇の者に。忌まわしき邪悪の化身に。つながれた……双子に。
キィリンクは観念した。十七年前に止めたはずの運命が、今確実にまわり始めた。もう二度と止めることはできない。誰にも運命は変えられない。
きしんだ歯車の音が、耳もとで聞こえたような気がした。
* *
王の執務室では、執務台についた王を取り囲んで三人の老臣達が、いまにも拳を机に叩きつけんがばかりの様子で怒りに震えていた。
「王よ、どうか納得できる理由をお聞かせ願いたい。何故あれが生きておるのです? 何故今ごろになってここに現れるのです? いったいなんということなのですか、この事態は!」
臣下達は息まいてたずねた。王は渋い顔をあげ返答した。
「今更その訳を言ったところで、詮無いこと。あれは生きていた、それだけだ。事情により今日から宮廷内で暮らすことになった。極力人目に触れぬようにしたいので、おまえ達もそう心がけて欲しい」
「それでは答になっておりませぬ! 納得できる理由をと申したのですぞ、私は!」
「だから言ったであろう、理由は関係ないと! 王の私がしたことだ。文句があるのか!」
王の常ならざる権柄ずくな態度に、老臣らは一様に言葉を失い、口をつぐんだ。瞳には明らかに不満の色が溢れている。しかしそれ以上言い返すこともせず、皆呆れたような顔をして退出していった。
ただアプロスだけが、さきほどから無言のまま窓辺に立ち、冷たくその有様を見守っていた。王は皮肉な笑いを浮かべ、老兵士に顔を向けた。
「おとなしいな、アプロス。おまえが一番騒ぎたてると思ったのに。それとも呆れかえって物も言えぬか?」
アプロスは大きく息をつくと、冷めた視線を投げかけた。 「今更なにを申せとおっしゃるのです? 私は再三ご忠告致したはず。それを聞かなかったのは貴方です。それに……もう遅い。ユウラファーン様はあれに巡り会われてしまった。もう誰にも引き離すことはできません。それは運命、かえられない。そして許したのは、王よ、あなたご自身だ。ユウラファーン様はーーあれのものです」
これから巻き起こる悲劇を予言するかのような老臣の言葉に、キィリンクは激しい不安を覚え、凍りついた。沈黙する王を残し、アプロスは静かに部屋を出ていった。
独り残された王は、どんと拳で机を叩き、行き場のない思いの八つ当たりをした。
誰に言われるまでもない。後悔は山ほど心に溢れている。
その頃、渦中の二人は宮殿の北側、長い渡り廊下を隔てて奥まった棟の、さらに一番奥の一室にいた。
ゼルファはぐるりと部屋を見渡して鼻で笑った。
急ごしらえにしてはよく整えられた部屋だ。日の射さぬ北の棟とはいえども、さすがにあの洞窟よりは明るく、吹きこんでくる夏の風は熱いほどである。
ゼルファは勝ち誇ったような笑みを口もとに浮かべ、掌を壁に押しあてた。冷たい岩肌とは違って包みこむような暖かさがあった。
(出られた。ついに私は出たのだ! あの牢獄から!)
与えられた自由はそのあてがわれた一室の中だけで、宮殿内を勝手に歩くことすら許されてはいなかったものの、これまでの状態に比べれば天と地ほどの差である。
押し殺しても喜びが溢れだし、つい声となって彼は低く笑った。振り返ればそこにはユウラファーンが立っている。ゼルファはにっこりと微笑みかけた。
「うれしいよ、ユウラファーン」
ユウラファーンも微笑み返し、小さくうなづいた。
「最高の、とはいえないけれど、今の僕にはこれが精一杯だ。我慢してくれ。少なくともあの洞窟よりはましだと思うよ。ここなら移り変わる季節を楽しむこともできる。本当は……自由にしてやりたかったのだけど」
ゼルファはユウラファーンの側によると、肩に手をまわして抱きつき、耳もとに甘くささやいた。
「私がなによりも嬉しいのはな、いつもおまえといられることさ。もうおまえが帰ってしまった後の、あの寂しさを味わわなくてすむ。二度と来ないのではないかと、不安におののくこともないのだな。ユウラファーン、私の双子よ」
「ゼルファ……。そうだよ。寂しい思いなどさせない。ずっと一緒にいる。ずっと」
ユウラファーンの腕がゼルファの細い体を抱きしめる。それを全身で受けとめて、ゼルファは心から陶酔した。
ふと視線を感じて目を開けると、開け放した扉の向こうにキィリンクが立っていた。
忌まわしいものでも見たかのように、眉をひそめ、にらんでいる。怒りに唇が小さく震えていた。
王の鋭い眼差しを見返しながら、ゼルファはユウラファーンの肩ごしににっこりと笑顔を返した。
(どうだ、キィリンク。おまえの大事な息子は私の虜だ。私の望みはなんでも聞く。私の言いなり、私の家来だ。忠実な従者だ。悔しいであろう。憎いであろう。はっ! いい気味だ。なんという快感。ざまあみろ、キィリンクめ!)
その声なき声を聞いたかのように、王はいっそう険しい表情で、憎悪の念をあらわに、にらみつけた。だがそのまま無言で立ち去っていった。
王の後ろ姿をゼルファは喜々として見送った。これは始まり、報復のほんの前哨戦にすぎない。憎しみのすべてがあがなえたというわけではない。が、とりあえずは一時の勝利に酔いしれる。彼の優美な唇から、低い笑い声がいつまでも続いていた。
* *
メイアは、決して北の棟に近寄ろうとはしなかった。
禁じられていたせいでもあるが、なによりもゼルファという男がどうしようもなく怖かった。
どこが、と問われても返答できない。理由ではない、直感なのだ。本能的な恐怖なのだ。
確かに青年はすばらしく美しく、見とれるほどに優美に笑いかけてくる。甘い声で優しくおいでと誘いかけてくる。
だが、駄目なのだ。あの黒い瞳で見つめられると、わけもなく不安になり、身がすくんで全身に怖気が走る。声も出せないほどにおびえてしまう。たとえ兄が側にいようとも、その恐ろしさはあがなえない。
メイアはどうして兄があれほど彼に夢中になり、とろけそうに暖かい笑みをむけられるのかが不思議でならなかった。何故兄にはわからないのだろう。彼はあんなにも邪悪なもの、絶対に触れてはならぬ禁忌なのに。恐ろしいなにかなのに。どうして、愛しておやりなどと言えるのか……。
メイアはゼルファが嫌いだった。
それは晴れた午後のひとときであった。メイアはそっと部屋を抜けだし、ひとり宮殿中の廊下を駆けまわっていた。
勉学の後の大好きな絵描き遊びのために、たくさんの花びらが欲しかった。赤のダリヤ、勿忘草からは薄い青、ひまわりの黄色、紫の菖蒲。種類は多いほど楽しいのだ。
なのに老いた乳母はなにかと億劫がって、あまり集めてはくれなかった。小間使い達は夕げの支度に忙しいし、兄は剣の稽古で相手にしてくれない。自ら集めるしかしょうがないと、居眠りしている乳母の隙を見て逃げだしてきたのである。
それに勉強はあまり好きではないのだ。大事な午後の時間を狭い部屋に閉じ込もってすごすなんて、なんともったいないことだろうか。
メイアはうきうきしながら庭中の花壇をまわり巡っていた。だが北の中庭に足を踏みいれた時、彼女はひどく後悔した。つい楽しさに忘れていたが、ここはあの男のいる場所だったのだ。
広い花壇の真ん中に、白い大理石で縁どられた小さな池。その側にあの男はかがんでいた。
長い黒髪がベールのように肩も背も覆い、地面の上に溢れていた。彼は決して髪を編もうとはしない。それはいつも自然にまかせて優雅に波うち搖れている。
メイアは彼が背を向けているのをいいことに、そっと足を忍ばせてその場を離れようとした。だが彼は敏感にその気配を見逃さず、ゆっくりとふりむいてメイアをとらえた。
黒い瞳に見つめられ、メイアはぴくりと身を震わせた。そんな少女に、ゼルファは思いもかけないほど優しく微笑みかけ、そっとささやいた。
「ごらん……」
ゼルファは優美な白い手を前に差しだした。メイアが視線を向けると、掌の上にぽっと小さな蒼白い光が現れ、それはやがて両腕に蝶の羽をつけた妖精へと姿を変えた。
透き通るような美しい体に色鮮やかな羽、不思議な輝き。息を飲んで見つめるメイアの前で、その妖精は軽やかに踊り始めた。
ゼルファの手の上でふわりふわりと飛び跳ねる。その度に、きらきらと鱗粉が舞い散り、それが夏の日差しに反射して美しく輝く。夢のような光景であった。
「……きれい、とってもきれい」
メイアは思わず我を忘れてゼルファの側に走り寄った。もっと近くでよく見てみたかった。幼い少女にとって、その信じられないような美しさはすべての負の感情を打ち消すほど魅力に溢れたものだった。
「気にいったか? これが……」
ゼルファが尋ねる。メイアはうれしそうに微笑んで顔をあげた。
「ええ、初めて見たわ、こんな妖精」
ゼルファはにっこりと笑うと、掌をメイアの鼻先に寄せた。メイアはうっとりとそれを見つめた。
その時、ゼルファはメイアの見守る中で突然その手を握りしめた。かすかな叫び声をあげて、妖精はつぶれた。それも残酷に加減された手の中で、死して霧散することもできずに、苦しげに身をよじらせて。
ゼルファの白い指の隙間から、ちぎれた羽や脚がこぼれ落ちた。それがメイアの足もとを飾る。眼前の光景を声もなく見いる少女の顔の前で、ゼルファはゆっくりと手を開いた。
無惨にひしゃげた胴体がぴくぴくとうねっていた。
メイアは呆然とし、大きく見開いた目をゼルファにむけた。
彼は笑っていた。目を細め、唇を薄くあけ美しく微笑んでいた。その瞳は氷よりも冷たかった。
(きゃあああぁ!)
悲鳴は声にすらならなかった。メイアは心の中で絶叫し、後ろも見ずに駆けだした。背後で高らかな笑い声が響く。嘲けるような青年の声が。
(怖い! 怖い! あれはなに、あれはなにもの? 化物。悪魔。あれは闇のものだ! 怖い!)
逃げ帰ってすがりついた乳母の胸の中で、メイアは激しく泣き叫んだ。今見た恐ろしさは口にだすことすらできない。
なにが起こったのかもわからぬ乳母は、ただおろおろと少女を慰めるばかりだった。
* *
(……誰、だ?)
ゼルファは暗闇の中で目を開けた。
灯火ひとつない漆黒の空間に、強烈な憎悪が蔓延していた。
かすかな人の気配が扉の側にあり、それが彼を見つめている。激しい殺意をその眼差しに秘めて、誰かがそこに立っている。
(誰……、キィリンクか? いや、違う。もっと力の弱い者、もっとわずかな気の者だ。だがその憎しみは誰よりも強い……)
ゼルファは衣擦れの音をたてぬよう慎重に顔を向けた。
闇はすべてを覆い隠している。相手はまだこっちが感づいたことには気づいてない様子だ。襲いかかるタイミングを見計らっているのか、身動きひとつしない。だがはりつめた緊張感はいまにも飛びかかってきそうだった。
ゼルファは気をとぎすませ、辺りをうかがった。その人影の一番近くに存在する闇の精霊を探す。光の国では夜にだけ躍動する低級霊が幾つか浮遊していた。
ゼルファはそのひとつを捕えて気を送りこんだ。精霊のエネルギーが燃えたち、かすかな赤い炎となる。そのわずかな輝きに照らされて、一人の人物が闇の中に浮かびあがった。
頑健なる肉体と頑強なる意志を持つ老いた兵士、アプロスの姿がそこにあった。
アプロスは突然の出来事に驚いて跳びずさったが、さすがに声をたてるようなことはなかった。すぐに平静を取り戻し、薄明りの中、鋭い眼光でにらみつけた。
「あやかしの技を使っても、私を脅すことはできんぞ。このアプロスを甘くみるな」
ゼルファは口の端をゆがめ、ぞっとするほどに冷たい笑みを浮かべて見せた。
「おまえか、アプロス。……誰のさしがねだ? 誰に命じられてここにきた? ……王か? 返事がないな。……なるほど、おまえの独断ということか。ーーそう、おまえはいつも私を否定し、抹殺したがっていた。知っていたよ。ついに堪忍袋の緒が切れたというところか」
「おまえはこの世にいてはならぬ者だ。王が殺れぬというのならば、臣下の私が殺るまで。覚悟しろ!」
激昂しているアプロスとは対照的に、ゼルファは冷ややかに鼻で笑った。
「おまえが私を、か? ふ、……ふふふ、やれるかな、はたして。ーーなあ、アプロス。ひとつ教えてくれぬか。何故だ? 王の命令を無視してまで、どうして私を殺そうとする? 何故そこまで思いつめるのだ? 私を殺すと、ユウラファーンが怒るぞ。嘆き悲しむぞ。おまえは可愛い王子を苦しませてよいのか? 泣きわめく姿が見たいというのか?」
「笑止千万! 口先だけの言葉になど、惑わされはせぬ」
「ユウラファーンはおまえを手討ちにするやも知れぬ」
「もとよりどんな罰も覚悟の上。いや、たとえ私がどうなろうと、守らねばならぬのだ。ユウラファーン様を!」
「私をここへ連れてきたのは、そのユウラファーンだぞ。おまえだって、あれがどんなに私を大切にしているか知らぬわけではあるまいに」
「そんなことは関係ない。おまえの存在はあのかたを狂わせる。不幸へと追いやるのだ。私はずっと危具していたのに……。一度結ばれた糸をはずすには、その片方を切り落とすのみ。おまえを殺すしかないのだ、ゼルファ!」
アプロスは一歩踏みだし、手中の剣を身構えた。だがゼルファは恐れもせず、平然としたまま挑戦的に薄笑いを浮かべた。そして満足げに目を細め、ささやいた。
「……そうか。おまえも知っているのか……。では、あの伝説は真実なのだな。この私にも銀紋の伝説が通じるのか。効力があると云うのだな。は……、ははは、なんと素敵な話であろう。アプロス、礼を言うぞ。はは、はっははは」
ゼルファは勝ち誇ったように高らかに笑った。
「そう、そうだとも。私達は双子だ。それもウネメスの定めし運命の双子。おまえの大事な王子とは、決して離れることはないのだ。はっはっは! ざまをみろ。あれは私のもの! ユウラファーンは私のものだ!」
ゼルファの笑い声が部屋中に響いた。アプロスは怒りに燃えて叫んだ。
「うるさい、黙れ! 我らの王子をおまえになどわたすものか。死ね、ゼルファ!」
アプロスは猛然と踊りかかった。激しく風を切って剣が襲いかかる。老いてなお逞しい腕は、決して標的を外すことなく、鋭く確実に獲物に向けて振りおろされた。
しかし切っ先がゼルファの首筋にとどこうとするその寸前、ふいに横からなにかの力に払われたかのように、剣は大きく脇にそれた。
それた刃はゼルファの肩の皮膚を斬り裂き、ばっと赤い血がほとばしった。
白い夜具が深紅に染まり、むきだしの腕に幾筋もの血の糸が伝う。傷口から肉が顔をだしている。だがゼルファは満足そうに笑みを浮かべたままで、逆に襲ったアプロスのほうが恐怖にひきつった顔で青年を凝視していた。
(なんだ、今の力は? 確かに剣がそれた。こいつの……仕業なのか?)
老兵士の困惑に答えるかのように、ゼルファは言った。
「だから申したであろう。おまえに私が殺れるのか、と。……おまえ、私を誰だと思っている? 私の中に誰の血が流れていると思っているのだ?」
ゼルファは流れる肩の血を掌で拭い、真紅に染まったその手を前にさしだした。
「見るがいい、この血を。……おまえ達が忌み嫌う、闇に汚れた血。忌まわしき呪いの血だ。だがこれこそが私の力。私の憎しみの根源。復讐の原動力だ。おまえごときになど決してやられはしない!」
ゼルファの体に赤い火花が走る。ちりちりと、真紅の細い蛇が幾重にもまとわりつくように。
アプロスはたじろぎ、身を引いた。すさまじいまでの闇の力を感じとったのだ。相手は闇の血を持つ者。何らかの抵抗は予期していたものの、まさかゼルファがこれほどの力を持っていようとは思ってもみなかった。
アプロス一瞬にしておのれの不利を悟った。一撃で倒せると考えていたのは大きな誤算だったようだ。
彼はゆっくりと後ずさった。しかしゼルファは彼を見逃しはしなかった。ゆっくりと寝床から降りると、老兵士の前に立ち、にやりと笑いかけた。
「私は決めていた。最初にキィリンク、そしてその次はおまえ、とな。順番は逆になったが、なに、かまいはしない。復讐の喜びの前には些細なことだ。ーーそれから、この傷。礼を云うぞ。少々痛い思いはしたが、じつに素敵な置き土産だ。最初に手を出したのは、おまえ。これはまこと良い証よ。私を殺そうとしたのは、おまえなのだ、アプロス」
アプロスははっきりと見た。
薄闇の中、青年の体におぞましいほどの多くの邪霊が寄り集まって包みこみ、そして深紅に燃えあがるのを。それが一瞬にして大きな塊となり、自分に向かって襲いかかってくるのを。激しい殺意が押し寄せてくるのを。
老兵士は見たのだ。その死のーー間際に。
壮絶な絶叫が王宮中に響きわたった。
それはまさしく断末魔の叫びであり、聞くものすべてを恐怖のどん底におとしいれた。
ユウラファーンもまた、その声を耳にして全身が凍りついた。
(北の方向……ゼルファか!)
ユウラファーンはすばやく壁にかけてあった剣をつかむと、一目散に北の棟へとむかった。声の主がゼルファでないことは確信していたが、尋常ならざる何かが起こったことは間違いなかった。
激しい不安がわきおこってくる。廊下を走りながら彼はその異常な事態を鋭く感じとった。
精霊の魂がさざめいている。魔なる物達の喜ぶ気配が蔓延している。なにか不吉なこと、不幸なことが起こっているのだ。ゼルファのまわりに。
誰よりも早く青年の寝室に飛びこんだユウラファーンは、うっとうめき声をあげてその場に立ちすくんだ。蝋燭の白い炎が凄惨な光景を照らしだしていた。
夜具に染まった大きな赤い染み。飛び散った無数の血の跡。そしてーー床に転がったひとつの肉体。
逞しい肩も厚い胸板も、すでに見る影はない。体中を切り刻まれ、流れでる血の一滴まで吸いつくされた無惨な死体。恐怖にゆがんだ死者の顔は、しわだらけの、頬に深い傷の残る強き老兵士ーーアプロスだった。
ユウラファーンは手で口を押さえ、叫びだしそうになるのをこらえた。驚きや悲しみ、恐怖、もろもろの感情がわきだしてくる。ふと部屋の隅に人の気配を感じて、彼はふりかえった。
明かりのとどかぬ暗闇に、独りの男がうずくまっていた。血の流れでる肩を抱きしめ、小刻みに震えながら、悲痛な面もちでじっと死んだ男を見つめていた
「ゼルファ!」
ユウラファーンは大急ぎで駆け寄った。
「大丈夫か?」
「……殺しに……きた」
「え?」
ゼルファは視線を骸に向けたまま、呆然としてつぶやいた。
「私を……殺しにきたのだ。寝入りばなに……襲ってきた。仕方がなかった。こんなつもりではなかったのだ……、私は……」
ユウラファーンは振り返ってもう一度アプロスを見た。誰が彼を手にかけたのかは、一目見ただけでわかっていた。人の仕業とも思えぬその死体の有り様を見れば、ゼルファの告白を聞くまでもない。
「……逃げようとしたが、どうにもならなかった。殺らなければ私が……、私が、殺されて……あ、ああ!」
ゼルファは悲痛なうめき声をあげ、がくがくと全身を震わせた。ユウラファーンはゼルファの頭を胸にかかえこみ、必死になだめた。
「もういい、わかってる。これは不幸な事故だった。仕方がなかったんだ」
「私が殺したんだ! 私が、この手で!」
「もういい、黙れ! ……落ち着け。落ち着くんだ、ゼルファ。もういいから」
ゼルファはおびえた子供のようにユウラファーンにむしゃぶりついてきた。まるでそこだけが自分を守ってくれる砦でもあるかのように。
ユウラファーンは力強く彼を抱きしめると、そっとささやきかけた。
「ともかく僕の部屋へ行こう。傷の手当をしなければ……」
そして彼を促し、立ち上がりかけたその時、突然激しい閃光が、パーンとはじけるようにユウラファーンの頭の中で飛び散った。
(つぅっ…………!)
一瞬くらりと目まいがし、目の前が真っ白になったかと思うと、今度はいくつかの光景が洪水のようにどっと流れ込んできた。
それは二つのとてもよく見知った顔だった。そして薄闇の中に交わされる、憎悪に満ちた会話。
(おまえを殺すしかないのだ、ゼルファ!)
(あれは私のものだ。決して離れることはない)
(うるさい! 死ね、ゼルファ!)
(復讐の……喜び……よ)
ユウラファーンは見た。
アプロスの恐怖に歪んだ顔と、高らかに響くゼルファの嘲笑の声。そしておびただしい量の光、光、光。それも、魔のつくりだす真紅の輝き。
老兵士がその邪な光に包まれ、悶え、苦しみ、息絶えてゆく様を。それを悠然と微笑みながら見おろしている青年の冷たく美しい顔を。
(な……んだ、これは……?)
それは、たった今この場所にくりひろげられた、悲惨な真実の姿なのであろうか。
なにもかもが蘇ってくる。
交わされた言葉のひとつひとつが、それを語る者達の憎しみに満ちた表情が、飛び散る血の滴や、群がる魔の物達の邪悪な息づかいまでもが、鮮明すぎるほどにユウラファーンの脳裏に浮かびあがってくる。
ユウラファーンは思わず、しがみつくゼルファの体を突き放すようにひきはがした。
ゼルファが驚いたように彼を見返す。その顔は不安に彩られた弱者の表情だった。すがりつくような視線をむけて、ひたすらに愛情を乞うているその瞳に、偽りは見えなかった。
ユウラファーンは愕然としてゼルファを見つめた。
(なん……だ、いまのは? ……あれが、真実だというのか?しかし……)
目の前で震える青年には、どこにもあの邪悪さが潜んでいるようには見えなかった。ましてや、故意ではなかった、仕方がなかったのだと、彼の口から聞いたばかりなのだ。
だが、ユウラファーンは確信した。
真実なのであろう、と。
たとえそれが幾重もの嘘で塗り固められたとしても、いや、嘘をつくこと事態が、すでに彼をだますことであり、裏切りであり、そんなことは自分達の間には存在しないのだと堅く信じてはいても、それでもユウラファーンにはわかったのだ。
(……そうだ。これが……これがゼルファの、本当の姿なのだ……。これが……)
ユウラファーンの瞳から、すっと一条の滴がこぼれ落ちた。
真実におびえたわけではない。いや、心の中のどこかでずっと以前から知っていたような気がする。
悪と善、闇と光、ふたつの血を持つ双子ゼルファの、隠された姿を。真実というものを。
ユウラファーンはただ、瞳を伏せていただけ。出来得るものならば、知りたくはなかっただけなのだ。
だが今真実は、無情に両の瞼をこじあけ、それを見せつけたのだった。
(彼が……無意識に伝えているのか? それとも……僕か? 僕の力が、意志を越えて動いているのか? この世のすべてに……目を開けと……?)
「ユウラファーン……?」
ゼルファが不安そうに名を呼んだ。
ユウラファーンはその声に我に帰ると、無言のままゼルファの脇に手をまわし、彼の体を支えて歩きだした。
硬い石の廊下に足音が響く。背後で駆けつけた人々の喧騒がする。忌まわしいその場から逃がれるようにして、ユウラファーンは足早に歩いた。
ゼルファが戸惑っているのが触れる体から伝わってくる。しかし何も云わず、彼はただ黙々と歩いた。
体中が引き裂かれそうに苦しかった。
(哀れな半身……。可哀相なゼルファ。何故、何故君は身も心も闇に捧げて生まれてきたんだ? 何故優しき母の血を拒否した? 血は……、闇も光も、公平にその身に流れているというのに、どうして……)
涙がこぼれ、頬をつたった。
だが……それでも愛しているのだ。その悲しい魂を。孤独な双子を。どこかで誰かの声がする。なにをかえてもゼルファを守れ、なにを捨てても彼を愛せ、と。それはーー運命の叫びなのかもしれなかった。
自分の部屋に続く廊下が、まるで永遠に続く悲しみの道のようにユウラファーンには感じられた。
ようやく部屋に着き、彼は無言のまま手当を始めた。
ゼルファは従順に身をまかせながら、彼の体から漂ってくる悲しみの感情に当惑した。それは先ほどからずっと伝わってくる。死者を悼んでいるのではない。もっと別のなにかを思って泣いているのだ。彼の心が。
「ユウラファーン……」
「……なに?」
「私を……責めているのか?」
ユウラファーンは顔をあげ、優しく問い返した。
「何故?」
「私が、奴を殺したから……。怒って……いるのか、ユウラファーン?」
ユウラファーンは包帯を巻く手を止め、しばしの間何も答えず、じっとゼルファの顔を見つめていた。やがて穏やかに答えた。
「君を責めたりはしないよ。決して。ーーたとえ君が僕を裏切ろうと。君が僕を……殺そうとも」
「な……! なにをそんな!」
ユウラファーンは狼狽するゼルファの瞳を見つめながら、静かに語った。
「ゼルファ。これが済んだら、僕とここを出よう。そしてどこか遠い処へ行こう。誰もいない場所、銀の紋も闇の紋も、なにも関係のない処へ二人でいって、そして暮らそう」
「ユ……」 「ここは眩しい。眩しすぎる。なにもかもが君を否定する。そしてその中で君はますます闇に染まってゆくんだ。自分を守るために……。いつかきっと、君は僕の手の届かぬものになるだろう。そんな運命を見るくらいなら、僕はすべてを捨ててもかまわない。君は、僕といる時だけは優しくなれると言った。ならば僕を連れていけ。そして出来得る限り光となれ。闇に染まるな。君を……失わせないでくれ。お願いだ」
ユウラファーンはその大きな手でゼルファの華奢な手を包み込み、ぎゅっと堅く握りしめた。
ゼルファは言葉もなく彼を見入った。
ユウラファーンは、すべてを知っている。なにもかもわかっている。ゼルファの身の内に息づく邪悪なる本質を、呪われた闇の心を、彼は知っているのだ。ーー真実を。
そしてなお、許し、受け入れ、愛するのだと。
ゼルファは唇を震わせ、つぶやいた。
「……国も、親兄弟も、暖かな太陽すら捨てて、私と生きると言うのか?」
「そうだ」
「その紋もか?」
「ああ」
「本気なのか? 本当におまえは、私を選ぶというのか?」
「迷う理由はもうない」
「ああ、ユウラファーン……」
ゼルファはユウラファーンの首に抱きついた。
「行こう。今すぐに。誰にも邪魔されぬ遥か果てへ。地の向こうへ。行こう、ユウラファーン」
「ゼルファ……」
「私はおまえさえいればそれでいい。他にはなにもいらぬのだ。闇も、光も、なにもいらぬ。ユウラファーン、おまえさえいれば……」
その時、突然冷たい声が響きわたった。
「息子はわたさんぞ!」
二人は驚いてふりかえった。開け放たれた扉の前に、鋭い眼光を向け、キィリンクが立っていた。後ろにはシンオウと数人の兵士達が控えている。
「どこにも行かせはせぬぞ、ゼルファ、ユウラファーン」
「……父上」
「愚かな息子よ。おまえはここまできてまだ目が開かぬのか。まだこの男を信ずるのか。これがどんなに忌まわしきものであるのか、まだわからぬというのか、馬鹿者めが!」
王は激しくユウラファーンを罵倒した。それは忠実なる部下を殺された怒りの叫びでもあった。だがユウラファーンは動ずることなく、敢然と言い返した。
「なにを……わかれとおっしゃるのです。この僕になにを知れと?」
「そいつの正体、真の姿だ! この男はおまえの考えているような哀れな弱者ではないのだぞ。こいつは、ゼルファは、人を殺すことなぞなんとも思ってはいないのだ。こいつは喜んでアプロスを殺したんだ!」
「……だから? 僕に……アプロスの仇をとれと?」
「ユウラファーン! おまえという奴は……」
ユウラファーンは静かに立ちあがると、ゆっくりと王の前に歩み寄った。真正面に立ち、胸のつまるような悲しい表情をむけ、訴えるように言った。
「なにもわかっていないのはあなたのほうです、父上。あなたこそ、どうして目を開こうとしないのです? ゼルファの罪は僕達には責められない。闇の心も、その姿も、彼が望んで手にしたわけではない……。十七年もの長い間、すべての幸福をはぎ取り、ひとかけらの慈悲もなく、絶望的な孤独を強いた。その中でどうやって光を得よというのです? 彼は闇の中で闇に目覚めた。当り前のこと。当然の結果です。ーー父上、わかってください。彼の闇の心を開かせたのは血ではない。あなただ。そして僕なのです! 彼をここまで追いつめたすべての罪は、僕達にあるのです!」
「なにを云う! 哀れに思えばこそ生かしておいてやったものを、それをなんの罪だと云うのだ。その者が生きてそこにいる、それこそが慈悲そのものではないか! その慈悲を仇で返すようなそいつこそが、すべての悪の結晶なのだ!」
「慈悲なんかどこにもない!」
ユウラファーンは王の襟首に掴みかからんがばかりに、迫り寄って叫んだ。
「あなたは殺さなかったのじゃない。殺せなかったんだ。あの時犯した罪の大きさに。その心の呵責のために! あなたは自分の苦しみを癒すためだけに彼を洞窟に封印したんです! 何故それを認めようとしないんだ? 父上!」
王は脳髄を殴られたような衝撃を感じた。心の臓をえぐられるような真実の響きがそこにあった。
確かに十七年の間、キィリンクはどうしてもゼルファを殺すことができなかった。どんなにアプロスに強く諌言されても、絶えず迷いがつきまとっていた。
その迷いが姉の願いのせいだけではないのだと、自らの心の呵責、あきらかな罪の意識があったせいなのだと、今むきだしに目の前に突きつけられている。それも、己の息子から。
キィリンクは呆然として言葉もなかった。
そんな父に、ユウラファーンはたたみかけるように云った。
「その残酷な罪の由縁を、僕のためだとあなたは言う。だからこそ、僕はなににかえても償わなければならないんだ。ーー僕達はここを出る。世界を捨てる。なにもかも投げ捨ててゆくのです。地の果てへと」
王の顔がぴくりとひきつる。体と心の乱れに震えながら、キィリンクはしゃがれ声でつぶやいた。
「……世界を、捨てる……?」
彼はユウラファーンの言葉を繰り返した。しばし放心したように宙を見つめていたが、やがてその顔にゆっくりと冷静なる表情が戻ってきた。そして自らの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと独りごちた。
「そうか……。わかった。やっと……私にも、わかったぞ。私の罪のなんたるか。私が、いかな過ちを犯してきたのか、やっと……わかった」
王は一度大きく息を吐くと、きりりと眉を潜め、地を踏みしめるように両足を広げた。それは先ほどユウラファーンに言いまかされて頼りなくうろたえていた姿とはうってかわった、威厳溢れる光国の王の姿であった。
キィリンクはユウラファーンとゼルファの前に立ち、腰の剣をゆっくりとその鞘から引き抜いた。
ユウラファーンの顔に緊張が走る。
キィリンクは射るような眼差しを二人に向け、低い声で云った。
「ユウラファーン、おまえの言葉で私はやっと今気づくことが出来たぞ。私の犯した罪の、真がいったい何であるか。私が本当にやらねばならなかったこととはなんなのか。それはーー」
銀色に光る切っ先がすっとゼルファに向けられた。
「こいつを殺すことだ」
「…………!」
ユウラファーンは思わず息を飲んだ。
王の言葉は、それまでとは違い、なにものにも動かしがたい強い意志を含んでいた。
「ユウラファーン、私はずっとおまえのことを危惧していた。おまえが優れた王となり、国を守り、幸福になることを望んでいた。おまえの未来ばかりを考えていた。だからおまえのためにこいつを封印した。ーーおまえの云うように、呵責があったことも認めよう。こいつを生かしておくことで、己の罪が少しでも償われるのだと、心の奥底で思っていた。確かに、その通りであろう。だが、それは間違いであった。罪の意識に苦しむことも、息子の将来を慮ることも、私のなすべきことではなかった。私が、この光国の王である私がなすべきこと。それは国のために、世界のために、この男を殺すことだ。こいつを殺せば、闇の血は途切れるのやもしれぬのだから。ーーおまえも一度くらいは耳にしたことがあるであろう。現闇王クトルリンには、いまだ子がおらぬという噂を。勿論、噂は噂。真実は知らぬ。しかしここ数年頻繁に親書が届く。この男を帰せ戻せとうるさく言ってくる。よほど奴らも焦っているのだろうが、まったくそれこそ噂の良い証ではないか。いいか、ユウラファーン。この男は、今のところ唯一の紋の継承者なのだ。つまり、この男がいなければ、闇の王家の血は奴の代で終わりを迎えることになるかもしれぬのだ」
王はたたみかけるように語り続けた。 「言っている言葉の意味がわかるな。紋なき国は滅びる。ダークネシィアは終わりをつげる。邪悪な一族は消え去り、世界に平和が訪れる。勿論、明日にも子は出来るやもしれぬ。紋を持つ継承者が生まれるかもしれぬ。しかし可能性は存在するのだ。そして光国の王として、世を平和にすることは第一の責務。人々の幸せが何よりの願い。そこには親の思惑も個人の感情も入る隙間などはない。それこそが王家の血を持って生まれた者の、絶対的な義務なのだ」
キィリンクは苦々しげに目を細め、ユウラファーンを見た。 「おまえは私を罵倒した。見せかけだけの、光の衣をまとった虚構の王となじった。ーーそれでもかまわぬ。世界が平和になるのなら、王たる者いかなる代償を払おうと断固として遂行するのみ。たとえそれが正義の道を外れたものであったとしてもだ。わかるか、ユウラファーン!」
王は手にした剣を息子に差し出すと、強く命令した。
「ユウラファーン、これは最後の親の言葉だ。もし愚かなおまえにまだほんの少しでも理性が残っているのなら、光の民を思い、世が平和であることを望むなら、その身体に王家の血が流れているのなら! 証をたてろ! ゼルファを殺せ! 闇の世継ぎを」
「やめろぉぉ!」
ユウラファーンは悲痛な叫びをあげ、頭を抱え、床に膝をついた。
「やめてくれ……。そうして……どこまでも追い詰めるのか、僕達を。この手を汚せと言われるか。……僕に……彼を」
ユウラファーンは血が滲むほどに唇を噛みしめた。
居並ぶ者達の胸の鼓動すら聞こえてきそうな、息づまるような静寂がその場を支配する。キィリンクもまた、何も云わずじっと息子を見守っている。
長い沈黙があり、やがてユウラファーンは立ち上がると、ゆっくりとゼルファの前に進んだ。そして手を伸ばしてゼルファの細い顎をつかむ。顔を上向かせて、じっと見つめた。
ユウラファーンは目を細め静かに云った。 「……選択の余地などないではないか。……王子として、銀紋の血を継ぐ者として、取るべき道はただひとつ。いまここで彼を殺す、ただそれだけ……。闇の国を滅ぼす千載一遇のチャンス。もはやそれは正誤の問題ですらない。父上のおっしゃるとおりだ。唯一無二。他にはどんな……手だてもない……」
ユウラファーンは語りながら、ひたすら眼前の双子を見つめていた。
顎にあてた指先から、さざなみのようにゼルファの感情が伝わってくる。それは怒りでも憎しみでもない。限りない悲しみの感情。今まさに愛する者に捨てられようとしている、深い絶望に満ちた心だった。
ユウラファーンの瞳から一条の滴がこぼれ、頬を伝った。 「そう……、王子ユウラファーンの取る道はそれがすべて。ーーだが……僕には君を……殺せない。ゼルファ、ダークネシィアに帰れ。そして闇の座につくがいい。冷たき闇の王となって、身も心も闇に染めて、光の国を討つがいい。その復讐を遂げるがいい。だが、たとえそうなっても、僕は決して君を殺さない。君の剣が僕の胸を裂いても、僕の身を切り刻んでも、僕は君を裏切らない! 決して、決して!」
「ユウラファーン! 愚か者がぁあ!」
キィリンクは駆け寄って息子の腕をつかむと、ゼルファから引き離し、そのまま力一杯壁にたたきつけた。激しい音がして、ユウラファーンの身が弾け飛ぶ。少年は苦痛に顔をゆがめた。
「ユウラファーン!」
ゼルファが叫んだ。
「……逃げ、ろ……、ゼルファ……」
「黙らんか! 馬鹿者め!」
王は手にした剣の柄でユウラファーンの顎を殴りつけた。唇が切れ、血が飛び散る。
その時、背後から激しい憎悪の声がした。
「私を殺せ、キィリンク!」
一瞬キィリンクはぎょっとしてふりかえった。そしてゼルファを目にし、息を飲んだ。
彼の体が真紅に光り輝いていた。溢れる怒りを全身から発散させて。それは炎のようにゆらゆらと揺れて彼を包み込んでいる。辺りの者は皆、その凄絶ともいえる様相に、言葉を失って見入った。
ゼルファは激しい感情に声を震わせて云った。 「私は逃げぬ。命ごいもせぬ。だから殺したければ殺せ。もう……たくさんだ。私が初めてみた夢を、愛する者とともに生きる夢を、おまえは無惨にうち破る。私の安らぎを、ユウラファーンを苦しめる。……おまえが憎い。その憎悪が私の生きる気力すらをも失わせるほどに……。ーー私は、闇の跡取りだ。それは知っている。だがそんなものどうでもよかった。お前は信じぬと云うかも知れぬが、ユウラファーンさえいれば、本当に、本当に捨てたのだ! 闇も、光も、なにもかもを! なのに……」
ゼルファは憎しみに拳を震わせながら、王ににじりよった。 「さあ、その剣で私の胸を裂け。大切な息子の目の前で、十七年前幼い私の前でそうしたように、呪われた血のほとばしりを見せるがいい。そして一生憎まれて生きるがいい。生涯許されることなく。それがせめてもの報復だ。キィリンク、おまえこそが私の闇! 光に隠れた、真の闇だ!」
「死して、帰れ! 地の底へ!」
キィリンクの鋭い叫び声とともに、銀の刀身が高々と持ち上げられた。
そしてその後に起きた悲劇の一瞬を、皆がその瞼にくっきりと焼き付けた。
時間が凍り付いてしまったかのように、誰もがぴくりとも身動きせず、目の前の、その光景に見入っている。
王の刀は振りおろされることなく、空に停止していた。恐ろしいほどの静寂があり、そしてやがてその静けさの中に、微かな音が響く。
ぽたり、ぽたりと、真紅の血が床に滴る。
細い小剣を握りしめたユウラファーンの手を伝い、彼と父王の足元を染めてゆく。
小剣は深々と王の腹に身を沈めていた。
ぐぐぅとくぐもったようなうめきがキィリンクの唇から漏れた。王は力なく振りあげた剣を下ろすと、信じられないものを見るかのように驚愕と絶望に満ちた眼差しをユウラファーンに向けた。
だがユウラファーンの瞳にはなにもうつってはいなかった。ただ無表情に灰色の瞳は見開かれ、唇は乾き色を失っていた。
キィリンクは絞り出すような声で息子の名を呼んだ。
「……ユウ……ラファ……」
語尾はかすれて消えた。彼はゆっくりと息子の腕の中に倒れていった。
ユウラファーンに、それを受けとめる力はなかった。呆然自失に立ち尽くす腕の中を、王の体が通りすぎてゆく。そして大きな音をたてて床へと崩れ落ちた。
その音に、ユウラファーンはゆっくりと顔を傾け、足元を見た。父が倒れていた。真紅の血を流し、横たわっていた。見開かれた目が虚ろな色に変わって、命の輝きが失われてゆく。
首にかけられていた水晶石が、切れた飾り紐から外れてころころと転がった。それはまるで、死にゆく王の体を無情に放棄したかのようであった。
ユウラファーンは無意識にそれを拾い上げた。美しく輝く透き通った水晶石。光国王の証の、聖なる石。いつも父の胸元で揺れていた……。それが今、父の血にまみれたこの手の中にある。
彼はもう何も考えることができず、感ずることもできず、呆然とその石を見つめていた。
誰よりも早く正気を取り戻したのはゼルファであった。
彼は瞬時にしてこの絶望的なまでの事態の悪さを悟った。どんな言い訳もごまかしも、闇の力をもってしても修復できないこの事実。
ゼルファはすばやくユウラファーンの腕を掴むと、力の限りに引っ張った。
「来い! ユウラファーン!」
そしてシンオウや兵士達が唖然として立ち尽くしている戸口に向かって、猛然と走りだした。
その行為に彼らもまた我に帰って、慌てて剣を立て道を塞ごうとした。シンオウはすかさずゼルファに斬りかかった。
「逃がさぬぞ、悪魔め!」
「うるさい! どけ!」
ゼルファは振り払うように手を横に振った。その掌から真紅の光がほとばしり、強烈な衝撃がシンオウとその後ろにいた兵士達の体を吹き飛ばした。
ひかえていた兵士らはその様に震え上がり、思わず後ずさった。彼らが怯んだその隙に、ゼルファはユウラファーンの手を引いてすばやくその場から逃げ出した。ユウラファーンはいまだ正気を失ったまま、木偶のように成されるがまま従った。
背後では事件を知らせる大きな叫び声があがっていた。ゼルファの力に恐れをなしたのか、すぐさま追ってくる者はなかったが、所詮それも時間の問題だ。いずれ宮殿中の者がどとうのごとく押し寄せてくるだろう。
二人は宮殿を逃げ回った。ゼルファはどくどくと胸が破裂しそうなほどの焦りを感じていた。
宮殿の内部構造は精霊を使った探索で充分把握していたつもりだったが、実際にその身を置いてみると、勝手が違ってしばしば方向を見失う。さらに肩の傷の痛みが感覚を鈍らせた。
(くそ、このまま闇雲に走ったところでらちがあかん。いくら私でも、今のユウラファーンを連れて兵士の中を逃げきる自信はないぞ)
ちらとユウラファーンを見た。彼はいまだ人形のように表情をなくしたままだ。ゼルファは小さく舌打ちし、眉をしかめてまた走りだした。
追い詰められた狐のように宮廷の一角に入り込んだ。月に照らされた中庭が不意に目の前に現れる。白い月光草が夜露に濡れてきらめき、幻想的な美しさを醸し出していた。
(しめた! ここをつっきれば裏手の森に抜けられる。あの森ならばそう簡単にみつかりはしないぞ)
ゼルファは躊躇することなく庭の中へ踏み込んだ。足元で真っ白な花弁が散り、遊んでいた妖精達が叫び声をあげながら逃げ出していく。いくつもの妖精が踏みつぶされ、その魂がぽっと燃えて散っていった。
中庭を越え、白い氷紋石の門から外に抜けると、夏には珍しく月も星も雲に隠れ、辺りは闇に覆われていた。
庭の遠くで騒ぐ人声がしていた。探索の従者達はすでにここまで追ってきているらしい。大勢の者達が走り回る荒々しい気配が闇の中を伝わってきた。
ゼルファはユウラファーンの身を引き寄せると、息を潜め、逸る心を抑えてゆっくりと踏み出した。広い庭園を斜めに横切って忍び歩く。だが幾らも進まぬうちに、右手から大きな声がして彼らの逃避行を阻んだ。
「止まれ!ーーそこにいるのは……ユウラファーン王子、王子であらせられますね。どうか手むかいなさらずに、頭の上に手をお組みください。すでに回りは追っ手で溢れております。逃げることはかないません。なにとぞ、ご神妙に」
ゼルファはユウラファーンの手を強く握りしめた。神経がぴりぴりと痛む。全身を緊張させ、すばやくその場にいる者達の数を探った。
(十……、十一人……。これくらいの人数ならば、あるいは倒せるか。いちかばちか……)
これが闇の国であったならば、吸収し力となす闇の精霊達も、もっと数多く、また力の強い霊もたくさん存在しているのに。いかんせん光の国には闇に仕えるものが少なすぎる。
ゼルファはごくりと唾を飲んで身構えた。
とにかく、あらん限りの力を使って、この場を凌がねばならない。ところが、彼が闇の力を行使しようとしたその前に、先んじて燃えあがる力があった。
ゼルファはぎょっとして傍らを見た。ユウラファーンの体が真っ白に光っている。つないだ手が急激に熱くなり、ゼルファは恐れおののいて手を離した。
少年の体の周りに無数の精霊が引き寄せられ、それが彼の発散する強烈な気に身を焼かれて、瞬きながら消えていった。たくさんの魂が彼を包み、彼の意識に吸収されて力に変わる。すさまじいパワーが見る間に集結されていく。そしてそれがひときわ大きく輝いたかと思うと、激しい勢いで居並ぶ兵士達に向かって発せられた。
ゼルファはあまりの光量に思わず目をつぶった。次々と倒れる兵士達の姿が閉じた目にも映った。激しい攻撃の前には、悲鳴ひとつあがらない。皆が声もなく死んでいった。
あっという間に気配が消える。おそるおそる開いたゼルファの目に、無惨な死骸が幾つも転がっているのが見えた。彼はその光景に呆然として立ちすくんだ。
何という力、何というすさまじさであろう。これほどのパワーがはたして自分にはあるだろうか。闇の、最も強き血を持ってしても、これだけの技をなすには相当の集中力と鍛錬が必要だ。昨日今日その力を手にいれて出来るという代物ではない。
そして何よりも、これがあのユウラファーンのしたことか。優しい少年、精霊の魂ひとつ奪うのすら哀れみためらっていた彼の、これが仕業か。
ゼルファは強い不安にかられてユウラファーンを見た。と、少年はいまだ霊を呼び続け、その体は白く輝いていた。明らかにもう一度攻撃をしかけようとする体勢である。ゼルファは慌てて彼を制した。
「よせ、ユウラファーン! もういい、もうみんな死んだ!」
ゼルファの言葉にぴくりと身を震わせ、彼はゆっくりと顔を向けた。その顔にようやく感情が現れる。眉をひそめ、訝しげな表情を見せた。
「ゼルファ……?」
「ユウラファーン! 正気に戻ったか。私がわかるな?」
彼は辺りに転がる死体を見まわし、かすれた声をもらした。
「僕が……やったのか?」
ゼルファには返答が出来なかった。
遠くで大きな声がした。
「おおい! いまの光はなんだ? なにがあったぁ?」
ユウラファーンははっとしてそっちを見、今度は自ら友の手をひいて云った。
「行こう、早く」
二人は森にむけて走りだした
|
|