その1

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#名前は、すべて、旧姓で書かせてもらいました。
その1 1974〜1979
その2 1980〜1989は、こちら
その3 1990〜1999は、こちら
その4 2000〜は、こちら

■■■ 1974(昭和49年)1年目 ■■■
1 初夏、市高祭実行委員募集に引っかかって、原田(2年)、土橋(1年)、林(1年)、船越(1年)、出会う。
  のちに赤沢(1年)、前田(1年)、板東(1年)等加わり、PA等音響関係の原点となる。

2 当時新館(現在の北校舎)が落成し、放送室ができたことから職員室と生徒会で、校内放送をという動きが
  あった模様。この流れで市高祭音響係残党が、放送同好会を立ち上げる。

3 一方で放送コンクールへの参加は、演劇部主体で、それ以前から行われていて、その流れで
  花岡(2年)、加島(1年)、佐光(1年)らが合流する。
  このあたりの関係から、新居先生が顧問に。
  その後、上野(2年)も参加。
  新田洋子(2年)が初代の会長(ほとんど名前だけだったが)になる。

【葦芽 13号(1974年版)p35より】

思いがけない入賞
    放送クラブ
<県放送コンテスト>
1,加島和裕、佐光智恵子、森京子、野沢美子、真名野和子
2,6月30日
  NHK徳島放送局
3,アナウンス部門第3位(加島)
<全国大会>
1,加島和裕
2,8月9日
  広島県広島市公会堂
3,予選失格
4,放送コンテストには、出場希望者で校内選考を行なって、6名が出場することになった。
  希望者の校内選考という形をとる所はめずらしい。
  あまり、練習もしないままに、いよいよコンテストの当日になった。
  他の学校は放送部という形で参加しているので、いささか圧倒されてしまった。
  審査に入るとみんな緊張気味で、一人一人が真剣にマイクにむかっていた。
  残念ながら市校からの入賞者は一人だけになってしまった。
  それにしてもあまりにも思いがけない入賞だった。

  全国大会には、広島市に、四十六都道府県の代表、アナウンス、朗読部門各二百名を
  集めて行なわれた。決勝大会はこの中から各二十名が選ばれて行なわれる。
  当然のことながら、系統だった練習をしていないのでとても決勝には残れなかった。
  放送部ができ、すでに昼食時に校内放送もしていますが、市高の先輩である四国放送の
  アナウンサーによる研究会をもったりしており、今後部員一同、より美しい正しい日本語の
  勉強をしてゆくつもりです。
 
(注:上に『放送部』とありますが、正確にはこの頃は、『放送同好会』でした。
  また、この年の放送コンテストは、同好会発足前のことです。)


■■■ 1975(昭和50年)2年目 ■■■
1 1975年度になり林が2代目会長になる。

【葦芽 第14号(1975年版)p27より】
同好会の欄に
 <放送>、顧問<新居K>、生徒部長<林 納>、部員数男<12>、女<11>と
あります。

【葦芽 第14号(1975年版)p33より】

   A 主な行事・記録
   B 顧問の先生の指導と部員の自主性は( )%+( )%
   C クラブで味わう充実感・クラブ活動における自由について
放送部同好会
A 6月県放送コンテスト
  ラジオ番組部門入賞
  アナウンス部門 1位 東 、3位 加島
B 顧問20%+部員80%
C 経済的には全く援助を受けず苦しい財政を部員全体の手でやりくりしているところ。
  また、自分の目標で行動してゆくのがすばらしい。

【葦芽 第14号(1975年版)p42より】

放送部同好会
放送コンテスト全国大会
 今年は放送同好会が認められ、まとまった形で練習もでき、昨年と違って幾分余裕を
 持って出場できた。
 さて、県大会での成績は、アナウンス部門では15校の代表40名が技を競い第1位に
 1年生の東三余子さんが、第3位に2年生の加島和裕君が入賞し、全国大会への
 出場が決まった。
 朗読部門で入賞者を出すことができなかったのは少し意外であった。
 番組制作では、ラジオ部門に出品した「勉強の仕方、暗記か創造性か」が入賞し、
 全国大会へ出品することになった。1年生の東さんの活躍や、積極的に駆けずりまわった
 番組制作のスタッフ陣の努力は、すばらしいものであった。

 全国大会は8月9日、10日に東京で開かれた。全国から集まったアナウンス、朗読両部門の
 各都道府県の代表400名が二つの会場に分かれて、コンテストは行われた。
 今年は2年連続出場の加島君、力をつけた東さんのいずれかが、という期待を持って望んだが、
 もう一息というところで、残念だった。
 番組制作の方も、入賞は逃したが、初めての経験でもあるし、これからのためには多いに
 学ぶところがあった。
 今年は放送同好会としては順調な出足で、会員の意気も上がり今すでに番組制作にも着手、
 アナウンス朗読の練習も進み、来年度をめざして頑張っている。

【第22回NHK杯全国高校放送コンテストの立て看板の前で、東さん、新居顧問、加島さんの
3人が記念撮影した写真が付けられている】

東、加島、林 放送コンテストの看板前にて(たぶん新居先生が撮ってくれた)
林が、なぜ、ここにいるかというと、たまたま自転車競技の大会があって、その前後に応援に
駆けつけたと言うことらしい。
自分では、全く覚えていなかったのですが、東さんに教えてもらいました。


3月 12回生(放送部第1期生 原田の学年)卒業


■■■ 1976年(昭和51年)3年目 ■■■
1 1976年度になり中井が3代目会長になる。

中井が会長時代には、中井が中心になって、番組製作が盛んに行われていた。
その記録は、中井のHPで聞くことができます。

【葦芽 第15号(1976年版)p32より】

放送部同好会
 6月27日、約80名が参加して行われた「県大会」。ここで選ばれたアナウンス・朗読各部門4名
ずつが「全国大会」に進める。この県代表うち、4名をわが市高が占めた。
 アナウンス部門からは、304H加島君・203H東さん・105H浜尾さんの3名。
 そして、朗読部門で310Hの佐光さんである。それに加えて番組制作部門「深夜放送」が県代表に
選ばれるめざましさであった。そして以上でのりこんだ8月9・10日の全国大会での成績はかつてないものだった。
 8日、先生を入れて総勢6名は全国大会が行なわれる九州・博多へと旅だった。
 福岡市民会館と、明治生命ホールの2つの会場で行なわれる準決勝出場者は、アナウンス・朗読両部門の
全国4000名の予選を勝ち抜いた精鋭ぞろいで、そのうち20名が決勝に残れるのだが、果たして…。
 準決勝は終わった。決勝進出者の発表は翌9日。不安と期待の中で決勝用原稿を作ってすごした8日夜。
 明けて9日全員そろって市民会館へと急ぐ。人だかりのする方へ進む。
 入賞者の中に名前があった。アナウンス部門・東三余子、朗読部門・佐光智恵子。「やった!」
 午前10時、決勝まであとわずか。残る時間中にアナウンスの原稿を清書。最後の仕上げだ。
 ペンを持つ東さんの手が心なしかふるえる。佐光さんも古典の読みにみがきをかける。
 結局佐光さんが朗読部門の入賞者代表として賞状を授けられるなど、今までにない成果を残して全国大会は終わった。
 二人の活躍は後輩の大きな励みとなるだろう。
<コンテストの立て看板の前で写した写真;左から、佐光、東、新居先生、浜尾、加島、高畠>

【葦芽 第15号(1976年版)p35より】
クラブ一覧 同好会の欄に
<放送>、顧問<新居K>、生徒部長<中井一仁>、部員数男<18>、女<17>

【葦芽 第15号(1976年版)p41より】
放送同好会
A 6月 NHK全国放送コンクール県予選
番組制作部門 ラジオテーマ 入賞
朗読部門 1位 佐光
アナウンス部門 1位 浜尾、3位 加島、4位 東
8月 全国大会
アナウンス部門 入選 東
朗読部門 入選 佐光
B 技術を向上させるためのものであり、資源供給の場であり、
気の合った仲間との親睦の場であり、いこいの場であります。

8月 大神子で合宿(写真参照)

3月 13回生(放送部第2期生 林の学年)卒業


■■■ 1977年(昭和52年)4年目 ■■■
1 1977年度になり北新居が4代目会長ではなく初代『放送部部長』になる。
  たぶん、この年、生徒会で『放送部』として認められる。

2 1期生、2期生の11人で放送部OB会設立。(OB会設立時の会則)
  原田が初代OB会会長となり、放送部の活動をバックアップする。

【葦芽16号 昭和53年3月8日発行】
p9 「第15回市高祭」
<放送部>
ポエムアートタイムとレコードコンサートのイメージルームをメインに、童話詩の朗読、
バロック音楽とポエムとの調和など趣向をこらして努力のあとがみうけられた。
また、アナウンサーも日ごろの練習の成果を発揮し、感情豊かに流れる声と音楽がとてもマッチして、
人々の心をひきつけていたようだ。

p34文化部
放送部
A 6月 徳島県高校放送コンテスト
アナウンス部門 1位 浜尾、2位 北新居、4位 東
朗読部門 1位 尾道、奨励賞 宮本
番組制作部門 入賞「自転車通学に赤信号」
8月 全国高校放送コンテスト
アナウンス部門 入選 浜尾
朗読部門 入選 尾道
B 1年前、我々の憩いの場であった放送室は、今や修羅場と化している。奇人多
数。変人多数。しかし、今年も放送部は放送コンテストに、市高祭に数々の実績をあげた。

p34「クラブ一覧」
<放送>、顧問<新居K、松本K>、生徒部長<北新居恵子>、
部員数男<20人>、女<30人>、予算額<空欄>

【中井記】
「放送部」の文字は、葦芽16号p34に出てきます。
同p37の「クラブ一覧」には、文化部の最後に、
<放送>、顧問<新居K、松本K>、生徒部長<北新居恵子>、
部員数男<20人>、女<30人> とあります。この年度は、明らかに部に昇格しています。
私も、予算なしでいいから、部に昇格してほしいと生徒会に頼みに行った記憶が
あります。
16号には、不思議なことに、全国大会参加の記事が見あたりません。
 前年に引き続き、全国大会で浜尾さん尾道さんの2名が入選という輝かしい
 実績を上げているのに、腑に落ちません。

#この頃が、部員数、活動内容から見ても第1期黄金時代と考えられる。第2期は?

8月 大神子で合宿
このときのしおりが、残っていました。浜尾さんが、書いたようです。

3月 14回生(放送部第3期 中井の学年)卒業
    注:この他に東さんと岡内さん、安芸くんがこの年、卒業しました。


■■■1978年(昭和53年)5年目■■■
1 1978年度になり田中が部長になる。

【葦芽 第17号(1979年版)p30より】
放送部  (A行事、記録  B本年をふりかえって)
A 5月 遠足(徳島公園)
  6月 “おはようとくしま”出演(四国放送)
  6月 県大会(NHK)
  8月 夏強化合宿
  8月 全国大会(東京)
  9月 文化祭
  2月 新人選(NHK)
B 放送部は、昼の放送を中心に、アナウンス、朗読の練習を行い、全国大会に代表を送り、
また市高祭においては、PA設備など、その活躍は目覚しく、市高の一文化を築いている。

【葦芽17号(1979年版)p33より】
クラブ一覧 文化部の欄
<放送>、顧問<新居K><松本K>、生徒部長<田中義人>、部員数男<13>、女<34>、
予算額<¥9,920>

葦芽17号 参加出場記録
【葦芽17号(1979年版)p39より】 
放送部  (1日時、場所 2出場者 3記録 4選手感想 5顧問所感) 
1 8月4日〜6日 NHKホール
2 楠木千尋
3 決勝進出ならず
4 昨年、一昨年と我が市高放送部の先輩達は、県大会また全国大会にすばらしい成績を残され
後を受け継ぐ私達にとってちょっぴり肩の荷が重い一年でした。
 今年、市高から全国大会に出場することになったのは、アナウンス部門の私だけとなり、
それだけでももうドキドキでした。
 その上顧問の先生が都合でいけなくなったので、私は城東高校の人と一緒に行くことになったのです。
 なんだかとても不安でした。城東の人たちとはすぐにうちとけて、市高の私を励ましてくれたりとても気を
使ってくれたのですが、いざコンテストとなって日経ホールのステージに上がると、
急に心細さがこみあげてきてなんとも言えませんでした。
 結局全国入賞は望めませんでしたが、一年生の私にとっては、全国の高校生と競い、
全国の高いレベルの学校放送に直接触れることができたのはとてもよかったと思います。
 また、NHKのベテランアナウンサーによる好評もとても勉強になり、それを全部聞いただけでも
東京まではるばる行ったかいがありました。
 その経験を生かして、来年また放送部の皆と頑張りたいと思います。
5 基本的なことを繰り返し練習することが大切だ。

3月 15回生(放送部第4期 北新居の学年)卒業


■■■1979年(昭和54年)6年目■■■
1 1979年度になり産田が部長になる。

【葦芽18号(1980年版)p30より】
放送部  (A行事、記録 B本年をふりかえって)
A 1月 NHK新人コンテスト
  6月 県大会
  8月 NHK放送コンテスト全国大会
  8月 夏季合宿(山川町青少年自然の家)
B 今年の放送部は、新入部員が少なく、特に男子部員は一人です。校内放送、文化
祭などで活躍したいと思います。皆様の応援を願うしだいです。(産田)

【葦芽18号(1980年版)p33より】
クラブ一覧表 文化部の欄に
<放送>、顧問<吉田K><新居K>、生徒部長<産田真子>、部員数男<14>、女<30>、
予算額<¥6,600>

葦芽18号 参加出場記録
【葦芽18号(1980年版)p35より】
放送部  (1日時、場所 2出場者 3記録 4選手感想 )
1 8月7日〜9日 NHKホール
2 三谷理子
3 決勝進出ならず
4 練習不足だったのに、県大会ではなぜか入賞できて、ホッとしたまではよかったのですが、
「声が小さい。速い。」と講習会でみっちりしぼられ、落胆しつつも、根性と不安を背負って東京へ。
 全国大会ともなると水準が高くて、声、速度、そしてアナウンスに欠かせない表現力と、
三拍子そろった人たちがたくさんいて、そのまま放送局で採用できるんじゃあないかと思うほどでした。
 そんなところで入賞なんてできるはずなかったけど、何百人もの個性あるアナウンスを聞いて、
本当によい勉強になりました。

8月 山川で合宿

3月 16回生(放送部第5期 田中の学年)卒業

お願い:間違いや、追加の情報がありましたら、まで連絡いただけるとうれしいです。

          このページに使った画像
          1975年8月放送コンテスト全国大会
          1976年の合宿〜大神子〜
          1975年OB会設立時の会則・名簿        (坂田さん提供)
          12回生(放送部第1期生 原田の学年)卒業 (卒業アルバムより、原田さん提供)
          13回生(放送部第2期生 林の学年)卒業   (卒業アルバムより)
          14回生(放送部第3期生 中井の学年)卒業 (卒業アルバムより、中井君提供)
          15回生(放送部第4期 北新居の学年)卒業 (卒業アルバムより、折野さん提供)
          16回生(放送部第5期生 田中の学年)卒業 (卒業アルバムより、岡村さん提供)
          1977年合宿のしおり                 (中井君提供)
          1979年の合宿〜山川〜              (原田さん提供)

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