名僧列伝
  紀野一義
 



 一人の名僧の評伝を書くのも至難のことなのに、なんと多くの名僧を取り上げていることだろう。

  私は、白隠禅師のことを知りたくて、この本を手にしたのだが、その体当たり的叙述に驚き、全四巻を取り寄せ、読むことになった。

 著者は、1922年うまれ、学徒動員、戦争の苦酸をなめ、不発弾1752発の処理をした経験を持つ。
  東大印度哲学科卒、著書多数、仏教の普及に勤められた。2013年没。


 一篇一篇が内容も豊かで、読み物として工夫されている。襟を正して読みたいもの。

2024・3・15

読み続ける内に、どの篇も、きわめて熱量の高い、真剣勝負の文章なので、圧倒される。
 平安末期から、鎌倉、室町と激動期の中の、宗教の巨人ともいえる人物に出合う。
  摘要を作るは不可能、下記は私が記憶を辿るためのメモ。是非、本文を読んで欲しい。

2024・3・22


『遍歴放浪の世界』
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   『名僧列伝 (二) 良寛・盤珪・鈴木正三・白隠』


白隠禅師から読み始めた。著者は、良寛、盤珪にくらべ、白隠、正三はそれほど、懐かしさを覚えないと、あとがきに告白している。
 この評伝は、通り一遍の伝記をまとめたものでなく、著者の感性を通じて書かれたことがわかる。著者50歳の作。

  白隠(1685-1766)は五百年不出の大禅匠とされるが、はたしてそうであろうか?大燈国師や関山慧幻の方が遥かに惹かれる。そんな話から入る。24歳の時、大悟した後、何度大悟を繰り返すのであるが、31歳の時、禅病にかかり、その時、白幽子と出会い、『夜船閑話』を表している。本書後半はその現代語訳。
 全生涯を覆うものではないが、その人となり気迫は十分に伝わってきた。

 良寛 その故郷、出雲崎へ実際に行っての記述。良寛の友達の話、晩年の貞心尼との出会いなどが、特に心に残った。

 盤珪 私は語録で馴染があるが、悟るまでの血みどろの修行に圧倒される。

 正三 合戦の修羅場を潜り、武人としての評価も高い正三は42歳の時、突如出家するのである。
念仏と禅が一体かしているようで、強烈な、白刃を交えるような気迫の教えである。

 2024・3・16
 

  
   『名僧列伝 (一) 明恵・道元・夢窓・一休・沢庵』

 道元から読み始めた。道元の源通親と母松殿基房の娘について、生き生きと描き出しているの驚かされる。
宋への留学、天童山の如淨の下で大悟し、28歳で帰国している。
 大悟の表現「心身脱落」についての、著者の解説は、圧巻。、「心身が脱落した後に現れてくるのはこの「霊性」である。これがあらわれ出たるところを「さとり」というのではあるまいか?」
 悟りの事、臨終へ向かう記述。いずれも簡にして要を得て、すばらしい評伝であった。

明恵 この評伝を読んで、明恵上人が好きになった。幼年期から普通の子と違っていた。九才の時、父母を失い、高尾の神護寺に入る。以降、仏道修行に入るのだは、その伸びやかで、迷うこののない一本道を歩いて来られと分る。
樹上坐禅の図が示す楼に、常人とは異なる。島に向かって手紙を書くなど、愛すべきエピソードに充ちている、
著者は、明恵を禅者とみている

夢窓ー 9歳で出家、18歳、叔父の明真講師につく、その臨終が見苦しかったので、天台に見切りをつけ、19歳、建仁寺の無隠円範、次々師をを変え、23歳一山一寧の弟子となる。以下足利尊氏など権力者の尊敬、支持を受ける。
造園家の夢窓、足利直義との『夢中問答』で臨終についての項も詳しく載せている。巨人という印象を持つ。

一休ー 南北朝、最後の北朝の後小松天皇の落胤である。母も南朝側の公卿の娘。まだ、南北対抗の風の残る中、民家で、密かに誕生する。この出自は彼の生涯の大きな影響を与えた。6歳の時、寺に預けられた。17才、西金寺、謙翁宗為の弟子になり、5年間仕込まれたが、印可しなかった。
母親からの大きな影響も詳しい。22才華そう宗曇に入門、4年、25歳のある日、平家琵琶で「祇王出家」の下りで、こらえかねて大泣きし、その時、「洞山三頓棒」の公案を悟る27才、大悟した。(余りのも見事な記述に愕く)
雀の弔い、不肖の息子の話、蓮如との関係、盲人美女森侍者・・・一休さんが大きく読者の前に姿を現し評伝であった。

沢庵 ー 吉川英治『宮本武蔵』に登場するのと、漬物の沢庵ぐらいしか、何も知らなかった。前者は全くのフィクションだそうだ。
戦国時代から江戸初期に生きた禅僧であるが、その峻烈な生き様には愕いた。31才、一凍紹滴に付き、翌年師から、悟りの証明と「沢庵」という名を貰った。翌年、春屋との出会いと問答。禅宗の中大きな派閥争いが権力者と結びついて起きたが、その節を曲げない態度に、のちには家光の信頼を得る。硬骨漢

 2024・3・24
 

  
   『名僧列伝 (四) 一遍・蓮如・元政・辨栄聖者」


一遍(1239-1289 ー私は高校時代、一遍宗(時宗)のお坊さんについて、小学校の粘土細工を楽焼にするという仕事何度もやったので、時宗には何となくなじみがある。国宝の絵巻などもそのご縁で見た。半世紀前に読んだ栗田勇『一遍上人 —旅の思索」に絵巻の見事な複製あり、今も手元にある。
  本文は「人はなぜ旅に出るのか」から始ま�る。河野水軍の一族、10歳で母を失い、13歳で聖達上人に弟子入り、
修行は一時空白のとことがある。
一遍上人の特徴は、念仏を書いた札を配る「賦算」を配る所にあるの。35歳、遍歴放浪の旅が始まる。妻、娘同道だったのが、途中できりすて、また、「賦算」を受取らないものに、大きな衝撃を受け、念仏踊りなど、その生涯がダイナミックに描かれていて、圧倒される。

蓮如(1415-1498) — 彼が本願寺留守職を8代目を継ぐのは、彼、43歳の時であった。それまでの余り幸せとは思いない境涯について詳しく述べてある。私が愕いたのは85歳で亡くなるまで、5人の妻、27人の子を持ったことであった。
宗派が大きくなるにつれての、叡山旧仏教から攻撃、守護との対立(加賀一揆)大きな出来事の中で、蓮如が地盤を固めていった。彼の信心決定の過程などは触れていないが、その弟子たちの動きによって、蓮如がいかに偉大な人物であるかが、髣髴とする。名編である。

元政(1622-1668) ー 日蓮宗の僧侶、漢詩をよくする。私には全く未知の人であった。87頁。母への愛、その母79歳を連れて、身延山への参拝の旅を詳しく再現する。著者は元政の清貧ぶりを愛し、詩文と共にその様子を伝える。寺の生活規則「艸山清規」の紹介。

辨栄(1859-1923) ー山崎辨栄については、岡潔により知り、その著『無辺光』も読んでいたので、多少親しみがあった。
この篇は、岡潔の解説も引用しながら、『無辺光』の解説に多く費やされている。
 二十歳の出家、24歳のとき「一心法界三昧」を体得、激しい修行が続く。一生、行脚の生活。
  四智ー大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智について詳しく触れる。
  念仏者であるが、「法華経」の思想に繋がる。
  肉眼、天眼、法眼、慧眼、仏眼
  臨終に「如来は・・・いつもいますけれど・・・衆生は知らない…それを知らせに来たのが・・・辨栄である。」

  2024・3・31
 

  
   『名僧列伝 (三) 西行・源信・親鸞・日蓮』  

まえがきに、学徒動員の出兵前

に、吉野を訪れた時の想い出と西行への思慕を語る。

西行(1117ー1190)ー北面の武士、佐藤義清が 23歳で出家して西行となるのであるが、この篇は、その背後に、待賢門院璋子への思慕が影を引いているとみる著者の強い思い入れがある。
待賢門院璋子がどんな人物で、西行の受け止め方がどんなものあったか、本文を読んでください。
この時、著者は76歳、西行を代弁するが如き、評伝としては異色の、多彩で深い内容を持つ。

源信(942ー 1017 )恵心僧都源信、15歳以前に出家、彼の以前に空也、慶滋保イン、寂照など念仏信者がいた。
時代が末法に入るのは1052年、それに先んじて、『往生要集』表す。穏やかな人柄という印象を受けた。
彼の『横川法語』はカナで書かれた浄土教の教えとしては最初のもの。著者は多くの人に読まれるべき本としている。


親鸞(1173ー1258) 親鸞については多くのことが語られているが、彼の妻、恵信尼の手紙を上手く引用しての叙述には、親しみが持てた。最晩年、親鸞が京に帰ってから、息子善鸞(慈信)を東北へ派遣するあたりからの叙述は、特に迫力があった。人間親鸞像が浮かび上がっていた。

日蓮(1212-1282) ー冒頭に内村鑑三と矢内原伊作が日蓮を代表的日本人として取り上げていることを示す。同時代の法然、親鸞、道元、一遍が何れの名家の出であるのに対して、日蓮は漁師の子。16歳で出家。21歳、叡山へ、そこで12年。32歳開宗。48歳、『立正安国論』北条時頼に提出。前後、天災地変、蒙古来週など。他宗派を非難したこともあって、多くの迫害と政権による追放、佐渡島流しから最後、身延山へ。迫害にある度に、「法華経」の行者としての自覚を深める。
波乱の人生は描けているが、私には、日蓮の悟りの中身が、伝わってこなかった。

  2024・4・11
 


一か月かけて、全4巻を、ある意味で夢中になって読んだ。
どの一編も強いインパクトを持っていた。伝記的事実を満遍なく披露するのではなく、著者の心に響くものを、高い熱量で吐き出していると感じた。
どの名僧も苦難の経験を持ち、時代の荒波を浴びている。ここに名を留めない多くの修行者がいたことに思いを馳せる。
折を見て再読する。

 2024・4・11