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自分の頭で考える楽しみを教えてくれる。それが人生だと。 | ||
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外山滋比古『老いの整理学』扶桑社2017
目次を書いておきます。 Ⅰ 華麗なる加齢Ⅱ 感情を発散させる Ⅲ “日々にわれわれは賢くなりゆく” Ⅳ 緩急のリズムをとる V 命をのばす方法 |
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外山滋比古追悼 昨日(2020年8月6日)、外山滋比古さんが96歳の生涯を閉じられたと報じられた。 『思考の整理学』をはじめとして、沢山のエッセイは、歯切れのよい文体と豊かな着想で、私は随分楽しませていただいたし、学ぶことが多かった。 学んだことの第一は「自らの頭で考えよ」ということであった。それがどんな小さなことであっても、それによって喜びがあることも教えられた。 先生の発想の源は、異種の方との談話、それに、散歩であった。 私は先生の謦咳に接したのは唯一度で、10年程前のことである。 日本シェイクスピア協会の大会が、聖心女子大学で行われたとき、ゲストスピーカーとして演台に立たれた。司会の河合祥一郎さんが、座って話すことを勧められたが、外山先生は立ったまま、小さいメモを持って、一時間の講演を終えられた。お話の内容は忘れたが、散歩で鍛えられた先生の立ち姿が思い出される。 新聞によると。ご逝去の日は7月30日 2020・8・7 この人の論考で最近強く心に引かれるのは、「第4人称」という考え方である。『乱談のセンレンディピティ』の終わりの方に出てくるのだが、他の本にも出てきたよう思うが思い出せない。一口に言うと。例えば、舞台の上の人物たちは、1人称、2人称、3人称であるが、それを見ている人は第4人称と捉えるのである。舞台の人物とは、まったく利害関係なく、眺める人を浮き彫りにする考えである。「火事とケンカは大きいほどおもしろい」というかことから、考察が始まるのもおかしい。 2020・8・29 |
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2018年4月15日 外山滋比古『日本の英語、英文学』研究社 グローバル化で、英語の先生は、大いに株が上がっているのではないと思っていたら、必ずしもそうでではないらしく、英文科の看板を下ろす大学もあるようで、先生方には、門外漢には分からない、ご苦労がおありのようである。 本書は、英語、英文学に関する仕事を長年してこられた著者の、この世界を概観した、エッセイの数々である。 全編面白いのだが、特に面白いと思ったのは、「知識・思考・想像」という、ちょっと長めの文章である。 人工知能(AI)の台頭による脅威について、文系人間は気付いていないと、注意を引いておいて、自然知能(NI=Natural Intelligence)というものの重要性を説く。そして、外国語教育が、このNIの涵養に役立つのではないかと問題を提起しておられる。 いつも簡明な文章で、忘れていたことを思い出させてくれるので、私はこの著者のファン であるが、上記の文は、先生にしては、やや、洗練化されておらず、小学生の英語教育や日本の漢学、ヨーロッパのギリシャ、ラテンの古典教育に及ぶのであるが、ちょっと中途半端である。それだけに、今後発展しそうな論点を含んでいて、「日本の英語、英文学を文化創造の源泉」となしうるという希望を与えてくれるのである。 「英語の先生」も強い印象を持った。 |
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2014年11月25日 外山滋比古『修辞的残像』みすず書房 語と語の間、フレーズとフレーズとの間、センテンスとセンテンスの間に空間があって、読者はその空間を想像力で補って読む。というのが、著者の言いたいことの眼目だと思う。 『修辞的残像』(みすず書房1968年,初版は垂水書房1961年)は著者38歳の著作である。私は最近読んで、感銘を受けた。残像または遡像という概念を、主として言語表現を舞台に、展開しているので、「修辞的」という語が用いられているが、その応用範囲は広い射程を持つと思う。後半の、夢と昔話、作者―作品―読者の論述も示唆に富む。『思考の整理学』を始め、この人のエッセイには自ら思索を重ねた跡が伺われ、惹きつけられるが、このような基本的な態度、理論を学生たちは学んでいるのだろうか?若い人に読んでもらって、その思索をさらに先へ進めてもらいたいものだと思う。 半世紀を経て、もはや古典的名著。 |
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先生のユーモア論『ユーモアのレッスン』は Excellent Women by Barbara Pym (続きーその3)にあります。 |
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