エーリヒ・フロム (2) (1)へ | Topへ | |
1956年8月第一週、メキシコのゲルナヴァカで、メキシコ自治国立大学医学部精神分析教室主催で、「禅仏教と精神分析」の研究会が持たれた。50名の学者が集まり、発表の一部が本となっており、翻訳書も出ている。(写真参照)鈴木大拙、フロム、デマルティーノの3人の発表が収録されている。 鈴木大拙の講演内容は、park18.wakwak.com/~aliceintokyo/zen/suzukidaisetsu.html |
||
|
||
エーリヒ・フロム「精神分析と禅仏教」佐藤幸治・豊村左知訳 下記はその雑な摘要: 精神分析も禅も、人間の本性とその変革に導く実践とを中心とするものだが、相違が大きい。精神分析は科学的方法、禅は宗教的、神秘的。 精神分析家がなぜ禅仏教に関心を寄せるのか?その根源を探るのがこの論文の目的。 1.今日の精神的危機と精神分析学の役割 西洋人の不安、自然からの疎外などは、デカルト以来、思想は感情から次第に分離され、感情は非合理的な元となり、人、主体としての自己アイは、自己を構成する知性だけに分裂してしまい、知性が自然を統御するように、対象としての自己を統御すべきであるということになった。 西洋人は感情経験に対する精神分裂症的無能力の状態、 父なる神の放棄、ヒューマニズム的宗教の目的 愛、謙虚、生の尊敬など。 一方、神の概念の重荷を持たない、道教、仏教はより合理的。 2.フロイトの精神分析学的概念における価値と目標 フロイドの中に疾患と治療を越えるものがある。 彼の目標は、理性によって非合理的、無意識的な情念を支配する事。そのための無意識の科学的探究。 フロイトの視点:人は自己を変形する。意識的知識体系からはみ出る、ー自由連想、長期にわたる分析、 精神分析のその後の発展 ー患者の種類の変化 障害の治療から最良の状態(Well-being)の達成へと・ 3.最良の状態の性質 — 人間の心の進化 最良の状態(well-being)の定義 ー 人間の本性と一致していること。 人間の存在とは・・・分離した存在として、自分を意識することが、彼を耐えがたく孤独に、よるべなく無力に感じさせる。・・・・ 克服の答え ① 人間が生まれる前の存在していた統一状態への退行によって、分離性を克服し、統一を見出すことである。 ②十分に生まれることー 自分の自覚、理性、愛する能力を、自分自身の自己中心的な関与を超えて新しい調和、世界との新しい合一に到達する点まで発展させる。 しかし、父母、種族、国家、地位、金、神などに結びつけられて、十分に発展できない。 エクハルトによる人間の進化の6段階、 ①の退行的統一さまざまな態様 「本項は最良の状態のさまざまな考察」 4.意識、抑制および抑制除去の性質について 精神分析的アプローチの最も特徴的な要素は無意識的なものを意識的なものにすること。 意識的ー気付いている(awsre)こと. 無意識はフロイドにとっては非合理、悪徳、 ユングにとっては人間の知恵。 意識ー社会、言語の影響下にあって、虚構的。三つの制約: ①言語、②論理、アリスとテレス的理論と逆説理論。 愛と憎しみを同時に感じる両価性(ambivalence),アリストテレス的理論からノンセンスとして排除される。③社会的性格、タブー 無意識ー全人から人間の社会に対応する部分(意識)を引いたもの、 宇宙に根差す普遍的人間、前人を表す。 フロイド概念の拡大 「無意識を意識的にするということは、人間の普遍性という単なる観念をこの普遍性の生きた体験に転換させる。それはヒューマニズムの体験的実現である。」 5.禅仏教の原理 禅の本質は開悟,サトリenlightmentを得ることである。束縛から自由になり、全人格的実存へめざめることでる。 西洋の実存の問題を思惟によって得られると信じているが、禅は体験的なものである。 性格の変化まで求めている。(フロムに意見) 6.抑制の除去と悔悟 分離性、孤独性、人間の無力さ、それを自覚することにようる重圧は大きい。それから逃れるために人はいろいろの行動によってる。 禅は自己の存在の本質を見極め、束縛からの自由をめざしている。精神分析も同じ方向を目指す。 両者の些末的類似性 ①貪欲の克服 ②反権威主義 ③一隅へ追い込む 禅ー世界の直接的、全幅的把握。直接把握は「意志的または創造的」 無意識が意識的になるためには、意識の側に特別な努力が必要。 純真の状態を汚染するのは、煩悩kleisha,識vijnanaである。識を意識とすれば、精神分析の意識化(知性化)は禅と正反対の方向である。 意識がこのフェイルターを緩めるように訓練すれば、・・・ スピゾナの直観、 人生の創造的芸術家 大拙 宇宙的無意識 精神分析での無意識は人格の小さい部分、そこに抑制されいる状態から掘り出すことの分析的方法。これがフロイドの出発点、後にその範囲は拡大されるが、ある症状または性格を治療することに変わりなかった。 真の精神分析洞察は突如として起きる。 禅にはサトリにいたる段階がある。 知性化、権威、自我の迷妄に関する徹底した態度に於いて、また、最良の状態の目標を強調する点において、禅の思想は精神分析家の水平線をより広くするであろう。 分析的解明は禅の研究家をして、迷妄を避ける助けになるであろう。迷妄なくなることはすなわち開悟の根本条件なのである。 2024・2・9 |
初版1960年 これは1976年23版 原本は下記。翻訳には訳者のあとがきが付いている。索引なし。 初版1960年(アメリカ) イギリス版初版1974年。これは、イギリス版1993年版。索引付き。 〇この作品は、禅というものを西洋的知性の下でいかに位置づけるかということである。 人間の本来の姿well-beingを真ん中に置き、フロイドによる無意識の意識化を源流とする精神分析が、それへの道であると説き、禅もこの真の本姓への直接的アプローチで、それに到達しようとする。どちらも束縛からの自由となり、全人格的実存へ目覚めることである。その方法には差異がある。と説く。 〇精神分析の目標を拡大し過ぎている感があり、禅の体験的世界と、西洋の思惟、知性によって把握されるものとは、結局交わらない気がする。 The Art of Lovingに於ける人間理解に比べると、やや複雑で専門的。禅を何とか自己体系の中に取り入れようとするフロムの努力が伝わってくるが、私には成功しているとは思えない。 |
|
|
||