鈴木大拙
  (1870-1966)
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 『禅と精神分析
 『東京ブキウギと鈴木大拙
 『日本的霊性
 

  

 世界の思想界において、最も影響を与えた日本人は誰かと考えてみると、鈴木大拙に行き当たる。彼独自の思想と言うより、禅、東洋思想の真髄を、それを消化し、英語で発信したのである。
 エーリヒ・フロムを読んでいて、1957年、メキシコで、「禅仏教と精神分析」のワークショップが持たれ、50人ほど学者が集まったことを知った。鈴木大拙はそこで講演をしている。そこで何を伝えようとしたのか?その内容は次の本に収録されている。
  大拙この時、86才、獅子吼ともいえる堂々たる話ぶり。

   『禅と精神分析』東京創元社、初版1960年、23版1971年)
   禅仏教に関する講演 鈴木大拙 古堀宗柏訳

1 東と西
  芭蕉とテニスン、西洋の心理と東洋の心理 - 多くのキーワードを列挙して壮観、
  老子、荘子の機械化に対する態度 効率より命を考える。
  西洋の矛盾13項目挙げる。

2 禅仏教による無意識
   禅のアプローチは科学とは異なる。前科学的antescientific.
   科学では主客分離で、「ついて」の寄せ集め。
   生きたものを生きたものとして扱う。芭蕉の例
   妙心寺の龍、
   無意識とは感じ取られるもの。 無意識の感じは、根底的であって、神が天地を創造せられる以前の暗黒を指向する。これに触れる時、無駄には生きておらぬという強い確信に、安んずることが出来る。
   誰も「生きることの芸術家」であることが許されている。
   無心になること。宇宙的無意識 「不識」、
   意識の側に於いて特殊な修練が必要。「平常心」 盤珪和尚の「不生」
   知性の発達によって「無垢の喪失」「知恵の木の実を食った」
  仏教では煩悩、分別識という。
  沢庵禅師と柳生但馬守の話。七人の侍の話。

3 禅仏教における自己セルフの概念
  科学者の追求とは逆。自己は科学では分からない。
 禅は見るものと見られるものと一体になる。自己は自己の内側からのみ自己自身を知るようにできている。
  ルウジモンの説の紹介、
  「人」を実存的に経験として自分のものにしなければ行為をかたる資格はない。
  黄檗希運禅師の話。趙洲従諗の話。前庭柏樹。
  自己の存在の深淵に沈潜するとき、・・・・・・・
  創造性、独自性が生まれる。
  臨済禅師、 赤肉段上に一無位の真人あり。  形而上的自己。
  臨済の自己の話、臨済になり切っての10節に及ぶ話が続く。

4.公案 (この項だけで28頁、堂々たる論陣)
   禅の実践の経験のない人に、懇切な説明だが、分る人にはわかる、分からない人には分からない。一見ノンセンスに見える問答に、禅匠は何を伝えようとしたのか? 摘要略

5 五位
   このワークショップでは、さまざまな質問が出ている。11項目でている。

   それらを前提に最後の講演である。
   禅修行における階梯
    正中偏  叡智的
    偏中正  叡智的
    正中来  転位
    兼中至  意志的
    兼中到  意志的

  正 ー正しい、真っ直ぐ、まさしく
  偏 ー部分の、偏った、差別の、均衡の取れていない
  兼 —二つながら  現実の真っ只中、命 無分別的、
沢山の事例を挙げている。

  禅者の基本的説くー布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧

  究極の姿、四誓願、さたに
  
  諸悪莫作 ー悪いことはするな
  衆善奉行 ー善いことをせよ
  自淨其意 ―自己の心を浄くせよ
  是諸仏教 ーこれが仏の教えである。

  で終わる。

   2024・1・31
和尚

英文原本は未入手。

本書には、大拙の講演録以外に、エーリヒ・フロムと
R.デマルルチーノのものが収録されている。

あとがき(佐藤幸治)に当時の様子が覗えて興味深い。



大拙講演に対する、フロムの反応は、別のフロムのページに納める予定。

 山田奨治『東京ブキウギと鈴木大拙』人文書院 2015


  東京ブギウギ リズムウキウキ
  心ズキズキ ワクワク
  海をわたり響くは 東京ブギウギ
  ブギの踊りは 世界の踊り

      ・・・・・
  笠置シズコの歌で一世を風靡したこの歌は、作曲が服部良一、作詩は鈴木勝(アラン)。
 この鈴木勝(アラン)は、禅仏教の巨匠、鈴木大拙と夫人ビアトリスの間の息子で、大拙に息子がいたなんて知らなかった私は、愕いて、本書を手に取ることになった。

 勝(アラン)は大拙夫妻の実子として届けられたが、スコットランド人と日本女性の子で、長身でハンサムな男となる。奔放な性格で、不良少年であったが、日米学生会議の一員となったり、上記「東京ブギウギ」の作詞など、有能な人物でもある。女性関係、酒癖の悪さで問題を起こすことも多かった。

 本書は、そんな息子勝(アラン)と大拙との関係を、丹念に追った記録である。
 意外な人物も多く登場する。アランに2度目の妻は、紅白歌合戦にも何度も登場する池真理子、3番目の妻は式場隆三郎の娘。
 大拙の思想的な事柄には殆ど触れていないが、1950年代のアメリカのビート時代に、一種の禅ブームが起き、その中で、大拙の知名度が大きく上がる状況を描いている記述は、思想史の一面として面白かった。

 大拙・アランの親子関係は本書の主題であるが、見事に描かれていると思った。

 全くのノンフィクションで、その取材態度は頭が下がり、また、本書の魅力でもある。家系図、大拙・アランの年譜、膨大な参考文献が付いている。

蛇足:私は学生時代、大学で大拙の講演を聞いている。1958年か59年の事、大拙87,8才。内容は覚えていないが、若き岡村美穂子を同伴していたのは覚えている。
  岡村美穂子は大拙がコロンビヤ大学で講義していた頃の学生で、未だ10代、1953年頃より大拙(82才)のもとに来るようになり、助手的な働きをするようになった。65歳も年齢差があったが、最後まで寄り添った。
 あるインタビュでー美穂子さんが「素敵な男性でした」と私と別れる時の言葉に私は思わず「そうでしょうね」と胸の中で言った。
 「素敵な先生でした」ではなく「素敵な男性でした」と言われたことに納得した。
((飯沼信子) p174

  岡村美穂子(1935ー2023・6・21)鈴木大拙館名誉館長はつい先ごろ逝去された。

   2023・10・6

これも蛇足:
若き大拙がビアトリスにペンダント(ティファニーに注文して)を送った。そこにはサンスクリット語で「汝はそれなり」と刻まれていたという。同書p34: それなりはtathatA(真如)のことではにか? tvam tsthatA
このペンダントが残っていたら確かめたい気がする。

  2023・10・10
   
 

NHK朝ドラで「東京ブギウギ」をやっているが、直接、本書とは関係なさそう。
 
 鈴木大拙『日本的霊性』岩波文庫 

  霊性とは、感性や知性が捉える世界のその奥にある根源的なものへの自覚をいう。
 日本人にそのようなものへの真の自覚が出てきたのは、鎌倉時代の禅と法然・親鸞の開いた浄土宗系の人々である。
  万葉時代、平安の文藝、宗教はまだ日本的霊性が開花していない。
  このように大胆に、鈴木大拙はいう。

 そして、禅については別に譲り、もっぱら、法然ー親鸞とそれに連なる人々を顕彰するのに殆どの紙幅を費やしている。

 日本的霊性を土地に育つ植物の例を取っての説明している。空理空論ではなく、大地から生まれたような思想は、親鸞が越後への流刑され、東国での生活の中から、法然の教えが、実践を通じで鍛え上げられ出来たものである。平安の「物のあわれ」といったもの、感性的、情性的なものが更に霊性的に深化し、「念仏のまこと」となった。

 私は、本書を2007年7月一度読んでいる。今回は、『歎異抄』につられて、市井の念仏信者、妙好人、浅原才市のことを知りたくて、本書を手に取った。50頁近く頁を割いてあった。最初から読み返してみると、大拙が「日本的霊性」として訴えたいものがよくわかった。
それは厳しく、襟を正すものであった。

  巻末の篠田英雄の20頁程の「解説」は見事である。大拙が大乗仏教の根本原理とする「即非の理論」から入り、『金剛経』ー無分別知ー霊性と分かり易く要約してあるので、理解に大いに役立った。
  大拙の略歴までついていて、良い「鈴木大拙入門」となっている。

 「解説」にもあるように、日本の敗戦が迫っている頃、日本が世界に残せるものは何かを追及し、それを日本的霊性としてまとめたものと思われる。
 西田幾多郎の日記の昭和20年2月3日の項に、大拙より「日本的霊性」とあるので、その頃完成していた。情熱の伝わって来る文章である。
 
  2022・4・4
 
 
 元版:大東出版社1924年
 岩波文庫初版は1972年

 角川ソフィア文庫にも入っている。