小林秀雄著 本居宣長 ②21章~ 40章
                   の読書摘要
 ①1章~20章  ③41章から
 
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   二十一  眞淵から破門状を受け取った宣長は、申し開きの文を提出する。
その全文掲載。再入門の誓詞となった。

明和4年(1767)、頓阿の歌集への注釈書『草庵集玉箒』発刊、眞淵から詰問が届く。眞淵の門では、源氏より後の歌書は価値がないから扱うのを禁じていると。

宣長は頓阿を大歌人としているわけではないが、歌を味わうための「遠めがね」を与えようてしたのである。

万葉を推す眞淵と新古今を推す宣長の対立は、歌そのものへの態度の違いがあって、この章は実に難解であった。
 頓阿(1289-1372) 南北朝の歌僧。二条流歌道中興の家人と言われ、家集に「草庵集」

  
 
   二十二  詠歌と歌学を分けて考える。
歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて、歌は、歌学なき人に、上手がおほきもの也。」「うひ山ふみ」

宣長はどうであったか?
歌学者であったが詠歌は歌学の骨格をなすものだと。
「万の事しげ」き故に後世風となる

古歌を学ぼうと努力しているうちに、古歌に「心ガ化セラレ」という事が起きる。

和歌ハ言辞ノ道也。心ニオモフ事ヲ、ホドヨクイヒツヅクル道也

詠歌ノ第一義ハ、心ヲシヅメテ、妄念ヲヤムルニアリ
そのやり方を説く。

この章も難解
 

  
 
   二十三  [」「」とはなにかという話。
物のあわれに、たえぬところより、ほころび出て、をのづから文(アヤ)ある辞が、歌の根本にして、真の歌也」

「ただの詞」より「歌」が先

中国で喪の時の哭する礼が定まっているのも、聖人の知恵の深さを感じる。
礼は「シカタ」「カタチ」
巧ミト云ホドノ事ニハアラネド、又自然ノミニハアラズ

「古言を得る」という純粋な動機から発想

言葉の語源学的な語釈を信用しない。

古人の用いたる所を、よく考えて、云々(シカジカ)の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし

   2023・1・14
 

  
 
   二十四  古学の目指すところは「古言を得ること」あたかも「物の味をみづからなめて、知れるがごと」き親しい関係を、古言との間に取り結ぶことであった。

「詞の玉緒」ー「てにをは」の問題

歌ばかりを見て、いにしえの情をしるは末也、物語を見て、さていにしえの歌をまなぶは、其古のいできたるよしをよくしる故に、本が明らかになるなり。」

言語表現の世界ー 「見るにもあかず、聞くにもあまる」ところを、誰も「心んこめがたい」  それを表現するのが、人間性の証であり、根本的な人生経験。

よろづの事を、心にあぢはへて、そのよろづの事の心を、わが心にわきまえしる、是事の心をしる也、物の心をしる也。(中略)わきまえしりて、其しなにしたがひて、感ずる所が、物のあわれ也」(柴文要領)

宣長はこの有るがままの世界を深く信じた。

  2923・1・16
 本居宣長の著作を直接読めば、小林秀雄を介して読むよりずっと分かり易いのではと思う。

  
 
   二十五 大和魂について

 眞淵は「やまと魂」という言葉を、万葉歌人等によって読まれた、「丈夫(ますらを)の、をヽしくつよき、高く直き、こヽろ」という意味に解した。

大和魂は源氏「乙女の巻」が初見。才(ザエ)に対する言葉。才は学問。
「今昔物語」の用例も同じ。赤染衛門の例も同じ。
「から」に対する「やまと」で使われていない。

宣長 ー「うひ山ぶみ」の中で「やまとだまひを堅固(カタ)くすべきこと」を繰り返し強調してゐるが、その「やまとだましひ」とは、「神代上代の、もろもろの事跡のうへに備わりた」る、「皇国の道」「人の道」を體した心といふ意味である。

宣長の正面切った古道に関する説としては「直毘霊ナオビノミタマ」

寛政2年(1793) 宣長は自画自賛
 しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 
      朝日ににほふ 山ざくら花


上田秋成 「やまと心」を自分の像の上に書くのは尊大。

やまと心は、漢学儒学、漢意儒意に対抗するものではなく、それらに妨げられて、本来の心がさだまらないから、
「外(ヨソ)にしたるいひう」で「わろきいひざま」ではあるが、仕方なく、そういふ言ひ方をするのである。

歌の心とその詞、歌の意とその姿、の問題。
普通は「姿似せ易く、意は似せ難い」
宣長は「姿似せ難く、意は似せ易し」

後半、小林秀雄に文章よくわからない。






   2023・1.29
 
寛政2年 自画自賛

この本の巻頭に掲載されている。

  
 
   二十六 春満、眞淵、宣長、篤胤を国学の四大人と呼ぶのは、篤胤の門下に始まる。

篤胤の宣長入門について
宣長の死、享和元年(1801)9月入門手続き間に合わず、没後入門。
村岡典嗣説、享和3年 入門。

篤胤の古道は宣長の「直毘霊」の祖述から始まったが、やげて「霊の真柱」で、独自の神道を説くに至った。

宣長も眞淵も「文事」の限りを尽くした人で、そこで、「やまと魂」を捕らえたが、篤胤には「文事」という経験が脱落している。

宣長は契沖を「やまとだましひなる人」と呼んでいるが、これは「丈夫の心なる人」という意味ではない。

在原業平の歌を引く

  つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど
    きのふけふとは 思はざりしを

契沖法師はよの人に誠を教える。
そして、北条時頼の悟りかましい遺偈を評価しない。

この章では「やまとだまし」がより深化する。

   2023・2・9
荷田春満(あずままろ) 1669~1736
賀茂眞淵 1697~1769
本居宣長 1730~1891
平田篤胤 1776~1843


  
 
   二十七  貫之は、業平を高く評価。
業平は「三大実録」に善く和歌を作るが、才学なしと。

和歌が、才学の埒外に置かれるようになっている。
「やまと歌」の本質や価値を「古今」の序に描く必要があった

母国語の問題

生きていく文化自身の深部には、外部から強いられる、不都合な環境にも、鋭敏に反応して、これに処する道を開いて行く自発性が備わっている。

「言霊のさきはふ国」
和歌が日常生活に溶け込んでいった。
「歌合わせ」  社交の形式

「在原業平はその心余りて、言葉足らず、しぼめる花のの色なくて、匂ひ残れるがごとし」(仮名序)
「心余りて」に注目。物語へ発展。伊勢、源氏

「土佐日記」「古今集仮名序」 和文の確立

国字(かな)が女性の間に発生し、女性に常用されてゐたのだから、国文が女性の手で完成した当然な事であった。

やまと歌ひ種となる心 — 「やまと心」「やまと魂」

  2023・2・18
 

  
 
   二十八  これより、古事記の話。

「古事記」「日本書紀」という題号について。

「日本書紀」は中国に諂う題号。

古事記序  偽作説(眞淵)
  元明天皇への上奏文と見ると文体が変っていてもおかしくない。

口承の重要性
「此記は、もはら古語を伝ふるを旨とせられたる書なれば、中昔(ナカムカシ)の物語文などの如く、皇国の語のまゝに、一もじもたがへず、仮字書(カナガキ)にこそ、世らるべき」

漢字の音訓併用。基本は漢字の和訓。

歌ー一字一音の仮字。「詠(ナガ)もの:
祝辞宣命ー「唱ふるもの」 表現の重要性

稗田阿礼は天鈿女命(アメノウズメノミコト)の後裔
 阿礼 女性説  篤胤、柳田国男
   語部猿女君の分派、 神懸かりの巫女

言霊の力が一番強く発揮されるのが祭儀
  祝詞: 神から下される詞
  宣命:神に申し上げる詞

漢文風文体に埋もれている、助辞(テニオハ)掛かり結びの発掘

  2023・2・24
 

  
 
   二十九  津田左右吉「神代史の新しい研究」(1913)ー六世紀前後の大和朝廷が皇室の日本統治を正当化しよううが為の、基本構想に従って、書かれたもので、勿論、日本民族の歴史といふようなものではない。

稗田阿礼の暗唱によって成り立ったとする宣長の考えを僻見とする。

宣長ー彼にとって、「古事記」は、吟味すべき単なる史料でもなかったし、何かに導き、何かを証する文献でもなかった。そっくりそのまま、古人の語りかけてくるものが、直に感じられる、その古人の「言語(モノイヒ)のさま」であった。

この後、文字を持たなかった日本人の、国語の表記法について述べられる。

訓読というものが、漢字による国語表現の基礎になった。

漢字漢文を、訓読によって受け止め、遂にこれを自国語のうちに消化して了ふといふ、鋭敏で、執拗な知恵は、漢語にかんして、日本人だけが働かしたものだった。

p345~351、漢字と日本語の関係を述べて面白い。

    2023・3・5
 
   三十  天武天皇の修史の動機 ー国家的見地に立ち、正しい歴史を明らかにしようとする点、『日本書紀』と同じだが、

書かれたものと、言い伝えとは異なる。
書かれたものは、漢文による汚染?がある。

自国語の伝統的な言葉
国史を、国文によって記述しようというやうな企ては、当時として全く異例な、大胆な事。

国民の大多数の生活のうちに生きている歴史と言えば、口承による「日継」とか「世継」とか呼ばれているものの他にはない事を、阿礼は、最も切実に感じていた人と考えてよさそうだ。

漢文の訓読は、今日でも不安定。

文の「調」とか、「勢」とか「さま」とかと呼ばれる全体的なものヽ直知があり、そこから部分的ねものへの働きが現れる。

笹月清美『本居宣長の研究』

実例 ー 二十七之巻倭建命の項

「なべての地を阿礼が語と定めて」つまり、「漢のふりの厠マジらぬ、清らかなる古語」あるとみて、宣長は「言霊」の働きがあると見た。

凡庸な歴史家たちは、外から与えられた証言やら証拠やらの権威から、なかなか自由になれないのだ。

「古事記伝」完成、寛政十三年「九月十三夜鈴屋にてかきをへたるよろこびの兼題、披書視古  
  古事の ふみおらよめば いにしへの 
         てぶりことヽひ 聞見るごとし
  」

古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみる事は、歴史家が自力でやらねばならない事だ。
    2023・3・20
 この章は、本居宣長の態度と、小林秀雄の文芸評論の態度が、重なり合って、興味深い。

  
 
   三十一  「古事記」の神代之巻は殆どの歴史家は無視して、神武から始める中、新井白石は正面から取り組んだ。

記述が「太古朴陋の俗」であるが、「詞」に惑われずに、「意」を読み取るのである。
あくまでも「詞」を重視する宣長とは異なる。

「神カミとは人なり」で、イザナギノミコト、イザナミノミコトも男女の武将とされる。

二人に対する、津田左右吉の批判。共に。歴史的事実をそこに認めようとしている。
「記紀の上代の物語は歴史でなくして寧ろ詩である。そうして詩は歴史より却ってよく国民の内的生活を語るものである。」

   2023・3・21
 新井白石 1657-1725
  『古史通』

  
 
   三十二 宣長学が徂徠学の影響下にあったことは、村岡典嗣「本居宣長」以来、定説となった。

徂徠「問答書」ー「学問は歴史に極まり候事ニ候」にはじまり。「惣て学問の道は文章の外無孵レ之候」で終わる。

詩についての徂徠の考えは急所

「論語。陽貨篇」 「子曰ハク、小子何ゾ夫の詩ヲ学ブコト莫キカ、詩ハ以テ興スベク、以テ観ルベク、以テ群ツドヲベク、以テ怨ムベシ

論語の詩に関する言葉にての徂徠の意見
「論語徴」に「詩乃用」は「興之功」「観之功」に尽きると。

「詩は言語の道を尽くす」

徂徠の宋儒等への態度。 「辨道」
宋儒のように理に走れば、老子に行き着く。そして先王の道からそれる。

先王の道の知り難く言ひ難い実が、学者の思惟の努力のうちに、古語に徹すれば、思ひ描く事が出来る以上、学問は歴史に極まるのではないか。

「述ベテ作ラズ、信ジテ古ヲ好ム」
朱子がこれを謙遜の辞と読むのに反発。  

  2023・3・25
 荻生徂徠:寛文6年2月16日(1666年 3月21日)
 - 享保13年1月19日(1728年 
2月28日)
宣長1730-1801

徂徠の学問を紹介する小林秀雄の学力は凄い。

老子と孔子の思想の対比などこの章奥が深い。

  
 
   三十三  論語「黙シテ之ヲ識リ、学ンデ厭ハズ、人ニオシエテ倦マズ、何ンゾ我ニ有ランヤ」(述而第七・2)
朱注に対抗した徂徠の考えを紹介。

「黙シテ之ヲ識ル」の深い意味。
詩書礼楽という、古人の残した「物」の歴史的個性を体験する必要がある。

「何ンゾ我ニ有ランヤ」 — 自分の力で、どうか右しようとするのではない。

物をもって学問する。 言語以前世界に入る。

宣長は徂徠の学問の道を継承している。

「格物致知」の解釈。「格」の古訓は「来る」  物の親身な経験を重ねているうちに、無理なく知見が開けて来る。
格物を窮理の意味と解するのは誤り。

理を廃する「理」の中には、宣長の場合、「漢意(カラゴコロ)」を含む。 「玉かつま」まがい引用。

尚毘霊(ナオヒノミタマ)  市川匡(タダス?)の反論だど。

「漢意(カラゴコロ)」の影響への反発が強い。

  2023・4・3
 この章も徂徠の学問紹介:読書人への警鐘を含む。

  
 
   三十四 徂徠が、「六経」といふ、「物」の「格キタる」のを待ったやうに、宣長は「古事記」という「物」を「むかへ」に行った。

これを、理論より事実を尊重するという理解では足りない。

「物」とは、空理に汚れる前の姿。物には「おのおのその性質情状アルカタチ」がある。それをそのまま受け取る。

古事記は言葉で作られた「物」

「神代の神は、今こそ目に見え給はね、その代には目にみえたる物なり」

「すべての意も事も、言を以って伝るものなれば、書フミはその記せる言辞コトバぞ主ムネにぞ有ける」

言霊  人の心を動かす力

   2023・4・7
 

  
 
  三十五  宣命 「勅命オホミコトをうけ給はりて、宣聞ノリキカする事をさしていへる目にこそあれ、その文をさしていふ名」ではなかった。

「宣命譜」という古書があったという。その「読揚ヨミアゲざま、音声の巨細長短昂低曲節などをしるしたる物」と思われる。

発声が問題。 「天岩戸の例」

子供は、意味も知らず発声から入る。

馬鹿と阿呆の例。同じ意味だと受取るのは理解が浅い。

「すべて心にふかく感ずる事は、人にいひきかせでは止みがたき物也、・・・・、人の聞かする所、もっとも歌の本義にして、・・・ 心にあまる事を人にいひきかせてみも、其の人あはれとおもはざれば、何のかいなし、・・・・されば歌は人のきヽて感アハレとおもふ事緊要也、この故に神代の歌とても、おもふ心のありのまヽにはよまず、必ことばを文アヤなして、
声おかしくあわれにうたえる物也」(石上私淑言、巻一)

「いひきかせたりとても、人にも我にも何の益ヤクもあらね共、いはではやみがたきは自然の事」という、せういふ言語に本来内在してゐる純粋な表現力が、私達に、しっかりとした共同生活を可能にしてゐる、言はば、発條となってゐるという考へが、彼の言語観の本質を成してゐた。

「葦原の 水穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 然れども 言挙げぞわがする 言幸く 真幸く坐せと 恙なく 副サキイマさば 荒磯浪 ありても見むと 百里浪 千重浪しきに 言挙すわれ」(萬葉集巻十三)

宣長の発想は、この人麻呂の歌と同じ。

「人に聞する所、 もつとも歌の本義」

  2023・4・8
 宣長の言語論だが奥が深い。


「ことあげ、言挙げ」

〇 声高く言い立てること(「岩波古語辞典」)

〇 自分の意志などをことばに出して言いたてること。(「例解古語辞典」

  
 
   三十六  「人に聞する所、もつとも歌の本義にして」

これは、歌の発生まで遡る。
だから「和歌に師匠なし」

「物のあはれにたへぬところよりほころび出て、をのづから文アヤある辞」(石上私淑言 巻一)

「歌学のかたよろしき人は、大抵いづれも、歌よむかたつたなくて」
これは教養が邪魔しているのである。

歌の本源に帰って、人に聞かせることが重要。

 2023・4・17
 

  
 
   三十七  「事しあれば、うれしかなしと時々に、うごくこヽろぞ、人のまごころ」(「玉鉾百首」)

「道」=「上つ代の形」
「吾邦ノ太道」=「自然の神道アリコレ也」

「異国ヨリ來ル所ノ、儒仏老ナドニ付会スルハ、後世ノ人ノシワザニテ、モトヨリイハレナキ事也」

「すべての人は、雅ミヤビの趣をしらでは有べからず。これをしらざるは、物のあわれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古のみやびたる情をしり、すべて古の雅たる世の有さまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也」(うひ山ぶみ)

「わが心ながら、わが心にもまかせぬ物」 彼の「物の哀」論の土台をなしている。

「歌ハ情ヨリイズルモノナレバ、欲とトハ別也」
我執を離れること

無私の心 「ながむる」

   2023・4・22
 

  
 
   三十八 「雅言ミヤビゴト」 平安時代
「古語イニシヘゴト」 奈良時代以前

「格サダマリ「ふり」」を異にする。

源氏物語に関し、
「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし、歌道と此物語とは、全くそのおもむき同じ事也」

「古事記」「神代の古事」

神の定義 「古事記伝 三之巻」
p457~459
「・・・其余何にまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたる徳コトのありて、可畏カシコき物を迦微カミと云なり、・・・・」

神名の詮索

 

  
 
   三十九  「迦微カミと申す名の義ココロは未だ思得ず」
言葉の表現力を信頼し、これを全身を託して、疑はない、その喜びである。

「人は皆神なりし故に、神代とは云」あるゆるものが神の姿を現じている。

「神」という語の、中国と日本との使い方が異なる。
「迦微」は体言。その徳まで含まない。

その神々の姿との出会ひは、その印象なり感触なりを、意識化して、たしかめるといふ事は、誰にとっても、八百万の神々に命名するといふ事に他ならなかったであろう。

「古事記伝」では神名について「誦声ヨムコエの上り下り」まで吟味。

「古事記」に「神代一之巻」では神の名しか伝えていない。

  以下難解、再読を要す

   2023・5・11
 

  
 6月と7月2度、日赤に入院することもあり、その後、唯識やジョセフ・キャンベルに収集したので、宣長やモーム、国語から離れていた。9月も下旬になって、やっと、古い路線を少しづつ再開する気分になって来た。 2023・9・23
   四十  「凡て神代の伝説は、みな事実にて、然有る理は、さらに人の智のよく知るべきかぎりに非ずば、然るさかしら心を以って思ふべきに非ず」

宣長の皇国の古事記崇拝は、狂信に近い。
これに対して、上田秋成が猛反発。

村岡氏の分析
宣長の態度は、垂加神道と太宰学との影響。加えて、浄土宗的信仰の習性。

「玉勝間」ーおのれとり分け人につたふべきふしなき事