小林秀雄著 本居宣長   ①1章~20章
                   の読書摘要
 
 ②21章~
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     昭和52年 新潮社
雑誌「新潮」連載 昭和46年6月号~51年12月号
  昭和52年9月7日終章擱筆
    旧漢字、旧仮名遣いで書かれている。
 江戸の学びと思想家たち
   
  本居宣長の著作を殆ど読まず、彼が論じている対象の「源氏」や「古事記」についても、読んでいない者が、その論評を読むのは、かなり無理があるのだが、小林秀雄が多く引用を重ねて書き進めてくれているので、読むことが出来る。

 「新潮」に11年余の歳月をかけて連載した大作なので、メモを取りながら、ゆっくり読んで行きます。

  本編:50章
  補記:ⅰ 3章、 ⅱ  4章

   
    下記は、目次代わり。後の検索用の備忘メモ:     この本は引っ越しの際、一度処分し、再度購入したもの。
年譜
本居宣長記念館 (norinagakinenkan.com)





新潮文庫版(初平成4年)上下2巻本は、新仮名遣い、新字体に改めあるほか、振り仮名も沢山ついており、詳細な語注も付いている..。
巻末に小林秀雄と江藤淳の対談(1977年)を掲載。
この対談はこの本の素晴らしいガイダンスなっている。

 漢ごころについて
 肉声に宿る言霊
 宣長とベルグソンの本質的類似

が特に面白かった。
この時、小林57歳、江藤44歳。

  
   一 折口信夫との会話、「本居さんはね、やはり源氏ですよ。
松坂の墓参り
遺言書 ー 墓所、葬儀等への細やかな指示。
これを彼最後の述作とみる。
晩年の桜の歌300首、「まくらの山」の後記引用
此花に なぞや心の まどふらん われは桜の おやならなくに                    
             2022・9・29

  
   二  遺言書を書いた翌年死去(享和12年1800年)71歳
養嗣子大平の日記、墓所下見の話。
山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め
宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない。
最初の著述「葦分小舟」          10・01

  
   三  宣長の家系、家業、について
23歳、京に出て医学学び、28歳開業、終生この仕事を大切にした。伊藤仁斎との比較。
病家の数、調剤、謝礼の記録「済世禄」晩年まで付ける。
                          10・02

  
   四  「家のむかし物語」(69歳)引用「、大御国のこころをつきひろめ、天の下の人にも、しられるるは、つたなう賤しき身のほどにとりては、いさをたちぬとおぼえて、・・・
加賀藩から仕官の話、老齢をもって断る。
大平の「恩籟録」は宣長の学問の由来、著述、門人を図解。
玉かつま、二の巻』引用。学びの有りよう、思想の自発性がわかる。
堀景山の塾で医学の準備に「よのつねの儒学」を学ぶ。
彼の自己が、自分は、直知しているので、その魅力を何とか解きほぐしたい。歴史家のアプローチとは違う。(小林秀雄の態度)、                10・5

  
   五  学問に対する基本的態度。遊学時代の書状から探る。
仏説も儒墨老荘諸子百家の言も、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム天地萬物、皆、和ガ賞楽ノ具ナルノミ
儒教に対する態度、この章でよくわかる。
「孔子の出来なかった事を為そうとは、いかにもむずかしい事ではないか」
論語「先進第十一」の曽晳の浴沂詠帰への共鳴
和歌ヲ楽シミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル
孔子の「学習之楽」 学問への内発的動機。
                           10・6

  
   六  契沖によって「大明眼」した。(「あしわけおぶね」
それは古典を後世の註に惑わされず、直に「やすらかに」味わうこと。
詠歌は学問の必須条件。「歌をよまでは、古の世のくわしき意、風雅のおもむきは、しりがたし」({うい山ふみ」)
学問の方法「詮ずるところ、学問は、ただ年月長く、倦まず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要
古文古書を「我物」にする。
契沖から深い影響。              10・8

  
 
   七  上田秋成が、契沖が晩年隠棲した円珠庵へ行き、一遺文を写してかえった。契沖の話続く。
契沖の兄は「如水」。契沖の略歴。7歳で寺にやられ、13歳で頭をそり、24歳で高野山で阿闍梨の位を受ける。
心友、下河辺長流との交友。「我をしる 人は君のみ 君を知る 人もあまたは あらじとぞ思ふ」長流の学問は契沖が吸収した。
万葉代匠記」の起稿は天和3年(44歳)のころ。
水戸光圀より白銀千両絹34匹贈られる。
宣長が契沖の書作と出会ったのは23歳。
元禄14年(64歳)で亡くなる。遺言状6ケ状、全文掲載。          10・10

契沖寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日1701年3月4日))

水戸光圀、寛永5年6月10日(1628年7月11日)ー元禄13年12月6日(1701年1月14日)

  
 
   八  戦国時代概観、「下剋上」 精神界も自由へ。
【ここで述べられている歴史観はインパクトがある。以下、具体例が続く】

中江藤樹 貧農、独学。近江聖人。
藤樹先生年譜」より、長い引用。
11歳で初めて「大学」に触れる。

林羅山:寛永6年(1628)、幕府から排仏家の彼に法印の位を受け剃髪する。藤樹はこれを非難。

学問は「位」など関係なく「此身」から昇華してくるもの。
この章は江戸初期の精神風土を述べている。
             10・12
中江藤樹: 慶長13年3月7日(1608年4月21日) - 慶安元年8月25日(1648年10月11日)

林羅山: 天正11年(1583年) - 明暦3年1月23日(1657年3月7日7年3月7日))

  
 
   九  宣長を語ろうとして、契沖、さらに遡って藤樹に触れたのは慶長の頃に始まった新学問の最初に触れたかったから。
藤樹:「天下大一等人間第一義の意味を咬出」すこと。本質的なものを、伝統的な訓詁に頼らず自ら「独」でひねり出すことで、「聖凡一体、生死息マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ」
烈しい内省的傾向が新学問の夜明けに現れた。
熊沢蕃山も跡を次ぐ。
この傾向は、後に続く
学問は古書を介してなされた。
仁斎の「語孟」、契沖の「万葉」、徂徠は「六経」、眞淵の「万葉」、宣長は「古事記」
藤樹の論語「郷党」篇の重視。「感得触発」

仁斎:16歳、朱子の四書を読み、30歳過ぎるころ、宋儒を超えたが、安んぜず、語録註脚を廃し、論語孟子に直に当たるようになった。直接、孔子、孟子に向かい合った。

【この章は、小林秀雄の江戸期の思想への深い沈潜が感じられ、圧倒される。
宣長を捕らえるために、大きな網を張っていることが、分る。】
               10・13
 熊沢蕃山:元和(1619)-元禄4年(1692)

  
 
   十  仁斎の「論語」は「最上至極宇宙第一書」について。
彼の心眼に写った孔子の姿。私はそう見たのだとい確信。
光琳と乾山は仁斎の妻と従兄弟
仁斎の学問を承けた一番弟子は荻生徂徠。共に独学者。藤樹以来の「独」の「学派」
仁斎の「古義学」は徂徠の「古文辞学」
歴史について「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」「古今ヲ貫透ス」
徂徠の読書、「答問書、下」からの引用。「見るともなく、読ともなく、うつらうつら見居候内に、あそこここに疑共出来いたし、・・・・」
徂徠のいう「経験」は我々のいう「経験的事実」とは異なるようだ。(このあたり、理解が難しい
           
        10・16
 荻生徂徠:寛文6年(1663)ー享保13年(1728)

  
 
   十一  仁斎、徂徠の歴史意識は、歴史の本質的な性質が、対象化されて定義される事を拒絶しているところにある。
過去の学問的遺産の継承、蘇生。
過去の人間からの呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分がこたえねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。
自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっている。
古書と自己との、何物も介在しない直接な関係を吟味することに他ならない、


宣長 宝暦2年(23歳)学問のために京へ上るまでに、既に多くのことを学んでいた。仏書、神書、歌書など
雑学を「好ミ信ジ楽シム」

宣長と徂徠との関係。
         10・16
 

  
 
   十二  宣長が賀茂真淵の門人となったのは、宝暦14年(宣長35歳、眞淵68歳)
馬淵は縣居(あがたい)と号していた。
宣長の「物のあわれ」論はそれ以前に出来ていた。
(「あしわけ小舟」)
歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアワレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ仔細ナシ
問、和歌ハ吾邦ノ大道也ト云事イカガ
 答、非ナリ、大道ト云ハ、・・・・・自然ノ神道アリ、コレ也、・・・
」 (「あしわけ小舟」)
儒、老、仏、神道それぞれ大道である、和歌の大道にも触れる。
         10・21
賀茂真淵元禄10年(1697)ー明和6年(1769) 
「あしわけ小舟」 宝暦7年(28歳)?

  
 
   十三
 「もののあわれ」の用例は「土佐日記」に遡る。
当時、この言葉は歌文に親しむ人々には極普通の言葉であった。
・・・神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アワレニ一言ニ帰ス、サレバ此道の極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ニナシ、伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意をタヅヌレバ、アワレノ一言ニテ、コレヲ蔽ウベシ、・・・・」(「安波礼弁」29歳)
「源氏物語」の味読による開眼。「源氏が人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかいたらん」が如くに見えたといふ。

「柴文要領」巻下、「玉のをぐし」

「蛍の巻」式部が物語�の本意を遇したもの。
これはめずらしと思ひ、是はおそろしと思ひ、かなしと思ひ、おかしと思ひうれしと思ふ事、心に計思ふては、やみがたき物にて、必人々に語りて、きかまほしき物也」「その心のうごくが、すなわち、物の哀をしるといふ物なり。されば此物語。物の哀をしるより外になし

       10・23
 この章、「もののあわれれ」論のスタートで重要。

  
 
   十四  「物語」論の続き。源氏―式部ー宣長―小林の意見が錯綜していた理解しずらい。

「物のあわれ」の分析に入る。

「物」は「物言ふ」「物語る」「物もうで」「物見」の物で「ひろく言ふときに、添ることばなり」従って、「物のあわれ」も「あわれ」も同じ。
「あわれ」は「見る物、きく事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずることをいふ也」(「石上私淑言」巻一)
「あわれ」が「哀」という字が使われる理由。
うれしきこと、おもしろき事などには、感ずること深からず、ただかなしき事、うきこと、恋しきことなど、すべて心に思ふにかなはぬすぢには、感ずること、こよなく深きわざなるが故」(「玉のをぐし」)

此物語は、紫式部がしる所の物のあわれよりいできて、(中略)ひとに物の哀をしらしむるより外の義なく、よむ人も、物のあわれをしるより外の意なかるべし」(「柴文要領」)
情と欲の差異
物のあわれと善悪の判断とは別物

「雨夜の品定」についての問答;式部は「実なる」を取り、「あだなる」をいましめる心ばえがあると思われるが、如何?いう問いに対する、宣長の答え。
頭中将に「いづれと、ついに思ひさだめずなりぬこそ世の中ぞ」と言わしている。

「物の哀れをしる」をほどほどに保つのが良い。
         10・29
 28頁

  
 
   十五 「品定」の 「うしろみのかたの物の哀れ」という話は少し分かりにくい。

「あわれ」は「「よろづの事の心を、わが心にわきまえ知り、その品にしたがひて感ずる」
折口信夫ー宣長の「物のあわれ」といふ言葉の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだ。

物事を味読する「情こころ」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、受取る道がある筈だ。宣長が選んだ道はそれでである。

70歳ころの感慨。162頁
話題は「宇治十帖」

【この章、源氏を読んでいないと分かりにくい】

         11・01
 

  
 
   十六 宣長 「蛍の巻」物語論に注目

「更級日記」 読者として魅力を述べる。
「無名草子」 現存最古の物語批判

紫式部堕地獄伝説
俊成の歌合判詞「源氏見ざる歌詠みは、遺恨の事なり」

準拠説 故事、儒仏の典籍の利用
宣長 準拠説を重視せず。

「かたる」は「かたらふ」事。  物語が、語る人と聞く人との間の真面目な信頼の情の上に成立つのでなければ、伝承もされなかったろう。語る人と聞く人とが、互いに想像力を傾け合い、世にある事柄の意味合いや価値を、言葉によって協力し、創作する、これが神々の物語以来変わらぬ、言わば物語の魂であり、式部は、新しい物語を作ろうとして、この中にたった。

     11・02
 

  
 
   十七  「帚木」冒頭の文は、物語の序。

源氏という人物の品定め  ー 契沖は辛辣
眞淵ー「源氏」を軽く見る。  秋成ー人物評価低いが、文章は買う。
谷崎潤一郎ー秋成に近い。

鴎外、漱石ー源氏への無関心

正宗白鳥 ー「世界文学史の上に於いて驚嘆すべき」
彼はウエイリの英訳を読んでいる。

【この章、作中の人物としての源氏と物語のとしての源氏と、紫式部の評価が入り乱れている。】

   11・10
 

  
 
   十八  契沖の「定家卿云、 可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」  これを宣長は受け継いだ。

逍遥の小説論、「畢竟、小説の旨とする所は、専ら人情世態を描写にある」

「源氏」は逍遥のいう写実派小説ではない。

詞花を翫(もてあそ)ぶ感性の門から入り、知性に限りを尽くして、また、同じ門から出てくる宣長の姿が、おのずから浮かび上がってくる。

宣長は「源氏」を「歌物語」と呼んだ。

情にながされ無意識に傾く歌と、観察と意識とに赴く世語りとが離れようとして結ばれる機微が、異常な力で捕らえられている、と宣長は見た。

「物のあわれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろ、そのような意味を堪えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直に感知したもの、といった方がよかろう。

「抑(そもそも)いましめのかたに、ひきいるヽを、此物語の魔物也」
いましめ = 思想

「あわれ」と「物のあわれを知る」との区別。
「あわれ」の不完全な感情経験を詞花言葉の世界で完成させる。

光源氏はその役を担った。

「雲隠」の巻の問題。

法師も儒者(孔子)も物のあわれを知る。

   11・20

 

  
 
   十九  宣長が賀茂真淵に出会うのは、宝暦13年彼、33歳のとき。
本章は「玉かつま」からのその様子を引用する。
長文の引用は有難い。

眞淵の「万葉解」から、古文の取り組み方を示す。

眞淵の「冠辞考」  枕詞の考察

「おもふこと、ひたぶるなるとき、言(こと)たらず。」

言語表現に於けるメタフォーア。

詩が散文に先行する。

枕詞ー頭に置くゆえに枕ではない。頭を笹ゆるものにこそあれ。

   11・21
宝暦13年(1763)5月23日、 宣長は、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、これが、彼の転換期となる。

  
 
   二十  宣長が眞淵と交流できたのは、眞淵死去(明和6年)までの5年間である。
その時の様子を写す。学者らしい。
眞淵の最後の手紙を一部引用。

眞淵は万葉精神を見事に掴みだしていた。「万葉集の歌は、およそますらをの手ぶり也」

二人は「源氏」「万葉」の研究で、古人たらんとする自己滅却の努力を重ねているうちに、われしらず各自の資性に密着した体験を育ててきた。・・・その経験は交換できるようなものでなかった。

万葉の選者について、眞淵(橘諸兄撰説)に対して宣長(家持撰)が激突、破門状態になる。

  2022・12・15

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