江戸の学問と学び
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     日本が近代化の成功したのは、江戸時代の学問・教育の高さに負うところが大きいのだが、我々はそのことを忘れている。廃仏棄釈や、漢籍教養の否定、など過去を否定することによって、近代化(西洋化)が出来たと思っているので、過去の事を教えないのである。
  日本は日本文化の上に、中国文化(特に漢字・古典)を載せ、発展してきて、さらに、西洋文化を取り入れ、近代化を達成してきたのである。
  私自身、余りにも江戸時代を無視してきたような気がする。
福沢諭吉 『福翁自伝
 前川勉『江戸の読書会 会読の思想史
辻本雅史『江戸の学びと思想家たち
 『江戸の本屋さん

 本居宣長

  
   福沢諭吉の若い時の勉強ぶりを見てみる。
   『福翁自伝』p15~16 引用。太字:書名、人名

年十四、五歳にして始めて読書に志す


  根
っから何にもせずに居た所が、十四か十五になって見ると、近処て居る者は皆な本をよんで居るのに、自分ひとり読まぬと云うのは外聞がいぶんが悪いとか恥かしいとかおもったのでしょう。れから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行始ゆきはじめました。
  どうも十四、五になって始めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。
の者は詩経しきょうを読むの書経しょきょうを読むのとうのに、私は孟子もうし素読をすると云う次第である。
  所が
ここな事は、その塾で蒙求もうぎゅうとか孟子とか論語とかの会読かいどく講義をすると云うことになると、私は天禀、少し文才があったのか知らん、の意味をして、朝の素読に教えてれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読むばかりでその意味は受取うけとりの悪い書生だから、これを相手に会読の勝敗ならけはない。

左伝通読十一偏


  その中、塾も二度か三度か
えた事があるが、最も多く漢書をらったのは、白石と云う先生である。其処に四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味をすことは何の苦労もなく存外早く上達しました。白石の塾に居て漢書は如何いかなるものをよんだかと申すと、経書けいしょを専らにして論語、孟子勿論もちろんすべて経義の研究をめ、ことに先生が好きと見えて詩経書経と云うものは本当に講義をしてもらっく読みました。ソレカラ蒙求世説左伝戦国策老子、荘子と云うようなものもく講義を聞き、そのきは私ひとりの勉強、歴史は史記を始め前後漢書晋書五代史元明史略と云うようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻で仕舞しまうのを、私は全部通読、およそ十一読返して、面白い処は暗記して居た
 
れでト通り漢学者の前座ぐらいになって居たが、一体の学流は亀井で、私の先生は亀井大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに冷笑して居た。広瀬淡窓などの事は、彼奴発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもないだといって居られました。先生がえば門弟子爾う云う気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽などもはなはだ信じない、誠に目下めした見下みくだして居て、「何だ粗末な文章、山陽さんようなどの書いたものが文章とわれるなら誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令たとい舌足らずでどもった所が意味は通ずると云うようなものだなんて大造たいそうな剣幕で、先生から教込おしえこまれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居ました。
  白石
しらいし
先生ばかりでない。私の父が又その通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬはずであるに一寸とも付合わぬ。野田笛浦のだてきほと云う人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない、けれども山陽を疎外して笛浦を親しむと云えば、笛浦先生は浮気でない学者と云うような意味でしたか、筑前亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたと云うから、そのを汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう

2022・8・12
 



左記は福沢諭吉の20歳位の読書歴であるが、
これは、我々が大学に入る前に相当する。

  諭吉はその後長崎遊学緒方塾での蘭学を学ぶことになる。
 私は30半ばにやっと論語を読み始めたが、左記の内、書経、世説戦国策後漢書晋書五代史元明史略はまだ一度も目を通したことはない。
  春秋左伝は通読するのにもずいぶん時間がかかったが、諭吉は十一回も読んでいるとは!
世説新語何れ読む予定。



  
   前川勉『江戸の読書会 会読の思想史
               平凡社2012

 江戸時代の教育、その中で、会読という方法に焦点を当てて、調べた本である。 学習方法として、素読、講釈、会読の中で、特に会読の意義、形態、実情、その推移など資料を示しながら詳しく述べてある。

  会読は、自発的な結社であり、対等に、他者とのコミュニケーションができ、独善を防ぎ、楽しい時間が持てる。

 学校の先生やサークルを運営している人には、多くの示唆を与えると思うが、余りにも豊富な内容を持つので、読み通すには骨が折れる。

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読書メモ

第一章 会読の形態と原理
 中国・朝鮮のように科挙の制度のない日本では、学問は直接には立身出世に繋がらないのになぜ、多くの人が儒学を学んだのか?
  聖人を目指した(修身)
  いつか政治を担うことを夢見て(経世済民)
  「門閥制度」からの自由
  会読、共同の読書の楽しさ、 朗読、仲間

三つの学習方法
  素読、講釈、会読

   素読 7,8歳から14歳 四書、五経丸暗記 テキスト   の身体化
   「字突き棒」 復唱、暗唱、テスト(句読考試)

   講釈 15歳から
  山崎闇斎 「道統」の体現者として、 説法に近い
  石田梅岩
  荻生徂徠の批判

学習用のテキスト p49~50 同一テキストが必要。
 大量印刷「江戸の本屋さん」

武士教育の藩校は農民、町人の庶民教育、寺子屋とは別系列。会読はもっぱら藩校

会読の3つの原理
  相互コミュニケーション性
  対等性 車座,
  結社性 自発的集団 期日、場所を決める
    様々な結社、田中優子『江戸のネットワーク』
    階級からの解放

第二章 会読の創始 
  伊藤仁斎(1627-1705)五経の会読;同志会(月3回) 会長、講者あり、
   「学問はまさに勝心を以って大戒と為すべし」p76

  荻生徂徠(1666-1728)の会読
  「東を言われて、西について納得する」p82
  「自身にわれと合点すること」p85
  翻訳のための読書会 「訳社」 月2回、
  太宰春台の会読ルール「紫芝園規条」

  会読と遊び  ホイジンガ、カイヨワの説
   ルールと異次元空間  寄合との差

第三章 蘭学と国学
  蘭学: オランダ語原書を読むことは、パズルを解くような楽しみがあり、前野良沢、杉田玄白の『解体新書』は有名であるが、洋学を学ぶ者の間では盛んに行われ、英独仏の原書に及んだ
  国学:本居宣長(1730-1801)ー易経、史記をはじめ。多くの漢籍の会読に参加している。萬葉集の会読、160回
  賀茂真淵(Ⅰ697-1769)古事記会読、

  立身出世ではなく、生きた証「名」を残したい。
  宣長の自画像、
  共同で検証される「発明」=真理の喜び

第四章 藩校と私塾
  藩校 276校 (明治2年1869調べ)
  属性より実績。
  藩校240校の内、70%が輪講、会読実施
  藩校は就学を強制。
  私塾は自発的、武士以外にも門戸開放

  広瀬淡窓(1782-1856)の咸宣園、
  三奪法(年齢・学歴・門地を白紙に)月旦評
  1801ー1856の入門者、2915人
   武士5.5%、僧侶33.7%、 庶民60.8%
   奪席会

  適塾の会読 オランダ原書の会読、1~6級、各10~    15人、各組に塾頭、塾監、一等生、月6回

  自由・対等の猛勉強、楽しみ

   藩校における勉学へのモチベーション  会読
  熊本藩校時習館の例:句読斎→蒙養斎→菁莪斎
  福岡藩 甘裳館 亀井南冥の私塾蜚英館 
  南冥の蟄居  

  寛政異学の禁(寛政2年1790)松平定信、林家の私塾に対tして、朱子学以外(I異学)を禁じた。
 初学の徒への基準

  昌平坂学問所開校 (1797)

  精思  虚心 多くの疏釈本
  幕臣以外にも入学可能となった。(1802)
  書生領 各藩から優秀な学生の留学先となった
   p200 内訳あり。
  名士たちとの面会、談論
  卒業生が各藩の藩校の教授となった。
      例:中津藩の白石照山

 講釈の講堂型から会読の多数教場型へ
 試験制度と世襲制度との衝突
 論議と虚心

第五章 会読の変容

  藩財政難 人材育成の必要性高まる。
  国政を論じることを禁止
  会読のメンバーが同志的結社(徒党)
  例:薩摩藩 近思録党
    金沢藩 黒羽織党
  水戸弘道館 会読に藩主斉昭も参加
   他に私塾あり(青藍舎、弦斎塾、南町塾など)他藩のものも來る。
  福地源一郎(1841-1906)の幕府衰亡論
  吉田松陰(1830-59と横議・横行
  「書」から「為」へと。草莽崛起

  横井小南(1809-69)と公論形成
  『近思録』の会読。

  「縁を離れて論じあう場」 虚心と平等
   中村正直、阪谷朗廬、千秋藤篤。齋藤竹堂、古賀侗庵、・・・
 

第六章 会読の終焉
  明治初期の会読全盛
  慶応義塾でも会読(1868)

 「学制」(1873制定)における輪講
 以下略

 おわりに
  人文科学研究所における会読
  面白く楽しい
  自発的結社
  異質な他社との交わり

  2022・09・26
 

391頁、学術書であるが、惜しいことに、巻末に
参考文献がない。索引があれば価値が随分上がる。


江戸時代の学問の様子は、私が知らないだけで隋分と調べられている。
下の写真の右端は
武田勘治著 1969年講談社刊 522頁


  
   辻本雅史『江戸の学びと思想家たち』2021

   この本は、江戸の学びの世界を概観できる、優れた思想史である。
  闇斎、仁斎、徂徠、益軒、梅岩、宣長、篤胤などの代表的な思想家を取り上げ、その学問的雰囲気や思想の根幹となる所を分かり易く述べている。
  彼らがどのようなメディアを通じ、思考形成し、また、発信したのか視点をからましている。素読、会読、講釈、出版・・・一口に言うと知の<身体性>であるが、メディア革命の渦中に我々が、それを取り戻すことを期待している。

  以下:備忘メモ

序章;唐木順三の説を引いて、鴎外、漱石など「明治第一世代」は四書五経の素読の経験者で、「形式と型と規範」を持つのに対して、次の「大正教養派」は「自らの内省的な中心」としていて、型を喪失している。

翻って学校教育はどうであったろうかを概観する。
知の身体性、アジア思想伝統の欠落。

江戸時代の思想をメディアの視点からも問う。

第一章:「教育社会」の成立と儒学の学び
 
 手習塾(寺子屋) 商業出版、和刻本、訓読体漢文

第二章:明代朱子学と山崎闇斎
  
朱子学、四書学の受容から体認自得
  次々出される訓読テキスト。様々な訓点本。

  
禅との対抗「体認自得」 他者との関係性を重視、「敬」
  幕藩領主への影響力、
  激しい口調の講釈
門人6000人。
  講釈 ー 知のメディア

第三章:伊藤仁斎荻生徂徠
 
 伊藤仁斎(1627-1705)
   朱子学(闇斎)を乗り越える。
   会読 ―同志会の尊重、会の後、酒席
   論語空間の発見 「最上至極宇宙第一論語」
   体験的没入。
   「人倫日用」 孝悌忠信 浅見絧けい斎の批判
 
 荻生徂徠(1666-1738)
  31歳の時、柳澤吉保に仕える。
  政権中枢に居たことのある儒者
  『蘐けん園随筆』 『訳文筌低蹄』  講釈十害論
  白話体の『大学諺解』で学ぶ。
  従来の訓読法で自力で読めるようになったら、:」「訓点本から無点本(白文)に切り替える。「体格」を理解する。看書
  「道」のパラダイム転換 ーー道とは「先王の道」
   礼・楽・刑・政。五経重視。古文辞学 「塾習」
   会読、輪講も重んじる。。

第四章:貝原益軒 (1630-1714)のメディア戦略
   独学自習、14歳から学ぶ。
   福岡藩の藩儒、7年間京都、
   多くの人的ネットワーク形成
   「理」を追及する朱子学者、経学の著作は少ない。
   「民生日用」 役に立つこと、「術」の学
   天地につかえる思想、 自然界まで探求の対象とした    儒者はない。
   {礼}身体技法。 『益軒十訓』『大和俗訓』
    読み書きそろばんの域を超えた教養としての読書     商業出版に対応。

第五章:石田梅岩と石門心学 
  石田梅岩(1685-1744)
   20年 呉服商の奉公人、読書と耳学問
   開悟り体験 人の道は「孝悌忠信」
   45歳公開講釈 文字への不信、声の復権
  会輔席、月次会、弟子たちとの共同研究ー『都鄙問答』
  後継者・手島堵庵(1718-1786)
  石門心学の組織化と普及 各地に施設(会輔席のため)   最盛期180余り。
   道話のは発明。開悟「体験知」それを誘うための語り。
  柴田鳩翁(1783-1839)道話
  寛政の改革、松平定信ら石田心学に近づく。

第六章:本居宣長平田篤胤 
   本居宣長(1730-)
  医者になるため京都遊学1752から5年半
  「在京旅日記」1856を境に和文体へ
  生涯、和歌1万首以上。
  漢字は借り物。やまとことばを求めて「古事記」へ
  「物の哀をしる。 
  歌会  詠歌 声の共同性。身体を持った声。
  出版も盛ん、よく売れた。
   平田篤胤(1776-1842)
  宣長の影響、「没後の門人」
  死後の霊魂の行方。外憂内患 人々の心の落ち着きどころ求める。
  服部中庸の『三大考』を前提に、『霊能真柱』
  神職支配の吉田家と白川家 共に篤胤へ接近
  精力的な講釈、出版 『古史成文』『古史伝』
  俗信、祭礼の取り込み。『仙境異聞』
  門人500人、幕末には4000人
  尊王攘夷の一翼を担う。

終章:江戸の学びとその行方 
  江戸期の学びの伝統は思想の近代にいかなる意味があったか?
   明六社(1873) 森有礼社長、洋行経験者の知識人
   一種の学会、演説内容を「明六雑誌」へ。3200部
   中村敬宇(1832-1892)ロンドン滞在中、漢籍の素読を日課。漢学の素養ある方が、英学で伸びが早いい。
漢学廃止に反対。

  中江兆民(1847-1902)
  留学後、漢学を学びなおす。ルソーの『社会契約論』を漢文で翻訳。

  自己形成の拠り所 素読「己をむなしくする体験」
 「身体化」「礼」 「道の追及」「天地の理」
  「型」の喪失したひ弱なった近代的自己「個性」

  これらを受け継いだ学校教育、ラジオ、テレビは出版文化を共存していたが・・・近代の終焉。

  インターネットの急速な発展、知の<外部化>
  パンデミックの身体性の疎外。

  江戸の学びとその身体性が呼び戻されることを期待する。

         2022・10・9