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   2016年8月27日

映画『薔薇の名前』1986 
監督:ジャン=ジャック・アノー
主演:ショーン・コネリー

原作を読んで出来上がったイメージを壊されたくないので、その映画化されたものを見たくないという気持ちがあり、映画『薔薇の名前』を見るのはためらいがあった。
思い切って見てみると、十分面白く、見応えがあった。よくぞあの長編を、そのエッセンスを失わず、130分の映像にまとめ上げたものだと思う。原作は、修道士の交わす教義上の会話や延々と続く情景描写など映像化出来ない箇所が多いのだが、それらは思い切ってカットされているのだが、逆に、人物、建物、室内、写本などの小道具が、見事に映像として復元されていて、百聞一見にしかずの通り、ワンシーンで、文章数十頁分を表現されているのである。原作を読んでいて、その知識で補完しながら見るせいか、大いに楽しめた。
(原作を読まない人には、ストーリーに付いて行くのが大変かもしれない。)

このDVDには監督ジャン=ジャック・アノーの解説が付いていて、これが抜群に面白かった。俳優の選択、セットの構築、大道具、小道具などの話から、撮影、音声技術など、制作にまつわる体験を、率直に語っており、しかも、映画のシーンを流しながらの話なので分かりやすい。そして制作にかけた情熱に感動し、この映画をもう一度見ようという気になる。

原作は、ウンベルト・エーコが何十年にわたり蓄積した中世の研究をもとに、2年がかりかけて書いたものを、ジャン=ジャック・アノーが4年かけて映画にした。その成果を、3時間あまりで味わえるとはなんと贅沢なことだろう!

追記:このDVDには、特典映像として更に、ドイツ語の撮影時のドキュメンタリーと、制作後17年経ってからのジャン=ジャック・アノーの「ビデオ・ジャーニー」(一種の撮影時の回想。2004年)がついていて、いずれも素晴らしい。ジャン=ジャック・アノーの髪の毛が真っ白になっているのも印象的。
映画だけでなく撮影秘話を合わせて見て欲しい。

 

  
   2016年4月13日

ウンベルト・エーコ / ジャン=クロード・カリエール 対談
  『もうすぐ絶滅するという紙の書物について
     工藤妙子訳 阪急コミュニケーション 2010

Sさんに勧められて手を出したら、面白くてやめられず、読みかけの『薔薇の名前』を中断して、こちらを一気に読みました。コンピューターやインターネットなど情報技術の世界の急激な変化の中で、我々は大きく変貌を強いられていますが、二人の碩学が、その広い見識と自らの体験をもとに、本を中心に、知のあり方全般にわたって、話し合っています。そのレベルは高く、刺激的で、西洋の知性とはかくの如きか!と驚嘆いたしました。
珍説愚説礼賛、検閲、記憶抹殺刑、焚書、読書依存症、・・・・果ては、死後の蔵書の処置に至るまで、薀蓄満載といったところ。ちなみに、エーコの蔵書は5万冊、内、稀覯本1200冊。カリエールの蔵書は2,3万点、内、古書2000点。その古書の中身も我々が買う古本とは別次元のものです。
  この対談は進行役のジャン=フィリップ・ド・トナックの働きも大きいし、日本版では工藤妙子の翻訳も素晴らしい。たとえば、間抜けと阿呆と馬鹿の区別の議論など、スイスイと訳出していて、目を見張る。

  「人生を愉しむことが人生の目的になりうるように、読む愉しみそのものが読書の目的になることもあるんですね。・・・」(374頁)

本好きの人には当然、情報のコレクター、作家、大学の先生にお薦め。



木下信一:壮大な蔵書自慢という感じもしました。
宮垣弘:カリエールは「キャロルの直筆書簡が入った本」を持っていますね。
蔵書だけではなく、話のスケールが大きい。
 

  
   2016年8月25日

Confessions of a Young Novelist by Umberto Eco  (1)
Harvard University Press 2011

The Name of the Roseの出版が、1980年、著者48歳の時で、この本を書いている今、まだ28年しか経っていないので、小説家としては若いのである。本書を手にしたのは『薔薇の名前』の裏話でも聞けたら面白いだろうと思ったのと、第4章がMy Listsとあったからである、彼の小説には列挙的記述が散見され、私は所謂enumerationに興味があるからである。
まず、第1章のWhat is a creative writing? から惹きつけられる。長年、中世、美学、記号論などの学術的な著作をしてきた者に、小説を書くということがどんなものであるかを提示していくのであるが、文芸の本質に触れるような気分になる。読者や翻訳者のやり取り、自著への論評への反応など、小説家としても成功した作家ならではの発言が続く。
圧巻は、第3章のSome remarks of fictional charactersで、これはアンナ・カレーニナやボバリー夫人と、実在のヒットラーやナポレオンなどとどう違うのか、なぜ架空の人物に人は涙するのかといった議論であるが、私など生活の大半を、読書や映像でfictional charactersと付き合いながら生きているので、この章には深い感銘を受けた。記号論学者の一面を覗かせながら、Physically Existing Object とfictionalなものとの違いを追求し、我々を深い思索へと誘う。とにかく面白かった。

My Listsについては又、別に書きます。

 

   2016年8月25日

Confessions of a Young Novelist by Umberto Eco  (2)
Harvard University Press 2011

第4章My Listsは、カタログ、メニュー、辞書をはじめ、列挙されるあらゆるものを論じるのだから壮観であるが、その中心は、文学上の表現スタイル、enumeration( enumiratio 列記)である。私がenumerationに触れたのは、丸谷才一の『闊歩する漱石』で、坊ちゃんの罵倒の言葉「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の。モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」から、古今の文芸における、列記(enumeratio)の系譜を概観して見せる40頁ほどの文章だが、事例が、ホメロス、聖書、ラブレー、ジョイスなど同じものが多い。才一の初出は1998年で、エーコより10数年早く、その上日本の豊富な事例が列記されているので、もし、エーコが日本語を解して、読むことができたら、喜んだに違いない。
さて、エーコのMy Listsだが、結構難しく、いろんな視点と実例を出すのだが、私には鮮明な像が結ばなかった。最後に、シャーロック・ホームズの作品タイトルを列記して、「Lists:列記を読んだり書いたりするのが喜び。これが若き小説家の告白である。」と結んでいる。
私は、列挙していきたいという行動は、人間の根深い性向の一つで、あらゆるところに顔をだし、その本質を知りたいのだが、その要求は満たされていない。
人は、東海道五十三次、四国八十八箇所、百名山、・・・リストを作って、しかもそれをトレースしようとするのもリスト行動(こんな言葉があるかどうか知らないが)をする。学者、コレクター、オタクたちの情報や物の収集行動、・・・辞書、時刻表・・・そういえば、世界で長い川、高い山ベスト10など、中にはギネス・ブック的な項目で、リストばかり集めたペーパーバックスがあったが、番付行動もリスト行動の一つ。リストに関する良い理論がないものかと思う。
エーコのList論はその入口にはなると思う。

朝日新聞の9月1日夕刊にデザイナーの堀畑裕之さんが、「言葉の服」というコラムに、
「尽くし」ー豊かさの祝典ーという見出しで、清少納言をはじめとする「尽くし」のことを書いておられて、その終に「そして何より「尽くし」の本当の喜びは、いくら尽くしても到底尽くしきれない世界の豊かさを、多くの人と分かち合い、共に愛でることにあるのだ」と結んでおられた。