記憶の本棚 - 越境者たち | Topへ | |
このサイトは、大半が本にまつわるものですが、ここでは、ちょっと分類しにくいものを収録します。 柳沼重剛『語学者の散歩道』 平川祐弘『袁枚 「日曜日の世紀」の一詩人』 平川祐弘『アーサー・ウェイリー 「源氏物語」の翻訳者 』 亀井俊介『サーカスが来た!アメリカ大衆文化覚書』 亀井俊介『亀井俊介 オーラル・ヒストリー』 丸谷才一『闊歩する漱石』 柴田翔『闊歩するゲーテ』
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2015年2月23日 · 柳沼重剛『語学者の散歩道』岩波現代文庫 言葉の詮索は、そのプロセスまで書いてあると探偵小説の面白さがある。この本はそんな面白さで一杯。 It's greek for me(私にはちんぷんかんぷん)Et tu, Brute !(ブルータス、お前もか) はシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に出てくるので、知る人は多いのだが、これはシェイクスピアの発明ではないことが明らかにされる。次の『ロミオとジュリエット』の中での、乳母の言葉「Rは犬の文字」の詮索も面白い。後、シェイクスピアはほとんど出てこないが、身近な言葉にまつわる探索が続く。 この本は、以前、単行本で出ていたが、文庫に採録されるにあたり、一部、内容の入れ替えがあった。入れ替えられた中には優れた文章論もあって、滋味豊かなエッセイとして、枕頭に置いて拾い読みするのにふさわしい。 下の本IT'S GREEK TO MEは、ギリシャ、ローマ由来の成句の背景を格1,2頁に纏めたもの。これも拾い読みして飽きない。 ------------------ 大西 小生 柳沼重剛は、以前プルタルコスの翻訳書でお世話になりました(永代静雄著『女皇クレオパトラ』にプルタルコスの引用が多いので)。 松村 恒 柳沼先生は私がO女子大に転任した直前に退任なさいました。とても残念でした。 松村 恒 フランスでは C'est de l'hebreu pour moi と言うそうです。『若草物語』に「フットボールの用語は、女の子にとってはサンスクリットだ」というのもありました。 宮垣弘 さすが松村先生。このフランスの用例は、英国のものよりさらに30年も古いようで、英国の表現はフランスを介さず、イタリヤ語からの翻訳だそうです。フランスでは「ヘブライ語」ですが、ドイツではどう言うか? chinesisch「中国語」だそうです。 |
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平川祐弘著『袁枚 「日曜日の世紀」の一詩人』(沖積舎) 袁枚(1716-1797)は料理の好きな人には岩波文庫の『隨園食単』でお馴染みの人。 89頁の愛すべき本である。 |
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平川祐弘『アーサー・ウェイリー 「源氏物語」の翻訳者』(白水社2008)は、本当に面白い評伝だった。ご本人の要約では「文化と文化を代表する文学が国際間で変動する中でのウェイリーの人と業績を語り、その翻訳の詩文の妙味を伝え、世界の中の『源氏物語』の魅力を説こうとするのが狙いである。」(同書、あとがき)ということであるが、その語り口の上手さ、精緻さは、上質の英国・中国・日本のご馳走を同時に味わうような喜び与えてくれる。日本人で外国の文物を愛する人がいるかと思えば、外国人で日本の文物を愛する人もいる。著者はそれらの間を自由に往還できる珍しい人で、そのゆとりが読者に豊かで心地よい愉しみを齎してくれる。注を含めて隅から隅まで美味しかった。 ----------- 再読したくて、図書館で借り出して、読み始めたら、やはりとても面白く、手元に持ちたくなった。蔵書を増やしたくないのだが、我慢できず、注文してしまった。 第1章は、ウエイリーの知的背景と最初の翻訳、中国詩を取り上げる。エズラ・パウンドやT.S.エリオットなど交友から、彼の訳詩のスタイルも新しいく、、言語理解レベルは、当時、中国文学の大御所、ハーバード・ジェイルズとの対比で、ウエイリーの翻訳の優れていることを検証している。この1章だけも読みごてがある。ウエイリーと漢詩について語り合った最初の日本人は牧野義雄ではないかとしているのは思いがけない。 2020年3月21日 |
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亀井俊介『サーカスが来た!アメリカ大衆文化覚書』東京大学出版会 1976 Oki先生ご推奨の本。確かにこんな面白い本はめったにない。 (写真は初版。今は平凡社ライブラリーに入っている。) |
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亀井俊介 『サーカスがやって来た!』が抜群に面白かった記憶があるところへ、関場理一先生が「シェイクスピアの森通信 」で、本書を取り上げておられたので、手を出した。 |
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2015年9月4日 丸谷才一『闊歩する漱石』講談社 2000 最近、イギリス人と『坊ちゃん』を読んでいるので、漱石を何となく近しく感じられるようになった。そこで、手にしたのがこの本だが、漱石の『坊ちゃん』『三四郎』『猫』を肴に、一種の漫談を繰広げている愉快な本だった。古今東西の文芸に通じている丸谷才一が、漱石をどう料理するか、それだけでも面白いのだが、漱石からまるで離れて、大きく脱線するところが秀逸。例えば、坊ちゃんが喧嘩するところから、「擬英雄詩」を論じ、坊ちゃんの罵倒の言葉「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の。モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴」から、古今の文芸における、列記(enumeratio)の系譜を概観して見せる。万葉、枕草子から果てはジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウエイク』まで、40頁を越す脱線はこのところだけ切り取っても面白い。『三四郎』を扱ったところでは、東京へ来た三四郎が富士山について言及していないのはどうしてか、当時の東京は富士を遠景に持つ事が大切で、富士の良く見えた場所を調べたり、富士談義が続いているかと思うと、何時の間にか、「モダニズム文学」の話になり、西洋のモダニズムがどんなものであり、漱石はその中でどんな位置を占めるかという話になっている。『猫』については、一見無関係なアッシュフォードの『若い客』という小説から、やがて『チビ犬ポンペイ物語』となり、人間以外を主人公とした作品へと及ぶが、これが、漱石の『猫』の源流を探る話なのである。漱石の蔵書の、漱石自身がアンダーラインした箇所にも触れ、実証への努力のあとも見せる。『猫』の源流は、バフチンの言う「メニッポス的風刺」に当たるとし、さらに、バフチンの視点による『猫』の分析に入る。「メニッポス的風刺」の生まれる時代背景と漱石のその頃の風潮との対比はちょっとオーバーの観があるが、最後は、漱石が好み、4冊の蔵書があるジェローム・K・ジェローム、特に『ボートの三人男』の話となり、Jの飼っている犬、『猫』に名前がないこと、有名になって、猫自身が自慢するという不思議な小説の構造など、漱石の先進性に触れて、堂々たる『猫』論は終わる。 |
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柴田翔『闊歩するゲーテ』筑摩書房 2009
この間、丸谷才一の『闊歩する漱石』を読んだばかりなので、図書館でこの本が目に飛び込んできた。これは柴田翔のゲーテとの関わり合いとゲーテそのもの紹介と兼ねた本であった。
「ドイツ文学の大学院へ行き、先はのんびりと語学の教師で暮らすにせよ、まあ、ともかく研究者の看板を掛ける予定のものが、ゲーテを読んだことはありませんという訳にも行くまい。それならいっそ修士論文でゲーテでもやるか―」という訳で、ゲーテを選び、作家論は荷が重いので、長くない小説『親和力』をテーマにする。こんなことから著者のゲーテとの付き合いが始まり、後にゲーテを中心に大学で教え、翻訳、著作を生んでゆくのである。
第1章 ゲーテとは誰だったのか 第2章 私的研究小史
第3章 文学研究方法私的序説 補章 ゲーテ その時代、生涯、作品
4つの部分に分かれるが、第3章は著者の東大での最終授業を再現したもので、とても刺激に満ちたものであった。その主張を荒っぽくまとめると:― 文学研究は文化研究とは異なる。文学(芸術)は、文化の中から生まれるが,それと拮抗し、またはそれを超えた普遍性へと開かれたものであって、文学を文化の文脈で外から見るのではなく、作品そのものを読み込み、作家と自己の経験を照らし合わせながら、内部から無限へと伸びている方向へと向かわねばならない。文学は反文化の側面を持ち、そのことに意義がある。そしてゲーテの詩一篇を実例に読み解いて行く。― その主張には色々と反論もあろうかと思うが、「文学研究」をしていると思っている方には、この第3章は面白いのではないかと思います。
2015・・10・9
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