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   「甘え」⇒「祈り」⇒「我と汝」へと進んでゆきます。  

  
   

土居健郎『甘えの構造』弘文堂 1971(左)増補普及版 2007 (右)
留学での海外経験から、日本人の特殊性に気付き、それが日本語の「甘える」という言葉に関連すると考える。「甘え」は日本特有のもので、西洋に対応する言葉がないことから、これをキーとして、日本人の特性を掘り下げて行くのである。
すでに、日本人論の古典的名著となっているいるが、今読んでもとても面白い。
精神科医である著者が、「すねる」「びがむ」「こだわる」「すまない」「くやむ」などの言葉の奥に潜む日本人の「甘え」という精神構造を明らかにして行く。
「甘え」というコンセプトでこれだけ、広く、深く、掘り下げていて、驚くばかりで、日本人論をはるかに超えている。
同書の増補普及版は、「「甘え」再考 刊行二十周年に際して」という30頁の小論が、付されている。原書に関する各方面からの意見(例えば「甘え」が日本人特有のものであるか否か)へのコメントと社会情勢の変化に伴う所感が述べられているが、原書の考えに大きな変化はない。
「甘え」が、個人、家族、団体・・・いろいろな切り口でのキーコンセプトとして有用で、その否定的側面だけでなく、肯定的側面を見ていく著者の態度も素晴らしい。大きな刺激を受けた。著者の宗教観も知りたいところ。

 

  
   

土居健郎『「甘え」の構造』続き

この本は英、仏、独、伊、韓に翻訳され、海外にも反響を呼んだようだが、例えば、李御寧『「縮み」志向の日本人』1982では:「甘え」は日本語特有のものではなく、韓国にも同様の言葉もあり、土居健郎の視点が西欧対日本と狭いもので、東洋全般の視点も必要という。
「甘え」は、犬や猫にもあるとか、西洋人の中でに見いだされるとか、内外にもいろいろな批判や言及があるのは、思考の世界に、「甘え」という有効な補助線を引いたのは手柄であって、それが、日本人論、精神病理学的世界の止まらない広い世界へと誘うのである。
私は①日本人論を見直したいという気になると共に②日本語論③宗教(特に祈り)の3つ分野への「甘え」のコンセプトを適用したい気持ちに駆り立てられた。いずれの分野もFBで扱えるようなテーマでないが・・・

 

  
   

「甘え」と祈り

土居健郎『「甘え」の構造』で私が最も刺激を受けたのは、いわゆる、文化人類学的な「日本人論」ではなかった。この本でも論じているが、もっと人間の本質、そして、宗教の分野へと導いていった。「甘え」は母と子と間に成立する依存関係を原型としていることは間違いないが、その底にあるのは、「愛」である。この愛の基盤のないところに甘えは発生しない。意識、無意識に、このことを確認しているのが「甘え」だと思うのである。それが拡大し、家族、所属グループへと広がっていくのであるが、その最大のものとして、私は、宗教に及ぶと考えるのである。それは神(創造者)への甘えではないか?特に「祈り」がその甘えを表しているのではないかと思うのである。精神科医の著者が、「甘え」の幼児的側面を否定的、消極的にとらえるのではなく、肯定的な面も捉えているのは、治療家としての経験にも裏付けられているのであろうが、深く人間(生きもの)の本質を見通しているようにも思える。
そう考えると、人間の営為に大きなウエイトを占めてきた宗教の理解、また、それ類似のいろいろな行為が理解できる。当分、このアイデアを温めたい。
(写真は私の絵の師、中西勝先生の作品。「黒い聖母子」1974 162.1×162.cm)


Toshiro Nakajima おお!これは懐かしい。中西先生の代表作です。先生はゲントで修業され、その時の話をよくしてくださいました。いい画集を多くお持ちでした。
宮垣弘 中西先生は多く母子像を残しておられますが、その中でもこの絵が最高ですね。母子関係の中に愛の本質を見ておられたのかもしれません。良いお母さんに育てられておられます。
  • Toshiro Nakajima そうですね。母上が先生を甘やかせすぎたという非難もありますが、私はそう思いません、先生が画業に開花されたのも母の愛情の賜物と信じます。

 

  
   

「甘え」と祈り(2)

「甘え」を「愛」の確認、要求だとし、「祈り」は神(創造者)への甘えであると私は理解した。これによって、さまざまな展開が可能で、その先は自分で思索を続ければよいのだが、「甘え」の元祖・土居健郎先生のお考えをまずお聞きするのが礼儀であろう。図書館から2冊借り出して読んだ。その一つ;
◎土居健郎『甘え・病い・信仰』創文社 2001
長崎純心大学での3日間の講義の記録である。1日目:甘えの意味を掘り下げ、すねる、うらむ、ひがむの底には甘えがあるという。love(lieben)が様々な意味があるが、フロイドがそれらからリビードという概念を抽出したように、「甘え」も精神現象を理解する手段だという。
2日目:病気の定義から始まり、精神科医として、精神病と甘えとの関連が述べられる。悪霊の問題、『縮み志向と日本人』の著者リー・オンリンとのエピソードも面白い。
3日目:甘えと信仰の問題を、聖書の中から、甘えの事例を取り出し、また「愛する」「愛される」の問題を掘り下げる。ポウロ、イエスの具体例が挙げた後、「キリストを信じるクリスチャンは神に対して甘えることが可能となったのです。」(p104)  神の愛に包まれてい生きることは、「甘え」とは矛盾しない。最後の章「癒しについて」では、医者と患者の関係、イエスが病人をいやした事例に触れる。信頼、そして「心の故郷」という懐かしものが醸成されると早く病気は治るという。
聴講者との質疑応答を含め、豊かな内容を持って、下手な要約は憚れる。ご興味があれば本文をお読みください。

 

  
   

「甘え」と祈り (3)
「甘え」を幼児的、受動的、弱さと捉えると、私の考えとは離れていく。そうではなくて、相手を信頼し、一体化すること、愛を共有することと言えば、少しはイメージが変わるだろうか?土居健郎も「甘え」の説明に苦労している。非言語的コミュニケーションと言ったりしているが、私は「甘える」も「愛する」も、能動的に「~する」といういうより、状態とみると分かりやすいと思う。聖母子像が示すような、ある状態と見るのである。
次の本は、土居健郎のキリスト教関連の論集で、「信仰」の領域なので、私の如きものが云々するのは憚れるが、その内容を点描しておきます。

◎土居健郎『信仰と「甘え」』増補版 春秋社1992
9章「信仰と「甘え」」は結論部分で、「幼児のごとくなるのでなければ、天国に入れない」(マルコ福音書10.15)を引いている。11章「「甘え」と祈り」では、「甘え」という言葉のない西洋に、「甘え」がどう受け止められたかについて著者の体験を披露する。意味論で有名な日系学者ハヤカワは聖母マリアに寄せる感情と同じではないか言ったこと。彼の師ホイヴェルス神父が、デル・リーベ・ゴッドを「なつかしい神」と訳したこと。そしてイエスの祈りの中に甘えが見られを論じている。「主の祈り」は甘えの心情がなくては祈れないのでは、という。ヨブに触れて、「それでもなおかつ神に甘えようとする心を捨てない人間は、最後には救われるということある。」それを可能にしているのは、イエスの死と復活で保証されており、それを信じることが信仰である。とも。

なお、本書は次のようなテーマを含む。
1~4章は、精神分析とキリスト教との関係。クリスチャンで精神科医である著者には切実な問題。6章「内村鑑三における人間形成とキリスト教」は伝記的論考で著者の精神医としての分析が入る。9章「ホイヴェルス神父におけるキリスト教と日本」、10章「キリスト教と私」は、クリスチャンの家庭に育ち、プロテスタントの教会と深くかかわりながら、やがて、カトリックへと改宗する心の遍歴を描く自叙伝。いずれも力作ぞろい。

 
   つづく