シンデレラは嘘をつく

目次に戻る

--act  5                       
 日々は過ぎて行く。
 ひとつの本当が壊れ、ひとつの愛が消えていっても。
 時間はとうとうと流れ続ける。
 すべて偽りのまま、偽物の笑みにいだかれて。
 世界は変わらず回っている。
 たとえ嘘のマスクの下で、裸のピエロがどれだけ涙を流したとしても……。


 デパートの一日。昼の賑わいと、夕方からのもう一山を迎えようと言う時間帯との狭間に訪れる、比較的落ちついた午後のひととき。
 外出から戻って遅すぎる昼食をとりに従業員食堂に出向いた保は、エレベーターを降りたところで春久と出くわした。よおと挨拶だけ交わして入れ替わりにエレベーターに乗り込もうとする彼の腕を捕え、ぐいぐいと引きずるようにして通路の隅まで連れて行った。
「おい、なんだよ? 俺もう売り場に戻るところ……」
 春久が目を真ん丸く剥いて口を尖らせて文句を言う。だがそんな言葉を遮って、保は低い声でぼそぼそと話しかけた。
「パーティ……何処かやってない?」
 唐突に切り出されて、いっそう春久は驚いた表情を見せた。
「はあ? パーティってDQの?」
 保はコクンとうなずいた。春久は半ば呆れたような顔をして、しげしげと保を見つめた。
「なに、今夜もかよ? 一昨日出かけたばっかりじゃないか?」
 責めるような口調でそう言ったが、それでも何も言おうとしない保に、はあと大きなため息をついた。
「なんだってんだぁ。今まではどんなに誘ったって『A−パレス』のパーティナイトしか行かなかったくせにさぁ。何を急に遊びづいてんだよ?」
「パアッと騒ぎたいんだ。今夜も……」
 むっつりと、笑みひとつ浮かべずに保は応えた。その何処か切羽詰ったような口調を察したのか、春久は少し当惑したように眉をひそめたが、すぐに笑みを浮かべながら言った。
「ふううん。なんだか知らないけど……まあいっか。あーっと……じゃ少し待ってて。ちょっといろいろあたってみるからさ」
「ああ、頼む」
 人のいい春久は深く事情を尋ねるでもなく、そう言い残して売り場へと戻っていった。
 月に1度だけDQとして遊んでいた保とは違って、彼はちょくちょくスージーとなってはあちこちのイベントに顔を出していた。当然様々な情報も熟知しているし、あの大らかな人柄だけに交際範囲も広いのだろう。
 彼が文句を言った通り、保はいつもは決まった月イチのイベント以外には絶対に顔を出さなかった。あまたの誘いも冷たく笑ってあしらっていた。だから、ここ最近の異常なほどの夜遊び三昧には、きっと春久も呆れているに違いない。それでも先ほどのように、急にわがままを言い出してもいやがる顔ひとつ見せずに受けいれてくれるのは、今の保にとっては、とてもありがたいことだった。
 春久が行ってしまった後、保はしばしの間ぽつんとその場に突っ立っていた。
 あの夜、川原と最後に別れたあの時から、世界のすべてが空回りしているような気がする。
 いや……違う。空回りしているのは自分だ。
 なにもかもが自分だけをよけて流れていっているのだ。自分一人だけが通り過ぎる時の波に取り残されて、独りぼっちの砂浜でただ人形のように笑い、人形にように話してそこにいるだけ。
 ただ生きているだけ……。
 休憩を終えて食堂から出て来た社員たちが、ぼんやりと立っている保を不思議そうに見つめて通り過ぎていく。保はそんな世間の視線を感じとり、仕方なくのろのろと歩いて中に入ると、セルフサービスの配膳カウンターに向かった。当然ながら昼食はとうに片づけられていて、カウンターの隅にもうすっかり食べ頃を過ぎて半分干からびてしまった料理が、ほんの二つ三つ寂しげに置かれていた。保はそれをトレイに載せ、広い部屋の片隅に座った。
 食堂には昼時には及ばないまでも何人かの社員たちが訪れていて、ある者はコーヒーを片手に、ある者は美味しそうにタバコをふかしつつ、束の間の休憩を満喫していた。若い女の子たちの一群が時折高く笑い声をあげる。
 そんな風景に囲まれながら、保は目の前の皿を眺め、つまらなそうにおかずのトンカツをつついていた。
 と、誰かが声をかけてきた。
「なんだ、香坂。今頃昼飯か? ご苦労だねぇ、外商も」
 顔を上げてみると、知り合いの社員であった。いつもよく客を連れていく家具売り場の主任だ。顔をあわせたなら軽く会話を交わすぐらいの仲の相手で、何度か酒の席を共にしたこともある。
 男は手にしたコーヒーをテーブルに置いて、保の目の前に腰かけた。休憩のしばしの話し相手に恰好の獲物を見つけて選んだという感じである。
 保はにっこりと微笑み返して軽く会釈した。その笑顔にほころびはなかった。いつも通りの、爽やかで真面目な好青年、精力的に働くエリート社員の顔だ。若手1番の有望株、外商マン香坂の仮面だ。
 男はずずっとコーヒーを啜りながら、たわいのない世間話を口にした。
「いやぁ、先月の売上げはひどかったなぁ。まあ夏場に家具が落ちるのは仕方がないんだが、予算を三割も落としちゃまずいよなぁ。今月も今ひとつパッとしないし、上にどう言やぁいいんだか。言い訳もネタが尽きたぜ、まったく」
 相手が外商で多少の分野違いと言うこともあり、男は保に対して気軽に愚痴をこぼした。直接自分と関わる相手でもないし、また保の人柄の良さもよく知っていたので、話し易い相手だったのだろう。
 こんな時、いつもなら同情を込めた笑みを浮かべて、なにか差し障りのない言葉をかけ、適当に慰めておくのが常だった。深く立ち入り過ぎても生意気に思われるし、興味のない顔で知らんふりするのも心象を悪くする。こういった場合の対応の仕方は心得ている。そう難しいものではない。
 難しくはない筈だった……が、今の保には、そう簡単にはいかなかった。
 喋る男の言葉が頭の中で空回りし、よく意味も取れないままにスウッと流れ去っていってしまう。返事を返そうと口を開きかけたけれど、何を言えばよいのかわからず、ぼんやりと宙を見つめて固まった。
 普段通りのきびきびとした受け応えがまるでできなかった。わずかに開いた唇が微かに震えているのを感じる。だけど声が出てこない。なにも思い浮かばない。ちゃんと会話が出来ない。
 そんな保のいつもとは違う雰囲気を感じ取ったのか、相手の男はそれまでの愚痴を止めて、訝しげな口調で尋ねた。
「なんだ、どうした? 珍しく疲れた顔してるぞ、おまえ。そんなに忙しいのか?」
 そう言って心配そうな眼差しを向けてくる。保はひきつる顔に薄ら笑いを浮かべ、かろうじて一言だけ返した。
「……ええ、まあ。ちょっと」
 声がかすれて張りついていた。
「あんまり無茶するなよ。いくら若いとは言っても限度があるんだからな。ちゃんと休みとってるのか? まあ、中元戦線もそろそろ終わるし、少しは落ちつくだろうけどな」
 男の表情や言葉のはしはしから本気で保のことを案じている様子が伝わってきた。
(礼のひとつも言わなければ……)
 そう考えるそぱから、社交辞令すらもがうっとうしくて嫌になる。今までのようにスマートに振る舞えないことも、そしてまた人の好意を心から素直にありがたいと思えない自分にも、どうしようもなく腹が立った。
 沈黙したままの保に、男はいたわるようにポンポンと肩を叩いて言った。
「また暇になったら酒でも飲もうぜ。じゃあな、香坂」
 男は穏やかに微笑んで行ってしまった。残された保はふうと大きく息をつき、ガックリと肩を落としてうなだれた。
 ひやりとした。もう少し話が続いていたら、きっととんでもない反応を返していたに違いない。真面目で性格の良い好感度100%の「香坂」なら、絶対に口にはしないようなそんな言葉を。
 今だけではない、最近の己の異変を、保は自覚していた。笑顔の端が引きつったり、さりげない一言に詰まったり、そんな自分にふと気づいてぞくりとする。
 いつものように売り場の女の子たちと明るく喋っている時も、仕事の合間に同僚たちと冗談を言いあう時も、日常のふとした狭間に突然ぽっかりと隙間が顔を覗かせる。
 そんな隙間の奥底、色のない空間の真ん中で、動くこともできずにぼんやりと一人突っ立っている自分が見えた。素っ裸の自分が震えていた。
 おろおろと頼りなげで、今にも泣き出しそうな顔をして、何も出来ずに途方に暮れている姿があった。
 それが本当の自分なんだろうか。外商マン香坂でもなく、DQのモンタでもなく、ただのちっぽけな香坂保。本物の自分……。
 だけどそれはあまりにも惨め過ぎて、いっそう心が暗くなった。そんな自分を知れば知るほど、たった今演じている己とのあまりのギャップに、真実をちゃんと認識できなかった。
(俺、なにをやってるのかな……?)
 すっかり食べる気の失せてしまった昼食をあきらめ、箸をトレイに投げ出して顔をあげた。
 その時ドヤドヤと賑やかな一団がやって来た。なにげなくそちらに視線を向けると、視界の端に川原の姿が映った。
 仲間と休憩に来たのか、飲み物の自販機の前で穏やかに笑っている。ふと互いの瞳が出会った。絡みつく保と川原の視線。だが川原は一瞬目を向けただけで、すぐに逸らしてまた友達と話しを始めた。
 微笑ひとつ返さなかった。まるで今目にした者はこれっぽっちも知らない相手だとでも言うように。
 保もまた顔を背けた。何も言えるはずなどない。責める言葉すら思い浮かばない。昼も夜も、表も裏も拒否されてしまった以上、もう二度とあの暖かな瞳を愛しいと思うことは許されないのだ。あの目で見つめられて、優しく微笑みかけて欲しいなんて、決して望んではいけないのだ。
 きゅうっと胸が痛くなる。耳の奥がさわさわと冷たく鳥肌立つのを感じた。
 保は立ちあがってその場をあとにした。川原と同じ空間にいることが耐えられなかった。彼を見ていられなかった。苦しくて、哀しくて、辛くて、今すぐここから逃げ出したかった。
 心は傍に居たいと百万回叫んでいたけれど。
 外商部の部屋に戻って書類の整理をしているところに、春久から連絡が入った。保は携帯を持って廊下に出ると、人の通らない通路の隅でそれを受けた。電話機の向こうからは明るい声が聞こえてきた。 
「あ、香坂? 俺。えーとね、キクちゃん主催のイベントが今夜「シェード」であるってさ。今聞いたら、参加OKだって。俺とモンタならゲストでいいってさ。行く?」
「ああ、いいよ。行く」
「じゃ、キクちゃんに伝えておくよ。で、八時にいつものところで待ち合わせな」
 用件だけ言って手早く切ろうとする春久を、保は思わず呼びとめた。
「あ、春久?」
「ん?」
「あの……手間かけさせて、ごめん……」
「んー? なーに言ってんだよ、今更。らしくもないこと言うなって、バーカ」
 春久はハハッと軽く笑って通話を切った。だが保はしばらくその場で、もう切れた携帯をじっと見つめていた。
(らしくもないって……。なんで? あいつ、俺のらしさってわかってるってのか? 俺、自分にだってまるっきり見えてないのに……)
 春久の言葉は、なんだか不思議な気持ちがした。見えてる自分、見えてない自分。らしさってなんだろう?
 そんな答えは、いったい誰が知っているのだろうか? 少なくとも自分でないことだけは確かだけれど。


 「シェード」は小さなショーパプだった。ホスト崩れの、通称「bQのキクちゃん」がやっている、いつもはごく普通の店。日に二回唄の上手いキクちゃんのピアノ弾き語り歌謡ショーがあって、美味しいワインを飲ませてくれて、それが好評で毎日常連客で賑わっている。
 だがたまに通常の業務を休んで、そこはDQたちの溜まり場となるのだ。
 普段はなかなか渋いオジサンのキクちゃんも、その日ばかりは素敵にゴージャスなシンデレラへと変身する。訪れる客たちも皆シンデレラ。一夜の夢とばかりに、派手にきらびやかに己が身を飾り立てる。
 保と春久が飛び入り参加して、その世のパーティは一段と盛り上がりを見せていた。
「きゃー、モンタ! きゃー、スージー! さあ、どんどん飲んでぇ」
 180センチの長身をアニマルプリントのワンピースで包んだキクちゃんが、ワインの瓶を片手に陽気にしなだれかかってきた。その横では、「A―パレス」でも顔馴染みの面々が楽しげにお喋りしている。ごく内輪の小パーティとあって、出席者のほとんどが知り合いばかりだ。だから皆、はなから遠慮なしに打ち解けあっていた。
「ねえねえ、このウィッグいいでしょお? この間NYで手に入れたのよー」
「あーらぁ、あたしのこの服なんて近所のフリマで500円だったわよ。超お買い得、きゃっははは」
「この間のゲイパレードの写真見るぅ? オレ、すんげえ不細工に写ってるのー。もサイっテー」
「ええ、これいつものアンタの顔だってばぁ、あははは、まんまよぉ」
 低い声から高い声まで、様々に入り乱れた会話が交錯する。そんな中で、保はいつになく上機嫌で陽気なモンタとして振舞っていた。
 カメラを向けられれば皆と一緒になってポーズを作り、誰かのジョークに大受けし、意地悪くツッコミをいれては爆笑の渦を誘う。
 保はキラキラ光るピンクのルージュで飾った口を大きくあけて、思いっきり笑っていた。バカ騒ぎは気持ちがよかった。こうしている間はなんにも考えなくてすむ。堅苦しい昼の世界はなく、真面目でエリートな自分もいない。演じることに変わりはないが、良い子な顔をしないですむだけこっちの世界の方が気は楽だ。
「だからさぁ、そーんな化粧してるほうが悪いんだってばねー。悔しかったら眉毛のひとつも剃りゃーいいんだって、バーカ」
 遠慮なしに言いたい事を口にする。
「ねえねえ、あとで皆で外に繰り出そ? オレ、カラオケ行きたーい。キクちゃんのピアノ演奏じゃものたりないもん」
 ワガママも言いたい放題。
「あーん、今度はボンテージに初兆戦しようかなぁ? オレ、似合うと思わない? 女王様ルック。ふふん」
 心にもないことだって軽く言える。
 大きく肩をさらけだしたショッキングピンクのキャミソールドレスは、バストがないからすぐにするする肩紐が落ちた。胸元で偽物のダイヤのネックレスがチカチカ安っぽくきらめいている。むせかおる香水の匂いは、甘ったるい花の香りだ。自分のと誰かのがぐちゃぐちゃに入り混じって、キツイ香りを発散してる。
 皆で騒いで、皆で笑いあって、大賑わいで盛りあがるDQたちの輪の中で、保はいつのまにかぽつんと独りだった。
 高らかに笑ってる自分の声が、何処か遠くで響いていた。今話してるのは誰だろう? 知ってる人? 知らない人? 応えているのは誰の声?
 いつのまにかBGMに流行りのロックが流れてる。耳が痛いほど大きな音の中に居るはずなのに、よく知ってる筈のフレーズがまるっきり頭の中に入ってこない。
 なにもかもよけていく。なにもかも通り過ぎる。
 世界で自分だけが空回りしてる。
 なのにモンタは相変わらずあっけらかんと笑って、ワインがなみなみ注がれたグラスを片手に、輪の中心で腰まで振って、陽気に大騒ぎしていた。
(俺……何をやってるんだろう?)
 頭の何処かで誰かが呟いた。
(俺……どうしてここにいるんだろう?)
 そう言葉にしたのはちっぽけな自分。オロオロと独り震えている自分。
 たくさんの仲間に囲まれているはずなのに、誰も傍にいない気がして、誰の話しも聞こえてこなくて、自分の声も届いていなかった。
 ぽつんと独り。
 ぽつんと独り。
(俺……何をやってるんだろう?)
(俺……どうしてここにいるんだろう?)
(……なんでこんなことしてるんだろう? ……どうして? どうして? どうして……?)
「ちょっとモンタ! あんた、何泣いてんのよ?」
 突然耳元で声がして、はっと気づくと春久が目の前で目を真ん丸くして突っ立っていた。
「ど、どうしたの? 具合が悪いの? んー?」
 心配そうな声が耳に入る。保はぼんやりと彼を見つめ返した。
 気がついたら、涙で頬が濡れていた。
 知らないうちにポロポロとこぼれ落ちて、子供みたいに泣いていた。
 あとからあとから止めようもなく、熱い滴が溢れ出る。頬をつたって顎から滴って、ピンクのドレスを冷たく濡らす。
 保は泣いてる自分を隠そうともせず、じっと眼前の春久を見つめた。
 春久が心配そうにそこにいた。綺麗に飾った顔。いっぱいの厚化粧。だけどそこには、本物の彼がいた。
 言葉が涙と同じように唇からこぼれていった。
「……だって……なんて言えばいいのかわからなかった……。どう答えればいいのか、わからなかったんだ……」
「はあ? なにが、なんですって?」
「だって……嘘はいらないって……そう言われたら……、何も……。俺、全部嘘だもん。なにもかもも、嘘だらけなんだもん」
 突然泣き出しては訳もわからぬことを口走る保に、春久は困ったように眉をひそめた。
「ちょっ……、ねえ、ちゃんとわかるように話してよ。モンタ。泣かなくていいからね?」
 それこそ子供をあやすように、頭に手を添えて優しく撫でて言い聞かした。保はずずっと鼻を啜って、力なくぺたんとその場に座り込んだ。
 春久がすぐ傍に同じように腰を下ろす。いつのまにか周りの皆もすっかり大騒ぎを止めて、真面目な顔をして集まってきていた。大音響のBGMも止められて、先ほどまでの喧騒が嘘のように静まりかえっている。
「ひっく……」
 保は半べそをかきながら、何もかも包み隠さず喋りつくした。表の世界の秘密だの、内緒の自分だのはもうどうでもよかった。誰が聞いていても関係なかった。今何もかも話さなければ自分が壊れてしまう気がしたから。
 保が川原とのいきさつを話し終える頃には、そこはすっかり臨時の悩み事相談室のようになっていて、中には同情して泣き出す者さえいる始末だった。
「うううっ、モンタ可哀相。あんまりよねぇ、そんなの」
「そうそう、仕方ないじゃないのよねぇ、隠しちゃうのはさぁ。私だっておいそれとは打ち明けられないわよぉ」
「だよねぇ。オレだって親兄弟どころか、ダチにだって内緒だもんなぁ。こんなことやってるってさ」
「モンタは悪くない! 悪いのはその男! DQの辛い気持ちもわからないなんて」
 普段は互いにプライベートなことは口にしない、口を出さないのが暗黙の了解だったが、一度火がついてしまうと、それぞれに思う部分はいろいろあるようで、なんとなく険悪で重たい空気が漂い始めた。楽しいはずのパーティが危うくぶち壊しになりかけた時、そんな暗い雰囲気を振り払おうとしたのは春久だった。
「まあまあ、ここで文句並べたって始まらないわよ。相手にだって、いろいろ事情があるんだしさぁ。それよりパーティ続けましょうよ。それこそ、皆で落ち込んでてもしょーがないでしょ? こんな時は騒ぐのが一番。ほらほら。パーッといくわよ、パーっと。キクちゃん、音楽音楽」
 静まりきったムードを元に戻すように、春久はパンパンと手を叩いて床に座り込んでいる皆を促した。いまだブツブツ文句をつぶやく者もいたが、それでもまた音楽が鳴りだし、誰かが新しいボトルを開けて皆に注ぎ回る頃には、また笑みとバカ騒ぎが戻りつつあった。
 保は部屋の隅っこに連れていかれて、ワインをもう一杯握らされた。ドイツ産の甘い甘い白ワインだった。いつもは渋い赤しか口にしない保だが、その時の白ワインはなんだか妙に美味く感じた。とろりとした甘さが、口の中にふんわりと広がる。優しく心を慰めてくれる。なみなみだったグラスが空くころには、気持ちも落ち着き、また周りもすっかり元の賑やかさを取り戻していた。
 保はぼんやりと目の前を眺めていた。
 身も心も脱力感を感じた。だがそれは、決して嫌な感じのものではなかった。詰め込まれていた思いがいっきに吐き出された後の、心地良い気だるさのようなもの。何もかもさらけ出してしまった自分に対する、滑稽なほどの清清しさ。諦めと自嘲と、そして、これで良かったのだという不思議な満足。そんなものが心の中にあった。
 しばらくして、春久がやってきた。保の空いたグラスにもう一度酒を注ぐと、自分も一杯ついで横の椅子にどっかりと腰を下ろした。しばしの沈黙があり、やがて穏やかな口調で話しかけてきた。
「落ちついた?」
 保はちらりと横目で彼を窺い見た。醜態をさらけ出した友人を気遣ってか、春久は前を向いたままである。保はうつむき、ちょっと照れくさそうに答えた。
「……恥ずかしい」
 火照る頬を隠すように、片肘ついた顔を反対側に背けた。
「人前で泣いたのなんて初めてだ。穴があったら入りたい」
 春久はふふっと小さく鼻で笑った。
「まあ、たまにはいいんじゃない? 人生で一度やニ度は死ぬほど恥ずかしい目に会ったってさ」
 いつもと変わらぬ、彼独特ののんびりとした話し方だ。慰める言葉も同じ。強く叱咤激励するのではなく、やんわりとなにげなく背中を押してくれてる感じの言葉。たとえその口調はオネエでも、それはやっぱり春久そのものだった。
 二人はまた少しの間沈黙していたが、そのうち保が心配そうにつぶやいた。
「……春久?」
「ん?」
「俺のこと……軽蔑した?」
 春久は驚いたような顔で尋ね返した。
「なんでぇ? 何を軽蔑するって言うのよ」
「だって……俺、男を好きになった……。そういう趣味の人間だったって……」
「同性愛者ってこと? だから軽蔑するって?」
 保がコクンとうなづくと、春久は呆れたように笑った。
「あのさぁ、お互いこんな恰好して、今更軽蔑も何もないと思わない?」
 彼はいつもと変わらぬ笑顔を向けて、あっけらかんとしてそう言った。それでも保は、不安げに言い返した。
「でも、おまえは……女装はするけど、恋愛は女だろ? 普通の世界に戻れば普通の男で、まともな趣味でさ……。でも俺は、違う……ホモなんて、普通じゃないし……」
 言葉を濁してうつむく保に、春久はしばらく考えあぐねるように沈黙していた。やがて黄色のつけ毛で飾りたてた頭をカリカリと指でひっかき、ゆっくりと語り始めた。
「えーとさぁ……」
 目の前でドンちゃん騒ぎをしているDQ仲間を眺めながら、一言一言噛み締めるように話し出す。
「ねえ、モンタはさ、DQやるの単なる遊びじゃない? 気晴らしって言うのかなぁ。別にやめようと思えば、すぐにでもやめられる、それぐらいのものでしょ? でもね、アタシはそうじゃないんだなぁ。これでもね、結構切実なわけよ。気晴らしなんてもんじゃない。こーゆー世界にいなきゃ、普通の世界でちゃんとやってけないの。春久康介の中のスージーはね、もう一人の自分なの。二人でどうにかひとつの人間を形作ってるわけ。どっちが欠けても、きっとまともに生きてはいけないんだと思うんだ。それって、全然普通じゃないわよねぇ」
 話し方や態度はいつも通りののほほんとした軽さだったが、話している内容はしっかり重たいものだった。保ですら気づかなかった本当の春久の姿。多分彼の中で何度も何度も問われ続け、否定と肯定を繰り返された真実だろう。
 それをさらりと語って聞かせる春久は、保にとって新たな発見に思えた。だがそれと同時に、そんな彼の強さと明るさみたいなものを、ちゃんと以前からわかっていた気がする。いかにも彼らしいと感じてしまう。
 保がじっと見つめている中で、春久はふふっと笑って肩をすくめた。
「女装しなきゃやってられないアタシと、男を愛しちゃったアンタと、いったいどれだけ違いがあるってのよ? ハハッ、どっちも充分変態じゃない。軽蔑なんてするわけないじゃないのよ、もう」
 普通ならば眉をしかめられそうな人生の難題を、陽気に笑い飛ばす彼の優しさが心から嬉しかった。保は胸に溢れる感謝の気持ちを、そのまま素直に口にした。
「……ありがと、春久」
 春久はちょっと照れくさそうに微笑み、そしてずいっと顔を寄せて声を潜めて言った。
「で、どうするの? 彼のこと。このまんま終わりにする?」
 興味津々といった瞳である。保は逃げずにその目を見返し、ゆっくりと首を振った。
 そうだ。終わりになんてできない。まだこんなに燃えている自分の心を、見ないふりしてしまいこむなんて絶対にできない。したくない。
 だって彼には、まだ何ひとつ本当のことが伝わっていないのだから。本当の自分を何も伝えていないのだから。
 だが、そう考えて、保は肩を落としうつむいた。表も裏も拒否されてしまった思いを、いったいどう伝えれば良いというのだろう。モンタとしても香坂としての存在も拒まれて、どう向かい合えばいいというのか。
 そんな時、春久が紫色のルージュの唇を歪めて意味ありげに微笑んだ。
「ここはもう、形勢逆転の一発勝負に出るしかないと思わない? ね?」
「どう……するの?」
「つまりさ、アイツの男に賭ける! それだって」
 保はいっそう眉をひそめ首を傾げた。春久の言葉の意味がいまひとつ掴めなかった。
 そんな保を見ながら、春久はニンマリと笑った。それから二人で、朝まで続きそうな喧騒の中、長い間話し合っていた。


 とても良く晴れた午後だった。
 昨日までちらついていた雨も朝はあがり、今は燦燦と太陽の日差しが世界を照らしている。お盆を過ぎたとはいえ、まだまだ暑い夏が空を支配していた。
 だけど、今保のいる部屋には、そんな日差しは入り込んではこなかった。
 何ヶ所かある窓は皆固く二重に閉ざされ、外の様子など窺うことはできない。開けようと思えば開かない窓ではないものの、多分それは、普段から滅多に開かれることはないだう。
 かなり広い部屋の真ん中で、保は一人ベッドに腰掛け、じっと一点を見つめていた。
 それは、賭けだった。
 春久が口にしていた通り、一発逆転を狙う賭け。かなり危険で、無謀な賭け。
 だが保は、それこそその賭けに全てを託していた。
 一生の中で、もしも全身全霊をかけて立ち向かわなければいけない一瞬があるとしたら、まさしく今がその時だ。何がなんでも、頑張らねばならない時。逃げてなんていられない。
 口の中に溜まった唾をコクンと音を立てて飲み込んだ。先ほどから緊張でひどく咽が乾いてたまらない。なのに握り締めたてのひらには、じわりと汗が滲んでいた。
 保は微動だにせず、一点をにらんで、待っていた。
 チャンスというものを。
 今度こそ逃してはいけない、運命というものを。
 それはきっと、間違いなくあのドアの向こうからやってくる。そう信じて、じっと待っていた。
 何の音もないその部屋で、自分の心臓の音だけが、とくとくと規則的に時を刻んでいた。
 

      
                                           ≪続く≫
前の章へ
次の章へ
目次に戻る
感想のページ