シンデレラは嘘をつく |
--act 4 |
保はずっとずっと見つめていた。川原が消えていった夜の街を。行き過ぎる人々の波の向こうを。もうとうに見えなくなった後ろ姿を。 人々が冷ややかな視線を注ぎ、ひそひそと呟いては侮蔑の笑みを投げかけてすれ違う。酔っ払った中年男が突っ立ったままの彼にぶつかって、気をつけろと酒臭い息で捨て台詞を吐いていく。 そんな中で、保はいつまでも立ち尽くしていた。 ――俺、ゲイじゃない。 そう告げた自分の言葉と、それを聞いた時の川原の寂しげな顔が、頭の中で何度もリピートした。川原を傷つけて、自分自身をも傷つけて……。 それは幾度も幾度も甦っては消えていく哀しい歌のワンフレーズのよう。忘れたいのに頭にこびりついた、せつない恋愛映画の別れのシーンのよう……。 保は外商部の自分のデスクにつくと、ほうっと深くため息をついた。 今朝ほど演じて生きるということを辛いと思った朝はなかった。 いつものように通用口で警備員に笑顔で挨拶をし、暗い気持ちで乗りこんだ従業員エレベーターの中では、次々とかけられるおはようの声に爽やかに応えて返した。背筋を真っ直ぐに伸ばし、きびきびと足取りも軽く、風を切って颯爽と通路を歩く。そんな自分の姿に反吐が出るほど違和を感じた。 (こんなんじゃない……、こうじゃないんだ、俺……) 自分の中にあるそんな叫びを、彼は初めてしっかりと意識していた。 今自分がやりたいことは、誰とも顔を合わせずたった一人で部屋に閉じこもって、ベッドに突っ伏して思いっきり後悔する、ただそれだけだった。でなけりゃ、なにも考えられなくなるほどヤケ酒を食らって、わけもわからないまま寝ることだ。少なくとも、人前で何の悩みもなさそうにヘラヘラ笑っていることではない。 それでも、とりあえず外商部まで辿り着くと多少ではあったがほっとして、保はコーヒーを自分で入れてきては、音を立てて啜っていた。と、突然上司に呼びつけられた。 「はい、なんですか、チーフ?」 「香坂、おまえ今日は特に外出の予定は入ってなかったよな?」 まだ若い上司が探るように聞いてくる。 「は? ……えーと、はい、外まわりの方は特に。何件かお客様がいらっしゃるとは思いますが」 「そうか。じゃ、おまえ、今日中元コーナーの手伝いにまわってくれ。一人助っ人出すように人事から言われてんだ」 保はギョッとして聞き返した。 「ええっ、中元部にですか? 俺が?」 思わず素っ頓狂な声をあげると、上司はじろりと冷ややかににらみ返した。 「ああ、おまえがだよ。今日が一番の稼ぎ時だからな。あそこも人手が足りないんだ。頼んだぞ、香坂」 チーフはにやりと笑ってそう言った。保はゲッソリした気分を思わず全面に漂わせながら、それでも顔だけはひきつった笑みを浮かべて「はい」と小さくうなずいた。 お中元やお歳暮といった一時的に忙しい特別歳時の売り場には、いつもは販売になど立たないような部署からも社員が応援に行かされるのはしばしばあることである。いよいよ切羽詰れば、店長だって売り場に立って接客に努めるのが客商売というもの。 特に保のような若い社員は貧乏くじを引かされる場合も多くて、いつもはヤレヤレと思いつつも、それほど嫌がることもなく応じるのだったが、今回限りは場所が場所だけにどうにも気が向かないことこの上なかった。 中元部には川原がいる……。 そう考えただけで、思わず深いため息が漏れた。 昨日のあの1件さえなければ、彼と同じ職場に一日回されるなんて顔がにやけるほど嬉しいことだったかもしれない。が、今となっては、ほとんど拷問に近い所業である。もっとも、何も知らない川原にとっては、なんの意味もない事だということだけが救いのようなものではあったのだが。 保は手にしたコーヒーを時間ギリギリまで粘って飲み干すと、重い腰を上げて中元部へと向かった。 売り場は開店前の準備でたいそう忙しそうだった。春久がにこやかに声をかけてきたが、ニ・三言葉を交わしただけですぐに慌ただしく行ってしまう。保は慣れない職場に戸惑いを感じつつも、積極的に周りに声をかけて仕事を探した。もちろん開店してしまえば、ぼうっとつっ立ってるなんてしたくても出来ないほど忙しくなるのだろうが、今この一瞬でさえ、何もせずにいるのはやりきれない。 若い女子社員に頼まれてバックルームに荷物を持っていくと、そこでバッタリと川原に出会った。 表売り場には出ず、もっぱら裏で商品の包装だの配達の補助作業などをしている彼は、相変わらずTシャツにジーンズの軽装である。 「あれ? おはようございます、香坂さん。どうしたんですか、こんな所で?」 すぐに保に気づいて笑顔で挨拶を交わしてきた彼は、いつもと何も変わらない様子に見えた。 川原を前にするだけで、ズキズキと胸が痛む。保はそんな思いをひた隠して、にっこりと微笑んで返した。 「うん、今日は一日助っ人なんだ。慣れない店員さんだけど、よろしく頼むね」 「ああ、そうなんですか。こちらこそよろしく……って、バイトの俺が言うのもなんだけど」 川原はハハッと軽く笑った。楽しそうな笑顔からは、とても昨日のあの一瞬の表情などは想像ができなかった。いや、もしかしたら、一晩たったらすっかり忘れてしまえるほどの、些細な出来事だったのかもしれない。彼にとっては、モンタ一人など取るに足らない存在なのだ……。 そんな風に考えると胸がきゅっと締めつけられる。筋の通らない苦痛。不可解な心情だった。 「あの……」 思わず声をかけかけたところで、売り場の方から呼び出しがかかった。保は立ち去りがたい思いを抱えながらも、じゃあと言い残して彼の元を離れた。ぐるぐると黒い雲みたいな苛立ちが頭の中で回っていた。 (俺……何を言うつもりだったんだ? いったい、どうするって言うんだ……) まるで出口のない迷路で、見えない答を探しているようであった。 その日一日保は目一杯接客に終われて、彼と話したりゆっくり顔を会わせたりする機会は少しも持てなかった。むろん、そんなものを期待していたわけではない。顔をあわせただけでドキドキしてジンジン痛むような気持ちのままでは、どう接すればよいのかさえわからない。 だが、視線は彼を追った。何かの折に裏に入るたびに、そこに彼の姿を探した。川原を追い求めた。 昨日逃がしてしまった蝶々が恋しくて恋しくてたまらなかった。自分から開けた籠の蓋だった筈なのに……。 結局朝の挨拶以外何も話せないまま、目の回るような日曜日はあっという間に過ぎた。売上げも順調で、予定していた金額を大きく上回ったと皆が喜んだところで、ようやく一日の仕事が終わる。後片づけを手早くこなす店員達と一緒にお手伝い残業までつきあって、最後に保は少しだけ疲れた笑みを浮かべた。 「じゃ、俺そろそろ帰らせてもらうから。お疲れ様」 と、春久が慌てて引きとめた。 「ああ、待てって。これからちょいと仲間内で、売上げ達成の打ち上げやるんだよ。おまえも来いよ、香坂」 「打ち上げ?」 保は躊躇した。とても皆で飲んで騒ぐような気分ではなかったからだ。だがためらう保の横で、春久がちょうど出てきた裏方のバイトたちにも陽気に声をかけた。 「おーい、おまえらも行くだろ、打ち上げ? とりあえず一番のピークは終わったし、パアッと飲もうぜ」 バイト社員の中には川原の姿もあった。皆が大学生らしい彼らはすぐに話に乗ってきた。一人川原だけが少し迷う素振りを見せたが、保と視線が会うと、にっこりと笑ってうなづいた。 保は何気なく瞳を逸らしながら、ボソリとつぶやいた。 「……じゃ、ちょっとだけつきあおうかな? 俺、部外者で悪いけど」 その場にいた女子社員達が嬉しそうにキャアと騒ぐ。憧れの保が飛び入り参加と決まって、にわかに活気付く彼らの横で、保はこっそりと川原を見た。バイトの仲間と笑って会話を交わしている彼に視線が釘付けられた。 今朝はあれほど会いたくないと思った相手だったのに、いざ顔をあわせてみたら、もう目が離せなかった。このままあっさり彼と別れたくない。たとえどんな機会であろうとも、少しでも彼の傍にいたい。彼をこの目で見ていたい、彼の声を聞いていたい。 どうしてこれほどにも求めてしまうのだろうか。自分から突き放した相手なのに。背中を向けた筈の恋だというのに。 (……恋? 俺、あいつが好き……なのか?) わからない。恋愛なんてしたことない……。 保は答を求めるように彼を見つめた。川原がそんな視線に気づいて、ちょっと不思議そうな表情で微笑を返してきた。だけど保は逃れるようにうつむいた。本当の答を見つけてしまうのが怖かったから。 その夜の飲み会はなかなか盛況であった。 若い男女が大勢集まって騒いでいるだけでも目立つのだが、デパート業界の華やかな集団は取り分け他の客の目を引いた。もともとデパートに勤める社員らは、職場が職場なので男も女もそれなりにオシャレ上手な者たちが多い。それにくわえて普通の会社員とは違うノリで弾けるものだから、彼らのいる一角には一種独特の雰囲気が漂っていた。 そんな中で保は、鮮やかに外商ニ課の好青年「香坂」を演じていた。爽やかな笑顔に紳士的な振るまい、適当なジョークとほどよいノリ、そんなものをいつものように身にまとう。それはドラッグクィーンとして華やかな衣装を身につけるのと大差なかった。 派手な洋服の代わりに白々しい笑顔を、施す化粧は口先だけの優しい言葉、モンタがわがままいっぱいの夜の小悪魔を演じるならば、「香坂」は真面目で感じの良い人物像を作りあげる。それはどちらもそう難しいことではないのだ。本当の自分を見つけ出してさらけ出すことに比べたなら。 保は皆と明るく騒ぎながら、ちらちらと川原を目で追っていた。 川原は他のバイトの学生らとともに、女子社員らの恰好のオモチャにされていた。もともと年齢などそう変わらない彼らは、保や春久とは違った意味で恋のターゲットのようなものだ。特にとりわけハンサムな川原には擦り寄って行く女の子たちの目の色も違っていたが、当の本人は少々困惑気味に相手をしていた。 そんな状況のせいか、その日の川原は、昨夜保と二人きりの時に見せたようなすっとぼけた陽気さが見られなかった。どことなく控えめで大人しい。 最初の居酒屋を出て2件目の広いカラオケルームに移ってからも、彼は大騒ぎの輪にくわわるでもなく、端のほうで静かに酒を啜っていた。 保はトイレに立った機に乗じて、なにげなく川原の近くに席を変えた。上手い具合に出来あがって弾けている者たちを横に、もっぱら飲み専門と化しているその一群らとたわいのないお喋りをする。時折会話の端端に川原と交し合う笑みが嬉しかった。 そんなところへ、向こうで一番騒ぎまくっていた春久がふと訪れて、陽気に声をかけた。 「なんだなんだ、この辺暗いなあ。なーに盛り下がってるんだ? 唄わないのかぁ?」 保は軽く笑っていなした。 「別に暗く落ち込んでるわけじゃないよ。ちょっと大人に酒と会話を楽しんでいただけだよ。な?」 なにげなく周りの者達に相槌を求めると、皆が可笑しそうにうなづいた。だが、バイト学生の一人が面白そうに口を挟んできた。 「あ、でも、若干一人本当に落ち込んでる奴がいますよ? こいつ、昨日好きな奴にふられたって言って、朝からメッチャ元気ないんですってば。とうにかしてやってくださいよー」 そう言って笑いながら横に座った川原の肩をバンバンと叩く。川原はポッと赤面して、怒ったように顔をしかめた。 「おい、やめろって」 「なんだよ? いいじゃん、ヤケ酒でもパーッと奢ってもらえば?」 「バカ、なに言ってんだよ」 軽く言い争いをしている二人に、春久が同情と言うよりは興味津々といった感じで話しかけた。 「なんだ、マジに失恋したのかよ、川原?」 川原は少し恥ずかしそうに、唇をつき出してうなずいた。 「はあ……まあ……」 「へええ、女子社員にモテモテくんのおまえでも失恋なんてするんだねぇ。ふううん、なーんか嬉しいねぇ、そういうのって。なあ。おい?」 春久は慰めるでもなく楽しそうに周りの者たちに同意を求める。皆が声を立てて笑った。 「やだなあ、晴久さんにそんなこと言われても、俺たち素直にうなずけないっすよねー」 「そうそう、自分だってモテモテのくせによぉ、この野郎」 あっけらかんと笑いあう男たちの中で、保だけはひきつった笑みを浮かべていた。 昨日ふられた……。好きな相手に……。 それって、もしかして自分のことか? 川原は本気でモンタの保に恋して、そして失恋したと落ち込んでいるのだろうか。昨日のキスは、本当のキスだった? ただの遊びではなくって……。 思わずじっと見つめていると、ふいに顔を上げた彼と視線があった。ドクンと鼓動が大きく高鳴り、全身が熱くなった。目を逸らさなければと思いつつ、それっきり動くことが出来ない。川原とみつめあい、どうしていいかわからなくてドキドキしていると、周りにいた一人がなにげなく尋ねかけた。 「ふられたって……喧嘩でもしたのか? おまえ、なんか悪いことでもしたんじゃないの?」 冗談混じりで笑いながら尋ねる相手に、川原はうつむき照れくさそうに喋った。 「別に悪いことなんか……。だいたい喧嘩もなにも、もともとつきあってるわけでもなくって、ただ一方的に俺の片思いみたいな感じで、それが昨日決定的になったというか、俺の勘違いだったというか……」 ぶつぶつ独り言のように愚痴る彼に、皆がよってたかってからかう。 「なんだ、そーゆーのふられたっていわないじゃないかよ。最初っから相手にされてなかったんじゃないか」 「バッカだねぇ、おまえ。脈のない女にいれこんでたのかぁ?」 「ああ、青春だねぇ、片思い。若者はそうやって大人になっていくんだよなぁ」 失恋を冗談の殻でくるんで笑い事として済まそうとする、男たちのちょっと手荒ないたわり方に、川原はむっつりと膨れて言い返した。 「もう、いいじゃないですか。ほっといてくださいよ、俺本気で落ち込んでるんですから」 春久がいっそう面白そうにからかった。 「なに言ってんの。こーんな楽しい話題、そうそう簡単に見逃してやれないよなぁ。な、香坂?」 なにげなく話をふられて、保は驚き、勢いのままうなずいてしまった。皆がなんとなく会話の続きを期待した眼差しを向けてくるもので、雰囲気に飲まれ、思わずとんでもないことを口にした。 「川……原くんをふるぐらいだから、随分ひどい性格の子なんだろうなぁ。ふられてよかったんじゃない?」 言ってしまってからハッとした。そんな、無神経な発言をすべきではなかった。そんな言い方をしてしまっては、きっと川原の性格上笑って済ませることが出来なくなる。ましてや、単なる好きだ嫌いだの問題だけではない事情の全てを知り尽くしているだけに、なおのこと言ってはいけない言葉であった。 案の定、先ほどまでのとぼけた雰囲気は消え、川原は真面目な顔にちょっとだけ哀しげな笑みと、そしてほんの少しの怒りを秘めて、静かに応えた。 「性格、悪い子じゃないです、全然。ちょっとつっぱってるけど、根は素直だし。それに、ふられたのは俺の勘違いで、むこうにとってはいい迷惑だったんだろうから……」 明らかに笑い話の域を越えてしまったという彼の口調に、たちまちその場がしんと静まった。保は冷たい汗が額に浮きあがるのを感じながら、蒼ざめた顔でつぶやいた。 「……ごめん、ひどい言い方……してしまって……」 それっきり言葉にならず、思わず深くうつむいた。 謝るにしても、もっと軽い言い方で謝罪して大袈裟に頭のひとつでも下げておけば、そのままジョークの波の中に紛れ込ませてしまえたのだろうが、当然ながら保にそんな余裕などあるわけもなくて、その深刻な雰囲気にますます場が冷たく凍りつく。 それを打ち消そうとしたのは、誰あらぬ川原自身であった。 「あ、いや、なんか俺もむきになっちゃって……すみません。いいんです、別に」 慌てて照れたように頭を掻いては、いつもと変わらぬ笑顔を見せる。皆もつられるように作り笑顔を浮かべて返したが、一度暗く落ち込んだ場の空気は、そう簡単にはもとには戻らなかった。 その後誰ともなく違う話題を持ち出してはみたものの、なんとなく交わす会話がぎこちない。 それを敏感に察したか、それとも自分自身その場にいることが辛くなったのか、川原はグラスに残った水割りをぐいと飲み干すと、すっと立ち上がって爽やかに言った。 「あ、すみません。俺やっぱりもう帰ります。じゃ」 そうしてさっさと一人帰っていってしまった。残された皆は、多少の同情と多少の安堵の気持ちで彼を見送っていた。 保もまた黙って川原を見送っていた。が、彼が姿を消してしまうと、どうにもいたたまれない想いが吹きだしてきた。このまま別れてしまったら、きっとまた後悔する。これっきり、昼の顔の時ですら彼とまともに会えなくなってしまう。そんなの、いやだ……。 保は腰をあげ、早口でまくした。 「悪いけど、俺もお先に失礼するよ。ごめん」 呆気に取られている春久に適当な金を渡すと、誰に何を言わせる間もなく大急ぎで部屋を出て、先に出ていった川原の後を追った。 カラオケのあったビルを飛び出し、必死になって辺りを見まわすと、そう時間に差はなかったので、すぐに川原の姿は見つかった。10メートルほど先の道を一人寂しげに歩いている。保は焦って彼を呼びとめた。 「川原くん!」 川原は振りかえり、そこに保の姿を見つけて驚いたように目をむいた。 「香坂さん……」 保は彼の傍まで走り寄っていくと、息を切らしながら話しかけた。 「あ、あのさ……」 だが、いざ口を開いたものの、なにをどう言えばよいのかわからなかった。改めて再度謝るのも奇妙だし、かといって、この状況で先ほどの話をまるっきりうやむやにするのもなんだかおかしい。保が彼を追いかけてきたのは見え見えなのだから。 しばし言いよどみ、やがて困ったような笑みで口元を歪め、ポツリと言った。 「ヤケ酒、おごろうか?」 川原は一瞬真丸く目を見張り、そしてすぐににっこりと破顔した。 「いいですね。思いっきり飲ませてもらおうかな?」 「うん」 保はホッとして微笑み返した。 保にとってそれは償いでもなんにもなく、ましてや慰めでもあろう筈がなく、ただひたすら彼と一緒にいたいから、その傍で少しでも長く彼を見つめていたいから……それだけの理由だった。ある意味とても純粋な気持ちだったのだ。それがあとでどんな結果をもたらすなど考えも及ばぬほどに。 二人は近くのパブに入ると、カウンターの端で穏やかに飲み交わした。 最初は先ほどのわだかまりもあって多少ぎこちなかったが、盃を重ねるうちにすぐに打ち解け、二人は楽しく談笑した。さすがに失恋絡みの話題はお互いに触れようとはしなかったが、代わりにスポーツの話やら大学のことやら、川原は屈託なくいろいろと話してくれた。 それを聞くのはとても楽しかった。たとえその瞳に、モンタとして逢っている時のような甘く誘う色がなかったとしても、保は向きあって話しているだけで満足だった。肩が時折そっと触れ、柔らかな髪が近くで揺れるたびに胸がドキンと震えてしまう。彼が優しく笑顔を向けてくれると、それだけで幸福な気持ちになれる。 そんな夢のような時間に、少し酔っていたのかもしれない。 いつのまにか「香坂」としての作り笑顔が消えてしまっていたことを、保には気づく筈もなかった。昨夜のモンタが、無防備に、そしてこぼれるような艶やかさで微笑んで、川原を魅了したように。 「香坂さんて……綺麗な顔してるんだ」 ふいにそんなつぶやきを聞かされて、保はビックリして問い返した。 「は?」 「あ、すみません、変なこと言っちゃったかな」 川原はへらへらと笑って謝った。だがそう言いながらも、じっと熱い眼差しで保を見つめていた。瞳は酒に潤んで、とろんと甘やかな色を湛えている。そして同じだけの甘い口調で独り言のように話した。 「香坂さん、きっと男にも女にも、すごくもてるんでしょうね。だって、ほんとに話してると楽しい。ハンサムだし、優しいし、仕事もできるし、すげぇかっこいい……。俺が女なら、絶対一目惚れしてた。残念だなぁ」 思いもがけぬ賛辞に、保はすっかり戸惑って耳の先まで赤くした。モンタとして言われた時もそうだったが、彼の誉め言葉には妙に本気を感じさせ信じ込ませる何かがあった。いつもなら爽やかに笑って、さらりと受け流す余裕があるのに、彼にだけはまるっきり振りまわされっぱなしだ。 ましてや、好きな相手に一目惚れしてたかも、などという殺し文句を聞かされた日には、たとえ冗談だとわかってはいても、適当にいなすことなど出来るはずもない。 保は赤面しながら、戒めるように上目づかいで見上げた。 「川原くん、酔ってる?」 川原はくすくすっと自嘲するように笑った。 「やっぱ酔ってるのかなぁ? いっぱい飲ませてもらっちゃったからなぁ。香坂さんくどくなんて、まともじゃないですよね、ハハ」 (く、くどくって……) 保はいっそう顔を赤くし、声もなくうつむいた。どんな反応を返したらいいんだか、まるっきりわからなかった。 だが決していやな気分ではなかった。このまま「香坂」として彼と楽しくつきあっていけるのなら、それはそれできっと幸せに違いない。昨日のような辛い思いを抱えて後悔して生きるよりはずっとましだ。たとえそこに恋愛感情がないにしても。 モンタを彼の中から消してしまえたなら……。 しかし、そんな淡い期待は、その後の川原の言葉であっけなく崩された。 川原はたった今まで楽しそうに笑っていた顔を曇らせて、カウンターに片肘ついたてのひらで額を抱えるようにして顔を伏せた。 しばらく黙り込んでいたが、やがてボソリとつぶやいた。 「……ふられてヤケ酒飲んで酔っぱらって、情けないな、俺。……でも、結構マジだったから……。まだたった二回しか逢ってないのに、俺かなり本気でいかれてた。だから……今こうしていても、ほんとは少しも忘れてなんていない……。辛い……」 「川原くん……」 まるで泣いているような彼の悲鳴を聞いて、保もまた黙り込んだ。胸が痛む。ズキズキと痛む。張り裂けそうに疼いている。 彼を傷つけてしまった良心の呵責と、こんな風にそれを聞かなければならなかった後悔と、彼をだましているという罪の意識、そしてなによりも……本当の自分の気持ちを打ち明けられない苦しみと痛みが、保の中で大きく膨れあがった。 (俺……俺だって、ほんとは……) その先の言葉を、自分の心の中でつぶやくことすら、保には怖かった。 落ち込んでいる川原の傍らで、保は成すすべもなく目を伏せていた。親指を口にやり、曲げた関節をきゅっと小さく前歯で噛む。そんな自分でも知らない癖を、じっと川原が見つめていることにさえ気づかないで。 川原は無言のまま保を見ていたが、やがて微かにその表情を曇らせた。目をすがめ、何かを見つけたかのようにじっと凝視する。そのうち、何かを言いたげに名をつぶやいた。 「……香坂……さん?」 「え?」 保が顔を上げると、川原は一瞬怪訝そうに眉をしかめたが、すぐに呆れたように自嘲し、頭を振った。 「……あ、いや……。俺、ほんとに飲み過ぎたみたいだ。……そろそろ帰ります」 「ああ、うん」 保は素直に腰をあげ、胸元に手を入れて財布を探った。川原が気づいて、声をかけてきた。 「あ、金、ワリカンで」 「いいよ、おごるって約束だったんだから」 保は微笑んで彼の申し出を退けると、さっさとレジの前まで行ってカードを出した。差し出された伝票にサインをしていると、何故か川原がじっとその手元を見つめていることに気づいた。 「なに?」 「いいえ……」 問いかけると、すぐに彼は素っ気無く答えて、さっさと一人先に店を出ていってしまった。 支払いを済ませて保が外に出ると、そこに川原は待っていた。ジーンズのポケットに手を突っ込み、スポーツシューズの先でコツコツとアスファルトの地面を蹴っている。夜の湿った風が、うつむいた彼の髪を柔らかに躍らせている。 川原は保が寄っていっても視線をずっと足元に落としたまま、しばらく黙り込んでいたが、やがてボソリと低い声でつぶやいた。 「今日おごってもらうんなら、昨日は俺が払うんだったな、やっぱり……」 一瞬その言葉にどんな意味があるのか、保にはわからなかった。 そんな別に……と応えかけて、初めてその内容を噛み締める。 昨日……昨日とは……、どういう意味なんだろう……。言葉そのものの意味なのだろうか? だとしたら、彼は何を言っているのか。昨日払うって、なんの話だ? 彼は何を言っているんだ……? 保はゆっくりと彼を見た。川原はにらみつけていた地面から視線を上げ、それを保に移してじっと見つめ返した。口元がゆうるりと微笑んだ。 「モンタ……でしょ?」 その微笑に、保は全身から血の気が引いていくような思いがした。 どうしてこんなにも突然ばれてしまったのか……、そんな疑問よりもなによりも、彼に全てを気づかれてしまったというその事実が、保を激しく打ちのめした。心臓がバクバクと騒いでる。だがそれは甘いときめきではない。ただただショックで、今にも壊れてしまいそうなだけ。 保が言葉もなく蒼白になって立ち尽くしていると、川原は少し嘲るように笑って、ニ・三歩足を進めながら喋った。 「なんとなく顔立ちが似てるとは思ってたけど、まさかって感じで疑ってもいなかった。今日こんな風にゆっくり二人で飲まなかったら、俺、きっとずうっとだまされていたな。全然別人なんだもん。……ハハ、まいったな」 「…………」 保は何も言えなかった。何も考えられなかった。頭の中が真っ白で、どんなごまかしも言い訳も思い浮かばなかった 川原もまた、それっきり口をつぐんだ。責めるでもなく、怒るでもなく、ずっと沈黙したまま射るような眼差しを向けてくる。だがやがて、ふっと小さな吐息をついたかと思うと、深深と礼儀正しく頭を下げた。 「おごってくれてありがとうございました。酒、美味しかったです」 そしてそのまま背を向けて歩き去ろうとした。保は焦って彼を引きとめた。 「か、川原くん!」 川原は足を止め、ゆっくりと振りかえった。その顔は表情こそいつものそれと変わらなかったが、瞳はいつになく険しくて冷たかった。静かに怒っていた。 保はきゅっと体の芯が縮みあがるのを感じながら、震える声で必死になって話した。 「あの……だます、気なんてなくて……ただ、言い出せなくて……」 上手く言葉が見つからなくて、焦る気持ちがいっそう声を詰まらせる。 川原は黙って聞いていたが、それでも少し落ちついたのか、突き刺すような眼差しをふっと逸らすと大きくため息をついた。じっと何かを考えこみ、やがて顔を上げると柔らかく微笑んでみせた。 「わかってますよ。そっちの事情は俺だってわかります。大丈夫、人に言いふらしたりしませんから。俺だってゲイだってばらされるの困るし。ましてやあなたにふられちゃった身ですからね。ストレートに勝手に片思いして失恋したなんて、みっともなくて誰にも話せたもんじゃないですよ。だからお互い全部忘れましょう、なにもかも」 穏やかな口調で彼は言った。だが最後の言葉はキッパリとしていた。 全部忘れよう……。 それは文字通り、二人の間にはなにもなかったことにしようという彼の意志だった。 昼と夜に出会ったこと、モンタとして交わした会話もくちづけも、香坂としてすごした楽しいひとときも、なにもかもすべて無に帰す、存在しなかったことにしてしまおうと、彼は言っているのだ。そしてそれは、互いの想いをも消してしまうことに他ならなかった。 保は締めつけられそうな痛みを全身に感じた。この想いを否定する……。初めて感じた甘い感情を、胸のときめきもせつないほどの愛しさも、優しく自分を見つめてくれた川原の瞳の記憶すら忘れてしまえと言うのか。 なにもかも、なくしてしまわなければいけないのか。そんなこと……できる筈もない。 「わ、忘れなきゃ、いけないのか?」 保は震える声で聞き返した。川原が少し怒ったように言い返す。 「だって覚えている意味ないでしょう?」 「……あるよ、意味。だって……俺、きみのこと、好き……だと思う、多分……」 するりと言葉がこぼれでた。 あれほど自分の中でわだかまっていた言葉だったのに、それは驚くほど自然に唇から流れていった。 途切れ途切れのたどたどしい言い方ではあったが、なんの虚飾もない素直な感情、保の中のそのままの言葉。一番伝えたい言葉だった。 だけど、それは少しだけ遅過ぎたのかもしれない……。 川原は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに哀しげな、そして苛立った笑みを浮かべて、低い声で言った。 「いいんですよ、そんなに気をつかってくれなくても。それに、あなたの言う好きと俺の中の好きじゃ、きっと意味が違うから……。もう忘れて下さい。それじゃ」 ペコリと頭を下げ、彼は踵を返して歩き出した。 「待ってくれ!」 保は必死になって追いすがった。背中を向けたままの彼に、懸命に想いを投げかける。 「違うんだ……俺、ほんとに……」 だがそれは、川原の言葉に遮られた。 「香坂さん」 鋭い声が保を貫く。川原は振りかえろうともせず、冷たく言い放った。 「もう、嘘はいいです」 まるで……氷の欠片だった。 保は立ち尽くしたまま、川原が立ち去っていくのを見つめていた。それは二度目の光景だったが、もう二度とないのだとわかっていた。 もう彼の後ろ姿を追うことすら許されない。これっきりで、永遠に終わる一瞬……。 保はいつまでも彼を見送っていた。 ≪続く≫ |