シンデレラは嘘をつく

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--act  6                       

 とても良く晴れた午後だった。
 爽快に広がった青空の真ん中で、お日様が我が物顔で眼下を見下ろしている。お盆を過ぎたとはいえ、まだまだ世界はいやになるほど暑かった。
 表通りから一本奥まった路地にある、洒落た小さなカフェテラス。レトロチックに装飾された店内は薄暗くて、強烈な午後の日差しに疲れた目を優しく癒してくれた。漂うコーヒーの香り、静かな音楽、控えめに交される客たちの会話。そんな穏やかな空間の片隅で、川原はちらりと腕時計を見た。
 ここに来て、これで四度目の行為である。
 定休日の真っ昼間から春久に電話で呼び出されて、落ち合う約束であった時刻はすでに30分も過ぎていた。
 特に予定がないとはいえ、さすがにこれだけ待ちぼうけを食わせられては、大らかな川原だっていらついてくる。とっくに飲み干したグラスに無意識に手を伸ばしては、それが溶けた氷の残骸なのを見て、ちっと小さく舌打ちした。
(おっそいなぁ、春久さん。帰っちまうぞ、もう……)
 心の中で文句を呟いては、ハアと大きなため息をついてまた扉にちらりと目をやった。
 春久にこんな風に休みの日に呼ばれるなんて、初めてのことだった。デパートで1ヶ月近く毎日顔をあわせてはいるものの、店を離れてしまえば所詮は社員とバイト、深い交友関係などあるはずもない。仕事帰りにそのまま一緒に飲みに行くことはあっても、わざわざ休みに互いに足を運んで外で会うなんて思いもつかなかったことである。
 いったいなんの用事だろうといぶかしみながら待っていると、ふいに入り口の扉につけられたベルがカラコロンと爽やかな音を立てた。川原は期待してそちらに顔を向けた。そして、そのまま唖然として凍りついた。
 入ってきた客は待ちわびた相手ではなく、しかも普通の客ですらなく、一度見たら目が離せない、とてもじゃないがさらりと視線を逸らすことなどできないほどの、異様な姿をした者達の集団であったのだ。
 五・六人もいるであろうか。彼らは皆、見るからに男であった。その生まれもった性別は否定しようもなく、剥き出しの肩や腕には女性の柔らかなラインは見られない。その代わりに、服装だけは性別が際立っていて、皆素晴らしく女性っぽかった。いや、過剰なほどの女らしさとでも言うのだろうか。
 夏らしく白いレースや透けた薄い生地のトップはことさらフェミニン性を強調して、ひらひらギャザーやらフリルやらでにぎやかに飾り立てられていた。下はロングにミニといろいろではあるが、誰もがスカート姿で、しかもトップに負けぬほど可愛らしいデザインの代物ばかりである。
 服だけとりあげれば、多少ブリブリだが、どこぞのお嬢様が身につけていてもおかしくないようなもの。しかしそれを身長170をとうに越えるごつい身体の男達が着れば、異様なことこの上ない。
 しかも、服装に合わせて被ったくりくり縦ロールのロンゲのかつらと、服装に合わない厚化粧とに後押しされて、その不気味さはまさに極みに達していた。
 川原はぽかんと口を開けてその白いブリブリ集団を凝視した。いや、勿論、見ているのは川原だけではなく、その店にいた誰もが目を奪われていたのだが。
 集団の男たちは店内に入ってくるなり、口々に低い声でうなった。
「あーっ、涼しいっ! うーんん、天国ぅ!」
「ほーんと。外とは大違いだぁ。気持ちいいーっ」
「も、こんな昼間っからやってられないわよねぇ。化粧が汗で流れちゃうわよ。あーやだやだ」
「スーツも暑いけど、ロングのスカートってのもけっこう暑いんだなぁ。俺もミニにすりゃ良かった。マイクロミニッ! 一度は着てみたいっ、パンティが見えそうなヤツ」
「ひゃっははは、誰もアンタのパンツなんてみたくないってばさー」
 話のノリだけは女子高校生、しかし声は全員男のそれで、しかもヒラヒラブリブリの姿をしているわりには普通の話し言葉とオネエ言葉が入り乱れ、なんとも奇妙な雰囲気を醸し出している。いわゆるニューハーフなどとはちょっと違っタイプのその者たちは、それまでの平穏で落ちついた空間であったその店を、一瞬にして常ならぬ場へと変えてしまった
 周りの呆然とした空気を他所ににぎやかに話す彼らを、中の一人が穏やかに諌めた。
「ちょっと、静かになさいよ。いつものイベント会場とは違うんだから、大きな声でパンティの話なんてしないの。皆さんがびっくりしてるじゃない」
 つばの広い、真っ白なリボンのついたベビードール風の帽子を被ったその男は、ぐるりと店内を見渡し、そしてその視線を1点で止めた。それからにっこりと微笑んで、親しげに川原に声をかけて近寄ってきた。
「はあい、お待たせしちゃってゴメンナサイ。ちょっと着替えに手間取っちゃって、あの子達が」
 そう言ってしなやかに曲げた指で仲間の方を指し示しながら、川原の前に仁王立ちした。川原は呆気に取られたまま目の前の虚構の美女を見つめていたが、ようやく絞り出すように声を漏らした。
「あ、あの……俺、そ、その……人違いじゃ……。あ、貴方みたいな知り合いは……俺」
 その言葉は決して嘘ではなかった。川原はゲイではあったが、フェティッシュ系の友人はほとんどいないのだ。ましてや、少しは見知ったDQにだって、こんなヒラヒラと可愛らしく着飾ったDQには、いまだかってお目にかかったことがない。
 見るからに警戒心と怖気が一杯に溢れた眼差しを向ける川原に、目の前の男はちょっと不服そうに偽物の胸を突き出した。
「やーねぇ、昨日会ったばかりじゃないのよぉ、もう……。ア、タ、シ。アタシよ、ほら。――は・る・ひ・さっ」
 美女がピンクに塗られた唇をツンと突き出して言った言葉を頭の中で三回ほど咀嚼して、川原は一瞬後に大きな声をあげた。
「……春久さんっ? げっ!」
「ちょっと。言うにこと欠いて、げはないでしょ、げは。失礼な子ねぇ」
「だって……」
 川原は改めて目を真ん丸くして彼を見つめた。確かによく見れば顔つきは晴久だし、声もよく聞き慣れたものではあるのだが、これまでに認識してきた彼とはまるっきり別人なので頭がついていかなかった。
 春久はハンサムな容姿のわりにはわりと三枚目系で、宴会でもあれば女装のひとつやふたつは躊躇なくやらかすであろう男ではあった。が、今目の前にいる彼はそんなレベルとは明らかにわけが違った。
 誰に命じられたのでも仕方なくでもない、自分の意志でのその姿。それはいわゆるアンダーグラウンドにうごめく者の姿だった。
 ぽかんとだらしなく口を開けたままの川原に、春久はもう1度満面に微笑みかけると、その腕をとって引っ張った。
「さ、行きましょっ。すっかり遅くなっちゃったわ」
「い、い、行くって……どこに?」
「いいとこよ。早くっ」
 戸惑う彼を強引に立たせて手を引いて歩き出すと、別の席に腰掛けていた仲間たちに声をかけた。
「ほらほら、アンタたちも行くわよ。何くつろいでんのよ?」
「ええーっ、今アイスコーヒー注文しちゃったわよぉ」
「なんだよ、一休みさせてくれたっていいじゃんかぁ。外はまだ暑いんだからさぁ」
 ぶーぶーと文句を言う男たちをも無理矢理立たせて、春久らはその店をあとにした。
 外に出ると、眩しい日差しが襲ってきた。白い光に目を惑わされ、一瞬チカチカと世界がまたたく。長い間暗い店内にいた川原は、その落差に思わず手で目の上を覆った。
 大柄な白いブリブリ衣装の集団は、明るい太陽の下にはまるでそぐわなかった。いっそうその不気味さが際立った。周りの人々が一目見るなり、ギョッとしてのけぞるのがわかる。そしてその後に蔑むような、あるいは呆れた眼差しで舐めるように見つめてくる。
 そんな世間の目に包まれても、彼らはいっこうに気にした様子も見せず、胸を張って歩いていた。暑いだの化粧が落ちるだの口々に文句を吐きながらも、何もかもが楽しげである。一番縮こまっていたのは、ただ一人普通の恰好をした川原だったろう。
 彼らに揉まれて歩きながら、川原は遠慮がちに尋ねた。
「は、春久……さん? あの……」
「んー? なに?」
 屈託なく微笑を返されて、川原は口篭もった。
「あ……いや、いいです……」
「なによ、はっきり言いなさいよー」
「いや、その……つまり……」
 いかにも聞きにくそうに目を伏せる川原に、春久は察したように笑った。
「ふふん、ビックリしたー? したわよねー、当然だわ、あははは。――あ、改めて自己紹介するわね。アタシ、スージー。よろしく」
「は、はあ……」
「DQやってる時はスージーって呼んでね。一応本名は秘密だから」
「あ、すみません。えーと……スージーさん、どこに行くんですか、これから?」
「うふふふっ、教えてあげてもいいんだけど、やっぱり秘密。ついてからのお楽しみ」
 あからさまに不安げな表情を見せる川原に、春久はバンバンとその背中を叩いて言った。
「大丈夫よ。別に地獄の底に連れてくわけでも、DQパーテイに誘うわけでもないんだから。そうビビらないでついていらっしゃいって」
 豪快に笑い飛ばしながら、彼はまたどんどんと歩き出した。川原は仕方なく密かにため息をついて、恐ろしげな集団と共にその後についていった。
 街中を市中引き回しの刑の如く歩かされて、15分ほどたっただろうか。
 春久はようやく一軒の建物の前で足を止め、くるりと川原のほうに顔を向けると、晴れやかに言った。
「さあ、ついた。ここが貴方の最終目的地よ」
「……は? ここ……?」
 川原はその建物を見上げてあんぐりと口を開けた。
 白い壁に赤いネオンで書かれているのは、「ホテル・エンペラー」の文字。そしてその下には、その手のホテルにはお約束の、「休憩ニ時間まで――6000円より。お泊まり――12000円より」という説明書きがついていた。
 言わずと知れたラブホテルであった。
 呆気に取られている川原に、春久はひとつのルームキーを差し出してウィンクした。
「はい、これが部屋の鍵よ。一番高い部屋取っておいたんだから」
「え? え? た、高いって……ええっ?」
 まさかの予感に川原は途端にアタフタうろたえた。春久だけだってとんでもないのに、まさかここにいる全員のDQたちを相手になど、想像するだけでも恐ろしい。
「ちょ……そんな、困ります! お、俺、悪いけど、女装する人達って好みじゃなくて、ましてや晴久さんとなんて考えたこともないし!」
「……何言ってんのよ、この子は。誰が私たちとHしろって言ったのよ? 勝手にぼけかまてんじゃないわよ」
 冷たい眼差しで素っ気無く言い放って、春久はルームキ―をぎゅっと川原の手に握らせた。
「いいからアンタは黙って行けばいいの。ほら」
 そして耳元に唇を寄せて、意味ありげにつぶやいた。
「せいぜい男を爆発させて来るのよ。大丈夫、損はしないから」
 くるんと長い付け睫毛をつけた瞳でパッチリとウィンクされて、川原は背を押されるように建物の中へと追いやられた。いったいなにがどうなっているのか訳もわからないままに。
 中の様子を隠す高い塀の向こうに消えた彼を見送って、春久らDQ一行はしばらくホテルの前に立ちつくしていたが、彼がちゃんと入っていったのを確認すると皆でヤレヤレというように顔を見合わせた。誰からともなくつぶやく声。
「さあて、これからどうする? アタシたち? もう帰る?」
「暑いしねぇ……」
「でもせっかく着替えたんだよね。しかも夜には似合わない真っ昼間限定ドレスコード、白いレースのフリフリ付きドレス!」
「こんな恰好滅多にできるもんじゃあないよなぁ」
 すると、くいっと自慢げに顎をあげて、春久が言った。
「そうよ、せっかくだもの、もっと楽しもうじゃない? 今日のコンセプトは夏の避暑地のいいとこのお嬢様風っ。お日様の下を歩かなくっちゃ話にならないわ」
「そうよね、ね? 皆で街を練り歩きましょうよ。真夏の夜の夢ならぬ真昼の夢よぉ。太陽の下のレジスタンスだわっ!」
「ププッ。お嬢様はレジスタンスなんて興味ないってば」
「それもそうねえ、あっはははは」
 いつもならひっそりと人目から隠れるように存在するその場所も、今だけは賑やかで華やかな一群に支配されて、にわかに色めき立っていた。もっとも、多少歪んだ華やかさではあったけれど……。


 カチャカチャと鍵を開ける音がして、続いてドアが微かにきしんだうめき声をあげて開いた。
 保は広い部屋の真ん中にドドンと据えられた広いベッドの上で、そこから現れた姿をじっと凝視していた。
 彼は怪訝そうな顔付きで入ってきたかと思うと、すがめた瞳で部屋を見渡し、すぐにそこに保を見つけて、これ以上はないというほど大きく目を見開いた。形の良い唇がポツリとつぶやく。
「……香坂さん」
 呆気に取られた表情を浮かべて、茫然と立ち尽くす。
 保はしばしそんな彼を見つめ、そして消え入りそうな声で言った。
「……遅い。待ちくたびれた……」
「あ、すみません」
 と、川原は反射的に応えて、すぐに自嘲するように笑った。
「……って、なんで謝るかな、俺? 貴方がいるなんて、今ここに来るまで全然知らなかったってのに」
 だが保はそんな彼の言葉を聞いているのかいないのか、ベッドから降りると、所在なげに突っ立っている川原のもとへと歩みより、拳でとんと軽くそのTシャツの胸を小突いた。
「……遅いよ。もう来ないのかと思った……」
 しょぼんと力なく肩を落とし、すねたように唇を突き出しては文句を言った。伏せた瞳は今にも泣き出しそうに潤んでいる。その姿はどうにも頼りなげで、脆くて、はかなくて、川原は思わず腕に抱きいれて包み込んでしまいたい衝動にかられた。
 それでもなんとか理性で堪えて、ついと保の横を通り過ぎて奥へと進むと、広い部屋を平然としたふりで見渡しながら尋ねた。
「いったいなんです? 突然こんなところに呼び出して。なんだかさっきから訳のわからないことばっかりで、俺、頭がすっかりパニックですよ。春久さんには驚かされるし……。あ、スージーさんでしたっけ? まいっちゃったなぁ、一緒に歩かされて、顔から火が出そうでしたよ。なんたってこっちはすっぴんで、素顔のまんまでしょ? もう知り合いにでも会ったらどうしようかと思った。まったく、昼間っからいい度胸してるんだから、春久さんたら」
 川原は一人でペラペラと喋っては、なんの反応も返ってはこないので、ふと口をつぐんだ。ふりかえって保を見ると、ぽつんと床をにらみつけたまま突っ立っている。川原はしばしそんな保を見つめ、静かに声をかけた。
「香坂さん?」
 保が無言のまま、ちらりと川原を窺い見る。
「香坂さん。何か、用事ですか? 俺に? 香坂さんが呼び出したんでしょ?」
 川原はいつもの彼らしく、優しく穏やかに、だが他人行儀なほど丁寧な口調で尋ねた。それでも保が何も応えず黙ったままなのを見て、ふうとひとつため息をつくと、少しだけいらついた口調で言った。
「困ったな。呼び出しておいてダンマリ決め込まれちゃ、俺どうしたらいいんだか」
 苦笑いを浮かべ、探るような眼差しを向けた。それでも保がうつむいたまま何も言わないので、川原はすうっと視線を逸らした。
 二人の間に気まずい沈黙が流れる。しばらくそのまま立ちつくしていたが、やがて川原が諦めたように再度嘆息し、ぽつりと小さく呟いた
「用がないなら帰ります、俺」
 そう言って保の横を擦り抜け、ドアへと向かった。その後ろ姿に、保はようやく一言声をかけた。
「ジーン……」
 川原の足が止まる。それでもまだ背中を向けたままの彼に、保は震える声で、咽の奥から言葉と勇気を振り絞って話しかけた。
「ジーン……俺、きみにいつも嘘ばかりついてた……」
 しばしの間の後、川原が静かに返した。
「……そうですね。俺の前のあなたは、いつも嘘ばかりでした……」
「きっともう、香坂としてもモンタとしても、きみにはなんにも信じてもらえない。わかってる……。俺、両方できみのこと騙してきたから。もう言い訳なんてできない。何も聞いてもらない……。」
「…………」
 川原は何も応えなかった。ただ黙って保の語る言葉を背中で受けとめていた。保はそんな彼に必死の思いで話し続けた。
「自業自得だってわかってるんだ。本当は、俺にはもうなんにも言う資格なんてないのかも知れない……。だけど……だけど、ひとつぐらいは俺の真実を知ってもらわなきゃ、俺もうこの先一歩も前に進めない気がする! だから……、頼むから、今から言うことだけ信じてよ!」
「……香坂さん?」
 保の悲鳴にも似た悲壮な声に、川原は振り向いて彼を見た。
 正面から向きあって、二人は互いをその目で捕らえた。
 保は川原の視線の中、一度大きく深呼吸すると、ゆっくりと着ていた服を脱ぎ始めた。
 震える指でボタンを外し、薄いクリーム色のシャツを脱いで床に放り投げ、次にコットンパンツへと指をかけた。まどろっこしくベルトを外して、さっさとそれも脱ぎさって、唖然としている彼の前で最後に残った下着すらをも剥ぎ取り、脱ぎ捨てた。
 保は素っ裸になって、川原と向かい合った。
 川原が呆気にとられて、声もなく見つめている。薄い色をした瞳を目一杯見開いて。保は彼の視線を全身に感じ、耳の先まで朱に染めながら、いっそう震えの増した声で言った。
「俺……、今の俺、外商部の香坂でも、DQのモンタでもない。俺……ただの、なんでもない香坂保で、全然つまんない男で、情けなくて、バカ野郎で、でもこれが本当の、そのまんまの俺で……それで……」
 口の中にたまった唾をコクンと飲み込んだ。
「俺……きみが好きなんだ。ほんとに、好きなんだ。本当……なんだ……」
 せっかく言えた愛の言葉がだんだん力を失ってかすれていく。保はキュッと目をつぶって、脅えたようにうつむいた。
「それだけ、信じてよ……頼むから」
 静寂が辺りを包んだ。
 シーンと静まりかえって、なんの音もないその部屋で、ただ時間だけが刻々と過ぎていった。
 何も返ってこない反応、返ってこない返事。それらが保をどうしようもなく不安にさせた。自分の言った言葉だけが、いつまでも虚しく耳の端にこびりついている。
(やっぱり……まだ怒ってる。許してもらえなかった……。信じて、もらえなかったんだ……)
 そんな哀しい予感にガックリと全身から力が抜けていった。
 目頭がじわりと熱くなって、鼻の奥にせつない痛みが走ったその時……川原がゆっくりと近寄ってきて、そっと保の頬に手を添え、顔を上向かせた。
 少しだけ上背のある彼の瞳が、優しく保を見つめた。形の良い唇が柔らかく微笑み、甘い声がこぼれて落ちた。
「たとえ百万回の嘘をつかれても、今の一言で俺はまた騙される」
 保の耳に届いたのは、とろけるようなキザな台詞だった。
 川原の唇が、羽のようにふわりと頬に触れた。
「あなたが好きだから、俺は何度でも騙される。何度でもあなたを信じてしまう」
 右に左に、両頬で順にささやかれる愛の言葉。
「ジーン……」
「俺もあなたが好きだ。愛してる……あなたを」
 その瞬間、熱く唇が重なってきた。
 それはあのエレベーターで交した初めてのキスよりも甘く、激しく、優しかった。
 歓喜に満ちた驚きに、頭の芯が痺れてクラクラと眩暈がした。愛しい男からの愛の言葉、愛の証が、保を恍惚の世界に誘い、真綿のように優しくくるむ。
 熱っぽく奥へと押し入ってくる舌に、保は自分のそれを絡めて応えた。ぎこちなくたどたどしかったけれど、懸命に応えた。我知らず手が川原の背に回って、彼を強く抱きしめていた。彼もまた強く保を抱き返してくれた。
 長いくちづけの後も、保は川原に抱きついたまま、耳元で言い続けた。
「嘘じゃないから、ほんとだから、今度こそ絶対。騙したりしてない」
 川原が小さく笑った。
「わかってます。信じますから。そんなに必死になって言わないで」
「だって……」
「そんな顔しないで」
 まだまだ不安げで泣きだしそうな保に、川原は困ったように小首を傾げて微笑みかけた。大きな掌で優しく頬を撫でると、さもいとおしそうに穏やかな眼差しを向け、じっと見つめた。
「ほんとは、意地張って一歩も進めなかったのは俺のほうかもしれない。だって忘れるって言いながら、あなたのこと、ずっと考えてた。このままバイトが終わって、あなたとの接点がなくなったらどうしようかと思ってた。だから尚更、あなたと向き合うのが怖かったのかもしれない。あなたに、素っ気無く俺なんて要らないって笑い飛ばされてしまいそうで……怖かったんだ」
 保は必死になって首を振った。
「そんなこと!」
「そしたら、こんな凄い反則技をかけられちゃったし。参った」
「反則……技?」
 保がおずおずと聞き返すと、川原は可笑しそうに顔をほころばせた。
「反則ですよ。だってそうでしょ? 惚れた相手に素っ裸で目の前で告白されたら、何言われたって許すしかないじゃないですか? しかもラブホで! このシチュエーション! どうにも止まらないでしょ、男なら?」
 保はかっと耳たぶまで赤くなって、抱きとめられたままの川原の腕の中で、恥ずかしそうに顔を伏せた。背中に回した腕にギュッと力を込め、蚊の鳴くような声でつぶやく。
「……うん」
「うんって……」
 今度戸惑うのは川原の番だった。焦った顔で、笑いながら冗談っぽく聞き返した。
「や、やだな、香坂さん。俺、本気にしちゃいますよ? 意味わかって言ってんですか?」
「うん」
 しばしの沈黙の末、川原がためらいがちにささやいた。
「本当に本当? いいんですか?」
「だから……全部本当だって言っただろ? 信じろよ」
「香坂さん……」
「た、保……でいい。保って呼んで」
「保……さん」
 モンタでも香坂でもなく、ただの保として彼の前に立ち、彼に抱かれ、彼にその名を呼ばれることがたまらなく嬉しかった。保はもう一度彼の体を強く強く抱きしめた。二度と離さないとでも言うように。
 川原がそれに応えるように、首を傾け耳や首筋に熱くキスの雨を降らす。そして耳元で可笑しそうにぽつりとつぶやいた。
「やだな。春久さんの男を爆発させろってこういう意味だったのかな?」
「うん」
「え、ほんとに?」
「だって、この作戦あいつが考えたんだ」
 若干の間の後、川原はぷぷっとふきだすと、ちょっぴり悔しそうに笑った。
「まいったまいった。ほんとに反則技だったんだ。まったく、あなたたちには太刀打ちできないや。ずるいなぁ、大人って」
 そうして再びキスの嵐をしかけてきた。保は体の奥の奥で、じわりと熱く火が灯るのを感じていた。


 川原の手が、素肌の胸にふわりと触れる。その瞬間、保はびくりと体を震わせた。
 横に寝転がって穏やかな眼差しで見守っていた川原が、いたわるように優しく声をかけた。
「保さん、そんなに緊張しないで」
 保は自分でもわかるほど真っ赤になっている顔を隠すように傾けて、ボソリとつぶやいた。
「するよ……」
「男と寝るの、初めて……ですよね?」
 保はコクンとうなずいた。それを満足げに見つめて、川原が静かにのしかかってきた。
「大丈夫、俺がリードしますから」
 彼の素っ裸の肌を、素肌の胸が感じ取る。胸だけじゃない。絡んだ足も、ぴったりと密着した腰も、あそこも、全てに川原が存在してる。布切れ一つの隔たりすらなく、彼がすぐ傍にいる。
 頬にキスされ、その唇が首筋に移行して、彼の大きな掌がゆっくりと肩から胸元へと滑っていった時、保は思わずヒクッと息を飲んだ。
 全身が緊張でガシガシに固くなっていた。今にも壊れしまいそうなほど高鳴ってる心臓。息苦しいのに胸が詰まって呼吸すらまともにできない。
 そんな保の様子を感じ取って、川原が少し可笑しそうにささやいた。
「保さん……、そんなに固くなってちゃ感じるものも感じない。もっと楽に力を抜いて。女とやってるSEXと同じだって考えて」
 だが保が無言のままぎゅっと目をつぶるのを見て、川原はふと言葉をとぎり、そして柔らかに尋ねた。
「もしかして……女性としたこともない?」
 返事もせず、いっそう赤面する保の額を優しく撫ぜながら、彼はじっと見つめて言った。
「ソープとか、そういう所も行ったことないの?」
 保はしばし沈黙していたが、やがて固く目を閉じたまま、消え入りそうな声で話し始めた。
「変……だろ? こんな、27にもなって、誰とも……何もしたことないなんて。変なんだ……俺。だけど、誰かに触れられるのなんて、凄くいやで、気持ち悪くて……誰ともやりたいなんて思わなかった。そんな気になったことなかったんだ」
 いままで誰にも話したことのない自分の秘密を、保はポツポツと語った。川原は額を撫でつけながら黙って聞いていたが、そのうち甘く優しい声で言った。
「じゃ、今は? 俺に撫でられてて、気持ち悪い?」
 保はプルプルと頭を振った。
 川原の唇がそっと唇に触れ、そして両頬と首筋に順々にキスをする。
「俺にこんなことされて、いやかな?」
「……ううん、いやじゃない……」
 その時、川原の腰がすすっと揺れて、保の体の上をなめらかに滑った。互いの体に挟まれていた保自身がそれに擦れて、一瞬電気のような刺激が走った。
「……んっ!」
 思わず体が弾んで、結んだ口から甘い鼻声が漏れた。川原は見逃さずに、そっとつぶやいた。
「感じたの? 保さん?」
 保はゆっくりと目を開けて胸の上の川原を見た。彼がじっと見つめていた。甘く、とろけそうな瞳で、六つも歳下の癖に大人の目をして、見つめていた。
 保が声もなくうなずくと、にっこりと笑ってくれた。
「じゃ大丈夫。全然変じゃない。あなたはまともで、ただ誰とも出会っていなかっただけだ。あなたを揺り動かす人が現れなかっただけ。……いや、違うな。きっと、今俺とこうする時のために、今までがあったんだ。きっと俺だけが、あなたを抱いてもいいんだよ、保さん」
 そんな自信過剰で笑ってしまうほどくさい台詞を、川原は優しい顔をしてさらりと語った。保はしばらくじっと彼を見返していたが、自ら手を彼の背に回して、ぎゅっと強くすがりついた。
 不思議な感動が全身を包んでいた。彼の言葉が凍った心を一瞬にして熱く溶かす。保は泣きだしたいほどの喜びに震えながら、かすれた声でささやいた。
「……やっぱり、すげーキザだ。そんな台詞、真顔で言ってさ……。でも……きっとそれ、本当だ。ほんとなんだ、それ。……俺、ジーンに抱かれたい……。あんたにだけ抱いて欲しい!」
 答の代わりに、川原の唇が重なってきた。
 その日、初めて保は人と肌を合わせる心地良さを知った。人と触れ合うことの喜びを感じた。
 川原がゆっくりと裸の胸を愛撫する。柔かな唇でなぞられ、温かい舌がその上を這う時、たまらなく甘美な震えが全身を走りぬけた。ほの赤く色づいた小さな蕾を口にされて、優しく舌先で転がされて、くらくらと眩暈がするほどに気持ちが良い。
 保は漏れそうになる声を必死になって耐え、痛いほど唇を噛みしめた。空いた手がシーツをまさぐり、時折ギュッと強く握る。そうでもしないと、淫らなほど乱れ狂ってしまいそうで怖かった。
 だから、生まれて初めて一番感じる部分に彼の熱い舌を感じて、思わず恐ろしくて押しとどめた。
「やっ、やだ! やめて、ジーン」
 川原が顔をあげて、不思議そうに聞き返した。
「どうして? これが一番感じるでしょ?」
「ん……だから……、いやだ。怖い……」
 保が泣きそうな顔でそう訴えると、川原はちょっぴり呆れたように笑った。だがすぐに優しい顔に戻って応えた。
「大丈夫だって言ったでしょ? 感じるなら、素直にそれを受けとめればいい。それだけです、保さん」
 そう言いながら、大きな手がやんわりと撫でさする。保はくっと小さく声を漏らした。
「ほら……そんな我慢しないで。もっと感じていいんだ。もっと声をあげて。平気だから。何も怖くないから」
 再び彼の唇が触れてきた。温かい口の中にすっぽりと包みこまれ、熱い舌でなぞられ、柔らかな唇でゆっくりと愛されて、羞恥心も恐れも何もかもがすっかり吹っ飛んで弾け散った。
「あ、ああっ、やだ! ジーン、ジーン! やぁ……」
 未知の感覚は凄まじいほど甘美で、初めての体験に快感はあっと言う間に頂点に向かってかけあがる。自分でも情けないほどあっけなく、保は極みの訪れを感じていた。
「や、やだ、だめだ、いく! ジーン、いっちまうから、離して」
 ほんの少し唇を離して、くぐもった声で彼が応えた。
「いいから。いって」
「だって……ああっ、や……くうっ!」
 我慢のしようもなく、保はあっさりと絶頂を迎えた。
 体の奥で何かが爆発した。頭の中が一瞬真っ白になって、気が遠くなるような感覚に包まれた。
 人生で生まれて初めて、他人からの刺激で、しかも相手の口の中でいってしまった。
 何度も波のように押し寄せる余韻すらをも川原の中で感じながら、保は半ば朦朧としてその感覚に打ちのめされていた。
 こんなのって初めて……。他に例えようもない気持ちの良さ。それは、自分で勝手に虚しく処理するのとどんなに違っていたことだろうか。愛されると言うことと、欲望を解消するだけとはまるっきり別なものだったのだ。
 だけど、誰にでも許せることじゃない。今になって尚更そう思う。彼だからこそ、川原だからこそ、こんなにも感じて、この身を許せるのだ。全てを預けて裸の自分を曝け出せる。
 彼が好きだから、彼を愛しているから、素直になれる。なにもかも。
 保は川原に抱きつき、その広くてたくましい胸の中に顔を埋めた。
「保さん?」
「……このまま。このままでいさせて。顔、見られるの恥ずかしい……」
 川原がくすっと小さく笑って、それでもそのまま保をいだきながら、優しく髪を撫でてくれた。
 本当は、恥ずかしいよりも愛しくて、どうしようもないほど好きだと感じて、涌きあがるような激情にかられて彼にしがみついていたのだ。だけどこのくらいの嘘なら、きっとなんの罪にもならない。きっと彼は笑って許してくれる。
 だって百万回の嘘を消し去るだけの、本当がそこにはあるから。本当の自分がここにいるから。
 保は長い長い間、彼の胸の中でその心臓の音を聞いていた。


 マリリンの店の奥にある更衣室の大きな鏡の前で、保と春久は並んで顔を突き出し、そこに映る自分の顔を熱心に飾り立てていた。
 すでに衣装は着替え終って、あとはそれに合わせて色鮮やかに化粧を施すだけ。真剣になればなるほど、お互い無口になって自分を見つめるだけである。
 そんな静寂を破って、春久が口を開いた。
「……ね、モンタ。そっちのマスカラ取ってよ。ブルーのラメが入った奴」
「これ? ……ほら」
「サンキュー」
 そのまま無言になってまた熱心なメイクタイム。やがてしばらくの後、春久が満足そうに顎をあげたり右やら左やらに顔を向けては、にっこりと微笑んだ。
「うーん、今夜も美人。アタシって最高。DQやる為に生まれてきたようなものよね」
 保はちらりと横目で窺って、冷たく言い放った。
「どうせなら、女に生まれてくりゃよかったって言えば?」
「あら、それは困るわよ。男だからこそDQもやりがいがあるってものだわ。それに、女じゃ女とHするのは大変。相手探すのに苦労するでしょ? その点今なら、腕に有り余るほどの女、女、女。不自由はしないものね」
 保は呆れて鼻で笑い飛ばし、また自分の顔の化粧に熱を入れた。横で髪のセットを始めた春久が、銀色のピンを咥えたまま言った。
「で、結局川原くん、男を爆発させちゃったわけ? モンタはめでたくロストヴァージンできたのよね?」
 思いっきりプライベートで立ち入った質問を、春久はこれ以上はないと言うくらい気軽な世間話のノリで尋ねてきた。保はメイクをしながら、無愛想に応えた。
「……してないよ」
「なによ、マジ? せっかくあんなにお膳立てしてあげたのに? あっきれちゃうわねぇ。なにやってんのよぉ、二人とも」
 いかにも先輩風を吹かしたふうに叱られて、保はルージュを塗り欠けの唇をツンと尖らせてつぶやいた。
「余計なお世話だよ」
 だが春久は遠慮のない口調で容赦なく責め続けた。
「あんた、まさかいいところでビビって逃げ出したんじゃないでしょうね? いい歳してカマトトぶったって嫌われるのが落ちよ? わかってんの?」
「うっるさいなあ。そんなんじゃないよ。あのね、ジーンが気をつかってくれたの。最初っからフルコースじゃ大変だろうからって。俺はちゃんと彼に何もかも捧げる気でいたんだから」
「ふううん、捧げる気だったんだぁ、ふうううん。何もかもねぇ。へえええぇ」
 ポロリとこぼした保の言葉を殊更強調して、春久はにんまりと笑った。保はぽっと赤面し、照れを隠すように逆に膨れて言い返した。
「どうだっていいだろ? 人のことなんだから。とにかく、俺たちは上手くいってんの。この後だって、パーティ終ったら待ち合わせて……」
 と、言いかけた言葉を遮って、春久が保の顎に手を伸ばした。
「あ、ねえねえ、そのシャドーの上にこっちにハイライトを重ねたら良くなるわよ。ほら、目つぶって。やったげるから」
「ん……こう?」
 また少しの間の静寂。真剣な一瞬の静けさの後、目を開いた保の前で、春久がにっこりと優しく笑った。
「せいぜい上手くやってよね? 人前で泣いちゃうほど好きな相手なんて、そうそう見つけられるもんじゃないんだからさ」
 保は暖かく見つめる彼の瞳に励まされて、少し照れくさそうに、だが素直にうなづいてみせた。
「うん。そだね。さんきゅー」
「ふふふっ、素直なモンタって可愛い。んーっ」
 春久が面白がるようにぎゅっと力を込めて抱きついた。離せだの化粧がついただのと大騒ぎをしているところに、店の向こうからマリリンの野太い声が響いた。
「ちょっとぉ、いつまで時間かかってんの? パーティ始まっちゃうわよ」
「ハーイ、今行くぅ」
 二人で同時に返事をして、保と春久は顔を合わせて笑った。慌てて残りの準備を済まし、そそくさと更衣室を後にする。今宵も一晩だけのシンデレラになって、最高級の嘘をつくために。
 行って来ますと楽しげに言葉を残して店を出ていった二人の後に、保の羽織ったカーディガンから落ちたキラキラと光るラメの欠片が、夜の街を星屑みたいに飾り立てていた。

    
                                               ≪終≫

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