シンデレラは嘘をつく

目次に戻る

--act  3                       
 バックに鳴り響くボサノバの軽快なリズム。ざわざわとさざめく客たちの話し声。
 そんなものの中で、川原の低い声はなによりも鮮烈に保の耳に飛び込んできた。
「ジンフィズひとつ」
 まるでそれは、よくできた音楽の1フレーズのよう。心地良く全身に響き、心を甘く酔わせてくれる。
 バーテンダーがはいと応えて、鮮やかな手つきで注文の品を作り始めた。ほどなくして目の前に置かれたグラスに手を伸ばしかけた川原は、ちらりと保の手元に目をやってつぶやいた。
「酒……おかわり頼もうか?」
 さっき新しいのが注がれたばかりの保のグラスは、もうほとんどが空だった。それでなくても先ほどからあてもなく待ちつづける焦燥感に酒は進むばかりだったが、現実に彼が現れた今は、逆に動揺と困惑でいっそう飲まずにはいられない。保はグラスをぐいと突き出してぶっきらぼうに言った。
「マーくん、ウィスキサワーひとつ」
 バーテンダーはいいのか、とでも言うように呆れ苛む眼差しを向けたが、それでもなにも言わずに作ってくれた。新しいグラスを掴んで三口ほどいっきに飲んだ後で、川原が嬉しそうな瞳で見つめていることに気づいた。
 保はざわめく心を悟られないよう、ツンと唇を尖らせて精一杯の仏頂面で尋ねた。
「な、なに? 何見てんのさ?」
 川原はにっこりと破顔した。
「うん。今夜はいっそう派手だなぁと思って」
 確かに、その姿はいつにもまして華やかだ。ばれないようにと普段よりもずっと派手なデザインや色彩の服を選び、滅多につけないウイッグまで被り、化粧だって特別念入りに施してきたのだから。
「な! なんだよ、いけないっての?」
「いけなくないよ、全然。とっても似合ってるし。……たださ」
 優しげな瞳が、いっそう柔らかく細められる。
「素顔のきみも、きっと綺麗だろうなあと思って」
 保は思わず頬が赤らむのを感じながら、文句を返した。
「だ、だからさー。前も言ったけど、それって誉め言葉になってないって……。DQ誉めるなら、その時の姿を誉めなきゃ意味ないじゃん。せっかく目一杯着飾ってきたってのに」
「それって俺の為?」
 ドキンと胸が跳ねた。まったく、わかっているのかいないのか、川原の言葉は時々とんでもなくストレートに攻めてくる。聞きようによってはまるっきり鼻持ちならないキザで軟派な口説き文句なのだが、あまりにも屈託なく口にされるので、素直に心に突き刺さってくるのだ。
 保は返事を返すことも出来ずに、プイと顔を背けた。
「……なんで……俺がアンタのために着飾らなきゃならないのさ。ばっかじゃないの。自意識過剰だって」
 精一杯強がって向こうをむいたままつぶやくと、川原が可笑しそうに笑った。
「ハハハ、そうだったらいいなあって思ったんだ。俺、女の子とつきあったことないからさ、誰かが自分のために綺麗にしてくれるっての、ちょっと憧れだったリして」
「彼女……いないの? もてるでしょ? そのルックスだも」
「もてないよ。だいたい俺、女の子ダメだし。ゲイだからさ」
 保はくるんと目を見開いて彼を見た。あまりにもさらりと口にされたその一言が、とても自然なことのように聞こえてしまったから。
 保が沈黙していると、川原は首を傾げて微笑んだ。
「わかってただろ?」
「……うん……」
 保は小さくうなずいた。
 そう……わかってはいたのだ。DQのパーティナイトに着飾るわけでもなしに出入りするなんて、あまり普通の男たちのやることじゃない。だいたい彼が自分を見つめる眼差しや微笑がなによりも物語っていたではないか。その熱さや、とろけそうな甘さが、ヘテロの男が同性を見るものではないと。
 ――ゲイだから。
 その一言が保の頭の中で何度もリピートされた。そうはっきりと言い切ってしまう男に会ったのは、彼が初めてだった。
 DQの中にもゲイの男はたくさんいるし、パーティで言い寄ってくる者も少なくはなかったが、あの倒錯した世界においてはあまり意味のないことだった。誘われたってお互い化けた姿のままじゃ、半分ジョークにしか聞こえない。少なくとも保は、あまたの誘惑を本気に受け取ることなく聞き流してきた。個人の深くにまで立ち入る気も毛頭なかった。
 だが、川原のようになにもかも素顔のまま面と向かってカムアウトされてしまうと、真摯に受け止めざる得ない。そしてそれはまた、自分に対しても問いなおす結果になってしまう。今こうして彼といるという意味を。
 ちらりと上目づかいに彼を見やると、川原は相変わらず優しい眼差しでジッと保を見つめていた。色の薄いハシバミ色の瞳が保だけを映している。その視線に捕らえられると、ドキドキしてソワソワして、どうにもいたたまれない。今すぐ逃げ出して何処かに消えてしまいたくなるのに、そのくせ彼の傍を離れたくない。この時間が、永遠ならいい……。
 酒の酔いも手伝って頭がぼーっと火照ってきた。保はひどく息苦しくて、ふうと大きく息を吐いた。
「……熱い」
 川原がちょっと心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 顔赤いよ。酔った?」
「別に。酔ってないよ」
 保はぷいと顔を背けて言い捨てた。本当は胸がバクバクして目の前がくるくるして、全身火がついたように熱く燃えていたのだけど、それが酒のせいなのかそうじゃないのか、自分ではわからなかった。
 すると川原がすっと立ち上がって、保の肩に手を添えた。
「店変えない?」
「え?」
「いい店だけど、結構俺たち注目の的かも」
 そう言われてハタと気がつくと、バーテンダーはちらちらと興味津々にこちらを伺い見ていたし、他のギャルソンやら客の中にも、遠巻きに様子をうかがっているものが幾らかいた。店の者にしてみれば、いつもはパーティナイトにしか現れなくて、しかもスージーとだけつるんであまり他の者たちと親しげな様子を見せない保が、見ない顔の男とツーショットで酒を飲んでいる図なんて気にならないわけがないのである。
 保はうんと素直にうなづいて、腰をあげた。立つといっそう酔いが回って、ふらりと足元がよろけた。すぐさま川原の大きな手が、保の腕を力強く掴んで支えてくれた。だけどそんな心遣いはいっそう胸の鼓動を早めるだけ。体の熱を上げるだけ。
 保はその手を振り払うと、さっさとレジまで行ってカードを出した。払うという川原の言葉になど耳を向けず、自分の分は自分で支払う。出してもらうなんて、そんなの女のやることだ。だいたい、たとえまだ入社五年目の平社員とはいえ、バイトの彼よりは確実に自分のほうが稼いでる。もっとも、川原はそんな事情など知る由もないのだけれど。
 店を出ると、外は冷房の効いた店内よりはよほど暑かったが、時折吹きすぎる夜風がなかなか気持ち良かった。火照った頬を優しく撫でてくれる。少々危なげな足取りの保を庇うように、川原がピッタリと横に身を寄せて歩いていた。時折ふらつくとすぐに手が伸びて肩を支え、だがそれはまたすぐにそっと離れていく。先ほど保が手を振り払ったのをちゃんと覚えていて、無理にベタベタしてくることはなかった。
 週末の人ごみの中を歩いていると、保はなんだか不思議な気分になった。相変わらず胸は騒いでいるのに、妙な安堵感を覚える。派手に着飾った保を通りすぎる者たちが皆好奇の目で見つめたが、そんなものも気にならなかった。
 春久と二人でDQとして歩いている時は、そんな人の視線に攻撃的な感情を抱いた。どうだ、すごいだろう、見たけりゃ見ろ、笑いたければ笑うがいいといったような、他人に対して挑むような気持ちがあった。
 しかし今川原と歩いていると、まるでなにかに守られているようにホッと安心してしまう。無理に肩肘を張らなくとも、ちゃんと自分が自分でいられる気がする。素顔のまま、派手なドレスでもビジネス用のスーツ姿でもなく、ただの香坂保になって彼とこうして歩けたら、それはどんなにすてきだろうか……。そんなことをふと思いかけて、慌てて首を振って否定した。
(いったい何考えてるんだよ? 俺ったら……)
 そんなことを思ってしまう自分が、本当に不思議だった。
 川原は無言のまま、なにげなく保を誘導していた。しばらく黙って共に歩いていた保は、ちらりと横をうかがって尋ねた。
「何処行くの?」
「俺の先輩が店やってるんだ。小さいけど、その分静かで落ちつけるから」
 川原はそこまで説明してふと言葉をとぎらせ、やがて遠慮がちにつぶやいた。
「……ゲイバーだけど……いいかな?」
 ちょっとだけその微笑に寂しさがあるように思えた。堂々とゲイであることを公言し、特殊な性癖を割り切っているように見えても、決して何の葛藤も迷いもなかったわけではない……そんな彼の静かな苦痛が見えた気がした。
 保は初めての誘いに戸惑いを感じつつ、それを素直に口にした。
「行ったこと……ない、ゲイバーって」
「別に普通の店だよ。女が入ってこないだけ」
 川原が優しく微笑んで不安を消してくれる。保は上目づかいに見上げて、ぽそりと頼りなげに聞いた。
「この恰好で行っても叱られない?」
 川原は一瞬目を丸くし、それから察したように穏やかな笑みでうなずいた。
「大丈夫。先輩、そういうの排除するような人じゃないから」
 ゲイの男たちの中には、女装などのフェミニン性を強調する行為を嫌悪する者が時々いるのだ。保も一度ゲイストリートを春久と一緒に歩いていて、そういった輩に絡まれて危うい目にあった経験がある。
 まだ何処と無く不安げな保に、川原は悪戯っぽく顔をほころばせた。
「でももしかしたら、モンタ美人だから本当の女の子と間違われるかもしれないな。店の入り口で身体検査されちゃったりしてね」
「身体検査? 胸はだけて見せるとか?」
「ぷぷっ、まあね」
「別に胸くらいなら……あ、なんなら下を覗いて見てもらったら、一発で判明するよね、男だって」
 川原の冗談に保が真面目ともジョークともつかないような口調でそう言うと、川原はケラケラと声をあげて笑った。
「はははは、何言ってるんだよ、モンタったら。そんなに簡単に見せちゃっていいわけ? そんな女の子みたいな恰好してるわりには、思考回路がまるっきり男なんだよなぁ。だいたいさ、ゲイの男に見せるって、ヤバイと思わない? それだけで誘ってるようなもんじゃない。俺も昔飛び込みの仲間にさ、更衣室でぺろっと見せられたことあるんだよね。板にぶつけて腫れてるーとかって、本人は同情求めて出してんだけど、俺にしてみりゃもうドッキドキなわけで、目のやり場には困るわ、顔は赤くなってきて焦るわ、そのうちこっちの股間まで腫れてきちゃってさー、あっはっはっは、でもって水着だから隠しようはないし、参ったのなんのって。はっはっは」
 いきなり的の外れた思い出話をベラベラと勢いよく喋り始めた川原に、保は目を真ん丸くして凝視した。川原がはっと気づいて、一瞬の沈黙の後、罰悪そうに照れ笑いをしてみせた。
「はは、あれ? 俺も、酔ってるかな? あははは」
 それまでのスマートな立ち居振る舞いとは打って変わって、とぼけた姿をさらけ出し、それに自分で動揺している川原がなんとも可愛いかった。保は思わずぷっと吹きだして声を立てて笑った。
「あはははは、変なの、あんた。あははは」
「へ、変って……ひどいな」
「変は変だもん。あんたこそ何考えてんだか。ははははは」
 保がさも可笑しそうに笑いつづけていると、川原がすっと手を伸ばして頬に手を添えた。そして柔らかく目を細め、甘くささやいた。 
「モンタは笑うともっと美人だったんだ」
 一瞬心臓が鼓動を止める。真正面から見つめる彼の瞳に釘付けられ、身動きひとつ出来なくなった。すぐに壊れそうなほど胸がドキドキして、保は震える声で言い返した。
「……あんた、すげーキザだ。くさい台詞ばっかり……」
「あんたじゃなくて、名前で呼んでよ。教えただろ? それとももう忘れてる?」
 忘れるわけない……。それどころか、本当の名前だって知っている。知って、何度も何度も口の中でつぶやいてる……。
 保は親指を口にやると、曲げた関節をきゅっと小さく前歯で噛んだ。
「……ジーン」
 消え入りそうにかすかな声が、唇からこぼれていく。保は赤く染まった顔をうつむけた。そのとろけるような甘い響きに困惑して。


 すっかり夜も更けた雑居ビルの細い通路は、さすがにもう行き交う人々の姿もなく、まだ営業している店内からわずかに音が漏れ聞こえくるだけだった。
 川原は扉の閉まりかけたエレベーターにいち早く飛び込んで、オープンボタンを押しつづけながら保に向かって早く早くと声をかけた。
 保は少し遅れて中に入り、ちょっぴり荒く息をつきながら、プンと唇を尖らせた。
「もう。走らせないでよぉ。ヒールで走るの大変なんだからさぁ」
「履いたことないからわかんないよ、そんなの」
 川原が可笑しそうに言葉を返す。保はくすくすっと笑った。
「それもそっか」
 保は今の自分が、どれほど無防備に、そしてこぼれるような艶やかさで笑っているのか、これっぽっちもわかってはいなかった。
 川原の先輩がオーナーだというゲイバーを訪れて、そこで思いもがけぬほど楽しい時間を過ごした。カウンターだけの小さな店内には、週末だというのに保と川原だけしか客はいなくて、その分誰にも気遣うことなくのびのびと振る舞うことができた。
 こんなに閑古鳥じゃ今につぶれるとしきりに愚痴るオーナーは人あたりの良い男で、会話も上手くて人見知りの強い保をなんら気構えさせることなくお喋りに巻き込んだ。川原と交わす漫才のようなやり取りも面白かった。ボケとツッコミよろしく、ポンポンととぼけた口調で言いあっている様子を、保は笑いながら見ていた。
 川原が見せる様々な一面にいっそう心が惹かれていく。最初は軟派な、だけど印象的な男、そしてデパートで見せた素朴な誠実さ、意外に強引な一面、かと思えばふいに心臓が止まるようなセリフを吐いては、今また飾ることなくおどけた素顔をさらけだしている。
 そのなにもかもから、目が離せなかった。
 保は舐めるように川原を眺めては、悪戯っぽく言った。
「ジーンもさ、顔立ち綺麗だし結構似合うと思うなぁ、DQやっても。なんならいい店紹介してあげようか?」
「冗談だろ? 自分の女装姿なんて考えただけで気色悪いよ」
「本気本気。絶対イケルってば。こう、肩のあいたドレスを着てさ、スパンコールのストールなんか巻いて、髪はこんな風にアップに……」
 酔った勢いのまま調子に乗った保は、川原の長い髪に手を伸ばした。と、高いヒールの靴を履いた足元がよろけて思わずふらつき、川原の体にすがりつくように倒れこんでしまった。
 がっしりと力強い腕が保の体を抱きとめ、そのまま胸の中に包み込んだ。
 触れ合う胸と胸。そこが燃えあがるほど熱を持って熱い。
 互いの心臓の音が伝わってくる。だけどそれは、きっときっと保のほうが何倍も早く脈打ってる。壊れそうなほどときめいてる……。
 保は焦って埋めた川原の肩から顔をあげた。
「ごめ……。口紅ついちゃったかも……」
 つぶやいて見上げたすぐ目の前に、川原の顔があった。
 瞳がじっと保を見つめていた。優しく、甘く、とろけそうな眼差しをそそいでいる。そしてゆっくりと瞼が伏せられて、スウッと傍に近寄ってきた。
「あ……」
 こぼれかけた言葉を、川原の唇が塞いでしまった。
 キス……。
 初めて交わすくちづけ。
 それまでキスなんてしたことなかった。したいとも思わなかった。形だけつきあった女たちとも、いつも何もしないで別れた。誰とも触れ合いたくなかったし、誰にも触れて欲しくなかった。他人と唇を許しあうなんて、寒気がするほどいやだった。
 だけど今は……これっぽっちもいやじゃない。それどころか、気が遠くなるほど心地良い。頭の中は真っ白になって何も考えられないというのに。
 行き先を告げていなかったエレベーターは、何処からか呼ばれたのか、すうっと下降し始めた。だけど保は少しも気づかなくて、途中にずんと軽い停止感覚を体に感じて、慌てて川原の腕から飛び離れるように逃れた。
 二人が離れたのとドアが開いたのはほぼ同時で、すぐにドヤドヤと騒がしい一団がなだれ込んできた。皆先客の派手な姿に一瞬度肝を抜かれたようにぎょっとした顔を見せたが、すぐにニヤニヤと意味ありげに微笑む。なかには露骨に口笛を吹いてからかう者もいた。
「びっじーん。俺とホテルいかな―い? オネエサーン?」
 クスクスと含み笑いが小さな空間にこだまする。いつもならぎろりとにらんで牽制するところだったが、今夜の保はそれどころではなく、余計なものなどまるっきり眼にも耳にも入ってはこなかった。
 ただ感じるのは、川原の存在だけだった。たった今まで触れていた彼の唇の余韻だけ。
 ドクドクと高鳴りっぱなしの胸の鼓動といまだ震えている全身が、その一瞬の出来事が夢ではなかったのだと叫んでいた。
 やがてエレベーターが地上に着き、ドアが開くと同時に、誰よりも早く保はそこを飛び出した。後ろも見ずに一人でどんどん夜の街を歩いていく。川原が少し遅れて、焦った様子で走り寄ってきた。
「モンタ!」
 彼の呼ぶ声が聞こえていたが、保は足を止めずに黙々と歩いていた。ようやく追いついてきた川原は、勝手に一人で歩いていく保の手を掴み止めて、少し怒ったようにぐいと引っ張った。
「モンタ!」
 保は手を掴まれたままふり返って彼を見た。川原もまた、食い入るように保を見つめていた。真剣な眼差しが全身に突き刺さってくる。何かを求めて、じっと熱っぽく保を見守っている。
 やがて川原がなにかいいかけるように唇を開いて名を呼んだ。
「モンタ……」
 だがそれに続く甘い言葉を、保の乾いた言葉が遮った。
「俺……ゲイじゃない……」
 一瞬、二人の周りの空気がすうっと冷たく凍りついた。
 見つめていた川原の瞳に驚愕の色が浮かび上がり、それはすぐに落胆と哀しみに取って代わる。
 先ほどから保の手をぎゅっと強く掴んでいた彼の手から、すっと力が抜けていき、そして寂しげに離れた。
 川原は何も言わず、ただ黙って保を見つめ続けていた。それまでの熱く燃えるような眼差しに暗い影が灯り、だんだんと深みへと沈んでいく。そしてくるりと背を向けると、そのまま保が進んでいたのと反対方向へ向かって歩き出した。
 緩やかにウェーブした長めの髪が、湿った夜風に頼りなげに揺れていた。
 保は離れていく川原をじっと見ていた。
 人波の中、一度もふりかえることなく独りで歩いていく彼の後ろ姿を、ずっとずっと見つめていた。
 人の影の中に消えて、闇に消えてしまっても、保はいつまでもその場で見送っていた。
 風がゆっくりと吹き過ぎていって、眠りかけた街に保だけを残し、夜はベルベットのカーテンの奥へと静かに更けていった。

      
                                          ≪続く≫
前の章へ
次の章へ
目次に戻る
感想のページ