シンデレラは嘘をつく |
--act 2 |
保はしばしの間、声もなくその男を見つめていた。 夕べ別世界で出会った者との思いもがけぬ再会。しかも職場で、こんな形で巡り会うとは、ほんの欠片ほどの予測もしていなかった。だいたい、知合いが出入りしそうな場所なら、はなから行くはずもないのだ。『A−パレス』は、何度か通って見知ったものが誰も出入りしなさそうだと判断したからこその活動場所だった。人に言えない冒険をするには、それなりのリサーチは当然である。 もちろん予期せぬ事態というのはいついかなる時にも付き物である。しかし、衝撃的なほどの印象を心に残した男と昨日の今日に出会うとは、あまりにもドラマチック過ぎる展開ではないか。さすがの保も、すぐには心の準備などできたものではない。 「あのぉ……」 あまりに保が長い間黙っているのを不審に感じたのか、男の方から声をかけてきた。保は思わずガバッと背中を向け、うつむいて身を縮こませた。心臓がドクドクと高鳴っている。全身に冷汗がにじみ出て、血の気の引く思いがした。 必死になって自らをなだめた。 (……大丈夫、大丈夫だ。絶対にばれやしない。だって昨日はことのほか厚化粧だったんだし、それに顔をあわせたのだって一瞬なんだ。絶対俺だなんて見抜けられるはずはない! 絶対に大丈夫だ! 絶対……) いろいろ納得させる理由を思い浮かべては、無理矢理己を安心させ、保は密かにニ・三度深呼吸した。先ほどから男の視線を背中にバリバリ感じている。顔をあわせるのは怖いが、いつまでもこうして背を向けているわけにもいかない。 ようやく意を決し、スウッと一度大きく息を吸い込むと、とびっきりの作り笑顔を浮かべて男の方に振り向いた。そして出来得る限り爽やかに、かつきりりとした口調で尋ねた。 「ご苦労様。忙しいところ申し訳ないね。それ、頼んでおいた商品全部かな?」 余計な詮索をさせぬよう、いきなり仕事に話を向ける。青年は突然切り出されて、ちょっと戸惑ったようにうなづいた。 「あ、はい。揃っていると思います。春久さんが用意してくれたんで」 「そう。じゃ早速配達に行きたいから、流管の方に運んでくれないか? そっちに車を回すから」 「はい、わかりました」 青年は素直に応えて、せっかく一度部屋に運び入れた荷物が載った台車を、嫌な顔するでもなく押して出ていこうとした。が、ふいに振りかえって不思議そうに尋ねた。 「あの……外商ニ課の香坂さん、ですよね?」 保は胸がドクンと震えた。改めて名前を尋ねられるなんて、なにか感づいたのだろうか。動揺を押し隠して、ひたすら平静を装い聞き返す。 「ああ、そうだけど……なに?」 「いえ、お名前も聞かずにいきなりだったもんで。まさか人違いじゃないよなーと思って」 男は朗らかに笑った。それは昨日見せたあの柔らかな笑顔そのままであった。嘘もごまかしもなにもない、昼も夜も変わることのないその姿。保はチクンとした痛みを感じながら、自分も明るく笑ってみせた。 「そういえばそうだね。商品の納入が遅くてちょっと心配してたものだから、つい急かすような形になっちゃったな。失礼したね」 「あ、遅くなってすみません。じゃあ、急いでこれ下ろします」 青年は保が口にしたでまかせをなんら疑うこともなく、申し訳なさそうに頭を下げると、慌てて出ていこうとした。その後ろ姿に、思わず声をかけた。 「あ、きみ……」 青年が振り向く。広い額に柔らかくウェーブした髪がふわりと落ちる。その一瞬の映像が、保の心に鮮烈に刻みこまれた。 昨夜初めて出会った時のシーンが脳裏に甦った。見つめられて身動き適わなくなってしまったことや、青年の言葉にショックを受けた感覚がまざまざと思い起こされる。初めて抱いた胸のときめき……。 なに、と言うように見つめる男に、抑えても抑えきれずに震える声で尋ねた。 「あの……バイトなんだよね? 大学生?」 「ええ、そうです」 「名前……なんて言うの?」 青年はニッコリと笑って応えた。 「川原(かわはら)です」 ふと見ると、胸に写真入りの入店許可証のバッヂをつけていた。それまで慌てていて気づかなかったのだ。保は食い入るようにそれを見つめた。 (「川原、雄人」……ゆうとって言うのか……本名) 保が黙っていると、彼はぺこりと一礼して荷物を押しながら行ってしまった。 残された保はしばらくその場に一人立ち尽くして、予期せぬ再会を反芻していた。 とりあえず、正体がばれたという感じはなかった。疑っているような素振りすらしていなかったし、まさか夕べのDQと今目の前にいた男が同一人物とは考えてもいないに違いない。このまま知らん顔していれば、きっと何事もなくやり過ごせるだろう。そう考えると、まずは一安心であった。 だが……保はまたふと思った。もしかしたら、彼の中では夕べの男なんてこれっぱかりも記憶に残っていない、どうでもよい存在だったのかもしれない。束の間に通り過ぎただけの、何の印象にも残ってなんかいない者。あの時背中を向けた瞬間から、忘れ去られてしまうだけの価値だったのか……。 きゅっと心臓が痛くなった。どうしてだかわからないけれど妙に哀しくて、そして腹立たしかった。不公平だと感じた。自分はこんなにもあの男を覚えているのに、こんなにも心を乱されて動揺しているのに、どうしてあいつは何事もなかったかのように平気な顔でいるのか。どうして涼しい顔で行ってしまえるのか。 どうして昨日の男だと気づいてくれない……? まるで筋の通らない理不尽な怒り。ムチャクチャな理屈と苛立ち。 保はグッと固く拳を握りしめ、眉をしかめた。 (俺、馬鹿だ……。なに考えてんだよ、いったい……) ドンとドアをこぶしで叩く。通りかかった何処かの社員が、驚いた顔で行き過ぎていった。 客先は豪華なマンションの最上階の部屋だった。車のトランクにいっぱいだった品物を二人でどうにか抱えて、エレベーターで上がる。その後川原を玄関の前に残して、保は少しの時間を客と過ごした。お喋り好きな有閑マダム。外商の営業とあらば、そんな客とのお茶のお相手もこなさなければならない。 それでも今日は外に川原を待たせているということもあって、なんとかいつもよりは早めに切り上げると、丁寧に挨拶を済ませて部屋を出た。玄関から出ると、ほとんど一軒だけの専用のようなエレベーターの前で、川原が地べたにぺたりと腰を下ろして、なにやら本を読んでいた。まるでこんな状況を予想していたかのように空いた時間を楽しんでいる。保は、用意のいい奴だな、と感心しながらも少し呆れて笑った。 川原がその気配に気づいて顔をあげた。 「あ、終わったんですか? すみません、のんびりしちゃってて」 整った顔に屈託のない笑みを浮かべる。保はその笑顔につられるようにして微笑んだ。 「待たせて悪かったね。じゃ行こうか」 言葉に促されるように川原が腰を上げて立ちあがった。すっと真横に立った彼は、保よりも少しばかり大きくて、並ぶとわずかに見下ろされる形になった。昨日クラブのトイレで向き合った時の状況が思い起こされ、一瞬ドクンと胸が震える。そのまま二人で乗り込んだエレベーターの中で、保の緊張はピークに達した。 さっき乗った時はお互い山のような荷物に埋もれていたので、さほど意識することはなかった。しかし今は別だ。数人も乗ればいっぱいになってしまいそうな小さな箱の中で、肩が触れ合うほどそばに彼が居る。しかも視線を向けると敏感に感じ取って、すぐさま見つめ返してくる。まっすぐに向ける薄茶の瞳が今にも真実を探り当ててしまいそうな気がして、保は怖くてぷいと顔を背け、うつむいた。 先ほどから心臓がドクドクと騒ぎっぱなしだった。壊れてしまいそうなほど高鳴ってる。緊張のせいか全身が妙にさわさわと冷たくて、それはエレベーターがすっと下降しはじめたらいっそう激しくなった。 体の芯がスウッと凍りつくようで、目の前がフワァッと暗くなって……、一瞬意識が遠のいた。 「香坂さん!」 気がつくと、背後から川原のがっしりとした腕が保の体を支えていた。 「え……?」 「大丈夫ですか、香坂さん! しっかりしてください」 狭いエレベーターの中に川原の声が響く。保は目をパチパチとしばたかせ、真上から覆い被さるように自分をのぞきこんでいる川原の顔を見つめた。 「……な、なに? どうしたの?」 半ば茫然としながら、ぼんやりと聞き返した。 「どうしたのじゃありません! それ、こっちの台詞ですよ。急にふらついてぶっ倒れそうになったんです!」 「……俺、が?」 「そうですよ。ビックリした……危うく床に激突するところだった」 保はまだなんとなくはっきりしない頭で考えた。 どうやら軽い貧血でも起こしてしまったらしい。ひどく緊張していたところに、エレベーターの不快な下降感覚が重なって瞬間的に意識が薄れてしまったようだ。昨日の寝不足やら、空腹やらも手伝っていたのかもしれない。 だんだんと明解になってきた思考が今の自らの状況を再確認させる。後ろからまわされた川原のひき締まった腕。驚くほど広くて厚い胸板。その中に身を委ねている自分がいる。 保は慌てて体を立て直すと、彼の腕の中から逃げるように飛び離れた。思わず耳たぶまで赤くなり、うつむいた。 (な、なんて醜態さらしてるんだ! よりにもよってこいつの前で……) 全身が燃えるように熱くなった。恥ずかしいやら情けないやらで、身の細る思いがする。勝手に一人で動揺して勝手に一人で緊張して、挙句の果てにぶっ倒れては彼の手で抱きとめられたなんて、信じられない有様だ。情けないことこの上ない。 ちらりと横目で伺い見ると、川原がじっと食い入るように見つめていた。勿論それは保の体を気遣っての所業だろうが、あまりじっくり見られると、ばれやしないかとひやひやしてしまう。保はごまかすように薄ら笑いを浮かべてボソボソと呟いた。 「わ、悪かった。驚かせて。……もう、大丈夫だから……」 それでも川原は疑わしそうな瞳で保を見つめた。 「ちょっとした貧血みたいだ。たいしたことないよ。あの……腹、減ってたから、それでかも……なんてな? ハハ」 乾いた笑いが唇からこぼれる。だが川原はそんな冗談に騙されることなく、きりっと鋭い眼差しで問い返してきた。 「腹減った、って……食べてないんですか、めし?」 「あ……うん」 「いつから?」 真剣な口調についつい本当のことを口にしてしまう。 「昨日……軽く夕食とって……それ以来」 「…………」 川原は呆れたように沈黙した。そうこうしているうちに、エレベーターが一階に到着した。すっと扉が開くと、突然川原は保の腕をとってすたすたと歩きだした。いきなりの振る舞いに、保はなすすべもなく引っ張られてついていった。 マンションの大きな建物を出て通りに立つと、川原はニ・三度キョロキョロと辺りを見回した。そして少し離れたところに小さなカフェテラスがあるのを見つけて、そこに向かって歩き始めた。保はおろおろしながら尋ねた。 「あ、ちょっと……なんだ、いったい?」 「めし! ちゃんと食わなきゃだめです。そんなんじゃぶっ倒れて当たり前だ!」 そう言うと有無を言わさず店の中に保をつれ込んで、昼時を過ぎてがら空きになっているテーブルのひとつに座ると、隅にあったメニューをとってぐいと押しつけた。 「はい、なんか食ってください。俺、そういう不摂生って許せないんです」 まるで口を挟む隙間もないほどの強引さである。保は茫然としながらそれを受け取り、言われるままにメニューに視線を落とした。そのうち可笑しさが込みあげてきて、くすくすと笑った。川原が訝しげに顔をしかめた。 「なんです?」 「いや……なんだか、年下なのに立場が逆って言うか……。すごい世話好きだなあと思って……」 たちまち川原の顔がポッと赤く染まった。強引な自分の行動を恥じ入るように、ぼそりとつぶやいた。 「すみません……。ついいつもの調子で……。俺、自分がきっちり食わないと気が済まないほうだから……。でも、失礼しました、すみません」 川原は申し訳なさそうに深ぶかと頭を下げた。礼儀正しくきちんとしたその姿は、なんだか最初に感じた軟派なイメージとはだいぶ違ってみえた。保は寄ってきたウェイトレスにパスタを注文すると、また彼に視線を戻してしみじみと見つめた。 よく考えてみたら、見つめられるのが怖くて、自分からはあまりじっくり彼を見ていなかった気がする。こんな風にひとつのテーブルで真正面から向きあうなんて事態は考えてもいなかったが、いざそうなってみると、もう彼から目が離せなかった。 昨日の自分を気づかれるかも、などという心配はすでに何処かに行ってしまって、保は心ときめくような気持ちを感じながら話しをした。 「川原くんって、見た目と違って案外体育会系なんだな」 「俺ですか? バリバリ体育会系ですよ。中学、高校とずーっとクラブ活動一筋でしたから」 「なんのスポーツ?」 「水泳です。と言っても、泳ぐほうじゃなくて、飛び込み。高飛び込みやってたんです、俺」 川原は今日初めて会ったはずの保に対しても、なんら臆した様子も見せずに屈託なく話した。ポンポンと小気味よく返事を返してくるので、保も引き込まれるように会話を楽しんだ。 「高飛び込みって、あの高いところから回転しながら飛び降りるやつ?」 「ええまあ、そんなようなもんです」 「怖くないの? 俺なんか高所恐怖症だから見てるだけで足が震えそうだ」 「慣れれば平気ですよ。気持ち良いですよ。高いところから飛び込むのって。体壊して今はもうやめたけど」 「ふうん、やめちゃったんだ。なんか残念だね。一度見てみたかったな」 保が心から惜しそうにそう言うと、それが可笑しかったのか、川原は優しく顔をほころばせた。その笑顔に保は胸がキュンとしめつけられた。楽しいのにせつなくて、せつないのにワクワクするような不思議な心情……。この一瞬のまま、永遠に時が止まってしまえばいいとふと思う。 そんな保をよそに、川原が身を乗り出してからかうように言った。 「それより、俺見た目と違うって、香坂さんにはどんな風に見えてたんですか? スポーツやってたように見えません?」 保はいきなり質問されてすっかりうろたえ、口篭もった。 「え? いや、えーと……どうってその……」 目の前では川原が楽しそうに見つめている。保は彼の視線を感じつつ、つっかかりながら応えた。 「た、体格はいいけど細いしさ、顔つきも甘いし、もっと……軟派な感じかなって……。スポーツマンって言うよりはモデルとか、ホストとか……そっち系かなって……」 「ホストォ? 俺ホストですかぁ? まいったなぁ」 川原は呆れたようにふきだした。 「ホストなんてやってたら、わざわざデパートでバイトなんかしませんよ。だいたい昼まで働く勤勉なホストなんてあんまり居ないと思いますけど?」 「……それもそうか」 保が素直に認めると、川原はまた可笑しそうに笑った。 なんて楽しそうに笑うのだろう……と、保は思った。喜怒哀楽のまま、自分をなんら偽ることなく、心に素直に生きている。彼を見ていると、そんな普通の生き方がどうしようもなく羨ましく思えた。 楽しくて時が立つのも忘れる、というのはこんな時のことを言うのだろう。保は運ばれてきたパスタをとうに食べ終わった後も、そのまま川原と向かい合って会話に興じていた。ふと気づいた時にはニ時間近くの時間が立っていて、二人は慌てて腰をあげた。 帰りの車の中で、川原が申し訳なさそうに言った。 「あの……今の時間分、バイト代から差っぴいちゃってください。俺、ついつい話に夢中になっちゃって……。すみません」 今時の若者にしては珍しくキッチリとした性格のようである。保は恐縮しながら応えた。 「いや、今のは俺のほうが引きとめてしまったから……。悪い。きみのせいじゃないよ。中元部のマネージャーには俺のほうから話しておくから、別に気にしないで。大丈夫、客先でつかまったっていうことにしておくから」 「すみません、なんだか香坂さんと話してると楽しくて、仕事中だってことすっかり忘れてました」 川原はさらりとそんな言葉を口にした。聞きようによっては随分キザったらしい台詞だったが、彼の口調には世辞っぽいところがまるでなく、まるで本気でそう思っているように聞こえてくる。保はぽうっと頬が赤らむのを感じ、隠すようにうつむいた。 (俺と話してて楽しいって……それ、なんだよ。女くどいてるわけじゃあるまいし……) と、一応表面的にはけなしておきながらも、心の奥ではそう言われて妙に嬉しく感じていた。なんだか初めてのデートが思いきり成功した後のような気分である。 (デートって……バカ、なに考えてんだよ、俺は? ただ飯食って話ししてただけだろうが!) だけどやっぱり保にとって、それはデートそのもので、しかもワクワクした満足感は否定のしようもなかった。 信号待ちの車の中で、保はちらりと隣りをうかがい見た。すらりとした高い鼻が日本人離れしていて、たいそう美しかった。 店に戻ると、保は自分も中元コーナーまで出向いていって、遅くなった言い訳を適当にでっちあげて報告した。普段の真面目さが功をなし、中元部のマネージャーには多少困った顔をされつつもなんら疑われることなく納得してもらえた。川原はペコンと頭を下げ、そして最後に微かに意味ありげな笑みを向けると、本来の自分の仕事場に戻っていった。 その後ろ姿に未練を抱きつつ帰りかけたところで、保は春久につかまって声をかけられた。 「よう、商品どうだった? ちゃんと揃ってたろ?」 「ああ、ばっちりだった。ありがとう」 「またたんまり注文とって来てくれよな。でも、直前になっての商品の変更は勘弁して欲しいけど」 「手間かけさせて悪かったな。お詫びに、今度元売り場のほうに金持ちの客をごっそり連れていくからさ」 「ん〜、外商がらみの客は、値引きがキツイからありがた迷惑って話もあるんだよなぁ」 大袈裟に眉をしかめて文句を呟く春久に、保は朗らかに笑った。ふと、春久が不思議そうに尋ねた。 「なに、なんかいいことでもあったのか 香坂?」 保は驚いて聞き返した。 「え、別に何もないけど……なんで?」 「いや、なんだかやけに楽しそうだからさ。えらくご機嫌って言うか……」 春久は戸惑っている保の頬をきゅっとつまむと、からかうように言った。 「いっつもの取り澄ました笑顔より数倍いいぜ、今の顔。おまえでもそんな顔できるんだな」 くすりと笑うと、春久は誰かに呼ばれて慌てて走って行ってしまった。残された保は、わけもわからぬまま全身が熱く燃えるのを感じた。 いつもと違う自分がいる。春久にまで気づかれてしまうほど、素顔をさらけだしている自分がいる。それはひどく恥ずかしくて、だが不思議といやな気持ちにはならなかった。とても困惑はしたけれど……。 保はしばらくの間その場に立ち尽くして、何度も深呼吸しては心の震えを抑えようと必死になって努力していた。 土曜の夜の『A−パレス』は、たくさんの客が出入りしてにぎわっていた。 保はカウンターに座って目の前のグラスに手をかけ、それが空っぽになっていることに気づいてバーテンダーに差し出した。 「マーくん、もう一杯作ってよ」 マーくんと呼ばれたまだ歳若いバーテンダーは、素直に受け取りつつもちょっとだけ困ったように声をかけた。 「モンタ、もう三杯目。少しペース落とさないと」 「うるさいなぁ。大丈夫だよ、こう見えたって酒は強いんだからさぁ、オレ」 「つぶれても知らないぜ」 バーテンダーは言い返しながらも、注文通りに新しくカクテルを作りはじめた。手際良く銀色のシェーカーに数種の酒を注ぐと、軽やかな手つきでシェイクする。出来あがった液体を保のグラスに注ぎ入れながら、ニッコリと笑って言った。 「でも珍しいよなぁ。モンタがパーティナイト以外にも来るなんてさ。俺、自分の目を疑っちゃったよ」 保は綺麗なオレンジカラーに彩られた唇を尖らせると、つんと顎をあげた。 「なんだよ。普通の日に来ちゃあいけないっての? ここってパーティ以外ではドラッグクィーンは立ち入り禁止ってわけ? そーゆー店だったんだ、ふううん」 美しく化粧した顔で憎まれ口を叩く保に、バーテンダーは苦笑して応えた。 「別に来ちゃいけないなんて言わないけどさ、だいたい来いって言っても来ないじゃない? そりゃ俺はいつだってモンタが来てくれると嬉しいよ。モンタってメチャクチャ俺好みの美人だし」 「ふんだ、口ばっかり上手いの、マーくん。どうせ皆にそんなこと言ってんでしょ? 俺、そーゆーお世辞っぽい台詞って大っ嫌い」 保は冷ややかに言い放ってそっぽを向いた。バーテンダーは困ったように微笑みながらも、別段気分を害した様子はみせなかった。勿論、客と店員という立場はあろうが、保にはどこか子供の無邪気なワガママを連想させるところがあって、キツイことを言われても本気で怒る気にはなれなかった。 むしろ、憎まれ口を叩いた後に見せるすねたような仕草が、どうにもコケティッシュで可愛いのだ。そっぽを向きながらも、上目づかいで心配そうにちらりと顔色を伺う様子などを目にすると、誰もが思わず微笑を返してしまう。 人を惹きつける魅力というものを、天性で備えていた。 実際、今も他の客たちの視線がちらちらと集まっている。勿論それは、パーティでもなく、他にDQなんて誰もいない中に、一人華やかに着飾っているせいもあった。 炎のような赤毛のショートウイッグに緋色に光る短いジャケット、細く長い脚をピッタリと包むジャケットと同色のスリムパンツといった様は、普通の女性が着ていたって目を引くような代物である。だがそれを憎いほどに見事に着こなして、更にその上に美しく化粧されたモデル並の美貌がくっついているとあらば、注目を浴びぬわけがない。 もっとも、あまり決まり過ぎていて、さすがに気軽に声をかけてくる者もいなかったが。 週末の夜はたくさんの客がやってくる。 店のドアが開くたびに、保は即座にそちらに目をやった。そして一瞬後には、またつまらなそうに口を尖らせて酒をすする。そんな様子に、バーテンダーは不思議そうに声をかけた。 「なに、誰か待ってるの、モンタ? スージーかい?」 「べ、別に……。なんでもいいだろ?」 保は赤らんだ頬を隠すように顔を背けた。 「待っている」、その一言に動揺して心臓がトクトクと騒いでいる。 そう……保は待っていた。来るのかどうかもわからぬ相手を。 『また逢えるかな、モンタ? 週末にでもここで』 あの時彼がそう言った言葉を、保は忘れてはいなかった。はっきり約束したわけではない。なにも応えずに彼を取り残して逃げたのは自分。彼のほうは、もうすっかり忘れてしまっていて来ないかもしれない。 いや、本当はその可能性のほうが高いのだ。 返事もしないでそっぽを向いた男を探して、常連でもなさそうな川原が再びこの店を訪れる確率は低かった。ましてやデパートの仕事は明日もあるし、実は見た目ほど軟派ではないらしい彼が、ふらふらと遊び歩いているとも思えない。 ちゃんと考えれば考えるほど、こうしてあてもなく彼を待っているなんてひどく馬鹿げた行為なのだが、それでも保は来てしまったのだった。 きしんだドアの開閉音が響き、ギャルソンが声高にいらっしゃいませと声をあげるたびに、トクンと小さく胸が疼いた。愚かな期待はすぐに裏切られ、何度となく焦燥感を味あわされては、また音がするとそちらに向いてしまう。 保はそんな愚かな自分に怒りと当惑を感じていた。 馬鹿みたいだ。なにをやってるんだ? どうして自分はこんなところで、こんなことをしているんだろう? 来るはずもない男を、何故待ってる? どうして? だいたい、こうしてモンタとして顔をあわせる機会が増えれば増えるほど、それだけ正体がばれる危険性が高くなるのだ。SAKAKYUデパート社員の香坂保として昼の世界で出会ってしまった以上、もうひとつの顔、DQのモンタはこれ以上彼の前に現れるべきではない。 そんなリスクを冒すべきではないとわかってはいるのに、何故こうして彼を待っていたりするのか……? 保はちらりと時計を見た。もうすぐ夜の11時になろうとしている。 (あと10分。あの長い針が12時をさしたら、もう帰ろう……) そんなことを考えてふっとため息をついた。本当は、そんな風にもう何度も時間を引き延ばしては、諦めきれずにきたのだが……。 そんな時、また店のドアが開く音がした。 保は反射的にそちらを見、そしてそのまま固まった。 そこには、待ちつづけた男が、一人立っていたから。 「あ……」 唇から微かに声が漏れた。それが聞こえたわけではないだろうが、川原は入り口付近でぐるりと店内を見渡していた視線の矛先をカウンターに向け、そこに保の姿を捕らえた。一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに嬉しそうに微笑んで真っ直ぐに歩いてきた。 整った顔立ちに優しそうな笑みを浮かべながら、まるで自然な成り行きのように保の横に腰掛けて言った。 「遅くなってごめん。待った?」 柔らかな瞳に見つめられ、保は胸がきゅんとしびれた。心が騒いで声が出ない。ただ黙って首を振り、すねるように顔を背けるだけ。 保は困惑した。 (どうしよう……。どうしよう、俺……) 彼に捕らえられた自分がいる。もう逃げられないと感じていた。なんだかとても怖かった……。 ≪続く≫ |