シンデレラは嘘をつく

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 SAKAKYUデパートはただいま夏の商戦真っ盛りであった。
 長びく不景気で客足が減っているとはいえ、やはり昔から培った風習は根強く残っていて、特設会場に設けられたお中元コーナーは、週末ともなればたくさんの人でごった返す。店員たちは、それこそ休憩を取る暇もないほどてんてこ舞いの大忙しとなるわけだが、さすがに平日とあらば多少は人波も減って、閉店も近くなると、そこかしこで一息ついて立ち話などをする店員の姿も見うけられた。
 外商部の香坂保(こうさか たもつ)は、レジ周りでおしゃべりに興じていた若い女子社員たちのそばに寄っていって、気さくに話しかけた。
「楽しそうだね。なに話してるの? 今夜のお遊びの相談?」
「あら、香坂さん。違いますよぉ。夕食どこで食べてくって話してたんです―」
「ほんとに食事だけ?」
「やだあ、そうですよぉ。。明日定休日じゃないんだし―。ねえ、みんな?」
 女子社員たちは口々に文句を漏らしながらも、眼差しや表情は突然売り場に現れた保をおおいに歓迎していた。
 27歳になる保は外商部一番の若手だが、仕事ぶりでは決して他の古株には劣ってはおらず、むしろやり手の一人だった。今は個人相手の外商二課に属しているが、そのうち法人対象の一課にまわされるのも時間の問題だろうといわれている。その将来有望なる未来像に加え、スタイルもよく、モデルか俳優並みの甘いマスクとくれば、女の子たちの興味をかきたてないわけがない。
 おまけに独身で、人柄も極めて評判がよいとなれば、年頃の女子社員たちはこぞって結婚の対象として注目するわけで、つまりは皆が鵜の目鷹の目で狙いをつけていたのである。
 だが当の保はそんなモテまくりの状況にだらしなく鼻の下をのばすことはなく、堅いと評されるほど真面目であった。それがまた結婚相手にはうってつけということで、より人気度を増しているのであった。
 保はキラキラと瞳を輝かせる女の子たちをよそに、爽やかに言った。
「ねえ、レディスの春久いるかな?」
「春久さん? 裏で配送伝票の確認してると思いますけど」
「悪いけど呼んでくれるかな?」
 女の子の一人が嬉々として売り場の奥へと消えて行く。それは保に少しでも好印象を与えようとする思惑と、もう一人の目当ての男と話すチャンスを得た喜びの両方の現れと見て取れた。
 ほどなくして、裏から一人の男が現れる。その男、春久康介(はるひさ こうすけ)は、保と同じ大学出身で同期入社である。すでに腐れ縁と言っていいほど長いつきあいで、いわゆる気心知れた仲の「親友」というやつだ。
 そしてまた春久も保に負けず劣らずの人気者で、あまたの女子社員たちの憧れであった。真面目で爽やかな二枚目タイプの保とは違って、ちょっと三枚目の入った楽しい性格が、華やかな顔立ちと妙にマッチングしていて、SAKAKYUデパート女子社員の人気を保と二分していた。
「おい、春久。今日例の……だけど、行けるのか?」
 保が尋ねると、春久は彼独特ののんびりとした口調で応えた。
「んー、今夜だったっけ? ああ、いいよぉ。残業もないし」
「じゃ、いつものところで待ってるからな。なるべく早く来いよ」
「オーケー。了解了解」
 すると横で二人のやり取りを聞いていた女子社員が、興味津々といった顔で尋ねてきた。
「あら、お二人でどこかへお出かけですか?」
「んー? デートだよ、デート。二人で美味しくお酒をいただいた後で、夜のベイブリッジを見に行くんだ。いいだろぉ、ムーディで?」
 春久の冗談に女の子たちが「うっそぉ」と笑いさざめく。保はちょっと困ったような笑みを浮かべながら、口を出した。
「こら春久、本気にされたらどうするんだよ? 誤解を招くような言動は慎め」
「デートじゃないんですか?」
「やだな。当たり前だよ。ただのビジネス関係のセミナーさ。だいたいこいつとデートしたって、面白くもなんともないだろ? 男とベイブリッジなんてさ、モーホーだって恥ずかしくて行かないぜ」
 保の言葉にどっと皆が沸く。まだ開店中とあってすぐに声を潜めたが、上司の一人が遠巻きにじろりとにらんだ。皆ヤバイといった顔で見合わせると、含み笑いを続けながら、それぞれの仕事ヘと散っていった。保と春久だけが、残って話しを続けていた。もっとも今度は仕事の話なので堂々と声高く喋った。
「そういえば昨日頼んであった商品、いつ揃う?」
「ああ、あれね、明日の朝イチで入荷予定だから、午前中には用意できるよ、きっと」
「そうか、よかった。午後一番で配達したかったんだ。悪いが、揃ったら外商部まで届けてくれるかな?」
「んー、わかった。誰かに運ばせるよ」
「頼むぜ。じゃ、あとでな」
 保はそう言うと、端正な顔に笑顔を浮かべて帰っていった。一昔前の漫画ならば白い歯がキラリ、とでも描かれそうな王道を行く爽やかさである。春久の横にレジ番で立っていた女の子が、その姿を見送ってホウッとため息をついてつぶやいた。
「ふう、やっぱりカッコイイですねぇ、香坂さん。憧れちゃうなぁ」
 春久はちらりと視線を投げかけると、ニッコリと笑って言った。
「なんだ、ミカちゃんたら、俺の前でそれを言うわけぇ? ひどいなぁ」
「あ、もちろん春久さんも素敵ですよぉ。話してると面白いし」
「そうそう、ミカちゃん、俺の方がイイ男だよ。香坂みたいな真面目タイプは、案外裏ではとんでもない奴だったりするんだから」
「あら、そうなんですか、香坂さんって?」
 彼女がからかうように尋ねると、春久は目を細めて微笑んだ。
「ま、あいつは見た目通りの男さ。見た目通り、ね」
 フフンと鼻で笑って、小さく肩をすくめた。その言葉の意味に含まれた奥深い真実を読み取るには、まだ若い女子社員には到底無理な話しであった。


 繁華街から一本裏道にある小さなカフェテラスで、保は幾度となく腕時計をにらみつけては、イライラしながら友達の来るのを待ちわびていた。時刻はすでに八時を大きく回っている。かなり余裕を持たせてやってきたにもかかわらず、すでに30分も待ちぼうけを食わされ、保は爆発寸前であった。
 再度時計に目をやり、もう待ちきれないと腰を上げかけたところで、入り口からのほほんとやってくる春久の姿が目に入った。保を見つけて寄ってきた彼に、じろりときつい視線を向けた。
「遅いぞ」
「あー、すまんすまん。急に残業入っちまってさ。ああ腹減った。飯食ってっていい?」
 のんきにメニューを開きかける春久の手からそれを取り上げると、保は冷たく首を振って応えた。
「だめ。もう時間ない。行くぞ」
「えー? だって腹減ってんだよー。俺途中でぶっ倒れるかも」
「そんなもん、むこうで食やいいだろ? ほら行くぞ」
 強引に腕を掴んで連れ出すと、春久は渋々ながらもついてきた。それでもなにやらブツブツと文句をつぶやいている。
「食えったって、なにか食うと口紅落ちるじゃん。俺、今日はファイヤーなレッドでバシッと決めようと思ってたのにー」
 保はちらりと横目で見やって、冷たく言った。
「そんなの落ちない奴使えばいいじゃない」
「あれ、俺あわないの。唇荒れるんだもん」
「そんなデリケートな顔ぉ? 平気で厚塗りしてるくせに」
「ほーんとだってば。落としたあとでブツブツ出ちゃうんだからァ」
 なにやらだんだんと怪しげに変化していく口調で話しながら歩いているうちに、小さな店の前に着いた。そこはショーウィンドウに華やかなドレスが飾ってあって一見ブティックかなにかのようだが、よく見ると靴や小物、ウイッグから化粧品まで様々なものが取り揃えられていて、普通とはちょっと違った雰囲気を醸し出していた。並んだ洋服もどれも過剰なほど派手なものばかりである。看板には「レンタルブティック」と銘打ってあった。
 保はなんの躊躇も抵抗もなくその店に入ると、中にいた大柄の店員に屈託なく声をかけた。
「はあい、マリリン。久しぶり」
 自称マリリンのその店長は、ごつい顔にニッコリと笑みを浮かべて、野太い声で返した。
「あら、モンタにスージーじゃない? ご無沙汰ねぇ。元気してたァ?」
「うん、マリリンも元気そうだね。この不景気に店もつぶれてないしさ、荒稼ぎしてんだろ?」
 保が憎まれ口を叩くと、マリリンはグローブのような手でバシンと背中を叩いてオホホと笑った。
「やあねぇ、ここがつぶれたらあんたらみたいな客が困るでしょ? ボランティアよ、ほとんどー。それより今日は『A−パレス』のマンスリーパーティに出るんでしょ? なら早くしないと定員埋まっちゃうわよ。急ぎなさいよ―」
「うん、このバカが遅くなっちゃってさー」
 バカと言われた春久は、ふんと唇を尖らせて言い返した。
「なによぉ。一生懸命お仕事して稼いでたんだから、文句言われる筋合いないわよぉ」
「ふーんだ。俺なんか残業しなくてすむように効率よく時間内に済ませちゃったもーん」
 子供みたいに口喧嘩を始めた二人を、マリリンは手馴れた様子で奥へと押し込んだ。
「はいはい、喧嘩はいいからさっさと用意しなさい。角のコーナーに新しいドレスが入ってるからね」
 店内を回って素早く衣装やらなんやらを物色した二人は、それらを抱えて奥のフィッティングルームへと駆けこんだ。何分かしてそこから出てきた時には、保も春久もまるっきりの別人と化していた。
 保のきれいに整えられていた髪はグシャグシャに乱され、それがムースで形付けられて濡れたように光っていた。銀色と紫の二色づかいで、鮮やかにメッシュが入っている。紫色の荒い網目のタンクトップを素肌の上半身にまとい、下にはピッタリとした銀ラメのスリムパンツ。さらけ出された肩には真っ白なダチョウの羽のストールがふわりと落ちて、華やかさをプラスしていた。
 衣装の派手さに負けぬよう化粧もバッチリ施されていて、保の端正な面立ちを別な意味合いで更に際立たせている。まるでヴィジュアル系のシンガーのようなその姿からは、とても先ほどの背広姿の彼など想像もできなかった。
 横にいる春久の姿はもっと凄かった。長い金髪のウィッグをかぶり、真紅のロングドレスに身を包んでいる。長い付け爪も唇も、ドレスに合わせた真っ赤だ。どこぞのマダムよろしく指にはひょろ長いキセルまで挟む細やかさである。
 保は銀色のサンダル、春久は赤いエナメルのハイヒールを慣れた足取りで履きこなし、マリリンの待つレジまで来るとカードを差し出した。それを受け取った彼は手際よく精算をし、最後にニッコリと微笑んだ。
「それじゃ、ゆっくり楽しんでらっしゃい。今夜のシンデレラも最っ高にクールよ」
 パチンと投げかけられたウィンクに二人もウィンクで返して、保らは夜の街へと出ていった。もうひとつの世界へと向かって。


 クラブ『A−パレス』は、すでにたくさんの客で賑わっていた。
 男女入り乱れて、50人くらいは集まっていただろうか。保と春久は定員一杯の締め切りになんとかまにあって潜り込み、ほっと息をついた。すかさず知り合いの者たちが寄ってきて声をかけた。
「はあい、モンタにスージー。一ヶ月ぶりねぇ。元気ィ?」
「相変わらず美人よねぇ、二人とも。羨ましいわァ。今日の恰好も最高に似合ってるっ」
 保はつんと顎をあげて傲慢に応えた。
「あったりまえじゃない。顔がいいとなんでもイケちゃうの。厚化粧でごまかしてるアンタとは元々の出来が違うんだってば」
 さらりと言ってのけた悪態に、やはり派手な姿に身を包んだその男は、悔しそうに歯噛みした。
「もう、モンタったらぁ。にくったらしいわねぇ、相変わらず。その性格の悪ささえなければ、一にもニにもなく迫っちゃうのにぃ」
「大きなお世話。だいたいアンタに迫られたって困るもん。俺、ホモもオカマも大ッ嫌いなんだからね」
 男はフンと大きく鼻息を吐いた。
「なに言ってんのよ。自分だって誰よりも女装好きなくせに」
「俺、女装なんてしてないもん。これはただの、コ・ス・プ・レ。女装好きはスージー」
 保はそう言って春久の体をぐいと前に押し出すと、自分はさっさとその場を離れて行ってしまった。後に残された春久と男は、保の身勝手な言動にしばし呆れて沈黙していたが、やがて顔を合わせると、どちらからともなく喋り始めた。
「スージー、今日の口紅、すっごくいかす色ねぇ。どこのリップ?」
「うふふふ、いいでしょぉ? これはねぇ……」
 その後しばらく二人は化粧談義に花を咲かせていた。
 一方、保はたくさん銀の指輪に飾られた手でギャルソンのトレイから水割りをひとつ取り上げると、すすりながら店内を練り歩いていた。途中誰彼となく声をかけられる。
「はい、モンタ。久しぶり」
「モンタ。今夜も決まってるぅ」
「ねえねえ、こっちで一緒に写真とらなぁい?」
 保はそれらの声を適当にあしらいながら、一人なにをするでもなくうろついていた。時々気が向けば、群れ集まった輪の中に顔を出して話しに参加する。そして飽きればぷいと背を向けて、またぶらつく。そんなことを繰り返していた。
 保がこんなパーティに参加するようになったのは、いつ頃からだったろうか。
 1ヶ月に一度、ドラッグ・クイーンたちが集まるパーティ。派手な衣装で日常を包み隠し、なにもかも別人になったようにふるまう。ある者は現実を封印し、ある者は性別を捨てて、ある者はただただ美しく装うことを欲し、いつもと違う自分に変身したシンデレラたちは、同じ趣味嗜好の者たちと、時が立つのも忘れて明るく陽気に思う存分楽しむのだ。それが、このパーティの意義だった。
 クラブ『A−パレス』は、普段はただのカクテルバーだ。洒落た店内にいかした音楽が響き、渋いバーテンと小粋なギャルソンたちがもてなしてくれる、なかなかに感じの良い店である。だが月に何度か特別なパーティナイトが企画されていて、そのうちのひとつが今夜のようにドラッグ・クイーン達の集まる夜だった。
 保は随分前から、違う自分を自分の中に見つけていた。仕事ができて、容姿も人並み以上、人柄も良く誰からも好かれ、女の子にもてまくる爽やかな好青年・香坂保の、奥深くにある全く別の存在。誰も知らない、誰も理解してくれないもうひとりの保。
 そして、それこそがもしかしたら本当の自分なのかもしれないと言うことを、漠然と感じつつあった。
 しかし本当の自分がどういうものなのかは、彼自身にもわかってはいないのだ。こんな遊びも、身の内に溜まっていく悶々とした不満を発散したくて、ちょっとしたきっかけで始めたものだった。
 ドラッグ・クィーンとしていつもと違う自分を演じることは面白かったし、華やかな衣装も色鮮やかな化粧も、新鮮ではあった。春久という思わぬDQ仲間もできて、それはそれで楽しくてやめられないではいるけれど、だがこれが自分にとっての本当なのだとは思えなかった。
 楽しいけれどちょっと違う。気楽だけど、癒されはしない。派手な衣服に身を飾り立てても、心の何処かがなんとなくスースーする。
 保はちらりと春久を見やった。春久は同じように女装した者達と一緒に、楽しそうに雑談に興じ、写真を取りあっては大騒ぎをしていた。そんな様子を見て、保は侮蔑とも憧憬ともつかぬ笑みを漏らした。
 彼のように、純粋に女装という行為が好きで、それに甘んじていられるのならどんなにいいだろうと思うことがある。だが生憎保は完璧に女装するまでの勇気も根性もなく、結局はなんとなく中途半端に着飾っては、せいぜい普段のイイコちゃんな自分を解放するぐらいしかできなかった。
 保はプルンと首を振った。
 胸の奥に吹きかけた風を打ち消すように、笑いながら近くのグループの中に入っていく。
 ドラッグ・クィーンも、自分にとってはただの遊びだ。別に何かを求めてやっているわけではない。ただ馬鹿騒ぎが楽しいから行っているだけ。はしゃぐとすっきりするからそうしているだけ。それだけのこと。深い理由なんかない。そんなものいらない。今が楽しければ……。
 保はこんな世界でもやっぱり人気があって、モンタと名乗って月に一度現れる彼を皆が歓迎し、温かく迎えた。同じちやほやされるにしても、しがらみや世間体を気にしないでいられる分素直に受けいれられるし、嫌われてもかまわないから好き勝手に振る舞える。だからモンタである保は、現実とは違って言いたい放題し放題のワガママボーイだ。それがまた逆にコケティッシュでチャーミングに彼を際立たせていた。
 しばらくふらふらと遊んで、保はふとトイレに向かった。このクラブのトイレは、こんなパーティに来る客の為にか、広くて豪華で、男性用にも奥にちょっとした化粧用のコーナーがついていた。保は用を足したあと、汗で崩れた化粧をその場で直し、また会場に戻ろうとした。だが出ていきかけたその時、後ろから知らない声に呼びとめられた。
「ちょっと待って」
 保が振り返ると、洗面台の前に若い男が一人立っていた。
 見たことのない男だ。商売柄、何度か顔をあわせた者ならなんとなく覚えているものだが、その男はまるで記憶になかった。常連ではないのだろう。
 年の頃ならまだ二十代前半、ひょろりと背が高く、たいそう綺麗な顔をした青年である。綺麗と言っても着飾って綺麗なのではない。その男はなんの化粧もしていなく、服装もごくごく普段着の、普通の恰好だったから。
 ドラッグ・クイーンのパーティとはいえ、それ以外の客を締め出すものではない。定員は決まっているが別に着飾ることが絶対条件という訳でもなく、何人かは彼のように普通の姿をした普通の参加者もいるのだ。それでもまあ、ゲイであったりMTFであったり、いわゆるノーマルな世界の者とは違う住人が多いことは確かだったが。
 男は怪訝そうな眼差しを向ける保にニッコリと微笑みかけると、すっと手を差し出した。
「これ、あんたのだろ? 向こうに忘れてあった」
 大きくてごつごつと骨ばった手の上に、一本の口紅があった。保は寄っていってつまみとると、うつむいてぼそりと言った。
「……サンキュー」
 なぜだか素直に顔があげられなかった。一目その男を目にした途端、どくんと大きく心臓が跳ねた。そしてそれがずうっと続いて、なにやら胸をかき乱す。心が騒ぐ。ざわざわとさざめいてる……。
 受け取ってさっさとその場から離れればいいものを、保はいつまでも彼の前に立ち尽くしていた。まるで足が床に縫いとめられているようだった。いや、縫いとめられているのは床にではない。その男に、だ……。
 自分自身の心情がまるっきり理解できなく、戸惑いと不安の中でグルグルと頭をめぐらせていると、ふいに男の指が頬に触れてきた。保はびっくりして、弾けたように体を退いた。
「なに?」
 必死に平静を装ってぶっきらぼうに尋ねると、男はふわりと柔らかに微笑んでみせた。
 わずかにウェーブした栗色の髪が、広い額にぱらりと降りかかる。男の笑顔を、保は胸が痛くなるほど美しいと感じた。
 男はじっと保を見つめながら、さらりとした口調で言った。
「きみ、綺麗だね。今夜のDQの中じゃ一番綺麗だ」
 なんと応えればよいのかわからなくって、保は沈黙したまま彼を見返した。誉められるのなんて今更だが、まるっきりお世辞も社交辞令も感じさせない彼の言葉には、気のない返事をするのもためらわれた。ありがとうと軽く受け取るのも、ふふんと冷たく一笑に伏すのも、どちらもせっかくの賛辞を汚してしまいそうに思えたのだ。
 保が戸惑っていると、男はさらに言った。
「でも……化粧してないほうが、もっと綺麗な気がする」
 いきなり降りかかった言葉に、保は横っ面を張り倒されたような衝撃を受けた。思いもがけぬその言葉は、あまりにもストレートであまりにも強烈だった。
 こんなにたくさんの虚飾で身を覆い隠しているのに、まるで裸の自分を見つけられたような、奥の奥のまっさらな部分を見透かされたような、そんな感じがする。なにもかも見ぬかれたみたいで、ひどく恥ずかしかった。
 保は無意識に親指を口にやると、曲げた関節をくっと前歯で噛んだ。動揺が隠せない。全身がかあっと熱く火照る。震える声で、精一杯冷たい口調を投げかけた。
「それって、こういうパーティでは禁句ってヤツなんじゃないの? 全然誉め言葉になってないじゃん」
 男はちょっと意外な様子で驚いたが、すぐに申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「気を悪くしたんならゴメン。でも本気でそう思った」
 一言一言がストレートに突き刺さってくる。いつもなら文句なり嫌味なりを言い返して、それっきりさっさと背を向けるのだが、今目の前にいる男には何故かそうすることが出来なかった。腹が立ってるのに無視出来ない。恥ずかしいのに逃げられない。
 保が耳まで赤く染めて立ち尽くしていると、男は優しく尋ねかけた。
「名前、聞いてもいい?」
 保はちらりと上目づかいに男を見やって、つぶやいた。
「……モンタ」
 素直に答えてしまった自分がわからなかった。
 男はにっこりと微笑むと、屈託なく返してきた。
「俺はジーン」
 保がおずおずと顔を上げて彼を見つめると、男はとろけそうなほど甘い瞳を向けて言った。
「また逢えるかな、モンタ? 週末にでもここで」
 保は声の震えを抑えながら、必死に返した。
「……ここ、DQのパーティは……一月に一度だから……」
「別に仮装してこなくてもいいよ。普段着のきみで」
 冗談じゃない……と、いつもなら間違いなくそう思ったことだろう。だがその時の保は、なにも応えられなかった。NOと断れない自分がいた。それどころか、こくりとうなずいてしまいそうだった。
 その時ガヤガヤとお喋りしながら、DQの一団が入って来た。保はハッとして、慌てて身を翻すとトイレから走り出た。男をその場に残したまま。
 胸がドクドクと騒いでいた。まるで初めて誰かに恋してしまった時のように。
 いや……違う。こんな気持ちは初めてだ。だって保は、これまで誰にも恋した経験なんてなかったのだから……。


 朝の外商部の部屋は、営業中は滅多に揃うことのない面々が皆集まっていて、ざわざわと騒々しかった。ほどなくそれぞれが客先へと向かって出ていってしまうのだろうが、それまでのほんの一瞬をめいめいが好きなように過ごしている。たいていは煙草をくゆらしながら、ほかの社員らと雑談を交わしているのだが、その日の保は一人ぼんやりとデスクに座って苦いコーヒーをすすっていた。
「なんだ、朝からしょぼくれてるな、香坂。飲み過ぎか?」
 同僚たちに声をかけられ、適当に笑ってごまかした。飲み過ぎたのは本当だが、眠れないのを騙すために独り部屋でナイトキャップをがぶ飲みしたなんて、とても情けなくて言えたもんではない。
 ふいに胸ポケットで携帯が震動する。出ると耳に鳴れた声が聞こえてきた。
『香坂? 俺、春久』
「ああ、春久。おはよう」
 ほんのちょっとだけ後ろめたさを感じる。昨夜あれから、春久を残して独りさっさと帰ってしまったからだ。案の定、電話はそれに関する内容だった。
『おまえ、昨日どうかしたのか? なんにも言わないで帰っちまって』
「ああ、ごめん。なんか悪酔いしてさ。疲れてたのかな」
『なに、具合悪かったのか? ならそう言えばいいのに。送ってってやったのによ。それでもう平気なのか?』
「ああ。……ごめん」
 温かい労わりの言葉に改めて良心の呵責を感じ、保は再度謝罪した。春久が屈託なく笑う。
『なに謝ってばかりいるんだよ。おっかしな奴だな』
 その声を聞いて、保もまた少しだけ口元を緩めた。のんびりしてとぼけた奴だが、なんだかんだ言っても春久は大切な友人だった。誰にも言えない秘密を共有しているという共犯者意識を抜きにしても、唯一に気の許せる存在と言えるかもしれない。外面はどう見たって人付き合いの上手そうな保が、実はとんでもなく人見知りであるということをわかっているのも彼だけだ。
『ところで昨日頼まれた商品なんだけど、入荷10時過ぎになるみたいなんだが、時間の方は大丈夫かな?』
 電話の向こうで、春久はきりりとお仕事モードの口調で話した。そこには昨夜の金髪美女の面影など微塵も感じさせるものはなかった。もちろん、保とて、今の彼と夕べの彼との間に共通点を見出すのは困難なほど全くの別人を演じているわけで、それはあのような趣味を持っている人間には当然とも言えることである。虚構と真実を画せないようではお話にならない。
 もっとも、いったいどちらが本当でどちらが演技なのか、答えを出すのは難しかったが。
 保は手帳のスケジュール表で予定を確認しながら、穏やかに応えた。
「ああ、いいよ。どうせ配達は午後からだし、1時までに間に合えばいいから」
『じゃ、届いたら外商部まで運ばせるよ』
「あ、春久? 悪いけど、誰か一緒に客先までつけてもらえないかな? 商品量結構あるから、俺一人じゃ手間が大変で」
「んー、ちょっと待ってくれ。こっちの都合を確かめる」
 しばらく間があき、受話器の向こうで遠く話す声が聞こえてくる。ほどなくして、春久の声が戻ってきた。
『OK、じゃバイトの男一人行かせるから、好きに使ってくれ。その代わり残業ついたらおまえが自腹切って払えよ』
「そんなに掛からないよ。ほんの一・ニ時間程度で返すから。悪いな、じゃあ1時に頼むぜ。……うん、じゃな」
 保は携帯を切ると、少し肩の力が抜けた自分を感じた。とりあえず仕事を始めてしまえば、いらぬ悩みも余計な思惑も入る余地はない。だから保は働くのが大好きだ。
 外商の仕事はいろいろ気遣いも多くて苦労するが、努力がそのまま数字となって現れる、やりがいのある部署である。だから今のこの状況は決していやではなく、むしろ楽しい。ビジネスだと思えば、客の前で感じの良い好青年を演じるのだってちっとも苦痛ではない。
 ずうっとずうっと演じるだけの一生。その方が楽な気さえする。苦しいのはその狭間だ。やり手の外商マン香坂でもなく、夜のDQモンタでもなく、ただの一人の男、香坂保に戻らなきゃいけない時が一番苦しいのだ。
 やがて一人一人と外商部の部屋から男達が減っていく。保もまた残っていたコーヒーをいっきに啜って、部屋をあとにした。もうひとつの自分を生きるために。
 正午も大きく回って、もうすぐ一時にもなろうという頃、保は午前中の仕事を終え、ようやく戻ってきた。予定がかなり狂ってしまって、すっかり帰社が遅れてしまった。まだ昼食すら食べてない。
 保は空いてきた腹を抱えて、ちらりと腕時計を見た。あと10分少々で1時だ。なにかを食べている暇はあるだろうか。
 悩みあぐねているうちに外商部のドアにノックの音が響く。続けて、若い男の声で「中元部から来ましたが」と声が聞こえた。どうやら春久が差し向けてくれた商品と手伝いの者がやってきたらしい。
 保は昼食を諦め、すぐさま穏やかに応えを返した。
「ああ、どうぞ。入って」
「失礼します」
 礼儀正しい挨拶とともに一人の男が入ってきた。制服でも背広でもない、Tシャツにジーンズという姿がいかにも大学生のアルバイトといった感じだ。
 だが保は、その男が下げていた頭を上げて顔をさらけ出した時に、びっくりして目を剥いた。
 そこにいたのは昨日クラブで出会った、「ジーン」と名乗ったあの若い青年だったのである。
(なっ……! なんでっ!)
 愕然として声もなく立ち尽くす。
(どうしてこんな所にあいつがいるんだ! 嘘だろぅ? 嘘だろおぉ?)
 それは保の人生始まって以来の、とんでもない最大級の危機であった。
 
     
                                            ≪続く≫
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