Dangerous night!   ー放浪編ー

目次に戻る

act 3                       
 
 啓太はあんぐりと口を開けたまま、呆然として目の前の光景を見つめた。
 六室ほど入っていた古くて小さな木造のアパートは、未明からの火事に跡形もなく燃え尽きて、いまはもう焼け残った真っ黒な柱が数本、かろうじて支えあって立っているだけだった。
 啓太がつい昨日まで暮らしていた部屋も、もちろん何も残ってはいなかった。きれいさっぱり、ここまで見事になくなるかというくらい、全てが炭とススに変わり果てている。啓太の全ての財産を道連れにして。
 今だ騒々しく群がる野次馬の中、啓太が言葉もなく立ち尽くしていると、突然後ろから声をかけられた。
「ああっ、風倉さん! ちょっとあんた、無事だったのかい!」
 それはアパートの向かいの家に住んでいる老夫婦のご主人だった。人の良い夫婦で、道で顔をあわせたなら欠かさず挨拶を交わしたし、時にはおばあちゃん手作りの料理の余りなんかを分けてもらうくらいの、ほどほどに親しい間柄だった。
 老人は喜びと怒りがごっちゃになったような顔をして、しわだらけの手でバンバンと背中を叩いた。
「あんた、どこ行ってたんだよ、いったい。あんたの姿が見えないから、まさか逃げ遅れてくだばっちまったのかとみんなで心配してたんだよ。あんたねぇ、自分ちが燃えてるって時に、どこで遊んでたんだい、まったく」
「川田のじいちゃん……」
 啓太はボケっとして応えた。思いもかけない事態に、頭がまったく働いていなかった。
 そんな彼をしりめに、老人は周りの喧騒に負けぬよう大声で喋りまくった。
「ひどいったらないよなぁ。明け方煙が出てると思ったら、あっ言う間に火が広がっちまってこの通りだ。怪我人が出なくて幸いだったよ。アパートの住人であんただけ姿が見えなくて、消防の人とか警察とか探し回ってたんだよ。いやぁ、仏さんになってなくて、本当に良かった良かった。若い人の黒焦げ死体なんて、見たかぁないやな。うん、良かったよー、まったくなぁ」
「はあ……」
 何をどう返したらよいのかわからず、啓太は気の抜けた相槌を打った。
 良かったと言われても、いったいなにが良いのかわからない。確かに自分は今こうして生きているし、もし昨日酔って帰っていたら、火事がおきたのをわからずに寝こけてて逃げ遅れたかもしれないし、少なくとも怪我のひとつもしてたかもしれない。それを考えると、家を空けたことは偶然にしても運が良くて、不幸中の幸いで、老人の言うとおり良かったことなのかもしれない。
 が、しかし、それでも焼けて燃えてしまった啓太の全財産は、二度と帰っては来ないのだ。身一つだけの家なき子状態。啓太は文字通り何もかもなくして、住むところもなく寒空に放り出されてしまったわけである。
 だんだんと動き始めてきた頭で愕然として、啓太は焼け残った柱に向けて大声で゙叫んだ。
「それはないぜー! バッカ野郎―!」
 しかしそんな叫びに応えてくれたのは、いまだくすぶって立ちのぼっている白い煙と、事情徴収を求めるために寄ってきた警察官だけであった。


 月曜の朝、啓太が会社に行くと、たちまち周りに同僚たちが群がってきた。
「おい風倉、おまえんとこ火事にあったって?」
「燃え盛る炎の中を命からがら逃げ出したってマジかよ?」
「起きたら目の前が真っ赤に燃えあがってたんですって?」
 いったい、どこからこれほどの素早さを持って情報が流れるものかと、啓太は半ば感心しつつ、深く嘆息した。しかも盛大にスペクタクルに尾びれがつきまくっている。
 まるで楽しんでいるかのように目をキラキラさせて答えを待つ彼らに、啓太はいっそう力が抜ける気がして、ガックリと肩を落としつつ言った。
「まあな、そんなようなもんだ。とりあえず生きてるよ」
「まるっきり焼けちまったのか、アパート?」
「ああ。完全燃焼。百パーセント丸焼けだ」
「うわぁ、気の毒―」
 周りに群がる者たちが異口同音に叫ぶ。そんな中、人垣の間からちらりとのぞいた森太郎の姿に気づいて、啓太は視線を止めた。
 彼は野次馬根性を発揮する事もなく、自分のデスクについて大人しく座っていた。だがその瞳は、まっすぐ啓太に向けられていた。いつも通り冷ややかでクールな顔。だが眼差しがちょっとだけ怒ったように厳しく感じる。啓太と視線が合うと、一瞬じろりとにらんで、すぐに視線をそらした。
(な、なんだ、あいつ……?)
 そういえば土曜のあの日、逃げ出すように彼の家から帰ったことを思い出した。あの時のことを怒っているのだろうか? だがそんなことを気に留める余裕は、週末の啓太にはまるっきりなかった。すっかり放心状態で、今後どうしようかを考えるのもようやくといった感じだったのだ。
 ぼんやりしている啓太の頭の上では、いまだ同僚たちが勝手にワイワイと騒いでいたが、やがてそれも就業時刻になり上司たちがそろいだすと、それぞれに自分の仕事へと戻っていった。
 その日啓太は、半ばヤケクソのように仕事に没頭した。仕事をしている間は、余計な事を考えなくてすむのが救いだった。
 なんたってこの一日と半分、ずーっと途方にくれっぱなしだったのだ。あの火事で啓太に残されたものは、今着ている洋服ひとそろえに、携帯電話と財布、それだけだった。とりあえず出社モードのいでたちだったので、最低限の装いだけは確保できた。しかし、それがいったいどれだけの慰めになるのというのだろうか。
 火事の後受けた事情徴収で聞いた話では、アパートは放火で、しかも犯人は見つかっていなかった。たとえ見つかったとしても、その責任能力など期待するほうが無駄というものだろう。自分で火を出したわけではないので自責はいっさいないにしても、賃貸アパートの借り手に火災保険が下りるわけでなし。ただの燃やされ損、やられ損であるのは明らかだ。
 不幸にも啓太は家財保険にも入ってはいなかった。以前母親に口うるさく言われていたのを思い出したが、そんなものは後の祭だ。だいたい二十代の若者で手回し良くそんなものに入ってるほうが珍しいというものだ。たいていは、まさか自分の家が燃えてなくなってしまうなどとは考えもしないで、保険代を遊ぶ金にまわすのが普通というものである。
 銀行の通帳は燃えてしまったものの、カードは財布の中に入っていたので、とりあえず無事だった。しかしそれだってあてにならないことはなはだしい。なんせ預金残高は数えるほどしかないのだ。それでなくても毎月ギリギリで生活している上に、おリ悪く今年の夏は神林らとハワイに遊びに行ってボーナスを使い尽くした後だった。つまり、次のボーナスまでは余裕と呼べる金などいっさいないという状況なのである。
(部屋を借りるとなれば、最低でも部屋代三ヶ月分に契約金に敷金、管理費……。そんなもん、いったいどうやって都合すばいいんだよ?)
 啓太は仕事の区切りの合間にペンを持つ手を止め、ふと考え込んだ。真剣に考えれば考えるほど、あまりの事態の過酷さにガックリと落ちこんでしまう。
 ハアと大きなため息が思わず唇から漏れた。
 前途多難とは、まさしく今のような状況を指すものだと、のん気にもしみじみ痛感するのだった。


 その日の午後、啓太はとある取引先に出向いて帰ってきたところを、1階のエレベーターの前で森太郎と鉢合わせた。どうやら彼も出先から戻ったところらしい。啓太は彼の姿を目にした途端ドキンと胸が鳴ったが、平静を装って、よお、と軽く挨拶をした。
 森太郎はにこりともせず会釈を返した。そのまま前を向いて、一言も喋らない。啓太は並んでエレベーターが来るのを待ちながら、ちらちらと横目で彼をうかがった。
(どうしよう……。なんかこいつ、不機嫌そう……。ひとことなにか言うべきなのかな?)
 しかしその言葉が思い浮かばない。改めて礼を言えばいいのか、それとも逃げ出してきた無礼を謝るべきなのか。しかしそのどちらもが、今の自分の口から出るにはどうにもふさわしくない気がして、働かぬ頭を悩ませていた。
 と、ふいに森太郎のほうから話しかけてきた。
「風倉さん」
「へ? ……お、おう、なんだ?」
 啓太は焦って返事をした。森太郎は相変わらずの無愛想さで、前を見たまま淡々と喋った。
「どこに泊まったんですか? 昨日と一昨日」
「あ、ああ、えーと……土曜はアパートの向かいの爺さんがさ、同情して泊めてくれたんだ。でもいつまでも世話にはなれないから、昨日はとりあえずカプセルホテルに寝た」
「今日は?」
「うん、一応神林のところに転がり込む予定だけど。その……すぐには部屋探しも出来なくて。し、仕事があるしさ、忙しくて……。ほら、一応自分の目で確かめたいだろ? 本の写真だけじゃなくてさ。環境とか交通の便とか」
 そう口にしながら、虚しい見栄を張っている自分の情けなさを感じた。今の啓太にとって環境も交通の便も、そんなことは二の次だ。なんといっても、元手がまるっきり足りないのだ。だから探すのが難しいのではなく、借りること事態が困難なのだが、まさかそれを森太郎に対して愚痴るわけにもいかなかった。
 しかし反面、今ここで何もかもさらけ出して彼に泣きつくことができたら、どんなに楽だろうかとふと思った。どうしよう……と半べそをかいたら、あの出張の時のように、大丈夫と力強く答えて返してくれる、そんな勝手な期待が胸に湧き上がった。
「み……」
 思わず口を開きかけた時、エレベーターが到着してドアが開いた。
 森太郎がさっさと乗りこみ、中でボタンを押しながら啓太を待つ。啓太は小さく吐息をついて、あとに続いて乗りこんだ。
 営業1課のある八階まで沈黙が続いた。狭い空間に二人きり。だけどその時の啓太にあったのは、ドキドキでもソワソワでもなく、ちょっと胸のつまるような苦しさだった。
 もうすぐ八階という時になって、ふと森太郎が顔を向けて尋ねた。
「なにか言いかけませんでしたか? 風倉さん」
 琥珀色の瞳がまっすぐに見つめてくる。啓太はスウッと息を吸いこみ、しかし出かかった言葉を飲み込んだ。
 泣きついてどうする? 彼に頼って、どうするというのだ? いやそれ以前に、そんなことできやしない。森太郎はただの同僚、ただの後輩なのだ。出張の時は仕事上でのことだったから彼も助けてはくれたが、今抱えてる問題はまったくのプライベートだ。そんなの彼にすがれない。森太郎だって、そんな相談を受けるいわれも義務もないのだ。
 啓太はうつむき、密にため息をついた。そして上目使いで彼を見上げて、言いにくそうに言った。
「あの……さ、この間借りたパンツ、もらってもいいかな?」
 森太郎は一瞬目を丸くしたが、すぐに口元に、あの小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「どうぞ。かまいませんよ」
「あー、良かったー。いやあ、ほら、今なんにもなくってさー、パンツ一枚でも助かるぜ」
「なんなら、あと二・三枚、見舞金代わりにさしあげましょうか?」
「あ、いいなあ、それ。アハハハ」
 啓太は無理矢理笑ってみせた。
「他にも困ったことはありませんか?」
「え?」
 突然そう返され、啓太は驚いて押し黙った。森太郎はじっと啓太を見つめながら、力強い口調で言葉を続けた。
「なにかあったら、言ってください。俺にできることはしますから」
「皆川……」
 森太郎は胸ポケットから名刺を一枚取り出すと、その裏にサラサラと走り書きして、啓太に差し出した。
「俺の携帯の番号です。いつでもかまいませんので」
 エレベーターが八階に到着する。森太郎はちょっと頭を下げると、スタスタと歩いて行ってしまった。
 啓太はひとりその場に残って、固く唇をむすんで床をにらみつけていた。
 あと少し、ほんの1分でもエレベーターの着くのが遅かったら、不覚にも彼の前で涙を流していた。無様な姿をさらしていたと、時の偶然に感謝をしながら。
「くそぉ……」
 今頃になって、熱い雫がひとつ、頬を伝って流れ落ちた。手のひらの中の小さな紙が、どうしようもなく熱く感じた。


 会社から見舞金が出た。
 とは言っても、雀の涙である。
 同僚たちからのカンパも集まり、そちらは数を頼りで結構な金額だったので、金に窮している啓太にはたいそうありがたかった。
 しかし、そうは言っても何もかもなくしてしまった人間の必要経費は考える以上に金がかかり、とても部屋を借りる足しにまでは追いつかなかった。日常の様々な小物や、とりあえずどうしても必要な衣服や雑品をそろえるだけで、手持ちの金は羽が生えたようになくなっていく。友人たちが物資援助――多少古くなったネクタイだの、普段着だのーーもしてくれたが、それでもまだまだ買わなきゃならないものは山ほどあった。
 それに、やはりなんと言っても住む場所が一番の当面の課題であった。
 神林は人のいい男で快く居候を承諾してくれたが、だからといっていつまでも甘えて居つくわけにもいかない。ワンルームの彼の部屋には啓太がじっくりと寝泊りするスペースなどなく、毛布一枚分けてもらってベッドの下で寝る毎日は結構大変だった。お互いプライベートもくそもあったもんじゃない。
 そして、そんな問題がいっきに形となって現れたのは、火事からちょうど1週間後の、金曜の夜のことだった。
 その夜、啓太は遅くまで残業して、帰宅の途についた。あれからできるだけ残業を増やして、会社にいる時間を長くしていた。神林に負担をなるべくかけたくなかったし、家でぼうっとしていても前途を案じて気分は暗くなるばっかりだ。それなら会社に残って少しでも長く仕事をしていたほうが、気分もずっと楽だったし、残業代もつくから一石二鳥だった。
 とは言っても、その仕事にも限りはある。九時を少し回ったところでその日のノルマは全て終わってしまい、啓太は重い腰をあげていまだ馴染めぬ友人の家へと戻ったのであった。
 神林の住む独身者向けマンションは繁華街にわりあい近いところにあった。ある意味、恵まれた生活環境とも言えるかもしれない。飲みに出れば帰宅は徒歩でも充分かなう場所である。啓太も何度か飲み会の帰りによって泊めてもらったことはあったのだが、住むとなると、さすがに肩身が狭い思いをする。神林とて、今はまだ快く受け入れてはくれているが、これが二週間も三週間もということになれば、そうニコニコと笑ってはいないだろう。
 彼のマンションに着いたのは、もうすぐ十時という頃であった。
 小さなエレベーターを降りて廊下を歩き、チャイムを鳴らした。すぐさまドアが開き、神林が顔を出した。
 ただいま……と言いながら足を踏み入れかけた途中で、神林は突然啓太を押し出して廊下に戻すと、後ろ手でドアを閉めてひとこと言った。
「悪い、風倉」
「はあ?」
 わけもわからず唖然としている啓太に、彼は顔の前で両手をすりあわせると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまん。急で悪いけど、今晩どっか別のところに泊まってくれるか?」
「へ? なんでまた?」
「あー、えーとさ、ちょっと友達が来てんだよ、今」
「友達?」
「う、うん。あー……女なんだわ」
 啓太は一瞬ぽかんとし、すぐに真っ赤に顔を染めて相槌を打った。
「あ、ああ、そ、そーか。なるほどな、ハハハ」
「ゴメン! 高校ん時ちょっと付き合ってた女でさ、さっき飲み屋で偶然会ったんだよ。それで、なんか話しこんじゃってさ、そのー……な? わかるだろ?」
「あー、わかる。わかった。こっちこそ気ぃ使わせてワリイ。うん、俺のことはいいから、二人でゆっくりしてくれ」
「すまん。で、今晩泊まるところあるか?」
 すまなそうな眼差しを向ける神林に啓太は明るく笑ってみせると、ぽんぽんと肩を叩いた。
「大丈夫だって。一晩くらいどうにでもなるからさ。じゃあな。しっかりやれよ」
「ごめん。悪いな、風倉」
 気にするなと元気に言い残して、啓太は今歩いてきた廊下を戻った。スタスタと足取りも軽く歩いてエレベーターに乗り込んだところで、急にガックリと力が抜け、壁にもたれかかって天上を仰いだ。
 ハアと大きなため息が漏れた。
 どっと疲れを感じてしまう。しかたのないことだ。別に神林が悪いわけでもなんでもない。彼のプライベートな空間に立ちいっているのは自分のほうなのだから。一週間も文句も言わずに住まわせてくれただけでも感謝するというものだ。
「宿探し……しなきゃ……な」
 独りごちて、啓太はマンションをあとにすると、夜の街に向かって歩き出した。
 

 週末の繁華街は、相変わらずにぎやかに華やかに色めきたっていた。
 啓太はオールナイトのファストフード店で、コーヒー一杯頼んで一時間ほどぼんやりとしていたが、若者ばかりがせわしなく出入りするその店はさすがに落ちついて長居できる場所ではなく、やがてしかたなく腰をあげてそこを出た。
 飲み屋には入れない。そんな金はどこにもない。かと言って、一晩中ふらつくには、この季節は辛すぎた。まさかスーツ一枚で公園で夜更かしするわけにもいかない。
 先ほどコーヒーを飲みながら別の友人ニ・三人を頼って電話をしてみたが、あいにく週末とあって遊びに出ているのか、皆留守であった。さすがにこの時間帯では、自宅住まいの者にすがるには気が引ける。結局人の情に頼れそうなところはどこも全滅で、自力でどうにか寝る場所を調達するしか手は残っていなかった。
 歩きながら、いったいどうしたものかと途方にくれた。
 なにげなくポケットに手を突っ込むと、かさりと触れる小さな存在に気がついた。取り出してみると、それは夕方エレベーターで森太郎から受け取った名刺であった。
 啓太はそれを見つめた。裏に数字が並んでいる。見つめていると頭の中に森太郎の顔が浮かんだ。それと一緒に、彼の家に押しかけたら、もしかしたら泊めてくれるかもしれない、そんな期待が沸きあがった。
(いや……だめだ、そんなの)
 啓太はブルンと頭を振って自らの考えを否定した。森太郎に頼るわけにはいかない。友達でもなんでもない男になんて、そんな図々しいことを頼めない。それに……そんなことしてはいけない気がする。なんとなく……。
 ふうと今宵何度目かの大きなため息をついて、啓太は街を見渡した。
 いろいろ考えながら歩いていたので、いつしか繁華街の中心を通りすぎて、少し外れた通りまでやってきていた。それまで溢れていた飲み屋の看板はいつのまにか姿を消し、周りにはなにやらいかがわしいホテルばかりが立ち並んで、妖しいネオンの光りを道端に投げかけていた。
 それに混じって、安い簡易宿の看板も所々に立っている。啓太はそれを見て、ぽそりとつぶやいた。
「カプセルホテルかな……、やっぱり?」
 普通のホテルにはとても泊まるだけの金はない。カプセルホテルだって本当は費用が惜しくて避けたいところなのだが、一番安価で確実に寝場所を得られる場所となると、それぐらいしか思いつかなかった。
(しかたない。とりあえず今夜一晩どこか探して……)
 そう決めてもう一度辺りを見まわした啓太の目に、あるひとつの看板が飛びこんできた。
『24時間サウナ・完全個室有り ご利用料金2000円より』
(サウナ……2000円……)
 なにより最初に、その金額に反応した。
 啓太は思わず近寄って、しげしげと看板を眺めた。サウナには以前一度、宴会の後で友人達と泊まったことがあった。もちろん、ただのサウナとして利用しに来る客もたくさんいるが、この手の24時間営業の店は、宿屋代わりに泊まりに来る者がわりと多いのだ。遠い住宅地に住む者なら、下手にタクシーなどに乗って帰るよりも、このような場所で仮眠を取って朝まで過ごし、一番の電車で帰る方がよっぽとお得だからである。
(なに? 会員制? あ、でも、入会金無料になってる。ラッキー!)
 啓太はうかがうように店構えを見た。小さなビルの横に張りついた小さな階段を上がったところにあるその店のたたずまいは、このような場所にしては意外なほど小奇麗で清潔そうに見えた。上品なライトが慎ましやかに瀟洒なドアを照らしている。
「よし、決めた。ここにしよう」
 啓太は唇に微かな笑みを浮かべて、ホッとしたようにつぶやいた。とりあえずこれで今夜の寝場所が確保できたのだと思うと、少しは心が休まった。
 早速階段を上がって、啓太はその店に入った。
「いらっしゃいませ」
 ドアを開けると同時に、横に受付があって三十代くらいの男が声をかけてきた。ここの従業員らしい。
 男は態度は礼儀正しかったが愛想笑いひとつするでなく、事務的に淡々とした口調で説明を始めた。
「基本料金は前払いで2000円。こちらだとサウナ・浴場・MIXルームのみのご使用になります。個室ご利用の場合は、追加料金をいただきます。それぞれグレードによって金額が変わりますが、Aタイプだと……」
「あ、基本でいいです。安いほうで」
「かしこまりました」
 男は素直に了承すると、啓太の差し出した三千円から料金と消費税を差し引いた釣銭と、会員券と書かれた小さなカードを一緒に差し出した。そして奥の部屋からバスローブとタオルを一枚持ってきて、差し出した。
「ごゆっくりどうぞ」
 あくまでも物言いは丁寧だったが、最後までニコリともしなかった。視線すらあまり合わせようとしない。啓太は少々いぶかしみながらも、黙ってそれらを受け取った。
(なんか、愛想ねーの。それに会員制っていうのに、名前もなんにも聞かれないし……)
 啓太はちらりと受け取った会員券を見た。そこには『Jupiter』と店の名前らしきものが書かれていて、他には営業時間と住所に電話番号が載っているだけだった。
 ロッカールームの場所を示され、そこに入って着替えた。店内はきれいだった。どうやら、まだ開店してまもない店らしい。渡されたバスローブも新品に近かったし、ロッカールームもさっぱりと清潔な匂いがしていた。
 なんとなくホッとする。これでとりあえず風呂にも入れて朝までゆっくり休むことができるのなら、ヘたなカプセルホテルよりはずっと落ちつけるというものだ。
 ふうと唇から溢れた吐息は、先ほどまでの不安に満ちたものではなく、安堵のため息だった。
 てきぱきと服を脱いで、素っ裸にバスローブを羽織ると、啓太はタオルを持って鼻歌混じりでロッカールームを出た。
 と、廊下に出てすぐのところで、客の一人とすれ違いざまに肩をぶつけた。そう強くあたったわけではなかったが、啓太は焦って謝罪した。
「あ、すみません! 失礼しました!」
 人とぶつかるのはしょっちゅうだったし、そんな時には早々に謝るのが1番だとよくわかっていたので、啓太は平謝りに頭を下げた。
 相手の男はちょっと不機嫌な顔をしたが、低姿勢で謝罪され気を取りなおしたようで、ああ、と一言だけつぶやいてすぐにまた歩き出した。が、ふと足を止め、振りかえって怪訝そうに眉をしかめ、啓太を見た。しかしとうの啓太はそんな視線にも気づかず、さっさと奥に向かって歩き出していた。
 その男はちょっと考え込むように唇をゆがめ、小首を傾げた。
「あれ? いまの、どこかで……」
 男はしばし不思議そうな顔で、すでに行ってしまった啓太の後ろ姿を見送っていたが、やがてどうでもいいかという表情でロッカールームに入っていった。
 ドアを開けながら右手で髪を縛ったゴムを外す。肩まで届いたくりくりのウェーブヘアが、さらり揺れて白い肌にしだれかかった。
 

     
                                            ≪続く≫
前の章へ
次の章へ
目次に戻る
感想のページ