Dangerous night!   ー放浪編ー

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act 4                       
 

 その店は、ちょっと不思議な間取りであった。
 廊下がやけに長いのである。
 ロッカールームから浴場に向かうまでの間にいくつか部屋があり、部屋のドアに小さく番号が書かれてあった。どうやら、受付で聞かれた個室というのがこれらしい。しかし、以前行ったサウナではそんな部屋など見たことがなく、啓太は首を傾げた。
(ひとりでゆっくり寝てくれってことなのかな? 大部屋だと、結構にぎやかだしな。あ、それともマッサージを呼ぶとか)
 どちらにしても自分には関係のないことと、肩をすくめて通り越した。
 少し奥に進むと、簡単なバーのついたロビーのようなものがあった。客が何人かいて、それぞれ部屋のあちこちに散らばって、グラスを傾けている。啓太が部屋をのぞくと、いっせいに視線が集まった。
(お……?)
 ちょっとビビッたが、そこはそれ、営業を生業としているサラリーマンの哀しさで、思わず愛想笑いを浮かべて小さく会釈を返した。客たちは口元に微笑を浮かべて挨拶を返した。眼差しがどれも興味深そうにきらめいている。
 啓太は不思議に思いながらも、別に飲みたいわけでもないので、その部屋を通り越して中へと進んだ。少し行くと、ようやく浴場に到着した。
 それほど広くもない休憩室があって、何人かの客がのんびりと長椅子に転がって休んでいた。心地良い音楽が流れていて、なかなか雰囲気は悪くない。だが普通のサウナにたいてい常備されているはずのテレビなどの類は、いっさい置かれていなかった。
(ふうん。なんだかお上品なサウナだなぁ。今、こういうのが流行りなのかなぁ?)
 啓太は勝手に納得すると、浴室へと向かった。脱衣場にバスローブを脱ぎ捨て、タオル一枚もって中に入る。そこは、サウナを売り物にするには意外なほど、そう広くはないスペースだった。
 洗い場の横に、小さ目のサウナルームが二つ、三つ並んでいた。啓太はとりあえずシャワーで体を流すと、早速そのひとつに向かった。
 そこには誰もいなかった。貸しきり状態である。部屋の温度もそう熱くは設定していないので、咽かえるほど息苦しいということもない。ゆっくり座っていると一週間の疲れが抜け出ていく気がして、啓太は大きく息をついて足を投げ出しリラックスした。全身からじわりとにじみ出てくる汗が、なんとも心地良かった。
 そうしているうちに、客がひとり入ってきた。啓太は慌てて行儀良く座りなおすと、一応マナーとして股間にタオルをかけた。
 客は四十代後半といったところの、なかなか渋い感じの見目の良い男であった。うらぶれた一介のサラリーマンといった様子ではなく、どことなく幹部然とした自信ありげな雰囲気をただよわせている。男は啓太の座っている場所より一段低い位置に腰を下ろすと、ニッコリと微笑んでみせた。
 啓太もとりあえず挨拶を返した。すると男はそれで気を良くしたのか、親しげに話しかけてきた。
「きみ、ここは初めてなの?」
 啓太は急に話しかけられ驚きながらも、愛想良く返事をした。
「え? あ、はい。初めてです」
「そう。きみ、いくつ?」
「はあ、25ですけど」
 何故に歳など聞かれるのかと不思議に思いながらも素直に答えると、男はにこやかに笑って言った。
「私、Aの3号室にいるから。ぜひおいで」
「へ? あ、でも俺、個室料金は」
「その方が落ちつけるでしょ? じゃあ待ってるから」
 そう言うと、男はさっさとサウナを出ていってしまった。啓太はわけもわからず、首を傾げた。
(なんだ、今の?)
 いぶかしんでいると、入れ替わるようにして二人ほど別の客たちが入ってきた。彼らは先ほどの男のように笑いかけてくるでもなく無言のまま座ったが、そのどちらもが、やはりなめるようにして啓太を見つめている。ぶしつけで遠慮のない眼差しに、啓太はなんとも居心地の悪さをおぼえて、急いで腰をあげるとその場を離れた。
「な、なんなんだ、あれ?」
 独りごちながら、なんとなく薄気味悪くて、啓太は洗い場でさっさと体と頭を洗うと、さっさと浴室をあとにした。
 とりあえず休憩室の椅子のひとつに腰掛け一休みする。すると今度は三十くらいの背の高い男が、前の椅子にやってきて笑いかけてきた。
「こんにちは」
 客たちの絶え間ない不可思議な態度に、啓太も今度は少々警戒しながら応えた。
「はあ、こんちは」
「誰か決まった?」
「はあ?」
 思いっきり眉をひそめて問い返すと、男は慌てたように言った。
「あ、いや、もう決まってるんならいいんだ。じゃあね」
 そういうと、男はそそくさと去っていく。怪訝に思って辺りを見わたすと、その場にいる何人かの客が、そろってこちらをうかがっていた。
 さすがにその頃になると、啓太もこの店のどことなく妙な雰囲気を感じ取っていた。
 みんなが見ているのだ。いや、よく見ると視線は啓太にだけ集まっているわけではない。皆がそれぞれに、他の客たちをチラチラとうかがっている。まるでなにかを値踏みするように探るような眼差しで。時々近寄ってニ・三言葉を交わすと、そのまま揃って出ていってしまうものたちもいた。
(なんなんだ?)
 啓太は不思議に思いながら、周りの様子をうかがった。そのうち、客たちの視線に二種類のタイプがあることに、なんとなく気がついた。
 興味津々といった感じで、絡みつくように向けられる視線と、その逆にまるっきり関心なさそうな冷ややかなもの。その二つが入り乱れている。
 しかしどちらにしてもなんとも言えぬ怪しさがあって、啓太は気味が悪くなり、さっさと寝てしまうことに心を決めた。
 その部屋を出て、先ほど通りすぎてきたMIXルームという部屋に向かった。途中廊下で何度も意味ありげな眼差しを送られたが、じろりとにらみ返すと誰もが黙って視線をそらした。
(なんか変なの。とっとと寝ちまおう)
 そう心の中でつぶやいて、啓太は足早に目指した部屋へと歩いていった。


 森太郎は腕時計を見て、きゅっと眉をしかめた。その夜何度目かのその行為を、バーテンダーの青年が気の毒そうに見守っている。不機嫌そうに唇をゆがめる彼に、遠慮がちに声をかけた。
「もう一杯おかわり作る? シン?」
 森太郎はちらりと視線を向け、ぶっきらぼうに答えた。
「ああ」
 バーテンダーはすぐさま彼の前から空いたグラスを下げて、新しい酒と氷をそそいだ。
 森太郎の不機嫌をそのまま反映した居心地の悪い雰囲気がその場に漂う。だがそこは客商売、それを咎めるでも余計な慰めをかけるでもなく、バーテンダーは沈黙という最良の方法で相手をしていた。
 そうするうちに一人の男が店に入ってきて、来るなりカウンターに座る森太郎を見つけて声をかけてきた。
「おー、悪い悪い。待ったー? 森太郎」
 森太郎は静かにグラスを手に取ると、口元に運びながら低い声で応えた。
「……待った、だって?」
 ぎろリと横目で男をにらんだ。
「今何時だと思ってるんだ、彰人?」
「あ、やっぱり待たせたみたいだな。いや、ゴメン。悪かった」
 森太郎の静かな怒りを敏感に察知して、彰人はあわてて謝罪した。カウンターに額をすりつけ、下からうかがうように見上げる。そのヘラヘラした笑顔に森太郎は怒る気も失せて、ふんと荒く鼻息を漏らすと、仏頂面で顔を背けた。
 彰人とバーテンダーはやれやれといった様子で顔を見合わせると、不機嫌にそっぽを向いている彼を横に、楽しそうに会話を始めた。
 しばらくは他愛のない世間話が続いた。そのうち、彰人がシャツの胸ポケットから煙草を取り出した。すると、それと一緒に小さなカードのようなものがこぼれ、ヒラヒラと舞ってカウンターの向こうに落ちた。
 バーテンダーは目ざとく見つけて、それを拾って手に取った。カードには金色の洒落た文字で、『Jupiter』と店名がひとつ書かれていた。
「あれ? アキさん、この店、参番街の角に新しくできた店でしょう?」
 彰人はにこやかに笑って応えた。
「ああ、そうそう。なかなかいい感じの店なんだ。ケンジ、もう行った?」
 バーテンの男はちょっと肩をすくめてみせた。
「いやあ、なんだか敷居が高そうで。なんか気取ってるじゃないですか?」
「そこがいいんじゃない。ヘンなオヤジがいなくってさ」
 森太郎が横からいぶかしげに尋ねた。
「なんの店だ?」
 彰人はのん気に説明した。
「サ・ウ・ナ。三週間くらい前にオープンしたんだ。多少年齢層は高いけど、結構いい男が集まる店でさ、今狙い目のハッテン場なんだぜ。エグゼクティブなオヤジの客が多いんだ」
「ふうん」
 森太郎は興味なさそうにそっけない相槌を打った。彰人は小さく鼻で笑った。
「ああ、まあ、おまえの狙うような相手はいないかもな。というより、おまえなんか真っ先に狙われそうだ」
「ふん」
「でもなー、ああいうオジサンは気前がいいんだぜ。俺も今夜美味しい思いしちゃったし」
 そう言って、自慢そうに指を三本立ててみせる。すかさずバーテンダーが口を挟んだ。
「なんだ、アキさん、あれだけ本業で稼いで、ウリまでやってるんですか? 儲けすぎですよ、それ」
「別にウリしたたわけじゃないってば。向こうから小遣いくれたんだよ」
「いいなぁ。俺も今度行ってみようかなぁ?」
「おお、ケンジならすぐに一人や二人引っかかるって。まあ、全部が全部小遣いくれるとは限らないけど」
 と、盛り上がってる二人の会話を割って、それまでつまらなさそうに受け流していた森太郎が低い声でつぶやいた。
「ちょっと待て、彰人。おまえ、今夜行って来たって?」
「え? ああ、今ここに来る前に……」
 そこまで答えて、彰人はハッとしたように口を押さえた。しかし後の祭であった。
「てめえ……俺を待たせておいて、自分はよろしくやってきたってのか?」
「あ、いや、だからその……サウナにさ、入っただけだって。おまえに会う前に、さっぱりしようかなーなんて」
「なにをさっぱりしてきたっていうんだ? え?」
 冷ややかながらも、その裏に怒りを込めて問い詰める森太郎に、バーテンダーが失笑しながら割って入った。
「まあまあ、シン。抑えて抑えて。ほら、ここの払いはアキさんがおごってくれるって言うし」
「いつ誰がそんなこと」
 文句を言いかける彰人を、森太郎はぎろリと冷たい瞳でにらんだ。その迫力に、彰人はしかたなさそうに口をつぐんだ。そしてぶつぶつとつぶやく。
「いいじゃないか。どこでなにしようとそんなに怒らなくったって。別に俺に気があるわけじゃないんだし……」
 と、そこまでつぶやいて、突然ハッとした表情を浮かべて大声で叫んだ。
「あーっ! 思い出した!」
 森太郎とバーテンダーは二人して目をむいた。
「なんだよ、いきなり。びっくりするじゃないか」
「思い出したんだって。そうだ、あのボーイだよ」
「はあ?」
 いぶかしげに眉をひそめる森太郎に、彰人は早口でしゃべった。
「そのサウナでさ、あいつと会ったんだよ、偶然。どこかで見た顔だと思ったんだけど、おまえと会ってやっと思い出したぜ」
「誰と……会ったって?」
「ほら、この間おまえの部屋にいたボーイだよ。ちょっと可愛い顔した。おまえが追っかけてた奴」
 森太郎はしばし理解しかねる顔をしたが、一瞬後に愕然とした表情を浮かべ、震える声でつぶやいた。
「風倉……さん?」
 突然がばっと彰人の肩を掴み、叫んだ。
「その店に風倉さんがいたっていうのか? 本当に?」
「ま、間違いないって。あのジャニーズ顔は結構印象深かったし」
「いつ? 何分くらい前だ?」
「さあ、もう
30分くらい前じゃないか? 俺が出る時に入れ違いだったから」
「どうしてもっと早く思い出さないんだ、バカヤロー!」
 森太郎は物凄い剣幕で叫ぶと、腕時計を見て舌打ちした。
「くそぉ……」
 そうつぶやくと、バーテンダーの手からひったくるようにカードを取り、あとも見ずに店を飛び出していった。
 残された彰人とバーテンダーは呆気に取られてその様子を見ていたが、やがて彰人がぽそりと言った。
「で、ここの払いはやっぱり俺って言う訳?」
 バーテンダーは肩をすくめて応えた。
「稼いできたんでしょ? いいじゃないですか。ね?」
 ニコニコと笑って、おかわりを薦める。彰人はハアとため息をついて、また二人で話し始めた。
 

 啓太は入り口にMIXルームと書かれた部屋に入った。
 そこは、他の部屋や廊下と違って、かなり薄暗かった。近くに寄らなければ人の顔もよくわからないほどの暗さである。何もないただっ広いだけの部屋に、一定間隔をもって簡易ベッドが置いてあり、その中のいくつかには、すでに客が眠っていた。
本当に、眠るという目的の為に作られたような感じであった。
 前に行ったサウナでは、大きな休憩室でにぎやかに一晩中テレビが鳴り響く中、リクライニング椅子にせせこましく横になり、人の気配と騒音に包まれながらうとうと仮眠したのを覚えている。それに比べると、まるで客を泊める為に用意されたようなこの部屋は、たとえベッドがどれだけ固かろうが雲泥の差であった。
 啓太はまだ闇に良く馴染んでない目で壁ぎわのベッドを選ぶと、そこに横になった。新しいせいかベッドは清潔で、一緒に添えてあったタオルケットもフワフワと肌に心地良かった。寝転がってタオルケットを首もとまでかけると、思わずホッと安堵の息が漏れた。
(あ、気持ちいい。これなら朝までぐっすりだ。これで2000円なら、すげえお徳じゃねーか。穴場だな、こりゃ)
 のん気にそんなことを考え、目を閉じた。思わぬ急の事態に気をもんでいたせいか、眠る場所が確保された途端、どっと疲れが押し寄せて眠気が襲ってくる。啓太は、部屋のどこかで誰かがくすくすと忍び笑いを漏らす声を、うとうとしながら聞いていた。
 5分ほどたったであろうか。
 睡魔に身を委ねて、ふっと一瞬意識がとぎれかかったその時、啓太は誰かの手が肩に触れるのを感じた。
 眠りばなのぼんやりした頭でその者を見返すと、顔は全然見えないが客の一人といった感じであった。せっかくの睡眠を邪魔され、思わずいらついた声で尋ねた。
「は?……なんですか、いったい?」
 その男は啓太の不機嫌さを感じ取ったのか、罰悪そうに応えて返した。
「あ、いや……」
 そう言うと、すぐにそそくさと立ち去っていった。
(なんだ、あれ?)
 しばらくぼーっとしていたが、またすぐにパタンと倒れて眠った。とにかくメチャクチャ眠かったのだ。
 しかし、それから5分もたつやたたないかのうちに、またもや人の手が体に触れた。おずおずと遠慮がちに背中をなでてくる。 啓太は思いきり顔をしかめて振りかえった 
「なんです、さっきから?」 
 すると相手は驚いたようにつぶやいた。
「だ、だめなの?」
 それは先ほどとは別の男のようであった。啓太は不審に思いながらも眉をひそめて問い返した。
「なにがです?」
「だからその……」
 相手の男は戸惑ったようにくちごもると、すぐにあっさりと引き下がった。
「ご……ごめんね」
 男は気弱げにそう返すと、慌てて部屋から出ていった。啓太は怪訝な顔でそれを見おくった。
(なんだよ? いったいさっきから、なんだってんだぁ? 人が気持ち良く寝ようとしてる矢先によー、腹立つなぁ)
 心中でぶつぶつと文句をつぶやき、タオルケットを深くかぶって寝なおした。二度も邪魔をされたせいか、いらついてしばしの間寝つけなかったが、それでもやがてまた睡魔はやってきて、優しく啓太を眠りの世界に誘った。今度こそはと啓太は固く目を閉じた。
 ところが、ようやく眠ったかどうかという時に、またも体に人の手を感じた。啓太はいい加減あきれたが、眠くて返事をするのすら億劫だったので、そのまま寝たふりを決めこもうと無視をした。しかしいつまでたってもその手は離れず、そのうちその誰かは声をひそめて話しかけてきた。
「こんな所にいたんだ。やっと見つけたよ」
 啓太は夢うつつの中で、その声の主を思い返した。
(……誰だ、こいつ?)
「ねえ、ここじゃゆっくりできないでしょ? 個室に行きましょう。ね?」
「個室……?」
 ぼんやりと返答しながら、ようやく思い出した。
(ああ、さっきのサウナのおっさんか……。なんなんだ?)
 男は闇の中で、優しげにささやいた。
「ね? 向こうのほうが静かで、気持ち良く休めるから。ベッドも広いし」
 そう言うと、啓太の手を探り出してしっかりとつかみ、引っ張った。啓太はげっそりしたが、眠たくてぼうっとした頭にゆっくりだの静かだのという誘い文句が心地良く響いて、思わずその誘惑につられた。
 なかば寝ぼけた状態で半身をおこすと、男は嬉々とした様子でいっそう強く手を引いた。
「さあ、行きましょう。ね」
 どうして見も知らぬものに個室に誘われるのか、その時の啓太には考えるゆとりは全然なかった。眠くて眠くてどうしようもなかったし、何度も眠りかけては起こされることに苛立って、男の言葉が心底嬉しかったのだ。とにかく、ゆっくり眠れるのならどこでもいいという気分だった。
 啓太がぼけっとしながら身を起こすと、男は手を引っ張って部屋の外へと連れだし、そのまま個室へと向かっていった。なんとなく妙だなと思いつつも、啓太は誘われるままに引かれていった。
 個室につくと、男は啓太を中にいれ、パタンとドアを閉じた。その口元に妖しい微笑が張りついていることなど、寝ぼけている啓太には気づくはずもなかったのであった。


 その部屋は、それほど広くはなかった。ゆったりとしたベッドが中央にあるだけである。オレンジ色のルームライトがシンプルな部屋をムーディに照らしている。啓太は寝ぼけた頭で思った。
(……なんだか、ラブホみたいな部屋だな。変なの……)
 そんなことを考えていると、男がにこやかに笑って、優しく肩に手を添え、ベッドへといざなった。
「ほら、横になって。遠慮しないで」
 妙だ妙だと思いつつも、なんとなく素直に従ってベッドに腰掛けた。男は優しげに言った。
「バスローブ脱いだら?」
 啓太は驚き、焦って断った。
「い、いえ、それは……いいです」
「きみ、ここ初めてって言ったっけ?」
「はあ……」
「じゃあ、まだ慣れてないのかな? 電気消そうか?」
「は? いや、別に、どうでもいいですけど」
 そう答えながら、ようやく啓太はことの異様さを感じ始めていた。個室でゆっくりなどと言われたが、この部屋にはどう見てもベッドはひとつで、他に眠れるようなところはなかった。ということは、この男と一緒のベッドに寝るということなのか? なんで身も知らぬ男と一つのベッドに寝なくてはならないのだ? 
 だいたい、何故この男は自分をわざわざ個室になど誘うのだろう? それに先ほどから何度も触れてきた客たちの手。探るような眼差し。それはいったいなにを意味するのか?
(なんか変だ、なんか妙だぞ、この店……。もしかして俺、とんでもない勘違いしてるのか?)
 だんだんと覚めてきた頭でそんなことを考えていたら、ふと気づくと、男がピッタリと体を寄せて隣に座ってきた。
 啓太はぎょっとして身を引いた。男がすかさず追ってくっついてくる。手がスウッと伸びてきたかと思うと、太ももの上にさりげなく置かれた。
「あ、あの……」
 呆然としている啓太に、男はニッコリと微笑んだ。


 森太郎はカードに書かれていた住所の場所までやってくると、辺りを見まわした。
 店は案外簡単に見つかった。いかがわしげなホテルが並ぶその辺りで、その店の新しくてちょっと高級そうな雰囲気は目を引いたからである。カードの店名と店の看板を見比べて間違いがないことを確認すると、森太郎は急いで階段を駆け上がり、店に飛びこんだ。
 入ると、すぐに受け付けの従業員が品良く声をかけてきた。
「いらっしゃいませ」
 森太郎は受け付けに近づくと、静かな、しかし苛立たしげな声で言った。
「人を探してるんだ」
 店の男はちょっといぶかしげに眉をひそめたが、すぐに事務的に応対した。
「さようでございますか。基本料金は2000円、こちらだとサウナ・浴場・MIXルームのみのご使用になります。個室ですと追加料金をいただきますが、Aタイプだと……」
 森太郎はその説明をさえぎるように財布から五千円を抜きとってカウンターに置くと、じれったそうに言った。
「急いでるんだ。さっさと基本料金だけとってくれ」
「……かしこまりました」
 男はさすが客商売というぐらいに、おかしな顔をするでもなく、淡々とそれを受け取った。しかし、森太郎がお釣を受けとってすぐさま店に入ろうとすると、さすがに慌てた顔で引きとめた。
「お客さま、そのままでは困ります。ただいまバスローブを差し上げますので、それに着替えましてからご入店を」
「人を探していると言っただろう? 男を漁りにきたわけじゃない。知り合いを見つけたらすぐに帰る」
「いえ、しかし、当店ではごゆっくりとお客さまがおくつろぎできるように配慮しておりますので、一応簡単なルールにだけは従っていただきませんと」
「ゆっくりしにきたわけじゃない。別に営業妨害するつもりはないから、離してくれ」
「しかし……」
 そんな押し問答をしている真っ最中であった。
 突然入り口近くの個室のひとつから、大きな声が上がった。
「うわーっ、や、やめろー!」
 森太郎は顔色を変えてその方向を見やった。それは明らかに啓太の声だったからだ。
 びっくりしている受け付けの男の手をふりほどくと、森太郎はそちらに向かって一目散に走った。手前のロッカールームをすぎて角を曲がるとすぐに長い廊下が目の前に広がり、一瞬行くべき場所を見失って足を止めた森太郎の前に、ひとつの部屋のドアが開いて若い男が転がり出てきた。
 啓太である。
「よるな、さわるな! 俺にその気はないーっ!」
 叫びながら、腰を抜かしたように情けなく床に尻餅をつき、そのままズリズリとあとずさる。そんな彼を追いかけるように、部屋から中年の男が顔を出した。
「おいおい、そんなに騒ぐと、他の人たちに迷惑でしょう? 恥ずかしがらなくていいから、ほら」
「ち、違う! ホントに違う! 俺は全然知らなくって、ただのサウナだとばかり思って……」
 しかし男はそんな啓太の言い逃れなど気にもとめない様子で、薄く唇に笑みを浮かべてにじり寄った。
「いいから、いいから。たっぷり楽しませてあげるからね。初めてでも怖くないよ」
 そう言って啓太に向けて手を伸ばした。
 その時、男の手首をがっしりと受けとめた者がいた。
 男はギョッとしたように横を見やった。森太郎は大きな手で男の手首をつかまえたまま、燃えるような怒りの眼差しでにらみつけた。
「皆川……」
 啓太は突然現れた森太郎に、唖然としてつぶやいた。なぜ彼が今ここにいるのか、まるでわけがわからなかった。
 ポカンとしている啓太をしりめに、森太郎は男の手をねじりあげると、身を迫らせて低くつぶやいた。
「彼になにをした?」
 男は当惑した顔で問い返した。
「な、なんだい、きみは……?」
「なにをしたんだ? 言ってみろ」
 男はすっかり森太郎の怒りの前に迫力負けして、震える声で情けなく返答した。
「ま、まだなにもしてない……。本当だ。これからしようと思ってたところで……」
 森太郎はそれでも許さずにらんでいたが、やがてつかんでいた手首を離してどんと押しやった。男はよろよろとよろめいて、個室の床に尻餅をついた。
 それから彼は同じように座りこんでいる啓太に視線を向けた。啓太は呆気に取られて見守っていたが、ようやく我に帰ってつぶやいた。
「皆、川……なんで、ここに……」
 しかし森太郎はそんな疑問に答えることなく、無言のまま啓太の手をつかんで立たせると、そのままグイグイと引っ張って歩き出した。
「お、おい……」
 森太郎は固く口を結んだまま啓太をロッカールームの前まで連れていくと、低い声で言った。
「着替えてください」
 なにやら、静かではあるが底知れぬ怒りを感じる声である。啓太もまた、先ほどの男同様すっかり迫力負けして、一言も言い返すことなく素直に従った。
 てきぱきと着替えを済ませてロッカールームを出ると、森太郎はまたなにも喋らず、啓太の手首を引いて店を出た。帰り際に店員が一言文句を言いたそうに近寄りかけたが、じろりと向けた森太郎の眼差しの前に気おくれし、そのまますごすごと引っ込んでいった。
 通りに出ても森太郎はつかんだ手を離そうとはせず、相変わらず沈黙を守ったまま、足早に突き進んだ。
 人通りのある中を男同士で手をつないで歩くのはたいそう恥ずかしかったし、グイグイと引っ張られて歩きにくかったのだが、とてもそれを伝えられるような雰囲気ではなかった。森太郎の背中からは、あきらかに不機嫌を通り越して怒っているのが伝わってくる。
 しかも彼がなにも言わなければ言わないほど、逆にその沈黙に責められている気がして、緊張感に絶えきれず啓太はおそるおそる話しかけた。
「あ、あの……ビ、ビックリしたぜ、あんなところにおまえが現れるとはさ」
 しかし森太郎はなにも返さなかった。うんともすんとも反応しない。なにやらいっそう責められているような感じで、啓太は動揺して独り勝手に言い訳を始めた。
「……あのさ、俺、ただのサウナだとばっかり思ってさ、その……一晩泊まるのにはちょうどいいかなー、なんて思って……。普通のところに泊まるには金惜しいし、あそこ安かったし……」
 どうして彼相手にそんな言い訳などしなければいけないのかと思いつつも、なにかを言わずにはおられなかった。そのくせ、自分が喋れば喋るほどその場の雰囲気が最悪になっていく気がして、どんどん身動き取れなくなっていく。啓太は必死になって喋り続けた。
「まさか、そんな変なところだとは思ってもみなかったんだ……。み、み、店構えも、普通の感じだったし、店員だって……ちょっと愛想無しだったけど……普通の男って感じで……。だからその……ただ風呂入って一晩眠れればなって……」
 その時だった。
 突然森太郎がくるりと振り返ったかと思うと、啓太の体を強く抱きしめた。
 一言も発することなく、ただ強く強く腕に力を込め、その広い胸に包み込む。啓太はびっくりして声もなく身をまかせた。
 抵抗できなかった。
 いや、抵抗しようなどとも思わなかった。
 驚くばかりで、頭が真っ白になっていく。
 それほど多くはない人通りの真ん中で、啓太はなされるがままに森太郎の胸に抱かれていた。
 一回り大きな彼の体が、啓太をすっぽりと包み込み抱きしめる。腕ががっちりと背中をとらえ、身動きひとつかなわない。
 行き過ぎる者たちの好奇の目がふりそそぎ、くすくすと忍び笑いや嘲笑の声が聞こえてきた。しかしそれは啓太の耳をとおりすぎ、周りのことなどなにも頭に入ってはこなかった。
 しっかりと触れた森太郎の体から、彼の鼓動が伝わってくる。ピッタリと合わさった胸と胸の、互いのときめきが重なり合う。
 不思議な感覚だった。男に抱きしめられるなんて初めてなのに、こんな人通りの真ん中で、みんなが呆れた顔で見ているのに、侮蔑と嫌悪の眼差しを向けているのに、……なのに少しもいやじゃなかった。
 心が凪いでいくのを啓太は感じた。
 胸がドキドキして壊れそうなのに、何故か気持ちが穏やかに落ち着いていく。ホッとして、迷い猫が主人を見つけた時のように深い安堵に包まれる。なぜか目頭がジーンと熱くなった。
(皆……川……)
 啓太は無意識のうちにその抱擁に応えようとして、だらりと下げていた腕を上げて、背中にまわしかけた。
 その時――突然森太郎の手によって、がばっとその身を引き離された。
 森太郎は鬼のような顔をして、すごい剣幕で叱責した。
「何を考えてるんです、風倉さん!」
 啓太は目を真ん丸くして彼の顔を見返した。突然の変貌に頭がついていかなかった。
 唖然としている啓太に、森太郎はいっそう強い口調で怒鳴りつけた。
「どうしてあんな店に入ったりするんですか!」
 あまりの剣幕にちっとも思考が追いつかないのだが、二の腕をつかまれてがしがし揺すられるので黙っているわけにもいかず、しどろもどろに言い訳した。
「あ、いや、だからその……知らなくて」
「知らなかったですむほど、甘くはないんですよ! あんな店にいたら、なにをされても文句言えないんですからね!」
「う、うん……」
「自分で足を踏み入れた以上、その気はなかったなんて言い訳は通じないんだ!」
 啓太はものも言えず、コクコクと首を縦に振ってうなづいた。
 こんな激昂している森太郎は初めてだった。
 だいたいが、どんな時にも憎たらしいほどクールで冷静な男なのだ。げらげら笑っているところを見たことだってないし、大きな声をあげている姿だって知らない。いつも冷ややかに、あの小馬鹿にしたような笑みを口元に浮かべているか、せいぜいが営業スマイルがいいところだ。
 こんなふうに、なにもかも忘れるほど感情をむきだしにしている彼なんて、1度だって見たことはない……。
 言葉もなく突っ立っている啓太に、それでも幾分気を落ちつけたらしい森太郎は、怒鳴るのを止め苛立たしげな口調で尋ねた。
「だいたい、泊まるところがないのなら、なぜすぐに俺のところに電話してこないんですか? 昼間電話番号渡したでしょう?」
「そ、そうだけど……でもそんな……おまえにばっかり頼るわけにはいかないし……」
 啓太がそう返答した途端、またもや森太郎の顔が怒りに包まれた。ムムムッとばかりに口元がゆがむ。しかし今度はそれは爆発することはなく、彼はスウッと大きく息を吸いこんだかと思うと、鼻の穴の膨らませて一言発した。
「帰ります!」
 啓太は小さく返答した。
「……はい」
 その夜、有無を言わせず森太郎は啓太を自分のマンションに連れ帰った。もちろん、啓太にだって反論の余地などあるはずはなかった。とてもじゃないが、なにかを言い返せるような雰囲気ではなかったのである。
 マンションに着くと、森太郎は自分のベッドを啓太に提供し、彼自身は毛布を一枚かかえてリビングの絨毯の上で眠った。申し訳ないとは思ったが、やはり口を挟める雰囲気ではなかった。
 そうして啓太は、危険極まりなかった金曜の一夜を、なんとか心地良いベッドで迎えることができたのであった。


 翌朝目が覚めると、窓の外には真っ白な朝の光りが満ち溢れていて、ロールカーテンを下ろし忘れた窓から部屋の中へと、いっぱいにふりそそいでいた。
 啓太はベッドに転がったまま、しばしぼんやりとその光りを眺めていた。
 森太郎の部屋で目覚めるのはこれが二度目だ。しかも、前回からまだ一週間しかたってない。この七日間いろんなことがありすぎて随分昔のことのようだけど、本当はついこの間なのだ。でもその間に、どれほど世界が変化したことだろう。いや、世界だけではない。感情も、森太郎との関わり合いも……。
 ふうと思わずため息を漏らして横を見た。そこには先週のように森太郎は眠ってはいなかった。昨日の彼は前のように一緒に寝ようとはせず、不機嫌に沈黙したまま独りでリビングに行ってしまった。
 やはり怒っていたのだろうか。だけど、何故そんなに怒るのだろう? 啓太が眠る場所をなくしてさまよい歩き、己の勘違いで危ない目にあった、それをどうしてそんなに腹を立てるのか? 森太郎には関係ないことなのに。彼には心配するいわれだって、助けに来る理由だって、なんにもないはずなのに。
(心配……したのかな、あいつ……?) 
 急に昨夜のことを思い出し、啓太はボッと顔を赤らめた。
 道端での突然の抱擁。
 あれは本当にビックリした。ビックリして、つき返すこともできずに黙って抱かれてしまった。人通りの真ん中で、過ぎ行く人々がたくさん見ているその前で、彼に抱きしめられてしまった。
 でも……いやじゃなかったのだ。
 一晩たった今でも、思い出すだけで羞恥に身が熱くなるけれど、嫌悪とか怒りの感情は微塵にもわいてこない。ただ、どうしてと思う心だけだ。
 どうして黙って抱かれてた? どうしていやじゃなかったのか? どうして……森太郎はあんなことをしたのだろう、と……?
「うーっ!」
 啓太はわけのわからない感情にむしゃくしゃして、ぐちゃぐちゃと髪をかきむしった。
 もう1度ため息をついてから起きあがると、そろそろと遠慮がちにリビングへの扉を開いた。ドアを開けると、かぐわしいコーヒーの香りが漂ってきて鼻をくすぐった。
 森太郎がカウンターテーブルの横に座って、新聞を読んでいた。
 啓太が起きたのに気づいて顔を上げると、落ちついた声で言った。
「おはようございます」
「あ、ああ、お、おはよう」
 啓太は動揺してどもりながら挨拶を返した。彼を見た途端、心臓がバクバクと激しく高鳴った。それをなんとか静めようと、足もとの床をにらみつけ、密かに三度深呼吸した。
 森太郎はそんな啓太の動揺を知ってか知らずか、いつもの冷ややかな口調で話した。
「コーヒー入ってます。飲みますか? それとも、先にシャワーでもあびますか?」
「あ……シャ、シャワーはいいや、俺。……コーヒーもらう」
 啓太がそう返答すると、森太郎は大きなマグカップにたっぷりとそそいで、自分の目の前に置いた。
「突っ立ってないで、座ったらどうです? 風倉さん」
「うん」
 啓太は素直に従がって、とことこと歩いていってテープルについた。置かれたカップを手にとって、熱くて苦い液体をすする。目の前には森太郎がいた。相変わらず泰然とかまえて新聞を読んでいる彼がいた。それはそっくり先週の風景、初めてここに泊まった時と、変わらない朝の光景だった。
 ぼんやりと見とれていると、やがて彼は新聞から顔をあげ、啓太に視線を向けて言った。
「腹減ったでしょう? 今すぐ朝飯作りますから」
 すぐさま立ちあがってキッチンに向かおうとする森太郎に、啓太は焦って声をかけた。
「あ、気ぃ使わなくていいよ。俺すぐに……」
 しかしその言葉は、森太郎の視線の前に途中で引っ込んで消えていった。有無を言わさぬ瞳である。おとなしく黙り込んだ啓太を満足に見下ろし、彼は食事の支度を始めた。
 啓太はしばらく見ていたが、お客さんでいるのもなんとなく気が引けて、遠慮がちに話しかけた。
「俺も、なんか手伝おうか? 皆川」
「いいですよ、別に。座っててください」
「でも……いっつもやらせてばかりで悪いし……」
 森太郎はちらりとクールな眼差しをそそいだ。
「じゃあ、レタスでも洗ってください。冷蔵庫に入ってますから」
「わかった」
 啓太はすぐに腰をあげると、言われた通りに冷蔵庫からレタスを取り出し、洗い始めた。
 狭いマンションのキッチンに大の男が二人並んで立つといっそう狭苦しくて、どうしても体と体がいつも以上に傍に近づいてしまう。啓太はなんとなくソワソワドキドキする気持ちを抑えられなかった。
 時々互いの腕が触れ合う。そのたびに胸がドキンとときめいてしまう。そんな自分に当惑し、動揺をかき消すように、啓太は夕べからずっと不思議に思っていたことを森太郎にたずねてみた。
「なあ、皆川? ちょっと聞いてもいい?」
「なんですか?」
「あのさ……夕べ、どうしておまえ、俺があそこにいるってわかったわけ?」
 森太郎はトマトを切っていた手をふと止めて、しばし何かを考えていたようだったが、すぐに平然とした口調で応えた。
「そんなことはどうでもいいんです。別に問題にするべきことではありません」
 尊大な態度に、啓太はちょっとムッとして言い返した。
「どうでもよくないよ。それ答えになってないぜ、皆川」
 しかし相変わらず森太郎はつらっとして応え返した。
「いいんです。それより、問題なのは今後のあなたの行く末でしょう?」
「そりゃ……確かに、そうだけどさ……」
 啓太が口を尖らせて黙り込むと、森太郎はちらりと横目で見てから、優雅な手つきでフライパンに卵を割り入れた。ジュッと小気味よい音がして、芳しい香りが立ち昇る。手際よく目玉焼きを作つていた森太郎は、ふいに啓太のほうに向き直ると、きっぱりとした口調で言った。
「風倉さん、いつかの出張であなたが俺にした約束を覚えていますか?」
 啓太は突然妙なことを持ち出され、当惑してうなづいた。
「え? あ、……うん。お、覚えてる」
「あの時あなたは言いましたよね? なんでも俺の望むことをしてやるって」
「うん、言った……」
 思わず唾をのんでうなづく啓太に、森太郎は得意そうに顎を上げて言葉を続けた。
「その約束、今はたしてもらいます。俺があなたに望むのは、あなたがここに住むことだ。風倉さん、あなたはこれからこのマンションで、俺と一緒に暮らしてもらいます」
 とんでもない要求であった。
 啓太はあんぐりと口を開けたまま、茫然として森太郎を見つめた。
 突然のことに、思考が完璧にふっとんでいた。
 彼は、森太郎は、今なんと言った?
 ここに住めと、このマンションで一緒に住めと、そう言ったのか、この男は?
「な、う、嘘……じょ、じょーだんだろ? 皆川……」
 しどろもどろに聞き返す。しかし彼は憎らしいほど冷ややかに、悠然として答えた。
「俺は本気です。NOとは言わせません。あなたはあの時、なんでもすると確かに言ったんだ。その約束、間違いなくはたしてもらいますよ、風倉さん」
「…………」
 啓太は言葉もなく見返した。
 そりゃあ確かにそう言ったが、男の約束に二言はないが、しかし……ここに住む、彼と一緒に暮らすなんて、そんなことどうすればよいのだ?
 それでなくても苦手な男で、顔を見ただけで何故だか心臓がバクバクと高鳴る相手を傍にして、いったいどうやって暮らせというのだ? どうやって日々潤滑にやっていけというのだ? そんなの無理だ。そんなの考えたくもない!
 ぽかんとしている啓太に、さらに森太郎は追い討ちをかけるように言った。
「あ、それから、この約束はたった今から履行してもらいます。あなたは今日からここの住人だ。いいですね? 風倉さん」
 そういうと彼は端正な顔にニッコリと極上の笑みを浮かべ、卵の入ったフライパンを楽しそうに差し出した。
「さて、目玉焼きが焼けました。食べましょう、冷めないうちに」
 その常日頃にないニコニコ顔を見ながら、啓太は途方にくれて茫然として立ち尽くしていた。
 とりあえず啓太の過酷な放浪は幕を閉じたらしいが、その後に待ちうけていたのは、さらに過酷そうな第ニ幕であった。
 そのことを思うと、とてもじゃないが朝飯どころではない。なんせ、想像だにしていなかった内容、思いもよらぬ展開になってしまったのだから。
 それでも綺麗に並んだ朝の食卓が、甘く優しく啓太を誘って、ペコペコの腹をぐうと鳴らしたのであった。


                                                 ≪終≫

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