Dangerous night!   ー放浪編ー

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act 2                       
 
 啓太が目を覚ましたのは、見たこともない部屋の見たこともないベッドの上だった。
一瞬自分の置かれている状況が把握できず、啓太は半身を起こしてベッドに座ったまま、ボーッとして見知らぬ部屋を眺めまわした。
(あれ……ここ……どこだ? 俺……昨日飲んで、それからどうしたんだけっけ? えーっと……店出て、それから……)
 居酒屋を出たあたりまではなんとか記憶にあるが、そのあとがまるで覚えていない。いったいどこで何をして何故こんな所にいるのか、まるっきりわからない。
 と、その時すぐ横で小さなうめき声がした。
「う……ん」
 それに続いて、誰かが寝返りをうってうごめく気配がする。啓太は誘われるようにそちらを見た。
 そこには、とてもよく見知った顔があった。
(……皆、川?)
 隣りには森太郎が眠っていた。
 子供のようにあどけない寝顔をして、気持ち良さそうにすやすやと寝息をたてていた。
 柔らかな茶色の髪が、乱れて額にかかっている。メガネをはずし素顔に戻った彼のそんな姿は、以前にも一度だけ目にしたことがある。いつも会社で見せるクールで自信ありげな小憎たらしい表情とは違う、無心で幼くすら感じさせる寝顔。可愛いと、思わず感じてしまう顔。
(……なんで、皆川が、ここにいるんだ……? )
 彼の姿を目にしてみても、啓太にはやはり何故自分の横に彼がいるのかわからなかった。しかも、布団からはみ出て自分のほうに伸びた白い腕は、素肌のそれだ。むきだしになった肩にも衣服はない。
 ふと気づいて自分を見ると、自分もまた何も着ていなかった。素っ裸……いや、とりあえずパンツだけは履いていたが。
「あ、あ、あの……え? え? なんで……? え、これ、あの……」
 思わず意味不明な言葉が唇から漏れた。しばらく事態が飲みこめずにジタバタしていたが、やがてだんだんと頭がはっきりしてくるにつれ、自分の置かれている事態に愕然とし、啓太は寝ている森太郎を指差して大声で叫んだ。
「うわーっ! ななな、なんでおまえがいるんだよー! 皆川―!」
 その声にさすがの彼も目を覚ましたのか、一瞬不快そうに顔をしかめて、つぶやいた。
「う……、なに……?」
 そうして目を開けると、まだ眠たげな眼差しでしばし啓太を見つめた。やがてぼんやりと気の抜けた声で挨拶をした。
「ああ……おはようございます、風倉さん」
 森太郎はそのままゆっくりと体を起こすと、アクビをしながらのん気につぶやいた。
「もう朝なんですね。ああ、よく寝た」
 半身を起こした彼の身体は、案の定裸だった。まあ、彼も一応下着だけは身につけていたが、朝の光の中、筋肉質な広い胸が目にまぶしい。
 啓太は耳たぶまで真っ赤に染めて、激しく動揺しながらわめいた。
「よよよ、よく寝たじゃないー! 俺、なんでこんな所にいるんだ? ど、どうして俺とおまえが寝てるんだよ? でもって、どうして俺、服着てないんだ? なんで裸なんだよ、おまえはよぉー!」
 いっきにそれだけまくし立て,啓太はぜえぜえと息をついた。心臓が壊れそうなほど高鳴っていた。
 啓太の勢いに森太郎は目を丸くして呆気にとられた表情で聞き入っていたが,やがて小馬鹿にしたようにフフンと鼻で笑うと、冷ややかな目つきで見返した。そして形良い唇に薄く笑みを浮かべ、面白そうに言った。
「説明しましょうか? 順番に」
 森太郎はツンとすました顔を向け、意地悪なほど丁寧に話し出した。
「まず、ここは俺の部屋で、風倉さんがいるのは、貴方が昨日ひどく酔っぱらって、独りで帰れなかったからです。俺、送ろうにも風倉さんのうち知りませんからね。やむなく自分の家に連れ帰ったんです。それから一緒に寝てるのはベッドがひとつしかないからです。貴方が何も着てないのは、酔っぱらってヘぺれけでスーツのまま眠っちまった貴方から、俺が苦労して脱がせたから。スーツしわだらけにするのはいやでしょう?」
「う……」
「ついでに俺が裸なのは、いつもそれで寝てるからです。シャワーを浴びたあとになにも着ないで寝るのが習慣なんでね。以上。まだなにか疑問な点はありますか?」
 これでもかというぐらい理路整然と語られ、啓太は返す言葉もなく押し黙った。そのうち、なんとなく昨日のことが思い出されてきた。確かに夕べはかなり酔っぱらってしまったという記憶がある。遅れて参加して、早く皆の輪に入ろうとピッチを早めたせいもあるし、それになにかが苛立たしくて、ついついいつも以上に量が進んでしまったのだ。出来あがった後のことは、やっぱりまるで覚えてはいなかったが。
 啓太は小さくなって、上目使いに森太郎を見返した。彼があの小憎たらしい表情で、じっと正面から見つめている。啓太は蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「……め、面倒かけて悪かった……」
 すると森太郎は端正な顔ににっこりと極上の笑みを浮かべて返した。
「どういたしまして」
 その顔にドキンと胸がなった。全身がカアッと熱く燃える。耳たぶまで赤く染まったのを感じて、啓太は視線をそらすようにうつむいた。恥ずかしいやら情けないやらで、穴でもあったら入りたい気分だった。
 森太郎はそんな啓太の気持ちを察したのか、ベッド脇のサイドテーブルにある目覚し時計を取り上げ、それを見た。時刻はすでに10時を30分ほど過ぎていた。
「何時だ? ああ、もうこんな時間か。そろそろ起きようかな」
 そうつぷやいてベッドから起き出すと、彼は部屋の片隅にある造り付けのタンスから服を取り出して着始めた。海のように深い蒼のTシャツに、洗いざらしのブルージーンズ。思った以上にたくましい森太郎の体が、蒼い衣の下に消えていく。夕べ洗ってそのままであろう乱れた髪を、彼は大きな手で二度三度かきあげ、手ぐしでラフに整えた。
 啓太はそんな彼の姿を無意識のままじっと見つめていた。
 なんとなく不思議な彼がそこにいた。いつもの会社の姿ではなく、出張の朝ホテルの部屋で見た彼でもなく、なんにも着飾らない、なにも警戒していない、そのまんまの森太郎だ。きっと会社の中では自分だけが見ている、素顔の彼。自分だけの森太郎……。
 ふいに森太郎が顔を向け、話しかけてきた。
「風倉さん、俺飯作りますけど、食べられますか?」
 啓太は突然視線を向けられ、飛びあがらんばかりに驚いた。その時初めて自分が彼の着替えを凝視していたことに気づき、羞恥に身が熱くなる。それを押し隠すように、無理矢理笑って応えた。
「お、おう、食うぞ、なんでも」
「じゃあシャワーでも浴びてきてください。その間に俺作りますんで」
 ドキドキいってる鼓動を抑え、啓太はベッドから這い出し、立ちあがった。それを森太郎が不思議そうな目で見つめ、問いかけてきた。
「二日酔い……ないんですか、風倉さん?」
 啓太は今だ動揺している自分をごまかすように、ヘラヘラと笑った。
「え? ああ、アハハハ、俺二日酔いだけはしたことないんだわ。なんか肝臓丈夫らしくって」
「元気な人だな。あれだけ酔っ払ってたくせに」
 森太郎はちょっと呆れたようにため息をついてみせた。啓太はふと気になって、恐る恐る問い返した。
「……俺、そんなに酔ってた……?」
 すると森太郎は一瞬目を丸くしたが、すぐに意地悪げな目つきをして、ニヤニヤとあざ笑った。そしてなにも答えずに、そのまま笑って部屋を出て行ってしまった。啓太はいっそう自己嫌悪にとらわれ、ガックリと肩を落とした。
(かーっ、なんちゅう醜態……。しかもよりにもよってあいつに見られるとは……)
 もともと酒には強いほうで、記憶がなくなるほど酔っぱらうなんてあまりないことだった。学生時代はそれなりに仲間とバカ騒ぎもやって無茶な飲み方もしたが、自分の記憶がない時には一緒に飲んでた仲間だってへべれけだったわけで、自分独りが乱れてつぶれてこんな風に自己嫌悪に陥る羽目になんて、なったことはなかったのだ。
 ハアアっと大きなため息をついて、啓太はもう一度ベッドに腰を下ろした。しばらくぼんやりと宙を見つめていたが、やがて視界の中の部屋の景色がだんだんと気になり始めた。
(皆川の、部屋か……)
 改めてその部屋を見渡した。さほど広くはないが、寝室としては充分な大きさだった。清楚な白い壁に、薄く柄の入った天井。窓には水色のロールカーテン。造り付けのタンスの扉も、同じような薄い青だ。部屋の半分を占領するセミダブルのベッドに、パソコンのデスクと、あとはたくさんの本の山。森太郎の部屋はそんなもので満たされていた。
 片隅に置かれた小さなハンガーラックに、啓太のスーツがきちんと整えてかけられていた。意外とこまめである。
 啓太はしばしその部屋を眺めていたが、やがてもう一度嘆息し、立ち上がってハンガーからスーツのズボンとワイシャツを取り、隣りの部屋へと足を向けた。
 もうひとつのその部屋は、寝室よりもかなり広かった。シンプルにあまり家具や飾り気がないせいか、いっそう広々として見える。大きなベランダの窓から差しこむ明かりが、部屋を隅々まで明るく照らしていた。
 奥の方に小さなキッチンがあって、森太郎はそこで言ったとおり朝食の準備をしていた。コーヒーを入れている途中らしく、かぐわしい香りがいっぱいに広がっている。啓太が出てきたのを見て、バスルームの場所を指し示して言った。
「タオルは新しいのが上の棚に入ってます。あ、着替えいりますか?」
「いや、いい。昨日のワイシャツ着るから」
 そう応えてバスルームに向かいかけた啓太だったが、ふと足を止め、振り返って森太郎を見た。彼がそれに気づき、怪訝そうな顔をする。啓太は赤くなりながら、消え入りそうな声で話した。
「あの……さ」
「はい?」
「ワリイけど……パンツだけ貸してくれる?」
 森太郎の顔が一瞬不思議そうに凍った。言ってる啓太も恥ずかしくって身を縮こませた。
 幼い頃からの親の教育の賜物で、どうにも下着だけは毎朝取り替えないと気がすまないのだ。他のものは1週間洗濯してなくたって全然平気なのだが。
 啓太が赤面してうつむいていると、森太郎は無言のままキッチンを離れ、寝室へと向かった。やがて手に真新しい下着を持って戻ってくると、それを啓太に手渡しニッコリと笑った。
「はい、どうぞ」
「どうも……」
 ちらりと森太郎の顔を見上げると、彼は別段呆れた様子もなく平然としていた。だがその形良い唇が今にもぷぷっと笑い出しそうで、啓太はひったくるように受け取ると、そそくさとバスルームに直行した。
(まったくまったく、俺って奴はもう……!)
 朝っぱらから……いや、正しくは昨日の夜から、森太郎の前でさらした醜態の連続に、啓太は思いっきり自己嫌悪して落ちこんだ。弱みという弱みを全てさらけ出してしまったような気がする。よりにもよって森太郎の前で。啓太が一番苦手で、一番避けたいと思っている彼を相手に、こんなことになろうとは……。
 そんな啓太の上に、暖かいシャワーのお湯が、慰めるように優しくふりそそいでくれた。
 朝から何度目かの大きなため息を、啓太は流れ落ちる水音で包み隠した。


 なんとなく顔をあわせづらくて、のろのろとシャワーを浴びて部屋に戻ると、そこでは森太郎がもうすでに用意を終えて、小さなカウンターテーブルの横で優雅に新聞を広げていた。啓太が来たのを知ると、もうひとつの椅子を指し示して座るよう促した。
 テーブルには二人分の朝食がのっていた。ベーコンエッグに、薄いトースト。ちぎったレタスとミニトマトのサラダ。それに大きなマグカップ。
 森太郎は手際よくカップにコーヒーを注ぐと、さらりとそれらをすすめた。
「どうぞ。簡単なものですが」
「おお、サンキュー」
 確かにそう手の込んだものではないが、いつもの啓太の食生活に比べたなら月とスッポンである。朝なんてそのまんまの食パンかぶりつきに、ミルクを紙パックから直接飲むのがいつもの食事風景だ。おかずが二種にインスタントではないコーヒー付きなんて、夢のように豪華に思える。
 啓太はちょっと感動しながら、遠慮なく食べ始めた。料理がちょっと冷めているのは、啓太の戻るのが遅かったせいだろう。それでも森太郎は独りで先に食べることもせず、ちゃんと律儀に待っていてくれたらしい。
 啓太は食べながらちらりと彼をうかがい見た。森太郎は読みかけのまま折りたたんだ新聞の活字を目でおいながら、黙々と食事をしていた。
「おまえ、料理とかよくするの?」
 啓太が尋ねると、彼は顔を上げて答えた。
「そうでもないですが、まあ休日くらいは」
「上手いんだな」
 啓太が誉めると、森太郎はちょっと小馬鹿にするように肩をすくめてみせた。
「ただの目玉焼きですよ。誰でも作れます」
 出来て当然とでもいったように、冷ややかな眼差しを向ける。
(う、可愛くない……)
 啓太はちょっとムッとして押し黙った。せっかく誉めたのに、素直に受け入れない森太郎が憎たらしい。腹立ち紛れにカップをつかんでコーヒーをぐいと飲むと、やっぱりそれはとても美味しかった。
 誰にでもできるなんてあっさり言うけれど、本当はそうじゃないのだ。やはりそれは森太郎の力であって、彼の努力の賜物であって、平然としてるのはしゃくにさわるけど啓太だってそれはとうに認めていることで、そしてそんな気持ちを彼に受け取って欲しかった。
 啓太は脹れっ面のまま、ちょっと怒ったような口調でぼそりとつぶやいた。
「コーヒー美味い……」
 森太郎は驚いたように啓太を見、そして少しだけ照れくさそうに応えて返した。
「それはありがとうございます。おかわり、いりますか?」
「うん」
 啓太がカップを差し出すと、彼はたっぷりと注いでくれた。
 なんとなく不思議な平穏がそこにあった。休日の朝にふさわしい、ほんわりと暖かな時間がゆるゆるとすぎていく。誰かとともにする食事。湯気の立つ美味しいコーヒー。目の前の森太郎……。
(なんか、変なの。なんで俺、こいつとままごとやってんだ? しかもあいつの部屋で向かい合って……)
 そう考えると妙に胸がドキドキした。またいつものあの不可思議な感覚が湧き出してくる。困ったような、だけど少しだけ心が弾むような、わけのわからない感情が心を惑わす。啓太はそんな自分をごまかすように話しかけた。
「あ、あのさ、皆川」
 森太郎が、なに、というように小首を傾げた。啓太はためらいがちにたずねた。
「俺、なんか昨日バカやってた? 酔っぱらって」
 すると彼は途端にニッコリと破顔した。
「そうでもないですよ。カラオケに行くって騒いでただけです。『人生いろいろ』を披露するってご機
?嫌でした」
「げ……」
 思わず絶句した啓太に、追い討ちをかけるように話し続ける。
「あとは、俺と帰る時、ずーっと大声で歌いっぱなしだったっていうぐらいですね。戦隊ものアニメのテーマソングをメドレーで聞かせていただきました」
 そう語る森太郎の瞳がなんだかひどく嬉しそうで、啓太はちょっぴり脹れっ面をして問い返した。
「おまえ、なんかすごーく楽しんでない?」
「わかります?」
 森太郎がいっそう嬉しそうに目を細める。啓太はツンと唇を尖らせた。
「やな性格……」
 森太郎はくすくすと笑った。
 それは、とても柔らかな笑顔だった。いつもの会社での彼とは全然違う。相変わらずからかうように小馬鹿にした瞳を向けてはいるけれど、その奥になにか暖かいものを感じてしまう。
(あ、なんか……まずいかも……)
 啓太は困惑した。これ以上ここにいてはいけないと、心の奥でなにかが騒いでいる気がした。
 食べかけのトーストを急いで口に放りこむと、コーヒーで流しこんで啓太はそそくさと立ちあがった。
「あー、えーと……俺、そろそろ帰るわ」
 森太郎は驚いたような表情を浮かべ、意外なほど残念そうな口調でひきとめた。
「もうですか? もっとゆっくりしていっていいのに」
「いや、それも悪いし……さ」
「悪いなんて」
 そうつぶやいた彼の顔がなんだか淋しそうに見えて、胸がズキンと小さく痛んだ。
「あ、あの、お、俺、今日忙しいんだよな。部屋の掃除とか洗濯とか、なんかいっぱい溜まってるし、見たいビデオもあるし、それにえーと、友達からメールとかも来てて、みんな放りっぱなしで、えーと……だからやっぱ帰るな。あ、そうだ、背広とってこなくちゃ」
 どうでもいいような言い訳を積み重ねて、啓太は森太郎を見ないように視線を逸らしながら席を離れた。寝室に入って、ふうと大きく息をつく。なぜだか胸が壊れそうなほど高鳴っていた。
(なんで俺、こんなドギトキしてんだ?)
 自分でもよくわからない、だけど森太郎を前にするといつも起きる不思議な胸の鼓動は、いつまでも続いて、抑えようとしたけれどなかなか収まらなかった。
 背広を持って部屋に戻り、なるたけ視線を合わせないよう心がけながら、帰り支度をした。最後に改めて昨日の礼を述べた時見た森太郎の顔は、もういつものクールな彼だった。
 それでも背広を羽織って玄関に向かいかけると、黙って見守っていた森太郎が後ろから声をかけた。
「送りましょうか? 車で」
「い、いいよ。電車で帰るから」
 啓太は振りかえって、ひきつった笑みを返しながらその申し出を断った。が、前に向き直って歩き出した瞬間、そのすぐ目の前に部屋の壁が迫っていた。
「危ない!」
 森太郎の声と、ゴツンと大きい音がしたのは、ほぼ同時だった。
「……いったー!」
 啓太は額を押さえてうずくまった。部屋と廊下の境目に飛び出た壁の角に見事なほど額を直撃し、一瞬クラクラするほど衝撃を感じた。目から星が飛び出すとはまさしくこういうことだ。頭を抱え、思わず涙目になってうめいている啓太の元に、森太郎が大慌てで駆け寄ってきて覗き込んだ。
「大丈夫ですか、風倉さん?」
 ハッと思う間もなく、啓太の頬に彼の両手が伸びてきて、その大きな掌の中に柔らかく挟みこまれた。
 ドクンーーと大きく胸が鳴った。
 森太郎の顔が、触れるほど傍にあった。啓太は彼の手に捕らえられ、優しく両頬をいだかれたまま身動きひとつできなかった。
 心配そうな瞳が食い入るように見つめていた。宝石みたいに綺麗な薄い琥珀色の瞳。つんと尖った鼻が、今にも啓太の鼻とくっつきそうなほど間近にある。形良い唇がうっすらと開いて、辛そうにつぶやいた。
「ひどい、赤くなってる……」
 右手がわずかに動いて、人差し指が優しく啓太の額をなぞった。
 ツン……と痛んだのは、額のこぶなのか、それとも胸の奥なのか、啓太にはわからなかった。
 啓太が声もなく茫然としていると、森太郎は心配そうな口調で言った。
「俺、やっぱり送ります」
 その声にようやく我に返り、啓太は慌てて身を引いて森太郎の手から逃れた。心臓がバクバクいっている。体中が燃えるように熱い。動揺を押し隠すように目の前で手をヒラヒラさせて、焦って応えた。
「い、い、いいって。たいしたことないよ、こんなの」
「そうじゃありません。危なっかしくって見ていられない」
「平気だって。ガキじゃないんだから」
 そう言うと啓太はすっくと立ちあがって、大急ぎで玄関に向かって歩き出した。
「じゃあな」
 だが今度は森太郎も黙ってはいなかった。後を追ってくると、出ていこうとする啓太の手首を捕らえて引きとめた。
「ちょっと待って」
 啓太は震える声で、少し怒ったように返した。
「なんだよ」
「送ります。家まで」
「だからいいって。独りで帰れるよ」
「風倉さん!」
 返した森太郎の声もまた怒っていた。まるで聞き分けのない子供を叱る母親のように、がんとした口調である。
 啓太は一瞬抵抗の意志を失ってその場に凍りついた。
 強く掴まれた手首が痛い。痛くて熱い。まるでそこからドロドロに溶かされてしまいそうなほどに。
 声もなく森太郎を見返していると、その時突然真横のドアが開いて、見知らぬ男が現れた。
「おおっと、ビックリした」
 突然の乱入者はそう口にすると、目を真ん丸くして啓太と森太郎を見た。
 それはまだ若い男だった。多分啓太たちとそう変わらない年頃だろう。肩まである長めの髪をくりくりにウェーブさせた、なかなか派手な風体をした男だった。
 男は緊迫したその場の雰囲気を察したのか、罰悪そうに苦笑いを浮かべた。
「あららら、お邪魔だったかなー?」
「彰人(あきひと)……」
 森太郎がぽそリとつぶやく。彰人と親しげに名前で呼ばれたその男は、ニッコリと愛想良く笑った。
「よお、森太郎」
 彼はニヤニヤと意味深に微笑みながら、好奇心丸出しで二人を眺めまわした。
「なに、朝から絡んでるわけ? 夕べの相手か?」
「余計な口を出すな、彰人」
 森太郎が容赦なく叱りつける。だが彰人はまるでこたえた風もなく、かなりぶしつけにじろじろと啓太を見ると、あっけらかんとして言った。
「フフン、結構可愛いボーイじゃない。あーでもねー、キミ。森太郎に本気になったら泣くぜ。なんたって、彼にはこの俺っていう本命の恋人がいるんだからさ」
 そう言うと、森太郎のもう片方の腕にするりと自分の腕を絡ませ、べったりと寄り添ってみせた。
「こ、こら、彰人!」
 さすがに動揺したのか、森太郎はめずらしく焦った顔をして怒鳴りつけた。啓太はすっかり圧倒されて声もなく見守っていたが、森太郎が手をゆるめたその隙にするりと抜け出すと、上ずった声で叫んだ。
「じゃじゃじゃ、じゃあな、皆川!」
 そうして、そのまま後ろも見ないで一目散に走り出し、その場から逃げ去った。
「風倉さん!」
 森太郎はその後ろ姿に叫んで引き止めたが、言葉は啓太の背中に拒絶され、すぐに消えた。廊下に反響する微かな音だけが、虚しく戻ってくるだけだった。
 森太郎はしばしの間、啓太の去ったあとを呆然として見つめていた。そんな彼に、後ろから彰人が恐る恐る話しかけた。
「あれ? もしかして、追っかけてたのはおまえの方だったの、森太郎?」
 と、森太郎は無言のままクルリと振りかえったかと思うと、思いっきり拳骨で彼の頭をぶっ叩いた。
「バカ野郎!」
 ゴツンといい音がする。彰人は頭を抱えてうなった。
「……あたー……」
 さらに森太郎はそんな彰人を脚で蹴飛ばして玄関から叩き出すと、さっさとドアを閉めてしまった。
「ちょっ、おい、森太郎!」
「てめーもさっさと帰れ!」
「お、おい、それはないぜ。せっかく来たのによー。おーい、森太郎―! 入れてー!」
 土曜の昼の静かなマンションの廊下には、彰人の情けない声とドアを叩く音だけがにぎやかに響いていた。


 一方、森太郎のマンションから逃げてきた啓太は、なんとか最寄の駅に辿りついて、駅のホームで電車が来るのを待っていた。
 森太郎の住んでいる街は同じ沿線ではなかったが、啓太のいるアパートとそれほど遠いところでもなかった。
 やがて週末らしく、なんとなくのんびりと電車がやってくる。啓太は乗り込んで空いている席にこしかけ、ハアと大きな息をついた。
 頭の中では先ほどの出来事がまだしっかりと記憶に残って渦巻いていた。
 頬に触れた森太郎の大きな手、触れるほど間近で見つめていた琥珀色の瞳。そんな彼の前でドキドキして壊れそうだった自分の心臓。そして……突然現れた若い男。
『この俺っていう本命の恋人がいるんだからさ』
(恋人……なのか、あいつが?)
 啓太は妙にもやもやした気分で、先ほどの男のことを思い出していた。
 よくは見ていないけれど、なかなかカッコイイ男だった……ように思う。森太郎よりも幾分歳上に見えたし、派手な感じであまりお似合いというタイプでもなかったけれど、それでもあいつは名前で呼ばれていたし、親しげに名前で呼んでいた、森太郎を。
「ちぇ、どーでもいいじゃん、そんなの」
 思わず独りごちて、フンと大きく鼻息をついた。
 そうだ。別にどうでもいいことなのだ。森太郎にどんな友人がいようと、どんな恋人がいようと、啓太の知ったところではない。別に彼とは親しいわけでも、友達なわけでもない。ただの会社の同僚、三つ歳下の後輩にすぎないのだ。それだけのことなのだ。
 それなのになんだかムカムカしている啓太を乗せて、電車はゴトゴトと走っていった。
 三つ駅を過ぎたところで乗り換え、さらに三つほど通り越して、ようやく啓太のアパートがある町に着いた。駅からは歩いて15分くらいだ。啓太は穏やかに晴れた日差しの中をスタスタと歩きながら、心の中で自分を納得させるようにつぶやいていた。
(そうなんだ。俺はこれからマジで忙しいんだ。掃除も1週間してないし、洗濯物だって溜まってるんだ。牛乳とパン買わなきゃ朝飯もないし、来週分のワイシャツもクリーニング屋に取りに行かなきゃなんないし、そういえば神林とパチンコ行く約束もしてたし、のんびりあいつの部屋でコーヒー飲んでる暇なんてないんだ。やることがいっぱい溜まってるんだから)
 しかし啓太を待っていたのは、そんな週末の雑事でも友達とのつきあいでもなかった。
 彼を待ちうけていたのは、真っ黒に燃えて炭になったアパートの残骸の山。跡形もなく火事で燃えてしまって、なにもなくなった自分の住んでいた場所だった。
 酔いつぶれて朝帰りした啓太は、一夜にして住むところも家財もなにもかも、なくしてしまったのであった。
 
     
                                            ≪続く≫
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