Dangerous night!   ー放浪編ー

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act 1                       
 
 時刻は、もうすぐ5時半になろうとしていた。
 社内の雰囲気は、それまでのピンと張り詰めたものから、なんとなく少し浮かれてざわめいた雰囲気へと変わっていた。
 今日は金曜日である。あとほんのわずかで、今週の仕事も無事終了し、楽しい週末がやってくる。残念ながら残って仕事を片付けねばならない者や、不幸にも休日出勤が待っている者がいるかもしれないが、それでも大方は休みを前に何をしようかなと考えられる程度にゆとりのある者がほとんどだった。
 風倉啓太(かぜくら けいた)はそんな中で、パソコンのモニターをにらんで、一人黙々と仕事を続けていた。
 このコンピュータサービスの会社に入社して4年目。いろいろと任される仕事も増え、今が一番仕事が面白くなりつつある時期だった。だからある程度の残業も、さほど苦痛ではない。もっとも、若者らしく遊ぶことだって大好きなのだが。
「おーい、風倉。今日残業かぁ?」
 デスクのノートパソコンの前で難しい顔をして見積もり作りにとっくんでいた啓太のもとに、同期の神林(かんばやし)がやってきて、お気楽に尋ねた。啓太はモニター画面から視線を外すと、ちらりと神林を見やった。
「んー? まあ残業ってほど残業でもないけど……なに? なんかあんのか?」
 神林は人の良さそうな顔にニマニマと笑みを浮かべて答えた。
「ほら、3丁目の角に新しい居酒屋できたじゃないか? 今開店特別サービスで料理半額なんだってさ。で、今晩飲み会やることになったんだけど、おまえ行ける?」
 啓太はうーんとうなって眉をしかめた。
「これ、来週の頭に使うんだよなぁ。あとちょいで仕上がるんだけど」
「じゃ、パス?」
 あっさりと納得しかける神林を引っ張り寄せて、啓太は声を潜めて尋ねた。
「なあなあ、めんつは? 誰かイイの来るのか?」
 神林はいっそうニンマリと笑って、同様にひそひそ声で答えた。
「へへ、それがよー、今日は豪華だぜぇ。受付のみどりちゃんも来るし、交換のウグイス、美幸嬢も来るんだぜ。他にも他部の綺麗どころが何人か」
「おおお、なんだ、そのきらびやかなメンバーは。おまえらいったい、なんで釣り上げたんだ?」
「そりゃまあ、いい餌つけたからな」
「いい餌?」
「ほら、あれだよ」
 神林が顎で指し示した先には、一人の若い男がデスクに座って仕事を続けていた。啓太はその男を見た途端一瞬頬を熱くし、そしてすぐにげっそりした口調でつぶやいた。
「皆川も来るのかよ?」
 神林はほくほくしながらうなづいた。
「おお、珍しいよな、あいつが飲み会に顔出すなんて。もっとも、先輩権限でかなり強引に引っ張り出したんだけどよ。でもまあ、おかげで女の子達の集まりのいいことといったら。豪華絢爛、百花繚乱だぜ」
 にこやかに語る同僚を見ながら、啓太は呆れてため息をついた。
「なんだよ、他の野郎を餌に女の子釣って喜んでんのか? おまえねぇ、男のプライドってないわけ?」
「そーんなものあーりませーん。おこぼれでもお余りでも、いただけるものなら喜んでいただいちゃうね、俺は」
「サイテーな男だな、おまえ」
「ほっとけよ。ところで、おまえ来るのかよ? どうすんだ?」
 啓太はちらりと横目で斜め前方に座っている皆川を盗み見た。
(あいつも来るのか……)
 その男……どうにも自分を惑わせる、三年後輩の憎らしい新入社員。何故だかその存在が気になってどうしようもない奴。視線が合うと、ドキドキして、ソワソワして、なんだか落ちつかなくなってしまう。どうして……?
 啓太はそんな自分の感情を振り払うように、プルンと一度頭を振って答えた。
「い……行こっかなっ……」
 神林は呆れた表情を浮かべて冷たい視線を投げかけた。
「男のプライドないね、おまえも」
「ほっとけ」
「んじゃ6時現地集合ね」
「あ、俺ちょっと遅れるかもしれないけど、いい?」
「オッケー。でもあんまり遅れると、美味しいところなくなっちゃうぜー。早いもの勝ちだからな」
「よく言うぜ、おまえらなんてどうせ誰かさんの余りものしか食えないくせに」
 神林はヘンと言い捨てて、啓太を残して自分のデスクに戻っていった。
 啓太はフウと一度大きく息をついて、また仕事にむかった。ふと、皆川の姿が視線に入る。啓太はしばしその横顔を見つめた。
 皆川森太郎(みながわ しんたろう)。このどこか古風な名前を持つ男は、啓太より三つ歳下で今年の春入ってきたばかりの新入社員だった。
 とはいえ、その存在感はとても新入社員らしからぬものであり、すでに会社で一番の有名人と言っても過言ではない。というのも、学歴もさることながら、他のおどおどした新入りとはまるで違って最初からバリバリと仕事をこなし、入社半年にしてすでに一人前以上の活躍をしていたのだから。
 おまけに、男も思わず見とれるほどのハンサムで、多少無愛想で人付き合いは悪かったが、そんなところもクールという賛辞に代えられてしまうほど、女子社員全員の憧れのまとだった。
 当然の如く同性の、しかも同年代の男たちからは嫉妬と羨望の対象になったが、とはいえ、彼を相手に新人イジメを堂々とやれるほど自分に自信のある者はいなく、半年も過ぎると、皆が彼を特別視して、あいつなら仕方がないかなどと納得するようになっていたのだった。
 啓太もまた、彼にはかなわないと渋々ながらも思わせられる一人だった。
 啓太もご多分に漏れず、最初は森太郎を敬遠していた。ペーペーのくせに仕事ができ、ハンサムで女にもてて、そのくせ鼻の下ひとつ伸ばすでなく悔しいほどクールに振る舞う、そんな男は見ているとどうにも腹が立つものだ。男の自尊心を傷つけてくれることこの上ない。
 啓太自身だって一応人並みには仕事もできると思っていたし、顔だって多少歳のわりには童顔かも知れないが、いわゆるジャニーズ顔でまあまあイケテルと思っていたのだ。だが森太郎に比べるとどうしたってかなうレベルではないように感じて、劣等感を抱いてしまう事しきりなのである。
 そんな彼だったが、ある事件をきっかけに、森太郎には一目置くようになっていた。
 それはほんの1ヶ月ほど前のことだった。営業の仕事で一緒に出張に出向いた時、出先でとんでもない失敗をやらかしてしまったことに気がついた啓太だったが、そんな時、途方にくれていた彼を驚異的な頑張りでサポートしてくれたのが森太郎だったのである。
 彼のおかげで、啓太は上得意の取引先を見事につかむことができたし、その成果を上からも認められて株も上がった。しかし、そんな時も森太郎はただの一度も恩着せがましく振舞うことなく、また啓太の失敗を誰かに漏らすことすらなかったのだった。
 お粗末な自分のミスを、見事にカバーして助けてくれた森太郎。あの時の借りが、啓太にはひとつある。感謝感激した啓太は、借りは必ず返すと大見得をきった。だがきったはいいものの、森太郎相手にいったいなにをすればよいのかわからないまま、もう1ヶ月がたっていた。彼のほうからも、別段何を要求してくるわけでもない。まあ、彼にしてみれば、取るに足らない些細な出来事のひとつだったのかもしれないのだが。
 と、それまで冷ややかな横顔を見せて机に向かっていた彼が、ふいに顔をあげて啓太の方を見た。
 視線が出会う。森太郎は啓太を見てニッコリと笑った。
 綺麗な顔に極上の笑みである。啓太は慌てて視線を逸らし、無視するように顔を伏せた。
 胸がドクドクと破裂しそうなほど高鳴っていた。 森太郎に見つめられると、いつもこうだ。
 以前から彼の視線を感じることはままあったのだが、一緒に出張に出たあの時から、彼はそれまでの小馬鹿にしたような薄笑いではなく、あんな風に親しげな笑顔を向けてよこすようになった。それは啓太の心をたいそう惑わせる代物だった。
 実は森太郎はゲイなのだ。いや、男も女もどちらでもかまわないと言ってたから、いわゆるバイというやつか。彼には以前から社内の一部でそんな怪しげな噂が流れてはいたのだが、それはどちらかというと、できすぎの男に対するやっかみ半分の中傷のようなもので、真実を知る者は誰一人としていなかった。多分噂する者たちだって、本当にそうなのだと信じている者はいないだろう。
 だが啓太は、ちょっとした偶然の中で、面と向かって彼の口からその噂を肯定されていた。もちろん、からかわれただけかもしれない。だが、それでなくとも入社当初からしばしば彼の視線を感じていた啓太としては、どうしてもその存在を意識せざるえないのだった。
 啓太にはもちろん男を好きになる趣味なんてこれっぽっちもなかった。今まで25年間生きてきて、周りの友人にだってそんな奴は一人としていやしない。だから森太郎の態度が何を意味するのか今ひとつ掴みかねるのだが、めちゃくちゃ心乱されるのだけは確かだった。
 彼の視線を感じながら、啓太はそれを振り切るようにして仕事に没頭した。
 そうこうしているうちに退社時刻になり、あちこちでざわめきが聞こえるようになって、社員達の中にもチラホラと帰るものがあらわれ始めた。行き先は様々だろうが、皆がどことなく浮かれた顔をしていた。
 神林らも早々に仕事を切り上げ、約束をした仲間同士、戸口の付近に群れ集まって楽しそうに喋っている。まだデスクについている啓太に、手を上げて先に行ってるぞと言うように合図をした。啓太も手を振って返事をかえした。
 彼らの中の一人が、森太郎に向かって声をかけた。
「なんだ皆川、おまえ、まだ終わらないのか?」
 ふと彼を見ると、森太郎はまだデスク一杯に資料を広げ、書類作りの真っ最中のようであった。
「ええ、もう少しかかりそうです。すみませんが、先に行っていていただけますか?」
 彼らしい丁寧な言葉で返事をかえす。女の子たちの間からちょっとしたブーイングがあがったが、それでも社内にはまだ残って仕事を続けている者たちが大勢いたため、それほど騒ぎにならず、仕方なく納得したようだった。
「おお、さっさと切り上げてなるべく早く来いよ。――ああ、それから」
 男はついと指を伸ばすと、啓太を指差して言った。
「風倉も後で来るって言ってたから、ついでにおまえ、ひっぱってこいや」
 森太郎はちらりと啓太に視線を向け、冷ややかにうなづいた。
「わかりました」
 啓太はドキンと胸が鳴った。
(な、なんだってわざわざ、そんなこと言うんだよー!……)
 かあっと頬が熱くなる。耳たぶまで赤くなって、啓太はそれを押し隠すように、モニターの影に身を縮こませた。
 考えてもみなかった展開であった。飲み会に森太郎が一緒だというだけでも穏やかじゃないのに、あろうことか二人して遅れていく羽目になるとは。
 神林が言ってたように、彼が仲間内での飲み会に顔を出すのはそうあることではなかった。送別会やら歓迎会やら、そういった会社での行事には出席するが、友達同士が集まって……というのには、あまり出てきたことはないのだ。いつもクールに、あまたの誘いを断っては、さっさと独り帰ってしまうのが常だった。
 だから今夜は彼も参加すると聞いて、啓太はなんとなく気持ちがソワソワしている自分に気がついていた。嬉しいわけではないはずなのだ。だって啓太は、そりゃあ森太郎が苦手なのだから。それでなくてもあらゆる面で自分より秀でている憎たらしい奴なのに、しばしばじっと見つめられ、その眼差しにとらえられると、どうにも心が騒いでしかたがないのだ。何やら恐ろしい感じまでしてしまう。
 だから啓太はできるだけ彼を避けていた。会社で会うのは仕方ないにしても、それ以外で顔をあわせるなんて、とてもじゃないが考えたくない状況だった。
(こいつは、さっさと終わらせて、あいつより早く会社を出るしかないな)
 啓太はそう考え、大急ぎで残りの仕事を片付け始めた。とにかく、森太郎と二人になるのは、どうしても避けたかった。彼といると、どうにも落ち着かないのだ。ドキドキして、そわそわして、なんだかやけに鼓動が早くなる。そしてそんな自分がまたわけがわからず苛立たしい。啓太は早く仕事を済ませようと、真剣にキーボードを叩き始めた。
 やがて――小一時間もたったであろうか。
 一旦熱中し始めると雑念はどこかへ消えてしまって、啓太は思わず仕事に没頭していた。当初の思惑であった、森太郎よりも先に会社を出るという目的もいつしか忘れ、頭の中は数字のことで一杯になる。やっとこれで出来上がりという段になり、ようやくホッと息をついた。
「ふう、こんなもんかな」
 最後の文章を打ち終え、啓太は我知らず独り言を漏らした。すると、まるでそれを待っていたかのように、前方の席から声をかけられた。
「終わりましたか? 風倉さん」
 驚いて顔を上げると、森太郎がこちらを見ていた。
「え?」
 思わず辺りを見回すと、もう部内に残っているのは啓太と森太郎の二人だけだった。
 今はさほど切羽詰った仕事もないし、金曜の夜ということで、みんな早々に切り上げて帰ってしまったらしい。
 啓太はしどろもどろに応えた。
「お、おお、なんとかな」
「では行きましょうか」
 森太郎は冷ややかにそう返すと、即座に立ちあがってデスクの上の資料を片付け始めた。啓太はしばし唖然としてその姿を見つめていた。
 最初は自分の仕事を途中にして帰るつもりなのかと思ったが、すぐにそうではないと気づいた。だいたいが啓太の三日分の作業を数時間でこなしてしまうような、ずば抜けて仕事の出来る奴なのだ。もう少しと言っていた仕事が、啓太よりも時間がかかるわけはない。それに、作りかけの書類を途中で放り出して遊びに行くような男でもなかった。
(……もしかして、こいつ……俺のこと待ってた?)
 啓太は彼を見ながら確信した。多分、彼は自分の仕事など、かなり前に出来あがっていたに違いない。それでも何も言わずに啓太が終わるのを待っていたのだ。今になって資料を片付けているのは、彼らしい心配りだ。相手に気を使わせまいする。
(皆川の奴……)
 啓太はちょっと恥ずかしくなった。本当は、自分が先に仕事を終え、彼を置いてさっさと出ていくつもりだったのに。
 ぼんやりしていつまでも座っている啓太に、森太郎はちょっと呆れたように言った。
「なにやってんです? 行かないんですか、風倉さん?」
「え? ……あ! そうだな!」
 啓太はハッと我に帰って、慌てて自分も帰り支度を始めた。
「みんな待ってますよ、きっと」
 森太郎はいつのまにやらちゃんと支度を整え、背広を着てバッグを手にし、戸口で啓太を待っていた。啓太は大急ぎで手荷物をまとめると、焦ってそちらに向かった。
 ところが、慌てていたせいか、戸口付近にあったコピー機に思いっきり腰の一端を打ち付けてしまった。
「いってー!」
 啓太は思わずぶつけた所を押さえてうずくまった。森太郎が血相を変え、慌ててとんできた。
「大丈夫ですか、風倉さん?」
「お、おう……いててて」
 啓太にはこの手の失敗がよくあった。別に運動神経が鈍いわけでも、とろくてボーっとしてるわけでもないのだが、何かにぶつかったり足を引っ掛けて転びそうになったりすることはしょっちゅうだった。どうも周りの物と自分との距離を無意識に認識する感覚が、少しずれているようなのだ。
 照れ隠しを込めて痛みをこらえつつ情けなく笑ってみせる啓太に、森太郎は大きくため息をつき、呆れたように言った。
「もう少し気をつけてください。ビックリするじゃないですか」
「ああ、ゴメン……」
 そう返しながら、なんでこいつに謝らなきゃならないんだと思っていると、彼は仏頂面でぼそりとつぶやいた。
「まったく、危なっかしい人だ。ほんとに……」
 森太郎の顔が、ちょっとだけ怒っていた。いつもの無愛想さに輪をかけて苦々しい顔つきである。そんな彼を見ていると、なんとなく悪いことをした気分になり、啓太は押し黙った。
 すると突然手が伸びてきて、啓太の腰にまわされた。
「な、なに……!」
「立てますか? だいぶひどくぶつけたんですか?」
 森太郎が抱えあげて立たせようとする。啓太は焦ってその手を振り払い、真っ赤になりながら応えた。
「たた、立てるよ、一人で。平気だってば」
 狼狽しながら立ち上がってみせると、それでも森太郎は少し疑わしそうに見つめ、苛立たしげに言った。
「それじゃ行きましょう。遅くなってしまった」
「お、おう。待ちくだびれてるぜ、みんな」
 二人は並んで歩き出した。ドアを通る時、何気なく森太郎の手が肩にまわり、少しだけ引き寄せられた。そしてハッと思うまもなく、それはすぐに離された。啓太がまたドアにぶつからないよう気を使ってくれたのだ。
 啓太は再び顔を赤く染め、全身を熱くした。
 こんな扱いをされると、どうとらえてよいのかわからない。心遣いを嬉しいとも思うし、また同時にひどく戸惑ってしまう。無愛想でクールな中に時折見せる優しさに、どうにも心惑い、当惑を隠しきれない。
 啓太は無言のまま、森太郎の少し後を歩いていった。


 居酒屋では、すっかり盛りあがっていて、みんな楽しく飲んで騒いでいた。遅い到着の森太郎を女の子たちは喜んで迎え、たちまち彼の周りに群がったが、それでもかなり時間がたっていたせいか別の男と良い雰囲気になっていた子等も何人かいて、神林たちのもくろみは一応成功したようだった。
 啓太は端っこに座り、残り物の料理で空腹を満たしていた。出遅れたせいか、なんとなくすぐにその輪の中に入りずらい。黙々と一人食べながら、時折ちらりと斜め横を伺い見る。そこでは森太郎が、女の子たちに囲まれ談笑していた。とはいっても、かなり儀礼的なお義理の笑みといった感じではあったが。
(ちぇ、相変わらずもてやがんなー、皆川の奴……)
 見ていると、なんとなく面白くなかった。だがそれは、果たして彼に男として嫉妬しているせいなのかは、啓太にはよくわからなかった。いらつくのは、なんだかそれだけではないような気がする。
 むっつりして飲んでいると、あぶれた男たちが寄ってきて、それなりにその輪で盛りあがり始めた。色気はなくとも、酒さえ入れば盛りあがるのが若者の特権である。
 啓太は皆と笑って飲みながら、時々森太郎を視線の端にとらえていた。美人で誉れの高い受付のみどりちゃんが、べったりとその傍に張りついていた。彼はみどりちゃんの誘うような眼差しの中で、端正な顔に笑みを浮かべて、クールな態度で受け答えしていた。啓太はそんな森太郎に、妙に腹が立った。
(ちぇ、なんだよなー)
 理解できないイライラが、どうにもじれったくて気分が悪い。それを打ち消すかのように酒量が増え、いつしかそれは啓太の許容量の限界を遥かに超えていた。
「さーて、次はカラオケだぜ―!」
 そう誰かが言い出して皆で居酒屋を出た時には、啓太はすっかり出来上がって、情けなくも醜態をさらしていた。どうやら空腹のままにガバガバ飲んだのが、余計酔いを早めたらしい。いつもはそれほど酔っ払ってつぶれる方ではないのだが、その日の啓太はもう完璧にただの酔っ払いだった。
「おー、カラオケー! もう、ろっこれも付き合うぞー。カラ、OK! なーんちゃってなー」
 ろれつの回らない口で訳のわからないジョークを飛ばしている。肩を貸していた神林は呆れた顔で見下ろした。
「おいおい、風倉。おまえもう無理だって。帰れよ。タクシー拾ってやっから」
「なーに言ってんだー。おれは行くぞー。『人生いろいろ』聞かせてやる。上手いんらぞー」
「そんなんで何が唄うだよ。いいから帰れってば」
「やだー! おれもいくんだー!」
 まるでまともな会話になってない。皆が呆れ顔で途方にくれていると、森太郎が一歩踏み出して冷ややかに言った。
「俺、もうここで失礼しますから、俺が車に乗せて帰します。だから皆さんは行ってください」
 女の子たちの間からは、ええーっもう帰っちゃうのーとブーイングがあがったが、男たちはこれ幸いとばかりに押し付けた。
「そうかぁ、悪いな、皆川。じゃ頼むわ」
 神林は一応申し訳なさそうにしながらも、ニコニコしてそう言った。森太郎は彼の肩から、ヘロヘロになっている啓太を受け取り、自分の肩にその腕を担いだ。啓太はニコニコしながら、大声で話しかけた。
「おー、皆川―。皆川じゃねーかー。げんきー?」
「はいはい、元気ですよ」
「おまえねー、遠慮しらいでなんでも言えよー。おれ、なんでもしてやっからよー。あーでも、グーだけはだめだぞ、グーはパスだかんな」
 神林が眉をひそめて森太郎に尋ねた。
「何言ってんだ、こいつ? 何だ、そのグーって?」
「さあ。俺にもさっぱり」
 森太郎は幾分ゲッソリした顔で啓太をその肩に担ぐと、見守っている同僚たちに軽く頭を下げた。
「それじゃお先に失礼します」
「おう、頼むな、そいつ」
「なんならその辺に捨ててっていいからな、皆川」
 彼らは冗談を言いながら、まだ森太郎に未練ありそうな女の子たちを連れて、夜の盛り場へと消えていった。残った啓太と森太郎はしばらくその場に立って彼らの姿を見送っていた。
「あれー、みんら帰っちゃうのかー? カラオケいかないのー?」
 へべれけになって文句を言う啓太に、森太郎は冷ややかに応えた。
「風倉さんは、俺と行くんです」
「おー、カラオケかー?」
「違いますよ、帰るんです。さあ、行きますよ。風倉さん、住所はどこですか?」
 だが森太郎の質問などまるで耳に入ってなく、啓太はただっ子のように口を尖らせて文句をわめいた。
「俺ぁ帰らないぞー。もっと飲むんだー」
「ダメですよ、もう」
「やだー。もっと飲ませろ―」
 わめきながら森太郎の腕を振り解き、一人で歩いていこうとした啓太だったが、ニ・三歩歩いたところですぐに腰がくだけて、情けなく地面にへたり込んだ。森太郎が慌てて駆け寄ってきた。
「風倉さん、しっかりしてください」
 道端に座りこんだ啓太を無理矢理立たせて、一回り小柄な体を肩に担ぎ、森太郎は呆れながら尋ねた。
「ほら、風倉さん。住所言ってください。タクシー拾ってあげますから」
 しかしすっかり出来あがってる啓太にまともな応えなど望むべくもなく、森太郎もそれを知って、大きなため息をついた。
「だめだ、こいつは」
 横では啓太が楽しそうに大声で歌を唄いはじめる。森太郎はもう一度嘆息した。
「ほんとに……あなたって飽きない人ですよ、風倉さん」
 口元に呆れたような笑みを浮かべて独り言のようにつぶやくと、森太郎は啓太を肩に担いだまま、夜の繁華街の道を歩き出した。
 
     
                                            ≪続く≫
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