Dangerous night!ー同棲編ー

目次に戻る



   − ACT 4 −
 

「風倉さんっ」
「触るなって言ってんだろ!」
 夜のしじまに、パシリと肩に触れた手を打つ、高い音が響いた。
それっきり……プツンと何かの糸が切れた。
 啓太と森太郎の、二人を繋いでいた温かい関係が、彼らの間に存在した何週間分かの確かな時間が、その小さな音とともにあっけなく失われた。
たった一度の、歯車の軋みから……。
 啓太は茫然とたたずむ森太郎に背中を向けて、後ろも見ずに闇の中を駆けていった。
 気持ちだけは、たっぷりと彼の元に残したまま。




 その日、営業回りから帰ってきた啓太は、エレベーターから降りたところでバッタリと森太郎に出くわし、ぎょっとして目を剥いた。
 それは本当にただの偶然。運命の気まぐれな采配というものだろう。
 あれから五日間。
 森太郎とは一度も口をきいていなかった。いや、会話どころか、視線をあわせることすら避け続けている。そっぽを向き、心を塞いで、頑なに彼を拒んできた。
 そんな相手といきなり真正面から向かい合って、会社の廊下で、物も言えずにしばしの間立ち尽くした。
 森太郎の方も、開いたドアの向こうから突然現れた啓太の姿に、驚愕し、大きく目を見開いている。
 束の間に、気まずい空気が二人の間を漂った。
 だが、ぷいと顔を背けて横を通り過ぎようとした啓太を、森太郎はいきなり腕を掴んで捕らえると、物も言わずに営業部の部屋とは違う方向へと向かって、引っ張って歩き出した。
「お、おい、皆川」
 予想外の行動に、啓太は驚いて声をあげた。
「何すんだよ?」
 だが森太郎は何も答えぬまま、どんどんと進んでいった。
 場所が社内とあっては派手に騒ぎたてるわけにもいかず、困惑したまま黙って手を引かれていく。連れて行かれたところは、誰もいない会議室だった。
 がらんとした一室に入って、ようやく森太郎は掴んでいた手を離した。
 力強く握られていた手首が痛い。じんわりと痺れている。
 啓太は解放された途端、小鼻を膨らませて憤然と食って掛かった。
「おい! なんなんだよ、いったい。無理やりこんなところに連れてきやがって! 仕事中だぞ!」
「……こうでもしなけりゃ、あなたは俺と話してくれない」
 森太郎は抑揚のない低い声で応えた。表情は相変わらずのクールフェイスだったが、向ける瞳はいつもよりも格段と凄みがあって恐かった。厳しく、静かな怒りを奥底から発している。
 啓太はそんな彼にちょっとだけ臆しながらも、鼻息も荒くそっぽを向いた。
「話すことなんて何もねえよ」
「風倉さん」
 強い口調で名前を呼ばれて、思わずピクリと体が反応した。
 その声に弱いのだ。そんな風に呼ばれると、何もかもを降参してくじけてしまいそうになる。
 だがいつもなら渋々と折れるところを、今回は啓太も決して譲らず、いっそう頑なに意地を張った。きゅっと唇を固く結んで、絶対に視線をあわせようとしない。
 森太郎はそんな啓太の態度に、明らかに苛ついた口調で尋ねた。
「いったいどういうつもりですか?」
 啓太はしばし躊躇った後、ぼそりと聞き返した。
「……何がだよ?」
「どうして帰ってこないのかと聞いてるんです」
「…………」
 膨れっ面のまま返事をしないでいると、森太郎はたたみかけるように言った。
「あなたが彰人のところにいるのは、奴から聞いて知っています。よりにもよって、なんであいつの所に……とは、今は言いません。今回の、すべての責任は俺にあるんだし……。だけど、もう五日目です。そろそろ戻ってきてもいいでしょう? そんなに意固地にならずに」
 頭ごなしに叱りつけるような物言いに、啓太はムッとして言い返した。
「誰が意固地になってるって言うんだよ?」
「そうでしょう? メールは無視、電話にも出ない。ことごとく俺を避けて会話のひとつもさせてくれない。こんな状態じゃ埒があきません。一度ちゃんと話をしましょう。その為にも帰ってきてください。意地を張ってないで」
「だから、話すことなんて何もないって言ってるだろ? ほっとけよ、俺のことなんか」
「風倉さん!」
 森太郎は珍しく声を荒げた。が、すぐに後悔したように顔を曇らせ、一つ深い息をついて感情を抑えながら話を続けた。
「今回のことは、本当に……俺が悪かったと思ってます。あなたも暮らすあの部屋に無断で第三者を入れるだなんて、マナー違反だったと深く反省しています。もう二度とあんな馬鹿な真似はしません。あなたを不快にさせてしまったことは、心から謝ります。だから、俺にもやり直す機会を与えてください。このまま出ていかれたんじゃ俺の気持ちが収まらない。納得がいきません」
 必死に懇願するその様子からは、心の底から自分を悔い、誠意を尽くそうとしている彼の気持ちがひしひしと感じられた。言葉使いに多少上段に構えたところはあるものの、それは嘘偽りない森太郎の本音なのであろう。
 だが、だからこそ啓太は許せなかった。
 いや、許すとか許さないとか、そんな問題ではないのだ。一番腹が立つのは、彼が何も理解していないということなのだ。
 あの時、森太郎とあの少年の絡み合う姿を目の当たりにし、どれほど自分が愚かしい存在に思えたことか、どれほど惨めに打ちのめされたか。
 そんな啓太の心情を、彼はまるっきりわかっていない。見当外れに後悔して、筋違いに謝罪している。それが何よりも、悔しくて、せつないのに……。
 啓太はコクンと唾を飲むと、それまで背けていた顔を彼に向けて、口調も荒く言い放った。
「おい、皆川、一言言っておくけどな。俺はおまえのプライバシーに口出す気なんざ毛頭ねえよ。勝手に誰でも連れこみゃいいんだ。好き勝手にさ。それでおまえが謝る必要なんて、これっぽっちもありゃしねえよっ」
 開きかける森太郎の口を遮って、流れるように捲くし立てる。
「おまえはおまえの、やりたいようにやればいいんだ。遠慮なんてしないでさ。俺は、おまえに窮屈な思いをさせてまで面倒なんかみてもらいたくはない。余計な気を遣わせたくないんだよ、なんの義理もないおまえにさ!」
 そう言って、キッと強く睨みつけた。
 自分の中で悶々としていた思いを真っ向から彼にぶつける。
 だが、それが真実、苦痛の要因なんかではないことを、啓太自身もまた気づいてはいなかった。
 今口にした言葉が意地と見栄の固まりだなんて、ほんの少しの自覚もない。もっと別の部分で疼いている己の心を、彼もまたわかっていない。
 本当は何に一番傷ついたのか……。
 思いもがけない反論を受け、森太郎は茫然とした表情で聞き入っていた。
 正面から突きつけられた言葉にショックを隠しきれぬ様子で、しばしの間沈黙する。そのうち、力ない口調で呟いた。
「義理……ですか」
 それまで食い入るように見つめていた瞳を伏せ、肩を落とし、床を見つめながらじっと何かを考えこんでいた。
 俯いた表情が、いつになく寂しげに見える。
 こんな顔の森太郎は初めてだった。
 啓太はちょっとだけ自分の言葉を後悔した。彼を傷つけてしまったような気がする。もしかしたら、言ってはいけないことを口にしてしまったんだろうか。
 だけど、全部本当のことじゃないか。
 今の自分は一方的に彼に頼っているだけで、邪魔者であることに疑いの余地はない。負担をかけているのは間違いない。
 それなのにこれ以上関わったら、もっともっと迷惑をかける。どんどん自分が惨めになる。それに……。
 もう二度と、あんな苦い思いはしたくない。
 森太郎はしばらくの間黙って俯いていたが、やがて微かに顔を上げると、上目遣いに啓太を見た。
きつい眼差しがいっそう鋭く、射るように向けられる。
 じっと睨みつけながら、森太郎はぼそりと言った。
「……義理は、ない。だが……約束はしたはずだ。あの部屋で一緒に住むと」
 それはまるで脅迫でもしているようだった。
 頭ごなしに決めつけた口調。脅すような低い声。有無を言わさぬ強引さで、無理やりにでも啓太を従わせようとする居丈高な彼の態度に、啓太は思わずカッと頭が熱くなった。
 ムカムカと苛立ちが湧いてくる。負けじと声を荒げて言い返した。
「ああ、したさ! おまえには随分借りがあったし、そのおまえがそう言ったからな。仕方なく約束したんだよ! 仕方なく!」
 売り言葉に買い言葉で、心にもない言葉が口をついた。
 一瞬森太郎の表情が硬直した。すっと血の気が失せ、蒼ざめたかと思うと、ぴくりと口元をひきつらせて憎々しげに顔を歪めた。
 これほどまでに感情をむき出す彼は初めてだった。
 森太郎は唇を噛み、溢れ出す怒りを隠そうともせずに、大声で言い放った。
「それなら、それはもう契約だ。尚更あなたはその約束を果たすべきだ。あなたは帰ってこなきゃいけないんだ、俺の部屋に! どうしても!」
「…………なっ!」
 啓太は絶句して彼を凝視した。
 二の句が告げなかった。ばかやろうと言い返したいのに、何も言えなかった。悔しくて、哀しくて、どうしようもない気持ちが喉の奥で爆発しそうに膨れあがって、声にならない。
 胸が締めつけられ、瞳の奥にじわりと涙が滲む。啓太はくるりと踵を返した。
 これ以上彼の前にいたくなかった。なんの言葉も聞きたくはない。命令や、義務や、そんなものしか存在しない関係なんてまっぴらだ。契約なんて、くそくらえだ。
 だいたい、そんなもので始まった日々ではなかったはず。これまでのあの部屋での暮らしは、そんなものばかりが詰まった時間じゃなかった。もっと別の何かがあったはずだ。
 それとも、そう感じていたのは自分だけで、森太郎には何も届いていなかったのか? 何もかも形だけのものだったのか?
 だとしたら、いっそう心が追い詰められる。いっそう惨めで、耐えられない……。
 啓太は彼を置いて、部屋を飛び出そうとした。だが銀色のノブに手をかけたその時、がしりと強く肩を掴まれた。
 驚いて振り返った体に森太郎の長い腕が伸びてきたかと思うと、荒々しく両方の二の腕を引き寄せられ、そのまま痛いほどぎゅっと抱きしめられた。
 広い胸が強引に包み込む。息も出来ぬくらいに強く激しく。
 大きな掌が乱暴に顎を掴まえては捕らえ、ぐいと上に持ち上げた。そして目をむく啓太の眼前、触れるほど間近に、森太郎の顔が迫ってきた。
(ヒクッ……)
 啓太は思わず息を飲んだ。
 視界に、森太郎だけが映っていた。
 怖いほど真剣な黒い瞳。額に落ちて揺れる、真っ直ぐな前髪。
 今にも重なり合ってしまいそうな赤い唇から、熱い息がこぼれて届く。少しだけ煙草の香りが入り混じった、痺れるような甘い息が、震える自分の唇に落ちてくる。
 啓太は物も言えず、ただ抱きしめられたまま、じっと彼を凝視した。
 突然の出来事に身動きひとつできず、抵抗することも忘れてしまう。
 ぴったりと合わさった胸が、互いの心臓の音を伝えていた。ドクドクと激しく響いて体中を揺さぶる鼓動。それが自分のものなのか、それとも森太郎のものなのか、どちらかなんてわからない。ふたつがひとつになっている……。
 ずいぶんと長い時間が経ったような感じがした。
 だけど本当は、きっとほんの短い、何秒間かのことだったのだろう。
 森太郎は食い入るように見つめていた瞳をすがめると、一度大きく息を吸い、そしてゆっくりと顔を引いた。しばし幾度か深い呼吸を繰り返した後に、やがて顎を掴んでいた手から力を抜いて、そっと啓太を解放した。
 腕を離し、そのまま静かに一歩あとずさる。一言も発することなく、それでもまだじっと注ぐ眼差しには、もう突き刺すような熱はなかった。せつなくて、苦しげだった。
 啓太は彼から離れると、ゆっくりと後退し、後ろ手でドアを開けた。蒼ざめて立ち尽くす森太郎をその場に残して、黙って一人部屋を出た。
 震える手で閉めたドアは、もう後を追ってきて開くようなことはなかった。
 啓太は荒い息を抑え、急いでその場から離れた。歩いていると、今になって全身が固く緊張しているのが感じられた。
 いまだ心臓がトクトクと騒いでいる。脈打つたびに、胸のどこかを疼かせる。
 掴まれていた顎が、熱かった。鈍い痛みがいつまでも……、いつまでもそこに残って、消えなかった。




 ガチャンと激しい音がした。
 ガラスとガラスのぶつかり合う耳障りな音色。今にも何かが壊れてしまいそうな危うい響き。
「なんだってんだよ! まったくよぉ!」
 乱暴に置いたグラスの中の酒が跳ねて、ガラスのテーブルの上に飛び散った。啓太は憤然と小鼻を膨らませながら、口調も荒くわめきちらした。
「もう、わけわかんねえっ! 何考えてんだか、全然わかんねえよ、俺にはっ! ちくしょう、やってられっか、ばかやろう!」
 一人酔っ払って息巻く啓太の横で、彰人がチビチビとグラスを傾けていた。溜め息交じりで呆れたように見守りつつ、ヤレヤレといった迷惑そうな眼差しの中に、少なからずとも成り行きを面白がっているような雰囲気が感じられる。
 勝手に手酌で酒を注ぎ足す啓太に、唇を尖らせて呟いた。
「啓太ったら、そんなにガバガバ飲んじゃって。これ、いい酒なんだぜ。もっと味わって飲んでほしいよなぁ……。あ、もう一本空いたじゃないか。あーあ」
「んあ? なんだよ、もうカラなのか? んなんじゃ飲み足りねえよ。もっとねえの?  彰人、酒―っ!」
「ああ、はいはい。んっとに、やってらんないのはこっちだよ。まったくさぁ……」
 ブツブツ文句を言いつつも、新しいボトルを持ってきては惜しみなく開封する。もう何杯目かもわからぬほど空いた啓太のグラスになみなみと注いでは、ついでに自分のグラスにも上品に注ぎ入れた。
 啓太はすぐさまグラスをとると、危なっかしい手付きで目の前に捧げ持った。
「よしっ、乾杯だ乾杯。新しい酒に乾杯。それと気前のいい彰人にも乾杯っ。ハハッ、いいなあ、ここはよー。飲み放題でいくらでも酒があってさぁ」
「何が飲み放題だよ。もう、居候のくせに遠慮が無いんだから。明日も会社なんだろ? 知らないからね、俺は」
「だいっじょーぶ。俺、二日酔いしねえのが自慢なんだ。鉄の如きガチガチの肝臓だぜ」
「ガチガチの肝臓って、それじゃただの肝硬変じゃん」
「えー、ヘントーセン? んなものは酒でうがいだっ。ガラガラガラ……う、げほっ、うげげほっ、げほ」
「何やってんだよ、啓太ったら。ああもう、しょうがないなぁ。ほら、いいから飲んで飲んで。さっさと潰れなさいって、まったく」
 しばらくそんな風に二人で酒を組み交わしていたが、そのうち酔いが進んだのか、勢いよく騒いでいた啓太の声からだんだんと力が抜けていった。ぐったりとテーブルに突っ伏して、無言になる。彰人がそっと声をかけた。
「啓太。寝るならベッドに行けよ。そんなとこで寝ちゃっても、俺、運べないよ。非力なんだから」
 だが返事はない。しばらくの間沈黙していたかと思うと、やがて消え入りそうな声で話しかけてきた。
「なあ、彰人」
「んー?」
「……あいつ、さぁ。……皆川の奴、いったい何考えてんだろうなぁ?」
「ええ?」
 いきなり切り出された問いに、彰人はびっくりして目をむいた。啓太は顔を伏せたまま、まるで独り言のように話した。
「あいつ……なんであんなに俺のことかまうんだよ。ほっときゃいいのに。勝手にあのガキと楽しくやればいいんだ。俺のことなんて気にしないでさ。それを帰ってこい帰ってこいって……、わかんねえよ。あいつの考えてること、わかんねえ。教えてくれよ、彰人?」
「教えてって……」
 彰人は困ったように言い惑った。
「そんなの……俺が答えてもどうにもなんないじゃん」
 ブツブツと呟いて、ちらりと探るような眼差しを向ける。
「ほんとにわかんないの、啓太?」
「わかんねえよ……」
「ふうん、そっか」
 彰人は相槌を打つと、しばし何かを思い巡らし、逆に尋ねてきた。
「なあ、俺もひとつ聞きたいんだけどさ。――啓太、俺と森太郎が恋人同士だと思った時は殊勝に身を引こうだなんてしてたくせに、どうして相手が怜だと、そんなに気になるわけ? 何がそんなに腹立つのさ?」
「別に腹立ててなんか……」
 啓太は言い返し、だが途中で言葉を濁して黙り込んだ。長い間口をつぐみ、やがて力なく返答した。
「……わかんねえよ。どうしてかな? 俺、自分の気持ちもわかんねえ……・。もう、何もかも……わかん……ね……」
 先細って消えた声が、やがていつしか静かな寝息へと移り変わる。テーブルにうつ伏せて眠ってしまった啓太を見ながら、彰人は少しだけ哀れむように微笑した。
「やれやれ。初々しいこと。可愛いったらありゃしないね」
 まだ酒の残ったグラスを握ったままの彼の手から取りあげると、可笑しそうに呟いた。
「森太郎も大変だ。こんなに罪作りなノンケが相手でさ。だから、さっさと押し倒しちまえばいいのによ。グズグズしてっと、俺が頂いちゃうんだからね……って、冗談で口にしても殺されるな、ハハハハハ」
 しばらく啓太の寝顔と独り言を肴に飲みつづけていたが、そんなところに、夜も遅いというのに突然来訪者を告げるチャイムの音が部屋に響いた。彰人は焦る様子もなく、のんびりと腰をあげると、インターフォンに向かって応えた。
「はい、誰ぇ? こんな夜中に」
『……俺だ』
「……森太郎? どしたの、こんな時間に。まあ上がってこいよ」
『いや……俺はここで』
「いいから来いってば。俺、わざわざ下まで降りるのやだからね」
 彰人がそっけなく答えると、森太郎はインターフォンの向こうで仕方なさそうに嘆息し、渋々と了解した。幾分かの後、ドアチャイムが鳴り響いて到着を知らせる。彰人はグラスを持ったまま出迎えた。
「よ、いらっしゃい」
 開けたドアの向こうには、むっつりと難しい顔をした彼が立っていた。いかにも不機嫌そうな表情で、だがどことなく不安げな戸惑い溢れた雰囲気が感じられる。
「噂をすれば……ハハ。ほら、突っ立ってないで入れば」 
「いや、いい。すぐに帰る。風倉さんの荷物を持ってきただけだから」
 森太郎は彰人の薦めを拒んで、低い声で応えた。手に持っていた紙袋をひとつ差し出して、ぼそぼそと言い訳がましく呟く。
「しばらく、戻ってくる雰囲気なかったから……着たきりの背広じゃ困ると思って」
「ああ、それは助かるな。俺のスーツだと、サイズはあうんだけど、ちょっと派手でさ。会社に着てけねえって叫んでたもん。さすがに気がきくじゃん、森太郎。啓太の代わりに礼を言っとく。サンキュー」
「それじゃ、俺はこれで……」
 そそくさと帰りかける森太郎を引き止めて、彰人はニッコリと意味ありげに笑った。
「待てって。顔ぐらい見ていけよ。気になるんだろ?」
「別に俺は」
「大丈夫、啓太なら酔いつぶれて寝てるからさ。それに困ってたんだよ。リビングで寝ちゃってさ。俺の力じゃあいつベッドまで運べないもん。ほうっておくのまずいだろ?」
 彰人に上手く誘導されて、森太郎は躊躇いながらも、渋々といった様子で部屋に入った。豪華で広い部屋のテーブルに伏して寝ている啓太を見つけては、少しだけ表情を柔らかく緩めてみせた。
 彰人はそんな森太郎をちらりと横目で窺いながら、楽しそうに言った。
「んじゃ、俺はもう寝るからさ。彼の世話はよろしくな、森太郎。奥の客間が啓太用だから。ああ、なんなら担いで家まで連れ帰っちゃってもかまわないぜ。それとも、おまえが泊まって添い寝してく? ハハハッ、おやすみっ」
 言いたい放題でからかって、彰人はさっさと自分の寝室へと引っ込んでいってしまった。それでも、どうやら彼なりに気を遣った上での言動のようであった。
 残された森太郎はしばらく黙って突っ立っていたが、ひとつ嘆息し、寝ている啓太の傍へと寄っていってそっと声をかけた。
「……風倉さん。風邪を引きますよ。ほら、立って」
「んー……なんだよぉ、ふぁぁ」
 寝ぼけたまま朦朧として応える啓太を力づくで立ち上がらせると、肩に支え、抱くようにして寝室へと運んだ。
 ベッドに寝かしつけて、丁寧に夜具までかけてやる。啓太はほとんど寝ている状態で、誰に連れてこられたかなんて、まるでわかっていないようだった。
 うめくように意味不明の言葉を喋っていたかと思うと、やがて心地良さそうに本格的な寝息を立て始める。森太郎は眠る彼の横に腰掛けて、しばらくの間じっとその顔を見つめていた。
 手を伸ばし、ぐしゃぐしゃになった前髪を、そっと指で撫でつける。優しく触れながら、目をすがめて呟いた。
「風倉さん……。どうしたら、帰ってきてくれますか? 俺は、どうしたら貴方の信頼を取り戻せるんですか? 俺にはもう、わからない……。わからないんですよ、風倉さん」
 苦しそうに告白した彼の言葉を聞く者は、そこには誰もいなかった。ただスースーと軽い息の音が、静かに相槌を打つだけだった。
 遠くて、近くて、二人なのに独りっきりの、寂しい夜がふけていった。


 
                                      <続>

前の章へ
次の章へ

目次に戻る
感想のページ
皆様の感想をお待ちしております。
メールもしくはBBSの方へお気軽にお寄せくださいませ。