Dangerous night!ー同棲編ー

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   − ACT 3 −

 目が覚めた……。
 だけどまだ頭の中心がとろりとしていて、なんとなく夢心地。
 ロールカーテンの下から漏れ入る光は鮮やかに真っ白で、きっともう太陽は随分高く昇っているに違いない。
 それでも部屋は静かだった。
 時計の針だけが、規則正しくカチカチと響いていた。
 そして……
 時の鼓動の向こうから……微かに伝わってくる息づかい。
 柔らかく、心地良く、静かに繰り返される眠り姫の囁き。
 耳のすぐ傍から聞こえてくる、穏やかな誰かの寝息……。


 啓太は、ぼんやりと横を向いた。
 鼻先も触れそうなほどの目の前に、森太郎の顔があった。
 もうすっかり見慣れた彼の顔。それでも、こんなに無防備な表情は、そう何度も目にしたことはない。
 スヤスヤと眠ったままの閉じた瞳を、長い睫毛が飾っている。
 すらりと通った鼻筋、形良い唇、乱れた髪に覆い隠された額。
 あ、皆川だ……なんて、ようやくひとつの思考が脳裏の片隅に湧き上がってきた。だけど、それに応える神経も、いまだトロトロと寝惚けている。
 啓太は朦朧とした頭で、ぼうっと彼を見つめていた。
(あれ? なんで……こいつ、ここにいるんだ? んーと……あ、そっか。あいつ……彰人が、夕べ泊まっていったんだっけ……。それで、俺のベッドをあいつに貸して、俺が皆川のベッドで寝る羽目になって……ああ、結局昨日はこいつと一緒に寝たんだっけな、俺……)
 少しずつ記憶の断片が思い出されて、筋道だって繋がってゆく。それと共に徐々に目覚めていく思考回路の中で、啓太は不意に今の状況を理解すると、全身が熱く火照ってパアッと顔が赤くなった。
 間近の森太郎。
 寝る時はベッドの端と端で、背中を向け合って床についた。
 でも今は、すぐ傍に彼がいる。互いの息がかかるほどの、少しでも動けばどこかが触れ合ってしまうほどの、限りなく近い森太郎の存在……。
 啓太はドキドキしながら、すっかりそのまま固まった。
(ど、ど、どうしてこんなにくっついてやがんだ、こいつは……。むこう向いて寝ろってあんなに俺が言ったのに、皆川のバカ野郎。男なら寝てても約束ぐらい守りやがれ、あほっ!)
 耳たぶまで真紅に染めながら、心の中で不条理な文句を吐いた。
 それでも、何も知らずに気持ちよく眠り続ける彼を見ていたら、そんな怒りはすぐに消えていった。
(なんか……よく寝てやがんなぁ)
 普段は決して寝坊などしない森太郎だが、さすがに休日とあって気が緩んでいるのか、今目の前にいる彼は少しも起きる気配がなかった。安らかな寝息が本当に気持ち良さそうで、そんな寝顔を目にしては、とても怒って騒いで叩き起こそうなどとは思えない。
 啓太はなんだか気が抜けて、ホウッと小さく息をついた。少しでも身動きしたら目覚めさせてしまいそうで、何も出来ぬままじっと森太郎を見つめ続ける。
 眠っている彼はちょっと可愛い……なんて、いつだったかもそう思った気がした。
 そう、初めてここに泊まった朝だ。
 やっぱりこんな風に一緒に寝て、こんな風に自分が先に目を覚まして、隣に彼の姿を見つけて飛び上がるほど驚いたのだ。慌てふためいて、大騒ぎして、その後思いきりバカにされたっけ。
 もう随分昔のことのような感じがする。あれからいろんなことがあって、いろんなことが変わっていって、どうしてだかこんな今があって……。
 不思議な時の流れ、不思議な運命の悪戯。
(さて、俺はどうすりゃいいんだ、これから……)
 啓太はちょっと悩んだ。
 いつまでもこのまま寝顔を見つめているのは、非常に妙な気分である。かといって目を閉じて寝直すには、頭はすっかり冴えてしまっている。おまけに、そろそろ腹の虫も文句を言い出しそうな気配だ。やはりここは、起こさないようにそうっとベッドを離れるしかない。
 啓太は少しずつ少しずつ後ろに身をずらして、森太郎から距離を取った。息を詰め、万全の注意を払って、ゆっくりゆっくりと半身を起こしていく。そのまま背中から這うようにベッドを出て……
 その時、いきなりドアが派手な音を立てて開いた。
「おーいっ、いつまで寝てんだよ、二人とも。起きろ、森太郎! 腹減ったーっ!」
 ドテテテッ。
 突然の彰人の乱入に、啓太は虚を衝かれて思いっきりベッドから転げ落ちた。無様に床に転がっている啓太を見て、彼が呆れたような顔をした。
「何やってんの、啓太? いい歳して落ちんなよ」
「あ、あはははは」
 啓太はひきつった顔で笑い返した。
 ベッドの上では無理やり夢の世界から引きずり戻された森太郎が、むくりと半身を起こしては、いまだ寝惚けた顔にむずかしく眉をしかめ、ぼそぼそと不機嫌に呟いた。
「うるさい……、なんなんだ、朝から」
「森太郎。俺、腹減ったんだよー。ほら、早く起きて朝飯作ってってば。ねえ」
「……なんで俺がおまえに飯を作らなきゃいけないんだ」
「俺が勝手にキッチン触ると怒るじゃないかよ。ほらほら、さっさとしてくれよ。俺、今日も仕事なんだからさぁ。なあ、森太郎―っ」
 彰人は遠慮会釈なしに、ゆさゆさと腕を揺すって急きたてる。森太郎は諦めたように力なく頷いた。
「わかった、今起きるから揺するな……。まったくもう朝っぱらから……」
「何言ってんだ。とっくに朝は終わってるよ。もうすぐ11時。既に昼は目の前。寝坊し過ぎだって」
「……寝れなかったんだよ、夕べは」
 ぶつぶつと言い訳する森太郎に、彰人はニヤリと笑って言った。
「ほら、啓太も腹減ったってさ。ふふん、仲良く揃って寝坊しちゃって。いったい二人で遅くまで何やってたんだか? はははは」
 意味ありげな捨て台詞を吐いて、鼻歌混じりに寝室を出て行く。啓太は床に座り込んだままその後ろ姿を見送っていたが、ふとベッドに視線を戻すと、森太郎とばっちり目があった。
「あ……お、おはよ、皆川」
 我知らずポッと赤くなる頬を毛布で隠し、啓太は照れくさいのを誤魔化して朝の挨拶を口にした。森太郎は無表情な顔のまま、少しだけ呆れたような口調で応えた。
「おはようございます。……そんなところで何やってるんですか?」
「へ? ああ、えっと……お、落っこちた」
「……風倉さん。子供じゃないんだから」
 いっそう呆れた声で呟く。啓太は赤面して唇を尖らせた。
「わ、わかってるよ」
 先ほどまで一人森太郎の寝顔と奮闘していたなんて、とてもじゃないが言えやしない。
 そんな時、隣の部屋から待ちかねたような彰人の声が聞こえてきた。
「森太郎―っ、はーやーくー。飯―っ!」
 啓太は思わずぽつりと呟いた。
「一番ガキなのはあの男だ……」
 一瞬の間を置いて、森太郎がぷっと吹き出す。小さく肩を震わせながら頷いた。
「まったくだ」
 しばらく可笑しそうにくすくすと笑っていたが、やがてすっかり目が覚めたのか、爽やかな笑顔を向けて明るく言い放った。
「起きましょうか。待たせると、あいつ煩いし。風倉さんも腹減ったでしょう?」
「うん」
 啓太は応えながら、ふと不思議な気持ちになった。
 こんな笑い方をする森太郎を、自分は一体いつから自然と受け止められるようになったんだろう。一体いつから……こいつは、こんな笑顔を見せてくれるようになったのか。
 いつまで、こんな朝は続くんだろう……。
 その答えは、しびれを切らして再びやってきた彰人の大騒ぎで、うやむやになって胸の奥に沈んでしまった。




 食事の支度は、やっぱり森太郎が一人でこなした。
 朝昼兼用のブランチを三人分、てきぱきと手際よく作りあげる。啓太はテーブルの用意をしたり、彰人リクエストのカフェ・オ・レ用ミルクを温めたりと、簡単なことだけ手伝った。彰人はただテーブルの前に座って見ていただけで、時々わがままを口にしては、森太郎に怖い顔で睨まれていた。
 いつもと違う三人の朝。だけど、こんなのも悪くはない。
 昨夜までは妙にアンバランスに感じた三角形も、今はそんな違和感は全然なかった。にぎやかで、愉快で、楽しい。少なくとも、誰かが余計だとか邪魔者だとか、そんな懸念はまるでない。
 窓の外、清々しく晴れ上がった空は青く、風は冷たそうだけれど良い天気である。思わずこの週末は何をして遊ぼうか……なんてことを、呑気に頭の中で思ってしまう。
 そんな穏やかな土曜日。
 トースターのパンが焼けて、ようやく食事を始めようか……と思った矢先に、ドアの方から来訪者を告げるチャイムが鳴り響いた。
 森太郎がコーヒーを注いでいる手を止め、いぶかしげに眉をひそめる。
「あ、いいよ、俺出るから」
 啓太は彼に代わって、玄関へと向かっていった。
 せっかちに二度三度と繰り返すチャイムにはいはいと応えながら、鍵を外して銀色のノブに手をかけた。
「はい、どちらさま……」
 そう言いながらドアを開けた瞬間、いきなり扉の向こうから華やかな声と顔が、飛びつくように踊り出てきた。
「シン!」
「うわっ」
 抱きつかんがばかりに見知らぬ人物が突然迫ってきて、啓太はビックリしてあとずさった。
 目を真ん丸くして前を見ると、そこにもまた驚いた様子の、初めて目にする顔があった。大きな瞳をいっそう大きく見開いて、食い入るように啓太を凝視している。
 ずいぶんと若い……どう見ても10代半ばの、まだ子供だ。だがハッとするほど端正な顔立ちをした少年であった。子猫みたいにつりあがったキツイ目が印象的で、赤くポッチャリして幼げな唇と好対照を成している。薄茶色に染めたサラサラの髪が流れるように輪郭を覆い隠し、ほっそりとした顔立ちをいっそう華奢に飾っていた。
 一目見たら忘れられないような綺麗な子。
 その整った顔がいぶかしげに歪められて、唇が不満そうにとんがった。
「……誰、あんた?」
 少年は礼儀も畏敬も何もない不躾な口調で、吐き捨てるように言い放った。啓太は思わず面食らって、口をぽかんと開いたまま言葉をなくした。
(だ、誰って……そりゃこっちのセリフだろうが……。誰だ、こいつ?)
 無礼な客を迎える機会を逸して、無言のまま見つめ返す。珍しく愛想笑いのひとつも浮かばない。少年は黙ったままの啓太に苛立つように、いっそう険のある声で言った。
「あんた、なんだよ? ここ、森太郎のうちだろ? 何者?」
「な、何者って……、俺はただの……」
 ただの居候……とは、口にしたくなかった。見知らぬ人間、しかもこんな失礼な子供相手にちゃんと説明するような謂れはない。それに、妙に馴れ馴れしく森太郎の名を口にするのも気に障った。まるで自分のもののようなその言い方、その言葉の含み。
 少年はさらに強気な態度で、当然のような顔をして命令した。
「ねえ、森太郎いないの? いるんでしょ? なら呼んでよ。ボケッとしてないでさ」
「ボ……! ボケって、おい! なんで俺が……」
 さすがにムカッときて反論しかけたところに、言い合いを耳にしたのか、森太郎が不審そうな様子で奥から現れた。
「どうしたんですか、風倉さん? 来客は誰でした?」
 その途端、彼を目にした少年はそれまでの仏頂面をがらりと一転させ、満面に嬉しそうな笑みを弾けさせた。輝くような白い歯を見せ、まるで置物のひとつでも押し退けるように啓太の体を手荒く押しやっては、全身で森太郎に向かって飛び込んでいった。
「シン!」
 白い手を回し、ぎゅっと強く彼の胸に抱きつく。
 いきなりの出来事に森太郎もさすがに驚いた顔をしたが、それは自分の胸の中の少年を改めて見直した時に別の驚愕へと変化した。
 森太郎は呆然とした様子で呟いた。
「……怜(れい)? 怜か?」
「シン、会いたかった! 俺、帰ってきたんだ! もうすっげえ会いたかった!」
「か、帰ってきたって……おまえ……」
「ずっとずーっとシンのことばかり考えてた。俺、もう向こうには行かない! こっちにいる! ずっとシンの傍にいるんだから!」
「おい……いったい何を、急に……」
 森太郎は当惑した様子で困ったように少年を見つめた。何がなんだかわからないといった表情である。
 だけどそんな中にも、見つめる瞳には確かに少年に対する特別な感情が存在していた。二人がただの関係ではないことを感じさせる。
 森太郎は横で呆然としている啓太にふと視線を移し、目が会うといっそう困惑し、動揺の表情を浮かべた。何かを言いたそうに口を開き、だが何も言わずに啓太を見返す。
 啓太もまたかける言葉が見つからなくて、ただ黙って見つめているしかなかった。
 いきなり現れたこの少年と、その思いもがけない展開に驚いていた。そして、彼の暴挙を許して胸に受け入れる森太郎に……。
 そんなところに、騒ぎを聞きつけてやってきた彰人が、後ろから覗き込んで場にそぐわない呑気な声をあげた。
「あれぇ、怜じゃん。なに、おまえ日本に帰ってきてたの? 向こうの大学行ってるんじゃなかったのかよ?」
 その声に、森太郎に抱きついていた少年はようやく顔を上げて、彰人を見つけて応えた。
「彰人。あんたもいたの? こんな時間に、こんなとこで何やってるのさ」
「なにって、これから飯食うところだったんだけど」
「飯? なんだよ、またシンにたかってんの? 相変わらずだなぁ」
 状況も関係なく緊張感のない会話を交わす二人に、ようやく森太郎は我を取り戻したのか、少し落ち着きを取り戻した様子で、少年の肩を抱いて部屋の外へと誘った。顔つきだけはいつものクールな表情に戻って、啓太に向けてぼそりと告げた。
「飯、先に食っててください。二人で」
 それだけ言うと、まるで彼らの目から逃れるように少年と二人で扉の向こうに出ていった。
 取り残された啓太は唖然として見守っていたが、彰人に促されて仕方なく食卓へと戻った。
 言われたままに二人で食事を始めたものの、気持ちは全部森太郎とあの少年のところに向かっていた。フワフワのオムレツはそれは美味しそうな湯気を立てていたけれど、口に入れてもなんの味もしなかった。コーヒーはただ苦いだけの液体で、冷めてしまったトーストはぼそぼそと喉を通らない。
 すっかり色を失ってしまった食卓……。
 一言も喋らず黙々と食べていたら、しばらくして森太郎が戻ってきた。だがそのまま寝室へ入っていったかと思うと、数分後には外出着に着替えて出てきて、冷ややかな顔をして言った。
「すみませんが、俺、ちょっと出てきます」
「あ……うん」
 森太郎はそれから彰人に視線を移すと、ちょっとだけ眉をひそめてにらみつけた。彰人は苦笑いを返して応えた。
「ああ、わかってるわかってる。食べたらすぐ帰るって。じゃあな、怜によろしく」
 そして森太郎は再び出て行った。
 ドアの閉まる重たい音と、そして少年が楽しそうにはしゃぐ声がほんの微かに聞こえてきて、やがてそれも消えていった。
 啓太はしばらく無言のまま食事を続けていたが、そのうちぼそりと呟いた。
「あ、あの……彰人?」
「んん?」
 彰人は相変わらずのノホホンと返事をした。啓太は目を伏せ、食器をじっと見つめながら、ぼそぼそと低く喋った。
「あの、あのさ……。さっきの……アレ、知ってんの?」
「アレ? ああ、怜? うん、知り合い」
「知り合いって、どんな?」
 彰人はちょっと答えをためらった後、意味ありげな笑みを唇に浮かべた。
「それって、どっちのこと聞いてんの? 俺との関係? それとも森太郎と?」
「そ、それは……」
 啓太が顔を赤く染めて言葉を濁らせると、彰人はくすりと小さく笑って答えた。
「怜は森太郎の、昔の恋人」
(恋人……)
 半分は予想していた答えなのに、耳にすると胸がキュッとつまった。すぐに彰人が説明を加える。
「というよりは、どっちかってーとセクフレってやつかな。まあ、怜の方は森太郎にベタ惚れだったけどね」
「セクフレ?」
 あまり使い慣れない言葉に一瞬悩んで考えたが、すぐに理解して、声を荒げて叫んだ。
「セクフレって……! あいつ、まだ子供じゃねえか! あんなガキにかよ!」
「子供ったって、この春には高校卒業したんだから、17か18だろ? おかしかねーじゃん。それに、こっちの世界じゃ高校生なんて当たり前みたいなもんなの。俺なんて中学生デビューだったもんね」
「…………」
 啓太は思わず黙り込んだ。
 さっきの少年……見た目がわりと幼げだったので、もっと年下なのかと思っていたが、一応高校を出るくらいの歳ではあったようだ。
 いや……年齢が問題なんかじゃない。
 問題は、やっぱりあの二人が普通の友人関係ではなかったということで……。
(昔の、恋人……か。ふーん……)
 頭の中でその言葉を反芻する。
 そりゃあ、あの森太郎である。きっとすごくもてるんだろうし、過去に何人恋人がいたって全然不思議な話ではない。今だって、もしかしたらそんな交友関係の一つや二つは、口には出さないだけで本当はあるのかもしれない。
 だけど、実際にまざまざと目の前で見せ付けられた光景は、思った以上にショックだった。胸の奥がさっきからもやもやする。黒い雲が一杯に広がって、重くって苦しい。訳もわからずにイライラする。
 彰人は、そんな啓太の気持ちを知ってか知らずか、飄々と話を続けた。
「それでも、森太郎も他のやつらよりは結構気にいってたかもなぁ、あいつのこと。怜ってなんか複雑な家庭のお子様らしくってさ、けっこう泣き言聞いてやったり相談にのってやったりしてたみたいだし。あの森太郎がだぜ? 俺の愚痴なんていーっつも一笑に付して、聞く耳なんざこれっぽっちも持っちゃいないってのにさ、はははは」
 談笑する彰人を前にしても、啓太は笑えなかった。
 そう、彼が森太郎の特別なのだということは、なんとなく感じていた。少年を見る森太郎の瞳が、他の者に向けるそれとは違っていたから。かける言葉の重みも、肩に置いた手も、何もかもが違って見えた……。
 啓太の知らない森太郎があの時あそこに存在していた。
(バカ、あいつのプライベートじゃねえか。何気にしてるんだよ、俺は!)
そんなのは当たり前のことなのに、何故か苦しくて、悔しくて、胸が痛い。怒りすら感じてしまう。
 自らの思いを否定するように、啓太はぷるんと頭を振った。それでも、訳のわからない苛立ちは脳裏から消えなかった。
 結局、森太郎はそのままずっと戻らなかった。
 彰人は食事を終えるとすぐに仕事へと出かけていってしまい、残された啓太は一人で後片付けをした。その後一人で部屋の掃除をし、たまっていた洗濯をし、それから……ずっと一人っきりで部屋にいた。
 するべきことは全部済んでしまって、だけど遊びに出かける気にも全然ならない。なんとなくテレビをつけて、ぼうっとくだらない番組を眺めてすごす。
 天気のいい週末。だけど頭と心はどんよりと曇っている。どうしてだかはわからないけど……。
 夕方も遅くなった頃、ようやく森太郎は帰ってきた。
 感情の見えない顔と声で、冷ややかに一言口にした。
「遅くなってすみません」
 それだけ言って謝罪すると、すぐに夕食の準備を始める。まるで、その為だけにわざわざ戻ってきたとでもいうように。
 いつものように二人で取る夕食は、だけどいつものような温かい会話は少しもなかった。森太郎は何も話さなかったし、啓太もまた一言も喋らなかった。言いたいことが一杯胸に溜まっている気がしたのに、何一つ言葉にはならなかった。
 森太郎の作った食事はいつものように美味しかったけれど、でも本当に欲しかったのはこんなんじゃなくて……。
 だけどそんな思いの先は、啓太にはわからなかった。




 週末はあっという間に過ぎ去って、また一週間が始まった。
 重苦しくてつまらない休日の後には、これから続く数日間が一抹の救いのようでもあり、いっそうの苦痛でもあり……。
 少なくとも、さあ頑張るぞ……なんて前向きな気持ちには、とてもじゃないがなれやしない。
 啓太は、昨日の日曜日はパチンコで時間を潰した。他にやる事なんてなんにもなかったからだ。部屋で一人ゴロゴロしているのはとてつもなく気が滅入る。何かをしてなきゃ余計なことまで考えすぎて、いっそう気分は最悪になる。
 朝起きたら森太郎はもうとうに出かけていて、昨日と同じく一日帰ってこなかった。テーブルに置かれた外出を知らせるメモだけが、啓太へ向けた一言だけの挨拶だった。
 顔を合わせたのは彼が夜遅く戻って、それを迎えたほんの少しの間だけ。お帰りとお休みくらいしかろくな言葉を交わしていない一日。
 今朝も向かい合って朝食をとりながら、二人は相変わらず無言だった。
 それでも啓太はずっと頭の中で考えていた。あの少年のことを森太郎に問いただしたいと。
 昨日も会ってたのか……とか、どういう関係なんだ……とか、そんなことを聞きたいわけじゃなかった。
 いや、正直なところ、それだって物凄く気にはなるのだけれど、でもそれは森太郎のプライベートであって、自分があれこれ口を出すようなことじゃない。
 だがこれだけは絶対確かめなきゃいけないと思うことがあるのだ。
 それは……今度こそ、自分は本当に邪魔者なのではないかということ。
 彰人の時はとんだ勘違いをしてバカを晒したが、それでも結局は笑い事ですべて丸く収まった。だけど今回はそうはいかない気がする。
 自分がここにいることで森太郎とあの少年の迷惑になるのなら、とてつもなく目障りな存在なのだとしたら……。
 だが、それはそう考えるだけで、何故だか胸が痛くなった。心の半分では、そんな答えは知りたくないと思っていた。できるならこのまま何も知らないで、今まで通りの時間を過ごして、いつものような毎日を迎えて……。
(いや……そうじゃない。ちゃんとはっきりさせなきゃだめなんだ。それでなくたって俺は皆川に迷惑かけてばかりなんだし、これ以上あいつの好意にでかい顔して胡座かいてるわけにはいかないだろ? だいたい、こんなモヤモヤした気分でこれまで通りなんてやっていけねえ! はっきりさせろ、男なら!)
 自分自身にハッパをかけて、啓太はともすれば逃げたままになりそうな心を奮い立たせた。
 しかし人生とは皮肉なもので、そう決意したはいいものの、今度は超がつくほど仕事が忙しくなって、なかなかゆっくりと会話を持てる時間が取れなくなってしまった。
 出張だの残業だのが連続して、二人まともに顔を合わせる時間などほとんどなかった。
 向かい合っていられるのは朝食タイムぐらいだったが、さすがに朝っぱらから持ち出すような話題には思えなく、かといって電話やメールで済ませられる問題でもない。
 そんなわけで、啓太はなかなか話を切り出すチャンスを持てないでいた。
 苛々した日々が続いていたある時、啓太は一泊予定の出張に出かけていて、突然スケジュールの変更を余儀なくされた。
 訪問先の都合で、二日間にかけて行う筈だった会議を急遽一日に詰め込んでしまったため、思いもがけず翌日分の時間がすっぽりと空いたのである。もちろん、仕事の終わった時間は結構遅かったし、すでに宿も取ってあるので、このまま一泊してから明日帰社しても全然かまわないだろう。
 だが、啓太はふと思い立った。
(どうしよう。帰ろうかな……)
 帰宅は少し遅くなるだろうが、無理をすれば帰れない時間じゃない。森太郎には泊まりだとメールは送ってある。だが、なんとなく今は少しでも家にいる時間を持ちたかった。たとえ会話を持つほどの余裕はないとしても。
(よし、帰ろう。着いた頃にはあいつは寝てるかもしれないけど、それでもいいや)
 啓太は携帯を取り出し、だがまたしまいこんだ。森太郎のことだ。帰宅を知らせれば、無理をしてでも起きて待っているに違いない。最近の彼も自分と負けず劣らず忙しいのは知っているし、余計な負担はかけたくなかった。
 そうと決めてしまえばなんだか急にワクワクして、啓太は急いで駅へと向かい、電車に飛び乗った。
 そっと帰って、明日の朝おはようと声をかけたら、きっと森太郎は飛び上がって驚くに違いない。最近ずっと無表情なクールフェイスしか見ていなかったから、目を丸くする彼の顔を想像するのは楽しかった。
 啓太は一人勝手に思い浮かべては、電車の中でニタニタと笑みを浮かべていた。
 結局、森太郎のマンションに帰り着いたのは、もう日付も変わった真夜中の時刻だった。
 まだ起きているかな……と思いつつも、もし床についていたらチャイムで起こすのも悪いので、啓太は合鍵でそっと中に入った。
 部屋は、まだ明るかった。
 奥からテレビの声が聞こえてくる。どうやらまだ寝てはいなかったらしい。
 啓太はそれでも突然の帰宅で驚かそうと、静かにドアを閉め、なるべく音を立てずに中に入ろうとした。
 人の……声がした。
 鼻にかかった、甘えるような囁き声。それに応える、低い響き。
 テレビの中の会話なんかじゃない、間近から聞こえてくる生身の者たちの話し声。
 啓太は思わず玄関口で足を止めた。
「……泊めてよ……ねぇ。夜遅いと……外寒いし……んっ」
「だめだ。ちゃんと送っていくから」
「だって……した後って、眠くなるし……」
「寝たら抱えていってやる」
「もう……シンのバカ……あん」
 会話の途中に混じる熱い息づかい。甘く淫らな喘ぎ声。
 啓太は、それ以上先に進むのが怖かった。その先にあるものを見るのが怖かった。
 だが、体は意思に反して、ゆっくりと中へと進んでいった。
 リビングの、テレビの前の床の上で、彼らは重なり合っていた。
 少年の華奢な肢体の上に、森太郎の大きな背中が覆い被さり、優しく押さえつけている。
 薄いシャツはすでにはだけて、少年の真っ白な胸が露わに曝け出され、眩しいほど目に飛び込んできた。
 そして……そこに顔を寄せ、唇を這わせている森太郎。いつもとは全然違う顔で、啓太が一度も目にしたことがない男の表情で、柔らかく愛撫をくわえている。
 それを受けて、目を閉じた少年の綺麗な顔が心地良さげに歪んでいた。
 そんな光景を、啓太はリビングの入口に突っ立ったまま、言葉もなく見つめていた。
 頭の中が真っ白で、なんだか何も考えられず、何も反応できなかった。ただバカみたいに呆然と立ち尽くしているだけだった。
 だが森太郎の方はすぐに人の気配を感じ取ったのか、顔を上げ、啓太の姿を見つけてギョッとしたように目を剥いた。
 一瞬、声もなく硬直する。
 先ほどまで少年の胸に触れていた唇が、ゆっくりと蠢いて呟いた。
「……風倉さん」
 その声に、啓太はハッと我に帰って、くるりと踵を返し急いで部屋を後にした。外に飛び出し、エレベーターを待つ余裕もなく、非常階段を使って急ぎ足で下へと降りた。
 二、三階降りたところで、上から声がした。
「風倉さん!」
 森太郎の声だった。慌てて後を追ってきた彼は、啓太の元まで転がり落ちるように駆け下りてくると、後ろも見ないで進んでいく啓太の手を取って引き止めた。
「風倉さん! 待ってください!」
 啓太は手荒くその手を振り払った。
「離せよ」
 蒼ざめた顔と震える声で、睨みつけるように視線を向けて、低く言った。
「悪かったな、いきなり帰ってきて。もう邪魔しないから、戻れよ」
 いつになく凄みのある声で呟く啓太に、森太郎はさすがに臆したのか一瞬言葉をなくしたが、また一人で歩き出す彼を見て焦って引き止めた。
「ま、待ってください」
 肩を掴んで、必死の形相で追いすがった。
「すみません。まさか突然帰ってこられるとは思わなくて……。いや……そうじゃない。あんな……家であんな行為をするなんて……申し訳ありませんでした。すみません、軽率でした」
 珍しく動揺も露わに言い訳と謝罪を繰り返す森太郎を、啓太はじっと見つめ、そしてぼそりと言った。
「なんで……謝んだよ」
「え?」
「謝るなよ! あそこはおまえのうちだろ! おまえが誰を連れ込んで誰と何をしようと全然勝手だろうが! 俺に言い訳なんかするな。おまえのうちだ、好きにすればいい!」
 そう叫んで、啓太は森太郎の手を払って歩き出した。森太郎が咄嗟に手を伸ばして肩に触れた。
「風倉さんっ」
「触るなって言ってんだろ!」
 パシリと高い音がして、伸ばしかけた森太郎の手が宙に浮いた。
 叩かれ拒絶されて、行き場を失い、固まったように止まっている。
 啓太は茫然として立ち尽くす彼に、一言冷たく言い放った。
「もう俺にかまうな」
 背中を向けて、どんどんと階段を下りていった。
 もう、森太郎は後を追ってこなかった。だけどその視線だけが、いつまでもいつまでも啓太の背中に残っていた。
 夜の闇の中に消えていった啓太の背中に、いつまでも哀しげに、せつなげに……。
 

 
                                      <続>
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