Dangerous night!ー同棲編ー |
− ACT 2 − |
啓太はたいそう悩んでいた。 ランチのカツ丼を食べる手を止め、空の箸を唇に咥えたまま、うーんと唸って難しい顔で考え込む。我知らず独り言が口からこぼれた。 「……俺はいったい、どうすりゃいいんだ?」 深いため息。そしてまた唸り声。 隣に座っている同僚がおかしな顔をして見つめていた。だがそんな視線にも気づかず、啓太は顔をしかめてひたすら一人苦悶していた。 あと数時間後にやってくる、今宵……金曜の夜のせいで。 ことの発端は、今朝の食事の時の会話であった。 その時も、啓太はちょっぴり悩んでいた。 ほんのニ・三日前までは、また金曜の夜は森太郎と一緒にホラー・ビデオ・ナイトかな……なんてお気楽に考えていたのだが、そう上手くはいかなくなった。 なんたって先日の彼の行動で気づいてしまったのだ。自分がここしばらく、いかに森太郎を拘束していたのかを。 ここに転がり込んでくると決まったあの日から、週末は、いや普段の日だって、森太郎はなんだかんだとかかりっきりで世話を焼いてくれた。 わざわざ部屋を模様替えしてくれただけではなく、食事の用意から身の回りの雑事まで、日々の暮らしのほとんどを一人で担っていると言っても過言ではない。 それは新しい生活に慣れない相手への心遣いなのだろうが、その分彼にとってはさぞかし大変な毎日だったことだろう。自分のやりたいことも制限しての窮屈な日々だったに違いない。 例えば、恋人とのデートもぐっと我慢するような……。 (やっぱりそれって、まずいよなぁ……) 啓太は深く反省していた。 森太郎はあの通りのクールな男で、苦労をしてるなんてこれっぽっちも顔に出さないやつだからから、全然気づいちゃいなかった。むしろ毎日機嫌が良くて、夕食の支度なんて嬉々としてやってる感じで、だからついつい甘えてしまった。 だが、考えてみれば自分が来たというだけで、それまでの彼の自由な暮らしを全てぶち壊してしまったわけだ。大変でないはずがない。 (やっぱ甘えすぎてたんだよな、俺。そんな気はなかったんだけど……) この間、森太郎は彰人と会ってきた。 週の真ん中、残業後の遅い時刻に、わざわざ呼び出して二人で一緒に酒を飲んできた。 彼はなんでもないことのように話してはいたけれど、それって多分、久々のデートってやつだったのに違いない。逢う機会がなかなか持てなかったから、ほんの少しでもと無理をして時間を作ったのではないだろうか。 そんな要らぬ苦労をかけさせてしまった原因はただひとつ。 ――何もかも俺のせいだ 啓太はそう理解した。 自分が図らずも森太郎を独占してしまったから、二人はデートもろくにできなかった。朝から晩まで面倒をかけっぱなしで、彼の自由を奪っていた。彼を縛り付けていた。 最近なんてちょっと外食という時さえ、彼と一緒がほとんどだったではないか。 こんなにたくさんの時間を共有する気なんて、毛頭なかったのだけど……。 (先週の金曜日……本当は森太郎のやつ、あいつと逢うつもりだったのかもしれないな。……そうだよな、せっかくの休日前の夜だもん。恋人同士ならデートぐらいするぜ、普通。でもって、そのまま朝まで一緒に過ごしたりさ。…………二人で朝まで……って、つまり一晩中……ムニャムニャと……) 想像が頭の中で変な方向に発展し、啓太はポッと赤面した。慌てて飛躍し過ぎた想像を振り払う。 (違う、違―うっ。今はそっちが問題じゃないだろっ! 要はつまり、俺が奴らの仲を邪魔してたってことが重要なんだ!) そうなのだ。ただ面倒をかけていただけではなくて、二人の関係にまで迷惑な存在だったのなら、そんなの絶対自分を許せない。彼の負担になるのは何よりも心苦しい。 だから、今週はもうつき合わなくってもいいからと、いや、これからずっと自分のために何もしてくれなくていいんだと、今朝こそ森太郎にはっきり言うつもりだった。彼の作ってくれた朝食を向かい合って食べながら。 啓太は目玉焼きの黄身をぐちゃぐちゃと箸で掻き混ぜながら、切り出す機会を窺っていた。別に話しづらい内容でもない筈なのだが、今日に限って二人の間に会話はなく、空気が妙に緊張している。なんとなく声をかけにくい雰囲気だ。 時間ばかりがいたずらに過ぎる中、啓太は意を決してぼそりと呟いた。 「あ、あのさ……」 「あのっ!」 すると、今まで黙々とパンを齧っていた森太郎が、いきなり大きな声を発した。まるで啓太の話を遮るように、絶妙なるタイミングである。二人の声と言葉が重なってシンクロした。 驚いて思わず口をつぐんだ啓太を、森太郎は申し訳なさそうに見つめて言った。 「あ、す、すみません。話を止めてしまって」 「え……いや、別に……えっと、なんだ?」 啓太が先を譲ると、珍しく森太郎が自分の方から話し始めた。バカ丁寧なほど礼儀を重んじる彼は、いつもなら絶対年上優先、啓太を後回しにすることなどなかったのに。 「あの……今日の夜のことなんですが」 森太郎は少し言いにくそうに口を開いた。しかも、啓太がまさに言わんとしていた話である。啓太はここぞとばかりに勢い込んで口を挟んだ。 「あ。あのっ、それさぁ」 しかし、森太郎は彼を無視してどんどん勝手に話を進めていった。 「実は、こんなことお願いするのはとても心苦しいんですが、俺、ひとつ風倉さんに頼みたいことがあるんです。今夜のビデオ鑑賞の件で」 「あ、だから」 「本当に迷惑なことだとは思うんですが、もし嫌なら断っていただいても全然かまいませんので、すみませんが聞くだけ聞いてください」 まるで絶対先には喋らせないぞとでもいった雰囲気である。その口調にすっかり気迫負けして、啓太は思わず口をつぐんで頷いた。 森太郎はそんな啓太から微妙に視線を逸らしつつ話した。 「実は先日、彰人のやつに先週のホラービデオの話をしたんですが、そしたらあいつ、俺もぜひ見たいとかわがままを言い出しまして。それで、本当に申し訳ないんですが、その……今夜のビデオ鑑賞にあいつも呼んでやっていいですか? いや、賑やかで鬱陶しいやつなんですけど、どうしてもってうるさくて。どうでしょうか? あいつも一緒でもかまいませんか? もちろん、迷惑は俺が一切かけさせませんから」 「……は、はあ」 啓太は予想もしていなかったことを提案され、呆然と呟いた。目を丸くしたまま、じっと森太郎の顔を凝視する。 いったい何を言い出すのかと思ったら、まさかここで彼の口から彰人の名前が出てくるとは。思ってもいなかった。しかも、この真剣な顔、真剣な瞳。頼み事と言うよりは、半分脅しているような迫力まで漂ってくる。 しばし無言のまま見つめていたら、森太郎が心配そうに尋ねてきた。 「やっぱり、いやですか? 余計なやつが一緒なのは。無理にとはいいませんが」 その声にハッとして、啓太はこくんと唾を飲んだ。すぐに元気に答えを返す。 「お、俺は全然かまわねえぞ。彰人ってこの間のやつだろ? いいぜ、誰でも呼びたいやつ呼べよ」 「本当に、かまいませんか?」 「おお。平気だって。あーゆーのはさ、ほら、大勢でわあわあ言いながら見るのも楽しいじゃないか。だから大歓迎だぜ、うん」 啓太が殊更明るい口調でそう応えると、森太郎はホッとしたような表情を見せた。 「すみません、無理を言ってしまって。じゃ、あいつにそう連絡しておきます」 「うん。あ、えーと、飯とかどうすればいいんだ? おまえ、あいつと食べてくるのか?」 「いえ、彰人は仕事が終わるのが遅いんで、勝手にこっちにこさせます。残業が入らないようなら、また俺作りますけど、何がいいですか?」 「え? んーと、なんでもいいや。簡単なもんで」 「どうせあまり手の込んだものは作れませんよ。時間かかると、風倉さん遅いって文句言うし」 「おいっ、人をガキみたいに。言わねえよ、文句なんか」 啓太がぷっと膨れて言い返すと、森太郎は楽しそうにニヤニヤと笑った。その顔はいつものちょっと嫌味な森太郎だった。 啓太はムッとしながらも、同時に不思議な安堵感を覚えた。おかしな気分。どうして彼にからかわれて、ホッとしているんだろう。そんな己の心情が照れくさくって、自分を見つめる瞳から顔をそむけた。 「じゃ、お、俺、帰りにまたビデオ屋寄ってくるからさ」 「はい。それじゃ適当に何か作っておきます。ああ、何を作っても好き嫌いはいわないでくださいね」 「だからっ! ガキじゃないんだからさ。言うかよっ。だいたい俺は嫌いなものなんかないんだよ。大人なんだからなっ」 むきになってわめく啓太を前に、森太郎は軽く笑った。その笑顔がとても優しく感じたのは、どうしてなんだろう……なんてふと思った。とてもとても不思議な気分だった。 話が決まったはいいものの、おかげで啓太は更に深く悩む結果となってしまった。 彰人がやってくる。その意味を考えれば考えるほど、大事な真実が含まれているような気がしてならないのだ。 (あれって、つまり……あいつなりの折衷案ってやつなのかな? あの男とも会って、俺にも気を遣ってっていう……) 啓太はうーんと唸った。 どうやら森太郎もいろいろと道を模索したらしい。恋人とデートしたいのは山々だが、啓太を一人放っておくのは気がひける。しかし体は当然一つだから、その両方の要求を一度に満たせる方法となると……。 で、それがあの、彰人を家へ呼ぶという手段だったのか。 かなり直接的で呆れるほど単純な方法だったが、それはきっと彼なりに随分心を配った上での結論なのに違いない。別にビデオを見る約束くらい断ったってかまわないのに、律儀に義理立てするところがいかにも森太郎らしい。 だけど啓太は複雑だった。 自分と森太郎と、そして彰人の三人が揃って、同じ空間で時をすごす。 それを考えると、なんだか体の芯がムズムズした。 別に、彰人が嫌いだとか一緒がいやだとかいうわけでは決してない。確かに賑やかでわけのわからない男だったが、不快な感じは全然しなかった。陽気で、面白そうで、酒でも酌み交わせば楽しく騒げ合いそうなタイプである。 もともと人見知りはしない啓太だから、知らない相手とだってすぐに打ち解けられる自信もあった。 問題なのは、果たして自分がそこにいていいのか、ということだった。 恋人同士と、ただの同居人。どう考えても一人余計なのは明らかだ。 なんとも収まりの悪いバランス、つり合わない三角形。要らないおまけは邪魔者以外の何ものでもない。 いくら彰人が望んだことだと言っても、本当なら森太郎と二人っきりの方がいいに決まってる。そんな彼らの中に自分が割り込んで存在しているなんて、居心地悪いことこの上ない。 (ここはやはり……俺が身を引くべきだよな。……うん、絶対そうだ。俺がなんとかしなきゃだめな んだ。なんたって、ただの居候なんだから……) 啓太が状況を変えない限り、森太郎が動くことはないだろう。彼の性格はわかっている。だからこそ、その気遣いと優しさがかえって負担に感じる時もある。 いっそ、自分なんか放り出して、何処へでも遊びに行ってしまえばいいのに……。 そう思って、だけどなんだかチクンと胸が疼いた。見えない何処かに小さな刺が刺さってるような、そんな気分。なんとなくもやもやする。 (だああっ! ともかく! 俺はあいつらの邪魔はしねえぞ!) 啓太は握りこぶしにぐっと力を込めた。何か手立てを考えなくては。 そんな訳で、午後の仕事の間中、啓太はずっとその対策に頭を悩ませる羽目になった。 時々、どうしてたかだかホラービデオを見るくらいで、こんなに悩まなければいけないのだろう……なんて思いが沸き起こりもしたけれど、この際そんな疑問は胸に奥にしまっておくことにした。 仕事と悩み事の両方で費やした午後の時間は、あっという間に過ぎ去っていった。 その日、啓太はほぼ定時に仕事を終えると、先週と同じように帰宅途中にビデオレンタルの店によって、何本かの映画を借りて帰った。家に戻るとすでに森太郎は食事の支度を終えていて、二人向かい合って夕食を済ませた。 いつもと同じ、森太郎と過ごす夜の時間。すっかり慣れた生活、すっかり慣れた二人の関係。 そんな中にいつもと違う異分子が訪れたのは、夜もふけて10時も過ぎた頃であった。 彰人は相変わらずの明るい笑顔を振りまいて、賑やかにやってきた。 「やー、遅くなって悪い悪い。もうラストオーダーギリギリに客入っちゃっててさー。しかもパーマとカラーリング両方やれなんて言うし、まいったまいった。売れっ子美容師は辛いぜ、まったく」 やけに楽しげに愚痴をまくしたてながら、彰人はいかにも来慣れている場所といった感じで勝手に奥へと上がりこんでくると、小脇に抱えていた瓶を差し出した。 「はい、差し入れの酒」 ポンと手渡された啓太は、その瓶のラベルを見て驚いた。銘柄なんてろくに知らない啓太ですら聞いたことのあるような、有名な名前が記されていたのだ。 「わっ、ここ、これってすげぇ高いんじゃ?」 「おお。そんじょそこらじゃ手に入らない特上のワインだぜぇ。きみたち、ありがたく飲むようにね、ふふん」 自慢げに顎を突き出す彰人をぐいと脇へ押しやって、森太郎は啓太の手からその瓶を取ると、ちらりと冷たい視線を彰人に向けて言い放った。 「風倉さん、全然ありがたがることはありませんよ。どうせまた貰い物かなにかの一つですから」 「へへっ、大当たりー。この間貰ったんだけどさ。なんか一人でチビチビやるのも暗いし、皆で楽しもうと思ってね」 「まあ一応感謝しておく」 「お、なんだよー、その言い方。可っ愛くねーの。いいよ、森太郎なんか無視して俺と啓太だけで飲むもんねぇ。な、啓太?」 啓太は呼びすてられたかと思うといきなり肩を強く抱き寄せられ、ギョッとして身を硬くした。すぐ傍に迫る彰人の笑顔に、ひきつった笑みを返す。 だが、それ以上にギョッとした顔の森太郎が、慌ててその腕から啓太を引き離しては、隠すように自分の胸の中に包み込んだ。 「バカ、何やってるんだ。彰人! おかしな真似するんじゃない」 「なんだよ、ちょっとふざけただけじゃんか。ぷっ、むきになっちゃって。ほらほら、さっさとビデオ見ようぜぇ。夜は案外短いんだよー、ハハハ」 彰人はヘラヘラと楽しそうに笑うと、さっさと一人テレビの前に腰を下ろして陣取った。 啓太はしばし呆然としていたが、我に返った途端ビックリして息を呑んだ。 今のこの状況……。森太郎の両腕ががっしりと二の腕を掴んで、引き寄せられて……、まるで抱きしめられているようではないか。お互いの胸と胸が合わさって、そこからじわりと熱が伝わってくる。 思わず身を固くする啓太に、森太郎も気づいて慌てて手を離すと、珍しく動揺した様子で呟いた。 「す、すみません」 いつもの甘く低い声が微かに震えている。だが、応える啓太もまた、声が震えていた。 「う、うん……」 心臓がバクバクと壊れそうなほど波打っていた。 そういえば、森太郎には前にも一度抱きしめられたことがあった。あの時も驚いたけど、でも……なんだかホッとして、心が凪いでいく感じだった。だけど今は違う。鼓動はいつまでも収まらず、体の中心が燃えるように熱い。熱くて苦しい。 二人してその場で固まっていると、彰人が向こうから待ちかねたように声をかけた。 「ねえ、何やってんだよ。早く見ようぜ。俺、楽しみにしてきたんだからさぁ」 その声に、森太郎はワインの瓶を差し出すと、ぼそりと言った。 「ビデオ、用意しててください。俺、グラスを持っていきますんで」 「……うん」 啓太は俯いたまま受け取った。まともに彼の顔が見れなかった。 その夜、最初に流したホラー映画を、啓太はろくに見ていなかった。頭の中は先ほどの森太郎との出来事と、そしてこれからのことで一杯に溢れてて、内容なんかちっとも入ってきやしない。ただ怖いシーンだけは否が応にも目に飛び込んできて、その度にビクビク身を震わせていたら、気がつくといつの間にかぴったりと森太郎に寄り添って、彼の腕をがっしり掴んでいた。 ふと見ると、反対側には彰人がくっついていて、やっぱりもう一方の森太郎の手にキュッとすがりついている。目があったら、ニッコリと微笑んだ。 啓太がつられて笑い返すと、彰人は愛想良く話し掛けてきた。 「ねえねえ、この映画、すっげえくるね。もう俺、ゾクゾク」 「あ、うん。怖いだろ」 「怖い怖い。なんていうか、体の芯にずーんとこたえるような恐怖だよな」 「そう、そうなんだ。この監督の作品ってどれもそんな感じでさ。俺のお薦めなんだ」 「へええ。今度他のも見てみようかな。なんかいいの教えてよ」 「ああ、えーと、とりあえずはさぁ……」 意外にも話が盛り上がって会話に花を咲かせていると、真ん中で森太郎がつまらなそうに口を挟んできた。 「あの……話が弾んでるのはいいんですけど、俺ちょっと窮屈なんですが」 その言葉に、啓太は自分が彼にくっついていたのを思い出し、大慌てで手を離した。カアッと頬が熱く火照る。焦って体をずらし、彼との間に隙間をあけた。 だが彰人の方は全然気にもとめないで、平気な顔でやり返した。 「いいじゃん、両手に花でさぁ。両方から頼りにされて嬉しいだろ?」 そう言うと、わざとベッタリと身を寄せる。森太郎は容赦なくその体を押し返して、冷ややかに言った。 「誰が花だ、図々しい。だいたい俺はおまえにまとわりつかれても嬉しくもなんともない」 「あ、そう。じゃ、啓太なら嬉しいんだ。ふうううん」 「へ?」 啓太はいきなり自分の名前が出てきて、ビックリして目を剥いた。森太郎が慌てた様子で否定する。 「ばっ、何言ってるんだ、彰人。くだらないこと言うな」 「別に誤魔化さなくてもいいじゃない。おまえが頼むって言うから来てやったのにさぁ。もしかして俺が来ない方が二人で楽しめて良かったんじゃないの? 思う存分ベタベタと……うっ」 彰人のボヤキは、森太郎の大きな手で遮られた。 森太郎は彼の口を押さえると、じろりと鋭い視線を向けて低く呟いた。 「おまえは黙ってろ。映画の邪魔になるだろうが」 それから啓太に顔を向けて、ちょっぴりひきつった笑みを浮かべた。 「すみません、煩くて。気にせず鑑賞を続けてください」 啓太はわけもわからず、とりあえず無言のまま頷いた。それからまた三人で目の前のテレビを見ながらも、啓太はずっと別のことを考えていた。 (なんかよくわかんないけど、今のって……もしかして痴話喧嘩ってやつなのか? んでもって、もしかして俺のことで喧嘩になってる? うっわー、どうしよう! お、俺があいつにくっついちゃったりしたのがまずかったのかなぁ? 別に意識してやったわけじゃないんだけど……。いや、やっぱり二人の仲に割り込んでるってのが問題で……うううむ) ああだこうだと苦悶しているうちに、一本目のビデオはストーリーもろくに把握できないままエンディングロールが流れ始めていた。 ちらりと横を窺うと、彰人は満足そうに伸びをして、森太郎は相変わらずのいつものポーカーフェイスで無表情にワインを啜っている。 啓太は二度大きく深呼吸をし、それから意を決して口を開いた。 「あ、あのさっ」 二人の視線がこちらを向く。啓太はドキドキしながら、もう一本のビデオが入った袋を手に、震える声で言った。 「お、お、俺さ、ちょ、ちょっと出かけてくるから、あとは二人で楽しんでてくれよ。あ、これ、もう一本入ってるから。んーと、二人で見て。んじゃ。そういうことで、よろしく。ああ、俺今夜は帰んねえから、ゆ、ゆっくりしてろよな。うん」 どもりながらもそう捲くし立てると、啓太はさっと立ち上がって玄関に向けて歩き出した。 さっそうと……出て行くつもりだった。 恋人同士に二人きりの夜をプレゼントして、何かを言われる前にさっさとその場を後にする……予定だったのだが、歩き出した途端ソファの足に思いっきり足の指をぶつけて、啓太は派手な悲鳴をあげた。 「いっ! ……てーーーっ!」 クウウウっと唸って、思わずその場にしゃがみこむ。 一瞬呆気に取られていた森太郎が、焦って駆け寄ってきて、心配そうに覗き込んだ。 「だ、大丈夫ですか?」 「くくくくくっ……」 痛いのと恥かしいのとで唸り声しか出てこない。代わりに涙が滲んでポロリと頬を伝った。森太郎がいっそう心配した顔つきで、座り込んでいる啓太の前に身を屈めた。 「足、見せてください」 「い、いいよっ! 大丈……夫、ってててて」 「いいから。見せなさい」 森太郎は有無を言わさず足首を掴んで引き寄せると、すばやく靴下を剥ぎ取って、ぼそりと呟いた。 「爪……割れてますよ。風倉さん」 「う……」 森太郎は深くため息をつくと、じろりと上目使いに見上げて睨んだ。怒ったような低い声で冷ややかに言い放つ。 「いったいどういうつもりですか?」 「え? つもりって、ただぶつけただけ……」 「そうじゃなくて、何故出ていこうとなんてしたんですか。こんな真夜中に何処へ行くつもりだったんです?」 「あ、いや……何処って」 「いったい何を企んでるんですか? ちゃんと説明してください」 「それは……」 「風倉さん」 森太郎がきつい口調で名前を口にする。冷や汗がたらりと背中を伝ったその時、テレビの前から彰人のとぼけた声がした。 「なんだぁ、これぇ」 手には、啓太が渡した袋から取り出した、もう一本のビデオカセットを持っている。彰人はきょとんとした顔で、ケースに書かれたタイトルを口にした。 「『俺のゴールにシュート一発!』 ……はああ?」 その上、ご丁寧にコピーまで声高らかと一字一句読み上げた。 「えーなになに? ……今宵もマッチョな先輩のごっつい指がボクの○○○をシコシコと……三本連続、ハットトリックで腰砕け……先輩のって太くて裂けちゃう、いやーん、もっとぉ……。なんだこれ? ホモビデオじゃん」 扇情的で下品な文章を棒読みすると、彰人は目を真ん丸くして手にしたビデオを凝視した。目の前では森太郎が、声もなく立ち尽くしている。 その場になんともいえない空気が漂った。誰もが唖然茫然として固まっている。 真っ先に沈黙を破ったのは森太郎だった。 彼は、掴んでいた啓太の足首にぎゅっと力を込めると、先ほどとは比べものにならないような迫力を込めて、低い声でゆっくりと名を呼んだ。 「風倉さん?」 啓太はひきつった笑みを口元に浮かべ、おずおずと呟いた。 「あー、えーと、つまりさぁ……」 睨みつける森太郎の目がとんでもなく恐ろしい。ヘビに射すくめられたカエルみたいに身動きひとつかなわない。まあ、足首を掴まれているのでどうにも逃げようはないのだが。 「だ、だからさ、その、俺としてもいろいろ考えた末のことで……」 しどろもどろで言い訳すらままならぬ。 結局、全てを白状させられた。 森太郎と彰人の仲を邪魔したくはないけれど、それを直接口にしたら律儀な森太郎は気を遣うに決まってる。だから、とりあえず予定通りビデオ上映会は開催し、その後自分は彼らの前から姿を消して、二人にゆっくりと親密な夜を提供しよう……と、心密かに画策していたということを。 話を終えた後しばらく誰もが沈黙していたが、すぐに彰人が大声で笑い出した。 「あっはははははは、あははは! あはははははは!」 腹を抱え、床に転がって身悶えしている。ヒーヒーと息もつけぬほどの大爆笑である。 一方森太郎は、それはそれは深いため息をついたかと思うと、すっかり脱力して呆れ果てたように額を押さえた。しばし沈黙した末に、困惑した顔で啓太を見て呟いた。 「つまり、あなたは俺と彰人が恋人同士だと勝手に思い込んで、その上ご丁寧に、とんでもなく的外れな心遣いをしてくださるつもりだったと、そういうわけですか、風倉さん」 「だ、だってよー、見てたら、おまえらすっげえ仲良いし、前にそいつもそんなこと言ってたし……、恋人同士なんだろ? 違うのか?」 「あはははははは!」 彰人が馬鹿笑いで口を挟む。森太郎はいっそう呆れたように嘆息した。 「あのですね……。いったい俺たちのどこをどう見てそうなるんですか。勘弁してください。こいつが恋人だなんて間違っても有り得ませんよ」 「あ、それはちょっとひどいぞ、森太郎。失礼だな、ぶはははは」 「だいたい、もし恋人だったりしたら、俺はこの場にこいつを呼んだりしませんよ。そんな中途半端で野暮な気遣いするもんですか。デートはしっかり二人で楽しみます」 きっぱり言い切る森太郎に、啓太はおずおずと念を押した。 「……じゃ、本っ当に恋人同士じゃないわけ?」 「違います!」 森太郎はとんでもないというように思いっきり否定した。 啓太は自分勝手な思い込みに、耳の先まで赤くなった。恥かしくって、言葉もなく身を小さくする。 だけど、なんだか急に気持ちが軽くなったような感じがした。何故だかわからないけどホッとする。良かった……と心の中で無意識の安堵が広がった。 そんなところに、彰人が面白そうに割り込んできた。 「ねえねえ、んじゃさあ、啓太ったら、俺たちのためにこのホモビデオ借りてきてくれたってわけ? 二人でこれ見て盛り上がれって?」 啓太が真っ赤になって頷くと、彰人はまた高らかに笑った。 「あははははは! たまんねーっ、も啓太ったら最高! いったいどんな顔して借りてきたんだよ、こんなもん。わははははは」 「あ、す、すげえ恥かしかったんだぞ! しかもよりにもよってレジにいたのが女でよ。じろじろと変な目で人の顔見やがるし!」 「そりゃそうだって、あははは。でも、今時のレンタルってこんなのまで置いてあるんだねぇ。知らなかったなぁ。あ、そーだ。せっかくだから、これから三人で見ようよ。ね」 彰人は上機嫌でカセットをケースから取り出し、テレビに近づいていく。啓太は悲鳴を上げ、森太郎は顔色を変えた。 「えええええーっ! 嘘っ、見んのかよ!」 「ば、ばかっ! やめろ、彰人!」 「いいじゃん、せっかくの啓太の好意だしー、三人で盛り上がろうぜえ?」 「何くだらないことを……おいこらっ、やめろって言ってるだろ!」 「あ、ほら、始まったぞ。おおおっ、いきなり○○○が×××だあ、すっげぇなぁあ」 「うわわわわわわっ、ひゃあーーっ!」 結局、その夜のホラービデオ・ナイトは阿鼻叫喚のうちに終焉となった。 深夜の部屋に響き渡った悲鳴の、ほとんどは啓太のものだった。もちろん、恐怖ではなく別の理由からなのは間違いない。 なんだか勘違いで始まって大騒ぎで幕を閉じた、大変な一日であった。 ようやく訪れた穏やかな静寂。 森太郎の寝室で、ベッドに腰掛けた啓太の前に、彼がうずくまって黙々と割れた爪の手当てをしている。 自分でやると言ったのに、森太郎は強引なまでの頑固さで絶対に譲らなかった。 啓太は仕方なく諦めて足を預けながら、目の前で指に包帯を巻いている森太郎の顔を、やっぱりいい男だよな……なんて思いながら、じっと見つめていた。 ふいに顔をあげた彼の視線とぶつかって、ドギマギしながら誤魔化した。 「あ、あの、て、適当でいいぜ、そんなの」 森太郎は優しい声でたしなめた。 「だめですよ。ちゃんと手当てしないと、ばい菌が入ったら大変です。もうすぐ終わりますから、じっとしててください」 そう言うと、また黙って手を動かす。ほどなくして再び顔を上げて言った。 「いいですよ。きつくないですか?」 「うん、平気。……サンキューな」 啓太が照れくさそうに呟くと、森太郎は口元に柔らかな笑みを浮かべた。その顔に胸がトクンと疼く。全身が熱くなって、とても傍にいたたまれなくなる。 いや、そんなのはさっきからずっと続いている。彼と寝室で二人きりになってから、ずっと心臓が煩く騒いでる。 啓太は丁寧に治療された足を撫でさすりながら、おずおずと゚呟いた。 「あの、さ、皆川。俺やっぱ、あっちの部屋で寝ようかなぁと……」 すると森太郎は、じろりと厳しい瞳を向けて、きっぱりと否定した。 「だめです」 その声が凄みを含んでいて恐ろしい。有無を言わさぬ堅固な態度。とてもじゃないが許してなんてくれそうもない。 あのホモビデオの大騒ぎがなんとか収まったかという頃に、また別のことで一騒動が持ち上がった。 今夜は遅くなったので泊まっていくと言い出した彰人が原因である。 一緒のベットで寝かせろと言う彼を、森太郎は冷たく拒絶した。帰れ、泊めろとしばらく二人で言い争った末に、それなら啓太のベッドで一緒に寝るからと彰人は突然言い放った。 もともとは自分のベッドだと主張する彼の言い分は尤もだったので、啓太は気軽にOKしたのだが、しかし森太郎は烈火のごとく反対した。啓太が横から宥めたって頑として認めない。 絶対にダメだ、いや泊まっていく、と更に散々やりあった挙句、結局啓太のベッドは彰人に提供し、啓太自身は森太郎と一緒に寝るという結論に達したのであった。 啓太には口を挟む隙間なんてこれっぽっちもありはしなかった。気がついたらいつの間にかそうなっていて、気がついたら寝室で森太郎と一緒だった。 いきなりの二人きり。いきなりのツーショット。しかも彼と一つのベッドで寝るという。そんなの全然心の準備なんてできてやしない。今夜は絶対に眠れない。 啓太はしつこくあがいて食い下がった。 「だだ、だから、俺はソファーで寝るってば。それならいいだろ、別に」 「いけません。あの節操のない男と同じ部屋で寝るなんて、たとえベッドが一緒じゃなくたって危ないことに変わりはない。絶対にだめ!」 「うううう……」 啓太は小さく唸った。恨みがましそうに上目遣いで見つめて、膨れっ面でぼそぼそと呟いた。 「じゃ、俺、床で寝るもん……」 森太郎がキッと鋭く睨みつける。まるでききわけのない小さな子供を制するような瞳の色だ。しばらく黙って睨んでいたが、ふっと小馬鹿にしたように呟いた。 「先週は自分から押しかけてきたくせに……」 啓太はポッと頬を赤らめた。耳の先まで真っ赤になって憤然と言い訳した。 「そ、それは! あの時はホラー見た後でメチャクチャ怖くなっちまったから……!」 「今日だって見たでしょう? 同じじゃないですか」 啓太はぐっと言葉に詰まった。まさか最初のホラー映画は少しも覚えてなくて、その後のホモビデオの断片だけが鮮明に頭に残ってるだなんて、口が裂けても言えやしない。 森太郎はひとつため息をついて、なだめるように優しく言った。 「いいから、もう寝ましょう。俺、疲れましたよ、なんだか。風倉さんも諦めて寝てください。ね?」 柔らかく言い含められて、啓太は仕方なく頷いた。こうなったらもう、ここで寝るしか手はないようである。むっつりと膨れたまま、ごそごそと隅っこの方に潜り込んだ。 だが、森太郎がベッドの逆側で着ていた室内着を脱ぎ始めるのを目にして、ぎょっとして飛び起きた。 「お、おまっ、何脱いでんだよ、皆川っ!」 目を剥いている啓太に、森太郎はツラっとして答えた。 「俺、寝る時は下着一枚だって前に言ったじゃないですか。先週もそうだったし、忘れたんですか?」 「だ、だ、だっ……」 多少収まっていた鼓動がまた猛烈に早くなって、頭の中は熱く火照り、クラクラと眩暈がする。その気はないのに視線が彼の裸の胸から離せない。 啓太はそんな自分を誤魔化すように、大声で叫んだ。 「皆川! せ、背中! 背中向けて寝ろ! おまえは向こう、俺はこっち。寄ってくんなよ、わかったな!」 「はいはい、了解です。おやすみなさい」 森太郎は半ば呆れたように返答すると、言われた通り背中をこちら側に向けてベッドに入った。 啓太はしばらくそんな彼を見つめ、やがて自分も背を向けて落っこちそうなほど端に寄って寝転んだ。 見計らったように、森太郎が枕もとにあるスタンドの灯りを落とす。部屋は暗闇と静寂に包まれた。 啓太は、しばらく布団の中でドキドキしていた。 背中越しに彼がいる。何処も触れ合ってはいないけれど、すぐ傍にいると思うだけで、なんだか背中が熱くなる。胸がジーンと痺れて苦しい。彼とはもう何度も一緒に寝ているはずなのに、今夜は何故こんなに意識してしまうんだろう。 悶々として、痛いほど固く目をつぶっていたら、ふと暗闇の向こうから森太郎の声がした。 「風倉さん……」 啓太は小さく応えた。 「……ん?」 若干の沈黙があり、やがて微かに声が響く。 「もう出て行ったり……しないでくださいね」 少し寂しげで、ねだるような甘い囁き。胸の何処かがふわりと揺れる。 啓太は唇を噛んで頷いた。 「うん」 ずっとドキドキしていた心臓が、驚くほど落ち着いていく。 「わかった……」 啓太の返事に、森太郎は何も言わなかった。どちらも黙ったままだった。 また穏やかな静寂が戻ってきた。 わずかに開いたロールスクリーンの下から、蒼白い月光が差し込んでいる。ほんのりと照らす明かりの中、絶対眠れないと思ったのに、いつしかゆうるりと眠気が訪れてきた。 最後にくれた森太郎の言葉は、まるで魔法の子守唄みたいに啓太を夢にいざなった。 その夜、最初に寝息を立て始めたのは、やっぱり啓太のほうだった。 だから……。 啓太は、森太郎がベッドの向こうでついたため息を聞いてない。彼のせつなく長い夜を、何も知らない……。 <続> |