Dangerous night!ー同棲編ー

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   − ACT 1 −

「俺があなたに望むのは、あなたがここに住むことです」
 
 目玉焼きの焼けたフライパンと、まな板の上の真っ赤なトマトを前に突然言われたその一言。
 それが、森太郎が啓太に出した注文であった。




 啓太は、朝一番、運送会社の者たちの手によって運び込まれてきたベッドを見て、その言葉が嘘でも冗談でも夢でも幻でもなかったのだと改めて実感していた。
 昨日いきなり森太郎に宣言され、ろくに理解することも出来ぬまま一日経ち、今まさにそれは目の前で具現化しようとしている。予想もしていなかった生活が、これから始まろうとしているのだ。
 まるで、まだ覚めぬ夢の中にいるような気分だった。
(そっか……。俺、皆川と一緒に住むのか……。やっぱ、そういうことになっちまったんだなぁ……)
 衝撃的な現実の前に、思考回路がまともに働いていないような感じがする。
 いったいなんでこんなことになってしまったんだろう。
 そりゃあ確かに彼には計りしれないほどの恩があって、たくさんの借りがあって、なんでも望むことをしてやるぞと約束はしたけれど。男に二言はないけれど……。
 よもや寝食を共にする羽目になろうとは。考えてもいなかった事態である。
 しかもあの森太郎と、だ。
 生意気な三つ年下の後輩で、ものすごく苦手なタイプで、なのに顔をあわせたら何故だか胸がドキドキしてしまうようなそんな男と、一つ同じ屋根の下、風呂もトイレも同じものを使う毎日だなんて……思いもつかなかったこの展開。
 まったく、人生とは先の見えないドラマ、突然やってくる嵐のようなものである。昨日までの平穏を全て覆して、いきなり波乱万丈のど真ん中へと放り込んでくれる。もっとも啓太の場合、人生の嵐は昨日始まったわけではなく、すでにその前にしっかりと幕を開けていたのだが。
 配置をめぐってあっちだこっちだと家具の移動に手を貸しつつ、啓太はぼんやりと今に至る自分の運命というものを頭の中で回想していた。
 ほんの一週間前の今頃。
 酔って泊り込んだこの部屋から朝帰りしてアパートに戻ってみると、火事で、建物も持ち物も何もかもが奇麗さっぱり燃えてなくなっていた。
 突然の一文なし。突然の家なき子状態。
 着の身着のままで放り出されて仕方なく同僚の元へと転がり込み、無理やり世話になること数日間。だが週末にまたまた寝る場所を失ってうろうろと金曜の夜の街を放浪し、困り果てて飛び込んだサウナでとんでもない事件にあった。
 そこから危機一髪の状況で危うく森太郎に助けられ……またここに舞い戻ってきたのが一昨日の夜のこと。
 なんだかとてつもなく長く、信じられないほどあっという間に過ぎ去った一週間であった。くるくると好き勝手な方向に爆走する運命に、抵抗ひとつさせてもらえぬまま、ただ茫然と転がされていたという感じである。
 思い返したら、あまりの目まぐるしさに改めてハアと深い溜息が漏れた。
 人生いったいどこで何を間違ったんだ? なんの咎があってこんな目に会わなければならないんだろう? 真面目一辺倒とまでは行かなくとも、それなりに毎日一生懸命生きてきたつもりだった。ごくごく普通の人生を送ってきたはずなのに……。
「あんまりだよな……」
 思わずポロリとこぼした愚痴を、森太郎が耳ざとく聞きつけて、すかさず問い返してきた。
「気に入りませんか、このベッド?」
 聞いた言葉をそのままに受け取って、窺うような眼差しを向ける。啓太は慌てて両手を振って打ち消した。
「あ、違う違う。そうじゃなくって。えっと、ベッドは全然OKだよ。勿体無いくらいだって」
 だが森太郎は疑わしそうに眉をひそめた。
「本当ですか? 別に無理なさらなくてもいいですよ? 知らない人間の中古品を使うのは抵抗もあるでしょうし」
「いやっ、俺、そういう神経質さとはまるっきり無縁だからさ。誰のお古でも気にしねえよ」
「そうですか? これがいやなら、奥にある俺のベッドと交換してもいいですよ。あ、俺ので良ければの話ですけど」
「いや、いいって、マジでかまわねえって! だいたい、ベッドなんてあるだけでも幸せなんだからさ。寝られりゃ床の上でもなんでも良かったんだ」
 その時、焦って言い訳する啓太と、相変わらず心配そうな顔つきをして食い下がる森太郎との間に、突然一人の男が割り込んできた。形の良い唇を尖らせては不満げに文句を吐いた。
「ねえ、ちょっときみたち。横で聞いてりゃ、なーんか勝手なこと言ってね? 人んちのベッド強引に取りあげておいて、気にいらないだの中古だのお古だのってさぁ、随分な言い方してくれるじゃねーの。ええ?」
 啓太と森太郎の顔を交互に睨みつけ、馴れ馴れしく二人の肩に手をかける。男はぐいっと啓太に顔を寄せて、ニッコリと親しげに微笑んだ。
「だいたい知らない間柄じゃないじゃん、俺たちさぁ。もう前に会ってんだし。ねえ?」
 鼻先が触れるほど目の前に迫られて、啓太は思わず身を引き、ハハハとひきつった笑みを返した。
 確かに人懐っこく擦り寄ってくるこの男とは、以前ここで一度会ったことがある。先週の帰りぎわドタバタしていた際、いきなり玄関口に現れた男である。
 肩まで届く長い髪をくるくると流れようにウェーブさせ、くっきりとした目鼻立ちをいっそう華やかに演出しているこの人物は、確か彰人という名前で、森太郎の友人……いや、自称恋人みたいなことを口にしていた。
 真偽のほどは定かではないが、親しくつきあっていることだけは確かなようで、このベッドも啓太が住むと決まったら即、森太郎が彼に掛け合って借りてくれたのだった。いや、借りたというよりは、確かに彰人が言った通り、有無を言わさず取りあげたといった方が正しいのだが。
(仲、良さそう……だよな。皆川にしては珍しく本音見せてるって感じだし。やっぱ恋人同士……なんだろうか、こいつら?)
 いつもはポーカーフェイスで何を考えているのかわからない森太郎が、彼の前ではありのままの飾らぬ姿をさらしている。それは普通よりもはるかに特別な繋がりを感じさせて、啓太は胸がドキドキした。真相を知りたいような知りたくないような、なんだか不思議な戸惑いがあった。
 そんな啓太の思惑をよそに、仏頂面の森太郎は手荒に彰人の頭を押しのけ、居丈高にぴしゃりと言ってのけた。
「うるさいぞ、彰人。おまえは余計な口を挟むな。黙ってろ」
 しかし彰人の方も決して負けてはいず、不満そうに細い顎を突き出して反論した。
「なんだよ、その態度。ベッド提供者にその扱いはないだろ? せっかくただで貸してやってんのにさぁ。ありがとうの一言くらいあってもいいんじゃねえの? おまけに運ぶのまでちゃっかりこっちに手配させやがって。いったい配達料幾ら掛かったと思ってんだよ?」
「細かいことにギャアギャア騒ぐな。みっともない」
「おお、みっともなくて悪かったな。職業柄、性分細かくなきゃやってらんないんだよ、ふんだ!」
 本気の喧嘩だか冗談の延長なんだかわからない雰囲気で、二人は言い争いを始めだす。啓太は慌てて彼らの中へ割って入って、彰人に向けペコリと深く頭を下げた。
「あ、あの……ベッド、どうもありがとうございました。すげー助かります、ほんとにっ」
「風倉さん、こんな奴に礼なんて言う必要な……」
 憮然として制しかけた森太郎を無理やり脇に押しのけて、彰人はニッコリと微笑んだ。
「ああ、いいのいいの。どうせ使わないで余ってたやつだからさ、それ」
 それまでの態度とは打って変わって、がらりと一転、機嫌よく楽しげに話し出した。
「そのベッド、一応来客用に買ったんだけどさ? よーく考えたら、俺んちの客ってみーんな俺と一緒のベッドに寝る訳だから、来客用なんて必要ないんだよね、ハハハハハ。だからまだそれでエッチしたことないし、全然奇麗なんだ。安心して使っていいからさ」
「はあ、どうも……」
(……ん? ……エッチ?)
 しみじみ聞けば意味深な台詞をさらりと言ってのける。その上彰人は大きな瞳で器用にウィンクしては、からかうように言い加えた。
「どうせだったら二人の初めての夜にはそれ使いなよ。森太郎の誰を引っ張り込んだかわからないようなベッドじゃ、せっかくの記念が台無しでしょ。ね」
「……え? ふ、二人って……なな何を? 記念?」
「彰人!」
 目を剥いている啓太をかばうように森太郎の怒声が響く。彰人はさも楽しそうに高笑いした。
「あっはははは。いいなあ、その反応。新鮮だよねぇ。これだもん、森太郎が欲しがるはずだって。ははははは」
「彰人! やめないか!」
 森太郎は珍しく声を荒げて怒鳴りつけると、相変わらず上機嫌な彰人の肩を強く掴み、鋭くにらみつけた。
「おまえ、くだらないことばかり言ってないで、さっさと帰れ。ほら」
 凄みのある声でそう言い放つと、背中を手荒く押しやって、ぐいぐいと玄関に向け力づくで追いたてた。彰人はイテイテと悲鳴をあげながら憮然として文句を言った。
「おい、ちょっと。なんだよ? 追い出すことないだろ? さんざん手伝わせておいてさぁ」
「いいから帰れ。これから仕事なんだろ? 遅れるぞ」
「そんなのまだ大丈夫だって。今日は午後出だから平気……あ、おい、森太郎―っ!  こらぁっ!」
 ぶつぶつ言っている彼を強引に外の廊下に追いやって、森太郎はさっさとドアを閉めた。扉の向こうでは締め出された彰人がしばらく罵声をあげていたが、すぐに諦めたらしく、ほどなく静かになった。
 森太郎は何事もなかったかのように平然と部屋に戻ってきては、目を丸くしている啓太にいつも通りの顔を向けた。
「風倉さん、あいつのことは無視してくださって結構です。いい加減な奴ですから、何を言っても気にする必要はありません。忘れてください」
 きっぱりと冷ややかに言い切られ、啓太は口篭もりながら頷いた。
「あ……う、うん」
 そうは言われても、あれだけにぎやかに存在感を撒き散らされては、無視するどころの話ではない。忘れるどころかバッチリ印象づいてしまった。
 おまけに、彼が残していった意味ありげな台詞の数々。
 じっくり考え直すと、ずいぶんな爆弾発言を置いていったような気がする。エッチがどうとか、森太郎が誰かを引っ張り込んだとか……。
(引っ張り……。そっか。……そうだよな。こいつがもてないわけないんだし、誰でも誘えばついてくるよな。……って、あれ? 待てよ。こいつ、男も女もどっちもOKみたいなこと言ってなかったっけ? するってーと性別関係なくやり放題ってことか? うはぁ、皆川の野郎、すけべなんて大した興味なさそうな顔してて、実はとんでもねえ絶倫野郎かも……)
 などと、くだらないことを考えながら、ちらりと森太郎を窺い見る。すると、こちらを見つめている彼と視線が合って、啓太は慌てて目を逸らした。
(うわ、なんか緊張してねえ、俺? うひゃあ、どうしよう!)
 なんだか急に森太郎という存在を意識してしまい、まともに顔があわせられなかった。二人っきりの空間が、妙に熱くて息苦しい。
 これからずーっと彼と一緒に暮らすというのに、心臓は元気に張り切りっぱなしである。しかも目の前にはベッドがどーんとのさばっていて、いっそうドキドキに拍車をかける。胸の中心が真っ赤になって火照っている。
 そんな動揺する気持ちを振り払おうと、啓太はプルっと頭をゆすった。できるだけ平静を装いつつ、そっと尋ねる。
「で、で、でも、ほんと、いいのかな? このベッド借りちまって……」
 本当はベッドより何より、「ここに住んでもいいのか」と森太郎自身に問い直したい気持ちだった。だが、それを口にしたらなんとなく叱られそうな気がするのでやめておいた。
 森太郎はそんな啓太の心情に気づく様子もなく、飄々として答えた。
「いいんですよ。あいつはあれでも、俺たちよりはるかに稼いでる奴なんです。ベッドの一つや二つ、どうってことはありません」
「へええ、そうなの? 彼、なんの仕事してんの?」
「美容師です」
「美容師か、ふうん。なあ、美容師ってそんなに儲かるのか?」
「さあ、詳しいことは知りませんが。----ああもう、あいつのことはどうだっていいですよ。それより模様替え、さっさと終わらせてしまいましょう。風倉さん、すみませんが棚のそちら側を持ってくださいませんか?」
 森太郎にてきぱきと指示されて、啓太はそれ以上問いを重ねるべくもなく、素直に従って手を貸した。確かに今大事なのは、もういない誰かのことではなく、リビングのど真ん中に堂々とのさばっているこのベッドの処遇である。これをどうにかしないことにはテレビもろくに見られない。
 それから午前いっぱい、二人は部屋の模様替えに汗を流した。
 さほど家具が多くないとはいえ、さすがにベッドひとつ分のスペースを新たに作るとなると大変で、レイアウトに苦労する。幾度もやり直しを重ね、なんとか全てが落ちついたのはすでに正午を過ぎていた。
 出来上がったのは、リビングルームの一角にあつらえられた啓太の私室だった。
 もちろん部屋と呼べるほど立派なものではなかったが、窓ぎわにベッドを置き、その横に棚とオーディオラックを目隠しになるように配置して、隅には森太郎の寝室にあったハンガーラックを洋服ダンス代わりに備えてある。立派なプライベートコーナーである。
 その分部屋はずっと狭くなり、ベランダからの明かりも遮られて奥のキッチン付近は随分と暗くなってしまったが、それでも森太郎は満足そうに頷いてみせた。
「まあ、こんなもんかな。足りないものはおいおい補充するとして。しばらくは多少不便かもしれませんが、我慢してください」
 啓太は彼の横に立ち、ほうっと溜め息を漏らした。
「いやぁもう、充分……」
 あつらえられた自分の居場所を見て、なんだか感動で言葉もなかった。
 ソファーに寝かせてもらえるだけでいいと主張した啓太だったが、ちゃんとスペースを作ろうと決めたのは森太郎だった。一緒に住むからには、お互い最低限のプライバシーは確保できた方がいいからと決して譲らなかった。
 それはひたすら啓太のためを考えた提案であることは間違いない。だって森太郎自身には寝室という個室が隣にあって、一人になれる場所はちゃんとあるのだ。むしろこんな風にリビングを区切ってしまって随分と居心地が悪くなったはずなのに、そんなことはなんの問題にもならないといった様子で、ご満悦な顔をしている。
 啓太は申し訳なさと不思議な思いでいっぱいのまま、そっと彼を窺い見た。
(こんなに……甘えちまっていいのかな……? こいつなんて俺になんの義理もないはずなのに)
 森太郎の横顔を見つめていたら、ふいに顔を向けられてドキンと胸が高鳴った。
「他に何かご要望はありますか?」
 驚くほど優しい瞳でそう尋ねられ、啓太は焦って答えた。
「ないないっ、全っ然ない!」
 すると森太郎はいっそう満足そうにニッコリと微笑んだ。
「それでは昼食がてら買い物にでも行きましょうか」
「買い物?」
「ええ。いろいろ揃えなきゃいけないものがあるでしょう? 生活雑貨とか。うちにも多少の物ならありますけどね。----ああ、そうだ。パンツも買わなきゃな、たくさん」
「パ、パンツぅ? なんでんなもん……?」
 一瞬何の話だかわからなかったが、森太郎の冷ややかな瞳がどことなく悪戯っぽく光るのを見て、ふいに思い当たった。
(あ!)
 啓太は思わずポッと赤面した。
 以前酔っ払って泊まりこんだ時、彼に下着を借りたことがあったのだ。ちょっとしたやりとりだったのに彼はしっかり覚えていて、意地悪くそれをネタにからかっているというわけだ。
 啓太は赤い顔で上目使いに見上げると、恨めしそうに呟いた。
「皆川、てめえなぁ……涼しい顔して人のパンツの心配なんかすんな、あほっ!」
「ぷぷっ……、くくくくく」
 森太郎は口に手を当て、くすくすと笑みをこぼした。一応笑いをこらえながらも肩を震わせるその姿は、なんだかひどく楽しげである。普段のクールな瞳が柔らかく細められ、目元に小さくシワが寄った。
 彼がこんな風に笑うのを初めて見た気がして、啓太は思わずじっと凝視した。
 いつもは口元にシニカルな微笑か、せいぜいニンマリと嫌味な表情を浮かべるくらいで、これほど開けっぴろげに、嬉しそうに感情を曝け出している姿など滅多に目にしたことはない。
(……なんだ、こいつ、こんな顔で笑えるんじゃん。こっちの方が断然いい……)
 そう考えかけて、啓太はカッと頬が熱くなった。
(な、な、なんだ、そのいいってのは……。何考えてんだ、俺? バッカじゃねえのか)
 トクトクとうるさい胸の鼓動に困惑しつつ、そっと森太郎に目をやったら、相変わらず彼はすこぶる上機嫌で幸せそうだった。一体何がそんなに嬉しいのか訳がわからなかったが、それでもそんな姿は、甘えちまってもいいのかな、と啓太を少しだけホッとさせたのであった。
 



 スーツの胸ポケットで、携帯がプルプルと小刻みに振動した。
 営業先回りで外出していた啓太は、横断歩道で信号待ちの間に取り出して見てみると、森太郎からのメールであった。
『外回りご苦労様です。俺、今夜は残業で遅くなりそうなので、晩飯は一人で済ませていてください』
(あり、あいつ残業なのか。ふーん)
 啓太はすぐに返信した。
『お〜、残業かよ、そりゃご愁傷さん。で、おまえ飯はどうすんだ? 何か買っておくか?』
 ほどなくしてまた短いメールが届く。
『気にしないでください。食べに出るかもしれないので』
 啓太はふふんと鼻で返答して携帯を閉じた。用件だけの、慇懃だが無愛想な文章がいかにも森太郎らしい。
 一緒に住むようになってから、二人はこんなメールのやり取りをよく交わすようになった。飲み会で遅くなるだの、夕食をどうする、何を食べようかと、ちょっとした約束や予定などをこまごまと連絡しあう。
 別に何もかも筒抜けにしようだなんて取り決めしたわけではないのだが、やはりひとつ屋根の下で暮らすとなると、お互いそれなりに相手の動向を知っていた方が便利な場合も多いのだ。
 それに、毎日顔をつき合わせておきながら、何もかも知らぬ存ぜぬではあまりにも素っ気無い。
 食事も、いつの間にか一緒に取ることが多くなっていた。
 最初は意識して別の誰かと食べて帰ったりした啓太だったが、今ではほとんどが森太郎と向き合っての夕食である。やはり同じ会社に勤めていると生活のサイクルが似通ってくるし、それに案外まめに作ってくれる森太郎の手料理は、外食なんかよりずっと美味しくて飽きなかった。一応折半の食費だけれど、それでも外で食べるよりは随分安上がりなのもありがたい。
 啓太は青に変わった歩道を渡りながらぼんやりと考えた。
(なーんだ、今夜はあいついないのか。……なーに食おっかなぁ。カップラーメンとか食うと、あいつ怒るんだよな。栄養がどうとかさ。結構そういうとこ口煩いんだからよ。でも……一人で外食ってのもなぁ……。うーん、ホカ弁でも買って帰るか。……あ、皆川の奴、飯はいらねえって言ってたけど、あいつの分も買ってった方がいいのかな。あいつ、仕事に熱中すると飯のことなんか忘れちまうし、食べてくるなんて言っててもすげー怪しいよな。……うん、よし、ホカ弁二人分で決まりだ。万一余ったって明日の朝飯にすりゃいいんだし)
 ああだこうだと心の中で呟きながら、夕食のメニューと森太郎の両方を慮っては、啓太はいろいろと考えを巡らせた。
 森太郎との同居生活が始まってから、十日間ほどが過ぎようとしていた。
 最初のうちはずいぶんと戸惑うことも多かったが、二・三日もすると、お互いのペースがなんとなく掴めてきて、それにつれて緊張は解けていった。新しいベッドの感触や朝起きて目に入る光景に慣れた頃には、啓太はすっかり彼のマンションでの生活に馴染んでいるのを感じていた。
 もともと順応力は高い方だ。思考が単純で繊細とは言いがたい性格なのも幸いしている。
 それに、思っていた程彼との共同生活は苦痛なものでははなかった。と言うより、想像以上に心地良い。
 あの仕事上での完璧主義から、さぞや日々堅苦しく生きているのだろうと思っていたが、案外森太郎という男は、普段は鷹揚で適当ないい加減さを持ち合わせているようだった。綺麗に見えた部屋だって、隅には結構埃が転がっているし、それを気にとめない大らかさもある。
 始めは世話になって申し訳ないとひたすら恐縮していた啓太だったが、そのうち、ここにいることがとても自然なことのように思えてきた。
 森太郎が傍にいるのが苦痛じゃない。それどころか、だんだん当たり前のように感じてきている。朝目覚めておはようと交わす言葉が、向き合って食べる食事が、いつのまにか自分の中に浸透している。
 それは不思議な変化だった。あんなに苦手で、顔を合わせるのすら避けていたこともあったのに。
 もっとも、森太郎の小バカにしたような薄笑いや憎たらしい皮肉は相変わらずで、啓太はしょっちゅう腹を立てては文句をわめいていた。
 それでも、そんなやりとりすらもが日々の暮らしのヒトコマになるほど、二人の生活はつつがなく進んでいたのであった。




 その夜、森太郎は仕事が立て込んでいるのか、なかなか帰ってこなかった。
 一人っきりの部屋にテレビの音だけが騒々しく響いていた。真夜中のバラエティ番組が、くだらない下ネタ混じりのギャグを大声で撒き散らしている。
 そんな中、啓太は騒音を物ともせず、テレビの前の床にごろりと転がって、スースーと軽い寝息を立てていた。
 食事の後、特にやることもなくてぼんやりとニュースを見ていたのだが、いつのまにか寝入ってしまったらしい。
 一人暮らしの時なら危うくそのまま朝まで……といったこともしばしばだったが、生憎今はそんなことにはならなかった。そう深くはない眠りの中で、遠く小さく、だけどはっきりとした声が聞こえた。
「……さん、風倉さん、風邪をひきますよ」
 柔らかな低音。
 最近耳に慣れてきた甘い響き。
 肩に暖かな感触があり、それが優しく体を揺り動かす。
「風倉さん、ほら、ちゃんとベッドで寝てください。さあ」
 うっすら開いた瞳に、ぼんやりと人影が写った。
「…………んー、あ……皆川?」
 傍らにはようやく帰宅した森太郎が、いまだスーツにネクタイ姿のままで、心配そうな眼差しを向けて覗き込んでいた。
 啓太は寝惚けた顔にニッコリと笑みを浮かべて言った。
「よぉ、お帰り、皆川」
 笑顔で迎えられたのが意外だったのか、森太郎はちょっと面食らった表情を見せ、少し照れ臭そうに返答した。
「ただいま帰りました」
 ぼそりと呟く彼の頬がほんのり微かに紅潮して見える。啓太は半身を起こすと、寝癖のついた髪をかきあげながら呟いた。
「んーと、今何時だぁ?」
「12時、少し過ぎです」
「ああ、もうこんな時間か。おまえ遅かったのな。お疲れさん」
「どうも」
 労苦をねぎらう言葉にぶっきらぼうに相槌を打ったかと思うと、森太郎はいきなり難しい顔をして厳しい口調で話し始めた。
「それより風倉さん。そんな格好でゴロ寝なんかしてちゃいけません。すぐ傍にベッドがあるんだから、ちゃんとそこで寝てください。つけっぱなしのテレビの前で子供みたいなんだから。風邪をひいても知りませんからね、まったく」
 眉をひそめて睨みつけながら、立て板に水のごとくまくしたてる。まるっきり小うるさい母親みたいである。
 帰ってくるなりの説教炸裂に、まだ半分寝惚けていた啓太はパチパチと目を瞬いた。一瞬で残っていた眠気が吹っ飛んでいく。
 普段なら文句のひとつも言い返すところだったが、ろくに起動しきってない頭では何も浮かばず、罰悪そうにぽりぽりと鼻を掻いた。
「あー、だって……」
「だって、なんです?」
 有無を言わさぬ眼差しが恐ろしい。こういう時の森太郎は、おいそれと刃向かえないような妙な迫力がいっぱいである。
 啓太は唇を尖らせ、ぶつぶつと言い訳がましく呟いた。
「だって……おまえ帰ってくるの待ってたら、いつの間にか寝ちまったんだもん……」
「待ってた?」
 森太郎は驚いたように問い返した。
「待ってて……くれたんですか? わざわざ?」
「えっ?」
 彼に聞き直されて、啓太ははじめて自分の口にした言葉の意味に気がついた。
(あ、あれ?)
「あ、いや……べ、別にその、おまえを待ってたって訳じゃなくて……。だから、なんつーか……つまり……えーと」
 焦って言い繕うものの、あたふたと意味不明な言葉ばかりが口をつく。言ってる傍から、頬がポオッと熱く火照っていくのが感じられた。
(なな、何言ってんだ、俺。待ってるなんてそんな、そんなつもりじゃなくて……。ただなんとなくボーっとしてただけで……そりゃ遅いなあとか、まだかなぁとは思ってたけど……でも、単にそう思ってただけでさ……)
 自分に弁明するように心の中で言い訳をつらねるが、全然筋道がたってない。それどころか考えれば考えるほど己の心情が理解できなくて、いっそう頭の中が混乱した。
「えーと……あ、そうだ! 皆川、おまえ、飯食ったか? おまえのもホカ弁買ってあんだぞ。ほら」
 動揺を誤魔化すように、啓太はテーブルの上にあった弁当の袋を森太郎に突きつけた。だが今度は、彼の方が戸惑った様子を見せた。
「え、俺の分ですか?」
「ああ。どうせおまえのことだから、飯抜きでやってるんだろうと思ってさ。まだなんだろ、飯?」
 森太郎は、ちょっと困ったように眉をしかめた。
 先ほどの剣幕は嘘のように、物言わぬままじっと啓太を見つめている。やがて、しばらく言い惑った末に、申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません。仕事の後に彰人を呼び出して、ちょっと寄ってきたんです。一軒だけ」
 それは思いもがけない返事だった。
「あ……ああ、そう。……そうか、あいつと飲んでたんだ。なんだ」
 啓太は予想もしていなかった答えに、気が抜けたように呟いた。
 てっきり残業が伸びてこんな時間まで帰ってこないのかと思っていたら、そうではなかったのだ。
(あの男と……会ってたのか。ふうん、そっか……)
 頭の中に彰人の華やかな笑顔がよみがえった。まさか彼と会っていたとは……考えもしなかった。なんとなく、自分と森太郎以外の第三者の介入なんてある筈ないと思っていたのだ。
(でも……そうだよな、恋人同士ならデートぐらいするよな。そんなの当たり前か……)
 啓太はぼうっとして、差し出して途中で行き場をなくした弁当を見つめていた。何も返す言葉が見つからない。適当に返事して、冷やかしの台詞のひとつも吐いて笑い事で済ませばいいのに、そんなジョークも浮かばない。
 無言の、気まずい空気が流れた。
 自分勝手な思い込みでいらぬ善行をした者と、図らずもそれを裏切ってしまった者と、どちらもちょっとだけ胸が痛い。どちらもかける言葉を失っている。
 そのうち、そんな沈黙を破って森太郎がぽつりと口を開いた。
「あの……俺、これいただきます」
 そう言うと、二人の間に所在無く置かれた弁当の袋に手を伸ばした。啓太は慌ててそれを押さえた。
「おい。無理しなくていいって。明日俺が食うからさ」
「いえ、今食べます」
「いいってば!」
 意地になって引き戻そうとする啓太の手の上に、森太郎の大きな掌が重なった。がっしりとした意外なほど男っぽい彼の手。外から戻ってきたばかりで、指先にまだ少し冷たさが残っている。
 啓太は自分の手ごと掴み止められ、焦って引っ込めようとした。だが森太郎はいっそう強く握りしめ、離れていくのを許さなかった。
 じっと啓太の目を見つめ、静かに言った。
「無理じゃないです」
 真正面から向き合った彼の口元に、ふわりと柔らかな笑みが浮かびあがる。
「バーだったもんであまり物食べてなくて、俺腹へってんです。だからありがたくいただきます」
 にっこりと優しい瞳で、穏やかに微笑する。啓太は彼の眼差しに捕らえられ、何も返事をできなかった。
 頬が熱い。森太郎に握りしめられた手が熱い。胸がドキドキ高鳴って、体が硬直して、きっと耳たぶなんて先の先まで真っ赤になってるに違いない。
 彼がそっと手を離した。慌てて引っ込めた啓太の手の下から、森太郎は弁当を取ると、着替えもしないままその場で食べ始めた。白い発泡スチロールの蓋を開け、割り箸を割りながらチラリと顔を向けて言った。
「気を遣っていただいてありがとうございます」
「……う、うん」
 啓太は小さく頷いた。自分の余計なお節介に礼を言われるのも妙な感じだったが、嘘でも偽善でもない森太郎の誠意はしっかりと伝わってきた。
 それに、あんな顔で微笑まれては、何も言い返せるわけがないではないか。まだ心臓はとくとくと煩く騒いでいる……。
 啓太の見つめる前で、森太郎はもくもくと弁当を食べ始めた。美味いだのなんだのと愛想をふることはなかったが、すっかり冷めてしまった白い飯が大きな塊で口の中に消えていく。結構豪快な食べっぷりだ。本当に空腹だったのかもしれない。
 思わずじっと見とれていると、ふと顔を上げた彼の視線とぶつかった。啓太は焦って取り繕った。
「あ、お、俺、コーヒー入れるぜ。いや、飯食ってんなら茶の方がいいかな?」
「コーヒーをお願いします。すみません」
「うん。へへへ」
 啓太は意味もなく笑うと、キッチンに行ってコーヒーを二人分入れ、また彼の元へと戻った。森太郎はまだ食事中だった。黙って食べ続ける彼を眺めながら、啓太はぽそりと声をかけた。
「なあ、皆川?」
「はい?」
「あのさあ」
「はい」
「夜中に飯喰うと太るぜ?」
「げほっ!」
 森太郎は思いっきりゲホゲホとむせかえった。気の毒になるほど派手に咳き込んでは、啓太が思わず心配して差し出したコーヒーを啜り、ようやく落ち着きを取り戻す。すっかり涙目になった瞳を向けて、恨めしそうに呟いた。
「……風倉さん」
「ん?」
「もしかして、苛めてますね?」
 啓太はけろりとして笑みを返した。
「えへへへ、別にぃ。あ、おまえ、残さず食えよ。せっかく買ってきてやったんだからさぁ、へへへへ」
 上機嫌で話す啓太に、森太郎はじろりとにらみつけては、しっかりとやり返してきた。
「なるほど、そういう魂胆でしたか」
「なんだよ?」
「俺のこと太らせてから食べようとか考えてるんでしょう?」
 冷ややかに向ける瞳がどこか面白そうにきらめいている。啓太は負けじと鼻で笑って返した。
「ばあか、誰が食うかよっ、おまえみたいな似ても焼いても食えねえやつ。おまえなんて食ったら食中りするってんだ、ふん」
「あ、失礼だなぁ。俺、風倉さんになら美味しくいただかれてもいいと思ってるのに」
「ぶはっ!」
 今度コーヒーを吹いたのは啓太の番であった。
 先ほどの森太郎以上に激しくむせかえり、カラカラと得意げに笑っていた顔を真っ赤にしてジタバタとのた打ち回った。しばらく苦しんだ後、なんとか声を出せるようになった開口一番、大声で叫んだ。
「おおお、おまっ! 何言ってんだ? 皆川ぁ!」
 見返す森太郎の口元が嫌みったらしく笑っている。飄々とした眼差しは、すっかり勝ち誇った余裕のそれだ。明らかに形勢逆転の優位を自慢げに見せびらかしている。
 啓太は真っ赤になって絶句した。からかわれた怒りと、それに先ほどの言葉の両方で頭にかーっと血が上る。憤然として立ち上がると、小鼻を膨らませて叫んだ。
「お、俺はもう寝る!」
 そのまま返事も聞かずに背を向けると、さっさとベッドに潜りこんだ。パーテーション代わりの棚の向こうでは、森太郎がくすくすと笑っている。いつまでもいつまでも、それは嬉しそうに、それは楽しそうに。
 何がそんなに面白いんだろう。
(ちくしょー、ちくしょー、皆川のバッカヤロー! もう二度と待っててなんかやらないからな、ふん!)
 啓太はぷんぷん腹を立てながら眠りについた。だけどその晩見た夢は、なんだか少し幸せな夢だった。
 その夢の中に森太郎が出てきたということは、朝になったら夕べの怒りと共にすっかり忘れていたのだけれど……。

                                                                                                  ≪続く≫

 

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