あいつが笑っている。
俺の大好きなあいつが、ほんの少し向こうに立って、俺を見つめながら笑ってる。
大きめの口。零れる白い歯。高い鼻。細くすがめられた目の奥で、優しくきらめいている黒い瞳。
全部俺が無くしたもの。
だからこれは夢なんだと、俺はすぐに理解する。
夢でもいいと思う。たとえそれが一瞬の泡沫でも、俺があいつに逢えるのはもう夢の中でしかないのだから。
――吉鷹!
あいつが俺の名を口にして手を振って俺を呼んだ。久しぶりに聞くあいつの声がとても嬉しくて、だけど胸が苦しくて……。
どうしようもなく哀しかった。幸福なのにせつなかった。
目頭が熱くなり、涙がひとつ零れ落ちて頬をぬらした。もう一滴、もう一滴、俺を涙に浸していく。孤独の繭が紡がれる……。
「おい、ヨシ。起きろよ」
肩を揺すられて目が覚めた。
まだぼんやりとした俺の目の前に、一人の男の顔があった。
それは夢の中の男ではなく、また俺が傍にいることを許した相手でもなく、だけどよく知った男だった。
俺は目を擦りながら、寝惚けた声で尋ねた。
「……、今、何時?」
マッキーは時計も見ずに答えた。
「真夜中の二時。丑三つ時」
「……もうそんな時間? やば……」
「よく寝てたから起こすのも何かと思ったけどな、泊まってくわけにはいかないんだろ? なら起きろよ」
「ん……」
俺は力の入らぬ体をゆっくりと起こし、ベッドの縁に腰掛けたまま、しばしぼうっと部屋を眺めていた。
ホテルの一室。
ラブホのわりにはシンプルで、変なけばけばしさや厭らしさが感じられない上品な内装だ。まあ容れ物がどうだって、中でやることにはなんの変わりもないのだが。
SEXの後の心地良い気だるさのままに、俺は眠ってしまっていた。こいつと睦みあうといつもそうだった。普段は得られない安らかな眠りを、俺は彼の広い胸の中で手に入れる。暖かく火照った肌に安堵して、いつのまにか寝てしまう。
どうしてかな? 自分でもわからない。でも、俺はそれが欲しくて、もう何度もこの男と肌を合わせているのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、彼にタバコを催促された。ヘビースモーカーなマッキーはいつもセックスの後にそうねだる。慣れない手つきで火をつけて渡してやると、寝転がったままさも美味そうに白い煙を吐いた。
「もう終電なんか、とっくに出ちまってるな」
ぽつりとマッキーが呟いた。俺は愛想なく返事した。
「そうだな」
「どうせ金払ってるんだし、朝まで寝てきゃいいのに」
いつもは言わないそんな未練がましい言葉を、今日は珍しく口にする。
「そうもいかないよ。明日も仕事だし……」
「それに可愛いワン公も待ってるし……ってか?」
嫌味ともからかうともつかない口調で彼が言った。目を向けたら、口の端を片方だけ歪めてニヤニヤと嘲笑っている。俺が睨みつけても、まるで動じる風もなかった。
いきなり俺の手を取ると、マッキーはぐいと引っ張って胸の中へと引き倒した。俺は驚き、彼のタバコを持った手を押さえて文句を言った。
「おい、危ないじゃないか。もう少しで付くところだったぞ」
だがマッキーは悪びれもせずに、俺を抱きしめては、そのままベッドに押さえつけて軽くのしかかってきた。
「おい、マッキー。タバコ……って」
彼は小うるさそうに小さく舌打ちすると、やれやれと言った顔でタバコを灰皿で揉み消し、上から見下ろして微笑んだ。下がり気味の目で蕩けそうに見つめながら、口だけはシニカルに嫌味ったらしい台詞を投げつけた。
「罪な飼い主だよな。ワン公が尻尾ふって待ってるのを知りながら、こうして遊んでるんだからな」
俺は下からきつく睨みつけた。
「犬呼ばわりするな」
「なんでも同じさ。わかっててほっといてる。今頃キュンキュン部屋で泣いてるんじゃないのか? 可哀相に」
「よせよ……。離せ、マッキー」
「もっとも、泣いてるのはこっちも同じか」
そう言うと、マッキーは指を滑らせて俺の頬を拭った。そこには先ほど流した涙が、まだ跡を残していた。
「こいつは、ワン公を思って流した涙じゃないよな。アンフェアだと思わないか?」
「…………」
俺は返す言葉を失って、眉をひそめたまま顔を背けた。マッキーはそんな俺をしばらく見下ろしていたが、やがてひとつ吐息をつくと体を離した。転がされた俺の傍らに座り、今度は自分から新しいタバコに火をつけて、ゆっくりと燻らせる。漂う紫煙を目で追いながら、ぼそりと言った。
「いい加減に、ガキとママゴトするのやめたらどうだ?」
俺が黙っていると、今度はひどく優しい目を向けて、諭すように微笑した。
「おまえはガキの手に負えるような男じゃないぜ。こんな、体も心も質面倒くさい奴ぁよ?」
「……悪かったな。面倒で」
「おまけに素直じゃない。ひねくれてる」
俺がつんと唇を尖らせると、彼はくすりと小さく笑って、手を伸ばし俺の髪をまさぐった。ぐしゃぐしゃっとかき乱し、手荒く、子供にするみたいに撫で回した。俺はその手を感じながら、目を閉じて呟いた。
「俺は……あいつが好きだから……。好きだから、大事にしたいんだ。傷つけたくない。泣かせたくない」
マッキーはしばし無言でいたが、そのうちフフンと哀しげにせせら笑った。
「おまえね、それ、言ってることとやってることが矛盾してるぜ。バーカ……」
二人の間を静かな沈黙が支配する。やがて彼は大きくため息をついてから、ぎゅっと俺の頭を小突いた。
「シャワーでも浴びてこい。俺の匂いをさせて帰るわけにはいかんだろう?」
無言のまま頷いて、ゆっくりと起き上がると浴室へと向かった。
タクシーに乗って家に帰ると、部屋の窓には明かりが灯っていた。
真っ暗な部屋に戻ることに慣れている俺は、それを見るといつも少しだけ妙な感覚を覚えた。留守をしていた自分の部屋に、自分ではない誰かがいる。なんだか奇妙な気持ちになる。
嬉しいような、窮屈なような、ホッとするようなしないような、変な感じだ。だけど、とりあえず一人じゃないんだと実感させてくれる……。
そんなものを、俺はカツミからたくさん貰っている気がする。
なるべく音を立てないようにして部屋に入ると、テレビがくだらない深夜番組を垂れ流していて、その前にカツミが眠っていた。食べかけたスナック菓子の袋や空になったペットボトル、マンガの週刊誌らが乱雑に散らばっていて、その真ん中に埋れるみたいに小さく体を縮こまらせている。
俺はそっと辺りの物を片付けると、ベッドから毛布を剥ぎ取って彼にかけてやった。
と、寝ていると思っていたカツミが、小さな声で呟いた。
「おかえり、ヨシィ」
俺はちょっと戸惑いつつも、応えて返した。
「あ、ああ、ただいま。起こしてごめん」
「俺、寝ちゃってた。つい」
力のない声。寝起きのせいか、それとも別の理由か。
「……待ってたんだけど、眠くってさ」
毛布の向こうからほんの少しだけ顔を覗かせて、カツミは寂しげに微笑んだ。そんな彼を見ていると猛烈に罪悪感がわきあがって、俺は毛布の上からそっと華奢な体を抱きしめた。
「ごめん……」
思わず漏らした謝罪の言葉に、彼は苦しそうにささやいた。
「謝んなよ」
小さな体が、いっそう固く縮こまる。
「謝んなよ、ヨシィ……」
震える声……。
カツミは俺のやってることを何もかも気づいてる。
気づいてて、何も言わない。じっと俺を待っている。
独りの部屋で……幾度もの裏切りの夜を過ごしている……。
俺にはかける言葉がなかった。ただ苦しくて、ただ痛くて、黙って抱きしめるしかなかった。
長い間そうしていたら、カツミが消え入りそうな声でそっと言った。
「ヨシィも早く寝なよ。明日も仕事だろ?」
優しさが、尖った氷の切っ先みたいに突き刺さった。
……いや、そうじゃない。おまえはもっと傷つけていいんだ、カツミ。俺の全てを、何もかもを、その刃でずたずたに切り刻んでくれ。裂いてくれ。粉々にしてくれ。
痛みが、後悔や自己嫌悪の苦痛を凌駕してしまうほどに……。
会社で仕事に没頭している時間は、最近の俺にとって一番ホッとできる時かもしれない。
その間は何も余計なことを考えなくて済む。自分が一人でいることが当たり前で、不安も孤独も関係ない。気を遣う必要もない。
榎本は相変わらず俺を避けていたけれど、それはもう仕方のないことだと諦めていた。それに原因を作ったのは自分自身だ。責める気持ちだって毛頭ない。そんな資格すらないのだし。
しかしその日は少し違っていた。
昼休みになってオフィスが開放的な喧騒に包まれる頃、俺はそれまで睨んでいたモニターから目を上げて、ふうと一つ息を吐いた。一段落ついたついでに昼飯でも食いに行こうか。もっとも最近はずっと食欲がなくて、ろくなものを食べてなかった。おかげで貧弱な体がいっそう情けないことになる。
(雅也が知ったら、思いっきり説教してるところだろうな)
そんなことをふと思って苦笑しつつ、俺は近くのカフェでコーヒーでも飲んでこようと椅子から立ち上がりかけた。ちょうどその時、いきなり後ろから声をかけられた。
「おい、富士木。飯。飯食いに行くぞ」
振り返ったら、榎本が立っていた。
仏頂面で相変わらず視線を横に逸らしたまま、それでも気持ちだけは100%俺に向けている。緊張しているのか、小鼻が時々ピクピクと小さく動いた。
俺はちょっと驚いて、どもりながら聞き返した。
「え? め、飯って……お、俺と?」
「富士木はおまえしかいないだろう? 何とぼけたこと言ってんだよ。ほら、行くぞ」
「あ、うん……」
榎本は俺の返事も聞かずに勝手にどんどん行ってしまうので、慌ててその後をついていくしかなかった。
彼は前を歩きながら、目もくれずにぼそぼそと喋った。
「八丁目の中通りに美味い定食の店を見つけたんだ。けっこう穴場だから、そう混んでない」
「そう」
「おまえ、和食好きだろ?」
「うん」
「漬け物がさ、美味いんだぞ。お袋の味って感じでよ」
「うん」
なんだかおかしな会話だった。あまりにも普段通りで、それが逆に妙な緊張感を漂わせている。どう見ても無理してる榎本がそこにいて、だけど不快な感じは全然しなくて、俺も困惑はしたけれど突っぱねる気にはなれなかった。
店に入って向かい合って座っても、彼は一度も俺と目を合わせようとはしなかった。目の前の料理と週刊誌にだけ交互に視線を落とし、大口を開けて黙々と食べている。そのくせ口うるさくなんだかんだと世話を焼いた。
「こっちの定食の方が絶対美味いからこっちにしろ」
「おまえ、それ醤油のかけ過ぎ。少しは塩分控えろよな」
「何残してんだ。全部食えよ。勿体無いだろ?」
なんだって俺の周りの人間は、こんなに世話を焼きたがる奴ばかりなんだろう。まるで人を子供みたいに扱いやがって。それとも俺って、よほど頼りなさそうに見えるのかな?
そんなことを思って内心で苦笑した。
だけど……こんな雰囲気はいやじゃなかった。呆れながらもどこかホッとしている自分がいた。
また彼と、こんな風に付き合っていけたら……。
以前と変わらぬ関係なんて、それは虫のいい願望だ。あの日俺がつけてしまった傷は永遠に消すことはできない。そんなのわかりすぎるほどわかってる。だけど、それでももう一度やり直すチャンスがあるのなら、できるものならば……取り戻したい。
そう望むのは許されないことなんだろうか? 間違いは、二度ととりかえせないのだろうか……。
会社に戻る途中、榎本の後ろを歩いていた俺は、おずおずと声をかけた。
「あ、榎本……?」
彼は背を向けたまま返事をした。
「ん?」
「あの……ありがとう……な」
しばしの沈黙の末、彼は少し苛立ったような口調で聞き返した。
「……なにが?」
「いや、だから、その……美味い定食屋を教えてくれてさ」
またしばしの沈黙。怒ってるみたいな横顔だけど、なんだか必死に言葉を探しているようにも見える。そのうち、そっぽを向いたままぶっきらぼうに呟いた。
「おまえ……一人にしておくと飯食わないし。仕方ねえから……」
「……うん。ありがとう」
それっきり二人とも口を閉ざした。
会社までそれぞれ下を向いたまま黙々と歩き続けた。だけど居心地は悪くなかった。以前とは違ったけれど、そこには新しい何かがあった。
俺はその日久しぶりに美味い食事を口にして、体の芯が熱くなる感じがした。
俺が三杯目のジンを注文した頃、それまで黙って音楽を聞いていたマッキーが突然ぼそりと呟いた。
「俺なぁ……別れたよ、あいつと」
俺はグラスを持つ手を宙に止め、しばし彼の横顔を見つめた。
「そう……」
一言相槌を打ってからまたしばらく沈黙し、グラスの中の氷の欠片を長い間眺めていた。四角く尖った透明な塊は、ゆっくりと溶けて時々チャリンと音をたて、それぞれの居場所を変えた。閉じ込められた小さな泡が、開放されて上へ上へと駆け登っていく。
俺は視線をグラスに置いたまま、静かな声で尋ねた。
「それって……俺のせい? 俺が原因なのか?」
マッキーは少し考えた後で、うっすらと微笑した。
「半分は、そうかな? でもあとの半分は違うな。誰のせいでもなくそうなった」
「誰のせいでもなく?」
「んー、まあ……俺のせいかもな? やっぱり」
難しく顔を歪めカリカリと罰悪そうに頭を掻くマッキーに、俺は意地悪く言い足してやった。
「きみのせいだよ。間違いなくね」
二人して目を合わせ、くすりと鼻で笑って互いの様子を窺い合う。
マッキーはグラスに残ったウィスキーを飲み干して、顔を寄せるとニヤリと意味ありげに笑った。瞳が誘うように潤んでいた。
「んな訳で、俺、今フリーなんだよな」
「だから?」
「うん、だからさ、俺とつきあわねえか、ヨシ?」
俺はちょっと眉を上げて、訝しげに聞き返した。
「……つきあうって、なんだよ、それ?」
「つまりよ、年下のガキなんかやめて、俺に乗り換えないかっつーことだ」
あまりにもさらりと口にした台詞に、俺は思わず吹き出して笑った。
「おい、ひどいな、それ。きみって奴はまったく最低な男だ」
「マジで言ってんだぜ?」
あくまでも飄々とした彼に俺はしばらくクスクスと一人で笑っていたが、そのうち笑うのをやめて静かに言った。
「きみと、つきあって……今と何かが変わるかな?」
マッキーは俺の目を見つめながら、素気なく応えた。
「さあな」
「あまり今と変わらない気がする。こんな風にここで待ち合わせて、飲んだ後に寝て、終わったら別れて……。きっと変わらない。きみは相変わらず俺以外の男と寝るだろうし」
「否定は……できないな」
マッキーは肩をすくめてあっけらかんと言い放った。正直すぎる答に、俺は呆れてまた笑ってしまう。
それから、彼を正面から見つめながら、ゆっくりと語った。
「何も変わらないのなら、きみとつきあう意味はないよ、マッキー」
「意味なんて、後からついてくるもんじゃないのか?」
「……そう、そうだな。そうかもしれない」
俺は珍しく真剣な色をした彼の瞳に包まれながら、頭の中で自分の思いを探し集めて、ひとつひとつ言葉を選んで口にした。
「だけど、今俺が一番欲しいのは、その意味なのかもしれない。一緒にいることの意味……。そんなものを実感させてくれる相手が欲しいのかもしれないんだ……」
「俺じゃあ、一緒にいる価値はない、か?」
「価値じゃないんだ。意味なんだ……。うまく表現するのは難しいけど……。きみといるとホッとするよ。安心して、心が和む。とても気持ちがいい。いつまでもすがっていたい。……だけど、それだけじゃだめなんだ。ただの逃げ場所ではなくて、対等にお互いを想い、欲しあうような、そんな関係が今の俺には必要に思えるんだ」
マッキーはしばらく真面目な顔で何かを考えていたが、やがて静かに聞いた。
「今のガキは、感じさせてくれるのか? おまえに?」
「わからない……。でも、カツミは……俺のために一生懸命でいてくれるから。俺も一生懸命でありたいと、そう思う。――まあ、随分裏切ってしまってるけどな、現実には」
俺が自嘲すると、彼はおどけたように相槌を打って肩をすくめた。それから一度大きく嘆息すると、もういつものように優しい瞳に戻って、言葉だけは呆れはてたって感じで言い放った。
「まったく、ほんとに質面倒くさい男だな、おまえはよ」
「ごめん……」
彼は手を伸ばすと、その大きな手のひらでゆっくりと俺の頬に触れ、柔らかく撫であげた。ゴツゴツとした指の腹で優しく鼻筋に沿ってなぞり、唇を愛撫し、最後に額に戻って振り掛かった前髪をそっとかきあげる。ひどく寂しい笑顔を向けて、独り言みたいに呟いた。
「おまえは、俺のためには泣かないしな」
その笑みは、少しだけ心をせつなくする。
……そう、きみのためにはきっと泣けない。だけど、きみだって俺のためには泣かないだろう。
お互いそれを知っているから、俺たちは深く奥まで踏み込むことはできないのだ。心地良いけれど、いつも中心が冷めてるような、そんな関係でしかいられない。自分の中の、特別なたったひとつには成り得ない……。
俺は顔に触れた彼の手をそっと外すと、微かに笑みを浮かべた。
「俺、帰るよ」
見つめるマッキーの瞳は、引き止めてはいなかった。ただ言葉だけが、からかうような口調で返ってきた。
「なんだ、早いじゃないか、今夜は。もう浮気は飽きたってか?」
俺は唇の端を歪めて苦笑した。
「ママゴトの続きしなきゃな。あまり泣かせてばかりじゃ、それこそこっちが捨てられちまうから」
椅子から立って背を向けかけた俺に、マッキーがもう一度声をかけた。
「ヨシ?」
「ん?」
「……いや。ワン公によろしくな」
何か言いたげな表情をいつものポーカーフェイスで押し隠すようにして、彼は柔らかく笑ってみせた。俺は何も言わずにその笑みを受け取った。それだけで終わる関係は、決して意味のないものじゃない。だけど俺には……似合わない。
その夜、電車を降りて家までの道のりを、俺はずっとカツミのことを考えていた。考えようとしていた。
どうしたら、彼の一生懸命に報いてやれるのか。カツミの喜ぶことってなんだろう?
週末に、二人で何処かへ出かけようか? 普通の恋人同士みたいに、手をつないで遊園地で遊びたいよねなんて、少女みたいなばかげた夢を語ってた。
さすがに真昼間から手はつなげないけれど、でも並んで歩くぐらいならしてやれる。
太陽の下で、カツミは眩しく笑うかな? そう言えば俺はしばらく彼の笑顔を見ていない気がする。俺を幸せにしようと一生懸命だった彼の微笑みを、もう長い間忘れてる……。
(カツミ……ごめん)
後悔ばかりが胸の奥から湧き上がった。
部屋にはいつものように白く明かりが灯っていた。
誰かが自分を待っている……それはやっと慣れかけた光景だった。
だけど、いつものようにあいつはそこにいなかった。少し寂しげな響きをこめて、お帰りと返す言葉はなかった。
俺は狭いマンションのあちこちをまわって、彼の姿を捜し求めた。
「カツミ、カツミ? いないのか、カツミ?」
どこからも返事はなかった。
カツミは俺の傍からいなくなった……。
≪続く≫ |