きみが「またな」と囁いた

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--act  8                       
 

 俺が再びカツミと会ったのは、それから五日後のことだった。
 あの夜突然居なくなったまま、彼は結局、もう俺のマンションには帰ってはこなかった。部屋の中はいつもがらんとしていて、やけにだだっ広くて、どうしようもなく静かだった。外から見える真っ暗な窓が寂しかった。
 何度携帯に電話してもあいつは出ず、メールを出しても何の返事も返ってこない虚しい日々が何日も続いた。
 俺は会社が退けてから、毎晩カツミの行きそうなところをあちこちと捜しまわった。彼を求めて彷徨い歩いた。
 このままうやむやにしてしまっては絶対ダメだと、自分の中の何かが叫んでいた。
 もう一度会って、ちゃんと話をしなければ。彼にすまなかったと謝罪しなければ。
 いつもいつも裏切って悪かった、後悔している、だから許してくれるなら、やり直そう……。今度こそ俺はちゃんとおまえを幸せにするからと、彼に言いたかった。伝えたかった。
 だからどうしてもカツミを探し出さなければならなかったのだ。
 ようやく彼を見つけたのは、以前彼が時々遊びに行くのだと話してくれた小さなゲイバーでだった。バーとは言っても名ばかりの、安い酒と簡単なスナック菓子が置いてあるだけの、もっぱら男を見つけるだけが目当ての店。煩い音楽が耳をつんざくほどに鳴り響き、それに混じってがやがやと人の声が不協和音を奏でている。
 そんな中で、あいつは誰かとべったりとじゃれあいながら楽しそうに笑っていた。
 肩に置かれた手に頬をこすりつけ、甘えるみたいに上目使いに見上げては、赤い舌をちらつかせ艶かしく男を誘っている。俺の知っているカツミの姿だ。背伸びも萎縮もしていない、そのまんまの彼だ。
 俺が近づいていくとすぐに気づいて、一瞬驚愕の表情を浮かべた後に、今にも泣き出しそうに顔を歪めた。目を伏せ、うつむく唇が小さく震えている。そんなカツミを見ていると、せつなくて胸がぎゅっと締め付けられた。
「カツミ……」
 声をかけると、彼はふいっと顔を背けた。
「話が、したいんだ。ここを出よう」
 俺がそう言うと彼は少し惑うように間を置いてから、無言のままこくんと小さくうなずいた。周りの男たちが胡散臭そうに睨む中、俺は彼と連れ立って店を出て、人の来ない非常階段の踊り場へと行った。そこはビールケースやらダンボール箱やらが乱雑に置かれていて、薄暗くて汚れていた。
 本当ならもっと落ちつけるきれいな場所で話せばよかったのだけれど、でも一刻も早く自分の思いを伝えたくて、俺は気ばかりが焦っていた。
 背中を向け、染みのついた灰色の壁を見ているカツミ。
 その細い肩。華奢で小さな後ろ姿。そんな彼に、俺は謝っても謝り足りないくらいのたくさんの傷を負わせてきた。
 彼の精一杯に応えたいと切望しながらも、心も体も言うことを聞かずに、反対ばかりを返していた。
怒っているのだろうか……。
 そうかもしれない。いや、怒っていて当たり前なのだ。
 俺はずっとこいつを裏切り続けてきたから。辛い思いばかりをさせて、なのにいつだって甘えて、彼の優しさに、暖かさに、彼の一生懸命にすがりついていた。
(ごめん……カツミ……)
 そう伝えるために口を開きかけたその時、俺の言葉を遮るように彼がぽつりと呟いた。
「……まさか、またヨシィに会えるとは思わなかったよ」
 俺は機を制され、なんだか間抜けに応えた。
「あ……ああ、探したんだ。随分」
「だからさ……。あんたが探してくれるなんて、全然思ってなかったし」
 半身だけ振り返っては、ふっくらとした唇を少しだけ斜めに歪めて、彼は薄く笑った。力のない笑みが、薄暗い空間に寂しげに浮かび上がる。
 俺はどうしてよいのかわからなくて、そんなカツミを見るのが忍びなくて、ただもう地面にひれ伏してでも彼に許しを乞いたかった。
「カツ……」
「ごめんね……」
 もう一度俺の言葉をかき消したのは、小さな小さな謝罪の声だった。
「え……?」
「……ごめん、ヨシィ。ごめん……」
 カツミは一度も俺の顔をまともに見ようとしないまま、汚れた踊り場の床を見つめながら何度も何度も繰り返し謝った。
「ごめん……ごめん、ごめ……」
 繰り返す言葉の語尾が、だんだんと掠れて消える。
 声が震えている。泣いているのか?
 どうして?
 俺は何がなんだかわからなかった。だってそうだろう? 謝るのは俺で、カツミじゃないんだ。悪いのは俺。他の誰でもない。カツミは何も悪くない。なのに、なんでこんな風に謝るんだろう?
 どうして俺を責めないんだ? 何故そんな苦しげな顔をしているんだ?
 わからない。わからないよ、カツミ……。
「カツミ……」
 俺が呆然としたまま呟くと、彼は涙で一杯になった瞳をあげて、初めてちゃんと俺を見た。一度大きく鼻を啜っては、掠れた声で必死に泣くのを堪えながら彼は話し出した。
「俺さ、俺……大丈夫な筈だったんだよ」
 俺の戸惑いをよそに、カツミは自嘲するように無理やり哀しい笑みを作ってみせた。
「俺、絶対自分がヨシィを幸せにしてやるんだって、そう思ってたから。俺、ヨシィと雅也が二人でいるのが大好きで、二人が幸せなら俺も幸せで、俺もヨシィたちみたいな素敵な恋人同士ってのになってみたかった。ずっとずっとあんたたちに憧れてた。……だけどそれが壊れちゃって、ヨシィすごく可哀相そうで……、じゃあ俺が……俺が雅也の代わりになろう、あんなカッコいい恋人になってヨシィをまた前みたいに幸せにしてやるんだ、絶対そうしようって、勝手に思ったんだ。そうできるって信じたんだ」
 カツミは細い体を小さく丸めて、自分の腕で自分自身をかき抱くようにして喋り続けた。
「バカだよな。そんなの無理だって今ならわかるのに。雅也の居場所が空いたからって、そこに収まれば雅也になれるわけじゃない。彼と同じになんて……絶対になれない。……なのに、バカだから思い込んじゃって……。でも俺、頑張った。一生懸命やったんだ。なんとかヨシィの笑う顔が見たくてさ、精一杯頑張ったんだよ……。必死でさ」
 カツミの悲鳴みたいな心が、震える声を通して伝わってくる。
 ああ、知ってる。
 知ってるよ、カツミ。
 おまえはいつも一生懸命だった。俺を幸せにしようと尽くしてくれた。
 俺は充分感じてた。
「でも……ダメだった。あんたはいつだって苦しそうで、笑ってても瞳の向こうが辛そうでさ、全然幸せそうじゃなかった。かえって無理させてる感じがして、俺も見ていて苦しかった。だけどどうしたらいいのかわからないんだ。俺、なんにも出来なくて、いつも泣きたいくらい悔しくて……」
 淀んだビルの片隅で、カツミが必死に思いを言葉にして紡ぎだす。まるで懺悔でもしているように。
「それで俺……逃げた。どうにもできなくなって、あんたから逃げ出した。……俺、偉そうなこと言ったのに、あんたを幸せにするって約束したのに、結局は降参して、さっさと尻尾巻いて逃げちまった……。あんたを途中で……放り出した……。ごめんね、ごめん、ヨシィ」
 最後の方はまた涙声になって、彼は唇を噛み締めた。もうそれ以上は語れないのか、そのまま黙って床を睨みつけたまま突っ立っていた。
 俺はといえば、やっぱり何も言葉が見つからなくて、沈黙したまま長い間彼を見つめていた。
 カツミの後悔を、俺は知る。
 怒りでも憎しみでもなく、見放したのでもなく、ただ苦痛に耐えきれなくて、彼は俺の元から離れていった。俺という男を受け止めきれずに投げ出した。そしてそれに深く傷ついている。俺を傷つけてしまっただろうことに苦しんでる。カツミは、自分のしてきたこと全てに対して後悔しているんだ。
 ……そんな、哀しい思いをさせてしまったのは俺なのに。悪いのは何もかも俺で、おまえじゃない。
 謝るのは、俺だけでよかったんだ……カツミ。
「俺は……随分おまえに助けられた」
 俯くカツミを見つめながら、俺はぼそぼそと独り言みたいに喋った。
「一人っきりで、どうやって生きていったらいいのかわからなくて、ボロボロになって、もうどうなってもいいのだと投げ槍になって……。だけど、おまえが傍にいてくれたから、俺はなんとかやってこれた気がする。おまえが俺を温めてくれたから、明るく笑っていてくれたから、それに……救われて……いつも」
 苦しくて言葉が詰まった。
 俺の胸の中にも後悔ばかりだ。
 カツミを裏切りつづけた後悔。泣かせた後悔。ここまで追い込んでしまった後悔。
 彼を……受け入れてしまった後悔。
 こんな辛い思いをさせてしまうのなら、彼に許さなければよかった。俺の中に踏み込んでくることを。
 あの時拒んでいたら。あの暖かい手を、体を、遠ざけていたなら……そうしたら俺たち二人は、こんな苦しみを抱かなくてよかった。こんな風に別れなくてすんだ。悔恨という痛みに押し潰されることはなかったんだ……。
「ごめん……カツミ」
 絞り出すように口にした謝罪の言葉を、カツミは激しく否定した。
「やめろよ! やだよ、ヨシィ。あんたは謝んないでよ!」
「カツミ」
「ヨシィが謝ったら、俺ほんとに……惨めになる。全部俺がバカだったから、だから俺たちはダメだった。最後までバカで、かっこ悪く逃げ出して……。本当はあんたは俺のことなんて捜しちゃいけなかったんだ。サイテーな奴だって怒って、恨んで、そしてそのまま忘れてくれればよかった。それで終わらせてくれればよかったんだよ!」
「おまえともう一度やり直そうと……そう思って、捜してた……」
「ヨシィ……そんなの、できるはずないじゃんか」
 カツミは自虐的な笑みを浮かべて、ゆっくりと首を振った。
「ヨシィ、わかってんだろ? ほんとに欲しいものはなんなのか。ほんとにほんとに一緒にいたかったのは誰なのか。それ、俺じゃないだろ? ヨシィ……俺のこと、愛してないだろ……? 本当に愛してるがなかったら、何度やってもだめなんだよ。やり直したって無駄なんだ。俺じゃダメなんだって、わかってるくせに……バカヤロウ」
 カツミは堪えきれずにぽろぽろと涙を流した。押し留めるようにぎゅっと堅く瞼を閉じたけれど、その向こうから透明な雫が溢れては零れ落ちる。
 俺は沈黙したまま立ち尽くした。なんの言い訳もできなかった。何も償えない。何も応えてやれない……。
 愛は……なかった。カツミのいう通り、そんなものは何処にもなかった。
 俺はこいつが好きで、こいつに助けられて、一緒にいるとホッとし、彼の温かさに癒されたから……彼の想いに報いてやりたいと心から願った。そうできればどんなに楽だろうと、誰よりもわかっていた。
 でも愛してはいなかった。始めから最後まで。
 ただじっと見つめているだけの俺の前で、カツミはゴシゴシと荒っぽく涙を拭っては、真っ赤になった瞳で俺をとらえた。もう逸らすことなく、真正面から見返してきた。そして一度大きく息を吸って、掠れた声ながらキッパリと言い放った。
「でも俺、やっぱ後悔してないから。俺、マジにヨシィのこと好きだったし、少しでも一緒に暮らせて楽しかったし、ヨシィのこと……抱けて嬉しかったし。……だから」
 カツミは一呼吸置いて、しっかりとその言葉を口にした。
「バイバイ、ヨシィ」
 そのままくるりと踵を返して行ってしまった。
 俺一人をそこに残して。
 俺は長い間ぼんやりと立ち尽くしていた。遠くから流れてくる音楽。時折響く喧騒、人の声。更にその向こうにある、恐ろしいほどの静寂。
 俺は一人でそんなものを聞いていた。
 それから近くにあったビールケースを何度も何度も蹴飛ばした。ガンガンと、爪先が痛くなるほど蹴飛ばした。
 狭く汚れた一角に、耳障りな音が鳴り響く。微かに混じる俺のうめき声を掻き消すように。
 



 どうやってそこまで行ったのかは定かではない。
 俺は、気がついたらいつもマッキーと会っていたあの店の前に立っていた。
 ドアを押して中へと入る。足がふらついた。随分酔っ払っている。いったい何処でどれだけ飲んだのだろう。そんなことも少しも覚えちゃいなかった。
 霧のかかったような頭で、ぼんやりと店内を見回した。人の顔がよくわからない。見えているのに判別できない。目を眇めて目当ての人物を探していたら、運良く彼はそこにいて、俺を見つけて驚いた顔で近寄ってきてくれた。
「ヨシ? どうしたんだ?」
 俺は薄く笑って応えた。
「へへ」
「なんだ、おまえ酔ってるのか? どうしたんだ、いったい?」
「ヤケ酒」
「はあ?」
「マッキー、ホテル行こ。ホテル。もういらねえってくらい抱かせてやるからさぁ」
 半分ろれつのまわらない口でそう誘いながら、俺は彼の肩に両手をかけてしなだれかかった。酔った勢いで声を潜める気遣いすらない俺に、さすがにクルージングスポットとは言え表向きは普通のジャズバーのこの場所では気が退けたのか、マッキーは焦った様子で俺を店外へと連れ出した。
 外に出て人気のない小路へと入ると、彼は改めて問いただした。
「おい、おまえ、どうしたんだよ? 何があったんだ?」
 俺は自虐的に笑いながら答えた。
「へへ、ふられた。とうとう逃げられちまったよ、可愛いワン公にさ。もう俺とママゴトはしたくねえってさ。ははははっ」
 マッキーが訝しげに眉をひそめる。
「だからさぁ、俺もフリー。晴れてフリー。だからマッキーとつきあっちゃう! さっさと一発やろうぜぇ」
「バカ野郎、何ほざいてんだよ。人のこと必要ねえだの突っぱねておきながら」
「やなのかよ? んじゃ別にいいけど、やるだけやろうぜ、これまでみたいにさぁ。今夜は朝までたっぷりさせてやっからぁ。何発抜きてえ? ここででもいいぜぇ。も、やーりたい放題の大サービス! あはははっ」
「バカか、おまえは」
 マッキーは手荒く俺の頭を小突くと、怒ったような顔で俺の腕を引っ張って歩き出した。そしてうだうだと煩くわめく俺を持て余し気味に扱いながらも、要求通りラブホに連れて行ってくれた。
 中は暖かかった。
 隅々まで心地良く整えられた空調と、誰でも受け入れてくれそうな下卑た華やかさが、俺の心を束の間だがホッとさせた。
 俺はさっさと背広の上着を脱ぎ捨て、ネクタイも乱暴にもぎ取って、マッキーに抱きついた。
「なあ、早くやろう。今すぐ抱いてくれよ、ねぇ」
 その頃になると、酔いも少し醒めていた。それが怖くて、ぼやけていた頭がクリアになるのが恐ろしくて、一刻も早く別の世界に酔わせて欲しかった。
 だがマッキーは冷たい瞳を投げかけると、荒っぽく俺をベッドの上に突き飛ばした。
「寝ろよ、おまえは」
「なんだよ、やらねえのか?」
「へべれけの男なんざ抱けるか」
「なにカッコつけてんだよ? 男のケツなんざ酔っててもなんでも同じだろうが。ええ? 挿れて気持ちよけりゃなんでもいいだろ? 違うかよ?」
 しかしどんなに挑発しても彼は乗ってはこず、ただ冷ややかな目で見下すだけだった。俺の方がすぐに挫けて、ちっと小さく舌打ちし、そのままだらしなくベッドの上に寝転がった。
 マッキーがその横に腰を下ろし、煙草を出して吸い始めた。天井を見つめた俺の視界に、白い煙がゆっくりと流れてきた。
 静寂。
 俺は漂う霞みを見つめながら、すっかり力の抜けた情けのない声で呟いた。
「マッキー、抱いてよ……」
 彼は素気なく応えた。
「寝ろ。大人しく」
「寝れない。怖くて……」
「何が?」
「一人じゃ、眠れない。寂しくて、死にそうだ」
「死ぬかよ、んな事で」
 彼は呆れたように鼻を鳴らすと、また黙々と煙草を吸った。長い長い時間が経ち、しばらくしてから、穏やかな低く甘い声で彼は話した。
「俺じゃ意味がないと言ったのはおまえなんだ。おまえを抱くのは簡単だが、それじゃどうしようもない。何も変わらないと言ったのもおまえなんだぞ。わかってるんだろ?」
「うん……」
「じゃあ俺にすがるな。相手を間違えるな。一人で寝て、一人で起きて、一人で探せ。おまえにとって意味のあるものを」
 何も答えなかった。ただ黙って聞いていた。
 暖かい部屋と柔らかいベッドの感触が、俺の強張った心と体をゆっくりと解きほぐす。マッキーの吐く白い煙が、ゆうるりと部屋に満ちていく。
 それを目で追っていた。
 胸の奥が熱くなって、何かが溢れてきた。それは喉元を駆け上がって、もうどうにも止められなかった。
 俺は天井を見つめたまま、掠れた声で呟いた。
「……泣くのも一人で泣けって?」
 一瞬の間を置いて、マッキーが呟く。
「ああ……泣け。勝手に」
 俺はうつ伏せると、間近にあった大きなフカフカの枕を引き寄せ、そこに顔を埋めた。嗚咽が堰を切ったように溢れ出した。
「う……うっう……う」
 音のない静かな部屋に、俺の声だけが低く響いた。俺はいつまでも泣いていた。それしかなかった。
 哀しみでもない苦しみでもない、ただ涙だけが止め処もなく溢れて、全ての隙間を埋めていくように俺の何もかもを支配する。
 途中で、マッキーが部屋を出て行った。俺はそれを背中で聞きながら、独り長い間ホテルのベッドの上で泣き続けていた。
 泣いて泣いて泣いて、泣いて泣いて泣いて、あらゆる感情を束の間に忘れ去った。また生きていく為に。




 目が覚めたら、部屋の電話が煩く鳴り響いていた。いや、その音に起こされたのか。
 いつの間に眠ってしまったんだろう。泣き疲れて眠るなんて、まるで小さな子供みたいだ。
 電話に出ると、フロントが時間を延長するのかどうか尋ねてきた。問われて時計を見ると、もう朝の八時が近かった。泊まりの料金は既に支払い済みだが、八時を過ぎるようなら延滞料が掛かるからと事務的な口調で見知らぬ男の声が喋った。
 俺はもう出ると答えた。その声が恥ずかしいほどしゃがれていた。
 受話器を置き、備え付けの自販冷蔵庫からコーヒーを買って、床に腰を下ろしてそれを飲んだ。ベッドを背もたれにし、両足をだらしなく投げ出して、ぼんやりと宙を見つめながら音を立てて啜った。
 無様な俺がいる。
 呆れるほどみっともない姿を剥き出しにした、情けのない男がいる。
 夕べのあの醜態はなんだろう。思い出すと笑っちまう。
 生まれて初めてってほど泣いたんで、なんだか頭の中が空っぽになってしまった感じだ。
 だけど悔いてはいなかった。それはありのままの姿だった。さらけださなければならない俺だった。
 俺は大きく息をつくと、残りのコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がって部屋を出た。外はもうすっかり朝で、眩暈がするほど天気が良くて、真っ白な光が室内に慣れた目にひどく眩しかった。俺は目を眇めながら、人気のないホテル街をゆっくりと駅に向かって歩いた。
 今から家に戻って、シャワーでも浴びて、着替えて……。もう絶対に会社は遅刻だなと思ったけれど、なんだかそんなことももうどうでもいい気がしていた。
 通勤の人の波に紛れて電車に乗り、出掛けて行く人々とは逆の方向に歩いて、自分のマンションに辿り着いた。部屋に入って乱雑に散らかった室内にゲッソリしながら、会社に電話の一本でも入れておこうかと脱ぎ捨てた上着から携帯を取り出した。
 二つ折りのそれを開き、小さなキーに指をかけたところで、俺はふと部屋を見渡した。
 朝の光に満ちた部屋。
 俺以外の誰もいない部屋。
 がらんとして、静かで、素気なくて、何かが足りない空間。
 足りないものはなんだ? どうして俺はここで独りなんだ?
 今ここに欲しいもの、何よりも、誰よりもこの瞬間に傍にいて欲しいものを、俺は知っている。
 それは初めっからたったひとつしかなくて、他のなにものでもあがなえなくて、唯一の俺の愛するもの。大切なもの。それだけが俺にとって本当に意味のあるもの。
 なのに、あいつは今ここにはいない。
 俺がこんなに逢いたいと欲しているのに、必要なんだと切望しているのに、彼はいない。俺を置いて行っちまった。
 俺に「またな」を残してくれなかった。
「あ……」
 俺は思わず漏れかけた声を手で抑えた。叫びだしてしまいそうだった。
 突然すべての魔法がとけたように、自分の中の答えが俺の上に降り注いできた。
「うっ、く……ん」
 口を押さえた指の間から、揺さぶられた感情が声になって溢れた。
 ――どうしてあいつはいない? 
 ――何故今俺はひとりっきりなんだ?
 いきなり解けた答に、無理やり抑えつけていた情熱が鮮やかなほど再燃する。世界でただ一人の為だけに許された俺の情熱……。
 あいつがいない。
 傍にいない。
 俺は独り。
 そんなのは許せない、認めない。だって俺は、こんなにもあいつが好きなのに。あいつだけを、全身全霊で愛しているのに。
 こんなにも、逢いたいのに……おまえに。
 雅也……。
 俺はぎゅっと目を閉じた。しばし深呼吸を繰り返し、そして手にした携帯で電話をかけた。すぐに相手が応えた。
『はい』
「あ、榎本? 俺だけど」
『富士木? どうしたんだ、おまえ? 遅刻だぞ』
 俺は慌しく答えた。
「俺今日休むから」
『はあ? どうした? 風邪でもひいたのか?』
「いや。……ああ、俺……榎本、俺、辞めるかもしれない、会社」
 遠い向こうで彼がビックリしたように返事を返す。
『ああっ? おい、おまえ、何言ってんだ、突然。なんだよ、それ』
「また後で連絡するから。それじゃあな」
 俺はまだなんだかんだ喋ってる榎本をほっておいて、通話を切った。それから床に放り出してあった上着を取って、大急ぎで部屋を出た。
 もう一分だって留まってはいられなかった。だから小走りで道を歩いた。駅までの短い道のりが、ひどく遠かった。途中何度か引っ掛かる信号にイライラして唇を噛んだ。
 心ばかりが先走った。 
 彼に逢いに行こう。
 今から。
 俺のすることはそれしかない。他にはどんな道もない。俺の道は、いつだってただあいつに繋がっていた。道の向こうには、どんな時にもあいつがいたんだ。
 あの夢の中で、奴が笑って俺を待っていたように。
 どんなに忘れようとしても、どんなに見えないふりをしても、俺の前にはいつだって……彼が……。

(…………え?)

 ――それは、夢で見た幻なのかと、一瞬思った。
 
 その日引っ掛かった何度目かの信号。
 まだぽつぽつと人が待つ横断歩道のその向こうに、俺は視線が釘付けになった。
 そこに立っている一人の男。背が高くて、ハンサムで、でも少しだけ口が大きくて、笑うと太陽みたいに眩しい男。
 誰よりも愛しい……男。
 雅也が立っていた。車道を越えた向こう側に。
「……なんで?」
 俺は思わず呟いた。しばらくは信じられなかった。彼が本当にそこに存在していることに。夢の続きでも幻影でもなく、本物の彼が俺の目の前に立っているという事実に。
 その奇跡に。
 彼はまだ俺のことには気づいてなくて、何に気を惹かれているのか、何処か遠くをじっと見ていた。
 その姿を食い入るように凝視した。
 懐かしい横顔。忘れようと思っても、どうしても忘れられなかった顔。体、心……何もかも。
 いつだって俺の中の一番深いところに居続けて、ずっとずっと俺を捕らえていた。俺を決して離さなかった。
 なのに本当のおまえだけが行ってしまったから、俺はこんなにも苦しんで、彷徨った。たくさんの者を傷つけて、自分自身も傷つけた。
 だけどもう気づいてしまったから。おまえがいないと生きていけないと、おまえじゃないとだめなんだとわかったから、今からおまえに逢いに行こうと、そう思ったんだ。雅也。
 俺はおまえを愛したかったんだ……雅也。
「ま……」
 俺は前に並んでいる人の群れを掻き分けて、あいつの元へと向かった。もうあいつのことしか見えなかった。
 彼に向けて走り出した俺を、ようやくあいつが見つけてくれる。
 驚いた顔をして、信じられないって顔をして、そして大きく目を見開いて大声で俺を呼んだ。
「吉鷹っ!」
 悲鳴のような彼の声と、青空を切り裂くような車のブレーキの音が一緒くたになって聞こえてきた。
 ……一瞬、すべての音が消失した。
 何もない無の世界。
 車の音も、街の騒音も、人の声も、何もない。
 彼の声すらも聞こえない。
 いっさいの静寂。
 世界のあらゆるものが沈黙した瞬間。
 そしてそれは一瞬で崩壊して、それと同時に弾けるように様々な音が俺の耳に飛び込んできた。
 気がついたら――俺は雅也にがっしりと抱きしめられ、彼と共に地面の上に転がっていた。
 彼の広い胸の中、ぺたんと尻餅を付いた雅也に覆い被さるように抱かれている。
 遠くで、誰かが気をつけろと怒鳴りつける声と、人のざわめきが騒々しく響いていた。
 一瞬の間を置いて、雅也は俺の肩を掴んで体を引き離すと、がくがくと揺さぶりながら激しく叫んだ。
「ば、バカ野郎! おま、おま……何やってんだ! 死ぬ気かよ!」
 俺を凝視する顔が蒼白だった。
「何飛び出してんだよ! もう少しで轢かれるところだったぞ。おまえ、俺の心臓止める気か!」
 真剣な顔をして怒ってる。
 だけど雅也。おまえの心臓はドクドクと高く波打っていて、とても止まるどころじゃない。そして俺の心臓も、また壊れそうなほどときめいてる。おまえに逢えて、おまえの声を聞けて、もう一度おまえに抱きしめられて、嬉しくて叫んでいる。
 おまえには聞こえないのか? 俺の胸の熱い音が。
 「雅也……」
  俺はぎゅっと彼の体を強く抱きしめた。久しぶりに背中に回した腕の感触。でもそれはしっかりと手に残っていて、ああ、間違いなく雅也なのだと俺の体が教えてくれる。
 彼が少し焦った声で俺を呼んだ。
「お、おい、吉鷹。どうしたんだ?」
 体を離せと促すように、ポンポンと軽く背を叩いた。でも俺は離さなかった。精一杯の力をこめて、ずっと彼にすがりついていた。
「吉……ちょ、おいっ、街中だぞ。バカ。何やってんだよ?」
 彼の戸惑いが伝わってきた。
 昔の俺たちはいつも人の目には気を遣っていたから、間違っても衆人の前でそれらしい行動を取ることなんてなかった。手を繋いだこともないし、肩を触れ合わせたこともない。抱き合うなんてもっての他だった。
 だけど今は、俺には自分を押し留めることはできなかった。他人なんて関係なかった。人の目なんてどうでもよかった。彼に逢えたという喜びと、そして伝えなければいけない自分の心を口にするだけで精一杯だったから。
 俺は彼の背中にしっかりと手を回したまま、その広い胸の中で呟いた。
「雅也、逢いたかった……」
 やっと見つけた俺の答。
「逢いに行こうって、そう思ってた。おまえの所に行くつもりだったんだ、今から」
 自分の声が驚くほど震えていた。
「吉鷹……?」
 雅也が当惑したように俺を呼ぶ。俺は少しだけ体を離して、彼の顔を見つめた。涙が出るほど恋しい黒い瞳を捕まえて、全身が熱くなる。想いが強く燃え上がる。もう二度と失うまいと、そう自分に誓いをたてる。
 すっかり困惑している彼を見つめながら、俺は言った。
「雅也、俺、やっぱりだめだ。おまえがいないとだめだ。おまえと一緒じゃなきゃ生きていけない。他の誰にも替えられないんだ。どうしても、おまえじゃなければだめなんだ。……だから、だから、そう言いたくて、それを伝えたくて、今からおまえに逢いに行くつもりで、俺は……」
 溢れる想いに声を震わせ、溢れる涙に瞳を潤ませながら、俺は全身全霊で心を伝えた。
「やっとわかった。本当に大切なものはなんなのか。それは、手離しちゃいけないんだ。何があっても離しちゃいけない。他の何を捨てても、世の中の、ありとあらゆるものを捨て去っても、たったひとつの大切なものだけは失ってはいけない。そして俺にはおまえがそうだから……もうおまえと離れない。俺はおまえとずっと一緒にいるんだ、雅也」
 声もなく俺を見返す彼に、もう一度しっかりと抱きついた。絶対にこの腕を離すまいと、そう思った。
「会社なんて辞めてもいい。この街を離れて、おまえのいる田舎に行く。そこで暮らすんだ。仕事なんてなんだってかまわない。日雇いだってやってやる。おまえと……おまえと逢う時間が少なくても、いい。誰にも気づかれないようにするよ。どんな嘘だってつく。おまえが……誰かと結婚しても、……それでもいいんだ。俺のことを愛してくれるなら……おまえを愛することを許してくれるなら、傍にいていいのなら、どんな状況だってかまわない。ただおまえと同じ空の下で暮らしてゆきたい……雅也」
 泣き出してしまいそうなほど激しい熱情に揺さぶられて、俺は胸の中から顔を見上げ、請いすがるように訴えた。
「……いいって、言ってくれよ、雅也。お願いだ」
 何も言わない彼が怖かった。驚いて大きく見開いた目で、ただ黙って俺を凝視している彼が不安だった。
 NOという答えは俺にはなかった。断られてしまったら、俺にはもう道がない。なんにもない。何もかも空っぽになったまま、どうやって生きていったらいいのかなんてわからない。
 俺にはおまえしかないんだ、雅也。
 それは永遠のように長く感じた時間だった。
 雅也はじっと俺を見つめていた。優しく熱い眼差しを注ぎながら、ゆっくりと首を振る。
「いや……だめだ、そんなの」
 形の良い唇にうっすらと笑みが浮かぶ。
「俺はおまえに会社を辞められては困る。ここから居なくなってもらったら困るんだよ、吉鷹」
「雅也……?」
「だって俺、しばらくはおまえのところで世話にならなきゃいけないなんだから。少なくとも新しい仕事が見つかるまではさ」
 思いもがけない反応と答えに、俺は思わず問い返した。
「え?」
 雅也は俺の両肩を掴んで体を引き離すと、真正面から対峙するように俺と同じ高さに目を並べた。そしてはっきりと言った。
「吉鷹。俺、全部捨ててきた」
 彼の低い声が、騒々しい街の中で唯一鮮やかに聞こえてくる。
「ホテルの仕事も、責任も、しがらみも、生まれ育った田舎やそこでの友達、親類、それに家族も……俺に被さってる何もかもを捨ててきた。俺にはもう何もないんだ。おまえ以外には」
 雅也は呆然としている俺に、ゆっくりと語った。
「どんなに忘れようと思っても、できなかった。諦めようと思っても無駄だった。俺の中のおまえは、どんなことをしても消せなかった。がむしゃらに仕事をしたり、訳もわからなくなるほど遊びまわったり、一晩中酒を煽ってみたり……。だけどおまえはそんな俺を嘲笑うように、いつだって俺の中心にいて、俺を見ていた。俺を捕らえて離さなかった。俺にはおまえしかいなかった……」
 瞳が、少しせつなそうに揺れる。
「それはどうしても否定できなくて、時間が経つほどに大きく膨れあがって、俺を苦しめた。おまえに逢いたくて、おまえが欲しくて、いつもいつもいつもおまえのことばかり考えて……。耐えられなかったよ……。そして気づいたんだ。おまえを手に入れる為なら、俺は他の何もかもを捨ててもいいんだと。俺にはおまえしか必要ない。そう気がついたら、もう止められなかった。だから捨ててきたんだ、すべてを」
「雅也……」
「吉鷹。俺を受け入れてくれ。おまえに拒否されたら、俺はもう行くところがないんだ。この世の中に俺の存在できるところは何処にもない。俺にはおまえだけなんだよ、吉鷹。頼む、もう一度……愛してもいいと言ってくれ。お願いだ……」
 雅也が苦しそうに、そして熱っぽく俺にすがる。彼の溜めていた想いをぶつけてくる。
 俺はそれに全身を委ねた。
「愛してるよ、雅也。愛してる」
 彼の胸に力一杯抱きついた。
「愛してる……おまえだけだ」
「吉鷹」
「雅也、もう二度と離さないで」
 彼が渾身の力を込めて応え返した。ぎゅっと、痛いほど抱き返してくる奴の腕。包み込む広い胸。俺が焦がれて焦がれてやまなかったもの……。
 世界でたったひとつの、意味のある存在。
 俺たちはずっとずっと長い間抱き合っていた。
 道行く人々が怪訝そうに視線を投げかけていっても、呆れた顔で通りすがっていっても、そんなものはもう俺たちには何の意味もなかった。
 長い長い回り道をして、俺たちはようやく本当の答を手に入れたのだ。




 そして俺たちは部屋へと戻った。
 それから永遠みたいに抱きあった。
 飯も食わず、求めあった。
 でもSEXなんてどうでもよかった。
 俺たちはただ相手がそこにいることを確かめたくて、愛しいものが間違いなく傍に居るのだと知りたくて、何度も何度も互いの熱さを感じ、互いの魂を貪った。
 あいつは俺の中に自分を放ち、俺はあいつに全てを与えた。
 声が枯れるほど相手の名前を呼び続けた。
 俺たちはひとつになる。
 本当のひとつになる。
 まるで熱い溶鉱炉の中の鉄のように、ドロドロに溶けて、混ざり合って、そしてひとつの形になる。
 俺と雅也が二人で作る、無限の世界がそこにある。
 



 カーテンを下ろし忘れた窓から、白い光が一杯に差し込んでいた。
 夜明けの音がしている。
 透明な静けさの中に、これからまた一日が始まるのだと誰かが優しく呟いている。
 雅也が、その骨太の指で俺の髪を弄んでいた。俺は彼の胸に頭を持たせかけながら、ぼんやりと部屋を見つめたまま囁いた。
「雅也……」
 口にして、そう呼べることに泣きたいほどの幸福感が湧き上がってきた。彼が穏やかに返答した。
「ん?」
 俺は彼の指を感じながら、尋ねた。
「なあ、おまえさ、ずっと俺を待っているつもりだった?」
「ああ?」
「だって……あんな時間、いつもならもうとっくに俺は部屋を出てるし」
 少し怪訝そうな俺に、雅也は柔らかく笑ってみせた。
「ああ、実はな、勝手に入ってようと思ってた。俺、ここの鍵預かったまま、まだ返してなかったからさ」
「……まだ持ってたんだ、あれ」
「鍵なんて、そう簡単に捨てる訳にはいかないだろ?」
 彼はハハッと小さく笑って、それからひとつ深く吐息を付いた後にゆっくりと語った。
「……本当はさ、何度もおまえに送り返そうと思って、でもできなくてずっと持ってた。おまえにつながる唯一の接点な気がして、どうしても手離せなかった。毎晩それを見つめて、おまえのことを考えて……握り締めたまま寝たこともある」
 俺は黙って聞いていた。
 俺が辛くて寂しくて苦しんでいた間、彼もまた同じように苦しんでいた。俺を想ってそんな風にせつない夜を過ごしていた。それを思うと、嬉しくて、そしてまた同時に胸が痛くなる。
 俺は彼の体に手を回して、ぎゅっと強くしがみついた。そして小さく言い返した。
「雅也、それ、暗いぜ」
「ぷっ、そうだよな。ストーカーだぜ、まったく。ははは」
 彼が可笑しそうに笑った。開けた口から、真っ白な歯が零れる。懐かしい笑顔。……いや、懐かしいってのとはちょっと違う。だってこいつのこんな顔、一度だって忘れたことはなかったから。いつもいつも頭の中で彼は俺に優しく微笑みかけていたのだから。
「雅也、もしかしてここに誰か違う男がいるなんて、考えたりはしなかったのか?」
 俺がそう聞くと、彼は少し眉をしかめて、それから楽しそうに唇を歪めた。
「多少はそれも考えたけどな。まあ、その時はその時で、ぶん殴ってでも追い出してやろうとか思ってたし」
 俺は思わず吹き出した。
「……じゃ、もしかしたらここが修羅場になってたかもしれなかったのか。危なかったな」
「おい、なんだよ、それ。てめえ、浮気してやがったな、こいつ」
 雅也がふざけて俺の頭に腕を絡ませた。羽交い絞めにされて、全然苦しくはなかったけれど、おい、よせよ、なんて俺も笑って応えてみせた。いっそう面白がって彼が俺をねじ伏せる。俺は胸の下から見上げては、少し泣きそうな声で言った。
「したよ、浮気。いっぱい。だから苦しかった。すごく哀しかった。でももうしない。おまえしか要らない。おまえだけを愛してるから、もう誰にも触れたくない。おまえだけでいい」
 雅也は一瞬真顔になって俺を凝視し、そしてすぐにのし掛かってきては痛いほどに抱きしめた。耳元で甘くせつない声が響く。柔らかに俺を包み込む。
「吉鷹……ごめんな。もう二度と離さないから」
 俺はその体を抱き返しながら、何度も呟いた。
「うん……うん、……うん」
 零れる声が震えていた。涙が静かに頬を伝って流れていった。




 その後俺たちは、起きて、一緒に飯を食った。
 しばらく放ってあったキッチンは酷く汚れていて、冷蔵庫にもろくな食べ物はなかったが、それでもなんとか二人分の腹は満たすことはできた。二人で食べる朝食は美味かった。
 そしてシャワーを浴びてから、俺はいつものように出勤の用意をした。昨日一日サボったから、きっと山のように仕事が貯まっているに違いない。上司の嫌味も待ってるだろうし、榎本も煩く問いただしてくることだろう。
 いつもと同じ朝。いつも通りの生活。
 俺は全部用意を整えてから、またベッドに転がってゆったりと新聞を広げている雅也に声をかけた。
「じゃ、雅也。俺行くから」
 彼はふわりと顔を向けて、何気なく返事をした。
「ああ、またな」
 そう口にして、すぐに彼はハッとしたような表情を浮かべた。それは俺たちのいつもの別れの言葉。雅也の部屋から帰る時に、いつも最後に彼が囁いてくれた一言。
 雅也は少し苦笑して、自分に呆れるように首を振った。
「ちょっと違うよな、それ」
 俺は柔らかく微笑み返した。
「いいよ、別に」
 雅也はニッコリと笑うと、俺を呼びつけた。寄っていったら、肩を抱き寄せられ、キスされた。
 暖かなくちづけの後に、鼻先を触れ合わせながら彼が優しく俺を見る。黒い瞳の中に俺が映る。俺は苦しいほどの幸福に酔いながら、そっと耳元に呟いた。
「行ってくる。またな、雅也」
「ああ。またな。待ってるから」
 そして俺は部屋を出た。
 外は鮮やかに晴れていた。
 道路にはたくさんの車、それぞれの場所へと向かう人々の波。いつも通りの朝の風景。
 その中に俺はいつもと同じ一歩を踏み出す。

 俺の新しい道が、ずっと目の前に広がっていた。




     
                                            ≪終≫

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