きみが「またな」と囁いた

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--act  6                       
 

 まるで大切な儀式のように、カツミは俺を真正面に据えて、そっと唇を近づけてきた。
 子供みたいなキスをする。
 表面が触れ合うだけの、ささやかな行為。だけどあいつは神聖な顔をして、純情に目なんかもきっちり閉じて寄せてくるから、俺も思わずつられて目を瞑った。
 ふわりと優しい感触が唇の上に落ちてきた。
 そのまま動きもせずにいつまでもそこにいる。ほの温かい熱と微かな震えが、わずかな接点から伝わってきた。そのうち手が伸びてきて頬に触れ、細い指は耳元から上へと這いあがってはおずおずと髪を弄び始めた。
 いつもなら、そんな愛撫も自然と受け止めて、こっちも手を回して相手の行為に応えるけれど、今はなんだかそれすらもが許されない気がして、俺は身動きひとつしないで彼の成されるがままになっていた。
 やがてカツミは唇を離し、ほうっと大きく深呼吸をした。俺も同じように深呼吸した。息をつくのも忘れていたんだろうか。まるでファーストキスに戸惑う中学生のよう。……いや、14の時の俺の初めてはもっと過激で乱暴だったっけ。いきなり押し倒されて、素っ裸に剥かれて、何から始まったのかも覚えちゃいない……。
 こんなにひそやかな始まりを、俺は今までただの一度も知らなかった。
 カツミはそっと俺の手を引っ張って、か細い声で呟いた。
「ヨシィ、ベッドに……」
 狭い部屋のほとんどを占めるセミダブルのベッドに、あいつは俺を座らせた。古びたTシャツを素早く脱ぎ捨て、カツミは俺の傍らに身を寄せては、両肩を掴んでそのままゆっくりと押し倒した。 のしかかってきたかと思うと、それまでの遠慮は何処へ行ったかという風に滅多やたらとキスの雨を降らせ始める。首に肩に胸元に、激しく唇を押し付け、頬を擦りつけて抱きついてきた。
 俺はそんな奴の愛撫を黙って受けながら、長く口にしてよいものかどうか迷っていた言葉を喉の奥で持て余していた。
 俺の知る限りにおいては、カツミは俺と同じく根っからのネコの筈だった。
 この世界では、どちらがどうと明確に役割分担なんて必要とはされてないし、その時の気分によって立場を変えるカップルはたくさんいる。ネコだのタチだのにこだわるのは、ある意味ナンセンスな話だ。
 年齢でも違う。10代のガキの頃はやっぱりやられることが多いし、歳を食ってくればなかなかタチには相手にされなくなって、仕方なくやる側にまわっては諦めて満足してる者だっていた。
 それでも中には絶対逆には転べない奴らもいて――例えば俺のように、勃つには勃つけれど挿れてもちっとも感じることができなかったり、攻める行為そのものに嫌悪感を抱いてしまう者がいたりするのだ。
 カツミが実のところどうなのかなんて知る由もなかったが、少なくとも今まで彼の口から聞かされたお喋りは、どんな風にいかされただの、何処で誰に突っ込まれただの、受ける側の自慢や愚痴ばかりだった気がした。
 俺は子猫みたいに胸をしゃぶっている彼を見下ろしながら、遠慮がちに尋ねた。
「なあ……おまえ、大丈夫なのか?」
「ん、なにが?」
「いや、だから……つまり……」
 言葉を詰まらせ、一度溜まった唾を飲み込んで、俺は小さく囁いた。
「ちゃんと……できるのか?」
 カツミはふと動きを止めて、おずおずと上目使いに見上げた。なんとなく自信なげな瞳だ。
「……わかんないよ。俺、タチってはじめてだもん」
「やめるか? 無理しなくていいぜ」
「大丈夫だよ! 俺、がんばるから。がんばってヨシィ気持ち良くしてあげるから! ね?」
(ねって言われても……なぁ)
 俺は必死な顔をしてすがるように見つめてくる彼を見返しながら、内心密かに苦笑した。
 なんだか子供のお守りをしているみたいだ。そそられるには程遠い。
 実際カツミは俺より7つも年下のガキで、落ち着いた大人がタイプな俺の好みとはかけ離れていた。それでもまあ、いかにもタチって感じの性格とか態度なら別に年下だってそう気にはならないのだろうが、彼の場合は俺以上にネコっぽくて、なんだか妙な気分になってしまう。
 それでも彼が本気だってのは伝わってきたし、その優しさを足蹴にして傷つけたくもなかった。それに……暖かく包んでくれる人肌は涙が出るほど恋しかった。
 俺はそっと彼の背中に手を回すと、優しく引き寄せ、胸に抱きいれて耳元に囁いた。
「脱がせてくれ……全部」
「うん……」
 カツミが素直に頷いて従った。おまえも脱げよと言ったら、その通りに素っ裸になった。
 華奢な体。若者らしく日に焼けてはいたけれど、胸も薄く、腕も肩も細くて頼りない。その手で苦しいくらいに抱きしめてくる。息もできないほど、身動きも叶わないほど俺の体を締め付けて拘束する。
「カツミ」
「なに?」
「なあ、シャワー浴びてきていいか?」
「だめ」
「なんで? 汗かいてて汚いぞ?」
「……だめ。だって……手ぇ離したらヨシィ戻ってこないもん」
「って……ここは俺の部屋だぞ? どこに逃げ隠れするって言うんだよ?」
「そうじゃなくて……。ヨシィ……気が変わっちゃう。今離れたら、もう俺じゃいやだって言うよ、きっと……。だからいやだ……。離さない……」
「カツミ……」
 俺を抱きしめる手にいっそう強く力がこもる。
 こんなガキの癖に、カツミはちゃんと気づいている。俺の気持ちが中途半端な境界線上にあることを。誰よりも近くに肌を寄せ合っていながらも、その心は決して近くにはないのだと……。
 そんな彼がせつなくて、苦しくて、俺もまた力を込めて抱き返した。
 腕に返ってくる感触は今まで知っていたそれとは違ったけれど、愛する男の体ではなかったけれど……。
 それでも……愛しさだけはどうしようもないほどこみあげてきた。
 俺は彼を受け入れる決意をした。




 両脇に抱えた俺の足を、あいつは少し持て余し気味にぎこちなく抱え直して、ゆっくりと身を押し付けてきた。俺は腰を浮かし、できるだけ抵抗なく奥へと進んでこれるように体を蠢かしていざなった。
 薄暗闇の部屋の中、カツミの荒い息が上から降り注いでくる。緊張と興奮でいっぱいに溢れた彼の心が、空気を伝わって感じられる。
 俺は彼の二の腕に触れ、そっと引きよせた。
「カツミ……もっと、もっと来いよ……」
 少しだけ乱れた呼吸にくるんで、甘く優しく誘ってやった。カツミは不安に怯えながら、おどおどと囁いた。
「平気……? 痛くない、ヨシィ?」
「ああ、大丈夫だから……もっと、奥まできてくれ。もっと深く……」
 じれったいほど遠慮深くカツミは俺の中へと進んできた。いつもの、刺し貫くことに慣れた男たちの行為とは違って、それは逆に鈍い痛みと違和感を俺に与えたが、苦痛というほどのものではなかった。耐えることはなんでもなかった。
 カツミはすっかり自分のものを沈めると、少しホッとしたのか、一休みとでも言うようにハアハアと大きく息をした。紅潮した顔がぐっしょりと汗で濡れている。長い髪が額や頬にへばりつき、半開きの唇から熱い息を漏らす彼の姿はひどく扇情的なようでもあり、また思わず笑ってしまいそうな滑稽さも感じられた。
 俺がじっと見つめていると、彼は不安そうな目をして呟いた。
「ヨシィ……感じる?」
 一瞬言葉につまった。今まで数え切れないほど男を受け入れてきた体だ。突っ込まれただけで満足できるほど初心じゃなく、正直、感じているとは言い難い。それでも口元に浮かびかけた失笑をなんとか抑えて、俺は小さく頷いた。
「ああ。俺の中におまえがいる」
「うん……」
「おまえの方こそ、どうなんだ? 初めて、だろ?」
 カツミは熱に浮かされて潤んだ目を伏せ、苦しげにかすれた声を漏らした。
「ん……すげ。熱くて……もう、いきそ……」
「いいぞ、いっても」
「ん……でも、まだ……」
 きゅっと目を瞑って懸命に堪えている様は、とてもいとおしかった。欲望を奮い立たせられるような妖艶さはなかったが、胸がじわりと温かくなった。
 俺は彼の首に腕を絡ませると、顔を寄せて甘ったるくねだってみせた。
「な……少し動いて……。良くしてくれよ……」
 カツミは従順に頷き、ぎこちなく腰を使い出した。下手くそなやり方だったが、それでも甘い快感が奥のほうから沸きあがってくる。それは相手が誰でも関係なく生み出される肉体の反応だ。好きも嫌いもない生き物としてだけの感覚。
 だが今はそれにすがって、俺は自ら体をよじり腰を振っては、少しでも多くの快楽を得られるように努力した。
 だけどさっさと先に音をあげたのは、カツミのほうだった。
「あ、ダメ。ヨシィ、俺いっちゃう。ごめ……あっ! んんっ!」
 細い声と共に、一度激しく動いては、熱いものを俺の中にぶちまけた。艶かしく顔を歪ませ、身悶えして、やがて力なくくずおれてくる。胸の上に落ちてきた彼の体は、俺の愛した男とは比べものにならないほど軽かった。
 俺は荒い息をしている彼の体を、そっと抱きしめてやった。乱れた髪を指で梳いて、その上に軽く口づけた。カツミの髪は甘いリンスと汗の匂いがした。
「……ごめんね、ヨシィ」
 消え入りそうなほど小さな声が聞こえてくる。情けない響き。きっと、顔を見たら今にも泣き出しそうな面をしてるんだろうな。
 俺はぎゅっと抱く手に力をこめて応え返した。
「いいんだ」
「俺、ヨシィを気持ち良くしてやれなかった。俺……ちゃんといかせたかったの……に」
 語尾が震えて擦れて消える。
「いいから……」
 彼の両頬に手を添えて、顔をあげさせて正面から見つめあった。つんと尖った鼻先が触れて、すぐ目の前にお互いの瞳があった。
「カツミ……キスして」
 返事もなく、すぐに唇が触れてくる。まだ遠慮がちなたどたどしい触れ合いを、今度は俺の方から舌を差し入れて熱く濃厚な行為へと導いた。彼の甘い唾液が口の中に染みてきた。
「ヨシィ、ヨシィ……大好き。大好きだよ、ヨシィ……」
 何をためらうこともなく、カツミは俺への想いを口にしては、ぎゅっと強くすがりついた。俺はその腕に見を任せながら、やがて彼が静かな寝息を立て始めるのをただ黙って聞いていた。安らかに眠る顔を、いつまでも見つめていた。
 愛しさと、そしてそれと同等な重さの……苦い後悔を胸に抱き……。




 その夜から、俺とカツミは今までとは違う関係を紡ぎ始めた。
 これまでのように、クラブやバーで出会っては楽しく遊ぶだけだった付き合いから、一歩深く踏み込んだ互いの日常にまで関わる関係へと変化する。
 ただの友達から、特別な相手へ。
 でもそれはこれまで俺が味わってきた形とは随分と違っていて、少なからずとも戸惑わされるものだった。
 若いカツミはその歳にふさわしい情熱的な恋愛を欲し、俺を始終独占したがった。日に何度もメールをよこし、夜はほとんど毎晩と言ってよいほどオヤスミコールをかけてきて、他愛のないお喋りの合間に「好き」と「愛してる」を繰り返しては、最後に「じゃあまたね」と言って電話を切った。
 俺はそんなマメさに多少の鬱陶しさを感じながらも、その最後の一言にいつも騙され、甘く優しく応えてしまう。「またな」と返して、明日への続きを許してしまう……。
 また、雅也とは暗黙のうちに週末だけに抑えていたセックスも、カツミは関係なく求めてきた。
 フリーアルバイターで日中コンビニの定員をしている彼は、俺のように朝が早いわけでもないし、拘束時間だって随分と短い。おまけに若いとあってはとても週末限定って訳にはいかないのだろう。平日でもふらりとやってきては体を重ね、そのまま泊まっていくこともしばしばだった。
 朝目覚めて横に彼がいて、まだまどろんでいる彼を部屋に残し会社に行くのは、なんだかとても不思議な感じだった。雅也と付き合っていた時は、普段相手の家に泊まりこむなんてことは滅多にしなかったから。
 付き合い始めた頃は確かにそんなこともわりとあったが、関係が慣れ親しんでくると、俺たちは互いの生活を尊重してあまり立ち入ろうとはしなかった。俺はあいつを縛り付けたくはなかったし、彼もまた俺のそんな気持ちを察してか、強引に押し入ってくることはほとんどなかった。ましてや一緒に暮らすなどとは、どちらも一度だって口にしたことはなかった。
 俺たちは……、俺は、雅也は、遠慮していたんだろうか? 互いに対して。
 いや、そんなことはない。あいつとは二年もつきあってきて、心も体も何もかも許しあっていた。欲しいものは要求したし、嫌なものは断った。それが当たり前の関係だった。そんな俺たちが望んだのがあの二年間だったのだ。何も間違ってなんかいなかった筈。
 だけどカツミとこんなべったりとした付き合いをしてみて、ふと思う。
 もしあいつともこんな風に過ごしていたら、例えば同棲でもしていたのなら……俺たちはあんな別れ方をすることは果たしてなかったんだろうか。引き止める言葉の一つも口にできずに、あっさりと彼を行かせてしまうなんてしなかったんだろうか。
 そんな愚にもつかない思いを抱いては、俺は自嘲して首を振った。
 今更そんなこと考えてなんだと言うのだ。雅也とはもう終わった。もう二度と取り戻すことのない関係じゃないか。それを思い悩んでもどうなるものでもない。
 雅也のことは忘れると決めたのだから、こんな風に思い返しても哀しいだけだ。せつないだけだ。あいつのことは何もかも忘れてしまいたい。一刻も早く思い出を封じ込めてしまいたい……。
「ヨシィ?」
 突然名前を呼ばれて、俺はびっくりして身を震わせた。
「ごめん、ヨシィ。痛かった?」
「え?」
 気がつくと、俺の上にカツミがいて、俺のものを愛撫している真っ最中だった。唾液に濡れた赤い唇を不安そうに歪め、じっと見上げてる。
「え、な、なに? 何が痛いって?」
 俺が間の抜けた返事をすると、微かに小首を傾げて唇を尖らせた。
「だってなんだか苦しそうな顔してたから。俺、歯でも当てちゃったかなって思って」
「い、いや、そんなんじゃ……ごめん」
「なんでそこで謝るのさ? 変なヨシィ」
 カツミが呆れたように苦笑する。俺は困って、同じく笑って誤魔化した。そしてすぐに照れくさそうな顔を装って続きを誘った。なんとなく白け掛けたムードを振り払うように、精一杯の媚びた声で甘えてねだる。
「それより、いいから……早くこいよ……な」
 再び口に含もうとするのを留めて、奴の手を取って後ろへと導く。
「こっち……こっちにくれ」
「うん」
 カツミは素直に頷いて、体を起こして俺の足に手をかけた。
「なあ、後ろから……して。今日は」
「いいよ」
 カツミは何もかも俺の望むままだった。俺が要求することは全部そのままに受け入れた。何も望まなければ、彼の方から聞いてきた。
 どうして欲しい?
 何処がいい?
 これは感じる? ここは好き?
 こうしたら気持ちがいいの、ヨシィ? ねえ、感じてる? 感じるんだよね、ヨシィ? 
 セックスの最中にたたみ掛けるように尋ねてきては、何とか俺を満足させようと必死になって頑張るカツミ。
 そんなあいつに抱かれていると俺はなんだか苦しくなって、俺もまた必死に感じようと頑張って、いつも以上に激しく乱れてみせて、大袈裟なほどに声をあげた。
「あっあっ、いい……カツミ、そこ。ああっ!」
「ん……あ、すご……ヨシィ。あん……ふぁ、はぁっ」
 どっちが攻められてるんだかわからないような声が、背中から聞こえてくる。おかしな感覚。気持ちが良くない訳じゃない。ぎこちなかった彼の行為も回を重ねるごとに上手くなって、ちゃんと俺の体を熱くする。
 だから……俺が感じているのは嘘じゃないんだ。演技じゃない。本物なんだ。だけどどうしてだろう?
 イッた後の俺は少し疲れてるんだ。
 相手の胸に顔を埋めながら、気持ち良くまどろむことができないのだ……。
 どうして?
 口では良かったと囁いて、満足してる顔をして、それでも何処かが欠けている。何かが足りない。何かが欲しい。
 俺は横で柔らかい寝息をたてるカツミを眺めながら、そっとペッドを抜け出しては強い酒を取りにいく。寝酒で全てを誤魔化しては、一人眠りにつく夜を繰り返していた。




 ぼんやりとグラスを傾けていた俺の頭を誰かがこつんと軽く小突いた。
 振り返ると、マッキーが立っていた。
「よお。いいか、一緒で?」
「ああ、どうぞ。一人だから」
 マッキーは前の椅子に腰を下ろすと、ちらちらと机の上を見回しては、少しからかうような顔をして言った。
「今日は用意してないのか? マッチ」
 俺は苦笑いを返した。
「やだな。会った早々に苛めるなよ、もう」
 彼はフフンと鼻で笑って、ウェイターに水割りを注文すると、運ばれてきたそれを啜りながら、しばらく音楽に耳を傾けていた。俺も付き合って目を閉じて聞き入った。特にジャンルにこだわりは持ってないけれど、ここに流れる音楽は好きだった。今かかっているのは有名なトランペッターのブルース。ペットの音は適当に賑やかで、だけどどこか物悲しくって、聞いていて邪魔にならない。なんだか気持ちがホッとする。
 しばらくして、彼が声をかけてきた。
「どうだ? 前向きな人生は送ってるのか?」
 皮肉っぽさを匂わせる彼独特の言葉使い。飄々とした雰囲気と合わさって、クールでドライなイメージを感じさせる。でも俺は彼のそんなところが嫌いじゃなかった。本当は結構人情家で、繊細なんだってのも知っていた。
 俺は音楽を聞きながら、愛想なく返した。
「ああ、まあね。なんとなく」
 マッキーはそんな俺の返事に呆れて、ぷっと小さく吹き出した。
「なんだよ、その、なんとなくってのは」
「んー? まあ、なんとなく、なんだ……」
「新しい男は見つかったのか?」
「……まあ、うん。……かな?」
「なんだ、おい。さっきからはっきりしない奴だな、まったく」
 怒るでもなく、しらけるでもなく、彼は可笑しそうに笑った。深く突き詰めてくることはなかった。でもいい加減な社交辞令ともまた違う。適度な距離がそこにはあって、近づくことも触れることも自由で、だけど互いの一線だけは絶対に犯さないとでもいうような冷めた大人の暗黙のルールみたいなものが感じられた。
 俺は三杯目のジンを注文し、ついでの気分で彼に尋ねた。
「そっちこそ、この間の彼とは上手くいってるのか?」
「ああ? んん、まあな。まあまあだな」
 人を馬鹿にしておきながら、そっちこそなんて曖昧な返答だ。思わず意地悪く突っついてみたくなる。
「一緒に飲んでるところ見られて喧嘩にならなかったかい? なんだか心配そうな顔して見てたぜ、彼?」
「ふふん、まあちょっとはな。ベッドでぐだぐだ煩く聞いてきたから、ムスコを突っ込んで黙らせてやったよ」
「ははっ、あっきれた。相変わらずだな、きみは。そんなんじゃ余計誤解されるじゃないか。ふられても知らないぞ?」
「原因を作ったのはおまえだぜ?」
「馬鹿言えよ。ただ一緒に飲んでただけで冗談じゃないぞ。人をネタにして遊ぶなよな、おい」
 なんだか妙に可笑しくて、俺は珍しく饒舌に受け答えしては声を立てて笑った。彼がシニカルな笑みを浮かべながら、面白そうに俺を見ていた。
 ちょっと下がり気味の、優しい目だ。俺は知ってる。こいつはベッドの中で、この目で男を蕩けさせるのだ。何もかも黙って受け止めてくれそうな柔らかな眼差し。取り立てて騒がれるほどハンサムでもないくせに、こいつがやたらともてるのは、この甘ったるい目のせいだ。
 孤独な時、せつない時、この目にすがりつきたくなる……。
 俺のそんな心を察したように、彼は俺の唇に指を添えて、優しく腹で撫でさすった。少し冷たい指先が火照った唇に心地良い。
「なあ、ヨシ。誤解じゃなくしてみようか? ん?」
 じっと真正面から俺を見つめて、彼は抑えた声で囁いた。唇の上を滑る感触に体の中心がしっとりと潤ってくる。何かが熱く燃え始めるのがわかる。久しぶりのこの感覚……。
 俺は小さく吐息をついて応えた。
「いいよ……」
「じゃあ、キスはホテルまでお預けだ」
 マッキーはそう言うと、太い指先で俺の下唇を軽く摘んで笑った。
 俺はその笑みに惹きつけられた。こいつの腕の中で何もかも忘れるほど乱れたいと思った。
 何もかも。そう、今夜も家で待っているかもしれない愛しいカツミのことさえも……。
   

     
                                            ≪続く≫

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