きみが「またな」と囁いた

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--act  5                       
 

 チリン……。
 ドアに取り付けられたベルが、小さくか細い歌を唄う。
 それと同時に、薄紫色のライトと軽快なフュージョンミュージックがその部屋の向こうから勢いよく溢れ出し、獲物を捕らえる罠みたいに俺をまるごと包み込んだ。
 俺はその賑やかさに一瞬たじろぎ、しばし立ち止まって店内を見渡した。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中にいた若いバーテンたちが、愛想よく柔らかな声をあげた。店は週末でもないのに結構客がいて、あちこちに点在する丸くて小さなカウンターテーブルを囲んでは額を寄せ合って談笑していた。
 そんな客たちのうち、俺が戸口に姿を現すと同時に会話を中断し、鋭く視線を投げかけてくる幾人かの者たちがいる。
 値踏みをするような眼差し。口元にたたえた意味ありげな微笑。
 彼らは酒と音楽と会話のほかに、男を楽しむ為にやってくる……。
 この店は表向きはごく普通のバーだったが、俺たちゲイの間ではわりと知られたクルージングスポットのひとつだった。
 音楽も内装も流行とは無縁な趣きのせいで、若者の姿はほとんど見かけることはなく、俺より歳上か、せいぜいが同年代の男たちが主だった客層である。浮わついた軽薄な雰囲気が余り得意じゃなかった俺は、雅也と知り合う前はしばしばここを訪れ、肌を許せる相手を物色したものだった。
 俺は久し振りにその店に足を踏み入れて、少しだけ緊張感を味わった。カウンターの中の従業員たちは、もう全員が知らない者ばかりだった。顔馴染だったバーテンダーもいない。内装や雰囲気はさほど変わってはいないものの、客の中にも見知った顔はひとつもなくて、なんだか自分一人がやけに浮いている感じだった。
 俺は右奥のテーブルに身を落ち着けると、寄ってきた若いウェイターにジンを注文した。それからマッチをひとつ要求する。酒と一緒に運ばれてきたそれを、指の先に挟んでこれ見よがしに弄んだ。
 それはこの店での独特のサイン。今男を探していますという合図だ。
 久々に足を運んだ店だったが、その方法だけは変わっていなかったようだ。案の定、すぐにそっち系の客の何人かが目ざとく視線を向けてくる。目があって、好みだなと思ったならちょっとだけ微笑んでやればそれでいい。更にそのままマッチ箱の端っこを口に咥えたならば、ベッドもOKの意思表示。
 俺は一人の男と視線を交わしながら、小さな箱の角を口元へと運んだ。
 と、ふいに横からその手を掴み止められた。
 驚いて顔を向けると、昔よくこの店で酒を飲んだ男がそこに立っていた。俺が目を剥いていると、男はニヤッと笑って挨拶をした。
「よお、ヨシ。久しぶり」
 そう声をかけられて、何年ぶりかで逢った男の名前が頭の中に蘇った。
「マッキー。久しぶり。いたのに気がつかなかったよ……。驚いた」
「俺も驚いたぜ。おまえ、ずうっとここには顔出していなかったしな。もう店を変えたんだと思ってた」
 マッキーはここに来ていいかと尋ねて、観葉植物の陰になっていた自分のテーブルからグラスを持ってきては俺の向かい側の席に腰を下ろした。彼の背中の向こうで、俺とカップリングし損なった男が悔しそうに舌打ちするのが目に入った。
「もうそれ、置けよ」
 マッキーが何気なく視線を向けて、ちょいと顎でしゃくる。俺はハッとして自分の手の中を見た。
「え? ……あ、ああ」
 慌てて持っていたマッチ箱をテーブルの上に置いた。マッキーはしばらく無言でそれを見つめていたが、やがて顔をあげて口の端を片方だけ歪めて笑って見せた。
「おまえらしくないじゃないか、ヨシ。そんなもんかじるなんてよ? 一見の男には絶対手を出させないんで有名だったくせに」
 軽口の中に少しだけ棘を含んだ口調だった。驚きと冷笑と嘲りと、そして……心配。遠巻きに気遣ってくる優しさが見える。
 俺は悪事を見つかってしまった子供のようにいたたまれなさを感じながら、唇を尖らせて言い訳がましく返答した。
「……俺だってやりたい時はあるんだ。面倒な手順は抜きにしてさ」
「だから、それが珍しいんだろ? 昔、おまえを落とすのに俺が何度この店に通ったと思ってるんだ? まあ、どうせもうそんなこたぁ忘れたろうけどな、はははっ」
 彼は可笑しそうに声を立てて笑った。長いウェーブの髪がふわりと揺れる。
 そう言えば、そんな時もあった気がする。男たちとの駆け引き。気にいった相手、気にいらない相手。つきあったり離れたりを何度も繰り返して長い夜をすごしてた。
 だけど、そんなのはひどく昔のことのように思える。雅也と出会ってからの俺には、そんな世界なんて必要なかった。雅也に駆け引きは要らなかった。幾度か喧嘩もしたけれど、離れるなんて事は一度もなかった。あいつの魂はいつもずっと俺の傍にいた……。
 俺が無言で俯いていると、マッキーはゆっくりと煙草を二本ふかし、それから何気ない世間話のような口調で言った。
「……おまえ、パートナーがいるって聞いたけど?」
 俺はちらりと彼を見た。彼は相変わらず目線を他所に向けたまま、飄々と音楽を聞き入ってるような顔をしている。俺は水滴に包まれたグラスを手の中で弄びながら、ぼそりと呟いた。
「……別れたんだ」
「ふううん……」
 素気ない相槌だったが言外に馬鹿にされている気がして、俺はつんと唇を尖らせて睨み付けた。
「なんだよ? いいよ、馬鹿にして笑ってろ」
「別に笑ってやしないさ。ただな……、無理してるなぁって思ってな?」
 マッキーが呆れた笑みを投げ返す。俺は意地になって顎を突き出して応えた。
「無理じゃないよ。……前向きなんだ。これでも」
「前向きぃ?」
「そうだよ? 新しい相手を、見つけようと思ってさ……。前向きだろ?」
 彼は何も言わず、ただくすくすと鼻で笑った。深く問いつめてくることもない。だが否定もしない。肯定もしない。黙って受けて入れているだけ。
 俺はしばらくそんな穏やかな沈黙を味わっていたが、そのうち、小さく消え入りそうな声で尋ねかけた。
「な、マッキー? ……これから、なにかあるのか?」
 そっと窺うように彼を見た。彼は少しだけ驚いた顔で見返してきたが、やがて小さく笑みを浮かべて申し訳なさそうに首を振った。
「わりぃ。俺、今夜は先客ありなんだ。今、待ち合わせ中でな」
「そっか……」
「せっかくのチャンスを残念だけどな」
「恋人?」
「どうだかな? つきあって三週間。どうなるんだか」
 肩をすくめてハハッと軽く笑う。幸せと不安が背中合わせにくっついている笑顔が、少しだけ胸に染みた。
 そうこうしているうちに、ドアが開いて客が一人入ってきた。マッキーはふっとそちらを見ては一瞬顔を輝かせ、それから俺に穏やかな笑みを向けた。
「噂をすれば、だ。俺、行くわ。じゃあな、ヨシ。また逢おうぜ」
 ちらりと入り口を見やると、細い女顔の気弱そうな男が一人立っていた。俺とマッキーの両方を、心配そうな目をして見つめている。俺は立ち上がったマッキーの腹をポンと軽く拳で小突いて、じゃあなと呟いて返した。
 彼は伝票を手に持ちながら、去り際に正面から俺を見ると、母親みたいに優しく目をすがめて言った。
「ヨシ? 無理するなよ?」
 きゅっと胸がしめつけられる。
 俺は一瞬、何もかも言葉を失ってしまう。
 マッキーが小さく手を振って店を出ていったのを見送りながら、ようやくぼそりと呟いた。
「別に……無理じゃないって、言ってんだろ?」
 鼻の奥がじわりと痺れて、少しだけ目が潤んだ。だけどそんな弱さはすぐにグラスの酒と共に飲み込んだ。
 今の俺は、肩肘だってなんだって、張らなきゃ生きていけないのだ。それでも生きていかなきゃならないから、強がりだって口にする。苦しくても足を踏み出す。それが正しい方向かどうかなんて別にして。
 一人に戻った俺の席に、先ほどモーションをかけてきた男がすかさずやってきては、媚びた笑顔をすり寄せてきた。俺はちょっとだけ笑みを返して、愛想を振ってやった。
 男がいい気になって承諾も得ずに隣の椅子に腰を下ろし、俺の掌をいやらしく撫でさする。俺はそいつの節くれだった手を、何も考えられない頭でぼんやりと見つめていた。



 ちょっと動いた拍子に、ワイシャツの固い襟が首筋にすれて擦れた。
「……つっ!」
 思わず小さな悲鳴をあげてしまって、俺は慌てて口を結んだ。
 昼下がりの会社、一番忙しい時間帯だったから、両脇の席の者たちは丁度どちらも外出していて、幸運にもその情けない声を聞かれずにすんだのだった。
 俺はちょっとホッとして、まだジリジリと痛んでいる首筋へと何気なく手を伸ばした。
 昨日の相手は最低だった。
 分別ありそうな中年男の顔をしておきながら、いざその時になったら途端に豹変し、嫌だと言うのも無視してSMまがいに攻めたててきた。あちこちに噛み付いたり、手足を縛ったり殴りつけたり、散々な目にあった。
 おかげで体中傷だらけだ。外から見える部分に痕跡をつけられなかったのだけが、まったくの幸いだった。
 それでもそいつは明らかに手加減していて、それがまた俺にはひどく腹立たしかった。厄介事を起こすのはゴメンだ、こんなのはただの遊びじゃないか、俺は決して本気な訳ではないんだぞと、目も口も腕も体も何もかもが語っていて、どうしようもなくむかついた。
 いっそ全てを捨てる気でした行為だというのなら、どうしようもない欲望を、どうにも抑えられなくってぶつけてきたのなら、最後までその手に掛かってやっても良かったのに……。
 湧き上がってきた嫌悪感に吐き気すら感じていると、後ろから机の上にコピーされた書類が放られた。振り返ると榎本が立っていた。
 彼はごくごく普通の顔をして、ぼそりと言った。
「明後日のプレゼンに使う資料だ」
 俺は手にとってさらりと目を通し、小さく応えた。
「ああ、ありがとう。まとめておく」
 榎本は返事もせずに離れていって自分の席に座った。ただの一度も、俺に視線を向けることはなかった。明らかに意識してそう振舞っている。
 あの唐突にカミングアウトした夜から、彼は俺を避けていた。でも、それは無理のない話だろう。あんな話をあんな風に無神経に打ち明けられたなら、しかも決して信頼からではなく、悪意を持って聞かされたとしたら、押し付けられたほうは傷つかない筈がないのだ。
 事実を隠さず曝け出すということは、それが受け入れ難い内容であればあるほど、晒した方も、また晒された方も心に痛い。俺は自分がゲイであることを決して恥じたり嫌悪したりはしてないが、また辺りかまわず曝け出してあっけらかんとしていられるほど無神経ではなかった。
 理解されるに越したことはない。だがもし黙っていて相手が苦しまずに済むのなら、俺も苦しまずに済むのなら……、俺はきっと一生隠し続けるに違いない。
 そのまま何事もなく時間は過ぎ、やがて退社時間がきて一人、また一人と人が減っていく。榎本もいつのまにか俺の斜め向かいの席からいなくなっていた。
 もう、あいつが俺を飲みに誘うことなんて二度とないだろう。俺を一番気の合う同僚と、肩を寄せ合って共に笑ってくれることはない。皆に吹聴されなかっただけましというものだ。
 俺はしばらく残って仕事をこなし、やがてやることもなくなって会社を後にした。
 家に帰ってもつまらない。だけど、昨日のセックスのせいであちこち痛む体では、さすがに今夜も別の男を誘って遊ぼうとも思えなくて、仕方なくマンションへと素直に戻った。
 コンビニで弁当を買ってブラブラと歩いていると、マンションの玄関の前に一人の男の姿があった。俺は驚きをもって声をかけた。
「カツミ……。おまえ、こんな所で何してんだ?」
 カツミはやはりコンビニの袋に一杯のスナック菓子と飲み物をぶらさげて、俺の顔を見て嬉しそうに微笑んだ。
「あ、ヨシィ。遅い、遅いよぉ。俺、すげー待っちゃったよ」
「遅いって……おまえ、来るともなんとも言ってなかったじゃないか。なんだよ、急に」
「うん……なんつーかさ、急にヨシィの顔見たくなっちゃって。ヨシィ、最近店に来ないからさ。家まで押しかけちゃった。へへへ」
「へへへってなぁ……」
 夜の仲間がプライベートな世界にまで押し入ってくることはあまりない。本名だって決して口にしない奴等も多いのだ。こんな風にいきなりなんの約束もなしに尋ねてくるのは、かなりエチケット違反。だがまあ、カツミは何度か家に呼んだこともあるし、その若さはルールすらをも押し破って正当化させてしまうような勢いがある。
「とりあえず入れよ。こんな時間にいつまでもフラフラしてたら、不審人物だと思われるぞ」
 俺はヘラヘラと楽しそうなカツミを促して、部屋へと連れて行った。部屋の中は相変わらず散らかっていた。だけど、あの夜までの荒んだ雰囲気は多少だが消えている。それは、少しは思考が前向きになったという証しなんだろうか? そんなことをふと思っては自嘲した。
 カツミを適当な場所に座らせて、俺はその向かい側にとりあえず腰を下ろし、買ってきた缶ビールをほぼ一息に飲みほした。酒があまり強くないカツミは、自分で仕入れてきた甘いシードルをちびちびと啜りながら、少しの感心と、それ以上に呆れた顔をして俺のそんな様を見つめていた。
 他愛のない雑談を交わしながら二缶目を飲み終えて、三缶目のプルトップに手をかけたところで、カツミが諌めるように俺を睨んだ。
「ヨシィ、ペース早すぎ。もっとゆっくり飲みなよ。体に悪いよ?」
 俺はちろりと睨み返した。
「缶ビールの二つや三つどうってことあるか。お子様なおまえとは違うんだ。そんなくだらない説教はよせよ」
「でも……ヨシィ、そんな飲み方しなかったじゃないか。前はもっとお上品に飲んでたよ?」
「お上品って……おまえ、それ、誉めてるつもりか? 日本語間違ってるぞ」
 俺が馬鹿にして笑うと、カツミはつんと口を尖らせて俯いた。いつもなら、そんな風にからかわれたらむきになって言い返してくるくせに、今夜は真剣に腹を立てている。なんだか気まずい雰囲気が漂って、俺は居心地の悪さを感じて腰をあげた。驚いた目をして見上げる彼に、ぼそりと呟いた。
「ちょっと……着替えてくる。飲んでてくれよ」
 俺はカツミを残して隣室へと向かった。
 一人着替えをしながら、自分を恥じた。カツミはカツミなりに、真剣に俺のことを気遣ってくれたのだろうに、あんな風に突き放してしまうなんてどうかしてる……。そりゃあ俺はもともと素直な人間だとは言い難いけれど、子供相手に八つ当たりして喜ぶほど愚かでもなかった筈だ。
 それとも、やっぱりそんな奴だったんだろうか。これまでは、雅也の優しさに助けられて、自分が少しはましな人間だと勘違いしていたのだろうか。
 そんな虚しい自己嫌悪に陥って、途中で着替えの手を止めていた俺の後ろから、突然驚きの声があがった。
「ヨシィ! その体……どうしたんだよ?」
 振り向くと、カツミが目を真ん丸くして突っ立っていた。転げるように走り寄ってきては、何もつけていない俺の上半身を舐めるように見つめて、怯えたみたいに呟いた。
「これ……なに? どうしてこんな痕ができてるの? なにがあったのさ?」
 俺は戸惑いつつも、自嘲するように精一杯軽く答えた。
「ああ、ちょっとな。昨日寝た相手がいかれたオヤジでさ。ハハ。参ったよ。最低」
「……痛い? ヨシィ?」
 震える指先がそっと背中に触れる。ピクリと俺の体が反応した。
 カツミは今にも泣き出しそうな顔でじっと傷を見つめ、やがて消え入りそうに呟いた。
「可哀相、ヨシィ……」
 ふわりと腕が絡んできて、背中から俺の体を柔らかく包み込んだ。傷を丸ごと抱えようとするかのように、優しく優しく抱きしめられる。俺は身動きひとつできずに、カツミにいだかれた。
 耳元のかすかな囁き。
「ヨシィ……可哀相」
「…………」
 声が出なかった。
 驚いて……だけどひどく嬉しくて、胸が痺れた。
 雅也と別れてから何度も何度もいろんな男に抱かれたけれど、たくさんの腕に包まれたけれど、こんな風に心が震えたのは初めてだった。可哀相だと同情されて、何よりもホッとした。
(そっか……。俺……可哀相なんだよな。そう思っていいんだよな。俺、俺……辛いんだよな……)
 喉元から熱いものがこみあげてきて、思わず声を漏らしそうになった。胸にまわされたカツミの手をぎゅっと掴んで必死に堪えた。ここで声をあげて泣き出してしまったら、もうどんな虚勢も張れなくなるような気がして。
 随分長い間そうしていた。
 カツミの息づかいをようやく落ち着いて聞けるようになった頃、彼は少しだけ抱きしめていた手を緩めて、俺をくるりと反転させ正面から向き合った。じっと目を見つめ、やがてゆっくりと口を開く。
「ヨシィ。俺じゃだめ? ねえ、俺とつきあってよ? 俺、絶対あんたを幸せにするからさ」
 カツミが真剣な顔をして食い入るように俺を凝視した。俺はできそこなった人形みたいにぼんやりとして、間の抜けた言葉で問い返した。
「だ、め? 何……? おまえ……なんて言ったの?」
「ヨシィ、俺の恋人になって。俺、あんたが好きなんだ」
 突然の告白……。
 両肩を掴んでいたカツミの手に、ぐっと強く力がこもる。切羽詰った表情で、じっと答を待っている。
 俺はと言えば、呆けたみたいに何も言えぬまま、ずうっとずうっとカツミのことを見つめていた。なんだか頭がうまく働かない。何をどうとらえて考えればよいのだかちっともわからなくて、ただ無言で彼を見返してるだけだった。
 いよいよ焦れたカツミが、軽く俺を揺さぶって先を促した。
「ねえ、ヨシィったら。黙ってないでよ。うんって言ってよ。なあ?」
 俺は二、三度目を瞬かせ、それから深く息をついた。いつの間にか口の中に溜まっていた唾をこくんと飲み込んで、もうひとつため息を吐く。カツミの顔を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「なんで……なんでおまえが? 俺たち、そんな関係じゃなかっただろ?」
「ずっと好きだったよ、ヨシィのこと! でもヨシィには雅也がいたし、俺雅也のことも大好きだったし、俺なんて割り込めるような感じじゃなかったから……見てるだけで幸せだったから、ただの友達でもよかったんだ。でも……今のヨシィはいやだ!」
 カツミはむきになって叫んだ。
「いろんな男をとっかえひっかえ、毎晩初めて会った男と寝てるなんて、そんなのヨシィじゃないよ! 俺、そんなあんたを見たくない!」
「カツミ……」
「そんなのいやなんだ……。苦しいんだ。俺、ヨシィには幸せでいて欲しい。ぴりぴりしてて辛そうなヨシィなんて見てられない。だから、俺が幸せにしてあげる。俺が……俺、バカだけど……雅也みたいにかっこよくないけど……」
 カツミは今にも泣き出しそうに顔を歪め、ポッチャリとした唇をきゅっと強く結んだかと思うと、再度強く抱きついた。今度は正面から、その薄い胸板の中に俺の体を包み込む。それは決して頼りになるとか逞しいとは言い難かったけれど、でもとても暖かく、優しかった……。
 俺は戸惑い困惑し、ただ呆然と突っ立っていた。
 何も言葉が返せない。カツミを恋愛の対象になんて見たことはなかったから、いきなり言われてもすぐには返事なんてできない。
 だけど冷たく突き放すこともできなかった。その腕は温かだった。俺のボロボロになった体も心も、癒してくれるような感じがした。
 カツミが耳元で、おずおずと自信なさげに囁いた。
「ね……ヨシィ? あんたのこと、抱いていい……?」
 そう請われて、長い間の後に小さく頷いてしまった俺は、それでもずっと惑っていた。何が正しい道なのか、本当に踏み出していい一歩なのか、その答えをどうしても見つけられなくて。
   

     
                                            ≪続く≫

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