きみが「またな」と囁いた

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--act  4                       
 

 部屋でぼんやりとテレビを眺めていた俺の元に、電話が一本入った。出てみるとカツミだった。
 飲みに出てこないかという誘いに惹かれて、俺はすぐにOKして、まだ宵の口の街へと出向いていった。遊びたい気分ってわけじゃなかったけれど、土曜の夜に独りで部屋に居たってどうしようもないのだ。決まった誰かの為に、予定を空けておく必要もない。どうせもう週末はいつでもフリー。ベッドの横だって空いたまま……。
 待ち合わせていた馴染みのゲイバーに行くと、カツミが嬉しそうな目をして迎えてくれた。
 あのパーティの日からカツミとも会ってない。喧嘩別れした訳ではなかったが、やはり最初のうちは互いに気まずくて、二人とも何処となくぎこちなかった。だがそこはそれ、若いカツミはすぐにいつもの彼へと戻って、人懐っこく笑顔を取り戻す。
 裏表のない素直なその表情は、俺の心を少しだけホッとさせた。
 カツミも俺もネコだから、俺たちの間にセックスの駆け引きが絡むことはない。その分余計な気を回すこともなく、俺にとっては安心できる相手と言えた。
 しばらくは他愛のない会話を交わしていた俺たちだったが、ふとした拍子に話が途切れて、束の間の沈黙が訪れる。俺は少々迷った末に、雅也のことを話して聞かせた。
「あ……雅也さ、先週引越しだったんだ……」
 突然のことに、カツミはビックリした表情を浮かべて俺を凝視した。が、そのうち、恐る恐る機嫌を窺うようにして切り出した。
「なあ、ヨシィ。俺バカだからさ、わかんないんだ。聞いてもいい?」
「なんだよ? 改まって」
 俺が先を促すと、カツミはおずおずと言葉を選びながら喋り始めた。
「あのさ……。ヨシィと雅也、別に嫌いだとか飽きたとか……そんなんで別れたんじゃないんだよね? 雅也の都合で彼がこの街からいなくなっちゃうから、だから別れたんだろ? でもさ……、俺、どうしてもわかんない。まだ好きなのに、どうしてそれで別れなくちゃならないんだ? 遠距離恋愛が大変だってのはわかるけどさ、でも……別れる方がもっと辛いんじゃないの? 心がつながってたら遠く離れてたって愛しあっていられるって……恋人ってそんなもんじゃないのか?」
 カツミは真剣な目をしてそう言った。まるで自分のことのように胸を痛めながら、必死の顔で尋ねてくる。俺は多少ならずとも戸惑って、無言のまま俯いた。
「…………」
 俺の上に降りかかってくる、純粋であるが故の残酷な質問……。
「あのさ、俺……俺、ヨシィと雅也の二人の関係が凄く好きだったんだ。憧れてた。二人とも仲が良くって、一緒にいるとイイ感じで、見ている俺のほうも幸せな気分になったんだよね。だから尚更ショックだった……。ゲイカップルってサイクルが短いじゃないか? あまり長続きする奴らって少ないだろ? 俺も……誰かと付き合ってもすぐに別れてばっかりで……でもヨシィと雅也は違ってた。一緒にいるのが当たり前ってくらいしっくりしてて、だからもう、ずっとこのままだって信じてて……。俺、二人がこんな風に別れるなんて思ってもいなかったんだ。……ねえ、本当にもう終わりなの? ヨシィはそれでいいの? 雅也はなんでヨシィを置いていけるんだよ? 俺、やっぱりわかんないよ、ヨシィ……」
 訴えるようなカツミの言葉を聞きながら、俺はまたチクチクと胸の奥が疼くのを感じていた。
 封印して深く沈めたはずの感情が、心という不透明な底なし沼のずっと下のほうで、いつまでも苦しげに喘いでいる感じがした。とっくに納得して受け入れた筈なのに、いまだ往生際悪くあがいている。
 ……そう、そうだな。
 俺だって信じてたさ。
 俺たちの仲はずっと続くと、いつまでも一緒にいられるって、信じてた。終わりが来るなんてこれっぽっちも考えていなかった。
 だけどこれが現実。受け入れざる得ない現実。そんなことわかってる……。
 カツミの言葉に代弁されて、揺れ動く己が腹立たしく情けなかった。諦めの悪さに吐き気がするほど嫌悪を覚える。
 俺は、雅也が沈黙のまま置いていった俺への想いを、ゆっくりと口にした。それは誰に対してでもない、自分自身への説得だった。
「……俺は、不器用だから」
 周りの音楽に邪魔されながら、低い声で途切れ途切れに語った。
「俺は確かにまだ雅也が好きだ。誰よりも、あいつが好きだ。たとえ遠く離れてしまったって、きっと……その思いは永遠に変わらない。でも……現実には、あいつは傍にはいないんだ。俺はそんなのには耐えられない……」
 テーブルの上の水割りが、チリンと細く啜り泣く。グラスの周りにいっぱい涙を浮かべている。
「何も知らなかった子供とは違う。抱いてくれる相手だって求めてしまう。寂しくてやりきれない夜には、同じベッドで一緒に寝てくれる誰かが欲しいんだ。だけどそれを雅也に求めることができないなら……奴を思い続けるのはきっととても辛くて苦しい……。俺は……心は奴に繋げて、体だけ別な男で代用できるほど器用な性格じゃないから……。雅也を愛したら、あいつしか見えなくなる。他の男になんて、触れるのも触れられるのも嫌だから」
「ヨシィ……」
「もっと融通のきく男だったらよかったんだろうな。適当に遊んで、適当に誰かと寝て……。だけど雅也は、俺がそんな人間じゃないってわかってた。だから俺に思い続けてくれとは言わなかった。恋人同士のままで置いていったら、俺が一人で体も心も寂しがって身悶えするのを知ってたから、変わらずに愛してくれとは望まなかった。その代わりに置いていったんだ……さよならを、さ。中途半端にすれば俺が苦しむ。いっそキッパリ終わらせてしまえば、また新しい誰かを見つけることもできるだろう? 雅也を忘れて、別の男を愛することができるだろうから……」
 俺はそれだけ言って口をつぐんだ。それ以上の言葉が紡げなかった。
 しばしの沈黙の末に、カツミがぽつりと呟いた。
「できるの? 別の誰かでいいの?」
 俺はじっと彼を見つめ、小さく口の端を歪めて笑った。カツミはじっと真正面から俺を睨みつけては、責めるような口調で問う。
「本当に見つけられるの?」
「俺、これでも結構もてるんだぜ? 言い寄ってくる男なんてたくさんいるよ」
「そういう意味じゃなくってさ」
 カツミの言いたいことはわかりすぎるほどわかってた。だけどちゃんと受け止めずに誤魔化してしまうのは、もう若くはないからだ。自分の本心を真正面から見つめて立ち向かっていけるだけの、柔軟な精神はなくしてしまった。代わりに手に入れたのは固くて愚かしい壁だけだ。そんなものの中で閉じこもって諦めてしまえる、ずるくて卑怯な臆病さだけ。
 俺は目の前のグラスを取ってぐいといっきに飲み干した。溢れて唇の端から垂れた雫を手の甲で拭いさる。すっかり氷が溶けて薄くなってしまった水割りは、酔うこともできず曖昧に胸を熱くするばかりだった。
 中途半端な味だった。




 壁に小さな染みがあった。
 オリエンタルなアラベスク模様の壁紙に、くすんで残った薄黒い染み。
 あんなところに、いったい誰がどうしてつけたんだろう?
 血? それとも、飲み物か何か?
 何か揉め事でもあったのか。それとも、ふざけて悪戯して汚したか、あるいはもっと疚しい行為の末の艶かしい名残なのか……。
 俺はそんなくだらぬことを考えながら、ぼんやりとその染みを見つめていた。
 と、ふいに薄い灯りの中から声がした。
「おい、寝てるんじゃないだろうな?」
 俺は我に帰って声の方向に目を向けた。広いベッドに寝そべった俺の腰の辺りに、知らない男の顔があった。さっきバーで出逢ったばかりの、まだ若そうな男。少し茶色に染めた髪が、肩の辺りで揺れている。フリーターか、あるいは美容師か何かか、少なくとも普通のサラリーマンって感じではなかった。背広の似合う男はいやだった。
「あ、ああ、起きてるよ……?」
 ぼうっとした声で返事をすると、男はしばらく無言で俺の顔を見つめていたが、やがて起き上がってベッドの縁に座り、おもむろに煙草を吸い始めた。向けた背中が見事なくらい日焼けしていた。
 俺は半身を起こして、おずおずと尋ねた。
「おい……、やらないのか?」
 男は背中を向けたまま、素気なく答えた。
「もういいって。やる気失せた」
「なんで?」
「なーんか俺の見込み違い。あんた、誰でもいいから抱いてくれって顔してたのにさ、全然反応ねえんだもん。つまんねえよ、マグロ相手にしても」
 そう冷たく言い放った声には、はっきりと侮蔑と苛立ちが混じっていた。せっかく誘ってやったのにと、言葉の向こうで怒っている。馬鹿にしているのかと手荒く実力行使してこなかったのは、幸運にもこいつが善人だったということだ。
 俺は呆けたように目の前の男を眺めた。
(そっか……。俺、こいつに抱かれてたんだ……)
 たった今まで俺の胸の上を滑っていったこいつの指を、俺はまるで覚えてはいなかった。
 どんな風にキスをされ、どんな風に抱きしめられ、どれほど熱い唇でしびれるような愛撫をうけたのか、これっぽっちも感じてはいなかった。
 雅也に抱かれていた時は呆れられるほど激しく反応していた俺だったのに、しょっちゅうそれをネタにからかわれていたというのに、なんだろう、この空虚さ。こいつの言うとおり、誰かに抱いて欲しかった。抱いてくれるなら誰だってよかった筈……。
 俺はしばしの沈黙の末、一度深く息をついて男の背中に甘えるようにして抱きついた。男が驚いて顔を向ける。
 俺はそんな彼の耳元に唇を寄せて、そっと耳たぶを噛んでは媚びた声で呟いた。
「悪かったよ……。続きしようぜ」
「いいよ、もう」
「怒るなよ。悪かったって。な? 今度は俺がサービスするからさ……」
 精一杯の猫撫で声と、精一杯のしなで男を誘って、俺はそのまま奴の腕を引っ張ってベッドの上に連れ戻した。仰向けにさせた男の膝の間に身を滑り込ませて、すっかりしな垂れている彼のそれを手にとっては、舌を寄せて舐めあげた。
 男の体がピクリと蠢く。何度も唇を押し当てキスをしてから、すっぽりと奥まで含んだら、男は小さく心地良さそうな声を漏らした。
 薄汚れたラブホテル。沈み込むような静寂の中に、俺の舌使いの淫らな音だけが延々と響いてる。時折混じる快楽の喘ぎ声。衣擦れの音……。
 男は俺の髪に中に手をうずめて、優しくまさぐって囁いた。
「なぁ、あんた、名前は?」
 俺は舐めしゃぶっていた口を少しだけ開けて、くぐもった声で答えた。
「……ヨシィ……って、皆呼ぶよ」
「ふううん。ヨシィか。俺はヒロキってんだ」
 そんな名前、どうでもよかった。
「ヨシィ。気持ちいー。あんた、フェラ上手いな。すげぇいいよ……んん」
 何も応えず、俺はその行為に没頭した。
 口の中一杯に膨れあがった男の欲望を、俺はただひたすら受けとめた。激しく強く、時折は優しく、決して歯を立てぬように気をつかって、丁寧に愛撫する。喉の奥にじわじわと男の味が広がっていく。慣れ親しんだそれではない初めての味……。少しだけ気持ち悪くて吐き気がしたが、俺はそんな思いを唾液と一緒に飲み込んだ。
 いよいよいきり立ったそれを開放して、いいところだったのにと文句を呟く男の声を聞きながら、俺は男の上にのしかかると自らゆっくりと腰を下ろした。
 硬く張りつめたものが俺の中に進入してきた。深く熱く、俺の体を埋め尽くす。中心を刺し貫くほど奥にまで、俺は男を咥え込む。
 だけどそれは心にまでは届かない。そんなことはわかってた。今はただ、体だけ埋めてくれればそれでよかった。
「あっ……はぁ、ああっ、あうっ!」
 男の体の上で腰を振り乱して踊るたびに、俺の唇から淫靡な嬌声が溢れ出た。足の下では男も同じように顔を歪めて淫猥な声をあげていた。
 そう……セックスなんてこんなもん。
 体だけ繋がれば、男の硬いペニスさえあれば、いくらでも愛し合える。
 それ以上の何かを求めるから、辛いのかもしれない。最初っから体だけなら、なんの哀しみも生まれない。いくだけいって、それで終わって、そこから先は望まない……。
「あっあっ、いく、俺いく……あっ!」
(雅也っ……!)
 もう少しで零れそうになったその一言を、俺は細い悲鳴の中に埋め隠した。
 俺の中にいるのは誰……?
 知らない男? それとも雅也?
 あるいはその両方なのか……。
 いや……本当は誰もいないのかもしれない……。
 俺がいったのとほぼ同時に内臓に熱い感触が広がって、何も生まれぬ乾いた関係の終焉を告げる。
 力を失ってくずおれた俺の体を受け止めてくれたのは、目の前の見知らぬ男の、暖かい腕だった。




 ポケットから手帳を出した拍子に、そこに挟まっていた小さな紙片がヒラヒラと床に舞い落ちた。
 拾って見てみると、それは先日行ったラブホテルのレシートの切れっ端で、裏に小さな文字で幾つかの数字が書き殴ってあった。
 あの日別れ際に男が書いてよこしたもの。
 ――な、これ俺の携帯ナンバー。電話くれよ、待ってるから。
 男は日に焼けた顔に愛想いい笑みを浮かべて、俺の返事も関係なくぎゅっと手に握らせた。そして最後に一言、「またな」と言った……。
 それが本気だったのか社交辞令の挨拶だったのか、俺にはわからない。それに、そんなのどっちだって関係ない。
 どうせ二度目なんてないんだ。
 あの男は優しくていい奴そうだったけど、体だって悪くはなかったけれど、でも……またなを素直に聞けるほど、心に響く相手ではなかった。俺の中の雅也を消してくれるだけの、愛を感じる男とは思えなかった。
 いや……もともと、そんなものを求めてはいなかったが……。
 ぼんやりと回想しながら見つめていると、いきなり肩口から男の顔が現れでた。
「お、なんだ、携帯の番号じゃないか。隅に置けないな、富士木」
「榎本」
「しかもなんだぁ? これ、ラブホのレシートじゃねえか。ちぇ、色男め、この野郎。もうはや新しい女見つけたのかよ?」
 榎本は俺の手から紙片をひったくると、裏に表にためつすがめつ探っては、そう言ってからかうように笑った。俺はすぐさま取り返し、ぶっきらぼうに言い放った。
「よせよ、そんなんじゃない」
 口をきゅっと結んだまま、俺はその紙を手の中で握りつぶし、即座に横にあったゴミ箱に放りこんだ。そんな不機嫌な俺の態度に、榎本はそれまでの冗談に満ちた笑顔を引込め、罰悪そうに口をつぐんだ。
 しばらく気まずい雰囲気が流れていたが、そのうち榎本は真面目な顔で俺の肩に手を置くと、声を落として言った。
「なあ、富士木。今日仕事終わったら飲もうぜ。話があるんだ」
「なんだよ? 悪いけど、今夜は飲む気分じゃないんだ、俺」
「いいからつきあえって。な?」
 かなり強引にことを決めると、榎本はもう一度肩をポンポンと叩いて行ってしまった。俺は深くため息をついて、額に手をあて俯いた。
(何むきになってるんだ、俺は。適当に受け流しておけばいいものを……)
 同僚の何気ないおふざけを見逃せないほど、俺は追い詰められているんだろうか?
 だとしたら、いったい何に追い詰められてる? 孤独か、寂しさか、それとも、いつまでもぐずぐずと情けない自分にか……。
 何度ため息をついたって、そんな答えは出はしなかった。
 その日の夜、俺は榎本に誘われるまま、小さなカフェバーで奴と向き合って酒を啜っていた。
 しばらく仕事の話をした後に、彼はようやく本筋らしき話題をきりだした。
「富士木? ちょっと立ち入ったこと聞くけどよ?」
「なんだよ、いきなり?」
 榎本はちょっと言葉をとぎって、カリカリと小さく鼻の頭を引っ掻いた。それは奴が言いにくいことを口にする時の癖だった。
「おまえさぁ、彼女と別れた……んだよなぁ?」
 突然の問いかけに、俺はビックリして口をつぐんだ。何をどう答えてよいかわからず沈黙していると、榎本は同情するように俺を窺い見て、遠慮がちに話しつづけた。
「いや、ちょっと前から元気なかったし、この前カマかけたら焦ってたし、そうじゃないかとは思ってたんだ。やっぱり、そうなのか……」
 俺は黙ったまんま俯いた。こんな態度をとれば答えは明白というものだが、だからと言って、はい、そうですと頷くのも馬鹿げてる。
 俺が無言で酒のグラスを見つめていると、彼はゆっくりと喋り続けた。
「おまえって、俺と違ってパーっとヤケ酒かっ喰らって大騒ぎして憂さを晴らすようなタイプじゃないし、誰かに愚痴るわけでもないし、なんでも全部自分の中に溜め込むだろ? それ、見てると辛いんだよな。なんか、最近のおまえって痛々しくってさ。凄く無理してる感じがしちまって……」
 奴の言葉は優しくて、だけど俺の胸にグサグサと深く刃をつきたてた。
 俺が一番見たくない自分、一番隠しておきたかった己の弱さを、こいつは同情という言葉で暴き出す。思いやりという残酷さで俺の目の前に並べてみせる。羞恥と自己嫌悪の底に突き落とす。
 グラスを持つ手が小刻みに震えた。
 榎本はそんな俺をどう思っているのか、憐れむような眼差しを注ぎながら、言葉を繋げた。
「でな? 別れたばっかりのところにこんな話も何かなって思うけど、でもおまえ、なんとなく一人にしておけない感じがしてな……」
 彼は一旦話をとぎって、すっと俺の目を見ながら言った。
「なあ、俺の彼女の友達と会ってみないか?」
 俺は目を剥いて彼を見返した。
(こいつ、いったい何を言ってるんだ?)
 俺の戸惑いを他所に、彼は勝手に話し続けた。
「女の同僚によ、すごく性格のいい子がいるらしいんだ。見た目も可愛くってさ。ただちょっと大人しくて引っ込み思案らしいんだよな? そのせいもあって、その子もまだフリーで、誰かいい相手いないかって女に頼まれてたんだよ。で、おまえなら男としても人間としてもいい奴でお薦めだし、ルックスだって満点だろうしさ」
「ま、待てよ……。俺はそんな気は……」
「だから、すぐに付き合えとは言わないさ。まずは会うだけ会ってみたって損はないだろ?」
「いや、そうじゃなくて、俺は……」
「なあ、別れた女のことを忘れられない気持ちはわからんでもないが、なら、尚更気晴らしした方が楽になるんじゃないのか?」
 榎本は心底俺を気遣う目をして、自己満足な説得を押し付けた。
「何がどうしたなんて事情は勿論俺は知らん。だが、おまえがまだ引きずってるのはよーくわかる。たかが女一人のことだったって、そうそう簡単にふっきれるようなもんじゃないよな。そりゃそうだ。でもよ、いつまでも未練たらしく思いつめてたって、どうなるもんでもないだろ? もうダメなんだろ? その女とはさ……。なら、ダメならダメでさっさと諦めろ。まずは忘れる努力をしろよ。でなきゃ、いつまでたったってその女の夢を見る羽目になるんだぜ?」
 熱っぽい瞳をして語る奴の顔は、笑えるほど真剣で愚かしかった。
 こいつの言葉はてんで的外れで、だが痛いほど真実ばかりで、俺の全てを打ちのめす。
 いつまでも引きずって、いつまでも未練たっぷりで、諦めることもできずに繰り返し心の中からなくした恋を引っ張り出しては、見苦しく惜しんで嘆いてる馬鹿な男……。
 ――それがおまえだ、吉鷹……。
 けじめのひとつもつけられない腑抜けた臆病者。
 口先ばっかりわかってると言いながら、その実一歩も踏み出せない。あの日雅也と別れたあの一瞬から……。
 恥ずかしくて苦しくて、心臓がバクバクと打ち震えた。きゅっと息が詰まった。何も知らないこいつにきっぱりと指摘されて、俺は馬鹿みたいに動揺していた。
(なんで……なんでおまえにそんなこと言われなきゃならないんだ……)
 彼が俺のことを思って言ってくれているのはわかっていた。同僚として、友達として、本当に心配して何とか力づけてやろうと気を配った結果だというのも十分承知できた。
 それでも……あからさまにつきつけられた己の醜態は受け入れ難く、苦痛ばかりが先に立つ。
 その思いは逆に目の前の存在に向かって八つ当たりの牙をむいた。
 どうして勝手に俺の心を暴きたてる? 何故放っておいてくれないんだ……? なにひとつ俺のことなんてわかっちゃいないくせに……。
「なあ、富士木? どうだ? 今度皆で一度食事でもしてみないか? もしかしたら、凄くいい出会いのチャンスかもしれないじゃないか。な?」
 俺はしばらく無言で俯いていたが、そのうち、ゆっくりと顔をあげて榎本を凝視した。
 じっと俺の返事を待っている彼を見返して、口元に薄く笑みを浮かべた。
「ありがたいことだな……まったく」
 たっぷりの嫌味をこめて俺はぽつりと呟いた。
「なあ、そういうのなんて言うか知ってるか? 大きなお世話ってんだぜ。頼みもしないことを勝手によ」
「お……おい、富士木」
  榎本は俺の反応が意外だったのか、当惑した様子で顔をしかめた。だが俺はかまわずに言い続けた。
「俺がどうしたって、おまえには関係ないだろ? 誰が助けてくれなんて頼んだよ? 他人のことなんざほっとけよ。余計な真似はしないでさ。――それにな……」
 俺は驚いて物も言えずにいる奴に顔を寄せ、鼻先が触れるほど間近で声を落として囁いた。
「おまえ、ひとつ勘違いしてるぜ。俺は女にふられたわけじゃない。俺がふられた相手は男さ。俺は男が好きなんだ。女なんか紹介されても困るんだよな、まったく」
 榎本は俺のとんでもない告白にぽかんと口を開けて馬鹿みたいに聞き入っていた。茫然としたまま、ぼそぼそとうわ言のように問い返す。
「な……富士、木……、おま、何を言って……」
「もっとわかりやすく言ってやろうか? 俺はな、ホモなんだ。男じゃなきゃだめなんだよ。女じゃこれっぱかりも勃ちゃしないんだ」
 なんの前触れもないいきなりのカミングアウトに、榎本はすっかり打ちのめされていた。突然打ち明けられた友人の秘密は、ごく普通の男であるこいつには到底受け入れ難いものだったろう。なんの反応も返せないほど唖然とし、見ていて哀れなほどショックを受けていた。
 それでも俺は容赦しなかった。呆けている奴の顎に手をやって、指先で摘んではにやりと笑って見せた。
「だからな、俺を慰めたいと思うんなら男を連れてこいよ。いや、そんな面倒な手間は要らないよな。おまえが一晩付き合ってくれりゃ、俺はあっという間に天国だぜ。身も心もさ」
 親指の腹を伸ばして、彼の唇をゆっくりと厭らしく撫で上げた。それまで驚愕一色だった彼の瞳に、見る見るうちに激しい嫌悪の色が浮かび上がってくる。
 彼は激しく俺の手を叩き落とすと、大きな音をたてて立ちあがった。
 罵倒こそしなかったが、見下ろす奴の目が、汚らわしいと告げていた。まるで目にするのもおぞましいとでも言わんがばかりに、さっと視線を逸らしては、彼は俺を置いてその場から逃げるように立ち去っていった。
 取り残された俺は一人カフェの片隅に座ったまま、手の中にグラスを壊れるほどに強く握り締めた。
 口にした瞬間から、激しい後悔が俺を責め苛んでいた。
 なんて馬鹿なことを……。
 あんな形で榎本を傷つけて、いったい何の意味がある?
 これはただの八つ当たり。意味のない愚かしい行為。せっかくの彼の優しさを、俺は穢れた足で踏みつけにした……。
 固く噛み締めた唇から、苦渋に満ちた呟きがもれた。
「くそ……なにやってんだ、俺は……」
 つぶされそうなほどの苦い思いに包まれて、俺は身動きひとつできずにいつまでも座っていた。




 その夜、俺はふらつく足でなんとか辿り着くようにして家に帰った。
 かなり無理して煽った酒が、全身からぐったりと力を奪う。だけど心は少しも酔ってはくれなかった。飲んでも飲んでも、悔悟の念は消えさることなく湧き上がってきた。
 俺はすっかり疲れきって、よろける足でキッチンに行き、冷たい水を渇いた喉に流し込んだ。コップに二杯立て続けに飲み干して、ようやく少しだけ息をつく。
 しばしぼんやりと、何を見るでもなく部屋の中を見つめた。
 あちこちに散らばった新聞。脱いで放り出したままの汚れたシャツ。ここ数日飲んだ缶ビールの空き缶の数々。綺麗好きな俺にしては信じられないほど、部屋の中は散らかっていた。
「きったねぇ部屋だな……」
 俺は独り自嘲した。それは荒んだ俺の心そのままだった。
 ほっとひとつため息をついて、仕方なく少し片付け始めた。空き缶を山のように胸に抱えながら、こんな真夜中に掃除をしてる自分がこの上なく愚かしくって、馬鹿みたいだと小さく笑った。情けなすぎて可笑しかった。
(ちゃんと……片をつけなきゃな。何もかも……)
 心がじわりと痛くなった。
 目に見えるものだけをなんとか適当に始末してから、俺はベッド脇の床の上に腰を下ろして、手に握っていた携帯をじっと見た。メモリーの中に残っているひとつの電話番号を選んでは、長い間ためらってそれを凝視する。さんざん迷った挙句に、ようやく意を決してそこに電話をかけた。
 真夜中に、耳の奥で小さく呼び出し音が鳴っていた。
 数回響いて、ふいに懐かしい声が飛び込んできた。携帯を持った俺の手が、耳の傍で凍りつく。あまりにも聞き慣れた者の声……。
『はい?』
 一瞬心臓が止まった気がした。
 愛しい男の声……。
 誰よりも誰よりも大切で、どんなものにも替え難い男の声。
 俺の一番大好きな雅也の声……。
「……雅、也」
 一瞬の間の後、すぐに弾けるように問い返された。
『吉鷹……吉鷹か?』
「ああ……」
 息を飲む音が聞こえてくる。雅也はしばし感極まったように沈黙しては、やがてゆっくりと口を開いた。
『よお、久しぶりだな。元気だったか?』
 彼はいつもと変わらない声でいつものように優しく喋った。
『今帰ってきたのか? 遅いんだな。今忙しいのか? 仕事の方』
 俺は震える声で何とか言葉を返した。
「いや、そうでもない。いつも通りだ」
『ちゃんと飯食ってるんだろうな? それでなくったって食の太い方じゃないんだからよ』
 相変わらず口うるさい母親みたいに俺の世話を焼きたがる。
 こいつはいつもそうだった。特別面倒をかけているわけでもないのに、余計な気ばかりつかっては、おまえって心配ばかりかけるよなと呆れたように笑ってた。
(雅也……)
 彼の声に負けそうだった。全てを忘れて、すがりついてしまいそうだった。
 俺はキュッと携帯を握る手に力を込めて、電話の向こうの遠い雅也にぼそぼそと呟いた。
「おい? おまえの説教聞くためにこんな時間に電話したわけじゃないんだぜ」
『ああ、それもそうだよな、ハハ、すまん。ついな、ハハハハ』
 雅也が明るく声を立てた。俺の頭の中に、目を細めて笑う彼の顔が浮かびあがった。大きな口を開けて楽しそうに微笑む雅也が、せつないくらい鮮やかに蘇る……。
 俺は思わず唇を噛み締めた。胸が熱くなって声が出ない。そんな俺の沈黙に戸惑ってか、雅也がおずおずと名前を呼んだ。
『吉鷹……?』
 その甘い響きに無理やり耳を塞ぐ。
『どうした? 何かあったのか? 吉鷹……?』
「別に何もないよ……」
『だけど……用があったから電話してきたんじゃないのか?』
「用なんてない……。ただおまえの声が聞きたかっただけだ」
『吉鷹……』
 雅也が驚いたように俺の名前を口にした。少しだけ嬉しそうな響きを込めた一言。でもそれは、次の俺の言葉であっけなく踏みつけにされる。
「……でももう電話はしない。もう二度と、かけない……。もうこれっきりだ」
『え?』
「もうこれで終わりにするから。俺、おまえのこと忘れるから……」
 長い長い沈黙があった。
 まるで時が止まってしまったかのように、凍てついた時間が俺たちの間に流れていった。
 一本の電話の向こうとこちらで、互いに声もなく静かにその一瞬を見つめている。ずっと背を向けて逃げ続けてきたことを、ようやく目の前に引きずり出して、身動きひとつ出来ずに向き合っている。
 随分の時が流れた。
 永遠のような静寂を破って、雅也がぽつりと呟いた。
『ああ……わかった……』
 それっきりまた圧し掛かってくる重い沈黙。何も言葉が返せない。
 しばらくしてから、雅也が無理に明るい声を作って言った。
『なあ……たまにはさ、遊びに来いよな? 友達でも連れて……。ただで泊めてやるからさ』
 俺はゆっくりと首を振った。
「……行かない。おまえとは二度と逢いたくない……」
 身を切られるような残酷な言葉……。ずたずたに切り刻む……俺を、雅也を……。
 俺はひとつ深く息を吸って、はっきりと終の一言を口にした。
「さよなら……」
 しばしの間の後、雅也もまた力なく応えた。
『さよなら』
 親指でポツリと電源を切った。
 それっきり断ち切れた。
 何もかもが。
 俺たちが紡いできた二年間が。
 携帯を手にしていた腕をだらりと下げて、ぼんやりと宙を見つめていた。
 胸の奥が熱くなって、息が苦しくなって、心臓が締め付けられて……封じ込んでいた想いがどんどん堰を切って溢れ出した。
 鼻がじわりと痺れたかと思うと、ふいに涙がぽたぽたっと滴り落ちて背広のズボンの上に染みをつくった。それを見つめていたら、もう後から後から抑えようもなく溢れて出してきて、俺は独り部屋の中で泣いた。
 声をあげて泣きわめいた。
「う、う……あっ、ああっ……うぁ……あああ、うぁぁぁ!」
 激しく泣きじゃくる俺の声だけが、今の俺の恋人だった……。
   

     
                                            ≪続く≫

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