きみが「またな」と囁いた |
--act 3 |
半身を起こした雅也が、ゆっくりと手を伸ばしてサイドテーブルから煙草を取り、大きな手で一本を摘み出しては口に咥えた。銀色のライターが細く掠れた音をたてる。薄暗い部屋に、オレンジ色の炎が一瞬だけ燃え上がった。 俺はベッドに寝転がったまま、その光景を眺めていた。 雅也は二、三度美味しそうに吸ったかと思うと、零れ落ちそうな灰を慌てて灰皿に持っていった。 俺は煙草を吸わないから、それは彼のためだけに用意したガラスの器だ。俺の部屋には、奴だけの物が一杯置いてある。共有するのではない、雅也だけが必要とした諸々の品々。こいつが来なくなったなら何の価値もなくなって只のガラクタになりさがってしまう、俺には必要のないそんなものが、俺の空間には沢山ひしめいている。 じっと見つめていると、雅也が視線に気づいて顔を向けた。 「なに?」 俺は無言のまま口の端を緩めて首を振った。 雅也はくすりと小さく笑って、俺の額に手を押し当てて言った。 「なんだよ、声でないのか? 絶叫してたもんな、おまえ」 「ばか、出るよ、声くらい」 そう答えた俺の声は、情けないほどガラガラに掠れていた。彼がほらみろとばかりに吹き出しては、身を寄せて俺の上に覆い被さってきた。汗に濡れた体がじっとりと熱い。セックスで火照った肉体から、男の体臭が絡みつくように立ちのぼってくる。普通ならば耐えられないような不快感すらも、相手が雅也なら、それは甘いスキンシップにすり替えられてしまう。 俺は腕を彼の背中に回して、その逞しい肉体を引き寄せた。 雅也はそれに応えるように、何度か俺の頬と首筋にキスをし、両手で抱えるみたいに俺の顔を挟んでは上からじっと見下ろした。長い時間を、何も言葉にすることなく熱い眼差しを注ぐ。 こんな風に見つめられるのは久しぶりかもしれない。 最近ではすっかり狎れあってしまって、事が終わったらさっさと寝てしまうことも多かった俺たち。最初のうちこそ、まるでエンドレスみたいに許される間は尽きることなく貪り漁った愛も、いつのまにか互いの引き時すらをも熟知して、無理に求めることは少なくなっていた。今この時にすべてを得られなくったって、また次があるのだと身も心も信じきっていたから。 (だけど、もう次はない……) 俺は自分の上の彼を仰ぎながら、二年間見つめ続けてきた顔をしみじみと眺めた。 通った鼻筋。ゴツゴツとした顔のライン。彫りの深い、きつめの目元。 何もかも俺の好きなものだった。特に面食いなわけではないが、それでもハンサムな彼の容姿は、俺にとっても自慢の種だった。何もかも完璧ではないところが、また魅力的に思えた。 俺は背中に回していた右手を移して、彼の頬をゆっくりと撫で下ろした。そのまま指先を這わせて、鼻や唇に静かに触れていく。雅也は顔を傾けては、そんな俺の掌に優しく口づけた。 そして再び俺を見つめると、急に真面目な顔をして尋ねてきた。 「吉鷹、最近仕事の方どうなんだ? 景気はいいのか?」 いきなり現実的な話題を切り出されて、俺は多少戸惑いつつも素直に答えた。 「ああ、会社は順調だよ?」 「おまえの仕事は? 新しいプロジェクトがどうのって前に言ってたじゃないか」 「ああ、あれか。うん、なんとか軌道に乗って上手くいってる。営業がせっせと仕事取ってくるから、プログラミングが忙しくって休む暇もないよ」 「そっか……。忙しいんだな。おまえも」 雅也は妙に納得したような言い方で相槌をうっては目を伏せた。突然そんなことを聞いてきた彼の真意が見えなくて怪訝な眼差しを向けていると、雅也はふと顔を上げては、少し寂しげに微笑んで見せた。 「あまり無理するなよ? ちゃんと飯も食えよな」 いつもとは違う気遣いの言葉に、ちくんと胸の奥が疼いた。俺は呆れた顔をして笑ってやった。 「よせよ……。母親じゃないんだから」 「そうは言っても、おまえ、ちょっと目を離すとすぐ生活がいい加減になるからさ。心配なんだよな……」 ひとりにするのは……。 そんな言葉が掠れて消えた語尾の後に続いていたのだろうか。 「……大丈夫だよ。ガキじゃあるまいし」 「ガキじゃないから困るんだろ? ガキなら放っとかないって……」 俺がガキなら、おまえ、どうしたんだよ、雅也? 一人置いていったりしないのか? 無理やりにでも抱えて田舎まで連れて行くのか? そんな愚にもつかない思いが胸のうちに湧き上がっては、自嘲と共に打ち消されていく。返す言葉もなくて、俺は沈黙したまま奴を見つめた。 雅也もまた黙り込んで、そして俺の胸の上にずしりと体を預けた。 心地の良い重さ。人と触れ合っていると、愛しい者と何もかも許しあってここにいるのだと、実感させてくれる重みだ。 男は雅也だけではなかったけれど、こんな風にセックスの後も幸福だと思えたのは、彼だけだったような気がする。何の警戒も恐れもなく他人に素肌を許せたのは、間違いなく彼一人だった。それはこの二年間であまりにも当たり前になりすぎて、すっかり忘れかけていた安堵感だ。もう最後という今になって、なんて大切なものだったのかと改めて思い知る。 笑えるほど皮肉な現実じゃないか……。 雅也はしばらく俺の胸の上に顔を伏せていたかと思うと、そのうちゆっくりと舌を肌に這わせて、乳首を探りあてては再び丁寧にしゃぶり始めた。もうすっかり消えたと思っていた情欲の欠片が、またチロチロと熱を持つ。 雅也は少しづつ体を下げていき、今宵何度目かの俺のものを咥えては、また愛撫を加え始めた。俺は少しづつ荒くなっていく息のままに、掠れた声で囁いた。 「雅也……もう、もう無理だって……。もういけないよ、俺……。勃たないってば」 「ゆっくりしてやるから。大丈夫だ」 「無理だよ……。な、したいなら挿れていいよ……。おまえ一人でいっていいから」 「おまえを味わいたいんだよ、吉鷹……。もう一度くれよ、おまえの……」 雅也は言葉を濁すようにとぎらせて、俺の訴えを顧みることなく熱心に口戯に没頭する。俺は俺で痺れるような快感に酔いながら、頭の中で声にならない叫びを訴え続ける。 (なあ、言えよ、雅也。もうこれが最後のセックスなんだからって……。これで終わりだから、もう次はないんだから、だから今全部欲しいんだって、そうはっきり言ってくれ。俺たち、もうお終りなんだ……。きっぱり引導を渡しちまえよ、なあ、雅也……) 「あ、あっあ……ああ、雅也……」 苦しくて、胸が詰まって、奴の広い背中に強く爪を立ててしがみついた。その痕がしばらくは残っているかもしれないな、などと思うのは、なんてくだらない未練だろう。 「雅也……あああ、あっ……はぁ……あ」 俺の喘ぎ声ばかりが部屋の中に充満して、二人の上に重く圧し掛かってくる。 本当に最後の最後の時が来るまで、何も見たくも聞きたくもないのだと……誤魔化し続ける俺たちの何もかもを嘲笑うように……。 悔しいくらいに良く晴れた土曜日だった。 見慣れた小さな賃貸マンションの前に、見慣れない大きなトラックが止まっていた。 その荷台とマンションの中とを、先ほどから出たり入ったりを忙しく繰り返す作業着姿の男たちがいる。そして、道の脇に突っ立っては、そんな彼らを眺める俺と雅也。ぼんやりと、何かを手伝うでもなく、ただ黙って見守っているだけ。 結局あの送別会の最後の夜から、俺は雅也と逢う機会もなく、こうして引越しの当日を迎えたのだった。 何度か電話のやり取りはしたが、それだって深夜遅くに一言二言声を確かめ合っただけのもの。お互い忙しさの渦に紛れて、ずっと気づかないふりをしていた。俺たちの最後のその日を……。 雅也が手持ち無沙汰みたいに何本目かの煙草に火をつける。俺はちらりと窺って、おずおずと尋ねた。 「な、本当に何もしなくていいのか? 俺、これでも手伝う為に来たんだぜ?」 雅也は斜めに首を傾けては、小さく笑った。 「いいんだよ。なんとか引越しパックだとかで、何もかも業者任せで済むやつなんだから。最後の掃除まで全部やってくれるんだってさ。こっちはただ見てりゃいいんだと」 「その手のやつって結構高いんじゃなかったのか? 引越し代」 「さあな。親が頼んだんだし? 俺に任せておくと、金がないだの荷造りの暇がないだのといつまでも引き伸ばされそうだってんで、さっさと勝手に決められちまってさ。まったく、こんな時ばっかりは手際のいいことだって」 「ふうん」 俺は中途半端に相槌を打った。 何もすることがないのは少し困る。バタバタと忙しさに流されてしまえば、余計なことを考えないうちにいつの間にか支度が終わって、辛いその一瞬に否応もなく立ち会うことができただろうに。 ぼんやりと眺めていると、突然雅也は「あっ」と小さく呟いて、ちょっと待ってろよと言い残して部屋の中へと入っていった。五分ほどして戻った時には、手に紙袋をひとつぶら下げていた。 彼はそれを俺に突き出しながら、口元だけ笑ってみせた。 「ほら、おまえの荷物。整理してたら結構出てきたぜ。前におまえが探してた紺のネクタイさ、ベッドの隅に埋まってた」 「ああ……あったんだ、あれ」 「もしかしたら、他にも紛れてるかもな、いろいろと。まあ、向こうで見つかったら送るからよ」 俺は紙袋を受け取りながら、俯いて呟いた。 「いいよ、別に。捨てちまってくれ」 「吉鷹……」 「なんなら雅也使って。趣味が違うから、気にいらないかもしれないけど」 いつまでもずるずると名残が届くなんて、まっぴらだと思った。それを受け取るたびに、「もうこれが本当の最後だ」を何回思い知らされることになるというのか……。 慌ただしく引越し作業員の出入りが目の前で繰り返され、やがて荷物もほぼ積み終わったかと思われた頃、雅也がぼんやりとトラックを見ながら、ポツリと力なく呟いた。 「そろそろかな……」 俺もまた前を見ながら、抑揚のない声で返した。 「ああ、そうだな」 「俺、荷物と一緒に行くんだ。後始末や掃除は係りの者で全部してくれるっていうからさ」 「そう……」 先ほども口にした説明を繰り返してから、雅也はようやくのように俺のほうへと顔を向けた。しばらくじっと見つめ、口元にうっすらと薄い笑みを浮かべて一言言った。 「じゃあな、吉鷹」 「ああ」 俺はこれ以上はないくらいの平静さで応えた。さすがにニッコリ笑って見送ることはできなかったけれど、涙ひとつ浮かんでくることもなかった。 雅也はそんな俺を見つめながら、冗談っぽく鼻で笑った。 「こんな時、ドラマのヒロインなら、いかないでってすがるもんだよな」 「俺が? すがるのか? 今ここで?」 「……ふふ、似合わないよな。全然」 「…………」 どう返したらいいかわからなくて、俺はちょっと困った顔で首を傾げた。雅也は哀しそうな笑顔で言った。 「な、時々はさ、おまえも遊びに来いよな。一番いい部屋にただで泊めてやるからさ。料理も最高級なの食わせてやる。温泉入ったら仕事の疲れだって取れるぜ? たまには骨休めしに来いよな」 俺はいっそう返す言葉が見つけられなくて、ただ無言のまま彼を見つめるだけだった。 やがてそんな俺たちに、引越し業者が作業の終わりを告げてくる。雅也は軽く会釈をして、もう一度俺のほうへと視線を向けた。 「……じゃあな、吉鷹……」 それは本当に最後の言葉。もうその後に、「またな」が続くことはない。仮に再会する事があったとしても、もうそれはこれまでとは違う出会いなんだ。万が一体を重ねることがあったって、もう俺たちは恋人同士じゃない。 もう俺たち二人の時間は、これで終わりを告げる。ここでお終い。続きはない……。 きみは「またな」を呟かない……。 俺は言わなきゃいけない言葉を口の端まで浮かべたが、どうしてもその一言を声に出すことができなかった。 雅也は拳で軽く俺の胸を小突いて、最後にもう一度だけ笑顔をみせて、車へと向かって歩いていった。 俺はその後ろ姿を食い入るように見つめていた。トラックが行ってしまって、雅也も行ってしまって、走り去る車が道路の向こうに消え去って見えなくなっても、俺は長い間その場に突っ立っていた。 告げられなかった「さよなら」の言葉は、永遠に俺の胸の中に沈んでいった。 ≪続く≫ |