きみが「またな」と囁いた |
--act 2 |
マスカレードは、その小さな店内が一杯になるほど、たくさんの人で溢れていた。 貸し切りにしている今夜は、皆が雅也の送別会に集まった者たちばかりで、その大半は俺にもよく見知った顔である。 雅也はあの人懐っこい人柄のせいか、友達の多い男だった。 昼の世界では大学時代の友人やら会社の同僚やら、しょっちゅう誰かとつるんでは遊んでいたし、夜は夜で何処の店に行っても必ず一つや二つ声が掛かった。それは必ずしもセックスが目的ではなくて、単に話し相手であったり、酒の仲間であったりと様々で、体の繋がりではなく人柄で皆を惹きつける。 雅也はそんな暖かい魅力に溢れた奴だった。 反対に、俺は何故かわからないが真っ先に男を下心で寄せ付けてしまうようなところがあって、話より何よりまずベッドに誘われるような、薄汚れた人間だ。だから尚更すぐに言い寄ってくる相手には警戒して構えてしまうのだが、不思議と雅也にだけは最初っからあっさりと心を許せてしまった。 そして一度開いた心を彼がしっかりと受け止めてくれたから、俺たちはきっとこんなにも長く続けてこれたんだろう。 でなければ、こんな数多いる男たちの中で、あいつだけが俺の特別で、俺だけがあいつの特別であるような、そんな二人の関係なんてそうそう有り得るわけがない。男なんて一人でも多くの相手と寝るのを勲章に思うような、くだらない動物なんだから。 もっとも雅也の方はそんな男のご多分に漏れず、俺以外にもたまに違う男と寝ることはあったようだ。だが俺はそんなこと咎めたりはしなかったし、実際そう気にはならなかった。見知らぬ誰かに嫉妬はしたけれど、雅也が俺に見せる誠意は間違いなく正真正銘の本物だったし、それに彼を一人で束縛できるほど自分が優れた人間だとも思ってはいなかったから。 俺はただ、彼と一緒にいられることだけで満足だった。 彼の傍で、黙って周りの会話に耳を傾けていられる……そんな時間が好きだった。それを許してくれる雅也が好きだった。 だけどそんな幸福ももうすぐ終わってしまうんだと、顔を合わせる度に皆が口々にかける挨拶の言葉で、いやと言うほど思い知らされる。 「よお、雅也。田舎落ちするんだってぇ? なんだ、寂しくなるなぁ」 「雅ぁ、なんで行っちまうんだよぉ? つまんないじゃん、あんたがいないとー」 「雅也、元気でな。向こうに行ってもしっかりやれよ?」 繰り返される惜別の言葉に、雅也は一つ一つ笑顔で返した。開いた口から真っ白な歯が光りこぼれる。皆といる時には青空みたいに清清しく、俺と二人きりの時にはとろけそうなほど甘い笑みを浮かべてみせる彼の口は、ちょっと大きめで、だけどそこがまた男っぽくて愛嬌もある。 雅也はにこやかに応対しながら、いかにも残念そうに、だけど決して湿っぽくはなく返事を返した。 「ちょっといろいろと事情がさ。まあ仕方ないんだ。俺も凄く残念なんだけど」 「今日はありがとう。みんな集まってくれて嬉しいよ、本当に」 社交辞令ではない、本心の言葉だった。だからこそ、ちゃんとストレートに心に響いてくる。 群れ集まった男たちが、それぞれに肩を叩いたり、グラスをぶつけたりして別れを惜しんだ。 「たまには出て来れるんだろう? こっちにさ」 「ああ、来るよ、遊びに。ずっと田舎に引込んでたんじゃたまらないしな」 「地元じゃあ派手に男遊びも出来ないって? ハハハッ」 「来たら連絡しろよ? パーっとつきあってやるからな」 皆が暖かい言葉をかけた。誰もが心から雅也と会えなくなるのを残念がっているのだ。 「あ、泊るところなかったらボクん所にいらっしゃいよー。雅也ならいつでもOKだからさぁ」 「ばあか、おまえの出番なんてないだろ? 雅也には吉鷹がいるんだからさ。なあ、吉鷹?」 ぼんやり聞き入っていたところに突然話を振られて、俺はビックリしてうろたえて応えた。 「え? なに? 誰がいるって?」 すっとぼけた返事に、皆が苦笑する。 「なに寝ぼけてるんだよ、ヨシィ。もうはや酔ってるのかぁ?」 「え、え? 酔うほど飲んでないけど……俺、もう酔ってる?」 いっそう訳のわからない答えを返してしまって、どっと周りが可笑しそうに湧き上がった。雅也が一人困ったように微笑んで、俺の肩を引き寄せ、軽く抱きしめてくれた。そんな彼の仕草に、皆が呆れてからかった。 「ちぇ、相変わらず見せ付けてくれるなぁ。やってらんねぇ」 「まあまあ、二人の仲のいいのは今更じゃん。ふてるなよ、ヒロ」 クスクスと含み笑いがあちこちから漏れる。皆の視線と冷やかしの台詞に、俺は思わず頬を染めてうつむいた。だが雅也の方はいっこうに照れることなく、逆にちらりと優しく視線を向けて、そっと微笑する。こんな一瞬が、何よりも俺の心をじわりと痺れさせた。 「ああ、でも、ヨシィも寂しいよねぇ、雅也が遠くに行っちゃってさぁ」 集まった彼らの中でも特に俺たちと仲の良かったカツミが、同情するみたいに声をかけた。カツミはまだ二十歳にもならない子供だけれど、性格のいい楽しい奴で、何故だか俺たちによく懐いていた。時々プライベートでも一緒に遊んだりする友人の一人である。 カツミの横にいた別の男が、こくこくと頷いて言い足した。 「遠距離恋愛って大変そうだしな。俺のダチも前にやってたけど――あ、そっちは普通の男女だけどよ、電話代やら交通費やら莫大で、毎月ヒーヒー言っててさぁ、ま、結局は半年持たなくて別れちまったけどな?」 「ちょっと。今それ、無神経……」 カツミが男の脇をつんと肘でつついた。男はしまったというように慌てて口を押さえ、俺たちのほうを窺った。 雅也はちょっと戸惑うように眉をひそめ、応えを迷って沈黙していた。俺はちらっと彼の顔を見てから、おずおずと代わりに口を開いた。 「いや……いいんだ、別に。どうせ俺たち遠距離恋愛なんてする気ないし……」 すぐに周りから訝しげに問い返された。 「えっ、でも……」 「する気ないったって……吉鷹、おまえも雅也について向こうに行くのか?」 俺は苦笑して首を振った。 「まさか。仕事あるのに」 「でも、じゃ、どういうことだよ? それ」 「どうって……」 俺ははっきり口にするのもはばかられて、言い淀んで目を伏せた。皆の視線が今度は雅也に向いたが、彼もまた黙ったままである。その雰囲気の気まずさを感じ取ってか、誰かがぼそりと呟いた。 「なに……じゃ、もしかして、別れる気? ふたり……」 それはまるで振り下ろされた死神の鎌みたいに、残酷な響きで俺たちの上に落ちてきた。思わず身を硬くする俺をかばって、雅也が静かに口を開いた。 「別れるって別に……はっきりどうこうって訳じゃない。ただ今までみたいにはいかなくなるし、自然と逢う機会は少なくなるだろうから……」 すかさずカツミが問いただした。 「じゃ自然消滅ってこと? でも、どっちにしたって別れることに変わりないじゃん」 カツミの言葉は正直で、だけどそれ故に残酷だった。俺たちが黙り込んでしまうと、周りは急に静かになった。皆が返答に困って沈黙している。俺たちの深く長い付き合いは誰もが周知の事実だったので、多分皆も驚いているのだ。どう反応すればよいのかわからないのだろう。 気軽に慰めるのも、ジョークに包んで笑い飛ばすにも重すぎるエンディングだったから。 だが同時に、諦めの空気が漂うのも感じた。そして多少の嘲りもだ。 所詮男と男の付き合いなんてそんなものだと、二年も続いたのが不思議なくらいで、いつかは誰もが別れていくものだと、皆が暗黙のうちに語っている。それがこの世界の恋愛なのだと、誰もが冷たく納得してる。 そんな中、若いカツミだけは自分の感情を抑えきれぬのか、俺の肩を揺すって激しい口調で迫った。 「なんで? ヨシィはそれで平気なの? 黙ってこのまま行かせちゃうわけ?」 「だって……仕方ないだろ?」 俺は目を伏せたまま力なく応えた。 「雅也には雅也の都合があるし、俺だってこっちで生活があるんだから。今更どうしようもないよ」 「どうしてさ? なんでどうしようもないで済んじゃうの? ヨシィも雅也も恋人同士なんだろ? 誰よりも愛し合ってるんじゃなかったの? どうしてそんなに平気な顔してんだよ、二人とも? 俺、そんなの信じらんないよっ!」 カツミがまるで自分のことのように熱くなって、大声で叫んだ。大きな瞳が涙で見る見るうちに潤んでいく。 さすがにその興奮ぶりに黙って見守っている訳にはいかなくなり、横にいた者たちが宥めるように肩を押さえた。 「おいおい、カツミ。まあ落ち着けって」 仲間の一人が、憤って半べそをかいているカツミの肩を抱き、店の外へと連れて出て行った。 残された俺たちは妙に気まずくて、しばらく誰もが沈黙していた。確かにカツミの言うことはわからないではなかったが、恋人同士だの愛し合ってるだの、とてもじゃないが俺たち大人には恥ずかしくて口にも出せないような言葉を真正面から突きつけられて、誰もが失笑を隠せなかった。 やがて場を繕うように誰かが言った。 「で、雅也、いつ行くんだ? 田舎に?」 「え? あ、ああ……。来週だよ。来週の土曜に引っ越す」 「そっか……。まあ、向こうに帰っても頑張れよな」 先ほどまで何度も交わされた挨拶がまたおざなりに繰り返され、一時しらけきっていた酒の席はなんとかまた賑わいを戻し始めた。潜まっていた会話もあちこちで交わされるようになり、いつしか店内は楽しいパーティの雰囲気を取り戻す。だが店から連れて行かれたカツミは、もう帰っては来なかった。 俺はなんだか急に疲れを感じて、雅也の傍を離れて、一人カウンターの端っこに座ってチビチビと酒を啜っていた。 先ほどの悲鳴のようなカツミの台詞が頭の中に蘇って離れなかった。 ――どうして、どうして平気なんだよっ? なんで黙って行かせちゃうんだ? (どうしてって……そんなの、仕方のないことじゃないか。ガキじゃないんだ。気持ちだけで何もかも動かせるわけじゃない。幾ら、幾ら愛し合ってたって……どうにもならないことはあるんだ。そんなのわかりきってることじゃないか……) 俺はまるで自分に言い聞かせるように、何度も何度もそんな思いを頭の中でつぶやいた。呪文みたいに繰り返して……。 と、ふいに肩に手を置かれて、驚いて飛びあがった。顔を向けると、後ろに雅也が立っていた。 「なんだ、何驚いてるんだ、吉鷹?」 雅也が不思議そうに目を見開いて俺を見ていた。俺は小さく笑って返した。 「いや……ごめん。ちょっとぼうっとしてたから。ビックリした……」 雅也はちょっと呆れた顔で微笑んで、俺の肩を抱き寄せるように身を寄せ、耳元でそっと囁いた。 「な……? 今夜、俺んちに泊まってくだろ? 吉鷹」 甘い甘い声……。 彼の吐息が耳に触れて、背筋がぞくりと震える。俺は熱に浮かされたみたいに朦朧として頷いた。 「……うん」 「あ、でも汚いぜ? 引越し準備の最中だからさ。まあ、ベッドくらいは空いてるけどな」 俺はしばし沈黙し、そしておずおずと言った。 「なぁ、じゃ、俺んところにしよう? うちもあまり片付いてるとは言えないけど、きっと雅也んちよりはましだから」 引越しの荷造り途中の部屋なんて、目にしたくはなかった。いやがおうでも最後の時を見せつけられるみたいで辛くなってしまう。 雅也はそんな俺の心情を知ってか知らずか、素直に頷いた。 「ああ、じゃ、おまえんちにしよう。二次会パスな?」 「いいのか? 主役が?」 「いいさ。だって……俺、早くおまえ抱きたい……」 肩を抱く彼の手にぐっと力がこもる。俺は体の芯まで痺れる気がした。 ああ、どうして俺は、こんなに熱い手を失ってしまうのだろう? どうしてもうこの幸福に浸ることは許されないのか? そんな答えは、きっと誰にもわからないのだ……。 雅也の手が、俺の硬く尖った乳首を強く摘んだ。 俺は思わず身をよじらせ、せつなく声を漏らした。 「あっ……、んん……」 そんな反応を楽しむように、彼はいっそう執拗に胸ばかりを愛撫する。先ほどから俺の中にいる自分をまるで放り出したまま。 送別会の席を早々と抜け出して、俺たちはいつもの週末の夜のように部屋に戻って抱きあっていた。 狭いバスルームを交互に使い、さっぱりと汗を流した体にまた新たな汗を纏う。お互いよく慣れ親しんだ肉体は、どこをどうすれば一番気持ちいいのかをよく知っている。何が喜びで、何が苦痛かをすべて理解している。 その上で、彼のもたらす快感はいつも新鮮に俺を奮い立たせ、快楽の炎の中に放り込んだ。俺たちは前戯のようにそれぞれの体を愛し、喜ばせて、歓喜を味わった。そして今、雅也は俺の体を深く刺し貫きながら、長いセックスを楽しむようにあちこちに触れては弄んでいた。 自分の中に大きくいきりたった彼を感じるのに、それは嘲笑うみたいにじっと身を潜めている。時折ほんの少しだけ蠢いては、消えかける炎をパッと熱く燃え立たせた。 俺はそんな焦れったさに耐え切れず、彼の二の腕を掴んで揺さぶった。 「な……雅、雅也……、早く……」 雅也が意地の悪い微笑を向けた。 「ばか、焦るなよ」 「だって……ん、うぁ……!」 虐めるように少しだけ攻めては、奴はまた動きを止めてじっと上から俺を見下ろした。その瞳は残酷な色をしていたけれど、また泣きたくなるほど甘くて、優しくて、俺の何もかもを虜にした。 俺は荒く息をつきながら、何度も右に左にと頭を振って、中途半端に燃え上がらされた情欲に苦しげに身悶えした。すぐに堪えきれなくなって、情けない声で嘆願してしまう。 「雅也……雅也ぁ……、も、やだ……。なあ、してよ? 頼む、から……」 雅也が体を折って、俺の耳に口を寄せるようにして囁いた。 「早すぎるよ、吉鷹。もう少し我慢しろ」 「や、やだ……。そんなの、我慢できない……。早くいかせて……」 「だめだ。おまえ、すぐにいきっぱなしになっちまうんだから。もっとゆっくり楽しめよ?」 「だって、あっ、あっ……、ん! 雅也……。もうや……やだぁ」 焦らすように酷くゆっくりと間を空けて攻められて、俺は息も絶え絶えに全身をのけぞらせた。ハアハアと熱い呼吸が肺を燃やす。行き場のない快感が体の中で荒れ狂う。俺は溢れて流れ落ちる涙を隠すように、両腕で顔を覆った。だがすぐにその手を雅也に取り除かれてしまう。 彼は俺の両手首を強くシーツに押さえつけて、目を細めて凝視した。 「顔を見せろよ、吉鷹。おまえが感じている姿は最高にいけてるよ。見てるだけで、俺、いきそうだ」 少し嘲るような響きを込めて、奴は冷酷に言い放った。 「泣けよ、吉鷹」 「やだ、ばか……。離せよ、腕……」 俺が抵抗して体をよじると、雅也は薄く笑って俺の後ろを突き上げた。 「あっ! ああっ、や! あ、雅也!」 ずっと身を潜めていた情熱をいっきに解き放つかのように、彼は激しく俺を攻め立て始めた。もう一歩のところで長く抑えつけられていた俺の快感が、瞬く間に燃やされ、煮えたぎって、俺はあっさりと最後の山を越える。もう三度目にもなる悦楽の絶頂を手に入れる。 「ああ、ああっ、雅也、いく……。いっちまう……あああ」 「いけよ、何度でも。吉鷹……」 「あっ、雅也っ! はああぁっ!」 俺は激しく体を強張らせて、こらえていた精を溢れさせた。だが何度も立て続けにいかされたせいで、もう感覚がおかしくなって、いっても果てに辿り着けない。いや、辿り着けないんじゃない。そこから戻ってこれないんだ。 強い快感に支配されたまま、終わりというものを得られずにずっとずっと感じ続ける。あまりに強烈な絶頂感に、俺は喉の奥から細く長い悲鳴をあげた。苦しいほどのけぞって、白い首筋を精一杯に伸ばし、痙攣でも起こしたみたいに全身を震わせた。 雅也がそんな俺を気遣うように、規則的に突き上げていた腰を止めて俺の頬をそっと掌で包みこんだ。だが俺はその手を掴みとめて、喘ぎながら言った。 「雅也……やめるな……。もっと、もっとしろよ。おまえも、いけよ……なぁ」 「ばか……、どうなってもしらないぞ?」 「いいよ、いいから……な、頼む。いってくれ……俺の中に……。欲しいんだ、おまえを」 俺は掴んでいた手を握り締め、獣みたいにその手を舐めしゃぶった。熱く火照った舌で、奴の指を、まるで彼自身のようにいとおしく愛撫する。喉の奥深くまで咥えこんでは、舌を這わせた。 雅也は微かに眉をひそめて、その快感を受け入れていた。しばらくされるがままに任せていたかと思うと、ふいに手を引き抜いて、俺の肩をぎゅっとベッドに押し付けた。 「いくぞ、吉鷹。少し我慢しろ」 そう呟いたかと思うと、強く奥までつきあげて、激しい律動を加え始めた。 彼の動きに揺さぶられて、俺の体がベッドの上で踊る。まるで波間の木の葉のように、ひらひらと、ゆらゆらと、雅也の愛に翻弄される。俺は狂ってしまいそうな悦楽の中で、彼の名前を絶叫していた。 もう二度と誰も、こんな風に愛せない……。 思いが心の底で啜り泣いていた。 ≪続く≫ |