きみが「またな」と囁いた

目次に戻る

--act  1                       

 隣に横たわっている雅也の人差し指が、ゆっくりと俺の胸の上を滑っていった。
 たった今二人でセックスし終えたばかりの汗ばんだ肌を、なぞるように下りていく彼の指先。奴の手はゴツゴツと骨ばっていて、男らしくて、俺の女みたいに細くて青っ白いそれはとまるっきり違っている。
 その指であちこちを悪戯するようにくすぐりながら、彼は突然ぼそりと呟いた。
「吉鷹、俺、田舎に帰るわ」
 唐突にかけられたその言葉を、俺は最初、素直に言葉だけの意味として受け取った。
 快楽の甘い余韻に浸ってぼんやりとした頭で聞きながら、胸の上を蠢く奴の手をなんとなく目で追いつつ、のんびりとして聞き返した。
「帰る? ふううん。いつ? 今度の週末?」
「いや……そう差し迫った話じゃないけど……」
 雅也がちょっと戸惑うように苦笑する。いつになく歯切れの悪い彼の口調を不思議に思いながらも、それでも俺はあくまでも呑気にとらえていた。
 雅也とつきあい始めてかれこれ二年が経とうとしている。
 これだけ長く付き合っていれば、多少逢瀬の予定がつぶれて逢えない日々が続こうとも、そう寂しさを感じることはない。蜜月のようにべったりと絡み合ってた時期はとうに過ぎて、俺たちは多少マンネリになってきた仲を互いに漠然と懸念しつつも、週末にだけ逢ってはセックスを楽しむような、ドライな日々を過ごしていた。
「なに? 法事でもあるのか? それとも親戚の結婚式とか?」
 あっけらかんと尋ねる俺に、雅也はちょっと惑うように唇を噛み、そして一旦視線を逸らせて大きく深い吐息をついた。何を迷っているのか、しばし無言のまま目を伏せている。俺が不審に思って声をかけようとした矢先に、彼は再び顔を向けると言いにくそうに口を開いた。
「そうじゃないんだ。帰るってのは、つまり……一時的なことじゃなくって……、向こうに住むってことなんだ。こっちを引き上げてさ」
 真正面から俺の目を見て、もう決意してしまったのであろう今後を奴は語った。
 俺はしばらくその瞳を見返しながら、痺れたようにフリーズした思考回路を必至になって動かそうと努力していた。
「引き上げる? ……って、仕事は? 会社はどうするんだ、雅也?」
「勿論やめるよ。まさか電車で六時間もかかる田舎から遠距離通勤はできないだろ?」
 小さく鼻で笑う彼を食い入るように見つめ、俺はかすれた声を喉の奥から絞り出した。
「やめて、どうするんだ? なにかまずいことでもやらかしたのか、おまえ?」
「違うよ。ひどいな、吉鷹」
 形のいい唇を緩めて、束の間の笑顔を見せる雅也。その笑みが、逆に不安を助長する。
「じゃ、なんで急に……?」
 力なく尋ねる俺を哀れむみたいな目をして見つめながら、雅也は胸の上にあった指先で今度は優しく髪を鋤き始めた。俺の額に張りついた後れ毛を、いとおしむようにゆっくりとかきあげる。そんな愛撫を続けながら、彼は低い声で語った。
「俺んち、向こうでホテルやってるの知ってるだろ?」
「ああ、前に聞いた。結構老舗の、でかいホテルだって」
「うん。そのホテルをさ……。本当はアネキが継ぐ筈だったんだけど、今頃になって好きな男が婿入りなんて嫌だとかなんだとかぬかしやがったらしくて、それでなんだか知らないうちに俺にお鉢が回ってきたんだ。会社勤めなんて辞めて、さっさと帰って来いとさ」
 何処か遠いところの世間話のように何気なく聞かされた彼の言葉を、俺は長い間頭の中で咀嚼し、何度も何度も繰り返しその意味を考え直して、ようやくぽつりと言い返した。
「それって……じゃあ、もう俺たち、終わりってこと?」
 雅也はピタリと手を止めて、じっと俺を見つめながら寂しげな笑みを浮かべた。
「そうだな。田舎でゲイカップルやるのはキツイよな」
 俺は無言の返事を返した。
 雅也の手が再び動き始める。ゆっくりと、優しく、毛繕いをする動物みたいに撫でては鋤くの繰り返し。
 俺は髪の中で柔らかく遊ぶ彼の手を許しながら、黙って天井をにらんでいた。何も言葉が浮かんでこなかった。どう感じればいいのかもわからなかった。凍りついたままの自分の感情もわからなかった。


 俺が彼と出会ったのは、もうニ年も前のことだ。
 最初の出会いは、行きつけのゲイバーでもクルージングルームでもなく、なんと仕事の取引先の、ある会社の応接室であった。
『五条雅也(ごじょう まさや)』――手渡された名詞には、そうフルネームが書かれてあった。
 俺と同じくらいの歳の、まだ若い男。がっしりとした肩幅や日に焼けた肌が、健康的な青年のイメージを際立たせている。快活そうにはっきりと挨拶の言葉を口にする彼は、とても人当たりの良さそうな、明るい太陽の匂いがした。
 彼は、慣例通りに俺が渡し返した俺の名刺をじっと見つめていたかと思うと、突然その顔にニッコリと眩しい笑みを浮かべて、いかにも楽しそうに言った。
「いやぁ、めでたい名前ですねえ」
 俺は思わず目を丸くして彼を凝視した。
 俺のフルネームは富士木吉鷹(ふじき よしたか)。仰々しいだの堅苦しいだの言われたことは今までにも何度かあったが、めでたいと言われたのは初めてだった。
 俺が声もなく見つめていると、奴は血相を変え、慌てて言い訳めいた謝罪をした。
「あ、すみません。失礼なことを口走ってしまって……。でもほら、富士に鷹で、おまけに吉でしょう? まるで正月の初夢みたいだなあって思って」
 俺はそれを聞いていっそう目を丸くし、そしてすぐに派手に吹き出した。そのすっとぼけた言葉と、さらにそれを語る彼の子供みたいな狼狽ぶりが可笑しくて、初対面の、しかも仕事の席だというのに笑いを抑えることができなかった。
 だがそんな俺の反応は逆に彼を安心させたらしくて、奴もまたホッとしたように笑った。その後俺たちは一緒になって五分ぐらい笑い続けていた。
 彼の笑う姿は、最高に魅力的だった。男っぽくきっちりとした顔のラインが、笑顔でふわりと柔らかみを増して妙に人懐っこさを感じさせる。大きく開いた口から白い歯が眩しくこぼれて、俺の目を惹きつけた。
 俺はきっと、その時から彼に、五条雅也という男に魅了されていたのだろう。
 しかしそれを本人に口にすることなんて絶対にないと思っていた。彼が俺と同じゲイだなんて期待は端から抱いてはいなかったし、ましてや仕事のつきあいの相手を口説くような馬鹿な真似など、これっぽっちも考えてなかったからだ。
 だから、それから二週間ほど後に友人に誘われて行ったゲイバーで彼と再会した時には、本当にもう声も出ないほど驚いたのであった。もっとも、それは彼にとっても似たようなものだったらしいのだが。
 俺がぼんやりと煙草のヤニで汚れた奴の部屋の天井を眺めていたら、雅也がつんと軽く顎の先をつまんで、つぶやいた。
「おい、いいのか? 時間……」
 はっと我に帰って、俺はちらりと壁の時計を見た。
「よくない。終電に乗り遅れる。帰らなくちゃ」
 彼の手を振り払ってベッドから起き上がると、俺は使い慣れた彼の部屋のバスルームに飛び込んで、手早く情事の跡を洗い流した。そしていつものように、横着にもベッドに寝ころがったままで俺を見送る雅也に、普段通りの挨拶をした。
「じゃあな、雅也」
「ああ、またな、吉鷹」
 雅也は薄く微笑んでそう言った。
 またな……。その言葉が今日ほど意味を持つものとして感じたことはなかった。




 最後の電車は俺を吐き捨てるようにしてホームに放り出すと、すぐに扉を閉ざしてさっさと走り去っていってしまった。
 真夜中のホームには、結構人の姿があった。
 疲れた顔をして床を睨みつけながら歩いている男は、週末だというのに残業でもしていたのだろうか。赤らんだ頬でなんとなく足取りの危なっかしいオヤジは、明らかに飲んで帰ってきたところだ。その横をすました顔で足早に通り過ぎていくOL風の女は、だけど本当は俺みたいに、恋人と逢って一発済ませた後の帰宅途中かもしれない。
 そんなくだらないことを何気なく考えながら、俺は駅を出て、独りマンションへの道を歩き始めた。
 銀色の街灯が冷たい光を道路に落とす。下を向いて歩く俺の足元を、寂しげに照らしてくれる。
 俺はすっかり人気のない夜道をぽつぽつと歩きながら、ぼんやりと思った。
(そっか……。俺たちって、こんなもんだったんだな……)
 夏の始めの、まだひんやりとした夜風が、俺のずっと痺れたままの心に吹きすぎていく。俺はさっきまで素肌を溶け合わせていた相手のことを思い浮かべた。
 別れ際に、ベッドで小さく笑っていた雅也。
 あいつはもう寝ちまっただろうか? それとも、今夜はなんとなく寝付けなくて、安い酒でもグラスに注いで、ぼんやりと一人闇を見ながら傾けているのだろうか。
 あいつは何を考えているのだろう……。
 一度同じ世界の住人なのだとわかってからは、俺たちの仲はもう留める必要もなく、急速に深まっていった。
 俺はどちらかというとセックスの相手には人見知りする方で、出会ってすぐにベッドインなんてことはほとんどなく、いつも周りの仲間たちからは手順に煩い面倒な男、などとからかわれていたものだった。
 だが、雅也とは二度目のデートの後にはもう同じベッドの中にいた。それぐらい、驚くほど相性がいいと感じた相手だった。
 彼とは、心も体もぴったりと気持ち良かった。何時間一緒にいても疲れるなんてことはなかったし、何度セックスをしても飽きることはなかった。いつもいつもいつも、彼の腕の中で、彼のがっしりとした逞しい胸の下に組み敷かれ、俺は絶頂の声を上げ続けた。彼の全てに酔わされた。彼に抱かれることは、至福の喜びだった。
 雅也だって、俺といることは決して不快でも苦痛でもなかっただろう。いや、それ以上に、俺が感じているのと同じくらいの満足感を得ていたに違いない。そうでもなければ、もう俺が勘弁してくれと音を上げるほど、何度も求めたりはしなかった筈。週末ごとにどちらかの家で逢うような、そんな煩わしい真似だって二年も続けてこなかった筈。
 そう……俺たちはうまくいっていたのだ。この二年間というものは。
 たとえその関係がマンネリになってきていても、多少生活のズレやお互いの中途半端な行動に不満を感じてはいても、それを口に出して責めるようなことはなかった。それなりに幸せだった。
 彼とのこんな関係は、もしかしたらこのままずっと続くのかもしれないと、俺は漠然と考えていた。彼だけをセックスの相手にして、逢いたい時に逢って、抱かれたい時に抱きあえるのだと、心の中で一人勝手に信じていた。
 そんな時に、突然降り掛かってきた別れ話。
 好きとか嫌いとか、そんな感情の絡むものではなかったけれど、だからこそ、あまりにも突然にあまりにも淡々と言い渡されたその言葉が、俺の中で何かを凍結させ、封印してしまったかのようだった。
 ショックは感じているけれど、それが悲しみなのか怒りなのか、それとも痛みなのかもわからない。
 ただ何処かに刺さった小さな棘のように、ずっとチクチクと疼くだけ。
 俺は背広の胸ポケットから携帯を取り出した。不快な棘を取りたくて、奴にメールを打とうと小さな数字の上に指を置く。
 だが、指は動かなかった。
 今更何を言うというのだろう。彼は別れを口にして、俺はそうかと頷いた。それで儀式は何もかも済んでしまった。
 俺たちはもう終わりなのだ。離れてしまってもまだつきあえるほどの、熱い情熱はもう遠い日のもの。遠距離恋愛でやっていけるほど、俺たちは純粋でも若くもなかった。逢いたい時に逢えて抱きたい時に抱き合えることのできない相手なんて、恋人には足りなさすぎる。
 俺はため息をついて、また携帯をポケットに戻した。銀色の塊が胸に重い。鉛みたいにずっしりと重い。
 男と男のつきあいなんて実にあっけなく不確かだ。たいていのカップルはせいぜい半年も続けばましな方で、ほとんどの奴らが出会っては別れてを幾度も幾度も繰り返す。二年もつきあっていた俺たちは、よくそれをネタにからかわれたりしたぐらいだった。
 だから、ここまで続いていたのはとても幸せな奇跡のようなもんで、こんなにも楽しくすごせたのは、満足すべきことなんだろう。突然別れが降り掛かってきたしても、騒いで混ぜ返して、思い出を濁してしまうには辛すぎる……。
 俺はじっと足元ばかりを見ながら歩き続けた。棘はずっとチクチク胸に滲みたけど、そんなものはやがていつかは抜けてなくなってしまうのだと、その時の俺は哀しいくらいに信じていたのだった。




 デスクの上のモニターをにらみつけてプレゼン用の提案書を作っていた俺の背中を、誰かがつんと軽く小突いた。
 俺が驚いてふりむくと、同僚の榎本が後ろに立って、覆い被さるように画面を覗き込んでいた。
外出先から戻ったばかりらしく、背広から風の匂いがふんわりと漂ってくる。奴はしばしモニタを見つめていたかと思うと、指先をついと伸ばして一部分を指し示した。
「富士木、ここ。数字が間違ってるぞ?」
 指摘された部分を見ると、確かにちょっとしたミスがあった。しかも、すぐにそうとわかるような、簡単でくだらない間違いである。俺は慌てて訂正しながら彼に礼を返した。
「ああ、サンキュ、助かった。全然気づいてなかったよ」
 榎本はちらりと横目で俺を見ると、探るような口調で言った。
「おまえ、どうかしたのか? 何かあったのかよ、最近?」
 突然切り出されて、俺はビックリして聞き返した。
「え? な、なんで? 別に何もないけど、なんだよ、いきなり?」
「いや、なんかここ数日元気ないなと思って。おまえらしからぬミスも多いしよ」
「え? 他にも何かあったか?」
「ああ。昨日もらったパンフに間違いが何箇所かな。客先に出す前に訂正しておいたけどよ」
 特に責めるでもなく話す彼に、俺はすっかり意気消沈して力なく返した。
「ああ……悪い。今後気をつける」
「まあ、俺のところで止まるぐらいのミスならいいけどな、どでかい失敗でもやらかしたら取り返しがつかないぞ。注意しろよ」
 榎本は俺の肩に手を置くと、なんだか慰めるみたいにポンポンと軽く叩いた。俺がうなだれてため息をついていると、その耳に口を寄せて、哀れみのこもった声でささやいた。
「彼女にでもふられたのか? やけ酒ならつきあうぜ?」
 俺は目を剥いて彼を見た。榎本はちょっと同情めいた笑みを唇に浮かべて、俺の反応を窺っている。俺は思わず自分が赤面するのを感じながら、ぷいと視線を逸らして言い返した。
「ばか、何言ってるんだ。そんなんじゃないよ」
「まあまあ。どんないい男だってふられる時はふられるんだ。あんまり落ち込むなよな。な、富士木」
「おい、榎本」
 すっかり俺を失恋男に仕立ててからかう彼をにらみつけると、奴は軽く笑いながら自分のデスクへと戻っていった。
 俺はふうと一つ吐息をついて、またモニターに目をやった。
 集中しない頭で画面を見ていると、ふと、たった今彼に言われた言葉が思い起こされた。あまりにも図星過ぎるその一言を。
(彼女にふられた、か……。俺、そんなに情けない面してるんだろうか……。やだな)
 考えると自分が可笑しくなってくる。俺は小さく自嘲した。
 確かにふられたと言えばふられたんだろう。別れを言い渡したのはあいつの方で、俺はその瞬間まで微塵にもそんなこと考えちゃあいなかったのだから。ショックだったのも認める。
 だけど、ふられた自分に酔う気持ちなんてこれっぱかしもないのだ。もうすでに奴が決めてしまった未来に、今更ぐだぐだ文句をつけるつもりだってない。俺たちはいい年をした大人で、それぞれが自分の人生を抱えてる。その道筋が目の前で二つに分かれているのなら、それはそれでどうしようもないではないか。それぞれが自分の道を歩いていくしか、術なんてない……。もうひとつになんて戻らない……。
 ぼんやりとモニタを見つめていると、パソコンにポーンとひとつ社内メールが飛び込んだ。開けてみたらそれは榎本からで、今夜の夜のお誘いが書いてあった。給料前だから居酒屋で、なんて書いてあるところを見ると、どうやら奢ってでもくれるつもりなんだろうか。
 目をやったら、榎本がにやりと笑って、こっそり小さく手を振っていた。俺は思わず苦笑を返した。
奴の気持ちはとても嬉しかったけれど、それは同時に落ち込んでる自分を見せつけられてるみたいで苦しかった。それでもその申し出を受けてしまったのは、きっとその時の俺は、酒を飲みたい気分だったんだろう。一人になるのが辛かったからだなんて、そんなことでは絶対にないのだ……。
 



 その夜、榎本と飲んで帰った俺は、家に着くのとほぼ同時に一本の電話を受け取った。出てみると、雅也だった。
 彼は遅すぎる帰宅を少しだけなじるように責め、それから早々に用件を切り出した。俺たちの電話はいつもこうだ。余計なことなんてあまり喋らない。でも男の会話なんて誰もがそんなようなものかもしれない。
 雅也はいつもの低い声で、淡々として言った。
「あのさ、引越し。来週の土曜に決まったから」
 俺は一瞬言葉を忘れ、そしてすぐに返事を返した。
「ああ、そうか。わかった……」
 それっきり何も続かない。奴の言葉は最後の期限を告げる残酷な宣告だったけれど、黙って受け入れるしか他に方法がわからなかった。
 沈黙している俺に、彼は遠慮がちに話を続けた。
「それでな、次の土曜日、皆が送別会を開いてくれるんだそうだ。マスカレードでさ」
 マスカレードは俺たちがよく行くゲイバーの店の名である。彼と最初に出会ったのもそこだった。初めて一緒に飲んだのも、初めてキスをしたのも、その店の片隅。彼に、家に来ないかと誘われて黙って頷いたのもそこだった。
 小さいけれど落ち着いていて、感じが良くて、客の皆が仲のいい友達だったその店。
 でも雅也と別れたら、きっと俺はもうそこには行かないだろう……。
「くるだろう、吉鷹?」
 少し自信なさそうに雅也はつぶやいた。いつもの彼らしくない、不安げな口調だった。
「ああ、うん……」
 俺もまた、歯切れ悪く答えた。
 雅也の送別会……。そんなもの、行きたいんだか行きたくないんだか、自分でもわからない。行ってしまう彼を誰よりも惜しんで温かく送り出してやらなければいけないのは、多分きっと俺なんだろう。俺が一番彼の近くにいた。俺が一番深く彼と関わっていたのだろうから。
 だけどあっけらかんと笑って送り出してやれるほど冷めているわけじゃなく、かといって、すねて意地張って欠席を決め込むほどのワガママな子供でもなくって……。
 結局俺は、皆と一緒になって最後の酒を酌み交わし、また会おうな、元気でいろよ、なんてことを笑って口にしてしまうんだろうな。そんなことしか思い浮かばないよ、雅也……。
 さっきから一向に花の咲かない会話に、俺はポツリと小さく加えた。
「雅也、明日……逢えるか?」
 彼が一瞬戸惑ったのが雰囲気から伝わってきた。ここ最近、デートはもっぱら週末だけの俺たちだったから、突然の誘いに彼が驚くのも無理はない。
 奴はしばし言い淀み、そして申し訳なさそうに返した。
「ごめん……。引継ぎとかさ、いろいろやらなきゃならない仕事が山積みなんだ。急なことだったし……。それに、送別会やらなんやらで、しばらくは逢うの無理かも……」
 あっけなく断られた誘いに俺は微かに笑って応え返した。
「ああ、わかった。そうだよな、忙しいよな、おまえも。うん……じゃあ、土曜にマスカレードで。時間は何時?」
「あ、えっと……七時だってよ」
「オーケー。じゃ、遅れないように来いよな、雅也。主役が遅刻したらカッコつかないぞ。でも来なくってもきっと、皆で勝手に盛り上がってるだろうけどさ」
 俺は軽いジョークを口にして、それからじゃあなと電話を切った。電話の向こうで、雅也が最後に「またな」と言った。
 その言葉……。いったい何時まで聞けるんだろう?
 急に静寂に包まれた部屋が怖くて、俺はその夜、ずっとテレビをつけっぱなしで眠りについた。くだらない深夜番組が、甘い子守唄みたいに俺のベッドに染み込んできた。
 
     
                                            ≪続く≫
次の章へ
目次に戻る
感想のページ