こわれた天使が眠るのは

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 それは昼休みも終わろうとしていた頃であった。

 一葉は次の時間の歴史の参考書に何気なく目を通していた。周りでは外にでていた者たちも少しづつ戻り始め、賑やかな談笑があちこちに響いていた。
 一葉の後ろの席で数人の生徒がかたまって、昨夜の深夜放送の話しをして笑っていた。そこに少し遅れて一人の生徒が加わり、違う話題を提供した。
「ところでよ、今日二階の窓から落ちたバカがいるって話、知ってるか?」
「えー、なんだよ。ほんとか? 誰だよ、それ」
「ほら、九組のあいつだよ。あの女ったらし。紫堂だよ」
 一葉はぴくりと背中が震えるのを感じた。思わず全神経が後ろの会話に集中する。生徒たちは気楽な世間話のように話しを続けた。
「それがさ、あいつ、なんか三年の女に手ぇだしてたらしくってさ。それがまたクラスでアイドル視されてた美人らしくって、三年の野郎たちにばれてヤキ入ったらしいんだ。で、もみ合ってるうちに窓からおっこちたんだと」
「へぇ、で、死んだのかよ?」
「バカ言え。なら今ごろ大騒ぎだろ。慌てて病院に運び込んだって話しだけど、まあ二階から落ちたくらいじゃたいしたことないんじゃねえの」
「そうだな。あいつ、ちょっともてるってんでいい気になってたから、いい気味だよな」
 会話は悪意のある言葉で結ばれた。確かに和巳の女遊びは、その容姿同様派手だったので、一部の同性からはかなり反感を買っていた。
 一葉はじっとその話しを聞き入っていた。スキャンダラスな部分はかなり詳しく説明されていたが、その他の具体的な事実に関してはほとんど話されてはいない。怪我をしたのか、様子はどうなのか、どこの病院に運ばれたのかと、一番肝心な部分はわからないだらけだった。
 ちらりと時計を見る。今日は金曜日だ。普通ならば、彼が部屋にやって来る日だ。たいしたことがなければ来るかも知れないし、そうでなくても電話の一本はあるかもしれない。これまでだって、急に女の子とデートの約束が入ったとかで都合が悪くなっても、律儀に電話だけはいれてきたのだ。
 一葉は深く息をついた。中途半端な情報は、気持ちをかき乱すだけだった。彼は胸に息苦しさを覚えながら、その後の授業をただぼんやりと聞き流していた。
 その頃、渦中の和巳は病院のベッドの上で長い説教に辟易していた。
 仕事先からとんできた母親は、顔の数カ所に絆創膏を張り、右腕に包帯を巻いてへらへら笑っている息子の姿を見、まずは一安心し、次に怒りを爆発した。
 和巳は罪悪感などこれっぽっちも抱いていなかったが、面倒なのでひたすら口だけの謝罪を繰り返していた。たっぷり三十分近くお小言を聞かされ、ようやく少し収まってきたのを見計らって、彼はけろりとして尋ねた。
「ねぇ、母さん。携帯持ってない? 夜電話したいところがあるんだけどさ」
「なに言ってるの。どうせまた女の子でしょ。それが原因でこうなったんだから、少しは自重しなさい、このバカ息子」
 母親はけんもほろろに言い捨てると、呆れたように腕を組んで見おろした。
「だいたい病院で携帯なんか使えるわけないでしょう。あれは医療機器に悪い影響を与えるのよ。それぐらいの常識も持ってないわけ? おまえは」
 和巳は罰悪そうに頭を掻いた。これ以上何を言っても、すべて説教につながりそうである。大人しくしているのが一番の得策に思えた。
 母親はそれからひとしきり文句を言って、ついでにこれまで溜めていた不満を洗いざらいぶちまけると、ようやく納得したのか帰っていった。和巳はやっと解放され、ほっと胸をなでおろすと、ごろりとベッドに寝転がった。
 三人部屋の同室の患者は皆高齢で、とても話の相手になる者はいなかった。だがどうせ検査と用心のための一晩だけの入院だ。少し我慢すれば、すぐに退院できる。土曜の学校を堂々とさぼれるのだと考えれば、少し気楽になった。
 ただひとつ心にかかっていたのは、一葉のことだった。
 この入院騒ぎを彼が知っているとは、とても期待できなかった。きっと何も知らず、和巳が来るのを待っているだろう。いやそれとも、すっぽかしたところで、なんの気にもとめないのかもしれない。嫌われても気にしないと、あれだけはっきり言いきっていたのだから。
 和巳は彼の言葉を思い返してむっとし、残酷な思いを抱いた。
 そうだ。別に連絡をいれなくったって、どうってことないではないか。はっきり約束を交わした訳ではない。それに所詮行って寝るだけのことで、それも熱中するのは和巳のほうで、彼はそれほど熱心ではない。いつも皮肉を言って、しかたなさそうに抱いているではないか。
(俺のことなんか別に待ってやしないよな、あいつ。いいよな、ほっておいたって……)
 和巳はそう心に言い聞かせたが、なぜかもやもやした気分がつきまとい、ベッドの上でごろごろところげ回っていた。そのあと早い夕食を終え、面会室でいち早く情報を仕入れてやってきたガールフレンドたちとおしゃべりに興じ、結局どうにも我慢ができずに電話することに決めたのは、就寝時間をとうにまわった、夜の十時過ぎであった。
 和巳はそっと部屋を抜け出すと、階下の受付のところまで出向いて、密かに一葉の家に電話をかけた。だが彼はでなかった。留守録があることは知っていたが、彼がなぜかそれを使おうとしないこともよく知っていた。
 間隔をおいて三度かけたが、結局一葉は留守だった。和巳はふと不安になった。
(まさか、あそこにいるんじゃないよな……)
 あの時の一葉が脳裏に甦る。和巳は否定するように頭を振った。
(いや、きっと出かけてるんだ。俺がいかなかったから暇になってさ。きっとどこかに遊びに行ってる)
 だが一葉がふらふらと夜遊びにでかけるような人間でないことは彼が一番よく知っていた。和巳は膨らむ不安を必死で打ち消しながら、大きなガラス窓から外を見つめた。
 外は、小雨が降り出していた。
 



 翌朝、和巳は目覚めると真っ先に電話をした。数回呼出音がなっても誰もでなく、少し不安になった頃、ようやく一葉が電話をとった。
「……はい」
 眠たそうな、けだるい声である。どうやらまだ寝ていたようだ。和巳は機嫌をうかがうようにおそるおそる話しかけた。
「あ、一葉。俺だよ、俺。和巳」
 少し間があって、答が返ってきた。
「和巳か?」
「うん。あのさ、昨日ごめん。俺、実はちょっと入院しちまっててさ」
「ああ、知ってる。学校で聞いた」
 意外にも彼はそのことをすでに知っていた。だが口調は全然心配しているふうでもなく、相変わらず興味のなさそうな淡々とした喋りぐちであり、和巳はひどく拍子抜けした。
 それでも一応ちゃんと謝罪しておくべきだと考え、もう一度丁寧に謝った。
「昨日悪かったな。電話もしないでさ。いや、俺一応したんだけどさ、十時頃に。でもおまえいなくって、結局連絡つ……」
 と、和巳の言い訳を遮って、一葉が尋ねてきた。
「おまえ、体大丈夫なのか?」
 思いもかけぬ質問に、少しは身を案じてくれたのかと嬉しくなって、和巳は明るく答えた。
「ああ、平気平気。全然バッチリさ。ちょっと美貌に傷がついたけどな」
 呆れたように鼻で笑う小さな声が聞こえた。いつもの一葉だ。和巳はほっとして、甘えるように言い加えた。
「な、少しは心配した?」
 若干間があって、おもしろくなさそうに彼はつぶやいた。
「まあ、な」
「そっか、へへへ。なあ、俺今日退院するんだ。夕方行ってもいい?」
「来たけりゃ勝手にしろ」
「わかった。じゃ、あとでな、バイ」
 一葉は別れの挨拶もせずに、ぶっきらぼうに電話をきった。和巳は呆れつつ、それでもまあ、いつものことかと納得し、自分も受話器をおいた。
 ふと気づくと、妙に心が浮かれているのを感じる。どうしてかと考え、そしてその理由が一葉にあることを知った。
 彼がどうやら和巳のことを案じてくれていたらしいこと、無断ですっぽかしたことを特に怒っているふうでもなくて、そして今日会えるのだということが自分をこんなにも浮かれさせる理由なのだと。
 和巳はふうっと大きくため息をつき、独りごちた。
「やべぇなぁ。俺、結構本気モードかもしんない。それってまずいよなあ、よりにもよってあんな奴にさぁ」
 つぶやいて見上げた窓ガラスの向こうは、夕べの雨もあがって、きれいな青空が広がっていた。ガラスについた水滴が、きらきらと朝の光を反射してきらめいていた。




 無事退院して家に戻った和巳は、しばらくはおとなしく自分の部屋で音楽を聞いていた。仕事を早退してきた母親が、さっそく息子がよからぬ企みを抱いて家を抜け出そうとしているのを敏感に察知し、しっかり監視の目を光らせていた。
 もちろん大事な一人息子を大切に思っているのは間違いない。男勝りでざっくばらんな母親で、あまり細かなことをぐちぐち言うほうではなかったが、さすがに和巳の女に対するだらしなさには閉口しているようだった。
 和巳は密かに母親の様子をうかがいながら、心の中で苦笑した。さすがの母も、脱出の先が男の家で、息子がその男とまことに不道徳な関係にあるとは考えてもいないだろう。自分自身だって、まさかあの泉川一葉とこんな間柄になるとは思ってもみなかったことだ。
 あの日彼の冗談混じりの誘いを受けたのだって、とりあえずここから連れ出せるのならばと考えたからだ。なのに、それがこんなにも続くとは……。
 和巳はふと真面目な気持ちになった。和巳は、男と寝るのは一葉が初めてではなかった。中学三年の頃、ある男と半年余り、泥沼のように苦しい関係を続けていたことがある。
 それを必死の思いで断ち切って、まさかその時は、もう二度と男の胸に抱かれることなどないだろうと考えていた。
 だがいざ一葉と肌を合わせてみると、その狂おしいほどの快楽は体がしっかりと記憶していた。女相手では得られない快感と、不思議な安らぎがそこにはあった。
 和巳は少しだけその快楽を恐れていた。もう二度と抜け出すことができないのではないか、昔のように一人の相手しか見えなくなって、嫉妬と独占欲に苦しむのではないかと、恐ろしかった。だからなおのこと、これ以上彼とつきあうことに不安を感じてしまうのだ。終わりにするのなら、今がその機会なのだと。
 しかし、今朝彼と電話で話して、自分がもうその境目を一歩踏み出していることに気づいた。彼の家に行くチャンスをうかがっているこの時だって、こんなに胸がわくわくしているではないか。
 和巳は深くため息をついた。先に進むか、それとも後戻りするべきか、結論はまだでていなかった。
 電話の音が鳴り響き、母親がそれにでる。そのまま彼女は熱心に話しだした。会話から察するに田舎の祖母からのようだ。それなら話しは長いはずと、和巳はそっと足を忍ばせて部屋を抜け出した。
 とりあえず一葉の顔を見て帰ってこようと考えた。ここであまり母親の心象を悪くしたら、今後の生活にいろいろと支障が現れそうである。
 和巳はエレベーターを待つのももどかしく思いながら、十二階まであがって、一葉の部屋のチャイムを押した。少し間をおいてドアが開き、一葉が出てきた。
「一葉!」
 和巳は嬉しそうに微笑んで叫んだ。だがその笑みは瞬時に消えた。
 ドキンと胸がなる。のぞいた一葉の顔は、身震いするほど冷たいものだったのだ。
 あの、凍り付くような無表情。視線はしっかりと目の前の和巳をとらえていながら、なにも映っていないかのような錯覚を思わせる。
 和巳はおそるおそるつぶやいた。
「……一、葉?」
 ふっと一葉の目元に表情が戻った。相変わらずの無愛想さだが、それでも人間の顔には見えた。
 一葉はそっけなく彼を迎え入れた。
「入れよ、つっ立ってないで」
 和巳はおずおずと足を踏みいれた。彼が怒っているのではないかと恐れたのだ。だが一葉はそんなそぶりはなく、いつも通りの淡々としたぶっきらぼうさで言った。
「本当に元気そうだな。もっと壊れてるのかと思ったぜ。病院なんていかなくても、寝てりゃ治ったんじゃないのか?」
「ひでえな。落ちた時は結構痛かったんだぜ。右腕もひねったし、背中にでっかい青あざもできたしさ」
「どの辺?」
「ここだよ。左の肩こう骨の下のほう」
 一葉は近寄ってきて、すっと背中に顔を寄せた。
「ああ、湿布の匂いがするな」
「だろ? 一瞬声もでなかったんだぜ」
 一葉はそのまま手を広げると、優しく和巳の体を抱きしめた。和巳は息を飲んだ。ベッド以外でのこんな抱擁は、初めてのものだったから。
(一葉……)
 戸惑いつつも、同じように手を伸ばし一葉を抱き返した。一葉の胸は広かった。いつも素肌で触れ合っていたはずなのに、その時初めてその暖かさに気づいた気がした。
 しばらくそうしていたが、やがて一葉は和巳を寝室に引っ張っていって、ベッドに座らせた。和巳は申し訳なさそうに言いかけた。
「あ、ごめん、今日は俺すぐに帰……」
 だが最後まで喋らせずに、一葉は和巳の膝に頭を乗せると、ぽつりと言った。
「……眠い」
「は?」
「眠い。もうだめだ。寝る」
「あ、おい、一葉。寝るって、ちょっと」
 だが一葉は和巳の膝を枕にしたまま、あっという間に眠ってしまった。よほど眠たかったらしい。和巳はその顔を見ながら、困って鼻を掻いた。
「まいったなぁ」
 すぐに帰るつもりだったのだが、これでは帰るに帰れない。かといって、気持ちよさそうに寝息をたてている一葉を起こすのも、ひどく気がひけた。
「ちぇ、ほんとにこいつったらもう、自分勝手なんだから」
 呆れて、眠る一葉をにらんだ。だが見ているうちに、妙にいとしさがこみあげてきた。和巳は帰るのをあきらめ、このまま彼が目覚めるまで膝を提供しようと決心した。だが、ひとりぼんやりと時間を過ごさねばならない退屈には閉口した。
 結局、ベッドに転がっていた一葉のこ難しい数学の参考書を、しかたなく読む羽目になったのだった。
 そうして一時間もした頃、ようやく一葉は目を覚ました。本当はもっと眠っていたのだろうが、足がしびれた和巳がたまらずにもぞもぞ動いたので、それで起きたのだ。
 一葉は一度大きく伸びをすると、けだるそうに言った。
「ああ、よく寝た。なんだ、和巳、まだいたのか」
「おい」
「冗談だよ。短気な奴だな、おまえ」
 一葉はむっとして顔をしかめている和巳を見て、小さく鼻で笑った。そして肩を引き寄せ、そのままベッドに押し倒して服を脱がせ始めた。和巳は困ったように言った。
「一葉、俺、今日はだめだよ」
 一葉は顔をあげ、不思議そうに小首をかしげた。
「なんで? やりに来たんじゃないのか?」
「違うよ。顔を見に来たんだよ」
 一葉はいっそう不思議そうに目を見開き、唇を歪めた。
「変な奴。顔だけ見てどうするんだよ」
 そう言って再び愛撫の続きを始める。和巳はため息をつき、あきらめて身をゆだねた。
 一葉は首筋に唇を這わせながら、器用に和巳を裸にした。そして自分も服を脱ぐと、体に覆いかぶさった。
 ふと、触れた素肌が妙に熱くて、和巳は不安になって尋ねた。
「一葉、おまえ熱いよ。熱あるんじゃないのか?」
 彼は愛撫を続けながら、そっけなく答えた。
「たいしたことはない」
「じゃあやっぱりあるんだな? 何度あった? 薬飲んだのか?」
「だから、たいしたことないって。いいから喋るなよ。気がそがれちまうだろ」
「だって……」
 和巳は恐れていたことを、おずおずと尋ねた。
「おまえ……まさか昨日の夜あそこに、あの非常階段に、行ったのか?」
 一葉は答えなかった。和巳はいっそう不安になった。
「昨日、雨降ってたじゃないか。濡れて、それで熱だしたんじゃないのか? ……おまえ、これまでもしょっちゅう行ってたのか、もしかして……?」
「喋るなってば。おまえ、女とやる時もそんなにおしゃべりなのかよ。嫌われるぜ」
 相変わらずの憎まれ口で、まるで真面目に答えようとはしない。困惑する和巳をよそに、唇を胸に移して乳首を熱心になめまわした。
「……ん」
 和巳の唇から声が漏れた。胸を愛撫されるのは弱かった。男にも女と同じような性感があるのだと思い知らされる。舌が器用に乳首を転がし、優しく吸われると、何度も体がぴくんぴくんとのけぞった。
「あ、一葉。感じる……」
 和巳はせつなげに眉をひそめた。一葉の愛撫は優しい。普段の彼とは違って、ひたすら相手につくすような、そんな優しさがある。抱かれていると身も心もとろけそうな気分になって、すべてをゆだねてもかまわないと感じてしまうのだ。
 もし自分が女だったら、狂うほど愛して二度と離れられなくなりそうだと和巳は思う。いや、男だって同じことか。
 一葉は丁寧に胸を愛撫すると、まるで和巳の心を読むように、攻め場所を肝心な部分へと移した。苦しいほどそこへの刺激を求めていた和巳は、悲鳴をあげた。
「ああっ、くぅ」
 一葉はちらりと上目使いに和巳を見上げ、彼が感じているのを満足そうに見ると、また熱心に奉仕を続けた。
 和巳は喘ぎながら頭を右に左に揺らした。たまらずに声が漏れる。
「ああっ、やだ! それやだ、感じる。はあぅぅ、く、ああ」
 長く丁寧な愛撫に快感は高まり、爆発寸前になった。和巳は焦って一葉を制した。
「ああ一葉、だめだ、俺いっちゃいそう。やばいよ、口にいっちまう」
 一葉は飲むのは苦手だった。以前出してしまった時も、いやとは言わなかったが、いかにも困ったように顔をしかめて無理矢理飲みくだしていた。そのあまりにも苦しげな様子に、思わず罪悪感を抱いてしまったほどだ。
 しかし彼はなおも執拗に続けた。和巳は必死にこらえたが、あとからあとから沸き上がってくる快楽の波に、耐えようもなく溺れた。
 体をよじって離れようとしたが、一葉は許さなかった。逆に激しく攻めたててくる。和巳はせつなく身悶えした。
「一葉、だめ、ほんとにいくよ。もう……ああ、や……あ、あ、……だめだ、ごめん! は、あああっ!」
 和巳は激しくいった。息もできぬ程感じた。一瞬体がふわあっと宙に浮くような感覚があって、気が遠くなりかけた。セックスで気絶したことはないけれど、もっと残酷に攻められていたら、そうなってしまいそうだと感じた。
 少しの間なにも考えられずに呆然としていたが、気がつくと一葉が苦しそうにむせていた。和巳は半身を起こすと、顔をしかめている一葉の頬を両手で挟み込んで、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、ごめん、一葉。俺我慢できなくって」
 一葉は困ったように眉をひそめた。
「謝るなよ、そんなこと」
「だって、おまえ飲むのだめじゃないか。いやなら吐き出していいのに」
「吐くかよ。おまえのなのに」
 ぷいと口をとがらせて目を伏せる。ぶっきらぼうだったが、彼の精一杯の優しさがそこにあった。
 和巳は嬉しくて、彼の唇に顔を寄せると、そっと口づけした。キスは少しだけ精液の味がした。
「うえ、味がする。まず」
 和巳が大袈裟に顔をしかめると、一葉は呆れたように笑った。それから二人は、抱き合って寝転がった。和巳が一葉のものに手を伸ばすと、彼はやんわりと拒否した。
「いいよ、俺は」
 和巳は心配そうに顔を見つめた。彼の胸はやはりいつもより熱かったし、なんとなくけだるそうな様子だった。
「一葉、体しんどいのか?」
「別に」
 嘘だということはすぐにわかる。だがそれが、和巳を心配させないために言っているのか、それとも本心を見せることを拒否しているからなのかはわからなかった。
 和巳は彼の体に腕を回すと、ぴったりと胸に寄りそった。一葉はうっとうしそうな顔はしたが、冷たく突き放すことはなかった。仰向けに寝転がったまま手を伸ばしてサイドテーブルのタバコをとろうとしたが、二人ともかなり下のほうにいたので届かない。かわりに和巳が半身を起こして取った。
 タバコに火をつけ、一葉の唇に渡す。一葉は満足そうにそれを受け取り、うまそうに吸った。和巳はその様を見守りながら、ときどき取り上げては灰を払い落とし、また返してやった。
 一葉はちょっとだけ疑わしそうな瞳を向けた。
「やけにサービスいいな」
「え、そう?」
「ちゃんと入れていかせなかったから、不満かと思ったのに」
「そんなの……いいよ。俺、死ぬほど感じたもん」
 和巳が少し照れくさそうに顔を伏せると、彼は皮肉っぽく笑った。
「あれで満足するなら簡単でいいな。おまえ、早くいってくれるから助かるぜ」
「ちぇ、また皮肉かよ。どうせ俺は早漏だよ」
 和巳はふんとふくれっ面をして顔を背けた。そして面白くなさそうにつぶやいた。
「なんでおまえとなら、そうなのかな。女とやる時は結構もつのに。やっぱ、男とのほうが相性いいのかな」
「他の男ともそうなのか?」
 和巳は驚いて一葉を見た。その言葉に、淡々としてはいたが、なんとなく嫉妬の響きを感じたからだ。
「他の男なんていないぜ」
「嘘つけ。あれだけ抱かれ慣れてて、よくいうぜ」
「ほんとだって。男とやってたのはもう一年以上前のことだよ。今はおまえとだけ」
 一葉はおもいっきり疑惑の目をして冷たく言った。
「別にいいんだぜ、俺は。おまえが誰とやってたって」
「違う! 本当に俺は……!」
 和巳は思わず声を荒げ反論しかけたが、すぐに深いため息をつき、目を伏せた。
「いや……、いいよ。俺、今日はおまえと喧嘩したくない」
 肩を落とし、力なくうつ伏せにつっぷした。しばらく気まずい静寂があったが、やがて珍しく一葉のほうがおれて、謝罪してきた。
「ごめん、和巳。怒るなよ」
 和巳は伏せたまま顔だけ向けて、応えた。
「怒ってないよ」
 一葉は優しく和巳に覆いかぶさってくると、背中にキスの雨を降らせた。痛々しく大きな湿布が張ってある。そのまわりを、いたわるように唇で撫で、ついばんだ。
 そして仰向けにさせると、体中に頬をすり寄せた。普段の冷たい態度とはうって変わって、限りない優しさを見せて愛撫する。手が股間に伸びて、まさぐってきた。和巳は眉をしかめ、つぶやいた。
「一葉……」
「もう一度いかせてやるよ。欲しけりゃ俺のもいれてやるから」
 だが和巳は首筋にむしゃぶりつく一葉の顔をひき離し、両手で挟み込んでじっと見つめた。
「もういいって。おまえ、しんどいんだろ? 無理しなくていいから」
「やりたくないのか?」
 憮然として怒ったようににらむ。和巳は困惑した。
「そうじゃなくって……。ああもう、どう言えばわかるんだよ。俺はおまえに会いに来たんだ。やりにきたんじゃないんだよ。セックスなんてどうでもいいんだよ、そんなの」
 今度は逆に一葉が困惑したように、首をかしげた。
「じゃあ、どうしておまえ毎週くるんだ? そのためじゃなけりゃ、なぜ俺の所へなんてくるんだよ?」
「だからさ、俺……俺きっとおまえが……」
 その時、チャイムが大きく響いた。
 一葉はちょっと未練ありげに和巳を見つめ、それから手早くジーンズだけ履くと、部屋を出た。
 インターフォンが、マンション外部からの来客を告げていた。一葉は無愛想に低くつぶやいた。
「はい?」
 若い女の弾んだ声が響いてきた。
「一葉? 一葉なのね? 私よ、満花(みつか)よ」
 一瞬にして一葉の表情が凍り付いた。すっと顔から血の気がひき、愕然として立ち尽くす。しばらくの間返事もできない様子だったが、一言だけ喉から絞り出すようにつぶやいた。
「……満花」
「そうよ、私よ。会いたかったわ。一葉、入れて」
 一葉は苦しそうに蒼白になった顔を歪め、唇を噛みしめて、身をふたつに折ってかがみこんだ。だが、それでも請われるままオートロックを解除した。
「開けた……」
 返事はなかった。答える暇も惜しんで、部屋に向かっているのだろう。一葉はしばらく自力で立っていることもおぼつかず、インターフォンの横の壁にぐったりともたれていた。考える力が失われ、ただ呆然と、そのショックにうちのめされていた。
 二・三分ほどでドアチャイムの音がした。一葉はそれを聞き、苦悶の表情を浮かべ一度大きく深呼吸すると、玄関に向かい、扉を開けた。そこには彼より少し年上の若い女が、嬉しそうな顔をして立っていた。
「一葉! やっと見つけたわ! 会いたかった、一葉」
 そう言って、満面に笑みを浮かべ、首に抱きついてきた。一葉は無表情にそれを受けとめた。なんの感情もうかがいしれない、氷の仮面のようなあの顔で。
 だがその女は、そんな彼の様子など少しも気にかけずに、一方的に自分の感情をぶつけた。
「一葉、一葉、捜したのよ。あんた、電話一本してこないんですもの。ずっと待ってたのに」
 一葉は黙って聞いていたが、首に抱きつく満花をひきはがし、ぼそりと言った。
「待てよ。人がいる」
 そして訝しげな彼女をおいて、寝室へと入っていった。そこでは和巳が慌てて服を着ている最中だった。
「和巳」
「わかってる。誰か来たんだろ。声が聞こえたぜ。俺、もう帰るわ」
 一葉は何も言わずうつむいた。言い訳も、引き留めることもせず、黙って和巳とともに部屋を出る。一人取り残されていた満花は、突然現れた見知らぬ少年に、驚きと不審の眼差しを向け、眉をひそめてにらんだ。
 上半身裸の一葉と寝室から出てきた和巳との不可解な状況に、訝しげな顔をする。だがさすがに肉体関係にまでは想像がいかなかったのか、その瞳に嫉妬の色はなかった。
 和巳がへらへらと愛想笑いを向けると、きつい眼をして言った。
「誰なの、一葉?」
 一葉はうつむいたまま何も答えなかった。かわりに和巳が、軽薄に微笑みながら答えた。
「えーと、同じ学校で、同じマンションなんです。で、時々遊びに来てて」
「友達? 一葉の?」
 満花は彼をあまり一葉にそぐわない相手とみなしたのか、いっそう訝しげな瞳を向けた。和巳はその不躾な態度を内心不快に感じながらも、表には出さず、ぺこりと小さく会釈した。
 満花は挨拶も返さず、にらんでいた。かなりの美人だが、それに比例するように、かなりわがままそうだった。きつい性格に見えるのは、くっきりとひかれたアイラインのせいだけではなさそうだ。
 和巳はそれ以上その無礼な眼差しの中にいる気になれなかったので、身を翻して一葉に別れを告げた。
「じゃあな、一葉。またな」
 彼は何も言わず、ただ一瞬すがるようなせつなげな瞳を向け、だがすぐに無表情に戻って見つめていた。和巳が玄関に向かうと、その背後ですぐに満花の甘ったれた声がした。
「一葉、一葉、お父さんったらひどいのよ。もういやよ。我慢できない」
 和巳がちらりと振り返ってうかがい見ると、満花が一葉の首に抱きつき、頬をすり寄せていた。一葉は拒否もせず、なされるがままに胸を貸して立っている。和巳はその様子を見て、ちくりと胸が痛んだ。
(なんだよ、女嫌いなんて言ってて、年上の美人とよろしくやってんじゃないか。それにあの様子じゃ、かなりやばそうな仲じゃねえかよ。ちぇ、一葉の奴、さんざっぱら俺のこと馬鹿にしてたくせに、大嘘つき野郎)
 和巳は憤然として、おもいっきり乱暴にドアを閉めてやった。先ほどここを訪れた時のわくわく気分はすっかり消え失せ、かわりに嫉妬と憤りが胸に渦巻いていた。
 だがひとつだけ気がかりに感じることもあった。満花を抱きとめていた一葉の顔が、あの凍るような冷たい顔だったからだ。とても女の抱擁を喜んで受けている様子ではなかったのだ。それはまるで、機械のように、従順に従っているだけに見えた。
 和巳は振り返って彼の家の扉を見つめた。その一枚の扉は、なんと残酷に二人の関係を断ち切るのであろう。追い出されてしまったら、もうその中は何も見えないのだ。一葉の心の中のように。
(一葉……)
 和巳はしばし立ち尽くし、そして大きなため息をつくと自分の部屋へと戻っていった。
 


     
                                            ≪続く≫

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