こわれた天使が眠るのは

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--act  1                       

 
 夜
は静かだった。
 さっきまで人気のロックグループの音楽を流していたオーディオも、CDが止まって今はひっそりと沈黙していた。
 マンションはわりあい繁華街に近い所に建っているのだが、十二階という高さなので、街の喧噪も道を走る車の音も伝わってはこない。だから夜ともなると、室内は驚くほどひそやかだった。
 その静かな部屋の中、荒い人の息使いだけが響いていた。
 広いベッドの上、白いシーツを乱して、二人の人影が明るい照明の下で絡み合っていた。
 睦みあう少年たち。その、どちらもまだ大人になりきっていない青い体を、快楽の汗で濡らしている。同性同志の組み合わせは、普通の者たちには異常に思えることであっても、二人にとってはなんの異和もない、乾いた喉に水を注ぐがごとく自然な行為だった。
 相手の胸の下で顔を歪めて喘いでいた少年が、せつなげに眉をひそめ、つぶやいた。
「……あ、や、だめだ。一葉(いちは)、俺いきそう。あう、く……」
「なんだよ、もうか?」
「だって、感じる。うぅ、はぁ……、一葉ぁ」
 少年は苦しそうに唇を噛み、一葉と呼ぶ相手の少年の体を強く引き寄せ、抱きしめた。一葉という名の少年はそれに応えるように、いっそう激しく責めたてた。その行為に、甘い嬌声が高く響いた。
「ああっ、やだっ、いく! いくよぉ! あああっ!」
「……つぅ! 和巳(かずみ)……!」
 二人の声がほぼ同時にあがった。一瞬の激しさの後、少しの間余韻に酔うように、小さなうめき声が少年たちの唇から漏れる。だがやがてそれも収まり、けだるい静寂が訪れた。ただ互いの息だけが、やけに大きく部屋を満たしていた。
 そのうち、上に乗っていた一葉は大きく息を吐き、ごろりと仰向けに転がった。億劫そうに手を伸ばし、枕元の小さなテーブルからタバコをとって、寝転がったまま吸い始める。白い煙が、ゆらゆらと揺れながら立ち昇っていった。
 もう一人の少年、和巳は、黙ってその様を見つめていた。
 タバコの灰が限界にまで進むと、一葉は起きあがって灰皿に払い落とした。そして半身をベッドの上部の壁に預け、ぼんやりと宙を見ながら残りを吸っていた。和巳が少し呆れたように話しかけた。
「ほんと、ヘビースモーカーだよな、一葉。今時流行んないぜぇ、そういうの」
 一葉は冷たく答えて返した。
「大きなお世話だ。おまえだって吸うくせに」
「俺のはほーんのお遊びだよ。一葉みたいにひどくねえもん。それにさ、タバコ吸ってると女に嫌われんだよな。キスが苦いんだってよ」
 和巳は軽薄に笑った。一葉はつまらなさそうに一瞥し、またタバコに興味を戻した。和巳はそんな彼を黙って見つめていたが、そのうち起きあがると一葉の唇からタバコをとりあげ、代わりに自分の顔を近づけた。
 唇が重なりあう。だがそれは、あまり情熱的とは言えなかった。熱いセックスとは違う、冷めたキス。一葉は為されるがままに身を預けながらも、唇が離れると冷たく言い放った。
「うっとうしいな。もう終わったんだぞ」
 和巳はぷんと口をとがらせて言い返した。
「いいじゃんか、キスぐらい。それに、後戯をちゃんとやらないと女にもてないんだぞ。アフターケアが重要なんだから」
「べつにもてたくなんかない。女は嫌いだ。女ったらしのおまえとは違う」
「へ、女ったらしで悪かったな。広陵高校はじまって以来のまじめでお堅い優等生のおまえが、実はバリバリの女嫌いでゲイだってほうが、ずっととんでもない話だぜ。学校の奴らにチクったら、大騒ぎだろうな。きっと」
 和巳の悪意溢れる言葉に、一葉は蔑むような眼差しを向け、鼻で笑い飛ばした。
「たらしで、学校中の女生徒を落とすなんて息巻いてるおまえが、実は男に犯られるのが何より好きで、後ろを突かれてヒイヒイよがり泣くなんてほうが、ずっとスキャンダラスだと俺は思うがな」
 和巳はむっとしたように口を尖らせ、きつく一葉をにらんだ。だが彼はまるで気にもかけず、悠然と無視をした。和巳はおもしろくなさそうに顔を背けた。
 険悪なムードが漂い、しばらく二人は沈黙していた。が、やがて和巳が遠慮がちに手を伸ばして、一葉の足に絡みついてきた。
「……一葉、怒ってるのか?」
「別に」
 一葉はつまらなさそうに返答した。それでも和巳は少し安心し、微笑んで、猫撫で声で甘えた。
「な、もっかいやろうよ、一葉」
 彼はちらりと和巳を見、呆れたように言った。
「元気な奴だな。さんざん女とやってるくせに」
「最近ご無沙汰なんだよ。中間テストだったからさ、みんなマジメなんだよな。全然誘いにのってこねえの」
「ふうん。なるほど、だからあんなに早漏だったのかよ、さっき」
 一葉の侮蔑に満ちた言葉に、和巳は真っ赤になって言い返した。
「ち、違うよ! 久しぶりで、たまんなかったんだ。だっておまえと寝るの二週間ぶりじゃんか。それに……一葉うまいんだもん。俺の弱いとこ全部知ってるし」
 一葉は呆れたように片眉をあげ、だが鼻で笑って、持っていたタバコを灰皿に投げ捨てると、その指で和巳の胸を優しくなぞった。
「……ん」
 和巳はぴくりと体を震わせ、せつなげにうめいた。一葉は酷薄な笑みを浮かべ、満足そうにささやいた。
「そう。たとえばさ。こんな風に乳首をつつかれると、女みたいに喜ぶんだよな、おまえって」
「あ、やだ……。よせよ」
「よせってのは、もっとやってくれって意味。で、胸もいいけど、こっちも欲しいんだよな」
 一葉は膝を和巳の股間に優しく押しつけ、柔らかくこすりつけた。ソフトな愛撫に、甘い喘ぎが和巳の赤い唇から漏れた。
「ああ、一葉……」
 和巳は一葉の首に手を絡みつけると、いとおしそうにすがりついた。
「あん、もっと、もっとしてくれよ。な、口でやって。なめてよ」
「わがまま」
 一葉は呆れたようにそう言いつつも、請われるままにすっと下腹部にまでずりさがると、和巳のものを口に含んだ。和巳はびくんと激しくのけぞった。
「うぁ、感じる。すげぇ。一葉、やっぱり感じるよぉ。あ、あ、俺変になりそう。はぁ」
 和巳はてらいなく快楽を口にし、子供のように素直に語った。一葉は心地よい音楽のようにその言葉に酔いしれた。
 和巳が感じるのを見るのは楽しかった。その声を聞くのが好きだった。普段はいかにも軽薄でいい加減そうな男だったが、セックスの間は妙に素直で子供っぽくなる。甘えてくるように鼻にかかった声が、たまらなく可愛いかった。
 一葉が和巳の体をうつ伏せにひっくり返すと、甘ったるい声で文句を言った。
「ん、前からのほうがいいのに」
「さっきと同じじゃ芸がないだろ」
「ばか……」
 少し照れたように、小さく口を尖らせる。そんな彼を、一葉は満足げに見つめた。
 和巳は素直だ。どんな時でも、欲望のままに遠慮なく望むところを要求し、そしていつも嬉しそうに反応する。それはわがままや自分勝手な感情からではなく、心から一葉とのセックスを楽しんでいるからだと感じさせる。だから一葉は、どんなことでもしてやりたいと心から思うのだ。
 和巳もまた、睦みあっている時の一葉が好きだった。いつもはシニカルで意地悪で、妙に冷めている彼が、セックスの間だけはひどく優しかった。普段なら決して素直にきいてくれることなどない和巳の望みを、優しく受けとめてくれる。愛されているのかもしれないと錯覚させられるこの時が、和巳には幸せだった。
「ああっ、いいよぉ。たまんないよぉ。一葉ぁ」
 和巳は男にしては華奢で綺麗すぎる顔をシーツにこすりつけ、激しく身悶えした。嬌声と荒い息が絶え間なく唇から溢れ出す。その横顔は背筋が震えるほど悩ましかった。
 ほっそりとした顎のラインは、まるで女の子のようになよやかで、半開きの唇は形良く、それが上気して紅を塗ったように赤い。閉じられた瞼の奥には、髪の色と同様に少し茶色がかった瞳が隠れている。男としての美辞麗句よりも、素直に綺麗と呼びたくなるような、そんな和巳が咽ぶように喘いでいる姿は、どんな女にも負けないほど美しく、艶かしかった。
 一葉は体の奥から沸き上がってくる快楽の波を、必死で押しとどめた。この心地よい時間を少しでも長く味わっていたかったから。和巳と触れ合う暖かさは、何物にも代えがたく何よりも素晴らしい。だが行為が終わったその瞬間から、それが自分の手の中から逃げていくものであることを、彼はよく知っていたのだ。
 和巳のほうと言えば、たぶん何も考えることなく只々快感に酔いしれているといった感じで、今はもう言葉を口にできないほどに感じいって喘いでいた。
 それでも、それが約束であるかのように、最後の瞬間だけはけなげに教えた。
「……一葉、もうだめ、俺いくよ。またいっちゃう。おまえもきて、一緒に」
 一葉は小さく鼻で笑った。
「やっぱり早漏だよ、おまえ」
「ばか、嫌いだ。一葉……」
 すねたようにふくれっ面をしつつ、愛の告白のようにつぶやいた。
「嫌いだ。おまえなんか大っ嫌い。ばか一葉。ああ……、もう……ふぁぁ、やだよ、いくよ、一葉」
 一葉は腰を動かしながら、和巳の首もとに顔を寄せ、白い耳たぶをそっと噛みしだいた。そこに弱い和巳は泣きそうな悲鳴をあげて大きくのけぞった。
「ひゃ、ああっ、や、いくっ!」
 その瞬間、彼の体は硬直し、そして何度もびくんびくんとけいれんした。叫びだしそうになるのを必死でこらえるように、堅く唇を噛みしめる。それでも耐えきれずに、むすんだ口からうめき声が漏れた。
「……ん、ううん、ふぅん」
 あまりにも悩ましいその声を聞き、きついほど締め付けてくる強い快感に我慢できず、一葉もまた絶頂を迎え、激しく腰を振った。和巳が少し苦しそうにうめいた。
 和巳の中に二度目の精を送り込むと、一葉は襲ってくる快楽の余韻に息をあらげながら、ぐったりと背中に覆いかぶさった。二回目の瞬間は頭が真っ白になるほど気持ちが良かった。
 しばらくして和巳がつぶやいた。
「……重てぇ、一葉。それに腹が冷たい。気持ちわりぃ」
 一葉は体を横にどけると、冷ややかに言った。
「自分でだしたもんだろ。ひとんちのシーツ汚しておいて、文句言うなよな」
 和巳はおもしろくなさそうに顔だけ向けて言い返した。
「ちぇ、おまえはいいよ。俺の腹ん中にぶちまけてんだから。でもそれだってな、こっちはあとで気持ち悪い思いするんだぜ。ドロッて流れ出してきたりしてさ」
「おまえが一緒にって言うからだぜ。いくなって言うなら、俺はいかないさ。俺はどっちでもいいんだ」
 一葉が冷たく答えると、和巳はいっそう口を尖らせ、シーツに顔を埋めた。
「……なんだよ。俺ばっかいじめて。ばか、ばか一葉。大っ嫌いだ……おまえなんか」
 すっかりふてくされてしまう。一葉はしばらく黙って見ていたが、やれやれと言った顔で、ご機嫌をとるように和巳に覆いかぶさった。
「ばかっ、触んなよ!」
 和巳が乱暴にその体をふりほどこうとする。しかしそれを押さえて強引にうつむかせ、有無を言わさず唇を重ねると、最初は怒って顔をうごめかしていた和巳だったが、そのうちおとなしくなって自分から舌を絡めてきた。
 和巳は甘えんぼうだ。どんな時でも、すぐに体の接触を求めてくる。今もあれだけすねて悪態をついていたにも関わらず、まるで母親にすがる子供のように、すぐに腕を首にまわし、しっかりと抱きついてきた。
 この世にはもうおまえだけしかいないのだとでも言うように、全身全霊をかけてすがってくる。そんな彼に、一葉はいつも羨望を覚える。とても自分には真似できないことだから。
 一葉が大きくため息をつくと、和巳は胸の中から不思議そうに見上げた。
「どうした? なんか落ちこんでんの?」
 一葉はちらりと視線をなげ、首を振った。
「別に」
 和巳は不服そうに眉をしかめた。
「俺、おまえの『別に』っての嫌い。何聞いても、すぐにそう言うじゃんか」
「別に理由がなきゃ、そう答えるしかないだろ?」
「なんでもかんでも『別に』じゃ、話になんないだろうが。おまえのそういうところが嫌なんだよ」
「どうせおまえは、俺の何もかもが嫌いなんだろ。よくわかってるよ。別におまえに嫌われたってどうってことないから、好きなだけ嫌ってろよ」
 それを聞くと和巳は、口を結び小鼻を膨らませて憤然とした表情を浮かべ、がばっと跳ね起きて無言のまま服を着始めた。そして最後のトレーナーを掴むと、それを手にさよならの一言も言わずに部屋を出ていった。乱暴に閉められた玄関のドアの音が、寝室にまで大きく響いてきた。
 一葉はもう一度嘆息した。和巳との別れは、いつもこうだった。一葉が冷たく言い放った嫌みに、和巳が怒って帰っていく。その繰り返しだ。別に怒らせようと思ってやっている訳ではないのだが、なぜか結果はいつも同じなのだ。
 自分が悪いのだということを一葉は知っていた。和巳が帰った後は後悔にさいなまれもする。それでも、来週になったらまた彼はやって来る。どんなに今は怒っていても、また明るい笑みを浮かべてやってくる。すべてを許して。
 それを確かめたくて、いつも怒らせてしまうのかもしれない。
 一葉は新しいタバコに火をつけ、それをゆっくりと吸い終わると、足元にくちゃくちゃに丸まっていた毛布を引き寄せ、ベッドに丸くなった。
 と、背中に冷たい感触を感じて、思わず飛びあがった。
「う、冷た!」
 それは和巳が置いていった快楽の忘れ物だった。白いシーツにすでに染みになって、頑固に存在を主張している。一葉は無意識に顔を緩め、小さく笑って、そこを避けるようにできるだけ端に寄ると、もう一度寝なおした。
 とても気持ちの良い眠りが一葉を包んだ。和巳と寝たあとはいつもそうだ。彼が残していったのは、白いシーツの染みだけではないのだった。


 狭い学校の更衣室は、今スポーツを終えたばかりの男子生徒たちの熱い汗の臭いが充満していた。
 一葉は少々胸の悪くなるような思いを味わいながら、少しでも早く出て行くために、黙々と着替えをしていた。隣で着替えていた一人が、面白くなさそうに話しかけてきた。
「やれやれ、柔道なんてかったるいよな。おまけに次は物理だぜ。俺、居眠りしそう」
 一葉は冷ややかな視線をなげかけつつ、口では愛想良く応えた。
「居眠りできる奴はいいぜ。俺なんか問題あたりそうで、寝てもいられないよ」
「なあに言ってんだ。学年一の秀才がぬかす言葉かよ。だいたいおまえなら、寝てたって先公も文句言わないぜ、きっと。勉強に疲れてるんだから静かに寝かせておいてやんなさい、とかなんとか言うんじゃないのか、逆に?」
 それは冗談というオブラートにくるまれてはいたが、本音は痛烈な嫌みだった。一葉はもちろん気づいてはいたが、軽く受け流して笑った。
「そういう寛大な教師に習えたら、成績上がるよな、きっと」
 その生徒は悠然とした一葉に遅れを感じたのか、それ以上言い返してくることもなく、一緒になって愛想笑いをしていた。
 その時、にぎやかな一団が楽しそうに談笑しながら更衣室に入ってきた。このあとに体育授業に入る別のクラスの者たちだ。一葉が何気なくそちらを見やると、そこには和巳の姿もあった。
 和巳もまた、すぐに一葉の存在に気づいたようであった。だが互いに笑みひとつ交わすでなく、顔も合わせたことのない他人のように無視しあった。袖が触れ合うほどそばにいながら、まるで知らないふりをした。
 もっとも、それは昨夜あんなふうに別れたあとだからと言うのではない。二人がお互いを認めあうのはあのマンションの中だけ。学校でもそれ以外のところでも、彼らはまったくの他人でとうしていた。
 それに国立理数系を目指す、生徒たちに俗にエリートクラスと呼ばれる一葉のいる一組は、和巳のいる私立文系の更に余りものと陰口される九組とは階も別で教室も離れていたので、ほとんど顔を会わせることも口をきく機会もないのだった。
 そんな一葉と和巳が深い関係になったのは、ほんの偶然がふたつほど重なったせいだった。
 そのひとつは、二人の住むところが同じマンションだったこと。そしてもうひとつは、普段は誰も足を運ばない非常階段で出会ったことだった。
 三ヶ月ほど前。和巳はその頃口説くのに熱中していたある女生徒に、思いもがけぬ肘鉄を食らった。別に真剣に恋していた訳じゃないし、たいしたショックでもなかったのだが、プライドだけは大いに傷つき、おまけに家族と大喧嘩をして、むしゃくしゃして部屋を飛び出した。
 とはいえ、家出するような度胸も気持ちもなかった和巳は、少しの間時間でもつぶそうかと、なんの気無しに非常階段に足を向けた。三階の自分の部屋からエレベーターで上にあがり、最上階で降りて屋上に出、そこから建物の横に張り付くように下に向かっている階段を、冒険気分の面白半分で降りていった。
 細い金属の手すりだけが横についていて、その隙間からも、足元の階段の間からも遠い地面が見え、なかなかスリルのあるところだった。おまけにビル風が吹き上がってくるので結構寒い。
 和巳は最初はそれで三階まで降りようかと考えていたのだが、すぐに根性がくじけ、根をあげて建物の中に戻ろうと決心した、そんな時に一葉と会ったのだった。
 一葉は、階段の踊り場のひとつに腰をおろし、細い金属の手すりにぐったりと背中を預け、無表情に空を眺めていた。手には半分ほど空になったワインの瓶を持ち、足元にはたくさんのタバコの吸いがらが落ちていた。
 和巳が階段の途中で呆然として見つめていると、彼はさほど驚くでもなく、つまらなさそうに見返してきた。
 それはとても冷たい瞳だった。あまりに冷たすぎて、自分すらをも凍り付かせてしまいそうな、そんな寂しい目をしていた。
 和巳はすぐにその少年が同じ学校の、しかも優等生で有名な同じ二年の泉川一葉(いずみかわ いちは)であることに気づいた。だがそう気づきつつも、その姿と学校での噂とのギャップに戸惑った。
 学年一頭が良く、まじめで、多少愛想は悪いものの、親はどこだかの大企業の重役であり、結婚できたらそれこそ玉の輿だと、依然ひっかけた女が騒いでいたのを覚えている。
 和巳自身も話をしたことはないが、顔ぐらいは知っていた。遠くから見かけた時、あまりに端正な顔立ちをしていたので驚いたものだった。それだけ恵まれたものを天からたくさん授かりながら、更に容姿も人並はずれてきわだっているという現実に、漠然と嫉妬を感じた。
 だが、その時出会った一葉は、嫉妬どころか、腕を広げて包んでやりたいような保護意欲をかきたてた。天使が翼を失ってそこに落ちてきたかのように見えた。
 和巳が遠慮がちに微笑みかけても、まるでその目に映ってはいないのではないかと思えるほど、彼は表情を浮かべなかった。無視しているわけではない。瞳はしっかりと和巳をとらえていたのだから。
 和巳はどうしようかと迷いつつ、しかしお節介かとも思って、黙ってその前を通り過ぎようとした。だが以外にもその彼を引き留めたのは一葉のほうだった。
 一葉はその顔と同様、つまらなそうな口調で声をかけてきた。
「おい、おまえ、広陵高校の奴だろ? ええと、なんてったっけかな」
 和巳は戸惑いつつ自分から名乗った。
「紫堂和巳(しどう かずみ)だよ。九組の」
「ああ、そうか。で、なんでこんなところにいるんだ?」
 それはこっちが聞きたいところだ、と思わず喉まで出かかったが、和巳はぐっと堪えて素直に答えた。
「このマンションに住んでるからだよ。三階がうちなんだ」
「へえ。同じマンションだったのか。半年もいるのに全然気づかなかったな」
「おまえもそうなのか? 何階?」
「十二階」
 一葉はぶっきらぼうに答えた。それっきり何も言わない。人に名を尋ねておきながら、自分は何も話そうとしない。そんな態度にむっときて、和巳は止めていた足を階下へと向け、降りかけた。
 だがまたもや一葉に引き留められた。
「おい、一服してかないか。タバコならあるぜ」
 彼はタバコの箱を握った手を差し出した。
 和巳はその姿を見てどきりとした。本当は掌の上のタバコなどそこにはなくて、差し出しているのは一葉の手そのもので、そして今それを握り止めてやらなければ、天から落ちてきた天使は、このまま手すりを越えて大地へと落ちていきそうに思えたのだ。
 和巳は降りかけていた体を翻し、一葉が座っている踊り場の床に同じように腰を下ろした。だがさすがに彼のように、この細い金属にもたれようという気にはなれなかった。それは身を預けるにはあまりにも頼りなく、不確かに見えたから。
 だが一葉は、なんの不安もなさそうに、ぐったりともたれかかっていた。しかしそれは信頼とか自信とかそういうものではなく、ただ限りなく投げやりな、厭世感ゆえの行為であった。
 一葉は自分で引き留めておきながら、なにかを話しかけてくるでもなく、それまでと同じようにぼんやりと空を眺めているだけだった。
 空といっても、青く冴えわたったそれではない。闇に包まれた、どこまでも続く黒い深淵だ。そんなものをいつまでも見ている一葉に困惑し、和巳は心中迷った。
 このまま置いていっていいものなのかどうか、まさか自殺でもしようと思ってこんなところにいるわけではないだろうなと、頭の中でいろいろ思いめぐらす。とうの一葉はそんな彼の思惑など知りもせず、相変わらずタバコと酒を交互に口に運んでは、無言で座っていた。
 その間にも、風は強く下から吹き上げ、容赦なく二人の体を撫でていく。和巳は思わず特大級のくしゃみをした。一葉がようやく目を向け、口を開いた。
「寒いのか?」
 和巳はとびかからんばかりに身を乗り出して答えた。
「寒い寒い寒い寒い! 寒くて死にそうだ。どうにかしろよ!」
 一葉は憮然とした眼差しで、呆れたように呟いた。
「どうにかって、どうしろっていうんだ?」
「なんでもいいよ。そうだ、部屋に戻ろう。こんなとこに長い間いたら、氷になっちまうよ」
 一葉はまた無表情に戻って、目を伏せた。
「俺はいい。おまえ行けよ」
「いいって……おまえ、寒くないのか?」
「別に」
 ぶっきらぼうに一言返すだけの返答。とりつくしまのない様子に、和巳は弱りはてた。それでもほっておくのもまずい気がして、必死に会話の糸口を探った。
「あの、さ。おまえ学校にいる時と全然イメージ違うのな。学校じゃあ酒もタバコもとんでもないって感じなのに。今の姿を先公どもがみたら、ぶっとぶだろうなぁ、ハハハ」
 一葉はちらりと横目で和巳を見た。慌てて和巳は言い訳した。
「あ、別にチクッたりするつもりはないぜ。ただの冗談だって」
 だが一葉は和巳の言い訳とは別のほうに話しの興味をもったようだった。
「おまえ、俺のこと知ってるのか?」
「え? 泉川一葉だろ? 一組の」
「なんで知ってるんだ?」
「なんでって、おまえ有名人だし、目だつしさ」
 一葉は不思議そうに見つめ、やがて初めて微かだが笑ってみせた。
「おまえのほうが、よっぽと有名人で目だつんじゃないのか。なんたって、俺が知ってるくらいだからな」
「俺、そんなに有名なのか?」
「自覚ないのかよ」
 ふふんとシニカルに鼻で笑う。あまり好ましい態度とは言えなかったが、それでもやっと人間らしい血の通った表情を見せたので、和巳は少しほっとした。
「どうせいい意味じゃないってことぐらいは知ってるけどさ。まあ、それに見合うだけのワリィことはやってっから、しゃあないけど」
「俺のクラスの男が怒り狂ってたぞ。おまえに彼女寝取られたって」
「ハハ、そんなことあったかな。いろいろありすぎてわかんねえや、ハハハ」
 一葉は面白そうに和巳を見ていたが、やがてふっと優しげな瞳になって、つぶやいた。
「おまえ、暖かそうだな」
「な、なに言ってんだよ。寒いってさっきから騒いでるだろうが」
「でも暖かそうだ」
 うらやましそうに見つめる。和巳はこの機会とばかりに、熱心に訴えた。
「寒いんだってば、ほんとにさ。なあ、部屋に行こうよ。一緒に」
「一緒? 俺の部屋にくるのか?」
「いや、そういう意味じゃ……」
 一葉は和巳の言葉を遮って、ぽつりとつぶやいた。
「いいぜ、俺の部屋に行こうか」
 思わぬ承諾に、和巳はほっとし、明るい笑みを浮かべた。だが一葉の口からこぼれでた言葉の続きは、思いもかけないことであった。
「俺の部屋で二人でセックスしようぜ」
 和巳は一瞬返す言葉を失った。呆然とし、目の前の少年を凝視する。一葉は冷たい目でにやにやと笑っていた。和巳が困惑するのを楽しそうに見守っていた。その目は、和巳がNOというのを待っているようであった。
(こいつ、からかってやがんな、くそ)
 和巳は腹をたて、おもいっきり拒否してやろうと思ったが、ふと一葉の冷たい瞳の向こうになぜか本音が見えた気がして、喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
 しばし葛藤していたが、やがて一度深呼吸すると、きりりとにらみ返して言った。
「いいぜ」
 一葉はあざけるように笑った。
「無理すんなよ」
「してねえよ。おまえとセックスする。だから帰ろう、部屋に」
 一葉は笑みを引っ込め、真剣な顔で和巳を見つめた。そして無言のまま立ち上がり、先にたって歩きだした。
 その夜、初めて二人は出会い、初めて肌を合わせたのであった。
 それは温もりをむさぼるような、激しいセックスだった。だが同時に、信じられぬ程優しいセックスでもあった。和巳は一葉との関係に溺れた。ほんの、たった一度の、気まぐれな行為だったはずなのに。
 おい、と友人に背中をこづかれ、和巳は我に帰った。一葉が無表情に淡々と着替えをしている姿を見て、なんとなく最初に会った頃のことを思い出していたのだ。
 あれから三ヶ月、毎週金曜の夜を二人はともに過ごしていた。時々はどちらかの都合で会わないこともあったが、それでも奇妙な逢瀬は途切れることなく続いていた。
 あの日和巳が驚いたのは、まじめな堅物人間だと思っていた一葉が、実は結構とんでもない性格をしていて、おまけにひどい女嫌いのゲイだったという事実だけではなかった。
 セックスのあと、ベッドの上で和巳はなにげなくあの場にいた理由を尋ねた。だが返ってきた答えは『別に』という、答にもなっていないものだった。
 てっきり口うるさい母親にでも叱られたのか、横暴な父親と喧嘩でもしたのか、などと自分のレベルで考えていた和巳は、特に深い意味もなく家族のことを尋ねた。彼の部屋には深夜にも関わらず誰もいなかったのも、また不思議だったのだ。
 一葉は淡々とした口調で、独り暮らしだと答えた。和巳はとてもびっくりした。そのマンションは、確かに大企業の重役の家族が住むような立派なものではなかったが、かといって独り暮らしの息子に与えるようなものでもなかったのだ。だいたい4LDKの広さがあるその部屋に、たった独りで住む必要性がどこにあるというのか。
 興味を持った和巳が、好奇心丸だしでそのあたりの事情を尋ねると、一葉はふいにまた凍るような無表情に戻って、『別に』と言った。そしてそれっきり、背中を向けて眠ってしまったのだ。
 和巳はそんな姿に、一葉にはひどく深い重たい事情があるのだと直感した。たくさんの恵まれたものを授かっているように見えた彼は、決して幸福ではないのだと。
 その眠る姿は、同情を呼び起こすのに充分すぎるほど寂しげだった。それにあの時の、非常階段での危うげな姿がどうしても忘れられなくて、それからなんとなく毎週部屋を訪れることになってしまったのである。
 もっとも、そんな彼に忘れていた男の味をしっかり思い出させられる羽目になろうとは、思ってもみなかったのだが。
(それに、あいつめちゃくちゃ性格悪いんでやんの。口は悪いし皮肉屋だし、根暗だし。行くと、たいてい帰りは昨日みたいに喧嘩別れになっちまう。ほんと、もうやめようかな。俺バカみたいじゃないか)
 和巳は昨夜のことを思い出し、密かに腹をたてた。
 確かに非常階段での彼は今にも壊れてしまいそうなほど危うく見えたが、その後はそんな気配もなく、逆にシニカルで遠慮ない物言いをするので、不快にさせられることが多かった。当人は半分冗談で言っているのかも知れなかったが、なんせあの整った容姿に冷ややかな笑みを浮かべ、ずばりと言うものだから、とてもジョークには聞こえないのだ。
 おまけに、和巳がだんだん彼に本気になり始めていることなどまるで気づこうともせず、昨日のように冷酷につっぱねる。その性格の悪さは呆れるほどであった。
 和巳はうわの空に体操をしながら、漠然と考えていた。けりをつけるのなら、心底本気にならない今のうちかも知れないと。心配していた厭世的な無気力も、学校でかいま見る限りにおいては、それほど案じることもなさそうだった。友人も多いとは言えないがそれなりにいるようだったし、クラスで孤立しているとか、疎外されているといった話しも聞かない。学校生活はつつがなく送っているようだ。
 結局、あの夜はよほど嫌なことがあったあとで、自分は偶然その時に出会ってしまったから余計な不安を抱いてしまったのだと、和巳は思うことにした。
(そうだよな。別に俺が心配することないんだよな。あいつは優等生なんだから)
 しかしそう考える一方で、氷のような無表情の一葉の顔が、浮かんでは消えていった。
 
     
                                             ≪続く≫

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