こわれた天使が眠るのは

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 電気を消した薄暗い部屋で、ふたつの体が絡み合っていた。

 満花の細く白い腕が、巻き付く蛇のように一葉の首を抱きしめる。一葉は豊かな胸を揉みしだき、乳首を吸い、請われるままに彼女の全身を愛撫した。
「ああ、一葉、すてき。……んん、ああ、やっぱりあんたが一番よ。ああ、いい、ああぁ」
 悩ましい嬌声が部屋に響く。上気した額に浮かぶ汗を散らして、満花はあられもなく悶えた。舌が秘められた部分にとどく頃には、そこはもうびっしょりと濡れぼそって、男の進入を待ちわびていた。
「一葉、きてぇ、ああん、早く」
 一葉はぶっきらぼうにつぶやいた。
「……まだ立たない」
「なによ、じらさないで。早くきてってば」
 満花はわがままいっぱいに、怒ってにらみつけた。一葉はしかたなく、満花への口撫を続けながら、自分の手で刺激を与えてなんとか勃起させると、自分勝手に催促する彼女の中へと挿入した。
 満花は大きくのけぞって叫んだ。
「あああんっ、いいっ、ああっ、感じるぅ」
 尖った爪を背中にたて、狂ったように身をよじる。
「はあぁっ、すてき。もっと、もっとよ、一葉。もっと激しくしてぇ」
 一葉は額に汗を滲ませ、望み通りに強く責めたてた。だが快感はなにも感じなかった。ともすればなえてしまいそうになるのを、必死に攻めることでなんとか持ちこたえていた。
 熱のある体に、その激しいセックスは辛かった。だが満花は彼の苦しそうな様子などなにも気づかず、ただひたすらに己の欲求をぶつけてきた。
 荒く息をつき、眉をしかめて動き続ける。満花のかん高い声が絶え間なく耳に響く。香水の甘い匂いが、むせかえるようにたち昇る。一葉はそれらに吐き気すら覚え、何も考えられず、気が遠くなりそうだった。
 一瞬ふっと意識が遠のいたその時に、胸の下で満花が達して、激しくのけぞって叫んだ。
「はああぁぅっ!」
 背中の手にぐっと力がこもる。ピンクのマニキュアに彩られた爪が、一葉の背に赤い傷をつけた。
 やがてぐったりと四肢から力が抜ける。満花はハアハアと熱い息を吐き、くずおれた。だが腕だけは相変わらず一葉の首に絡めたまま、彼が離れるのを許さなかった。
 一葉もまた肩で息をするほど疲れていた。苦しそうに眉をひそめると、低くつぶやいた。
「離せよ、満花。横になりたい」
 だが彼女はわがままに拒否した。
「いやよ。もって抱いてて。離さないで」
 しかし一葉は無理矢理腕を引き離すと、彼女のわきにぐったりと転がった。全身が鉛のように重かった。
 眠りたいと、切実に思った。このまま何も考えず、静かに眠りたいと、心も体も望んでいた。そう、許されるのなら、先ほどのように和巳の膝に頭を乗せて。
 だが満花は容赦なく身をすり寄せ、口づけしてきた。それを舌で受けとめ、開いている手で胸を揉む。満花が満足そうに鼻を鳴らす。一葉は機械じかけの人形のように、彼女の相手をした。
 長い口づけを終えると、満花は今度は自分が一葉の上になって、彼のものを口に含んだ。そしていとしげになめしゃぶり始めた。
 一葉は苦しげにうめいた。
「よせ、満花。……もういい」
 だが彼女はそんな言葉は無視して行為を続けた。疲れ果ててはいても、刺激されると反応してしまう。満花はなかなか思うように堅くならないペニスに苛立ちを感じていたようだが、それでもようやく立ったのを見ると、嬉しそうに淫媚に微笑み、馬乗りになって自ら腰を上げて挿入した。
 狂ったように腰を振り、貪欲に快楽をむさぼり尽くす。長い行為のすえ、一葉が無理矢理のようにようやく果てると、自分もまた二度目の絶頂に酔いしれて身悶えした。
 さすがにしばらくは声も出せぬ程疲れたようだったが、やがてきつい目で一葉をにらみ、怒ったように言った。
「なんでここに居るって知らせてくれなかったの? 電話の一本くらいなら、お父さんに気がつかれないようにでも、できたでしょ?」
 一葉は何も答えず、ぐったりと目を閉じたままだった。満花は不服そうに口を尖らせ、さらに愚痴を続けた。
「そりゃ、あんたはいいわよね。独りで好きにやってるんだもの。でも私はたまらないわよ。……お父さん、私に見合いさせる気なのよ。信じられないわ、私まだ十九よ。おまけに相手は三十過ぎた中年、取引先の社長の息子ですって。とんでもないわ! 仕事の道具にされるなんて、まっぴらよ!」
 吐き捨てるように言うと、今度は一変して甘ったるく鼻を鳴らし、一葉の胸に頬をすり寄せてきた。
「ねえ、一葉。助けてよ。私、見合いなんていや。どうにかして」
 不可能な要求と知りつつ押しつけてくる。一葉はしばらく黙っていたが、やがて目を開けると、かすかに薄笑いを浮かべ嘲るように言った。
「また、そうやって俺を巻き込むのか? そしてまた傷つけるのかよ?」
 その笑みには深い苦痛の色があった。だが満花は彼の苦しみなど関係なく、憤然と言い返した。
「なによ、誰が傷ついたですって? 一葉! あんたの子供を堕ろしたのは誰だと思ってるのよ。傷ついたのは私よ。傷つくのはいつだって女のほうなのよ。男なんて知らないふりしてれば、それですむんじゃない」
 一葉は黙ってうつむいた。返す言葉などなかった。確かにそれは自分が放った精の証であり、そしてこの世に誕生させることなく己の血と共に流したのは満花だ。それは否定しようもない。
 しかしそこにどれだけ一葉の意志があっただろうか。無理矢理相手をさせられ、愛も欲望もなく、機械的に放ったその白い液体の中に、一葉というものは存在していたのだろうか。
一葉が謝罪も慰めの言葉もなく黙り込むのを見て、満花は腹をたて、ヒステリックにわめき散らした。
「嫌いよ! 男なんてみんな大っ嫌い。あんたも嫌いよ。出てって、一葉! 向こうに行ってよ!」
 そしてシーツにつっぷして、すすり泣き始めた。
 一葉はしかたなく彼女をベッドに残し、散らばっていた服を着ると寝室をあとにした。居間に行き、ソファを背もたれにして床に腰をおろし、独りごちた。
「ちぇ、出てけだって? 誰のうちだと思ってんだよ。俺のベッドだぞ、それは」
 呆れたように力なくあざ笑う。重い頭をソファの椅子に預けて、目を閉じた。全身がひどくだるかった。
 タバコを吸おうとポケットを探ったが、みつからなかった。ベッド脇のサイドテーブルに置いてきたのを思い出す。確かあれは最後の一箱だった。
 一葉はため息をついた。とても満花のいるあの部屋へ、取りに戻る気にはなれなかった。しかたなくあきらめて、ソファにつっぷした。何も考えずに眠ってしまいたかった。
 だがこんな場所では、疲れ果てているにも関わらず、なかなか眠りは訪れてはこなかった。一葉は目を開けたり閉じたりを繰り返しながら、静寂の部屋で独りつぶやいた。
「ああ、タバコ吸いてえなぁ」
 指先で飢えた唇を撫でる。瞳を閉ざし、そっと触れてみる。そうしていると、まるで誰かに優しくついばまれているような感じがした。
 きっと和巳だ……、と一葉は思った。




 和巳は何の気無しに、窓から外を見ていた。
 退屈な倫理の授業。あちこちで居眠りしている生徒たちの姿がある。だが教師も退屈なのか、特別注意もせず、ただ自己満足に一人で喋っているだけだった。
 和巳は教科書の陰で大きな欠伸をしながら、グラウンドで行われている体育の授業を眺めていた。男ばっかりで、女の子の姿はない。だから、そんなものを見ていても別におもしろくもなんともないのだが、他にすることがないのでしょうがない。
 ふと、それが一葉のクラスであり、そしてそこに彼の姿がないことに気づいた。
 ぐるりと見渡してみても見つからない。見学している者もいない。和巳は不安になった。
(まさか……あれから熱がひどくなったんじゃ……)
 今日は月曜日である。一葉と別れてから、和巳は悶々とした週末を過ごした。土曜日の脱出のせいで、母親の監視の目は一段と厳しくなり、さすがにどこにも出かけることはできなかった。
 まあ、特に夢中になっている子がいるわけでもないし、気晴らしをしたい気分ではあったが、パーッと騒ぐ気分でもなかったので、結局あちこちの遊び友達に電話をしまくって、おしゃべりで一日を過ごしたのだ。
 だが夜ベッドに入ると、頭に浮かんでくるのは一葉のことばかりだった。これまではそれほど意識していなかったものが、あの年上の女性の出現でいっきに吹きだしたような感じだった。
(ちきしょー、あんな最低の男に惚れたって、全然楽しくないじゃねえかよ。おまけに訳ありの女つきでよ、俺のことなんて鼻にもかけてないってのに……)
 考えれば考えるほど、頭が煮詰まって熱くなった。
 そんなわけで、あまりよろしくない週末を過ごして、和巳は学校にやってきた。もしかしたら一葉の顔が見れるかもしれないなどと、けなげな期待を微かに胸に抱いて。
 だが、その期待に反して、彼の姿はなかった。和巳はさんざん迷ったすえ、昼休みに一葉のいる一組へと出向いていった。
 戸口の前で一度深呼吸してから、意を決して入り口付近にいた生徒に声をかけた。
「あ、えーとさ、泉川いる?」
 その生徒は、およそ一葉を呼び出すのに似つかわしくない和巳が、へらへらわらいながらそう言うのを聞き、訝しげににらんだ。
「泉川なら、今日休みだよ」
「休み? どうして?」
「知らねえよ。風邪とかなんとか言ってたけど。ーーおまえ、なんの用事だよ?」
「いやぁ、ちょっとな。あ、どうもな」
 和巳はひらひら手を振って、その場を退散した。どうもエリートクラスというのは、彼のような遊び人にとっては居心地が悪い所である。
(やっぱり休んでんだ。……ひどいのかな、熱。あいつ、ちゃんと薬とか飲んでんのかな)
 心配でたまらなくなる。
(……いや、あの女がいるんだし、しっかり看病してもらってるよな、きっと。もしかしたら、女とイチャつきたくて、さぼってんのかもしれないし。俺が心配することないか)
 しかし気持ちはどんどん不安でいっぱいになり、それに嫉妬やら怒りやらの感情が加わって、ごちゃ混ぜになって爆発しそうだった。
「あー、くそ! やってらんねえぜ!」
 思いあまって、廊下で大声で叫んだ。まわりの生徒たちが何事かと、不審な眼差しを向けていた。
 その放課後、結局和巳は寄り道もせずにとんで帰って、一葉の部屋のドアの前にいた。
(俺ってほんと、けなげで可愛い性格)
 自嘲気味にため息をつき、チャイムを押した。だが現れたのは一葉ではなく、満花だった。
 満花は眉をひそめて、きつい目をして和巳をにらんだ。和巳が愛想良く笑って会釈をすると、憮然とした口調で言った。
「一葉なら、まだ帰ってないわよ」
 和巳は思わず問い返した。
「え? だってあいつ今日は……」
 言いかけて、はっと息を飲んだ。登校すると家を出ておいて、そのままさぼったのだ。和巳ならよく使うずる休みの常套手段だったが、一葉がやるとまるで洒落にならなかった。
(あいつ、どこ行ったんだ、いったい?)
 顔色を変えてうつむく和巳に、満花は訝しげに尋ねた。
「なによ、一葉がどうかしたの?」
 和巳は慌ててつくり笑いを返した。
「あ、いや、別に」
 満花は疑わしそうに見ると、冷たく言った。
「なにか用事があったのなら伝えるけど」
「あ、いや、いいです。大したことじゃないから。それじゃ」
 和巳はぺこりと頭を下げると、身を翻してエレベーターに乗り込んだ。そしてドアだけ閉めておいて、中でじっくり考え込んだ。
(なんだよ、女にも言わずにさぼったのか? いったいどこに消えやがったんだ、あいつ)
 と、突然暗い推測が頭に浮かんだ。
(まさか、まさかあいつ、あそこに……)
 だが一度思いつくと、そこにしか考えは行かなかった。
 非常階段。一葉と和巳が初めて出会った場所。氷のように冷たい目をして、ぼんやり空を眺めていた場所。翼をなくした天使が落ちてきた場所。
 和巳はエレベーターを飛び出し、急いで非常口に向かった。
 重い扉を開けると、冷たい風が強く吹き込んできた。和巳は一瞬足を止め、そして不安と期待を持って階段に出た。
 踊り場に立ち、上を見上げると、もう一つ階段を上がった十二階と十三階の間の踊り場に、一葉の姿があった。
(一葉!)
 和巳は急いで階段を昇った。カンカンとかん高い音が響く。勿論その音は一葉の所にも届いているだろう。しかし彼は顔も向けようとせず、じっと身動きひとつしなかった。
 和巳が彼のいる場所までたどり着き、一葉、と小さく声をかけると、やっと億劫そうにゆっくりと顔を向けた。
 無表情な顔、なにも映っていないような瞳。酒の瓶こそなかったが、たくさんのタバコの吸いがらが散乱している。そこに、ぐったりと足を投げ出し、頼りない金属の手すりに命を預けてもたれかかっている一葉。その余りにも危うい光景に、和巳は我知らず唇が震えるのを感じた。
「……一、葉? 俺、わかるか?」
 震える声で尋ねる。しばらく沈黙があり、か細い声が返ってきた。
「よお」
 少しだけ一葉の目元に表情が戻る。和巳はほっと安堵し、すぐさま彼の横にいって身を寄せて座った。それでも、まだ身の内に震えが残っていた。
「おまえ、ずっとここにいたのか?」
 一葉はなにも答えなかった。和巳は胸の不安を隠すように、努めて明るい笑みを浮かべ、必死に話しかけた。
「今、おまえのうちに行ったらさ、あの美人が出てきてびっくりしたぜ」
 一葉は静かに顔を向け、力なく言った。
「まだいたのか、満花」
「満花っての? 美人だよなぁ。年上らしいけど。おまえの女か?」
「姉だよ。ふたつ上の」
「え……」
 和巳は息を飲んだ。一瞬自分の耳を疑う。あの時垣間見た二人の関係は、とても姉と弟のそれではなかったからだ。どうみても、なにか事情のありそうな深い男と女の間柄だった。
返す言葉もなく口をつぐんだ和巳に、一葉はかすかに笑みを称えて尋ねてきた。
「学校の帰りか?」
 制服そのままでやってきたので、わかったのだろう。和巳は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「うん、急いで来たからさ。おまえ、今日学校さぼっただろ。俺、心配したんだぜ。熱ひどくなったんじゃないかって」
「おまえこそ、どうなんだ? 背中と腕」
「俺? 俺はもう全然平気。元気だけが取り柄だからな」
 にっこりと笑う和巳に、一葉も少しだけ笑い返した。だがその笑みは力なく、ひどくけだるげだった。和巳は顔を曇らせて心配そうに見つめた。
「なあ、おまえやっぱり具合悪いんじゃないのか? 熱はどうなんだ?」
 つまらなさそうな顔で見返す一葉の額に手をあててみる。掌を通して伝わってくる体温は、こんな場所で長い間吹きさらされていたとは思えないほど熱かった。
「一葉、ひでえ熱……。おい、だめだってば。部屋に戻ろう。こんな所にいたら、なおさら熱があがるよ。なあ、ほら」
 腕を取って立たせようとしたが、一葉にはまるでその意志はなかった。相変わらずの無気力さで、ぼそりとつぶやいた。
「別にどうってことないよ、このくらい」
「あるよ! 死んだってしらねえぞ。さ、帰ろう」
 だが一葉は逆に和巳の手を取ると、身を引っ張り寄せて唇を重ねてきた。
 熱い口づけ。絡みついてくる舌も熱い。一葉はまるでむさぼるように激しくキスをした。
「……ん」
 情熱的な行為に、思わず和巳は陶酔し鼻を鳴らした。無意識に腕を首にまわし、強く抱きつく。息が荒くなる。その口づけは永遠に続くかと思われるほど長く続いた。
 やがてようやく一葉は唇を離すと、今度はそれを和巳の首筋に移した。長めの髪を指でかきあげ、耳の後ろをなめまわす。そのまま腕に抱いた和巳の体を、踊り場の床に押し倒そうとした。
 和巳は驚き、抵抗した。
「バカ、よせ。危ないだろ。やめろ、一葉。こんな所じゃいやだ!」
 だが彼はかまわず押し倒し、床に押さえつけると、制服のタイをゆるめ、ワイシャツの胸をはだけさせた。そしてそこに唇を這わせてきた。和巳は必死になって押しとどめた。
「やめろ、やめろってば。いやだ、一葉!」
 懸命に体を押し返して引き離そうとするが、場所が場所だけに荒っぽく蹴飛ばすこともできない。なんとか逃れようと身をよじっているうちに、だんだんと体がずり上がっていき、気がつくと金属の手すりの下に開いた隙間から、頭がはみ出していた。
 その隙間は、横になった人の体が充分通り抜けられそうな程の幅があった。和巳は震える声で訴えた。
「一葉、やめてくれ。頼むから。……一葉、怖いよ。落ちる……」
 しかし一葉はやめなかった。和巳の好きな乳首を愛撫する。薄いピンク色の先端を優しく舌で転がされると、和巳は思わず声をあげた。
「あぅ、やだ」
 それに力づけられたように、愛撫は激しさを増した。小さいそれを強く吸いあげ、軽く歯をたてて甘く噛みしだく。強い快感に、和巳は無意識に大きくのけぞった。
 その瞬間、がくんと頭が踊り場から落ちた。
「ひっ!」
 和巳は喉の奥からかすれた悲鳴をあげた。目の前に夕暮れ始めた空が大きく広がっていた。
「一葉、落ちる! やめろ、やめろおぉっ!」
 その声に、一葉の唇が離れた。和巳はすぐさま隙間から這い戻って、震える半身を起こし、手すりにしがみついた。
 歯がガチガチと音をたてて鳴っていた。手すりを握る手が震え、腰が抜けて立ち上がることもできなかった。
 蒼白になって一葉を見る。彼はぼんやりと、無表情に見つめていた。
 そして、ぽつりと言った。
「……セックス、しないのか?」
 その言葉に、和巳の中でなにかが切れた。和巳は恐怖に震えながら這いずって一葉の横を通り過ぎると、必死の思いで階段を降りた。膝ががくがく笑っていた。立って歩くこともままならず、段に腰をおろし、半分滑り落ちるように降りた。
 冷たい汗がびっしょりと全身を濡らした。頭が真っ白になり、がんがんと耳鳴りがした。
 なんとか下の踊り場までたどり着くと、ドアを開け、建物の中へと戻った。そこまできてやっと緊張がとけ、和巳はぺたんと床に座り込んだ。
 いまだ全身の震えが止まらない。気がつくと瞳は涙で溢れ、唇からは小さく無意識に言葉が漏れていた。
「……怖い、……怖い」
 その恐怖心が落ちることへのものなのか、それとも一葉に対するものなのか、和巳にはわからなかった。ただ彼はいつまでも呆然と震えていた。




 部屋は闇に閉ざされていた。
 とっぷりと夜もふけ、階段から見えるまわりのビルやマンションにすっかり明かりがともり、そしてそれがやがて消えゆく頃、一葉はやっと部屋に戻った。
 部屋には満花はいなかった。さすがにしびれを切らして帰っていったのだろう。一葉は少しだけほっとし、ソファに腰をおろした。
体中が燃えるように熱かった。けだるさはいっそう強く、腕一本あげるのすらも億劫だ。一葉は自嘲して笑った。
(妙だな。あそこにいたら何も感じないのに、ここに戻ってくると途端に辛くなる。なぜかな)
 重い体をしかたなく動かし、棚の薬箱から熱さましの箱をとり出した。十錠ほど残っている。一葉はそれを全部飲み下し、それから寝室にいって転がった。
 ベッドは満花の匂いがした。甘い香水の、むせるような香り。思わず吐き気がし、口を押さえてトイレに向かうと、冷や汗を流しながら吐いた。何も食べてない胃からは苦い胆汁しか出なかった。
 もう一度寝室に戻ると、力の入らぬ手で満花の匂いが残るシーツをひきはがし、むき出しのマットの上に寝た。
 息が荒かった。一葉は熱でぼんやりする頭で、和巳の恐怖にひきつった顔を思い浮かべた。
「もう、来ないのか……? 和巳……?」
 ぽつんとつぶやく。
 あの時和巳は泣いていた。瞳にいっぱい涙をためていた。そして、恐ろしそうに見つめていた。
 それだけは覚えている。だが気がついたら、そばに彼はいなかった。また独りきりで、なにもなくて、空だけが見えていて、唇が求めるからずっとタバコを吸っていた。
もう和巳は、二度と自分の前に現れることはない、この部屋にもやってこないと、一葉は思った。彼の望むことをなにもしてやれなかった。だからもう……駄目なのだ。きっと。
 一葉には、人の望むことをするしかなかった。
 生まれた時からずっとそうだった。うるさいから泣くなと言われれば、決して泣かなかった。向こうに行けと言われれば、素直に従った。勉強ぐらい一番になってみろと言われたから、ずっとそうしたし、口答えするなと教えられたから、なにも言わなかった。
 人とは、父。父の言うことだけが一葉のなすべきこと。彼の望みだけが生きる指針だった。そうするしかなかったのだ。最初から望まれずに生まれたきた子供は、精一杯親の望みをきくことでしか、生きる承諾を得られなかったのだから。
 それに誰も一葉自身の望みを尋ねる人間などいなかった。いつもいつも、誰かがなにかを自分に望む。そして一葉はそれを叶えるだけ。
 あの日……男に捨てられたといって満花が泣いてすがってきたから、ずっとそばにいてやった。抱けと言われたから抱きしめた。そして請われるままにセックスした。何度も、何度も。
 満花はわがままで自分勝手だったが、それでも時には優しくしてくれた。だから好きだった。好きな者の望みを、どうしてNOと言えるだろうか。
 たとえそこに愛がなくても、無理矢理であろうとも、男と女が交われば生まれてくる命がある。でもそれは望まれない命だった。一葉と同じに。
 満花の妊娠が発覚し、父が知り、そして二人の関係が明白になった。当然のことながら父は烈火のごとく激怒し、その怒りはほとんどが一葉に向けられた。一葉は家を追い出されて、この広すぎるマンションをあてがわれ、独りで暮らすこととなった。決して満花とはもう会わない、居所も知らせないと誓わされて。
 この部屋には誰もこなかった。父も、当然何も知らされていない満花も、誰ひとり訪れる者はいなかった。ほんの時折、派遣された家政婦がきて家を掃除していく。それだけだ。そしてそのあと、きまって父から電話がある。恥をかかせるような真似はするな、これ以上がっかりさせるな、おまえには初めから期待などしていないのだから、と。
 電話のあと、一葉は必ずあの階段に行った。何も感じずにいられるあの場所が、唯一の本当の自分の居場所である気がした。
 そんな場所である日和巳と出会った。明るい目をした和巳。暖かそうな彼。一葉は心ひかれて、初めて自分から誘ってみた。もっとも冗談のつもりで、彼が承諾するなどとはこれっぽっちも考えていなかったのだが。
でも和巳は応えて、部屋にきてくれた。抱いた和巳の体は暖かかった。胸が苦しくなるほどに。
「和巳……」
 一葉は毛布をひき寄せて胸に抱いた。それが和巳の代わりになど、なろうはずもなかったが。



 
 和巳はそのドアの前で、もう五分近くも黙ってつっ立っていた。
 なかなかチャイムを押す決心がつかなかった。ここは二年前、半年程暮らしていた部屋だ。もう二度と来るまいと、心に誓った場所だ。それを破って訪れるには、強い葛藤があった。
 表札に『金森篤彦(かなもり あつひこ)』と名前がある。それは懐かしくもあり、また胸が締め付けられるほどせつなくもあり、痛い思い出を伴って蘇る名であった。限りない愛しさだけを込めて呼んだ時も、確かに存在していたのに。
 和巳は深呼吸すると、意を決してチャイムを押した。ややあって、ドアが開いた。そこから現れた男の顔を見た時、息が詰まるほど苦しかった。
 男は、和巳を見て呆然としてつぶやいた。
「和巳……」
 彼もまた、和巳の訪問に驚き、動揺を隠せなかった。だがさすがに大人の男らしく、静かに微笑んでみせた。
「やあ、久しぶりだな」
 和巳はうつむいて応えた。
「……ああ」
「まあ、入れよ」
 男は招き入れると、居間に通して言った。
「ちょっと待っていてくれ。コンピュータをつけたままなんだ。すぐ来るから、なんでも冷蔵庫から出して飲んでてくれ」
 そう言うと、隣の部屋に消えていった。和巳は独りになって、ぐるりと部屋を見渡した。あまり依然と変わってない。違うとすれば、自分が持ち込んでいたテレビゲームの機械がなくなっていることぐらいだろうか。
 勝手知ったる家で、キッチンに行き冷蔵庫を開けてみた。たくさんのビールが入っている。それに何本かのコーラも。和巳はそれを見て、くすりと笑った。
(まさか俺が飲み残していったのが、そのまま入ってるんじゃないだろうな)
 一緒に暮らしていた頃は、金森はコーラなどあまり飲まなかった。それはもっぱら和巳のためだけに冷やされていたのだ。
 コーラとビールを一本づつ持って和巳は居間に戻り、ソファに腰をおろした。ふう、と思わず深い吐息が漏れた。
 ここに来るのは一年半ぶりだ。そして彼にあったのは、一年前の母親の再婚祝いの時の食事会が最後だったろうか。
 金森篤彦は和巳の母方の叔父である。今年で三十一になる彼は、心療内科の医師であった。
 二年前、和巳の父と母の離婚が決まり、しかし子供の親権のことで激しくもめていた頃、中学三年生だった和巳はひどく荒れて、手がつけられなかった。
 乱れた素行だけではおさまらず、精神的に病んで、自傷行為のすえ病院にかつぎ込まれたことが幾度かあった。それを見かねた叔父である金森が、せめて離婚問題が落ちつくまでと、治療も含めて自分の家に引き取ったのだ。
 和巳が彼に夢中になるのに、時間はかからなかった。金森もまた、大人として叔父として、そして医師としての立場に葛藤しながらも、和巳を愛する気持ちを止められなかった。
 だがその関係はいろいろな意味で許されるものではなく、そして二人ともそれはいやと言うほどわかっていた。だからこそ、断腸の思いで別れたのだ。
 未練があるわけではない。愛しく想い焦がれていたわけでもない。しかし顔を見て何もなかったかのように笑えるほど、過去になったわけではなかった。
 しばらくして金森が戻ってきた。和巳がビールを渡すと、微笑んで受け取った。そしてそれをすすりながら、じっと和巳を見つめた。
「髪が伸びたな」
 和巳は上目使いに見上げ、小さくうなづいた。
「似合うだろ、ロン毛」
「校則違反じゃないのか?」
「平気だよ。広陵はそれほど厳しくないから」
 彼はくすりと鼻で笑い、そして懐かしそうに言った。
「またおまえがここに来るとは、思ってもみなかったよ」
 和巳は口をとがらせて、すねたように答えた。
「俺だって思ってなかったよ。二度と来る気はなかった……」
「その、来る気のなかった奴が来たのは、いったいなんの用なんだ? なにかあったのか?」
 和巳は少しためらいながら、ぼそぼそとつぶやいた。
「俺の……、俺の友達がさ、なんかおかしいんだ」
「友達? おかしいってのは、なにがだ?」
 金森は医者が患者に尋ねるように、優しく穏やかな口調で聞いた。和巳はしばし迷っていたが、やがて意を決したように話しだした。
「友達っていうか、恋人っていうか、俺の一方通行っていうか……、ともかくそいつがさ、変なんだよ、少し」
 和巳は一葉との出会いから、これまでのいきさつや、彼の危うい様子や、そしてあの階段での恐ろしい出来事などを、なにもかも包み隠さず話して聞かせた。
 そのために誓いを破って、金森に会いに来たのだ。心療内科の医師である彼ならば、一葉の異様な行動について、なにか相談できるかもしれないと考えて。
 金森は黙って聞き入っていた。和巳が話し終えたあと、しばらく沈黙していたが、やがて静かに聞いた。
「そいつ、病院に行ったことはないのか?」
「ないよ。絶対。だって自分が変だっていう自覚、あいつ全然ないもん。だいたい熱出したって、なんでもないって言い張るんだから」
 むずかしい顔で考え込む金森を見て、和巳は不安になっておずおずと尋ねた。
「……病院、いかなきゃいけないくらい悪いのか?」
 金森は一口ビールをすすると、いかにも医者らしい、冷静な口調で答えた。
「実際に会って診たわけじゃないから、はっきりとは言えないけど……、ただ、感情が表に出ないってのは、あまりいいことじゃないな。怒ったり泣いたり、そういう感情は大切なんだ。ある意味、昔のおまえみたいに怒ってヒステリー起こしてくれたほうが、まだいい。欝積して内に込めるのは一番たちが悪い」
 その言葉に、和巳は荒れていた頃の自分を思いだした。傷つくとわかっていながら、素手で窓ガラスを割ったり、ナイフをふりまわしたり、無茶苦茶なことばかりやっていた。そしてそんな和巳を救ってくれたのが金森だった。
 彼が居なければ、今ごろどうなっていたことだろうか。どんなに感謝しても足りないと思っている。だからこそ、今の一葉にもそんな救ってくれる人間が必要だということが、切実に感じられるのだ。
 和巳は殻になったコーラの缶をもて遊びながら、ため息混じりに話した。
「普段はさ、普通の奴なんだぜ。ちょっと性格悪いけど、ちゃんとまじめに暮らしてるんだ。頭だっていいし、無愛想だけど笑いもする。なのに時々あの階段に行くと変になるんだ。力ずくでも、あそこに行かせないほうがいいんだろうか」
 顔を曇らせる和巳に、金森は宥めるように説明した。
「それじゃ解決にならないよ。多分その子にとって、その階段は逃げ場所なんだろう。苦しくなるとそこに行く。そして彼なりに、切迫した感情のバランスをとる。他の逃げ場所をつくってやらないで取り上げただけじゃ、ますますストレスがたまる一方だ」
「じゃあ、どうすればいいんだ? 俺は何をしてやればいいんだよ?」
 困惑した顔で答えを求める和巳に、逆に金森は問い返してきた。
「おまえ、そいつに本気で惚れてるのか?」
 和巳は一瞬愕然とした表情を浮かべ、そしてすぐに当惑してうつむいた。苦しそうに、揺れ惑う素直な心を打ち明けた。
「……わかんないんだ。本気だと思う時もあるけど、でも、もうやめようって思う時もある。あいつの背負ってるものが重すぎてさ、びびっちまうんだ。俺にはどうしようもできないって。それに……この間は本当に怖かった。殺されるかと思った。だから正直言うと、今はあいつに会うの……少し怖い。あんな所でやろうなんて、きちがい沙汰だよ。なに考えてんだか……」
 和巳は深いため息をついて、天井を仰いだ。遠い瞳でここにはいない者のことを想いながら、不思議そうに語る。
「……あいつ、なんであんなにセックスしたがるんだろう? なんだかさ、俺と居ても、それだけしかないって感じなんだ。そのくせ、いざやると俺にかまってばっかで、自分のことは全然熱心じゃないんだよな。どうでもいいって感じでさ。したがる奴って、普通は逆だろ? 相手のことなんか関係なく、自分だけ気持ち良ければいいって。でもあいつの場合、俺にはひたすら尽くすのに、自分の快感には無頓着っていうか……、よくわかんないんだよな」
 金森は悩む和巳を見てなにか言いよどんでいたが、それでも優しい瞳を向け、穏やかに言って聞かせた。
「おまえたち、最初はセックスから始まったんだろ? その子はきっと、おまえを繋ぎ止めるのに、そんな方法しかわからないんじゃないかな。おまえにそばにいて欲しいから、必死になって奉仕するんだよ」
「俺に……? そばにいて欲しいって?」
 和巳は金森を見つめ、だがすぐに否定するようにうつむいた。
「……でもあいつは俺のことなんか、なんとも思ってないぜ、きっと。いっつも皮肉や嫌みばっかりで、冷たくって、そっけなくて……」
 寂しそうに、少し怒った顔をして黙り込む。金森はそんな和巳を見ていると、胸の奥に熱く愛しい感情が沸き上がってくるのを感じた。
「和巳」
「……なに?」
「もし迷っているのなら、やめたほうがいいかもしれないぜ、そいつは」
 和巳は驚いて問い返した。
「やめるって、どういうことだ?」
「これ以上深く関わりあいにならないほうがいいってことさ。結構根が深そうだぜ、その子の抱えてる問題は。おまえまで苦労することになるかもしれない。……医者としては、こんなこと言ってはいけないのかもしれないが、俺はおまえに辛い思いをさせたくない」
 そう言って見つめる金森の瞳は、昔のように優しく愛に満ちていた。和巳は困ってその瞳を見返し、心乱れて黙り込んだ。しかしそのうち両手で顔を覆うと、苦しそうにつぶやいた。
「でも……、でもさ、あいつの顔がちらつくんだよ。頭から離れないんだ。ただの同情かもしれないし、ただのお節介かもしれない。けど、今俺が突き放してあいつになにかあったら、俺一生後悔するような気がする」
「おまえは昔の自分を思い出して、共鳴しているだけなんじゃないのか?」
「わかんないよ。そうかもしれない。でもさ……俺……」
 和巳は手で覆った顔を膝につけ、苦しそうに身をかがめた。
「やっぱりあいつが好きなんだよ。ほっとけないんだ。助けてやりたいんだ、少しでも」
 そう言って口を結ぶ。丸めた背中が泣いているように震えていた。
 金森はしばらく黙って見守っていたが、一度大きく嘆息し、そして静かに言った。
「今度一度、病院のほうに連れてこいよ。精神科じゃなく心療内科だから、まだ引っ張ってきやすいだろう? 医者ってのは、本人にその気がなけりゃ、こっちから出張して出向いていく訳にはいかないからな。なんとか言いくるめて来い。病院を嫌がるなら、ここにでもいいから」
 和巳は顔をあげ、すがるように言った。
「篤彦が診てくれるのか?」
「しかたがないだろう。おまえに泣かれたんじゃ、いやとは言えないよ」
「……泣いてないよ、俺」
「泣いてたよ、べそべそと」
「泣いてないってば」
 和巳はふてくされたように口をとがらせた。小さな子供のように言い張る姿は、憎めなくて可愛かった。金森は少し元気の戻った和巳に安心して、にっこりと笑った。その笑顔に、和巳もまた安堵を感じて微笑み返した。
 金森になにもかも話して、和巳は少し心が軽くなった気がした。夜も遅いので送るという彼の申し出を、和巳は独りで大丈夫だからと断って腰をあげた。
 玄関まで見送られての帰りぎわ、和巳は金森をじっと見つめた。不思議そうに微笑む彼に、少しせつなげな笑みを返した。
「ありがと、篤彦」
 彼はちょっと驚いた顔をしてみせた。
「なんだよ。礼を言われるようなことしてないぜ」
「違うよ。俺……昔のお礼を、まだちゃんとしてなかったなって」
 和巳は照れくさそうにうつむいて言った。
「俺、篤彦にはすごく感謝してる。あんたがいなかったら、俺今ごろボロボロだった。篤彦がいてくれて、幸せだった、ほんとに。心からそう思うよ」
「和巳……」
「俺、あんたの甥っこで良かった。また、相談にのってよな、叔父さん」
 金森は寂しそうな眼差しを向け、だがにっこりと笑って応えた。
「ああ、いつでもいいぜ」
 そして大きな手で、ぐりぐりと荒っぽく頭を撫でた。
「でも『おじさん』はやめてくれ。まだそんな歳じゃないんだから」
「その『おじさん』とは意味が違うって」
「わかってるよ。でも傷つくんだよ、そう呼ばれると」
「あ、それってオジンの証拠だぜ。やーい、篤彦のオジサン」
「こいつ」
 ふざけあって、二人の間に笑い声が響いた。それは楽しくて、懐かしくて、そしてどこか心せつない感覚だった。
 和巳は金森のマンションを後にすると、すっかり夜も更けた街を一人で歩いた。夜風は冷たく、しっとりと雨を含んでいた。家にたどり着いた頃には、それは雨に変わってぽつぽつと街を濡らし始めていた。

                                                  ≪続く≫
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