声を聞かせて |
5 あいつの名前 |
翌日、僕は最低な気分のまま学校にいた。授業なんてまるっきり頭に入らなかった。 休み時間になっても一言も喋らずにぼんやりしていると、悟が寄ってきて、前の席に腰掛けた。 どうしたんだ、とは聞かなかった。そう言われても不思議じゃないほど落ち込んだ顔をしているだろうに、何も話したくないといった言葉を覚えているのか、あえて知らないふりをしてくれてる。そんなささやかな気遣いが、今の僕にはありがたかった。 悟はにこやかに微笑んで、話しかけてきた。 「なあ、夕日。おまえ明日何か予定ある?」 「別にないけど……なに?」 「じゃじゃーん。ほら、すごいだろー」 悟はそう言って何かのチケットを二枚差し出した。手にとってみると、それは今話題のホラー映画の前売り券だった。 「わ、どうしたの、これ?」 「へへん、いいだろう。新聞の勧誘屋に貰ったんだ」 「へえ、いいなあ」 「だろ? だから明日行こうぜ」 悟はニコニコと満面に笑みを浮かべながら、僕を見つめた。 「おまえ、それ見たいって前に言ってたろ?」 僕はしばし言葉もなく悟を見つめた。そうか、そういうことか。本当にそれを新聞屋にもらったのかどうかはどうでもいいんだ。大事なのは、悟が精一杯僕を元気づけようとしてくれてることなんだ。独り勝手に落ち込んで、何にも話そうとしない僕のために。 僕は胸を熱くしながら、微かに笑って言った。 「……いいね。行こうか」 悟は嬉しそうに目を細めてうなづいた。 「よし、じゃ明日S駅で待ち合わせな。時間は後で電話するよ」 「うん」 彼の心遣いが胸に染みた。悟って、ほんとにいい奴。心から僕のことを大事にしてくれる。この優しさの何分の一かでも、あいつにあったなら……。そんな無意味なことを思わず考えて、僕は密かに自嘲した。 まったく僕の頭の中は、いつだってあいつのことでいっぱいだ。そんな自分が余りにも情けなくて、僕はまた嘆息した。 悟が唇に微笑みを浮かべ、でも目ではしっかり心配だって語りながら、黙って僕を見ていた。僕は目を伏せ、机をにらみながら、おずおずと口を開いた。 「あの……さ」 「うん?」 「携帯に……電話がかかってきてさ、相手の名前呼び捨てにするような仲で、会う約束とかしてたら、やっぱりそれって、つきあってるっていうことかな?」 僕はためらいながらそう尋ねた。相手がどんな奴とか、どんな関係にあるかとか、いっさい触れないまま。だから悟はきっと、僕が女の子のことを話してると思ったに違いない。ちょっとびっくりしたように目をむいたが、すぐに眉をしかめて真剣に考えだした。 「うーん、そうとは断言できないんじゃないのか? 別にただのダチだって呼び捨てにくらいするだろ?」 大袈裟に眉をあげ、にっこりと破顔する。 「ほら、漫画によくあるパターンってやつじゃないの? 恋人かと思ったら、実は兄貴だったとか従兄弟だったとかさ。別にはっきり恋人宣言されたわけじゃないんだろ? 勝手に思い込んで落ち込まないほうがいいと思うけどな」 「誰も、僕の話だなんて言ってないだろ」 「ああ、そうか。そうだな、ハハ。……で、どこの学校の子だよ、その子?」 「だから違うって。もう、聞くな、なんにも」 「わかったわかった。怒るなよ」 悟は案の定誤解して、からかうような眼差しを向けて笑った。それでも、僕の悩みの原因が女の子への片思いのせいだと納得したのか、先程まで見せていた心配そうな様子は消えていた。そういう問題なら、それほど案ずることもないと思ったのだろう。 僕はホッと小さく吐息をついた。確かに恋の悩みと言えばその通りだけど、でもそれは、それほど単純なものでもないのだ。だって僕たちは好きとか嫌いとか、そんなもの抜きにして、一足飛びに肉体のつながりを持ってしまってるのだから。おまけに男同士でだ。こんなの絶対変だ。どこか間違ってる。 そして、それをよく知っていながら、僕はあいつのことを断ち切れない。あいつに会いたくて、あの胸に抱かれたくて、苦しくてせつない。せめて普通の片思いなら、悟に全部打ち明けて、少しは楽になれたかもしれないのに……。 考えてたら思わずジワッと涙が滲んで、僕は慌ててそれを隠した。幸い悟には気づかれなくて、僕は少しだけホッとしたのだった。 日曜の映画館はメチャクチャ混んでいた。 昼からの部を目当てに行った僕たちは、結局一本諦めて、その後のを見ることにした。昼食を済ませて再び映画館に戻ると、二時過ぎの上映時間にはまだ時間があるにもかかわらず、結構人が集まってきていた。 テレビでも一杯宣伝してるし、おまけにホラーだということもあってか、カップルの姿がやけに目立った。半分以上は若い恋人同士って感じだ。僕と悟みたいに男同士の組み合わせもちらほら居たけど、なんとなく皆肩身狭そうに、隅のほうでおとなしくお喋りしていた。 僕が時間つぶしに壁に張られた予告ポスターを眺めていると、悟が尋ねてきた。 「なあ、俺なんか飲み物とか買ってくるわ。おまえ、なにがいい、夕日?」 「えーと、ウーロン茶」 「オーケー、わかった」 「あ、僕も一緒に行こうか?」 「いいよ、ここで待ってろよ」 彼は朗らかに笑ってそう言うと、独りで売店のほうへと向かっていった。人波を苦労しながらすり抜けていく。僕はその背中を感謝を込めて見送り、またポスターに目を向けた。 ロビーは喧騒でいっぱいだった。上映が終わるのを待って、たくさんの人達がお喋りしている。ドアの向こうからは微かに音楽や効果音が響いてきて、なんとなく待つ者の心を期待させた。 と、後ろから女の子の可愛い声が耳に飛び込んできた。ちょっと舌ったらずだけど、甘えるように鼻にかかった、いかにも女の子って感じの声だ。 「もう、どうしてこんなに混んでるのぉ? これじゃ絶対座れないよぉ」 女の子は無邪気に不平を口にした。もっとも、それは怒ってるというよりも誰かに甘えてると言った感じの話し方だった。大方連れのボーイフレンドにでもあたっているのだろう。 「ねえ、席とれなかったら、やっぱり立って見ちゃうわけ? やだなぁ。足痛くなっちゃう。せっかくヒール履いてきたのになぁ」 わがままいっぱいの、だけどどこか憎めない口調で、その声の女の子は文句を言った。 僕はその会話を背中で聞きながら、思わず口許をほころばせた。女の子って可愛い。きっとこの子は、今日のデートのために慣れない靴を履いてお洒落してきたのだろう。そんな素直さがうらやましい。心に思うままに声に出して甘えられるところも。 だが僕のそんな独り勝手な感傷は、彼女たちの次の会話で打ち壊された。 「ねえねえ、映画やめて、別のところに行こうか? あっちゃん?」 と、それまで黙っていた会話の相手らしい男が、呆れた声で応えた。 「おい、観たいって言ったの、おまえだぜ、理香。わがまま言うな」 僕は全身が硬直した。 (この、声……!) それは、間違いなくあいつの声だった。 ちょっと低くてキツイ声。そして抑揚のない、つっけんどんな話し方。絶対に……あいつだ。 僕はゆっくりと振り返った。 僕から二メートルほど離れたところに灰皿とごみ箱がセットに置いてあって、そこにあいつは立っていた。 いつものジャンパーに細いジーンズを履き、長い髪を無造作に揺らめかせてる。さすがに煙草は吸ってなかったけど、真っ直ぐに結んだ唇をどこか暇そうに持て余して。 僕は愕然としてあいつを見つめた。 まさかこんな所であいつに会うなんて。逢いたいと願ってはいたけれど、これは運命の優しい采配なのか、それとも残酷な悪戯なのか、僕にはわからなかった。 彼は少し退屈そうに床をにらんでいた。僕たちのあいだには他にも人がいたし、それにあいつは半分背中を向けたような形になっていたから、僕がいることにはまるっきり気づいてないみたいだった。 そして、奴の前に一人の女の子。先程から僕が耳にしていた、可愛い声の主だ。いや、声だけじゃない。丸顔でくるくるした大きな瞳に、赤い唇が愛らしい。小柄だけどすらりとしていて、流行のショートカットが凄く良く似合っていた。 それは、本当に素敵なカップルだった。ちょっと無愛想なキツイ感じの男に、笑顔が可愛い明るそうな女の子。はまりすぎるほどはまってる。あいつは相変わらず無表情で瓢々としていたけど、女の子はそんなのも慣れっこなのか、平然と楽しげに話しかけていた。 「あ、ねえ、アタシ、S公園のアイスが食べたいなぁ。あっちゃん、バイクで乗せてってよ。そっち行こうよ」 その子は甘えるように唇を突き出した。奴はちらりと彼女の顔を見、にこりともせずに応えた。 「映画どうすんだよ? チケットもったいないだろ」 「いいよ、べつに。どうせお兄ちゃんにもらったんだし。それに、あっちゃん、怖いの苦手じゃない。前にホラーゲームやって寝られなくなったって、勝田さん言ってたよ」 「ばか、そんなの信じるな」 「あー、本当に怖いんでしょー? やっぱりよそうよ、映画。別のとこにしよう」 「理香。おまえなあ……」 奴は呆れたように眉しかめた。だがその眼差しはどこか諦めたような、その子の他愛ないわがままをわかって受け止めているような感じだった。 そして僕は悟った。それは、悟が言ってたような兄妹だの従兄弟だのという普通の関係ではない。二人は恋人同士だ。その子は本当にあいつの彼女なんだ。僕の間違った思い込みなんかじゃなくって……。 僕はすうっと血の気が引いていくような気がした。覚悟はしていたけど、実際にそんな場面を見せつけられて、ショックで胸がドクドクした。まるで心臓をぎゅっと鷲掴みにされているような感じだ。胸が痛いっていうのは、本当にそこに痛みを感じるものなんだと知った。 「おー、わりぃ、遅くなって」 悟が両手に飲み物とポップコーンのカップを抱えて戻ってきた。 「ウーロン茶売り切れだ。コーヒーで我慢しろよ。あとポップコーンな」 悟は僕が返事もせずに立ち尽くしているのを見て、怪訝そうに眉をしかめた。 「おい、どうした? 夕日?」 僕はピクンと震えた。自分の名前がやけに大きく響いて聞こえた。 あいつの顔がゆっくりと振り向く。 僕の名を聞きつけ、それは目の前でスローモーションのように動いて、キツイ瞳が僕を捕らえた。 奴は一瞬息を飲んだ。さすがに驚いたらしく、その顔に驚愕の表情が浮かびあがる。 あいつは愕然として僕を見つめた。まさかこんな出会いをするとは、彼だって思っていなかったのだろう。声もなく立ち尽くしている。 僕は言葉もなく彼の瞳を見返した。まるで時間がそこだけ止まってしまったかのように、僕たちは見つめあった。それを破ったのは、あの甘えたような高く可愛い声だった。 「あっちゃん? だあれ? お友達?」 女の子は不思議そうにあいつの顔を見上げ、声を掛けた。僕はその声に我に返った。と同時に、全身に震えるような悪寒が走った。胸がむかつく。身体中に鳥肌が立つ。僕は奴から目をそらし、うつむいて震える声でつぶやいた。 「……気持ち悪い」 悟が耳聰く聞きつけて、問い返した。 「え?」 「ごめん、悟。僕帰る……」 そして僕は後も見ずに出口に向かって歩きだした。いっそう混んできた人波を無理矢理こじ開けながら、その場から逃れるように足早に歩いた。一刻も早く、ここから離れたかった。 後ろから悟が慌てて追いかけてきて、心配そうに眉をひそめ、顔を覗き込んだ。 「おい、どうしたんだ、夕日? 大丈夫か?」 僕は何も応えず、ひたすら歩を進めた。一言でも口をきけば、必死に耐えている何かが壊れてしまいそうな気がした。青ざめた顔を強張らせつつ歩く僕を、悟は困惑した目で見つめていたが、それ以上何も聞かず、ただ一度だけちらりと後ろを振り替えって、そして僕について歩きだした。 映画館を出て、どこに向かうでもなく通りを進んだ。日曜の午後とあって道にも人がいっぱい溢れていて、うつむいて歩く僕の肩を何度もこづいていく。ぶつかった人たちの冷たい罵声を浴びながら、それでも僕は地面をにらんで歩きつづけた。 騒々しく街がざわめく。人々の話し声、店先から流れる音楽、行き交う車のエンジン音。たくさんの音が世界を満たしている。 でも僕の耳に響いてくるのは、あの時の奴を呼んだ高い声だけだった。 ーーあっちゃん。 ーーあっちゃん。 それは幾度も幾度もリピートされ、僕の頭を埋め尽くした。 僕の知らない、あいつの名前。それをあの子はそんな風に呼ぶ。いとも気軽に、いとも親しげに、愛情を込めて口にする。 あの子は、あいつのいろいろなことを知ってるんだ。あいつの好み、あいつの嫌いなこと、あいつがどうやって暮らしているのか、日々をどう過ごしているのか、たくさんのたくさんのことを知っている。 でも僕は何も知らない。なにひとつ聞いてはいない。愛しくて寂しくても、独り名前を口にすることだって許されていない。僕は、なんにも知らないんだ……。 ーーねえ、あっちゃん。 (くそ……) 僕はきゅっと歯を噛みしめた。 あの子の声が離れなかった。あいつを呼ぶ言葉が離れなかった。 あいつの名前が知りたい、ずっとそう思ってた。だけど、こんな風に知りたかったわけじゃないんだ! 僕は、彼の声で、彼の言葉で聞きたかったのに。 「く……」 結んだ唇から小さく呻きが漏れた。辛くて、せつなくて、どうしようもなかった。 と、それを聞きつけたのか、それまで黙って僕の後ろをついてきた悟が、傍に寄ってきて心配そうに声を掛けた。 「夕日、まだ気分悪いのか? な、どっかで休もうか?」 悟はそう言うと、僕の腕を軽く引いて自分から先にたって歩きだした。大通りをそれ、小さな裏小路に入る。ちょっと進むと、人々で賑わう商店街から抜けてオフィス街に入った。そこはあまり人通りがなく、閑散としていた。 高いビルに挟まれた細い通りの一角で、悟は足を止め、振り替えって微笑んだ。 「ちょっと休んでいこう。これ、飲むか?」 彼はずっと手に持っていたコーヒーの缶を僕に差し出した。 何にも聞かなかった。ただ心配そうな瞳をして、優しい笑みを唇に浮かべて、僕を見ていた。 そんな悟を見てたら、僕の中に熱く苦しいものが沸き上がってきて、こらえきれずに喉の奥をはい上がってきた。 僕は缶を差し出した彼の手をよけて、悟の肩にしがみつき、彼のジャンパーをぎゅっと握りしめた。額を押しつけると、我慢していた涙がポロポロと堰を切って流れ落ちた。 「……う、あ、……うぅ」 もう止まらなかった。僕は悟の背中で、情けなく嗚咽を漏らした。 「夕日……!」 悟がびっくりして僕を見ようと体をよじる。それを僕は、震える声で押しとどめた。 「ごめん、少し……このまま……」 言葉は最後まで声にならず、かすれて消えた。それでも悟はちゃんと察して、そのまま僕の望むように黙っていてくれた。 「うっう……ふ、く……」 彼の優しさに甘えて、僕は独り泣きつづけた。しんとしたビルの谷間に、僕のかすかな泣き声が響いた。それはとても切ない音楽だった。 ≪続く≫ |