声を聞かせて

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6 声を聞かせて                       
 
 その日僕はいつもみたいに遅刻することなく、時間前にそこに着いた。
 あいつは、それでもやっぱり先に来ていて、同じように壁に持たれて立っていた。
 僕がゆっくり近寄っていくと、ちょっと意外そうに目を見開き、そして複雑な表情で僕を迎えた。
 瞳がなにかを語りたがっている。戸惑うような、困ったような、いろんな感情の混ざった眼差し。でも相変わらず唇は固く結ばれたままで、一度だけ何かを言いかけて薄く開いたけれど、すぐにまた閉ざされた。
 僕が傍によって無言のまま立っていると、奴はぽそりと「行こう」とだけつぶやいて、横をすり抜けて歩きだした。
 僕は彼の後ろを歩きながら、ぼんやりと考えた。あの日、どうして彼は僕なんかに手を出してきて、そしてどうして僕は奴についていったのだろう。
 初めてここをこんな風に歩いた時、そのあとに待っていることを思って、不安と期待で胸がドキドキした。漠然とした苦しい未来を予感して、僕は怯えていた。
 きっとあの時僕は、心の底でわかっていたのだろう。一度でもこいつと肌を合わせたなら、きっと奴から離れられなくなる、こいつを愛してしまうということを。
 いや、もしかしたら、その時すでに奴にとらわれていたのかもしれない。
 それでも僕はあいつに抱かれることを選んだ。だから、今こうして苦しいのは、きっと全部自分の責任なんだ。奴が悪いわけじゃない。彼を責めちゃいけない。何もかも僕のせい……。
「おい……?」
 ハッと気づくと、奴がバイクの横で訝しげに僕を見ていた。僕は慌てて近寄って、彼の手からヘルメットを受け取った。
(最初は、これを被るのさえ怖かったっけ)
 そんなことを考えながらメットを被って、彼の後ろに跨がった。手を腰に伸ばして、強くしがみつく。二人乗りも、もうすっかり慣れたものだ。彼に合わせて、右に、左にと体を倒す。僕たちはひとつになって風の中を走る。僕は、あのマンションに向かう時の、この時間が好きだった。なんとなく幸福な気持ちになれた。
 でも帰り道はいやだった。いつだってあっという間に駅について、悲しい気持ちでバイクから降りたのだ。そしていつも不安だった。「もうお終いにしよう」そんな言葉が奴の口から聞こえてくるのではないかと、恐ろしくて苦しかった。
 あいつの背中でそんなことを考えてるうちに、僕たちはマンションに到着した。エレベーターに乗ってる間、ふと思った。そういえば、結局このマンションのあの部屋って、彼が住んでるところなのだろうか。いつ来ても他の住人に会ったことはないし、別の誰かがいた気配もなかった。でも最初に会った時、奴はあの駅の前から乗り込んでいたはずだ。ならば、ここはやっぱり彼の部屋とは違うのか。
 そう考えながら、僕は自嘲した。
(バカだな、いまさら……)
 苦い思いが胸の中に沸き上がった。
 部屋に着くと、いつもならあいつはさっさと服を脱ぎはじめるのに、何故だか今日はジャンパーだけを脱いで放り出し、そのまま黙って何もせずに立っていた。
 まるで何かをためらうように、じっと僕を見つめてる。僕は冷やかに言った。
「なんだよ、早くやろう」
 それでもあいつは躊躇していた。困ったような目で僕を見る。僕は奴の傍に歩み寄ると、彼の肩に手を掛けて誘うように尋ねた。
「やらないの? 抱く気ないわけ?」
 あいつはいっそう困惑した表情を浮かべた。
 僕は小さく吐息をつくと、すっとその場に膝まづいて、彼のジーンズに手をかけた。奴が驚き慌てるのを無視して、前を外すと、彼のものを取り出して口に含んだ。奴が小さく呻き声をあげる。僕を引き離そうとわずかに肩を押したが、僕がしっかりとくわえて奉仕をしはじめたので、諦めて成すがままに身を任せた。
 僕は丁寧に彼のものを愛撫した。僕の口の中で、あいつがどんどん大きくなってきて、いっぱいに僕を満たした。喉の奥まで深くくわえこみ、舌と唇で刺激する。最初はぎこちなかったそんな行為も、今では慣れて、むせて涙ぐむこともなくなった。
 僕は、こいつのために上手くなったのだ。こいつを喜ばせたくて、少しでもいっぱい感じて欲しくて、上手くなりたかった。なにもかも、その源にはこいつがいた……。
 かなり長い間その行為を続けていた。やがて彼のものが、固く張り詰めてピクピクとうごめく。僕はわずかに唇を離し、冷やかに尋ねた。
「どっちでいくの? 口? それとも中で?」
 あいつはためらいながらつぶやいた。
「……おまえを、抱きたい」
 僕は彼のものから口を離すと、奴の目の前で制服のズボンと下着だけ脱ぎ捨て、彼に後ろを向けて四つん這いになった。そして氷のような冷たい声で言った。
「いいよ、さあ。入れてよ」
 僕は顔だけねじって奴に向けた。彼はひどく戸惑って、眉をしかめ、途切れ途切れに言った。
「俺は……抱きたいと言ったんだ。入れたいと……言ったんじゃない」
「どっちだって同じことだろ。……さあ、早く入れろよ」
 僕は目を閉じ、高くそこを突き出した。恥ずかしい姿だ。きっと物凄くあさましい、淫らな恰好に違いない。おまけに、こんな醜態をさらす自分に激しく嫌悪を感じていながら、僕のあそこはあいつが来るのを期待して、いやらしくひくついてるのだ。僕って本当に、なんて淫乱な奴なんだろうか。
 あいつはしばらく当惑して立ち尽くしていた。奴の視線をあそこに感じる。身が切られそうなほど恥ずかしくて苦しい。でも同時に氷みたいに冷たい感情が胸にあって、それが僕をつきうごかしていた。
 やがて彼がすっと僕にのりかかってきた。僕は期待と苦痛でピクリと体を震わせた。だがあいつがしてきたことは、僕が思っていたのとはまるで違っていたものだった。
 奴は僕の傍に膝まづくと、そっと手を伸ばして僕の背中を抱きしめた。まるで綿菓子でも抱くように、優しく優しくその胸に僕の体をくるみこむ。
 あいつの声が、耳元に響いた。
「違う……。そうじゃない……」
 少し切なげにささやく声。
「同じなんかじゃない。俺は、抱きたいんだ、おまえを」
 僕を抱きしめる腕が微かに震えていた。
 僕はぐっと胸が熱くなった。彼の一言で、それまで心の半分を支配していた冷たい氷が跡形もなく溶けていく。溶けて溢れてきたのは、あいつに対する絶望的な愛だった。
 僕は抱きしめてくる奴の腕をそっと外すと、奴の方を向いてじっと見つめた。溢れた愛が、涙になってこぼれ落ちた。
「じゃあ……抱いてよ」
 僕は彼の瞳を見つめながら言った。
「ベッドに行こう。そして僕を抱いて。いっぱい、いっぱい感じさせて。僕の中をきみで満たして」
 彼は黙って僕を見返し、そして僕を促して寝室に連れていった。僕たちは静かにベッドに横たわった。
 彼はしばらく僕を見つめ、それから唇を寄せてきた。甘いキス。優しい感触。ほんの少し煙草の味がする。ゆっくりと押し入ってきた奴の舌に、僕は自分のそれを絡めて応えた。
 キスをしたままで、彼は巧みに僕の服を脱がせた。タイをほどき、シャツのボタンを器用に外していく。Tシャツを脱ぐ時だけ唇を離したけど、あとはずっと繋がったままだった。まるで一瞬たりとも離すまいとしているようだった。
 奴は僕を素っ裸にすると、今度は自分も裸になった。さすがにその時だけは身を離したけれど、でもすぐにまた重なってきて、貪るように唇を求めてきた。
 体の中心がジュンと燃えて、身も心も熱くなった。たったそれだけのことで、僕のあそこは固くなった。それを察したのか、彼が自分の足を僕の両足の間にわりこませて、大腿部で柔らかく刺激してきた。僕は眉をひそめてその快感を享受した。
「……ん」
 なんとなくもどかしい、焦れったくなるような気持ちの良さ。でもそれが逆に燃え上がらせていく。もっともっと気持ち良くしてくれと、僕を淫らな世界に引きずり込む。
 奴は僕の乳首に唇を這わせ、舌先で優しく転がした。胸に弱い僕は、身をよじって喘いだ。
「あ、そこ……だめ」
 かまわずいっそう愛撫してくる。前歯で軽く甘噛みされると、こらえきれずに嬌声をあげてのけ反った。
「や! ああっ!」
 器用に舌先で弄びながら、奴が残酷に尋ねた。
「ここ、されるの好きか?」
 僕はぶんぶんと顔を振って答えた。
「や、胸、やだ。いや……」
「なんで? 気持ちいいんだろ?」
「いや……。よすぎて、変になっちゃう。だめ」
「おかしな奴だな。そんなに感じてるくせに」
「だって……感じるけど、イケないんだもん。気持ち……悪くなっちゃう……」
 僕が甘ったれた声で不満を口にすると、奴はちょっとおかしそうに言った。
「別のところも、欲しくなる?」
「……うん」
 そう答えると、彼はすっと身を擦りさげて、下にさがった。そして僕のものに接吻した。
 僕はびっくりした。だって彼が口でしてくれたことは、これまで一度もなかったのだ。手で触ってイかされたことは何度もあったけど、口の愛撫は初めてだった。
 奴がすっぽりと僕を包み込む。燃えるような熱い感覚に、頭の中で閃光がきらめいた。
 口でされるのなんて初めて。誰にもそんなことされた経験は無い。未知の快感に、僕は何も考えられなくなった。
「ああっ、や……は、あああっ!」
 僕は激しく身悶えした。それは胸への刺激とは正反対に、凄くストレートな快感だった。生暖かくて柔らかくて、まるで蛇みたいに彼の舌が絡みつく。唇が残酷に弄ぶ。訳がわからなくなって、僕は大声あげて悶え狂った。
「あっ、ああっ、やだ、うあっ、ああ!」
 あまりに激しく感じてしまって、快感を楽しむどころではなく、一挙に快楽の階段を駆け上がった。恥ずかしいほどあっさりと達して、僕は叫んだ。
「あっ、イクっ! あああっ!」
 我慢なんてしようもなく、僕はあっけなく暴発した。どうにもならなかった。あいつの口の中に断りもなく放ってしまって、僕は快感に震えながらも、情けなさと申し訳なさでいっぱいになった。
 だが奴はわりと平然とそれを受け止め、嫌な顔もせずに傍らに身を横たえると、震えている僕を優しく抱きしめてくれた。そして涙ぐんでる僕を、満足そうに眺めた。
 僕はおそるおそる口を開いた。
「あ……あの……ごめん」
「なにが?」
 奴がぶっきらぼうに問い返す。
「だから……口に、イッちゃって……」
 彼はちょっと呆れたように答えて返した。
「イかせようと思ってやったんだ。謝ることないだろ?」
「でも……」
 すっかり恐縮している僕に、彼はキスで慰めてくれた。唇に触れられ、ちょっと僕は顎を引いた。たった今そこに僕自身が放ったものがあったのかと思うと、不条理な躊躇いを感じてしまう。でも奴はそんなことまでお見通しだと言うように、激しい口づけではなく、そっと重ね合わせるだけにしてくれた。
 優しい奴。そう、僕はこいつの優しさを知っている。こいつはどんな時も、無理なことはしなかった。いつだって、僕を感じさせようとしてくれた。いらない優しさばかりを僕にくれて、僕をたくさん傷つけた……。
 何を思い出しても、愛しさばかりが募っていく。好きで好きでどうしようもなくて、だけどとっても苦しくて、僕はもう耐えられないんだ。これ以上我慢なんかできないんだ。
 僕が手を伸べて彼のものに触れ、続きを誘うと、奴はそれに応えて、また愛撫を始めた。首筋に柔らかなキスの雨を降らす。ごつごつした指の腹で乳首をそっと転がされ、僕が身を震わせると、そこを離れて脇をなぞった。
 ぐったりと気だるかった僕の体に、また新たな炎が灯る。僕は鼻にかかった声でねだった。
「きみの……入れて。きてよ……」
 彼は無言のまま下にさがると、僕の足を持ち上げて、後ろの部分を舌で舐めた。先っぽで焦らすようにつつかれると、思わず体が反応する。今イッたばかりなのに、あそこが熱くなってきた。
「ん……ん」
 遠慮がちに声を漏らすと、奴はそれじゃ済まさないとでもいうように、激しくしかけてきた。丹念に舐めあげ、尖った舌先を中まで押し入れようとしてくる。僕はこらえきれずに喘いだ。
「あ、ああ、や……感じる……やだ」
 その「やだ」は、もっとしてっていう意味の「やだ」だ。あいつは当然それを察していて、いっそう強く押し入れてきた。僕はもう我慢できなくて、うめきながら嘆願した。
「や、もう……だめ、早く、きて。ん……ああ」
 彼はいったん身を引くと、半身を起こし、僕の足を腕に抱えて高く持ち上げた。そしてぬれぼそっているあそこに自分のものを押しつけ、ぐっと深く挿入してきた。
「あっ!」
 僕は思わず悲鳴をあげた。彼が慌てて動きを止め、心配そうにささやいた。
「痛かったか?」
 僕は眉をひそめたまま首を振った。
「ちが……、すご、く……感じ……」
 言葉にならなかった。彼が押し入った瞬間から信じられないほどよくって、ただ黙って入ってるだけでも声が漏れそうなくらい感じてしまう。僕は彼の腕をぎゅっと掴んだ。
「して……よ、もっと。ねぇ」
 彼は請われるままにまた動きだした。最初はゆっくりと静かに、少し体が慣れてきたのを見計らって、早く強くついてくる。あまりの快感に息も満足につけないほど感じ入って、僕は激しく悶え狂った。唇から嬌声と嗚咽が絶え間なく溢れだす。一度イッたぶんだけ絶頂はすぐには来なくて、その分僕はいっぱい快楽に溺れ、身も心も狂い続けた。
 そのうち珍しく彼のほうが先に音を上げて、あいつは僕の耳元に唇を寄せ、かすれた声でささやいた。
「おい、もう……イッていいか?」
 僕は朦朧とした意識の中で応えた。
「うん……僕、も……イク」
 奴は安心したようにひときわ強く突いてきた。激しく僕の中をかき乱す。僕は何も考えられなくなって、悲鳴のように叫んだ。
「ああっ、やだっ、いっちゃう! あああっ! うあ!」
 その瞬間、体の奥に熱いものが広がるのを感じた。あいつだ。あいつが僕の中に大切なものを解き放つ。僕はしびれるような悦楽を感じ、ほとんど同時に最後を迎えた。
「くぅっ!」
 苦痛に近い快感が襲ってきて、僕はあいつにすがりついた。彼もまた強く僕の体を抱きしめた。
 僕たちは言葉もなく、抱き合いながら快楽の余韻に身を浸した。
 それは、幸福な時間だったといえるだろう。何度もこいつとは肌を合わせたけれど、今日ほど甘く感じたことはなかった。僕はまるで恋人のように彼に甘え、彼もまた恋人のように僕を抱いた。まるで愛し合う者たちのようにひとつになった。それで……満足すべきなんだ。きっと……。
 やがて静かに波がひいていっても、奴は僕を抱きしめ続けていてくれた。細身だけれどがっしりとした体。固い筋肉のついた腕。あちこちに残る痣の名残は、やはりレースでつけたものなのだろうか。
 目頭が熱くなって涙が滲んだ。それを手の甲でこすって拭うと、奴が気づいて僕を見つめた。
 僕はゆっくりと体を起こし、ベッドの上、あいつのほうに向き直った。そして静かに口を開いた。
「……この前さ」
 あいつが真っ直ぐに見返してる。その瞳を見つめながら、僕はゆっくりと語った。
「この前、きみ、聞いたよね? もうやめたいのかって。それ……今答えるよ」
 奴はちょっと不思議そうな表情を浮かべ、自分も半身を起こして僕と向き合った。僕は出来るかぎり平静に努めて話した。
「もうこれが最後だ。もう僕はここには来ない。あの駅にも行かない。もう君とは会わないよ」
 あいつの顔に驚愕の色が浮かんだ。大きく目を見開いて、食い入るように僕を凝視している。僕は一区切りごとに息をつきながら、はっきりと言った。
「これっきりだ。もう僕は、きみに抱かれたくない」
 やつは一度大きく息を飲んだ。
 しばし茫然とした様子で僕を見つめていたが、やがてその瞳に、少し諦めたような寂しい色が宿る。彼は目をすがめ、小さくつぶやいた。
「夕日……」
 ドキンと胸が鳴った。僕は眉をひそめ、顔を背けた。
「名前……呼ぶなよ」
 甘い声に、惑わされそうだった。こんな、別れを告げた時にそんな風に呼ばれたら、一度決めた心が揺らぐ。いっそう胸が痛くなる。普段は何も言わないくせに、こんな時だけ名前を呼ぶんだ。そんなのずるい。ずるいよ、バカ……。
 僕は自分が抑えきれなくなって泣きだす前にここを離れたくて、ベッドを降りて服を着はじめた。奴は黙って僕を見守っていた。
 重苦しい沈黙があった。いつも何も語らない僕たちだったけど、その時の沈黙は別の意味を含んでいた。もう今更、どんな言葉も必要ないのだという、悲しい静けさ。
 僕がタイを結んでいると、奴も起き上がって服を着だした。僕は最後に目にする彼の体を見つめながら、そっと尋ねた。
「この間一緒にいたの、彼女なんだろ?」
 あいつは僕に顔を向け、きゅっと眉をしかめた。NOともYESとも言わなかった。ただ難しい顔でにらむように見る。僕は目を伏せて言った。
「可愛い子だったね、あの子。きみたち凄くお似合いだった。あんな素敵な彼女、裏切るもんじゃないよ」
 奴はすっと顔を背けると、一言も返すことなく服を着た。何時にもましてむっつりと厳しい表情だ。まるで何かに怒っているよう。でも何も言わないってのは、言い返せないってことなんだろう。
 僕たちは二人身支度を整え、部屋を後にした。多分もう二度と来ることのないこの場所。懐かしむような甘い思い出じゃないけれど、きっと一生僕の記憶の中からは消えはしない。いつまでも苦い思いとともに残るんだ。
 あいつの差し出すメットを受け取り、いつものように駅まで送られていく。いつもその道は悲しくなるぐらい短くて、僕はその後の別れを不安な気持ちで迎えていた。でも今日はもうそんな思いはしなくてすむ。だって、さよならを告げたのは僕のほうで、彼も黙って受け入れた。僕たちは本当に今日で終わるのだ。
 駅の駐車場の一角で、僕はバイクから降り、メットを脱いで彼に渡した。奴は静かにそれを受け取った。
「さよなら」
 僕がそう言うと、あいつはじっと僕を見つめていたけど、やっぱり何も言わなかった。少しだけ寂しげな瞳をし、そしてすぐに伏せた。
 僕は背中を向け、歩きだした。そのまま後ろを振り返らずに去っていくつもりだった。背後でバイクのエンジン音が響いてる。きっと、もうすぐひときわ高く響いて、あいつはオイルの燃える匂いを残し、走り去っていくんだろう。
 もうこれっきり。二度と会わない。もうあいつのことなんて忘れてやる。
 そのまま黙って消えるつもりだった。なにも語る言葉なんてないと思っていた。だけど、そんなにきれいに別れられるほど僕は大人じゃなくて、心は全然あきらめてなくて、苦しい感情が胸の奥から沸き上がってきた。最後なんだと思えば思うほど、どうにもならない、辛い、苦しい……。体中が引き裂かれそうに痛い。
 押さえていた涙が溢れだし、僕はくるりと振り替えって悲鳴のように叫んだ。
「どうして? どうしてだよ? どうして何も言わないんだ? さよならぐらい、言えよ、バカヤロー!」
 あいつが茫然として僕を見る。その顔を見るともう止めようがなくて、思いっきり胸に隠していた言葉を奴にぶつけた。
「きみは僕にいらない優しさばかりをくれて、本当に欲しいものは何ひとつくれなかった。一度も心を見せてはくれなかった。もういやなんだ、こんなの! 名前も知らない男のことなんて愛せないよ! もうたくさんだ! 我慢できないよ、これ以上!」
 涙と一緒にこぼれ落ちた言葉は、後から後から溢れ出た。
「なんで僕なんか抱いたんだ? どうしてあんなことしてきた? ずるい、ずるい! きみは何にもしゃべらない! 何にも教えてくれない! 声を聞かせてよ! さよならぐらい、僕に聞かせてくれよ!」
 一気にぶちまけて、僕は荒く息をついた。胸がドクドクと破裂しそうに高鳴ってる。
 奴は驚き、声もなく、唖然として僕を見つめていた。僕は踵を返し、駅に向かって走りだした。もう何も僕の耳には聞こえなかった。


 その日の授業の、最後の鐘が清らかに響きわたった。生徒たちは一斉に帰り支度を始め、教室は賑やかにざわめき始める。あちこちで楽しげな笑い声があがった。
 僕はぼんやりしながら、機械的に手を動かして支度をしていた。この所、なんだかずうっとけだるかった。何に対しても、ちっともやる気が起こらない。いつも力が抜けたような感じで、何かが足りない気がして、気がつくとため息ばかりついていた。
 どうしてなのかはわかってる。でも、わかってるからといって、どうしようもない。僕にできることは、少しでもあいつのことを考えないようにして、時間が解決してくれるという当たり前の奇跡に期待し、ただ日々を過ごすことだけだった。
 奴と別れてから、もう二週間ほどたっていた。それでも立ち直るには程遠く、ましてや忘れることなんて出来ようもなくて、相変わらず僕の頭の中はあいつのことでいっぱいだった。
 もう愛せないと言った自分の言葉は、まるっきりの嘘だった。なにひとつ知らなくっても僕はあいつを愛したし、今でもその思いは少しも薄れてなんかいなかった。
 自分の選んだ結末を後悔しているわけじゃない。あんな風に付き合いつづける事は本当にもう限界だったのだ。だけど二度と逢わないと決めた心に、あいつは何度も何度もよみがえってくる。逢いたいと心が疼き、抱かれたいと体が望む。どうしようもなく欲してしまう。
(バカ……。連絡先ひとつ知らないのに)
 そう、僕はあいつのことをなんにも知らない。電話番号も住所も、どこの学生かも、何ひとつわからない。だからどんなに逢いたくたって、たった一つの接点を断ち切ってしまった以上すべはないのだ。
 ふうと大きな溜め息をつき、道具を詰めた鞄を持って立ち上がると、それまで別の奴らと談笑していた悟が、彼らに別れを告げて駆け寄ってきた。
「な、夕日。俺今日クラブないんだ。だから帰り、ゲーセン寄って行かないか?」
 悟は穏やかに微笑んで僕を誘った。
 悟は僕の様子がおかしい事にしっかり気づいていた。単に片思いで悩んでるだけじゃなく、とても辛い結末を迎えたということまで察しているのかもしれない。
 まあ、あんな醜態をさらしてしまったのだから、今さら元気なフリしても始まらないよな。それに悟相手にそんな必要もないんだ。悟は僕の親友で、誰よりも僕を大事に思っていてくれる奴なのだから。
 僕は唇に無理矢理笑みを作って、応えた。
「うん。……でも、あんまりゲームする気分じゃないんだ」
「バカ、だからこそやるんだろ? 余計な事考えてる暇ないほど何かに夢中になってりゃ、少しは楽だろ? ゲーセン行って、思いっきり遊んでこようぜ。な?」
 悟らしい慰め方だった。僕は少し悩んだけど、彼の優しさにほだされて思いなおし、小さくうなずいた。
「そうだね。……行こうか、ゲーセン」
 悟は嬉しそうに破願した。
「おお、二人でこの間の続きしようぜ。今日は絶対負けないからな」
 彼はあくまでも楽しそうに話した。まるで僕が落ち込んでることなんかまるで気づいてないとでも言うように。
 僕たちは並んで校舎を出て、グランドの横の長い並木道を歩いた。その間中、ずっと彼は、独りいろいろと喋り続けていた。
 悟にはわかっているのだ。僕が今お愛想ですら話もできないほど滅入っているのだという事を。だから一方的に喋りまくって、僕に口を開く間を与えないでいてくれる。本当に彼らしいやり方だ。真綿みたいに優しく傷を包んでくれる。
 こんな風にたくさんの言葉で慰めてくれる奴もいれば、無言のナイフで僕を切り刻むものもいる。僕は間違った相手に恋をしてしまったのかもしれない。
 太い銀杏の木にはさまれた道を通って、煉瓦作りの古い正面門に向かっていく。だがその門を越え、一歩通りに出たところで、僕は目にした光景に驚愕し、思わずその場に足を止めてしまった。
 下校中の生徒たちがたくさん歩いている表通り。紺のスポーツバックを手にしたブルーのブレザーの群れの中に、ひとつだけ浮かび上がっている真っ黒な革のジャンパー。破れたジーンズ。そして赤と黒に彩られたしなやかな流線型の車体。
 そこには、止めたバイクに跨がっている、あいつがいた。
 あいつが長い髪を風に揺らめかせて、いち早く僕を見つけ、そしてじっと見つめていた。
 突然の彼の出現に、僕は愕然として一瞬何も考えられなかった。
 どうしてそこにいるのかとか、何をしにきたのかとか、そんな余計な疑問は、ずっと後になって浮かんできたものだ。その時僕の胸に沸き上がってきた思いはただ一つ。あいつに再び逢えた、震えるような喜びだった。
 久し振りに見る奴の顔。綺麗に整った、だけどキツイ顔。鋭く尖ったナイフの切っ先みたいに、触れると傷ついてしまいそうなほどキラリときらめいて美しく、どうしようもなく人をひきつける。目頭がじわりと熱くなった。
 周りの生徒たちが、その場にそぐわない奴の姿に、ちらちらと好奇の目を向けていた。他校の生徒が訪れるというだけでも珍しいのに、バイクに乗った奴の姿は思いっきり目を引いた。しかもあの、無愛想な顔つきにキツイ目つきだ。まるで喧嘩でも売りにきたと言っても納得してしまう感じで、唖然としている僕の情けない姿と絡め合わせながら、何事かと興味深そうな視線で伺っていた。
 奴は、声もなく立ち尽くしている僕をじっと見つめながら、低い声で言った。
「乗れよ」
 その声にようやく僕は今の事態を把握し、そして再度驚きを覚えた。
 なんだって彼は、こんな所にいるんだろう。そりゃあ奴は僕の学校を知っているから、ここにバイクを止め、出てくる僕を待ち伏せしていたって不思議なわけじゃない。だけどそんなことをする理由がどこにある? 僕たちはあの時きっぱり別れて、彼もそれを受け入れた。あいつは最後までなにも語らず、さよならも言わずに僕を放り出したのだ。それを今更何だっていうんだ。どうして僕を待ってたりするんだ?
 僕はためらった。だって、もう二度とこいつとは関係しないって決めたんだし、忘れようと決心したのだ。なのに、また誘惑に負けて肌を合わせたら、きっと離れられなくなってしまう。そしてまたあの泥沼のような苦しい逢瀬に、ボロボロに傷つくんだ。それが耐えられなくって終わらせたんだから、もう彼についていっちゃいけない。挫けたりしたらいけないのに。
 だがあいつはキツイ瞳で真っ直ぐに僕を見つめ、もう一度言った。
「乗れ、夕日」
 胸がドクンと鳴った。きっぱりとした声、有無を言わさぬ強い口調に、抗う意思を奪われてしまう。なにより彼が口にした僕の名前に、今までにない響きを感じた。まるで矢のようにストレートに僕の心に突き刺さる。
 そう、僕はその時、初めてあいつに本当の声で呼ばれた気がしたのだ。
 僕はゆっくりと一歩踏みだした。傍にいた悟が、肩を掴んで引き止めた。
「夕日」
 僕は静かに顔を向けると、微かに笑みを返した。
「ごめん。ゲーセンまた今度な」
 悟は不安そうな瞳で見つめていた。だが僕はそんな彼を残し、真っ直ぐにあいつのほうに歩いていった。
 奴の前まで行って立つと、奴は持っていたメットを差し出した。それを受け取り、いつものように被ってあいつの後ろに跨がった。もう二度と乗ることなどないと思っていた彼のバイクの後部座席に。
 僕たちは周りの好奇の目をその場に残し、走りだした。
 風が僕たちの周りを取り囲んで吹きすぎていく。いつもと違う道、いつもと違うコースをあいつは慣れた運転で走った。
 僕は奴の背中に抱きつき、制服の胸に彼の体を通して伝わってくるバイクの振動を感じていた。それはまるで、僕の心みたいに震えていた。ただ悲しいのでも辛いのでもない、いろんな感情の混じり合った苦しさ。胸を掻きむしられるような切なさ。メットの奥で、僕は涙が一筋頬を流れ落ちるのを感じた。
 あいつはバイクを飛ばして、僕をまたあのマンションに連れていった。
 何度もあいつと体を重ねたあの部屋に、僕はまたあいつと二人でいた。呆気なく砕かれた別れという決意。あんなに悩んで苦しんだのに、結局はまたここに戻ってきてしまったのかと思うとどうにもやりきれなくて、僕はきゅっと口を結び、無言のまま寝室へと向かった。
 溜め息とともにベッドに腰を下ろし、服を脱ごうと、ネクタイに手をかけた。
 と、そこに奴の手が重なってきて、それを止められた。僕がびっくりして顔をあげると、目の前にあいつがいて、キツイ瞳でじっと僕を見つめていた。
 奴はゆっくりと身をかがめ、僕の前に膝をついた。彼の瞳が僕の視線と同じ高さにあって、それは真っ直ぐ僕に向けられていた。
 僕が戸惑いを隠せずに瞳を返すと、あいつはゆっくりと口を開いた。
「俺は、言葉が足りないと、よく言われる」
 静かな、だがしっかりとした口調だった。
「誰に対しても、自分から会話することなんてほとんどない。たまに話しても、必要最小限しか口にしない。そして……時々必要なことすらも忘れてしまう」
 彼は真正面から僕を見つめて、低く抑揚のない声で話した。
「おまえは、俺が何も話さないと腹を立てた。その通りかもしれない。だけど、俺はおまえに何を言えばいいのかわからなかった。おまえは何も聞かなかったし、俺と話そうともしなかった。だから何も言えなかった。今でも俺はわからない。俺はどうすればいい? 言ってくれ。俺はおまえの聞くことなら何でも答える」
 あいつはきっぱりとそう言った。
 僕はひどく戸惑った。初めて聞くあいつの心だ。しかも思ってもいなかった心。
 彼も戸惑っていたというのか? 僕が少しも見えないあいつの心に苦しんでいたように、彼もまた僕の心が見えないことに悩んでいたのか? 僕たちは二人してすれ違ってた?
 奴は真剣な目で、じっと僕の言葉を待っていた。僕は困惑した。頭がはたらかなくって何を言えばいいのかわからない。何かを聞いてくれって言われたって、そりゃ聞きたいことは一杯あるけど、突然言葉になんてなりゃしない。だいたい、僕はずっとこいつは、僕と話なんてする気がないんだと思ってた。何も聞いちゃいけないんだと思ってた。だから、今更すぐに言葉なんて見つからないよ。
 それでも、今はこいつが真剣に会話を望んでいることがわかる。僕と心をつなげたがってる。僕は必死になって考えた。
「あの……、ここ、きみの家?」
 そう口にして、僕は自分の愚かさにいい加減呆れた。なんで最初の質問が、そんなどうでもいいことなんだ? 本当に聞きたい大切なことは、他にも山ほどあるはずなのに。
 だがあいつは呆れるでも妙な顔をするでもなく、真面目に答えてくれた。
「ここは兄貴の借りてる部屋だ。今海外赴任してて、管理と掃除を条件に俺が鍵を預かってる。俺の家は少し遠いから、なにかあった時は時々ここに泊まるんだ」
 奴はそう話してから、少し照れくさそうに目を伏せて言葉を加えた。
「ここに……誰かを入れたのは、おまえが初めてだ。他人を家に入れるのは好きじゃなくて……」
 そんな顔を見せるあいつも初めてだった。はっきり感情を現すわけじゃない。だけど無表情で無愛想な顔の奥に、密やかに隠れているあいつの心。ひどく不器用で素っ気なくて、だけど確かに今それが見える。もしかしたら僕は、そんな奴をずっと見逃していたのだろうか。
「どうして……どうして僕に、あんなことしてきたの? いつも……してるわけ、痴漢……?」
 僕がそう尋ねると、奴はむっとしたように口を尖らせた。
「バカ言うな。誰がやるか、そんなこと」
「じゃあどうして僕に?」
 彼は少し躊躇して言い淀んだが、それでもすぐに隠さず話しだした。
「おまえ、春からあの電車に乗るようになっただろ?」
「うん」
「最初は、何も気にしちゃいなかった。それがある日、おまえが変なオヤジにさわられてるのが目に入って、それからなんとなく気になって見てたら、おまえ、しょっちゅう痴漢にあってた。始めはバカな奴だなぐらいに思ってた。だっておまえ、毎日決まった時間の決まった車両、しかも同じ二番目のドア付近に立ってただろ? そんなの狙ってくれって言ってるようなもので、自業自得だなと思ってた」
 僕は聞きながら思わず赤面した。そうだったのか。確かに僕は毎朝決めた場所に立っていた。いつも通りにする事が何となく安心なんでそうしてたけど、それって痴漢を許してたようなものだったのか。
「おまえがいやがってるのはわかってたが、俺には関係ないことだし、俺が口を出すいわれもないし、だから始めは無視してた。でもやっぱりおまえはしょっちゅう痴漢にあってて、それを目にするたびに、なんだかだんだん腹が立ってきたんだ」
「腹が……?」
「ああ。なんでこいつ、黙って触らせてんだ、何故ぶっとばしてやらない、されたくてこうしてるのかって」
 奴は吐き捨てるようにそう言った。僕は思わず言い訳がましく反論した。
「そんな! んな訳ないだろ? 僕だって意思表示はしてたよ。足蹴っ飛ばしたり、手を叩いたり。でも次から次へときりがないんだ」
「わかってる。だから……俺が勝手に腹を立ててたんだ」
 奴はちょっぴり口を尖らせて、プイと顔を背けた。何だか、まるで子供がすねてるみたいな感じだ。僕が困惑していると、あいつはちょっと戸惑いながら、目を背けたまま話を続けた。
「それに、やってる奴らにも腹が立った……。誰もさわるな、そいつにさわるなって……思った。自分でもなんでこんなに気に障るんだろうと不思議で仕方がなかったし、くだらないと思ったけど、でも……どうしようもない。苛々して、むかついて、で……、あの日気がついたらおまえの傍に立ってた」
 彼は懺悔でもするみたいに、とうとうと喋りつづけた。
「始めはさわる気なんてなかったんだ。痴漢が来たらぶっ飛ばしてやろうかとか考えてた。なのに……バカみたいだよな。おまえの横に立ったら、俺が同じことしてたんだ。でもって、やりはじめたら止まらなかった。それに……おまえも止めなかった」
 そう言われて、僕は耳まで赤くなった。
 確かに僕は抗わなかった。奴の綺麗な顔に魅了されて、キツイ瞳に心を奪われて、僕は彼に体を許した。他の痴漢の奴らとは違い、彼の手を、彼の誘いを受け入れた。僕は自分から望んでそうなったのだということを改めて思い知り、羞恥に身の細る思いがした。
 ふとあの日初めてこいつが触れてきた時のことが頭の中によみがえり、カッと体が熱くなった。胸がドキドキする。不安と期待の入り交じった不可思議な感情。だけど決して嫌じゃなかった。確かに僕はあの時そう感じていたのだ。
 思いもかけぬあいつの告白と自分の心に当惑して、僕は言葉をなくして黙り込んだ。赤く染めた頬を隠すようにうつむいていると、奴が困ったような口調でつぶやいた。
「怒ってるんだよな、まだ」
「え?」
 僕はびっくりして顔を上げた。あいつは無愛想な顔をいっそうむずかしく歪めて、僕をじっと見つめて言った。
「おまえ、ずっといやがってた。抱くとそれなりに反応したけど、それ以外は……ずっと俺を避けてて。だから、本当は……」
 奴はいったん言葉をとぎらせ、瞳に寂しげな色を浮かべ、切なそうに伏せた。
「本当は……すぐに、やめるべきだったんだよな。無理矢理つきあわせて、悪かったと思ってる」
「ちょ、ちょっと待って」
 僕は思いも寄らぬ奴の謝罪の言葉を聞いて、慌てて口をはさんだ。
「待ってよ。きみ、ずっと僕が嫌々ながらにここに来てると思ってたの?」
 あいつは憮然とした表情を浮かべて、ぶっきらぼうに答えた。
「そうだろ? おまえ、いつだって泣きそうな顔をしてたし」
 僕は唖然として彼を見つめた。
 どうして? どうしてそんな風に思うんだ? そりゃ、僕はいつも泣きたい気持ちで奴と逢ってたけど、それは彼と居るのが嫌なんじゃなくって、むしろその逆で、一緒に居たいけど彼の心が見えなくて、何かを望むことも許されなくて、それで苦しかっただけだ。避けられてたのは僕のほうだ。背中向けてたのは奴のほうじゃないか。
 僕が言葉もなく見つめていると、奴もまた無言で僕を見返してきた。鋭い瞳。無愛想で無表情な顔。いつも僕の前にいるあいつは、心の中でそんなことを考えていたのか? 
 僕はゆっくりと手を伸ばし、そっと彼の頬に触れた。あいつはちょっと驚いたように目を見開き、そしてすぐにその手の上に自分の手を重ねてきた。
 なんにも語り合おうとしなかった僕たち。
 名前すら教えてくれずに、いつも黙ってたあいつ。何を話せばよいのかわからなくて、僕の気持ちがわからなくて、困っていたあいつ。
 そして何も聞こうとしなかった僕。冷たく拒否されるのが怖くて、奴の気持ちを知るのが恐ろしくて、勝手に悩んで落ち込んでた僕。
 そうか。声が聞こえなかったのは、僕だけじゃなかったんだ。あいつにも僕の声は届いてなかった。僕たちは二人して、聞こえない声に身悶えしてたんだね。背を向け合いながら求めてたんだね。お互いの心を。
 僕は彼を見つめながら、消え入りそうな声でささやいた。
「いやじゃ……なかったよ」
 あいつの目に、微かに驚きの色が灯る。それを真っ直ぐに見ながら、僕は震える声で言葉をつなげた。
「いやな奴のところになんて、こんなに何度も来ないよ。無理矢理抱かれにくるほど、僕は情けない奴じゃない。僕は……僕はいつだって……」
 僕の瞳から涙がひと雫、あふれて流れ落ちた。
「……いつだって、胸がちぎれるほどきみに逢いたくて、きみの傍に居たくて、きみに……抱いてほしかった。僕は、避けてたのはきみのほうだって、ずっと思ってた」
「夕日……」
「体だけ求められるのが辛かったんだ。心もないまま抱かれることに耐えられなくて……だから、もうやめにしようと、そう思って、別れたんだ。だけどずっと逢いたくて、きみに逢いたくて僕は……ぼ……」
 言いかけて、ぽろぽろっと涙がこぼれた。胸が熱くなる。こらえていた想いが一挙に吹き出してくる。ずっと秘めていた気持ちを、奴に届かなかった僕の声を、唇を震わせてつぶやいた。
「逢いたかった……」
 静かな沈黙があった。
 奴はキツイ目を細めて、食い入るように僕を見つめていた。
 やかで両手を伸ばし、ゆっくりと僕の体を引き寄せて、その胸に抱き入れた。細いけれど、がっちりと固い筋肉の張った奴の胸。頬を押し当てた僕の耳に、彼の鼓動が響いてくる。熱い心の音が聞こえてくる。奴がぽそりとつぶやいた。
「俺も、逢いたかった……」
 あいつは僕を宝物みたいにそっと抱きしめ、僕の髪に顔を埋めた。
「もう、あきらめようと思ってたんだ。おまえがいやなら、おまえがやめたいと望むのなら、もう二度と逢わないと。だけど……だめなんだ。我慢できなかった。俺は……」
 あいつは僕を抱く腕にぎゅっと力を込めて、低い声で、きっぱりと言った。
「おまえが好きだ」
 僕はあいつの胸の中で、一瞬息も鼓動も止めた。時間も止まった。
 それは、なんという言葉なんだろう。炎みたいに熱い力で、僕の心を深々と貫く。
(なんて……言ったんだ? 今……)
 すぐには理解できなかった。それほど、僕にとっては意外とも言える言葉だった。
 だけどきっと、なによりも僕が熱望していたものだ。欲しくて欲しくて、たまらなかった言葉だ。
 飾りのない、そのたった一言で、それまで僕を苦しめていた全てのものが溶けていく気がした。全身が熱くしびれて、頭の中が真っ白になった。
 絶対に耳にすることなどないと思っていた。かけらすらも期待していなかった、そんな言葉だ。それを、あいつの唇から聞けるなんて。あいつの声で聞けるなんて。まるで……夢みたい。これは、本当のことなのか? 本当に、きみはそこにいて、僕を好きだと言ってくれたの?
 僕は確かめるように奴の体に抱きついた。おずおずと背中に手を回し、ためらいがちに力を込める。腕に返ってくるあいつの体の感触が、それは現実なのだと答えてくれた。
 そんな僕を、彼もきつく抱き返してくれた。目頭が熱く燃え、瞳が涙で潤んだ。
 まったく、僕はこいつに泣かされてばかりだ。苦しくて泣かされ、抱かれて感じさせられて泣かされ、そして今は幸せに泣かされてる。泣いてばかりいる僕も、呆れるほど情けないんだけど。
 僕は震える声でつぶやいた。
「もう一度……聞かせて」
 僕の要求に、奴はためらうことなく口にした。
「好きだ、夕日」
 胸が苦しいほど嬉しかった。僕は声をあげて泣きだしてしまいそうになるのをこらえて、涙声で言って返した。
「彼女……いるくせに。嘘つき……」
 彼は慌てて僕を胸からひきはがすと、痛いほど強く両肩を掴んで、焦った顔で言い訳した。
「違うんだ。あいつは……俺の尊敬する先輩の妹で、昔から妙になつかれてて、なんとなく周りからもそう見られてて……。確かにつきあってる……のかもしれないけど……でも、違う。おまえとは違うんだ。俺にとって特別なのはおまえだけだから……」
 僕の意地悪な一言に思いっきり奴は動揺して、うろたえてみせた。そんな彼の姿も初めてだ。おかしくて、でも笑みの代わりに涙がこぼれた。僕はゆっくりと首を振った。
「もういいよ。そんなこと、どうでもいいんだ……」
 僕は腕を伸ばしてもう一度奴の胸に身を埋めた。本当に僕は、もうそんなことどうでもいいと思っていた。
 理香っていう名のあの子が、こいつの彼女であろうとなかろうと、そんなこと関係ないんだ。彼は僕に逢いにきてくれた。僕に声を聞かせてくれた。そして、好きだと言ってくれた。それだけで、もう充分。
 彼を愛することを許されたんだもの。もう独りで泣かなくってもいいんだよね?
 僕は彼の胸の中で、その幸福を甘受した。今でも少し、信じられないくらいだった。だってついさっきまで、僕は苦しくて辛くて喘いでいたのに。何にも聞こえない声に泣いていたのに。それが、こんなに素晴らしい答をもらえるなんて……。やっぱり夢みたいだ。
 ふと、僕の頭の中にひとつの思いが浮かんだ。
 僕はあいつの胸から顔をあげると、じっと瞳を見つめて尋ねた。
「ずっと聞きたかったことがあるんだ。一番大切な、一番欲しかった答えがあるんだ」
「なんだ?」
 あいつは優しく問い返した。
「きみの名前、聞かせてくれる?」
 奴はちょっと目を丸くし、なんだ、そんなことかって顔をした。でも、そんなことすら僕たちの間には欠けてたんだよ。誰もが一番最初に始める一歩を、僕たちは踏みだしていなかったんだ。
 あいつは真正面から僕の目を見つめて言った。
「森川。森川篤志。京成高校の二年」
(篤志……)
「おまえは?」
 奴は僕にそう尋ねた。僕はちょっぴりすねて、にらみつけた。
「知ってるくせに」
 彼はキツイ目を今までで一番優しく細めてみせた。
「おまえの口から聞きたいんだ」
 僕はそんな彼を見つめながら、静かに応えた。
「相原夕日。旭が丘学園の一年」
 改めて自分の名を口にし、僕は微かに笑みを浮かべた。すると奴は嬉しそうににっこりと笑った。
「初めて笑ったな、夕日」
 心臓がトクンと鳴った。それは僕の台詞、僕が今思った言葉だ。
 初めてきみの笑顔を見た。とっても涼やかで優しい顔。僕だけに向けてくれた……。
 僕は胸が熱くなって、彼の腕の中に飛び込んだ。奴はちょっとびっくりしてたけど、すぐに力強く包んでくれた。
 僕は彼に抱かれながら、そっとささやいた。
「篤志って……呼んでいい?」
「ああ」
 耳元にあいつの声が聞こえる。僕は目を閉じ、何度もその名を頭の中で繰り返して、そして小さくつぶやいた。
「篤志……」
 返ってきたのは、熱く強い抱擁だった。


 そして、やっと今僕たちの一歩が始まった。

                                               ≪ 完 ≫

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