声を聞かせて

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4 傍にいたくて                       
 
 金曜の夕方、いつものマンションで僕たちは逢っていた。
 相変わらず会話はなく、部屋に入るなり奴は僕にキスをした。そして僕はそれを受け止める。長く熱いキスに、立っていられないほど全身がしびれた。
 この前の火曜日、僕はこいつにすっぽかされた。だから会うのは一週間ぶりだ。そのせいかいつもより余計に体が疼いて、キスだけで膝がガクガクしてしまい、思わずあいつの胸にすがりついた。
 彼はそんな僕をしばらく抱き留めていれくれたが、少し快楽の波が退いたのを見計らうと、ついと身を離し、さっさと独りベッドルームに歩いていった。
 全くいつものパターンだ。嫌になるほど儀礼的。彼にとって僕がどれだけのものかがすぐわかる。そう、あいつにとって、一週間会えなかったことなんて、なんの苦痛でもないのだ。僕は胸にチクリとした痛みを感じながら、あいつのあとを追って寝室へと入った。
 だがその日、僕はシャツを脱ぎ捨てたあいつの体を見て、びっくりしてしまった。奴の右の脇腹に凄く大きな痣ができていたからだ。内出血して紫色になっている。外傷こそなかったけれど、とても普通ではできようもない代物だ。尋常じゃない感じがした。
 僕は思わずあいつに駆け寄って、その傷をのぞきこんだ。
「どうしたんだよ、これ? ひどい痣……」
 あいつは僕の反応にちょっと驚いたようだったが、淡々と答えた。
「日曜のレースで、ちょっとこけたんだ。たいしたことない」
「レース?」
「ああ。バイクの」
「そんなの……やってたの?」
 僕はしげしげとあいつを見つめた。彼の口から彼のことを聞くのなんて、初めてのことだった。
「大丈夫なの、これ?」
 僕が心配して尋ねると、あいつはちょっと眉をあげ、平然として言った。
「一応検査したけど、骨にはいってない。ただの打ち身だ」
「でも、痛く……ない?」
「触ると痛むけど、これくらい平気だ。慣れてるし」
 あいつは特に隠し立てするでもなく、すらすらと答えた。僕はそれを聞きながら、なんとなく不思議な気がした。彼の声を、初めてちゃんと聞いた気がする。それまで会話らしい会話をしたことがなく、挨拶すらろくに交わさなかった。あいつは何も語らないし、僕も聞かなかった。なんにも聞いちゃいけないような感じがしていた。でももしかしたら、聞けば答えてくれるのだろうか? 彼自身のことを。
「あの……さ」
 僕はおずおずと口を開いた。あいつが真っ直ぐに視線を返してくる。瞳が「なんだ?」って聞いている。僕はためらいながら喋りかけた。
 その時、奴が脱ぎ捨てたジャンパーから甲高い電子音が響いてきた。携帯電話の呼びだし音だ。あいつは歩いていくと、それを取り出して耳に当てた。
「はい」
 しばらく誰かの話を聞き入っていて、やがてあいつが応えた。
「ああ、わかった。十二時だな。……ああ、わかってる。ああ」
 かなりつっけんどんな受け答えだった。どうやら奴が無愛想なのは僕に対してだけではないようだ。だがあいつが発した次の言葉を耳にして、僕は愕然とした。
「ああ、理香、新城さんにあのこと、伝えておいてくれ。……うん、そう。ああ。……じゃあな」
(理香……女の子の名前だ)
 僕は頭の中が真っ白になった。
 彼女……だろうか。あいつが今電話してるのは、あいつの彼女なのか?
 そうだよな。こいつカッコイイもん。彼女がいたって全然不思議じゃない。僕とこんな事してるほうが,よっぽど不自然だ。こいつには似合わない……。僕なんか、ちっともふさわしくない。
 僕はきゅっと口を結んで、うつむいた。
 あいつが電話を置いて近寄ってきた。僕の肩に手をかけ、自分のほうに向かせて、うつむく僕に顔を寄せてきた。僕は唇から逃れるように顔を背けた。あいつが追ってくる。その体を手で押し止めて、僕はキスを拒否した。彼は訝しげな表情を浮かべ、ぼそりと言った。
「なんだよ、やりたくないのか?」
 僕は無言のまま首を振った。あいつは眉をしかめた。
「じゃあ、なんで逃げるんだ?」
 僕が答えずにいると、奴は憮然とした顔で、もう一度キスを迫ってきた。今度は僕も逃げなかった。代わりに彼の首に両腕を巻きつけて、強く引き寄せ、自分から舌を奥深く差しいれた。
 彼が驚いたように少し身を退いた。一度は拒否する態度を見せながら、一転して積極的に仕掛けてくる僕に戸惑ったのだろう。だが僕は気にせず、奴の舌を逃さなかった。あとずさるあいつを追いかけるように、いっそう強く吸った。
 彼は無理矢理僕の唇から逃がれ、困惑したように呟いた。
「おい、どうしたんだ……?」
 僕は何も応えず、ひたすら迫った。彼の裸の胸に唇を押し当て、強くキスをした。そして舌先を出し、筋肉質の日に焼けた肌の上を舐めまわした。小さな乳首を探り当てて、赤ん坊のように吸いついて、それから強く噛んだ。あいつが小さな呻き声を上げた。
「つ……」
 腕が伸びてきて、僕の体を引き離した。眉をしかめ、怪訝そうな瞳で凝視する。僕は顔を歪めて、吐き捨てるように言った。
「やれよ、早く」
 あいつは驚いた顔をした。僕はそんな奴を見ながら、悲鳴のように叫んだ。
「早くしろ。早く入れろよ! 早く僕をメチャクチャにしろ! いつもみたいに泣かせてみろよ! さあ!」
 茫然としている奴を尻目に、僕は自分から服を脱いだ。そして立ち尽くしているあいつの胸に思いきり飛びついた。
 突然のことに、あいつは受け止めきれず、よろめいて、僕たちは絡み合ったまま床の上に転がった。
「痛っ……」
 あいつは一瞬苦しそうに顔を歪めた。僕はハッとして身を硬直させた。先程目にした彼の傷のことを思い出す。慌ててのっかかっていた彼の体から半身を起こした。
 しばしの間、僕たちは互いに身動き一つせず見つめあった。
 やがて彼は身を起こすと、茫然としている僕の頬に手を添え、どこか心配そうな眼差しを向け、食い入るように見つめた。その瞳を見返す僕の目に、涙が滲んで溢れた。
 彼は僕を抱き寄せると、互いの位置を逆転させ、僕の体を床に押し倒して、のしかかってきた。
 唇が重なる。暖かなキス。奪うようないつものそれではなく、宥めるように優しく絡みついてくる。
 やがて頬に移って、流れていた涙を拭い、首筋に移行した。僕はあいつの耳元に、かすれた声でささやいた
「……早く、入れて」
 彼はぶっきらぼうに応えた。
「まだ何もしてない」
「いいよ、そんなの。早く」
「……濡らしてもいない。痛むぞ」
「いい。かまわない」
 僕が言い張ると、奴は顔を上げ、憮然とした表情を浮かべて首を振った。
「だめだ、そんなの」
 真剣な目を向け、低い声でつぶやいた。
「そんなことでおまえを泣かせたくない。そんな涙は見たくない。いやだ」
 そしてあいつは有無を言わさずに僕の足を持ち上げ、後ろに舌を寄せた。熱い舌先がそこを捕らえる。僕は大きくのけぞった。
「あっ!」
 全身に電気が走るような快感が駆け抜けた。思わず逃れようと身をうごめかす。だが、がっちりと奴の腕に捕まえられ、抗いようがなかった。
 尖った舌先が、熱を帯びて、押し入るように攻めてきた。一挙に快楽の波が襲ってくる。僕は髪を振り乱し、淫らに身悶えし嬌声をあげた。
「あっあっ、や……! やだっ! ああっ、はぁ!」
 それは、いつにもまして激しく感じた。小さな一点が生み出す快感は、僕の全身を燃え上がらせ、狂わせる。信じられないほど気持ちがいい。
 いや……、良すぎるぐらいだ。あまりの快感に、どうにかなってしまいそう。喘ぐなんてものじゃなく、大声で叫んでしまいそうで、僕は自分の指を噛んで、必死になってそれに耐えた。
 まだ前には指一本触れられていないのに、そこはもうすっかり固くなって、僕がどれだけ高まっているかをあからさまに示していた。
 あいつは手を伸ばし、そこに触れようとした。だが僕は強く拒否した。
「いやだ! そんなのいいから、早く入れてよ!」
 彼は当惑して眉をひそめた。
「でも」
「ねぇ……頼むから」
 僕の瞳から涙がこぼれ落ちた。情けなくあさましい哀願に負けて、彼は半身を起こすと、そのまま一気に僕を貫いた。
「う……あ!」
 身体中が砕け散ってしまいそうな程の衝撃だった。
 僕は反射的に奴の腕にしがみつき、喉の奥から沸き上がってくる悲鳴を飲み込んだ。
 凄い。こんなの初めてだ。痛みを感じる間もなく、快楽が溢れてくる。彼が押し入ってきた瞬間から、僕の中のすべてが感じた。
「う……くぅ、ん……!」
 あいつは余りに僕が激しく反応しているので、いささか戸惑ったように僕を見下ろしていた。深くまで入ってくると、いったん身動きを止め、じっと見つめる。
 僕はと言えば、ただ彼が入っているそれだけでどんどん高まり、勝手に悶え狂って、なりふり構わず乱れていた。
 そうだ。奴とつながってる、奴と一つになっているという事実が、僕をこんなにも感じさせるのだ。
 今この時だけは、誰よりも近くに僕が奴の傍にいる。彼が僕を見ている。彼が僕の中にいる。こいつは今……僕独りだけのもの。
 僕は彼の背中に手を伸ばして、その身を引き寄せた。引き締まった細い体を、力一杯抱きしめた。あいつがぼそりとつぶやいた。
「おい、そんなにしがみついたら、うまく動けない」
 でも僕はそんな言葉を無視して抱きしめつづけた。この手を離したくない。彼を離したくない。せめて繋がっている間だけでも傍にいさせて。きみを愛させてよ。
 僕は快楽のプールに溺れながら、思った。
(そうだ、僕は……、好きなんだ。愛してるんだ、こいつのことを)
 その時初めて僕はそんな自分の感情に気づき、そしてそれを認めた。
 僕はこの、名前も知らない男のことを、どうしようもなく愛してしまっているのだ。どうしてなんてわからない。そんな答はない。ただ真実は、好きだというそれだけ。でもそれだけのことが、どうしてこんなに苦しいんだ?
「あ、あ、んん……、はあ……!」
 涙がポロポロと流れて落ちた。それはいつものような感極まった興奮からくるものなのか。それとも……張り裂けそうな胸の痛みからなのか。僕にはわからなかった。
 奴が僕の中をかき乱す。熱く逞しい彼のものを感じる。どんどん膨れ上がる快楽は限界にまで高まって、僕は大きくのけ反り、叫んだ。
「あ……いや!」
 一瞬、真っ白な世界が頭の中に広がった。
 僕の意識は突然宙に放り出され、何もない空間を漂い、そして深遠へと落ちていった。彼がイッたのかどうかさえ僕は気づかなかった。
 いったいどれだけ意識を失っていたんだろう。あいつの声と、揺すられる肩に僕は目を覚ました。
 奴はまだぼんやりしている僕を心配そうに見つめていた。僕が気づいたのを見て、ホッとしたように吐息をついた。
「焦らせるなよ、まったく」
 彼はそうつぶやくと、体の力を抜いてどっと僕の上にのしかかってきた。僕はいまだしびれる体に、彼の重さを感じていた。
「気絶する奴なんて初めてだ。このまま起きなかったら、どうしようかと思ったぜ」
 彼は胸の上で、呆れたようにそう言った。僕はしばし無言で受け止め、そしてぽつりとつぶやいた。
「……やろう」
「え?」
 彼が驚いたように問い返した。僕は淡々ともう一度その言葉を口にした。
「もう一回やろうよ。いや、何回でもいい。もっとしよう。もっと入れてよ」
 彼は目を剥いて、僕を凝視した。僕はそんなあいつの首に手を絡ませ、唇を寄せてキスをした。そして右手を下に伸ばし、奴のものに触れる。彼は僕の手首を捕まえ、それを遮った。
 憮然とした眼差しを向け、怪訝そうに彼は尋ねた。
「何、考えてんだ?」
 僕は冷やかに問い返した。
「やらないの?」
 彼はしばし躊躇いを見せ、難しい顔で首を振った。
「今日はもう止めよう。おまえ、どうかしてる」
 僕は無表情にそれを聞いていたが、目を伏せ、つまらなさそうに応えて返した。
「なんだ、やらないのか……」
 怪訝そうに見下ろしている彼の体を押し退け、半身を起こし、周りに散らばっていた服に手を伸ばした。奴が声をかけてくる。
「おい?」
 僕はそれを背中で聞き、冷たく返した。
「やらないなら帰る……」
 そして訝しげな奴を尻目に、かき集めた服を手にして、僕は立ち上がろうとした。だが途端に腰から力が抜け、ヨロヨロと情けなく床に尻餅を突いた。
 奴が慌てて寄ってきて、心配そうに顔を覗き込んだ。
「おい、大丈夫か?」
 僕は無言で顔を伏せた。先程の余韻がまだしっかり残っていて、体に力が入らなかった。無理もない。だって初めて僕は後ろだけで感じて、そして気を失うほど激しくイッてしまったんだもの。
 あいつは諭すように優しげに言った。
「もう少し休んでろよ。そう急ぐことないだろ?」
 僕が不満げな顔で見つめ返すと、彼は呆れたように溜め息をついた。
「わかった。帰りたいなら送ってってやる。だから無理して急いで着替えるな。ゆっくりやれ」
 そう命じて僕に手を伸ばす。だが僕はその手を乱暴に振り払い、冷たく言い放った。
「優しくなんかするな」
 あいつは茫然として、行きどころ無く伸ばした手を引っ込めた。
 困ったような奴の顔。激しく関係を求めながらも彼を拒否する僕を、何が何だか訳がわからないといった表情だ。
 だが僕は、そんなあいつの戸惑いを無視して、さっさと服を着た。
 そうだ。あいつにはわからない、僕の気持ちなんか。僕がどんな想いで傍にいるのか、これっぽっちも知る気はないんだから。あいつにとって僕は、性欲の捌け口にすぎないんだから。
 それだって、彼女がいるあいつには、きっとただの気まぐれ。あの日電車でお遊びで手を出して、うまうまとひっかかってきたから抱いてる、それだれのことなんだ、きっと。
 考えれば考えるほど、悲しくて、辛くて、そして悔しかった。なのにこいつが好きだった。こんな思いをしてまでも、傍にいたいと望むほど……。
 ふらつく体で着替えを済まし、鞄を掴んで玄関に向かった。あいつが無言のまま追ってきた。僕も無言。口なんて聞かない。何も喋ったりしない。だって体だけ求められてる僕に、何も聞く資格なんて無いだろう?
 靴を履いて先に出ようとする僕を、奴はふいに肩を掴んで引き止め、眉をひそめてじっと見つめた。そして一言ぽつりとつぶやいた。
「もうやめたいか?」
 僕は無言のまま見つめ返した。
 僕に何が言えるだろう。やめたいなんて、思うわけもない。僕は身も心もこいつに狂っているのだ。こいつが好きなんだ。真剣に。
 だけどこんな虚しい関係を続けて、どうなるというのか。体だけを求めてくるこいつに、何も望むことを許されない関係に、どう気持ちをもっていけばいいんだ? いっそ僕も肉欲だけを欲していたなら、何も苦しむことなく快楽に浸っていられたのに。
 僕は何も応えなかった。ただ今にも泣きだしそうな気持ちで、あいつの顔を見つめていた。
 僕たちはしばらくの間互いに沈黙していたが、やがて彼が大きな溜め息をついて、ぽそりと言った。
「行こう」
 僕は黙って後についていった。
 駐車場でいつものように彼の後ろに座ろうとすると、あいつが優しく言った。
「家まで……送ろうか?」
 僕は静かに顔を振った。彼は黙って受け止め、バイクを発進させると、あの駅まで僕を連れていった。
 僕は一言の口もきかずにバイクを降り、そのまま振り返りもせずに歩きだした。背中に奴の視線を感じた。いつもはすぐに行ってしまうのに、何故かずっとその場にいて、僕を見ていた。
 でも僕は一度も振り返ることなく、駅に向かって足早に歩いた。構内に入ってプラットホームに向かう間も、絶対に後ろを見なかった。足元だけをにらんで歩きつづけた。
 途中すれ違う人たちが、時々訝しげに振り替えって僕を見た。僕は人前も憚らずポロポロと涙を流しながら、夕刻のラッシュを迎えた人波の中を歩いていった。

 
     
                                            ≪続く≫
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