声を聞かせて

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2 名前も知らない                       
 
 友達との約束を反故にしておきながらも、僕は最後まで散々迷って、結局あの駅のトイレに着いた時は、約束の時間を五分くらいオーバーしていた。
 あいつはトイレの前の通路で、壁にもたれて立っていた。朝着ていた制服ではなく、ジャンパーにジーンズの軽装だ。手にはフルフェイスのヘルメットを持っている。バイクでも転がして来たんだろうか。
 あいつは僕に気づいて、顔を上げた。僕はドキンと胸が鳴った。だって私服の彼は、朝見た印象とはまた違って見えて、でもいっそうかっこよくて僕好みだったから。
 僕が困惑して立ち尽くしていると、あいつはつかつかと寄ってきて、そのまま僕の横を通りすぎた。そして二・三メートル先にいくと、くるりと振り替えって一言だけ喋った。
「こっち」
 また背中を向けると、すたすたと歩きだす。僕は仕方なく彼のあとを追って付いていった。
 駅の構内を出て、隣接している青空駐車場に着いた。そこには案の定バイクがあって、あいつはポケットからキーを取りだすと、持っていたメットを僕に差し出した。
「乗れよ、後ろ」
 僕は渋々メットを受け取り、ぎこちない手付きでかぶった。初めて被るメットは、なんだか窮屈な気がして、息苦しく感じた。
 すでに座席にまたがって僕を待っている彼を見ながら、僕は恐る恐るその後ろに座った。
 バイクなんて初めてだ。二人乗りだってしたこと無い。遠慮がちに奴の腰に手を添えると、手首をぐいっと引っ張られた。
「しっかり掴まってないと落ちるぞ」
 あいつは僕の両腕を強引に引っ張って、自分の腰に廻させた。当然僕の体はぴったりあいつの背中と密着する。思ったよりもがっしりとした身体付きだ。僕の心臓はどくどくと高鳴った。
 あいつは慣れた手付きでスロットルを上げた。バウンと大きな音がして、オイルの焼ける臭いがする。行くぞ、と一言低い声で呟いて、彼はバイクを発進させた。
 初めての体験に僕はすっかり緊張して、それまでなんとなく遠慮がちにしがみついていた手に思わず力が入り、ギュッと強く彼の体にしがみついた。風がひゅーひゅー僕の側を通りすぎていく。自転車で突っ走るのとはスケールが違った。
 それでも、彼は大分僕のために気をつかってくれていたのだろう。スピードはかなりゆっくりめだったし、コーナリングも決して厳しく倒したりしないで、優しく扱っていた。
 奴の長めの髪が、僕のメットの上にさわさわとなびきかかる。僕はあいつの背中で、なんでこんなことしてるんだろうと不思議に思った。
 僕はどうして、黙ってこいつに連れていかれてるんだろう。何故嫌と言えないのか。なんでこんなに……僕は胸をときめかせているの? どうして?
 二十分ほど走って、そいつはあるマンションの駐車場にバイクを止めた。相変わらず無表情で無言のまま、独りで建物のなかに入っていく。僕は成すすべもなく後についていった。
 八階の部屋のひとつに僕たちは入った。そこは家族のためというよりは、どちらかというと独身者向けといった感じだった。小さな台所が付いた広めの部屋と、多分その隣にもう一つの部屋。あとはトイレと風呂だろう。僕は不躾かと思いつつも、ぐるりと部屋を見渡した。
 その部屋は、なんとなく使われていない感じがした。家具も電機製品も一通り揃ってる。だけどどこか住んでいる人の匂いが感じられない。長く空き家にされているような感じだ。
 もっとも、そのわりには埃っぽいところはないんだけど。
 僕が部屋の真ん中で不思議そうに眺めていると、あいつはジャンパーとバイクのキーをソファに放り出して、近寄ってきた。そして戸惑う僕の肩を抱き寄せて、唐突に首筋にキスしてきた。耳たぶに唇を押し当てられて、僕は全身が震えた。背中がぞくぞくするのは、決して嫌悪感からではなかった。
 僕は彼の体を遠慮がちに押し返して、かすれた声でささやいた。
「や……」
 あいつは少し怒ったような口調で言った。
「今更なんだ? その気で来たんだろ?」
 僕は一瞬口ごもった。なんと答えてよいのかわからない。確かに漠然と覚悟はしてきたけれど、それでもまだ十分僕はためらっていた。
 彼は眉をしかめて僕をにらんだ。その瞳に僕は釘付けになる。そうだ。この目がいけないんだ。僕から考える力も抵抗する意思も奪ってしまう。
 逃げるように目をそらして、言い訳がましくつぶやいた。
「あ、あの……シャ、シャワー……浴びたい。今日体育あったんだ。汗かいたから、汚れてて……」
 奴はちょっと苛立たしげな表情を浮かべたが、それでも一度体を退くと、顎で部屋の片隅を指し示し、愛想のない物言いでぼそりと言った。
「そっちに風呂がある。タオルとか、置いてあるから」
 僕はこれ幸いとばかりに彼から逃れて、そそくさとバスルームに飛び込んだ。言ったことは嘘じゃなかったけど、それは明らかに時間稼ぎだった。
 バスタブだけの小さなお風呂と、トイレが一緒になった狭苦しい一室で、僕は途方にくれていた。逃げることは出来ないし、逃げる気もない。彼の言うとおり、わかっててやってきたのだ。ただ僕は怖かった。このあとに待っていることが、彼とする行為が、ひたすら恐ろしかった。
 僕は、男の手でイカされたのは、正直言って彼が初めてなわけじゃない。中学の頃凄く憧れていた先輩がいて、その先輩もとても僕を可愛がってくれていて、その人と少しだけ危ない関係にあった。お互いに手でやりあったり、彼の……先輩のあそこを口で舐めたりしたこともあった。でも最後までやったことは一度もなかった。
 僕は結構本気で先輩を好きだったから、もし誘われていたら、許していたかもしれない。でも先輩のほうは明らかにそんな気はなくて、ただの遊びだと思ってたみたいだった。それにその時はまだ子供だったから、それでも十分満足していたのだ。
 でも今は、あいつとの行為がそんな戯れだけですむものじゃないってわかってる。僕はあいつと寝る。あいつにやられるんだ。それが……怖い。
 頭の中がぐちゃぐちゃになるほどためらいながら、それでも何も建設的なことなんて考えられなくって、結局僕はのたのたとシャワーを浴びて、あいつのいる部屋に戻った。
 彼は先程の部屋にはいなくて、その奥の寝室のベッドの上に座っていた。慣れた手付きで煙草を吸っている。その姿はすごく絵になっていた。
 僕は勝手に棚にあったバスローブでしっかり体を包んで、濡れた髪から水を滴らせて戸口に突っ立って彼を見ていた。奴が気づいて顔を向ける。例の無表情でしばらく見つめて、やがて言った。
「来いよ、こっちに」
 僕は素直にそこに行った。彼の傍におずおずと腰を下ろす。あいつは煙草を灰皿で消して、それをサイドテーブルに置くと、僕のほうに向き直った。
 骨張った手が伸びてきて、僕の頬に添えられた。ゆっくりと引き寄せられ、彼の唇と僕の唇が重なりあった。
 キス……。
 まさかこんなふうな優しい行為から始まるとは思わなかった。
 僕たちはまるで恋人同士のように、温かな口づけを交わした。柔らかな感触。彼の手が僕の濡れた髪の中にもぐり込んでくる。もう片方のが肩に周り、体を引き寄せられ抱きしめられた。
 触れ合うだけだったそこが段々と熱を帯びてきて、その内僕の唇を割って彼の舌が入り込んできた。僕は彼の舌先を自分の舌に感じて、ぴくんと体を振るわせた。
 とろけそうなほど甘くて熱い。砂糖菓子みたいだ。おまけにお酒でも入っているかのように、僕はすっかりその感触に酔わされた。
 胸がドキドキ鳴っていた。何の音もない静かなその部屋で、まるであいつに聞こえてしまうのではないかと思うくらい、強く激しく高鳴ってる。
 体の芯がどんどん熱くなってくる。恥ずかしいけど、あそこまでもが敏感に反応していた。
「ん……ふ、んん」
 僕は堪えきれずに鼻声を漏らした。どうしようもなく興奮しきっていた。これでは隠すことも叶わない。思わず僕は手を彼の背中に廻し、ぎゅっとしがみついた。
 あいつは応えるようにいっそう僕を強く抱きしめ、そしてゆっくりとベッドに押し倒した。
 そして唇を這わせて頬を優しく愛撫すると、そのまま首筋に移して、耳の下の一番柔らかな部分をついばんだ。全身がぞくぞくする。こんなの初めてだ。つーんと耳なりのような切ない感覚が身のうちに走り、目頭がじわっと熱く濡れた。
(やだ、どうして……なんでこんなに感じるんだよ? だめだ、声でちゃう)
 僕は人指し指の関節をくわえて、必死に声を押し殺した。恥ずかしくてたまらなかった。だって、まだほんのちょっとしかされてないのに、もう僕はドロドロに溶けていて、呆れるほど感じまくっていたんだもの。
 あいつはそんな僕をどう思っているのか、何も言わずにひたすら優しい愛撫を続けていた。首をはい廻っていた唇がゆっくりと動いて、僕の胸に降りてきた。乳首を舌先で舐められた時、僕はもう我慢が出来なくて、あさましく声をあげた。
「あん!」
 体が大きくのけ反る。知らなかった。胸ってこんなに感じるんだ。こんなのまるで女の子みたいだ。
 一瞬彼の唇が離れ、そしてすぐに吸いついてきた。強く舌先で転がされて、僕は情けなく頭を左右に振って乱れた。
「いや。やだ、そこやだ。やめてよ……」
 あいつは訝しげな口調で文句を言った。
「なんで? 感じるんだろ?」
「だから……。やだ、感じすぎ……。僕、変だ」
 彼は呆れたように返事もせず、また執拗に胸への愛撫を始めた。僕は強く唇を噛みしめた。本当にどうにかなってしまいそうだった。あそこに対する直接的な刺激と違って、それは体の奥で燃え上がるような快感だった。そのくせどこにも爆発できなくて、胸のなかにどんどん溜まっていく。苦しくて切なくて、もどかしい。目が熱くなって、雫が頬を伝って落ちた。
 むせるような嗚咽がこみ上げてくる。僕が必死に押し隠していると、あいつは気づいて驚いたように尋ねてきた。
「……なんで、泣いてんだ?」
 僕は掌で目を隠して、かすれた声で答えた。
「なんでもないよ」
「なんでもなくて、泣くのかよ?」
「だって! ……自分でもわかんないよ。わかんない……。涙出るんだもん」
 彼はちょっと困ったように眉をしかめた。
「そんなに……やなのかよ?」
 僕は返答に困った。感じすぎて泣いたなんて、とても口になんかだせない。胸を舐められただけで泣くほど感じる奴なんて、女の子にだってきっとそうはいないよ。
 僕はギュッと目を閉じ、両手で顔を覆った。
「いいから続けろよ。やりたいんだろ? 早く終わらせろよ」
 あいつはしばしためらっていたようだったが、それでもまた始めてきた。乳首を舐めながら、下に手を伸ばしてくる。ごつごつした手があそこに触れた時、僕の体は待っていたとばかりに喜んで震えた。何度かしごかれると、もうとても我慢できなくて、僕は声をあげまくった。
「あ、ああ! いやっ、あっ、はあっ」
 まるでずっと前に悟と隠れてみたポルノビデオの女優みたいだ。自分でも信じられないほど淫らであさましい。羞恥と自己嫌悪で一杯になりながら、それでも自分が抑えられなかった。
 もうヤバイっていう時に、あいつは手を離して、僕のですっかりぬるぬるになった指を後ろの部分にあててきた。僕は思わず拒絶した。
「や! やだ!」
 だが彼は怒ったように言った。
「少し慣らさなきゃ入んねえよ。痛い思いしたくないだろ?」
「だって……」
「いいから力抜け」
 あいつは容赦無く止めようとはしなかった。後で考えると、それは彼なりの優しさだったのだろう。だがその時の僕は、ただもう恐怖と不安でいっぱいだった。
 あいつの指が進入してくる。初めて味わうその感覚に、僕は唇を噛みしめ、彼の背中にしがみついた。
「くぅ……」
 噛みしめた歯の間から声が漏れる。苦痛とも快感ともつかぬ感覚。確かに痛いけど、でもそれだけじゃない何かがあった。
 あいつはしばらく黙っていたが、そのうち僕の中でゆっくりと指を動かしはじめた。同時に乳首も責められて、僕の頭はパニックになるくらい未知の刺激に狂わされた。気持ちがいいのか悪いのかわからないまま、僕は激しく喘いだ。
「あ、ああ、うんっ、いやっ、はああっ」
 もう僕には、自分がどちらに反応しているんだかわからなかった。胸への愛撫のせいか、それとも後ろに感じているのか、すべてがごちゃ混ぜになって襲ってくる。僕は自分がどうにかなってしまいそうで恐ろしかった。この理解できない状態に早く決着をつけたくて、喘ぎながら嘆願した。
「や、も、もうやだ。やるなら、やれよ。早く! 入れてよ! ねえ!」
 まさか自分からせがむことになるとは思ってもいなかったけど、でもその時の僕は、もう限界だった。
 あいつは請われるままに指を引き抜くと、僕の体をうつ伏せにした。そして腰を持ち上げて、あそこに自分のものを押し当ててきた。
 ゆっくりと、彼が押し入ってきた。当然だけど、それは指なんかと比べ物にならないほど大きくて、さっきかなり広げられたにもかかわらず強く痛んだ。体が裂けてしまいそうな気がして、僕は思わず上にずりあがった。
 それを奴の手ががっちりと掴んでとどめる。少しづつ、でも確実に深く進入してくる。僕は情けなく悲鳴をあげた。
「い、痛い! 痛いよ、やめて」
「ちょっと我慢しろ」
 ぶっきらぼうにあいつが応えた。それでも少し動くのを止めて、しばらくじっとしていてくれた。僕の緊張を解きほぐすかのように、顔を寄せて耳たぶを軽く噛んでくれた。甘く息を吹きかけられて、僕は少しだけほっとする。すっと力が抜けてあそこが緩むと、あいつのものが少しだけまた深く入ってきた。
 また彼が首筋に口づけする。僕はそれだけで感じてしまう。体が反応し、そしてあいつが押し進む。
 そんな繰り返しで、いつしか僕の中があいつでいっぱいになっていた。
 それは何とも言えない感覚だった。自分の中に他人を受け入れてる。僕たちはひとつにつながってる。とても不思議。
 彼は少しの間味わうように黙っていて、そしてやがてゆっくりと動きはじめた。薄れかけていたそこに、また強い痛みが走る。僕は必死に唇を噛んで、声を押し殺した。不思議なものだ。感じる声は我慢できないけど、痛みは隠せた。なんで隠そうと思ったのかは、自分でもわからないけれど。
 彼が強く押しつけてくるたびに、喉の奥からぐっぐっとくぐもった声が漏れた。涙が滲んでくる。さすがにそれは快楽のものではなく、純粋に痛みのせいだった。
 あいつがそれに気づいて、そっと掌で頬をぬぐった。耳元で驚くほど優しくささやいた。
「痛いか?」
 僕は無言のまま首を振った。もちろん嘘で、彼もそれを察して、申し訳なさそうに言った。
「もう少しだから。我慢しろ」
 そして僕の頬に唇を寄せて、優しくキスした。そんな何気ない仕種に僕は戸惑う。こいつは、いったいどれが本当のこいつなんだろう。淡々と無表情にHをしかけてきたこいつが本物なのか、それとも、恋人みたいに扱ってくれる奴が本当なのか、僕にはわからなかった。
 彼の手が、ずっと見放されていた僕のものに伸びてきた。すっかり縮こまっていたそれを、優しく愛撫してくれる。それはすぐに反応して、快感をもたらした。
「ん……あ」
 僕が微かに喘ぐと、奴はずっとそれを続けてくれた。自分もゆっくりと動きながら、巧みに僕も感じさせてくれる。その内、僕の中で、またあの訳の判らない感覚が生まれ始めた。
 苦痛と快感、恐怖と喜びが一緒くたに襲ってくる。痛いだけだった後ろに奇妙ななにかが沸いてきて、それは前も感じさせて、彼の指が僕を淫らに狂わせて、それがまた後ろの部分をも燃え上がらせる。痛みを耐えていたはずなのに、それはいつしか嬌声を押し殺す行為に代わっていて、それでも隠しきれずに僕は喘いだ。
「う、あ、あっあっ、ん……は、やだ、ああ!」
 もうなにも考えられなかった。僕の頭の中は真っ白だった。彼が僕の中でいったのと、僕があいつの手に爆発したのと、どちらが先だったのだろう。とにかく、僕は自分の体内に熱い何かを感じて、そして気が遠くなった。こんなに激しく感じたのは、生まれて初めてのことだった。


 気絶していたわけじゃないだろうけど、僕はあいつが耳元で「大丈夫か?」とささやく声を、どこか遠い部分で朦朧として聞いていた。
 初めてのセックスは、信じられないくらい激しいものだった。心も体もぐったりと疲れてしまって、自己嫌悪すら感じるゆとりはなく、ひたすら気だるさだけを味わっていた。
 あいつがベッドから降りて、向こうの部屋に歩いていく。やがて小さく水の音が聞こえてきた。シャワーでも浴びてるんだろう。しばらくしてタオルで髪を拭きながら戻ってきて、ぶっきらぼうに言った。
「おまえも浴びてくれば。ぐしょぐしょだぜ」
 確かに、奴の言うとおり、全身と汗と自分の流したもので汚れきっていた。僕は重たい体を起こして、先程使ったバスルームへと向かった。
 鏡の中の自分が目に入った。僕は思わず耳まで赤くなって、慌てて目をそらした。たった今変わってしまった自分が、何か凄くいけないもののような気がして、とてもじゃないけど見ていられなかった。
 シャワーを浴びると、あそこにお湯がしみて痛かった。無理もない。だって、あんな大きなものを入れてしまったんだもの。傷ついて当たり前なのだ。
 でも、僕は確かに感じていた。初めてで痛かったけど、それだけじゃなかった。僕がイッたのは、前を刺激されたせいだけじゃない。間違いなく、つながった部分にも快感を感じていたのだ。
 僕は大きく溜め息をついてそこを出た。
 寝室に戻ると、あいつはベッドの脇に立って、じっと手にした何かを見つめていた。それが僕の学生証だとわかって、僕はひったくるように取り上げた。
「なに、勝手に見てんだよ、バカ野郎」
 僕がにらみつけてもあいつは少しも悪びれた様子はなく、にこりともせずに訊ねてきた。
「相原……なんて読むの? 下の名前」
 僕はしばしためらったが、小さく呟いた。
「夕日だよ。ゆうひ」
「なんだ、そのままか」
 あいつはつまらなそうにそう言った。それっきり、僕たちの間の会話は途絶えた。あいつは何も喋らなかったし、僕も一言も話さなかった。
 僕がさっさと服を着て身支度を整えると、先に着替え終わっていたあいつは、ぽつりと口を開いた。
「送ってく」
 いらない……と、言ってやりたかった。だけどちっぽけなプライドは、僕の心にあっさりと負けて引き下がった。憎らしくてしょうがないのに、まだこの男と離れたくないという、どうしようもないバカな気持ちに。
 あいつは先ほど待ち合わせた駅に僕を送っていって、自分はそのままバイクを降りようとしなかった。僕がメットを脱いで渡すと、無言のまま受け取った。何も話そうとしない。相変わらずの無表情で、何を考えているのかもわかりはしない。
 僕もまた、何も言えないまま背中を向けて歩きはじめた。何が言えるだろう? また遇える? また抱いてくれるって、こいつに聞くのか? どうして……そんなこと考えるんだ? 何故これっきりだってことが、こんなに辛いんだろう。
 理解できない感情に心乱れて歩いていると、数メートルも進んだところで、突然あいつが声を駆けて引き止めた。
「夕日」
 僕はドクンと心臓が鳴った。初めてあいつに名前を呼ばれて、全身が硬直した。それは呪縛だ。僕を捕らえる魔法の声だ。僕はもう逃げられない。
 ゆっくりと振り向くと、あいつは低い声で言った。
「来週、火曜の五時に、またあそこにいるから」
 あいつはそれだけ言うと、僕の返事を待たずに、独りバイクを発進させて行ってしまった。残された僕は、バカみたいにぼんやりと突っ立って、あいつが行ってしまった方向をいつまでも見ていた。
 僕は結局、あいつの名を知らないままだった。僕は何も知らなくて、でもあいつだけは僕のすべてを奪って、消えてしまった。自分勝手に。
 僕は長い間、ずっとそこに立っていた。

 
     
                                            ≪続く≫
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