声を聞かせて

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1 危ない手                       
 
 その日も電車はとても混んでいた。
 通学・通勤時間帯のこの時間は、いつもぎゅうぎゅう詰めのラッシュ状態で、身動きひとつできなくなる。大分慣れたとはいえ、僕は毎朝げっそりしていた。
 僕、相原夕日(あいはら ゆうひ)は、この春めでたく高校に合格し、晴れて新一年生となった。高校は私立の男子校だ。勉強もスポーツもまあまあといった、レベルとしては並の学校だ。でも校風がとても自由で、それに男子校だから苦手な女の子に気をつかう必要もなくて、僕は結構気に入っていた。
 ただ毎朝味わうこの混雑だけは、さすがに閉口していた。というのも、ただのラッシュだけではなく、別の厄介ごとが付随していたからだ。
 案の定、乗り込んで駅を三つも過ぎたころ、僕は下半身にいつもの何かを感じて、いっそう不快な気分になった。
(またか……)
 それはいわゆる痴漢という奴だった。
 4月に高校に入学してこの電車を使うようになってから、僕はしょっちゅうターゲットになっていた。痴漢なんて女だけが遇うものだと思っていたのが大間違い。男も結構被害に遇うのだ。特に僕は小柄で、顔つきもどちらかというと女顔なので、格好の餌食といったところらしくて、ここのところ連日のようにやられていた。
 仕掛けてくるのはだいたいは中年のオジサンだ。たまーに女も触ってくる。でも大抵は男なので、その日も僕は脂ぎったオヤジの顔を思い浮かべて、下半身に触れている手の、伸びている方向に目を向けた。にらみつけておいて鞄で叩き落とすってのが、いつもの撃退パターンだった。
 だが僕はびっくりしてしまった。だってそこにいたのは、僕とそう変わらない年頃の高校生で、しかも自分が被害者になっても不思議じゃないくらいの、すごくかっこいい男の子だったのだ。
 ちょっときつい目をした、気の強そうな顔つき。無造作に切りそろえられた長めの髪。つんと尖った鼻。なにもかもが、もろ僕の好みだ。なもんで、撃退どころか思わずぼーっと見とれてしまって、そいつと目があっても、背けることも、もちろんにらみつけることもできなかった。
 そいつは僕が無抵抗なのをいいことに、前に触れてるだけだった手を、大胆に動かしてきた。ズボンの上からあそこを探り当てて、きゅっと握った。僕は思わず顔を歪めた。
 身体中に電気が走るような快感が駆け抜けた。こんなことは初めてだ。いつもなら絶対感じるなんて事はない。身も知らぬ他人に触られたって嫌なだけで、快感どころか吐き気すらする事があるくらいだ。
 なのに、どうして今日はこんなに反応してしまうんだろう。僕は自分自身をいぶかしみながら、そいつの顔をちらりと伺い見た。そいつは綺麗に整った顔に何の表情も浮かべず、ただじっと僕を見つめていた。
 凄い目をしていた。黙って従わずにはおられないような、鋭い眼差し。心の底まで見透かされそうで、僕は怖くて目をつぶった。
 その内、そいつは器用に指だけ蠢かして刺激してきた。握られただけで半分硬くなってたものが、巧みな動きにむくむくっと大きくなってくる。やがて周りに悟られぬようゆっくりと上下に動きはじめた頃には、僕はすっかり感じきっていて、漏れそうになる声を押し殺すのに必死だった。
(うあ、感じる。やばい……いっちゃいそう……)
 状況がスリリングだったせいか、自分でもびっくりするぐらい感じてしまって、僕のあれはそいつの手の中で、爆発したくてピクピクしていた。さすがにこんなとこじゃイクわけにはいかない。だって絶対声でちゃうもん。
 僕はぎゅっと閉じていた目を開けて、すがるようにそいつを見た。そいつは相変わらず全くの無表情で、だけど瞳だけは鋭く、じっと僕を凝視していた。
 僕は声に出すわけにもいかず、祈るような気持ちで目で訴えた。
(もうやめてよ。いっちゃう。ここじゃやばいよ)
 すると不思議なことに、それがそっくり通じたように、そいつは僕から手を引っ込めた。僕はほっとすると同時に、まだジンジン疼いてるあそこを、苦痛に近い感覚で持て余した。どうやら開放されて喜んでいるのは、僕の気持ちだけみたいだ。体の方は中途半端に放り出されて、どうしようもなく不快がってる。
 僕はこんな風に感じてる自分がすごく悔しくて、ぎゅっと唇を噛みしめた。
 ちろりと視線だけ痴漢野郎に向けると、そいつは何事もなかったかのように平然とそっぽをむいていた。僕はいっそう腹立たしくなった。
 電車がスピードを緩めて駅に着く。と、そいつは不意に僕の手を握り、強引に引っ張って電車から降ろしてしまった。そして呆気に取られている僕の手を引いて、構内の一番奥まったところにある男子トイレに連れていき、個室のひとつに引きずり込んだ。
 突然のことにすっかりパニックになって、抗うこともできずについてきてしまった僕は、そこまで来てようやく声を上げた。
「な、なんでこんな……」
「し! 静かにしろ」
 そいつは声をひそめて呟くと、僕を壁に押しつけて、すかさずあそこに手を伸ばしてきた。そこは先程の余韻がまだたっぷりと残っていて、ほんの少しの刺激でもすぐに反応してしまう。 僕は思わず小さくうめいた。
「あん……」
 そいつはきつい目で僕をにらむと、黙れというようにもう片方の手で僕の口をふさいだ。
 場所柄それほど人の出入りはないとはいえ、まったく誰もこない訳ではない。実際、そうしているうちに誰かが入ってきて、息を押し殺している僕たちに気づかず、用を足して又出ていった。
 僕はどうしてだか助けを求めることもしないで、一緒になって息をひそめていた。なぜだろう。逃げるには絶好のチャンスだったのに。
 僕はちらりと僕を押さえつけている奴を伺い見た。触れるほど間近にそいつの顔がある。なぜだか胸がドキンとしびれた。
 また誰もいなくなったのを察すると、そいつは僕のズボンのファスナーを開けて手をもぐり込ませてきた。下着も押し退けて直に触れてくる。そいつの指は本当に上手だった。一度萎えていたそれは、すぐにまた硬くなった。
 すっかりきゅうくつになったものを無理矢理引っ張りだすと、今度は巧みに上下にしごきだした。最初はゆっくりと、そして時々速く激しく蠢かす。柔らかくさすっていたかと思うと、急に乱暴に握りしめて、痛いほど激しくしごいたりする。その悔しいほど手慣れたテクニックに、僕は頭の中が真っ白になるほど感じた。
 漏れそうになる声を堪えて、口に当てられたそいつの指を強くくわえた。
(ん……ん、ああ、すごい、こいつ上手い……。どうしよう)
 僕のあそこから透明なものがとろとろと流れだす。そいつの手がすっかり濡れぼそって、ぬるぬるした感触に、よりいっそう気持ち良くなっちまう。僕はもう立っているのがやっとで、そいつの肩に腕を絡ませ、しがみついた。
 耳元に唇を寄せて、かすれた声でささやいた。
「だめ、イキ……そう」
 そいつは声をひそめて応えた。
「いいよ。いけよ」
「ふ……あ、ううんっ!」
 さすがにその瞬間だけは我慢しきれなくて、僕は小さくうめき声を上げてイった。
 ドクドクと白い液体が溢れだす。そいつの手の中いっぱいに。僕はふっと一瞬意識が途切れて、そいつの体にすがりついた。そいつは暫くの間、僕の体を抱き留めてくれていた。
 ほんの少しの間だけの、穏やかな静寂があった。駅のトイレのなかは、僕の荒い息の音だけが響いていた。
 そこに誰かがやって来る。僕は息をひそめる。あいつも身動きひとつせずにじっとしている。僕はあいつの胸の中に抱かれながら、不思議な気持ちになった。
 何だろう、この妙な親近感は。奇妙な共犯者意識がある。秘密を共有したもの同士の、おかしな安らぎを感じてしまう。こんなの変だ。だって、僕は痴漢にあってやられちゃっただけなのに。こんなの、僕の意思じゃない。僕が望んだわけじゃ……ないよ。絶対に……。
 やがて僕がどうにか自分で立てるようになると、そいつは僕の耳に口を寄せ、ひそやかにささやいた。
「今日の放課後、五時に、俺ここに来るから。おまえも来いよ」
 まるで脅迫のようにそいつは言った。そして僕を残して、独りでさっさと出ていってしまった。
 僕はいまだ茫然としたまま、そいつの後ろ姿を見送っていた。体が小さく震えていた。きっと言われたとおりここに来てしまう、あいつに会いに来てしまうと、恐ろしい予感に不安と期待を抱きながら。


 ホームルームには遅刻したが、それでも何とか授業には間に合って、僕は精神的にも肉体的にも倦怠感を感じながら、ぼんやりと教師の話を上の空に聞いていた。
 頭の中から先程のことが離れなかった。考えたくもないのに、あいつの顔ばかりが浮かんできた。
 きつい瞳。きりっと結んだ形良い唇。つんと尖った鼻。
 ああもう! あんなに僕好みの顔さえしてなきゃ、すぐに追っ払って、あんなことにはならなかったのに。もっと不細工な顔してりゃよかったんだ。
 僕は半ば八つ当たりに近い憤りをあいつに向けた。それぐらい、簡単にあいつに翻弄されてしまった自分が腹立たしかった。
 一時間目が終わっても未だぼうっとしている僕のもとに、親友の悟(さとる)がやって来た。
 悟は僕の遠い親戚だ。住んでるところは少し離れていたけど、季節の休みの度に僕たちは互いの家に行き来して、よく遊んだものだった。幼いころから僕たちはとても仲が良かった。すごく気が合う友達だった。この学校だって、二人で相談して決めたようなものだ。
 悟は訝しげに尋ねてきた。
「珍しいな、夕日が遅刻なんて。なんかあったのか? なんだかぼうっとしてるぜ」
 悟は妙に鋭いところがある。僕は焦って否定した。
「な、なにもないよ。ちょっと寝坊しちゃったんだ。昨日夜更かししたからさ」
 小さな嘘に心が痛んだ。でもいくら悟にだって、さすがに本当のことは言えない。まさか電車で痴漢にあって、しかもそれが男で、おまけにしっかり最後までイカされちゃったなんて。
 僕の嘘を素直に信じたのか、悟はそれ以上追求せず、いつもの明るい笑顔を向けて話した。
「なあ、英訳、やってきたか? 俺、今日あたりそうなんだよなぁ。やばいなぁ」
 そう言ってちらりと僕を伺い見る。僕は肩をすくめてみせた。
「また人のあてにしてるだろ。甘えてるよ、悟」
「そう言うなって。俺、英語苦手なんだよ。な、見せて。放課後ハンバーガー奢るからさ」
 放課後という言葉を聞いて、僕はドキンと胸が鳴った。
 放課後はあそこに……、そう考えて慌てて否定した。行くことなんかない。行っちゃいけない。そんなことしたら、きっととんでもないことになる……。
「マックシェイクもつけてくれたら、考えてもいいよ」
 僕がそう言うと、悟は大袈裟に眉をしかめた。
「おまえねえ、こづかい前のこの時期に、そんなきつい注文つけんなよなぁ」
「んじゃいいよ。別の奴に見せてもらえば」
「あ、夕日ぃ。もう、わかったって。何でも付けるから見せてくれよ」
 悟の情けない顔を見ながら、僕は無理矢理あいつのことを頭から消そうとした。あいつの顔も、あいつの目も、あいつが言ったことも、なにもかも忘れようとした。でもそれは、なかなか消えていってはくれなかった。
 結局、僕はその日一日、ずっとあいつのことをひきずっていた。悟やクラスメートとバカ話をしてる時だって、片時も頭からはなれなかった。
 そうしてとうとう放課後になった。
 僕は揺れ惑ってる自分の心に当惑して、鞄に手を掛けたまま、自分の席で立ち尽くしていた。
 悩む理由なんて全然無いのに、なんでこんなに苦しいんだ? あんな所へなんて、絶対行っちゃいけない。そんなのわかってる。なのに悩んでる僕がいる。どうして?
 そんな所に悟がやって来て、無邪気な笑顔を向けて言った。
「なあ、夕日、どこで待ち合わせる? それとも学校で待ってるか?」
 悟は陸上部だから、部活があってすぐには帰れない。だから僕たちが一緒に遊びに出掛ける時は、帰宅部の僕はたいていどこかで時間をつぶして、彼の部活が終わるのを待っていた。
 僕はひきつった笑みを返しながら、かすれた声で応えた。
「うん、えーと……、じゃ図書館にいる。宿題の数学やってっから」
「お、ラッキー。じゃ出来たら見せてな」
「なに虫のいいこと言ってんだよ、バーカ」
 悟はハハッと朗らかに笑って、あとでな、と言って教室を出ていった。僕は悟の足音を背中に聞きながら、ひどく葛藤していた。たった今親友と約束したのに、それに戸惑って困っていた。自分のなかにもう一人の僕がいて、それが激しく僕を付き動かす。あいつに会いに行けと誘惑する。そして……僕はそれに負けた。
 僕は鞄を掴むと、教室から駆けだした。玄関を出ようとしてる悟を寸でのところで捕まえて、乱れた息のまま言った。
「ごめん、悟。今日だめなんだ。用事思い出した。また今度な。ごめん」
 それだけ伝えて、奴に何もいい返す間も与えずに、僕は学校から飛びだした。そして一直線に駅に向かって走っていった。

 
     
                                            ≪続く≫
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