最初で最後の透明なキス |
俺は曇りガラスがはめられた白いドアを押して、中へと入った。入るとすぐに受け付けがあって、そこにいる一人だけの女子職員が患者の訪れかと視線を向ける。そして現れたのが俺だと知り、嬉しそうな、少しだけ媚びを秘めた笑みを浮かべた。 「あら、こんにちは、高城さん。久しぶりね」 俺は愛想良く笑って応えた。 「どうも、キミちゃん。相変わらず美人だね。彼氏できた?」 「やだぁ、高城さんったら。来るなりそれなんだから。セクハラで訴えるわよ」 口ではそう文句をつぶやきながらも、瞳は賛辞を受けて無邪気に喜んでいる。もちろん俺の言葉がお愛想混じりの社交辞令だということはわかってはいるだろうが、容姿を誉められて喜ばない女はいない。ましてや、俺を狙っている適齢期の独身女性ならば尚のことだ。 彼女はこれ以上はないというほどのニコニコ顔をし、ご機嫌な様子で尋ねてきた。 「なに、高城さん、また新しいお薬の売りこみに来たわけ?」 「そーだよ。それが俺のお仕事だからね。残念ながらキミちゃんに会いに来たんじゃないんだよなぁ。俺もそれほど暇じゃなくってさ」 「あら、失礼ねぇ。もう」 プンと薄ピンクに彩られた唇を尖らせる。女は甘い言葉をかけられては喜び、つんと突き放されてはすねてみせた。それでも、そんな会話の駈引きに、女心は単純に酔いしれる。俺はすっかりいい気持ちになっている彼女を、にこやかな表の顔とは裏腹に、冷たい気持ちで眺めていた。 俺がこの小さな病院の担当になって、三ヶ月が過ぎようとしていた。 俺は薬の卸しをしている会社に勤めている。ごく小さな会社で、もっぱら個人経営の町病院相手に注文された薬品を卸しているのだが、俺はセールス担当なので、こうして病院や薬局をまわっては新製品の売込みやら、新規の卸しの注文やらを取って歩くのを仕事としていた。 それは、独自で新薬を開発し、それを売りこんで大病院相手に驚くような金額の取引をする、そんな胸踊るような緊張感溢れた職とは、まるっきり違っていた。今の俺が心を配ってるのは、町医者や看護婦、果てはその家族にいたるまでのご機嫌うかがいだ。医者のゴルフの送迎だの、どこどこの婦長の誕生日プレゼントだの、奥様の趣味のお付き合いだの、至極日常的で、かつプライベートな部分にまで立ち入ってのお付き合いを必要とされる。そうして、なんとか他の卸会社よりもひとつでも多く注文を取る為に、日々くだらない努力をするのだ。それはなんとも気苦労が多くて、そのくせなまぬるい湯にいつまでも浸かっているような、中途半端な日々であった。 俺は先日パチンコで手に入れたチョコレートを、受け付けの彼女に手土産として渡しながら尋ねた。 「ところで、院長、今忙しいのかな?」 俺がそう尋ねると、彼女はちょっと意地悪く肩をすくめて微笑した。 「あら、残念ねぇ。実は院長先生、一週間前からお休みとってるのよ。家族でハワイ旅行ですって」 「え、いないの? なんだ、無駄足だったか」 俺は舌打ちして、唇をまげてみせた。 「なに、じゃあ今日はバイト入ってるの?」 このような個人の小さな病院では、主である医者が不在の時には、他所から別の医者がアルバイト代わりにやってくることが時々ある。たいていは、なにがしかの繋がりのあるもう少し大きな病院から、手の空いている医者が派遣されてくるのであるが。 「うん、それがねぇ……」 彼女は意味ありげにクスクスと笑った。 「実は二週間くらい前から、新しい先生が来てるのよ。それがさ、お嬢さんの婚約者なんですって。院長先生ったら後継ぎができたってもう喜んじゃって」 「へええ、とうとう結婚するんだ、院長の娘さん。そりゃめでたいな」 高齢になってからの一人娘を院長が溺愛しているのは知っていた。その為、病院の後継ぎを兼ねた娘の結婚相手の医者を探して、東奔西走していたことも。院長は俺にも多少の目は向けていたらしいが、残念ながら医者ではないと言うことであっさりと範疇から外したらしい。もっとも、あてにされても困るので、その割り切り方には助かったのだが。 「それがさぁ、その新しい先生が、もうすっごくすっごくカッコイイの。お嬢さんの婚約者じゃなかったら、もう絶対渡さないって言うくらい。いいなあ、お嬢さん。あんな素敵な人と結婚できるなんて」 彼女の瞳が嫉妬と羨望でキラキラと輝いている。俺は内心嘲りながらも、すねたような声で残念そうに泣きごとを言ってみせた。 「なんだよ、その男、俺よりかっこいいわけ? 傷ついちゃうなぁ、俺。キミちゃんにふられちゃって」 「えーっ、だってぇ……」 彼女はちょっと申し訳なさそうに笑った。 「そりゃ高城さんだって素敵だけどー、ちょっと女ったらしっぽいものねぇ。本気になったら泣かされそうだもん。その点、あの先生は優しくて誠実そうだしぃ」 「ふうん、ハンサムで優しくて誠実な医者ねぇ。どれどれ? ちょっと挨拶兼ねて拝んでこようかな?」 ちょうどその時おりも良く、患者が診察を終わって診療室から出てきたところだった。俺は狭間のタイミングを逃さず、馴染みの看護婦に会釈をして中へと足を踏み入れた。 診療室の手前には小さくカーテンにしきられた場所があり、その向こうにいつもは院長がでんとかまえているどでかいデスクと椅子がある。俺は遠慮なく奥へと進んで、カーテンを押しのけ、初めて会う後継ぎ候補という医者に声をかけた。 「あ、どうも。金内薬商の高城といいますが、院長にはいつもお世話になってます」 そう挨拶をして愛想良く笑いかけた。すると、それまでカルテに何やら書きこんでいたくだんの医者は、顔を上げて俺のほうに視線を向けた。 「……!」 お互いがお互いとも、ハッと息を飲む音が聞こえた。 目の前に現れたのは、忘れようとしても忘れられない相手だったからだ。 「……秋生(あきお)」 俺は愕然としてつぶやいた。そして奴もまた、強張った顔をして、言葉もなく俺を凝視した。 やがてその形良い唇が、震えながら俺の名を呼ぶ。あの胸が痛くなるほどに焦がれた声で。 「一臣(かずおみ)……」 その声を耳にした途端、俺は心の中に真っ黒な闇が沸きあがるのを感じた。それは愛情と同じだけの大きさの、憎しみという感情だった。 早河秋生(はやかわ あきお)。俺がこの男に会ったのは、もう五年も前のことだった。当時俺はちょっとは名の知れた製薬会社に勤めており、ある大学病院に営業で出向いた時に、そこでインターンとして働いていたこいつを初めて見つけたのだ。 その時の衝撃は今でも忘れない。目にした途端、それっきり離せなくなった。奴の笑顔、喋る声、しぐさ、すべてに心を奪われ、俺はいっぺんで虜になった。しかし最初はもちろん、そんな感情はひた隠しにしていた。まさかあいつも男を愛する人種だとは思ってもいなかったからだ。 それが、ある時男の集まるクルージングスペースで偶然にもでくわし、そして俺たちは急速に接近した。体の関係になるのなんて、これっぱかしの時間も必要なかった。俺たちは飢えた子供ががっつくように、お互いを貪りあった。 それは、愛と呼ぶにはあまりにも激しい関係だったのかもしれない。時間の許す限り一緒にいて、一緒にいる間は狂ったように抱きあった。特に俺は、一瞬たりともあいつを離すのをいやがり、支配し、独占した。まるで関係ない男と話しているのにも腹を立てた。病院で看護婦と喋っている姿にさえ嫉妬した。どうしようもなかった。俺は異常なほどあいつを愛し、そしてありあまる愛を屈折した形に変えてあいつに与えた。 俺は俺の頭に、腕に、全身に、あいつの味を覚えている。俺の愛に、悶え、うめき、泣きじゃくって喘いでいた姿を覚えている。苦痛と快感に何度も気を失い、激しい愛撫に目を覚ましてはまた狂っていたあいつを知っている。それは天国と地獄が一緒になったような日々であった。 そして……1年も過ぎた頃、あいつはふいに姿を消した。 あいつは俺の前からいなくなった。 奴は、俺から逃げたのだ。俺の愛を裏切り、俺を置き去りにして、独り地獄から抜け出して行ったのだ。 それから俺は、誰かを愛した記憶がない。男など星の数ほど相手にしたが、その誰一人しとして顔も名前も覚えちゃいない。俺が覚えているのはこいつだけ。俺が生涯忘れないだろうと確信していたのは、今目の前にいるこの男だけだった。 秋生はしばらく茫然として俺を見つめていた。が、あとから入ってきた看護婦に気がついて、慌てて笑顔をとりつくろって言った。 「あ、すみません。ちょっとこの方とお話がありますので、次の患者さんには少しだけ待っていただいてください」 もちろん看護婦は俺のことを知っているので、すぐに納得して待合室の方に消えていった。また二人きりになった俺たちは、言葉もなく気まずく見つめあっていた。 あいつが美しい顔を強張らせて俺を見ている。そんな姿を見ていると、なんとも残酷な苦い思いにとらわれずにはいられなかった。俺は唇にシニカルな笑みを浮かべて話しかけた。 「まさか、後継ぎ候補の婚約者がおまえだとは思わなかったぜ。元気だったか、秋生?」 奴は俺の問いには応えず、きゅっと強く唇を結んで顔を伏せた。しばらくの間沈黙していたが、ややがて震える声でつぶやいた。 「僕だって……まさか、こんな所で君に会うとは……思わなかった」 それは運命の残酷な偶然に、心より恨みがましく思っているような口ぶりであった。それほど俺に会いたくなかったと言うことか。 「H大出の将来を嘱望されていた優秀なる外科医が、こんなしけた町病院でいったいなにをやってるんだ?」 俺が嫌味たっぷりにそう聞くと、あいつは吐き捨てるように応えて返した。 「それを言うなら君のほうじゃないのか? 大手製薬会社のバリバリのやり手プロパーだった君が、こんな所で卸しのセールスをしてるなんて、いったいどういういきさつなんだ?」 それは、真面目に俺の人生を尋ねるというよりは、思いっきり嫌味のつもりだったのだろう。だが俺は、言葉のままに俺の転落人生を話して聞かせた。 「一年くらい前に、R病院で裏取引事件があったのを知ってるか? 結構でかいニュースになったんだが」 あいつは顔を上げて俺を見た。形良い眉をひそめて切れ長の瞳で見つめてくる。昔、何度も何度もお互いを見つめあったその瞳で。 俺は苦く熱い思いを胸に抱きながら話を続けた。 「認可前の新薬をこっそり使ってもらう代わりに、担当医師にごっそり袖の下を差し上げる。まあ、この業界、そう珍しいことじゃないよな。だけど見つかってしまったら大事だ。あの時のあの事件で、直接動いていたのが俺の直属の上司だったのさ。でもって、連鎖反応で俺も辞めさせられた。たとえ上司の命令とはいえ、俺も何度も実際に金を運んだからな。最後のお情けが、免職ではなく辞職扱いだったってことかな? それから流れ流れて、今はしがない卸しのセールスマンというわけだ。素敵な人生だろうが」 秋生は驚きと同情が一緒くたになったような顔をして、じっと俺を見つめた。そんな彼を見ていると、なんとも言えぬ黒い感情が湧き上がってきた。憎しみと、怒りと、そして……狂うほどの愛が。 俺は唇をゆがめて、冷たく笑った。 「それに比べると、おまえはちょっとはましな人生を送ってきたようじゃないか? しけた病院とはいえ、後継ぎ候補か? ハッ、いかしたジョークだぜ。おまえが女と結婚とはな。新婚の初夜で、いったいどんな面して女を抱くつもりなんだ?」 その言葉に、秋生の顔が青くこわばった。結んだ唇の端が小さく震えている。俺は小気味良さを味わいながら、言葉を続けた。 「さぞかし素敵に喘ぐことだろうさ。嫁さん顔負けの色っぽさでな。想像しただけで、俺なんざ二回は抜けるぜ。もっとも、おまえにまともに女が抱けたらの話だが」 俺の下品な罵倒に、奴の顔が歪む。秋生は憎々しげな目つきで上目使いに俺を見上げた。 「……やめろ」 「なんなら、俺が女の抱き方を教えてやろうか? 俺も女は苦手だが、きっとおまえよりはましに扱えるぜ。女のあそこも男のケツも、入れる分には似たようなもんだからな。おまえみたいに、突っ込まれてヒイヒイよがる方法は知らないが」 「やめろと言ってるんだ!」 秋生は声を荒げて叫んだ。ちょうどその時、俺の後ろのドアでノックの音がして、看護婦が顔を出した。 「先生、そろそろ患者さんがつまってきてますけど……」 俺はすぐさま人の良い営業マンの顔をして、朗らかに笑って言った。 「ああ、すみませんね。ちょっと挨拶が長くなっちゃって。俺もう帰りますから、もうちょっとだけ」 看護婦は仕方ないわねという顔をして、笑って引っ込んでいった。 俺は再び秋生に視線を戻して、低い声で言った。 「今夜……七時だ。七時にここに来る。逃げないで待ってろよ、秋生」 秋生はびくんと身を震わせて、物も言わずに俺を凝視した。 俺は薄く笑ってみせた。そうだ、もう逃がさない。今度こそ、おまえをつかまえて離さない。俺は美しい顔を蒼白にひきつらせている奴を残して、診療室をあとにした。 受け付けの女が、なにも知らずに朗らかに笑って見送ってくれた。 その夜、俺は約束の時間より30分ほど遅れて病院にやってきた。 この病院には、入院施設はない。だから夜になると、看護婦も受け付けも皆そこから帰ってしまう。医者は棟続きの裏の自宅へ引っ込むのだが、今はハワイ旅行の真っ最中とあって、自宅も暗くひっそりと静まり返っていた。 俺は病院のドアを開け、勝手に中へと入った。真っ暗な待合室を通り越して、ただひとつだけ明かりの灯った診療室に向かった。そこでは、秋生ひとりが大きなデスクの前で、緊張した面持ちで座っていた。 俺が訪れたを見て、ブルっと身を震わせた。端正な顔が恐怖と不安にこわばっている。だがそのおびえた瞳の奥に歪んだ欲望が眠っているのを、俺は知っていた。 こいつは心底男に抱かれるのが好きなのだ。男以外に燃えるすべを知らないのだ。普段はいかにもエリートな面をして上品にとりすましているが、いったん男を受け入れると、際限なく欲しがり、あられもなく乱れ狂う。相手の精を最後の一滴までもしぼりとる魔性のものと成り代わる。そして……こいつはそんな自分をなによりも嫌悪していた。 俺は秋生に近づくと、きっちりと着込んだワイシャツの襟首をつかんで椅子から立たせた。奴はあらがわなかった。俺は情けなく震える奴の唇にくちづけた。舌を押し入れて唇を割り、荒々しくその中をまさぐった。絡む彼の舌が、おびえたように逃げ惑う。甘くとろけるような唾液を、俺は力一杯吸いつくす。柔らかな髪に片手をさしいれ、手荒く奴をのけぞらせて長いくちづけを続けた。 甘ったるい鼻声が漏れた。俺にはもうわかっている。こいつの身体には、すでに火が灯っている。熱くたぎるような欲望の火が、こいつの中で燃えている。俺がくちづけたその時から……いや、俺が来るのを独り待っていたその時から、こいつはすでに欲情していたのだ。こいつは、そういう男なのだ。 俺は秋生の襟元からネクタイを抜き取り、ワイシャツの前をボタンごとぶちちぎってはだけさせ、白い胸をあらわにした。薄く色付いた乳首が慎ましやかに現れた。俺は立ったまま、あいつの胸に舌を押しつけた。 ちいさな蕾をぺろりと舐めあげると、それだけで奴の乳首は固く立った。ビクンと体が震える。軽く前歯で甘噛みしてやったら、秋生はあっさりと声をあげた。 「あ……」 俺は口を離し、残酷に笑ってあいつを見上げた。 「もう感じてるのか、秋生?」 秋生は羞恥に歪んだ顔を背けた。 「遠慮することはない。思いきり感じろよ。俺の前で、いつもそうしていたように」 俺は低くささやくと、またあいつの乳首を口にくわえた。丹念に舐め、舌の先でちろちろとくすぐっては、強く吸いあげる。執拗なほど残酷に弄ぶ。奴は苦しそうに顔を左右に振って乱れた。しかし意地になったように、唇を固く噛み、声を出すのを拒んでいた。 「……ん、ん……」 こらえきれずに鼻声が漏れていた。ギュッと目をつぶり、眉をひそめて耐えているその姿は、ゾクゾクするほど色っぽかった。 俺はいったん唇を離すと、一歩ひいて冷たく命じた。 「秋生、脱げよ」 秋生はすでに息をあらしくて俺を見た。俺は冷ややかに言った。 「脱げ。なにもかも。それとも、脱がされたいか? 前のように」 奴はヒクッと息を飲んだ。以前病院の屋上に連れ出してセックスした時、脱ぐのを拒んで俺にさんざん殴られたのをまだ覚えていたらしい。震えながらも、おとなしく命じられたままに奴は服を脱ぎ始めた。 一枚一枚衣服が取り払われて素っ裸になっていくさまを、俺は黙って見つめていた。そんな視線さえも彼を羞恥に追い込み、そして欲情させるのだと言うことがわかっていた。 奴は下着までも脱ぎ捨てて裸になると、おびえながら俺を見た。俺は床に散らばった奴の服から白衣だけを剥ぎ取ると、彼に投げて渡した。 「着ろよ。お医者さんごっこだ。よくやっただろ、二人で?」 俺は鼻で笑った。 「もっとも、このお医者さんごっこは、医者のほうがやられるんだが」 秋生の顔が憎々しげに歪む。俺を見つめる瞳が憎悪に満ちていた。それでも奴は抵抗することなく、素直に命令に従った。 男にしては白すぎる体に、やはり真っ白な白衣だけを羽織ったその姿は、妙に淫靡でいやらしかった。 俺は奴の腕をつかんで横の診療台のところに連れていくと、その上に乗るように命じた。壁に背中をつけて深く座らせ大きく足を開かせると、奴のすでに感じていきりたったものが隠しようもなくさらけ出された。 秋生が恥ずかしそうに顔を赤く染めながら横を向く。俺は椅子を診療台のそばまで持っていくと、彼の足の間に置いて腰掛け、身をかがめて奴のものに唇をつけた。 「……ん!」 秋生が思わずうめいて腰をうごめかせた。しかしそんなポーズでは逃げることもかなわない。俺は手にとり、舌を出してゆっくりと舐めあげた。 「あ……ああ……や……」 さすがにもう意地だけではおさまりきれないらしく、秋生はこらえきれずに声を漏らした。俺が深くくわえこんでしごいてやったら、あいつは妖しく悶えてうわごとのようにつぶやいた。 「や……あ、ああ……一臣……一臣」 奴が俺の名前を口にする。俺は全身が震えるのを感じた。 昔、あいつはセックスの最中に何度も何度も俺の名を呼んだ。感じている時も苦しい時も、せかしたり押しとどめたりする時も、甘ったるい鼻にかかった声でねだるように俺を呼んだ。そして俺はそれを聞き、いっそう奮い立つ自分を感じていた。 今こいつを支配しているのは自分、今こいつの頭の中にいるのは俺だけなのだと、独占する快感に酔いしれていた。 そんな忘れていた甘い夢を今またこいつに見せられて、俺は身の内が熱くたぎっていくのを感じた。ここ何年間もなくしていた感覚。なのに、あっさりとこいつの声によって引き戻される。 俺は執拗にあいつのものを舐めしゃぶった。口の中でどんどん膨れあがってくるそれを、残酷な気分で愛撫した。奴がせつなそうにうめく。よほど男に飢えていたのか、秋生はあっさりと最後の一線を迎えようとしていた。 俺は唇を離し、かすれた声でたずねた。 「いきたいか、秋生?」 秋生は恍惚とした表情をして、こくこくとうなづいた。だが俺は冷たく微笑んで、残酷にささやいた。 「だめだ。……まだだ。まだいかせない。もっともっと狂わせてやる」 「一臣……」 俺はそっけなく奴を離して身をひいた。極みまで感じさせられながら放り出されたあいつは、苦しそうに顔をゆがめてねだるような瞳を絡みつかせた。 「いや……一臣……」 もっと、と表情でせがむあいつを見、俺は冷たく笑った。 「そんなにいきたかったら自分でやれ」 秋生の顔が驚愕に包まれる。いやだと言うように首を振る奴の手をつかんで、彼自身のものに導いた。 「やれよ、ほら。いきたいんだろ? しっかり見ててやるから」 「あ……」 奴は困惑と羞恥に苛まれながら、じっと俺を見つめていたが、やがて目を閉じて言われるままに手を動かし始めた。 俺は黙って見ていた。 奴の白い手が、自分のものの上を滑る。最初はためらいがちにぎこちなく、そのうち自分自身にも抑制が効かなくなって、だんだんと激しさを増していく。 俺はなにもせず、じっとそのさまを見つめていた。 白い手。 白い指。 俺はこいつの手が好きだった。 驚くほど白く、不思議なほどスラリとして美しい指を持った、こいつの手を愛していた。 この優美な手が俺のものを優しく撫でさするのが嬉しくて、口よりもよく手でやらせたものだ。やらせながらじっと見つめていると、あいつは恥ずかしそうに頬を染めた。そんな姿が愛しかった。 この華奢な手で、銀色のメスを握って人の肉を木っ端微塵に切り刻むのかと言ったら、あいつはおかしそうに笑っていた。 俺は覚えている。こいつの笑顔、こいつの笑う声。幸せそうな顔をして眠る姿。 地獄だけじゃなかったのに。俺たちの間には確かに天国だって存在していたのに、どうしてこいつは逃げたんだ? どうして俺を置いていった? どうして、どうして、どうして? 「あ、あ……ああ……かず」 秋生がせつなそうにうめいた。 俺は座っていた椅子からがばっと身を乗り出すと、奴が自分自身を慰めていた手をとって、無理矢理そこから引き剥がした。そしてそのまま診療台の上に押し倒すと、今度は俺が奴のものを握ってしごきはじめた。 「あ……一臣! ああっ」 高く細い悲鳴が響く。俺は右手で奴を愛しながら、もう片方の手に握った秋生の手を口元に引き寄せ、指をすっぽりとくわえこんだ。 まず最初に人差し指を、その次には中指を……、俺は一本一本ゆっくりと舐めあげていった。 根元まで深くくわえ、ゆるゆると引出しては尖った指先を舌で舐めまわす。そうしてまた唇で優しく上下にしごく。まるでそこがもうひとつのあいつ自身であるように。俺の愛した白い手を。 秋生は悩ましい喘ぎ声をあげた。 「ああ、あ……ん、あ、いや……一臣……んぁ」 あいつにとっては、きっともうどちらの感覚だかわからなくなっているだろう。性器そのものへの愛撫からなのか、指先から生まれる快感なのか、すべてがごっちゃになってあいつを襲っているに違いない。秋生は激しく悶え狂った。 「ああっ、あ、うん……一臣、一臣っ! あああ……」 もう隠すこともせずに、大きな声をあげながら奴は乱れた。二人きりの診療室に秋生の声が響く。俺は弄ぶ手にいっそう熱を込めた。するとすぐさまそれに反応して、秋生は嘆願するようにうめいた。 「あ、いや……一臣、いく、いくよ……、かず……ん」 今度は俺も放りだしはしなかった。強く激しくうごめかすと、あいつはすごく素直に、あっけなくその快感に負けた。 「あ、かず……! やだ、いくっ! ……あああっ!」 奴の声が俺の耳に届く。それはまるで美しい歌のようだった。 一瞬その体が大きくのけぞって、包み込んでいた俺の手の中にあいつは自分の精を解き放った。 手が熱い。秋生をつかんだ手が、燃えるように熱い。どろどろにとけていく。たぎって流れ出す溶岩のように、それは俺のすべてを焼きつくさんがごとく熱を帯びて、指の隙間から溢れ出した。 秋生が放心したようにぐったりとして荒い息をついていた。なめらかな胸が大きく上下していた。 額に汗がいっぱい浮かび、そこに柔らかな前髪が張りついて、たいそう艶かしかった。半開きの唇は紅を塗ったように赤く萌え、涙のにじんだ瞳は妖しく潤んで光っていた。 俺は診療台に乗って、力なく横たわったあいつの上にのしかかった。 狭い診療台が、さすがに男二人を乗せた重みにぎしりときしむ。俺は性急にスーツのズボンをひき下ろすと、投げ出されたあいつの足をつかんで、腰を引き寄せた。 秋生はとろんとした瞳を開けて、疲れた声で言った。 「一臣……、待って、少し……休ませて」 だが俺はそんな声などそっちのけに、奴の足を持ち上げ、ぐいと胸のほうに折り曲げた。あいつのうしろの蕾があらわになる。俺はそこに自分のものをおしつけた。 秋生がすがるように言った。 「待って、かず……頼む……、いったばかりで、体が……あああっ!」 奴の願いは、最後まで言葉になることはなかった。俺は秋生の中に強引に押し入った。 まだなんの愛撫も受けていないそこは、突然の行為に当然のごとく悲鳴をあげた。きしんだような強い抵抗があり、奴の顔が苦痛に歪む。それでもかまわずに深く挿入すると、秋生は固く唇を噛みしめながら、苦しそうにうめいた。 「う……くぅ……」 奴の瞳から涙がこぼれて落ちた。 俺は少し驚いた。こいつのことだから、俺と別れてからもさぞかし別の男をくわえこんでいたことだろうと思っていたが、そこは意外なほど使い込まれてはいなくて、まるでバージンを相手にしているような感覚だった。 秋生が必死の思いで苦痛に耐えているのがわかった。綺麗な顔を歪め、ギュッと目を閉じて口を結んでいる。伏せた長い睫毛に透明な滴がにじんで、溢れては頬をつたって落ちていった。俺は上から奴を見下ろしながら、額に張りついた前髪を指でかきあげた。 秋生がうっすらと目を開け、俺を見た。黒い瞳。濡れてキラキラと輝く妖しい瞳。奴は消え入りそうな声でささやいた。 「かず……」 胸が、どくんと震えた。 「かず……好き……」 一瞬、心臓が止まったような気がした。 胸が痛かった。 まるで秋生の白い指が握った銀色のメスが、俺の胸を裂いて、むきだしになった心臓を鷲掴みにされたかのように。 俺は言葉もなくあいつを見つめた。 そして、ほんの束の間の静寂があとに、俺は狂ったようにあいつを求めた。 熱くたぎる秋生の中を、激しい欲望のナイフで切り刻んだ。 なにも考えられなかった。あいつの苦痛も、耳に響く叫び声も、自分の獣のような咆哮も、なにもかも頭の中から消えうせた。 ただ、あいつを求めた。俺が、死ぬほど愛したこの男を。 きしっ……と、診療台が小さく鳴った。 俺はけだるい体を起こすと、胸の下でぐったりと全身をなげだしている秋生を見下ろし、それからまたおおいかぶさってその胸に唇を寄せた。 象牙のようになめらかな肌の上を、唇で優しくなでる。小さな薄桃色の蕾を見つけては、舌に絡めて遊んだ。すぐにそれは固く尖って、もっともっととせがむように俺の舌を押し返してきた。 俺は要求のままに、愛撫を続けた。 しかし、秋生はそんな俺を手で押しのけ、胸の下から這い出して診療台を下りると、よろよろとおぼつかない足取りで部屋続きになった隣の処置室のほうへと歩いていった。 奴はなかなか戻ってこなかった。俺は情けなくずり下がったズボンをあげて適当に身じまいし、奴のあとを追って処置室へと向かった。 あいつは、器具などを洗う小さな流し台の傍にぼんやりと立っていた。放心したように、茫然として立ち尽くしている。俺が声をかけようとしたら、あいつは置かれていたコップをとって水を汲んで飲み干した。 そしてまた、ぼうっとその場につっ立っていた。 「秋生……?」 名前を呼んでも返事ひとつしない。俺は怪訝に思って、近寄ろうと足を踏み出した。 その時、奴は俺のほうへと振り向いた。その手に銀色のメスを持って。 秋生は驚いて硬直した俺を見つめながら、低い声で言った。 「出ていけ。そして……もう二度と僕の前に現れるな」 俺はしばし言葉もなくあいつを凝視した。口の中に広がった唾をこくんと飲みこむ。それは苦い味がした。 「なぜだ……?」 俺の震えてしゃがれた声が響いた。 「なぜ……? どうしてそんなことを言う?」 俺は喋りながらゆっくりと近づいた。秋生のヒステリックな悲鳴が狭いその部屋にこだまする。 「寄るな! 僕は本気だ!」 あいつは全身を震わせながら、それまで片手だけだったメスを両の手でにぎりしめ、胸の前でかまえた。緊張のせいか、呼吸がひきつれたように不規則になって、胸が痙攣しているみたいにピクピクと揺れていた。 そんなあいつを、俺は眉をひそめてじっと見つめた。 「……そんなに、俺が憎いのか? 俺を……拒むのか?」 かまわずに歩いて、奴のそばへと進む。秋生は震える手で銀のメスをかざし、俺の前につきつけた。 蒼ざめて血の気を失った唇が、ぶるぶると震えていた。途切れ途切れの荒い息が、半開きの口から漏れる。額に冷たい汗がビッシリと浮かんでいた。 それでも奴の目は、確かに本気だった。本気で俺を拒んでいた。俺は低くうめくようにつぶやいた。 「やれよ」 秋生の瞳が惑うように揺れる。 「殺したいなら殺せ。おまえになら殺されてやる」 あいつはおびえ、がくがくと震えた。俺はそんな彼を見ながら、絶望的なまでの愛を感じていた。 「どうしてだ? そんなに……そんなに俺がいやか? 俺が嫌いなのか? 秋生!」 それは俺の悲鳴だった。どうにもならない愛。たとえそれがあいつを苦しめ傷つけるだけだとしても、俺にはもう止められない。あいつを愛するしかどうしようもない。 俺は自分のはだけた胸を銀色のメスの先端に触れそうなほど近づけて、奴に向かって叫んだ。 秋生はハアハアと激しく息をついて、苦しそうにうめき、つぶやいた。 「……怖いんだ」 今にも泣き出しそうに顔を歪めて、否定するように首を振った。 「僕はきみが……怖い。どうしようもなく怖い。だから離れたのに……忘れようと、努力したのに……なぜまた僕の前に現れる? どうして僕を苦しめるんだ……?」 奴は震える手で力なくメスを握り、必死の形相で嘆願した。 「もう許してくれ。僕を解放してくれ。僕はきみが怖い……。怖いんだ! 助けてくれ!」 「違う!」 俺は叫んだ。 「違う違う! おまえが怖いのは俺じゃない! ……秋生、おまえが怖いのは……おまえ自身だ。俺に抱かれてさらけ出される、自分の本性が怖いんだ。おまえが本当に恐れているのは、男しか愛せない自分だ。おまえはおまえが怖いんだよ、秋生!」 「やめろぉぉっ!」 秋生の手が、ふいに逆方向へと動いた。それまで俺に向いていた先端が、奴自身の喉もとめがけて宙を切り裂く。俺はとっさに自分の手を差し出した。 「秋生!」 ザクリと深くなにかがつき刺さる感じがした。 痛みはなかった。一瞬だけ手のひらに鋭い衝撃が走り、すぐに燃えるように熱くなる。気がつくと、俺は銀色の尖った刃をその手で握り締めていた。 ぽたぽたっと熱い液体が手首を伝って下にこぼれた。真っ赤な血がしたたりおちて、秋生の白衣とその裸の胸を濡らした。白と赤の見事なコントラスト。眩暈がするほどの美しく凄惨な光景。俺たちは、しばし言葉も忘れて立ち尽くしていた。 やがて痛みがあとから追いついてきたかのように湧き出してきて、俺は眉をひそめてうめいた。 「……つぅ」 「一臣……、かずっ!」 秋生が我に帰って、蒼白になって俺の手に飛びついた。ゆっくりと開いた掌から震える指で血のついたメスをとり、床に投げだした。 キンと甲高い音が響いた。 俺の手からはドクドクと緋色の血が流れ出していた。秋生はおびえた瞳をしながらも、すぐに流し台の横にあったガーゼをつかんで、俺の傷に押し付けた。白い布地が一瞬にして赤く染まる。小さなメスの刃なので、それほど大きく切れたわけではなかったが、かなり深い傷のようであり、血はなかなか止まる様子はなく、あとからあとから溢れ出た。 秋生は騒動で辺りに転がっていた包帯をとり、俺の腕を縛って止血した。そして、震えながらも医者の声をしていった。 「……縫わなきゃ……。かなり、深いから……」 そうして立って器具の並んでいる棚のほうへと行こうとする。だが俺はそんなあいつの腕をもう片方の手で掴み止めて、もう一度自分のほうに引き寄せた。 あいつはよろよろとよろめいて俺の胸の中に倒れこんだ。俺は奴の体を抱きとめると、柔らかな髪をつかんでのけぞらせ、触れるほど間近に顔を寄せてあいつを見つめた。 驚き、不安に揺れ惑う黒い瞳を凝視しながら、俺は低い声で、だがきっぱりと言ってきかせた。 「あきらめろよ。そして気がつけ。おまえは俺を愛してる。愛してるんだ、秋生。それを認めろ」 「一臣……」 「秋生……愛してる。愛してる……おまえだけだ」 俺の心を搾り出すようなその言葉を、あいつは黙って聞いていた。やがて美しい顔が歪み、せつなそうに細められた瞳に透明なしずくが溢れ出す。あいつはポロポロと涙をこぼしながら、強く俺を抱きしめた。 「あ……ああ、あ……あ」 懸命に抱きついてくるあいつの、細い泣き声が耳に響いた。俺もまた力の限り奴の体を抱き返した。 そして俺たちはキスをした。 それは透明なキスだった。 激しく求めあうのでも、無理矢理奪うのでもない。 ただ俺たちはキスをした。 五年前に最初に出会って、一年間一緒に暮らして、何度も何度も求めあい、貪るように触れあってきた俺たちが、その時初めて交わした……透明なキスだった。 なにもかもが、透けていた。 俺がその病院に電話をしたのは、それから一週間もたった頃であった。 一週間。俺はいろいろなことを考えていた。 俺はあの翌日、別の病院へ行って傷の手当てをした。さすがにあいつに自分の責任でもあるその怪我の手当てをさせるのは忍びなかった。 怪我は深いものではあったが幸い腱にも神経にも異常はなく、ただの裂傷であった。 それでもズキズキと疼く傷の痛みを感じていた間、俺はずっとあいつのことを考えていた。あいつとの未来を考えていた。 もし秋生がこのままあの病院で医者の娘と結婚して暮らしていきたいと望むのなら、それでもいいと俺は思った。 普通の男のように、幸せな結婚をして、家庭を持ち、世間にも誰に対してもなんら引け目を感じることのない行きざまを望むのなら、そうさせてやろうと考えた。 そうして、あいつの体が俺の体を望む時だけ俺の元へ帰ってくるのだとしても、それでもいいと思った。 あいつが誰となにをしても、そのすべてが俺のものではないのだとしても、それでもいい。耐えられる、耐えてみせるのだと心に決めていた。 たとえどんなに苦しくても、嫉妬の炎にかられ、身悶えするほどの怒りと苦痛に苛まれようとも、それをあいつにぶつけたりはしない。二度とあいつを泣かせない。あいつを苦しめたりはしないのだ。 俺にとってどれほどの地獄が待っていようとも、あいつを失うことに比べたらなんの苦痛でもないのだから。 俺は営業の途中の駅のホームで、電車が来るのを待つ間、携帯を取り出して奴のいる病院に電話をかけた。会って話がしたかった。 軽快な呼び出し音が鳴って、すぐに受け付けの女が出る。俺は挨拶もそこそこに、適当な理由を言って秋生を呼び出してもらうように頼んだ。 しかし、帰って来た応えはなんとも歯切れの悪いものだった。 「あ……ああ、えっとねぇ……その……」 女の声が、辺りに気づかうように密やかにひそめられた。 「それがねぇ、早河先生とお嬢さんの婚約、ダメになっちゃったのよ。式場の手配とかもしてたのに、院長先生なんてもうかんかんで」 俺は驚いてその訳を問いただした。 「それがさ、早河先生、急にアメリカ行っちゃったのよ。なんか向こうのどこだかの大学の研究室に空きができて、そこで勉強するって突然言い出して、止める間もなくあっという間にいなくなっちゃったの……。あれじゃあまるで逃げられちゃったみたいで、お嬢さんも立つ瀬が……」 俺は最後までその言葉を聞くことなく、携帯の通話を切った。 頭の中が真っ白で、一瞬何が起きているのか理解できなかった。 「アメリカに……行った? あいつが……?」 俺は愕然としてつぶやいた。 電話の向こうの最後の言葉がよみがえる。 ――あれじゃあまるで逃げられちゃったみたいで……。 逃げた? ……そうだ。 あいつは、逃げたんだ、俺から……。 前と同じ。あいつは逃げ出した。俺を置いて、俺を一人残して、俺から逃げ出した。 あいつはまた俺を置いていったのだ! 「……畜生」 俺はポツリとつぶやいた。 携帯を持つ手がぶるぶると震えていた。 俺はそれをぎゅっと握り締めると、思いっきりホームの床にめがけて投げつけた。 激しい音がして、木っ端微塵に壊れて飛び散る。辺りにいた者たちが、びっくりしたように顔を向けた。だが俺はそんな周りのことなどなにも考えられず、壊れ散った携帯を見ながら、大声で叫んだ。 「畜生ぉ、畜生ぉ、畜生おぉぉっー!」 あいつは、秋生は、また俺を捨てたのだ! 俺が勝手な夢を見ている間に、これから先、どうすればあいつと上手くやっていけるのかを悩み、考えていた間に、あいつは一人さっさと逃げ出した。俺を置き去りにして。 「どうしてだ……? なぜ……なぜなんだ、秋生?」 俺は額を押さえ、絶望と衝撃に身悶えした。 わからなかった。あいつは俺を愛しているんじゃないのか? 俺を認めて、受け入れようとしたんじゃなかったのか? そんなに俺が嫌いか、そんなに憎いのか? あの時のキスは、いったいなんだったんだ! 「うおおおぉぉぉっ!」 俺は獣のような咆哮をあげた。しかしそれは、やってきた電車の音であっけなく包み消されていった。 翌日、俺はひとつの封筒を会社において、半年働いたそこをあとにした。 辞表の文字が書かれたその封筒を見て慌てふためく上司をしりめに、俺はさっさと会社を出て、別の方向に歩き出した。 その足の向かう先、……それはアメリカだ。 秋生が一人で行ってしまったアメリカに、俺は行く決心をしていた。 あいつが逃げるというのなら、俺を置いて行ってしまうというのなら、俺はあいつを追いかける。どこまでも、アメリカだってどこだって、たとえ地獄の底までだって、追いかけていって、あいつをこの腕に捕まえる。俺はそう決めていた。 もうたくさんなのだ。いなくなってしまったあいつを焦がれて、ふらふらと宛てもなくさまようのは真っ平なのだ。 あいつのいない世界なんて、いらないのだ。 俺はあいつを捕まえる。そして絶対に言わせてやる。 俺を、愛していると……。 俺は信号の点滅する横断歩道に飛びこんで、向こう側に向かって走り出した。 もう絶対に止まらない。あいつをもう一度捕まえるまでは。 クラクションが大きく鳴って、朝の街中に響いては消えていった。 ≪終≫ |
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