フェンスの向こうに |
7 フェンスの向こうに |
雨はいっそう強く勢いを増し、サーキットを冷たく包み込んでいた。それでもコースの方からは、マシンの爆音と観客達の声援が変わらずに響いて聞こえていた。こんな雨の中でもレーサーたちは優勝を狙って走り続け、また見ている者たちも勝利の行方に心躍らせながら立ち会っている。そこから脱落していった者のことなど、もうすっかり忘れてしまったかのように。 僕はスタンド下の通路の隅に、独り縮こまって座っていた。ぐっしょりと濡れた髪と服が、額や体に貼りついてひどく冷たかった。ときおり水滴がつーっと頬を流れて、顎を伝って落ちていく。唇がずっと小刻みに震え続けていた。 騒々しくざわめくその場所で、ずっと長い間、ぼんやりと宙を見つめていた。 なにも考えられなかった。僕の中の時間が、あの一瞬から止まってしまったかのように、少しも動いていなかった。ただ頭の中に浮かんでくるのは、コース脇の土の上に身動きひとつせず転がっていた篤志の姿だけ。たくさんの人の手で担架に乗せられ運ばれていった光景だけ。他にはなにも見えない、なにも感じない……。 心配だと思い患う気持ちすらどこかに行ってしまっていた。すべてのことがどこか遠い世界にあるような感じがする。上手く物事をとらえられない。どうして今自分がここに座っているのかすらも良く把握できなかった。 ただ僕は、その騒々しさがひどくうっとうしかった。すべての音が僕を責めているように聞こえた。あらゆるものが僕を嘲けり、怒鳴りつけ、叱責している。なにもかもおまえのせいなんだと叫んでる。そして僕はその怒声の中で脅えて震えながら、耳を押さえることすらできずに、黙って全身で受け止めていた。 ふいに肩に手を置かれて、僕はぴくりと身を震わせた。顔を上げると、悟が手に缶コーヒーを持って立っていた。 「ほら、夕日」 彼はそう言ってそれを差し出し、僕の目の前にしゃがみこんだ。僕は拒む気力すらなく、ただ勧められるままに黙って受け取り、コーヒーを一口すすった。 甘くて苦い液体が、ゆっくりと口の中に広がっていった。 ……不思議だ。なんにも感じない中、妙に味覚だけが研ぎ澄まされてる。上手いとも不味いともわからないのに、ちゃんと味だけは感じてる。僕に感覚というものを認識させる。 ぼんやりとコーヒーを飲む僕を見つめながら、悟は穏やかに言った。 「夕日。あいつ、大丈夫だから」 僕は顔をあげ、悟を見た。悟は静かに微笑んで、ゆっくりと言い聞かせるように語った。 「今チームの人に聞いてきた。かなりひどく体打ちつけてたみたいだったけど、命に別状あるようなもんじゃないって。コースから戻ってきた時にはちゃんと意識も戻っていて、受け答えもしっかりしていたってさ」 僕はしばらく無言で彼を見つめ、そしておずおずと問い返した。 「……本当?」 「うん。病院に運ばれて、多分そのまま入院ってことになるだろうけど、そんなに心配するような事態じゃないだろうって話してたよ。だから俺たちにも心配するなってさ」 僕は黙ってそれを受けとめた。 すぐには理解できなかった。聞いた言葉を何度も頭の中で咀嚼して、篤志は大丈夫なのだと幾度も自分に言い聞かせて、そしてようやくその事実を納得したら途端に体の力が抜け、はあと大きなため息が唇から漏れた。と当時に、ポロポロっとふいに涙が溢れ出た。 僕は子供みたいにしゃくりあげて泣き出した。相変わらず思考回路は止まったまま、良かったとか嬉しいとか、そんな当たり前の感情すら沸いてこなかった。ただ、いっきに解けた緊張感だけが僕を包んで、泣く気なんかないのに涙が止められなかった。 「夕日……」 悟が哀れむみたいに小さく呟いた。 そっと手を伸ばして、泣き続けている僕の頭を優しく胸の中にかきいだいた。僕と同じように濡れた服は冷たかったけど、穏やかに上下するそこはやっと見つけた逃げ場所のようだった。僕はなんにも考えられないまま、いつまでも悟に抱かれていた。 周りを包む騒音がいっそう高く盛りあがる。アナウンサーの甲高い声が、勝利を手にした者の名前を高らかに叫び、褒め称えていた。 レースは終わった。 僕と篤志の果たされなかった約束をいだいたまま。 その翌日から三日間ほど、僕は情けなくも熱を出して寝込んでしまった。冷たい雨に降られたことに加えて、精神的なショックがあったんだろう。母や父に余計な心配をかけていることを悔やみながらも、ベッドから置きあがることができなくて、ひたすら眠っては形にならない悪夢にうなされていた。 四日目にようやく熱も下がり、五日目にはなんとか学校に行くことができるようになった。まだなんとなくふらつく足取りで久しぶりの教室に入ったら、すぐさま悟が心配そうな顔で吹っ飛んできた。 「おい、夕日。大丈夫なのか?」 僕は力なく微笑んで返した。 「うん。もう熱も下がったし」 「まだ顔色悪いぞ、おまえ。無理してんじゃないのか?」 「大丈夫だよ。それに、いつまでも休んでられないから」 それでも心配そうに見つめる悟に、僕はそれまで伝えたくて伝えられなかった言葉を静かに言った。 「悟、この間はありがとう」 「え? なにが?」 「あの時、いろいろと篤志のこと聞いてきてくれて。本当なら僕がちゃんと自分で確かめなきゃならないことだったのに、僕ったらすっかり動転しちゃってさ。まったく、情けないったらないよな」 僕が自嘲しながらそう言うと、悟は慰めるみたいに優しく返した。 「そんなの……しかたがないさ。誰だって驚くよ、突然あんなことが目の前で起こったら」 「でも、凄く助かったよ。ありがと、ほんとに」 頭を下げたら、悟はちょっと照れたみたいに困惑気味の笑みを浮かべた。しばらく決まりが悪そうに頭を掻いたりしていたが、そのうち身を寄せ、声を潜めるようにして尋ねてきた。 「……夕日、あいつの見舞いに行った? ……なんてのは無理か。あれからずっと寝込んでたんだもんな、おまえ」 僕は一瞬戸惑ったけど、隠す理由もないのでちゃんと説明した。 「昨日、店長さんに電話してみたんだ。容態、どうなのかって。そしたら、何箇所か骨折はしたけど、そうひどくはないって。一応脳の検査とかもしたけど、異常はなかったそうだよ。それと、向こうの病院じゃ遠いから、こっちの病院に転院したって言ってた」 「そっかぁ。良かったな。まあ……大怪我じゃなくってさ」 悟は心底ホッとしたような表情を浮かべてみせた。そしてすぐにまた声を潜めて、ささやいた。 「……見舞い、行くのか、今日?」 僕は黙って首を振った。悟はいぶかしげに眉をひそめた。 「なんで? 心配なんだろ、あいつのこと?」 ……確かに、心配だった。胸が痛いぐらいに。 それでも、僕には彼に会えない事情があった。会えば、どうしてもひとつの約束を果たさなければならなくなるから。 無言でうつむく僕に、悟はちょっと呆れたみたいにため息をついて諭すように言った。 「なに意地張ってんだ、おまえ? そりゃまあ、おまえらの間にいらぬ波風立てたのは俺の責任だけどさ。こんな時にまで喧嘩することないだろ? こういう時だからこそ、おまえが傍に行ってやるべきだと思うぞ。あいつ……きっと待ってるぜ、おまえのこと」 悟は探るみたいに僕を見た。それでも僕は、返事を返すこともできずに黙って机をにらんでいた。 悟は僕たちの間に交わされた約束を知らない。あのレースに本当はどんな意味があったのかも知りはしない。だから、僕が迷っている理由もわからない。 ただ喧嘩の余韻でぐずぐずためらっていると思ったのか、僕の頭のに手を置いて、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱した。 「見舞い、行ってやれよ。な? 独りで行けないってんなら、俺が付いてってやるからさ。――あ、俺が一緒だと、かえってまた喧嘩になったら困るか」 はははっと元気付けるように悟は軽く笑った。僕は黙ってそれを聞いていた。 そのうち、教師がやってきて一日の授業が始まった。僕は久々の授業をずっと上の空でうけていた。 頭の中は篤志のことでいっぱいだった。ううん、今だけじゃない、あの日あの事故の後から、僕はずっと篤志のことばかり考えていた。熱にうなされ朦朧とした意識の中でも、浮かんできたのは彼のことだけだった。 命に別状はないと言っても、骨折して苦しんでいるんじゃないだろうか。何箇所か骨を折ったって、いったいどこを折ったんだろう。手? 足? それとも体のどこか別の部分? 痛くはないの? 後遺症は残らない? きみはいったい、今何をしているんだ? 逢いたい……。 篤志に逢いたい。今すぐに。許されるものなら、すぐにでもこの場から飛び出して、彼のもとに飛んでいきたい。 でもだめなんだ。だって僕たちが会う時は、今度こそ本当に別れる時なんだから。 それは僕たちの約束。果たされなかった篤志の誓い。負けてしまった僕の最後の賭けだったんだ。 そして、そんなもののために僕は篤志に怪我をさせてしまった。僕のせいで篤志は無茶な走り方をして、結果的にあんな事故を起こしてしまった。篤志を傷つけたのは僕。なにもかも僕のせい。僕がいなけりゃよかったんだ……。やっぱり僕は、彼にとって不必要な存在。 いらない……もの……。 絶望的な思いが胸に溢れる。僕は心底後悔していた。 あの時すっぱりと別れていたら、いらぬ未練で余計な期待などいだかなければ、こんな結末にはならなかったのだと、……そんな思いが繰り返し繰り返し僕を責め苛んだ。 そしてそう考れば考えるほど、逆に答ははっきりと僕につきつけられた。 そうだ、僕は篤志に会いに行かなきゃならないんだ。会ってちゃんと終わらせてこなくっちゃ。篤志の世界から、僕という存在を切り捨ててこなくっちゃ。それはとても……辛くて苦しいことだけど。 胸がギュッと握りつぶされるみたいに強く痛んで、僕はその苦痛に押しつぶされそうだった。 放課後、僕は篤志が転院したという病院の玄関前に立っていた。 診療時間の終わった夕刻とはいえ、入院患者を見舞いにきた人たちがひっきりなしに出入りしていた。さすがに病院という場所柄か、歩く人々の顔にも楽しげな雰囲気は全然なくて、どこか重苦しい感じが漂っていた。でもその中でも、きっと僕が1番暗くて落ち込んだ顔をしていることだろうな。 僕は悟に待合ホールで待っているよう頼んで、一人病棟の方へと歩いていった。 結局、また情けなくも悟にすがって、子供みたいに父兄同伴をしてしまった。ほんとに、自分でも呆れるくらい僕という奴は弱虫だ。いつだって逃げては隠れ場所ばかりを探してる。 外科病棟の詰め所で篤志のいる病室を聞いて、僕はその部屋へと向かった。 奥の方にあるその病室は小さな三人部屋で、入り口から中を見渡すと、広い窓からいっぱいに夕日が差し込んで、オレンジ色にまぶしく室内を照らし出していた。 篤志は一番窓ぎわのベッドにいた。 半分だけ体を起こし、何か雑誌を読んでいた。相変わらずむっつりとした顔つきで、いかにも時間つぶしのあまり気の入らない読書って感じに見えた。 ベッドに投げ出された左足が、包帯でぐるぐる巻きにされていた。骨を折ったのって……あの足のことなんだろうか? いや、よく見ると右の手首にも包帯が巻かれてる。あちこち……怪我したんだな……。当たり前かもしれない。だってあの時篤志ったら凄い勢いで転がされたんだもの。それでもこんな風に起きていられる程度の怪我ですんだのは本当に幸いなことだったんだ。 僕は思ったよりも元気そうな篤志の姿にホッと安堵するとともに、痛々しく巻かれた白い包帯に胸が痛んだ。しばらく入り口にたたずんで彼を見つめ、そしてゆっくりと中へと入った。 部屋の真ん中ほどまで歩いたところで、篤志が人の気配に気づいて雑誌から顔を上げた。そして僕を見つけて、驚いたように目を大きく見開いた。 僕は口元にうっすらと笑みを浮かべて挨拶した。 「やあ……」 篤志は返事もせずにじっと僕を見つめていたが、やがてちょっと眉をしかめて、心配そうな口調で言った。 「おまえ、……なんか痩せたぞ」 僕は目を丸くして彼を見返した。そりゃあ確かに、ここ数日ほどろくに食べるものも食べていなかったから、少し頬がこけたかなぁとは自分でも思っていた。だけど包帯だらけでベッドに転がってる相手にそんなこと言われるなんて、まるっきり立場が逆じゃないか。 僕は呆れて笑った。 「篤志ったら。そんな恰好して、人の心配するなよな」 ベッド脇に置いてあった小さな丸椅子に腰を下ろし、彼を見つめて尋ねた。 「体、どうなの?」 ベッドの上に半身を起こして座ってる彼のパジャマの襟元から、胸に巻かれた白い包帯が見え隠れしていた。僕がそこに視線を向けているのに気づいたのか、篤志はちらりと自分の胸に目をやり、あっけらかんとした口調で説明した。 「肋骨が二本ほどいっちまったけど、まあ、そうたいしたことはない。あとはこっちの手にヒビが少々」 そう言って、ちょっとふざけるみたいに右手をヒラヒラと振っては、イテテなんて小さくうめいた。 「足は?」 「こいつは捻挫だけだ。と言っても、結局こいつが一番痛かったんだけどな」 篤志はそう言って小さく笑った。なんだか、怪我したことなんてなんでもないことのように振るまってる。まあ半分は本当に慣れてるからなのだろうけど、でも残りの半分は、僕を心配させてはいけないという心遣いなのだろう。だって、大事なレースで事故ってリタイアしたことに1番悔しい思いをしているのは、ほかならぬ篤志なんだから。 僕が黙って彼を見ていたら、そのうち篤志も無言になって、僕たちはお互いに黙り込んだ。病室は静かだった。真ん中のベッドの住人はどこにでかけたのか姿はなく、一番向こうのベッドでは年老いたおじいさんが大人しく眠っている。廊下の向こうからは時折人の話し声が聞こえてきたが、それはすぐに通りすぎて、平日の午後の病棟を穏やかな静寂で包んでいた。 あまりにも静かすぎて、僕のつぶやいた言葉が痛いほど耳に響いた。 僕は目を伏せ、ぽつりと言った。 「負け……ちゃったね、レース」 篤志の周りの空気がピリッと震えたのを感じた。それまでの飄々とした雰囲気は消えて、どこか怒ったような苛立たしそうな表情を彼は浮かべてみせた。それでも何も言わずに固く口を結んだまま、じっとベッドの上をにらみつけて、僕の言葉に耳を傾けていた。多分何よりも聞きたくない、その先を。 僕はしばし彼を見つめ、そして言うべき言葉を続けた。 「……約束、果たしに来たんだ」 篤志はしばらく無言で聞き言っていたが、やがて顔をあげ、鋭い瞳を向けて言った。 「本当に、本気なのか? 夕日」 確かめるように怒ったみたいに尋ねてくる篤志に、僕は逃げるように視線をそらし、うつむいて応えた。 「本気じゃなきゃ、あんな約束しないだろ、お互いに?」 篤志がきゅっと眉をひそめて黙り込む。 そうだ……。 彼にはなにも言えないのはわかってるんだ。それは篤志が言い出した約束だったのだし、それを果たせなかったのも彼自身なんだから。 彼の性格上、自分のミスで負けてしまったレースに、言い訳なんてつけられるわけがない。ことバイクに関してはプライドも自信も人一倍の彼だ。そんな彼が自分で掲げた優勝というターゲットを逃し、転倒リタイアなんていう無様な姿までさらしてしまった以上、彼としては僕の言葉を黙って受け入れるしかない。これ以上追いすがる訳にはいかないんだ。 もし別の可能性があるとすれば、それは僕自身が折れる時だ。僕がその約束を無に記す以外に道はない。 そして……僕にはその意志はなかった。僕は、彼と別れるために来たのだから。 僕は黙りこくっている篤志を見ながら、丸椅子から立ち上がって小さく声をかけた。 「じゃあね。さよなら……篤志」 篤志はなにも言わなかった。 何も言わず、氷みたいな冷たい無表情で白いシーツをにらみつけていた。 ピクリとも動かない。顔を上げて僕を見ようともしない。 僕はそのまま彼を置いて歩きだした。病室を後にして、長い廊下を歩いていった。 コツコツと僕の足音が静かな病棟の廊下に響きわたる。僕は一度も振り返ることなく、足元だけを見て歩いた。 胸が痛い。心が痛い。体中のどこもかしこもがちぎれそうに痛くて、悲しみに引き裂かれてしまいそう。 自分で選んだ結末に押しつぶされそうだった。今度こそ、今度こそ本当にこれで最後なのだとわかっていたから、苦痛は千の針みたいに僕の全身に突き刺さった。 一瞬でも気を抜くと大声をあげて泣き出してしまいそうで、僕はギュッと唇を噛み締めた。 ふと前を見ると、詰め所の横の廊下に悟が立っているのに気づいた。僕が深刻な顔で入っていったのを気にして、心配して来てくれたのだろう。僕は大きく一度息を吸って、涙をこらえながら彼に向かって歩いた。僕の暖かな逃げ場所へと向かって。 と、その時、突然後ろから大きな声が響いた。 「夕日!」 僕はほとんど反射的に振り返った。 そこには――篤志が立っていた。 病室の入り口の横、廊下の壁にすがるようにして、傷だらけの体を支えて立っていた。 「夕日!」 もう一度彼が僕の名を叫ぶ。僕はピクリと体を震わせた。篤志は燃えるような瞳で僕を見つめながら、大声で叫んだ。 「おまえ、本当にそれでいいのかよ! 本当にもうやめるつもりなのか?」 篤志が必死の形相をして叫んでいた。周りのことなんか気にもしないで、ただ僕だけを見つめて、僕だけに訴えた。 「俺はいやだ! 俺はたった一回の勝負でおまえを失うなんて、絶対にいやだ! いやなんだよ、夕日!」 僕は釘付けられたみたいに篤志から目を離せなかった。彼の言葉から逃げられなかった。茫然として聞き入る僕に、篤志は大声で言い続けた。 「リベンジさせろよ、夕日! もう一度だけ……いや、何回でも! 俺におまえを諦めさせるな! このまま負け犬で終わらせるな! 頼む!」 廊下にいた人たちが何事かと足を止めて僕らを見ていた。病室の人たちまでもが、興味を引かれて中から顔を出してうかがっている。そして当然のように騒ぎを聞きつけてきた看護婦さんが、焦って篤志を制止し、病室につれ戻そうと叱責した。そんな看護婦の言葉をふりきって、篤志は悲鳴のように絶叫した。 「俺はおまえじゃなきゃだめなんだよ! 俺を捨てるな、夕日! 夕日―っ!」 二人の看護婦さんが力ずくで彼を病室に引っ張っていくのが見えた。普段ならそんな女性の手などものともせずに振り払うだろうけど、さすがに今の篤志にその力はなかったのか、強引に引き戻されていった。僕は声ひとつ返すことができないまま、人形みたいに突っ立ってその様を見つめていた。 騒ぎの張本人が消えてしまったので、それにひかれて集まってきていた周りの人たちの視線が、残った僕一人に集中した。皆、興味津々といった視線を向け、ひそひそと小声で話してる。いったい何事かと、どんな事情があるのかと勝手な憶測を巡らしてる。だけどその時の僕には、そんな周囲の思惑などまるで頭にはなかった。 茫然と立ち尽くしている僕の傍に、一人の看護婦さんがきて怒った声で言った。 「ちょっと、ここは病院なんですから、騒がれたら困るんですよ。喧嘩するのなら元気になって、退院してからやってちょうだいね」 「……喧嘩?」 僕はぼんやりと聞き返した。 喧嘩なんてしてない……。そんなんじゃない。あれは……。 あれは……なんだったんだろう? 僕はなんだか頭が働かなくて、うまく返事を返すことができなかった。それほど今の篤志に驚いていた。とり乱し、なりふりかまわずに感情をさらけだしている彼の姿に……。 と、すかさず悟が寄ってきて、愛想笑いを浮かべて言った。 「あ、すみません。俺たちもう帰りますから。お騒がせしました。すみません」 丁寧に何度も頭を下げて謝罪する。文句を言いに来ていた看護婦さんもそんな彼の姿に納得したのか、詰め所に戻っていった。 悟は僕の手を引いて、声を潜めてささやいた。 「行こうぜ、夕日。いい見世物だ」 僕は素直に従って、いまだ好奇心丸出しで眺めているギャラリーを残し、病室を後にした。 頭の中では、先ほどの篤志の姿がグルグルと渦巻いていて、僕を混乱させたのだった。 いつのまにか部屋のカレンダーが一枚めくられていた。 土曜の夕方。窓の向こうに見える太陽はすっかり低く、燃えるような赤い光りをまぶしく放って、世界を夕焼け色に染めあげていた。 すっかり日が短くなった。僕はCDを聞いていたヘッドフォンを外し、ぼんやりと外を眺めた。 綺麗だな……とは思ったけれど、それが心を震わせることはなかった。そう……あの時から、僕はすべてのものに対して、心の底から感動することができなくなった。なんだか、いつもどこかになにかが引っ掛かっているみたいで、気持ちがすっきりしなかった。どこかで何かが壊れていた。 淡々と流れていく時間の中で、僕ひとり空回りしているような気がする。あの日、篤志と最後に会ったあの時間から、ずうっと同じ場所で足踏みして、なにもかもから取り残されていっているような感じがする。 咽元にまで湧き上がってくる想いが苦しくて、何度も眠れぬ夜を繰り返しながら、それでも僕はそんな自分を見て見ぬふりして、忘れようと努めていた。忘れられるわけはないのだと、心の一方で確信しながら。 何をする気力もなくベッドにゴロリと転がった。いつのまにかうとうとと眠りかけ、意識がフッと途切れかけたところに、突然母がやってきて来客を告げた。誰、と聞くと、母はちょっと意味ありげに笑って答えた。 「あのね、バイクに乗ってる人よ。そうとだけ伝えてくれって頼まれたの」 僕はガバッと跳ね起きた。 (バイクに乗ってる……? まさか……) そんなはずはない、絶対にあり得ないと思いつつ、僕は転がり落ちるみたいに階段を駆け下りて、玄関へと向かった。 (まさか、まさか、まさか……) 靴を履くのすらもどかしく、大急ぎで玄関から飛び出した僕が目にしたのは、一台のピカピカに光るバイクと、それに跨っている悟の姿だった。 「よ!」 悟はメットの向こうからニッコリと笑って手をあげた。 「……悟」 「なにしてた? 夕日。なんだかしけた面してるぜ」 悟は驚いている僕をそばに呼び寄せ、跨ったバイクの車体を軽く叩いて自慢げに言った。 「どうだ? ついに買ったんだぜ。かっこいいだろ? まあ、半分は親からの借金だけどさ。おかげで冬休みはバイト三昧の日々が待ってるぜ」 そう言いながらも、さも嬉しそうにバイクを見つめている。僕は小さく笑って応えた。 「悟、前から欲しがってたもんね。良かったね。すげーカッコイイよ」 悟は満足げに破顔した。 「おう。――それでな。まずは最初におまえを二人乗りの犠牲者にしてやろうと思ってさ。誘いに来たんだ。ほい、メット。親父からの借り物だけど」 そう言うと、片方の手に持っていたメットを差し出し、僕に渡した。僕は突然のことにビックリして受け取り、そしてひどく戸惑った。 バイクに二人で乗る……。 それは辛い思い出だった。いや、思い出なんて呼べないほど、今だ生々しく僕の中に残っている。 それは僕にとって、篤志とだけ築いてきた時間。二人だけの行為だった。他の誰をも介在しない、僕たちだけの強い絆だった。 僕がためらっているのがわかったのか、それでも悟は少し強引に誘った。 「いいから、乗れって。な?」 僕はしばし躊躇し、だが小さくうなづいた。 「……わかった。待ってて。ジャンパー着てくるから」 やがて戻った僕を後ろに乗せて、悟はバイクを発進させた。なんとなくぎこちなさが伝わってくる。そんな僕の不安を感じたのか、悟が声を張り上げて言った。 「安全運転は心がけるけど、万が一って時は覚悟しろよ!」 僕も負けないくらいの声で言い返した。 「冗談じゃないよ。悟と心中なんてごめんだ!」 「ははははっ、冷てえなぁ!」 「どこまで行くの?」 「んー、あまり遠くは無理だから、とりあえず近場の峠。しっかり捕まってろよー」 そう叫ぶと、悟はバウンとスピードを上げた。僕はぎゅっと悟の背中にしがみついて、彼に身を預けた。 ピッタリと密着した悟の背中から、マシンの振動が伝わってきた。そして彼の鼓動も。 少しだけ早く規則的に打ち続ける命の流れを胸に感じ、僕はせつなくて唇を噛み締めた。 篤志じゃない……。 今僕がしがみついている背中は、篤志じゃないんだ。別の背中なんだ……。 そんな当たり前のことが胸に染みて、心が締めつけられた。 悟の背中は温かくて、そう篤志と体格に差があるわけじゃなかったけど、でもやっぱり彼とは違っていた。それはいつもいつも僕が、胸をときめかせたりハラハラしながらしがみついていた背中ではなかった。誰よりも誰よりも愛しく感じていた背中じゃなかった。 僕に許されていたあの世界は、もうどこにもないのだ。 (篤志……) 今更のように想いが湧きあがってきて、ツンと目頭が熱くなる。僕は悟の背中で、密かに涙した。それは彼と別れてから初めて流れた涙で、僕はその時、初めて泣くことすら忘れていたのだということを思いだした。 そう……僕の涙は、いつだって篤志のためにあったのだから……。 街に戻ろうとする車の流れに逆らって、僕らは日が落ち黄昏てきた山道を、峠のてっぺんの展望台に向かって、軽快に走っていった。そこについた時にはすでに辺りは薄暗く、冷たい風がひゅうひゅうと吹きすぎていた。 峠からは、山々の狭間に街並みが遠く小さく見えていた。光が灯り始めた街は美しく、うっすらと闇に包まれた世界をそこだけにぎやかに飾り立てている。本当の闇が覆うようになったなら、それは宝石をこぼしたみたいに、キラキラと輝くんだろう。 その展望台はわりと有名なデートスポットだったけど、さすがにこの季節はあまり人の姿はなく、僕らの他には数台の車が止まっているだけだった。それも、皆車から降りようともせず、中で幸せにくっつきながらフロントウィンドウ越しに眺めてるだけ。たまに出てきても、寒い寒いを連発してすぐに車内に戻っていった。 僕たちは吹きすさぶ風にさらされながら、なんとなくフラフラと歩いていた。 前を歩いていた悟が、ふと振り返って言った。 「寒くないか、夕日?」 「うん、ちょっと寒いかも」 僕は小さく笑って応えた。と、その時、ふいに悟が腕を伸ばし、僕の体を強く抱きしめた。 ひょろりと長い腕が僕の背に回って、ギュッと強く胸の中へとかきいだかれる。まるで恋人に抱きしめられるみたいに熱く、激しく。 僕は一瞬唖然とし、だけどすぐに我に帰って、ドンと強く悟を押し返してその胸から離れた。 ビックリして、声も出なかった。ただ呆然として悟を見つめた。 悟はしばし無言のまま僕を見返し、やがてうっすらと微笑んで言った。 「俺じゃ、だめだろ?」 「え……?」 「バイクに乗るのも、抱きしめられるのも、俺じゃだめだったろ? あいつじゃなきゃ、だめなんだろ? 夕日?」 僕は応える言葉もなく彼の話すのを聞いていた。悟は優しく笑いながら、諭すようにゆっくりと語った。 「別にさ、説教する気なんかなかったんだ。俺にはおまえとあいつの仲をとりもつ謂れなんかないしさ、別れたんなら別れたでもかまわないと思ってたし。今日はただ気晴らしにでもと思って、おまえを誘いに来ただけだったんだ。……だけどさ、玄関から飛び出してきたおまえの顔を見たら、言わないわけにはいかなくなった」 悟はすっと僕に近づいてくると、掌でポンと額を小突いた。そして真正面から僕を見据え、きっぱりと言った。 「おまえな、いい加減意地張るのやめろよ。逃げるなよ。もっとムチャクチャやってみろ。あの時あいつが病院でやらかしたみたいに」 悟はただ聞きいってる僕に、力強く話した。 「あいつ、カッコ悪かったよな。あんな人前でなりふりかまわず、未練たらしくわめいてさ。とてもじゃねーけど、自信満満でマシンすっ飛ばしてた奴とはえらい違いだ。――だけどさ、その意味、おまえにはわかってんだろ? あいつがそこまでする理由、わかりすぎるほど感じてるんだろ?」 「…………」 「なら、どーして応えてやんないんだよ? おまえだって未練たっぷりのくせしやがってよ。おまえ、さっき自分がどんな顔して玄関から飛び出してきたか知ってるか? あの男……、あいつに逢いたいって、それだけ考えてるような面してたんだぞ。あいつのことが好きで好きでたまらないって……そんな顔で、俺を見てガッカリして……ちくしょう! むかつくんだよ、あんな顔されたら!」 「悟……」 「素直に言えよ! まだあいつが好きだ、あいつのことが忘れられない、あいつのことだけ考えてるって、言ってみろ、夕日! 本当の気持ちを言ってみせろよ!」 悟は真剣に怒ってそう叫んだ。熱く燃える瞳を向け、僕の答えを待って食い入るように凝視している。その視線の中で、僕は物も言えずに立ち尽くした。 悟の言葉が頭の中で激しく渦巻く。それは僕の中のずっとしまいつづけていた熱い想いを引きずり出して、僕の止まっていた時間を動かした。 震える唇をうっすらと開いたら、涙がポロポロっとこぼれて頬を伝い、顔を濡らした。 消え入りそうな声が、途切れ途切れに僕の唇から流れ落ちた。 「……篤志に逢いたい、篤志が好きなんだ、今でもずっと……。彼じゃなきゃ、だめなんだ……」 自分でも驚くほど、自然に溢れた言葉だった。だけど、ずっとずっと僕の中で、少しも色褪せることなくしまわれていた言葉だった。 篤志が好き……。 その想いはどうしたって消せはしない。忘れることも、時間の向こうに押しやって風化させることもできない。いつまでも僕の中で一番大きく存在しているんだ。他のものでなどあがなえるはずもないのだ。 彼を失って生きることなど考えられないのに、どうして僕はそこから逃げ出してしまったのだろう。どうして手放してしまったのだろう。こんなにも愛しているのに……。 時間がコトコトと動き出す。止まっていた時の流れが、ゆうるりと進み始める。それは僕に、一歩踏み出せと語っていた。待っているだけじゃなく、逃げているだけじゃなく、自分の足で自分の意志で、その場から歩き出せと命じていた。 悟は黙って僕を見つめていたが、そのうち優しく微笑んで、子供をあやすみたいに僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。 「今の言葉、俺じゃなくてあいつに言え」 「悟……」 僕は涙でいっぱいに潤んだ目で彼を見た。様々な思いが胸につまって言葉にならない。もっと言うことがあるのに、話したいのに、彼に伝えなきゃいけないことがたくさんあるのに、声にできなかった。何も言えなかった。 悟はなにもかもわかってるみたいにニッコリと優しく笑った。 「さて、帰ろうぜ。遅くなったら、おばさん心配するだろ?」 そうして僕の肩を抱いて、彼はもうすっかりいつもの悟に戻って僕をバイクに乗せて走りだした。 帰り道、僕はその広い背中にしがみつきながら、心の中で百万回もつぶやいた。悟に対する感謝の言葉を。 「ありがとう」と……。 とてもよく晴れた日曜の午後だった。 すっかり高くなった空は遠くまで澄み渡って、ところどころに白い雲をいだいていた。そして吹く風はそれを空の懐からさらい出しては、目まぐるしく形を変えて遊んでる。 僕は上空を見上げ、大きく深呼吸をした。 僕の前には、サーキットが広がっていた。灰色のコースの上を、何台かのバイクが音を立てて走っている。撒き散らすオイルの焼ける匂いを、時折風が流れの具合で僕のもとにまで届けていった。 バイクはひゅんひゅんと風切り音をあげて走り抜けていく。でも、どれも肌に突き刺さるような緊張感を感じさせるものはいなかった。今日は試合はなく、今走っているバイクはどれも練習走行をしている者たちだ。だからそれぞれに一生懸命ではあったけれど、息を呑むような緊迫感はそこにはなかった。 走りぬけていくバイクの中に、一台の見知った姿があった。黒い車体に黄色いカウル、排気量125ccの少し小さめのマシン。背中に似たような装いをした青年を一人乗せている。 篤志だった。 篤志は爽快にマシンを駆って、僕の目の前のコーナーを通り過ぎていった。 あの事故からまだ1ヶ月もたっていないというのに、怪我したことなんてまるで嘘のように元気に走っていく。何箇所も骨折して包帯だらけの恰好をしていたというのに、まったくレーサーっていうのは呆れるほどタフで逞しい人種だ。 僕は走りすぎていく篤志の姿をずーっと目で追っていた。 今日彼がそこで走っているというのは知っていた。数日前CROSSオートの店長さんに電話をして聞いていたから。でも彼は僕が見に来ていることは知らない。当たり前だ。だってあの日病院で別れて以来、僕たちは一度だって顔をあわせたことも話をしたこともないのだから。 朝の電車でも逢わない。放課後駅で待ち合わせることもない。もちろん、彼から電話がかかってくることだってなかった。僕があの日彼に背を向けてしまったから、僕たちの関係は終わってしまったのだ。僕は僕を引き止める彼の腕を、振り払ってしまった。彼にリベンジするチャンスを与えなかった。 だから僕は、今度は自分の力で彼を捕まえにいかなくてはいけないんだ。僕がチャレンジしなくちゃいけないんだ。この気持ちを伝えるために。 僕は上を見上げた。目の前に、大きな金網のフェンスがあった。 それは僕と篤志を引き裂いていたもの。僕に篤志の世界に踏み入ることをためらわせた、高い高い壁だった。 僕たちの間にはいつも見えないフェンスがあって、僕はそれに脅えていた。それは越えられないもの、越えてはいけないものなのだと感じていた。そしてフェンスの向こうでキラキラと輝く彼がまぶしくて、手が届かないのが苦しくて、ひとりで羨望し、身悶えし、苦しんでいた。辛くって泣いてぱかりいた。 だけど、僕は一度だってその壁を越えようとはしなかった気がする。 僕はいつも勝手にあきらめては、背中を向けて逃げていたんだ。篤志は何度も追いかけてきてくれたのに、僕をあきらめずに欲してくれていたのに。 ひとつ真実に気づくと、まるで雲が晴れるように見えてくるものがある。そうだ、篤志はいつだって僕に一生懸命にぶつかってきてくれた。最初に僕が別れを切り出した時も、二人でつきあうようになってからも、彼は精一杯僕と向きあってくれた。バイクの世界に僕を誘い、僕に逢いに来てくれて、僕の臆病さに怒り、哀しみ、僕に一歩でも近づこうと努力した。僕を愛していると全身で叫んでくれた。 それを見逃していたのは僕だ。僕の弱さが、自信のなさが、僕から真実を見つめる目を奪った。自分から踏み出そうというほんの小さな勇気すらも、僕は持つことができなかった。 僕はフウッと大きく深呼吸した。そのフェンスは高かった。数メートル……いや、もう少しあるだろうか。コースのあちらとこちらを分ける、形ある壁。 僕はそれに手をかけた。金網の輪につま先を入れ、両手でもう少し上をつかんで足に力を込める。ふっと体が一瞬宙に浮き、今度はもう片方の足をもっと上に差し入れた。僕はフェンスを登り始めた。 登ること自体はそれほど苦労はなかったけれど、ただ金網を握る手がだんだんと痛くなって、僕を少しづつ苦しめた。だけどかまわずに登り続けた。 僕は、この壁を越えるんだ。消すことのできない壁なら、その向こうに踏み出そう。それが僕たちを隔てるのなら、僕はそれを乗り越える。篤志に近づく為に、篤志と同じ世界に立つ為に、僕はその向こうに行くんだ。自分の力で。 たとえどんなに篤志が僕に手を差し伸べてくれようとも、僕自身に壁を乗り越える意志がなければ、決してその手には届かない。金網はなくなりはしない。そして金網を越えるのは誰の力でもない……僕が自分でやらなくちゃいけないんだ。そんな簡単なことに、どうして背中を向けて目をつぶっていたのか。どうして逃げ出してばかりいたのだろうか……。 きっと怖かったんだ。彼がどんどん僕の手の届かないところに行ってしまうことが。そんな彼を追いかけることが。いつまでたっても追いつかない気がして、僕一人が取り残される気がして、最初からあきらめて立ち止まってた。 でも篤志。 僕はそれでもきみが好きなんだ。 その想いは、やっぱりどうしても消せなかった。あきらめたつもりでも、いつもきみを欲していた。 だから僕はフェンスを登る。君が必死に伸べてくれた手を、もう一度握り返したいから。許されるものならば、きみをもう一度追いかけていきたいから。今度こそ……あきらめたりしないで……。 上に近づくに連れ、風が僕の髪をさらさらともてあそんだ。金網を握る手が冷たく痛い。指先の感覚がだんだんとなくなっていく感じで、自分の体重を支えていることが結構大変だった。 それでもなんとかてっぺんまで行きついて、僕はしびれる指を少し休ませようと、フェンスの頂上の細い金属のヘリにひとまず腰を下ろした。 風が冷たかった。だけど高いその場所から見渡す景色は驚くほど爽快で、綺麗だった。サーキットの灰色のコースが遠くまで伸びている。右に左にと蛇行しながら、ゴールまで続いてる。優勝に向かって走り続けるレーサーたちを、しっかりとその腕に抱きしめて。 僕はフェンスの上から走るマシンを見ていた。 なんだか彼らがすごく近くを走っているように見えた。たった金網一枚を取り払っただけで、視界が違う、一体感が違う、世界が別のもののように感じてしまう。 それはきっと僕の心が変わったせいなんだろうな。僕が自分自身の心にあったフェンスを消したから、ようやく見えてきた世界なんだ。 この光景を見るために、僕は篤志を傷つけ、自分も傷つき、悟までをも巻き込んで、ずいぶん遠回りしてしまった。一杯一杯泣いて、辛い思いをしてきた気がする。 でも……今はこうして篤志の世界に一歩近いところに座ってる。 これが始まりなんだ、きっと……。篤志はこれからもどんどん先を走っていくだろうし、僕がどんなに追っかけても届かないのかもしれないけれど、フェンスはたくさんそびえているのかもしれないけれど、それでも僕は、乗り越えていけるんだ。その意志と、そして……篤志の差し伸べてくれる手があれば……。 僕は吹きすぎていく風を頬に受けて、その爽やかな感触にそっと目を閉じた。 しばらく爽快感に浸ってから、ふとコースに視線を戻すと、走るマシンの何台かがすうっとスピードを緩め、明かにこちらを見ながらゆるゆると走りすぎていくのが目に入った。どうやら金網の上に乗っかっている僕に気づいたらしい。いったい何事があったのかと、こちらを見ながら走っていく。 そして何かを考える間もなく、ふいに足元から大きな声があがった。 「きみ! いったい何をしているんだ、そんなところで!」 気がつくと、いつのまにやらフェンスの下にサーキットの関係者らしき人達が、数人集まって僕を見上げていた。皆、緊張と怒りに強張った顔をしている。 周りを見渡すとコースの向こうやセンターの建物のほうからも、人が何人か走って来るのが目に入った。 (やば……) そう思った時はすでに遅かった。僕の行為はしっかり見つかり、皆が慌ててやめさせる為にとんで来たのだ。まあ、当たり前と言えば当たり前だろうな。越えちゃいけないからこそフェンスが張られているんだもの。 そんなところを登る奴なんて普通はいるはずもないから、警備の目はわりと緩くて、僕はあっさりとそこを登ることができた。それですぐに降りれば良かったのだろうけれど、登りきったことですっかり満足し、てっぺんでのんびりと感慨に耽っていたため、見事に発覚してしまったのだ。 僕は集まった人たちを目にして、ちょっとだけ動揺した。まさかこんなことになるとは考えてもいなくて、騒ぎを大きくしてしまったことに後悔した。 だけど、その行為自体には少しも後悔はなかった。常識も規則もはなから念頭になかったし、たとえ止められたとしても、きっとすきを見て登ってしまったことだろう。だってそれは僕にとって、とても大切な儀式だったのだ。どうしても果たさなくてはいけない仕事,大事な大事な一歩だったんだ。 でも、さすがにこれ以上迷惑をかけるわけにもいかなくて、僕はとりあえずそこから下りようと足を伸ばした。 その時だった。 突然コースの方から大きな声で名前を呼ばれた。 「夕日!」 僕はビックリして下を見下ろした。そこにはコースの上にマシンを止めて、こちらを見上げている篤志がいた。 篤志はしばし呆然とするように僕を見ていたけれど、すぐにマシンをコースからそらして、慌ててこちらに向かって走って来た。そして近くの芝生に放り出すみたいにマシンを寝かせると、焦って走り寄って来て、メットを外し僕を見上げた。 「夕日! おまえ、なにやってんだ、いったい!」 「篤志……」 「早く降りてこい! 危ないだろうが!」 普段見たこともないような慌てふためいた顔をして、必死になって叫んでる。僕は素直に従い、篤志のいるコース側の方に向かって降りだした。途中、一度足を踏み外しかけたら、下の人たちからワッという緊張した声があがった。また降り始めると、ほうっと安堵したように息をつく。やってる本人にはそれほどたいしたことではないのだけれど、下で見ている分には、随分危なっかしい行為に見えるらしい。 数分ほどで僕が大地に降り立つと、待っていたとばかりに篤志が駆け寄ってきた。 「夕日! だいじょうぶか?」 蒼ざめた顔で尋ねる。僕はケロリとして応えた。 「うん。これでも運動神経はいいほうなんだ。どうってことないよ、こんな金網」 「ばかやろう……なにをのん気に……」 篤志は大きく吐息をつくと、今度はガシッと僕の肩を掴み、大声で叫んだ。 「おまえな! いったいなんであんな所登ってんだよ? どこのバカかと思ったら……。心臓が止まるかと思ったぞ、まったく!」 久々に見る篤志は、真剣に怒っていた。こんな顔の彼を見るのも、もしかしたら初めてかもしれない。 じっと食い入るように僕を見つめる篤志。僕のことを心配して感情を爆発させてる篤志。 僕は間近で彼を見つめ返しながら、心が震えるのを感じていた。 篤志はそんな僕にかまわず、たった今味あわされたハラハラを怒りに代えて、まくしたてた。 「いったい何考えてんだよ、おまえ? 俺に会いに来たのなら、ピットのほうにくりゃいいだろうが。なにもフェンス越えて来なくったって。落ちたらどうすんだよ? あんな高いところから!」 と、そこまでしゃべりまくって、ふと彼は言葉をとぎらせた。そして少し戸惑うように、かすれた声でつぶやいた。 「……会いに、来たのか? 俺に?」 瞳が不安そうに揺れている。僕はこっくりとうなづいた。 「うん。きみに、逢いにきた」 「夕日……」 僕は真正面から彼をじっと見つめ、ゆっくりと、そしてはっきりと語った。 「きみに、逢いにきたんだ。この金網を越えて……。きみともう一度やりなおすチャンスが欲しくて、もう一度君を追いかけたくて、僕はここに来た……。あんな風に背を向けてしまったけど、やっぱり僕も思い知らされた。きみじゃなきゃだめなんだ、きみがいないと生きていけない。それがいやって言うほどわかったから、僕、ここに来たんだよ。篤志……」 スウッと涙がひとすじ零れる。僕は口元にうっすらと笑みを浮かべて、震える声で言った。 「僕にも……もう一度リベンジさせてくれる? 許して、くれるかな……?」 篤志はしばし無言のまま僕を見つめた。風が彼の長い髪を、さやさやとなびかせる。僕は彼の答えをじっと待っていた。 やがて篤志はゆっくりと僕の背に腕を回し、その胸の中に抱きしめた。強く強く、苦しいほど強く、息ができないくらいに抱きしめた。力強い腕から彼の想いが伝わってくる。 耳元で彼の声が聞こえた。 「……当たり前だろ」 (篤志……) 僕もまた彼の背中に手を伸ばして抱きしめた。ぎゅうっと、精一杯力を込めて、もう二度と離さないように、二度と間違ったりしないように、全身全霊を込めて抱き返した。 ライダースーツを着た彼の体はヒヤリと冷たかったけど、でもすごく暖かかった。その時僕は、ようやく自分のいるべき場所を見つけたのだ。 篤志という、なによりも大切な僕の巣を……。 その後の僕に待っていたのは、当然のごとく厳しいお説教であった。 集まって取り囲んでいたたくさんの人たちの前で、篤志と二人、堂々とラブシーンをやらかしてしまったという顔から火を吹くような恥ずかしさに浸る間もなく、僕はサーキットの管理室まで連れていかれて、こってりと叱られた。一言も返す言葉もない僕は、神妙に頭を垂れて叱責を聞いていた。 こんなに誰かに叱られたのって、本当に久しぶりだ。自分自身でも、思い返してみるとずいぶん思いきったことをしたものだと呆れてしまう。でもやっぱり後悔なんてしていなかった。怒っている目の前の人には悪いけど、それはしなくちゃいけないことだったんだ。 たっぷり三十分ほどしぼられて、ようやく解放されて外に出たら、そこに篤志が待っていた。 ライダースーツをいつもの皮ジャンに着替え、長い髪をサラサラさせて立っていた。僕が出てきたのを見てちょっと照れたみたいに微笑み、そしてわざとそっぽを向いて、ぼそりと言った。 「さあ、帰るぞ」 僕は目頭がじんと熱くなるのを感じながら、笑って応えた。 「うん」 彼にくっついて一緒に歩き始めたら、ふいに篤志の手が伸びてきて、僕の髪をグシャグシャと乱した。篤志はすごく嬉しそうに、優しい目で見つめながら、いつまでもいつまでも撫でてくれた。僕がもう勘弁してくれって音を上げるまで。 それから二日後の朝、僕はいつもの電車に乗って学校へと向かった。 昨日篤志は乗ってなくって、僕はちょっぴりがっかリした。なにも約束を交わしたわけではなかったけれど、それは当然の如く再開される逢瀬かなぁって思ってたからだ。だけどそれで不安に思って、いろいろ勝手に煩うことはもう止めたのだ。 僕は昨日初めて彼に電話した。本当に、初めてだったんだ。もう結構長くつきあってるのに、電話一本自分からかけたことがなかったんだなって思ったら、改めて自分がどれだけ何もしていなかったのかを思い知った。 ドキドキしながら彼が出るのを待って、彼の声を聞いたらもっとドキドキして、初めての記念すべき僕からの電話は、なんだかろくに話せなかった気がする。それでも「今朝は逢えなかったね」って言ったら、彼は「寝坊したんだ」ってぶっきらぼうに答えてくれた。 そして明日は逢えるって聞いたら、篤志はちょっと迷うみたいに口篭もり、そして「ああ」って言った。あの一瞬の戸惑いの理由はなんだったんだろう? だけど僕は、その日電車のいつもの場所で、以前のように僕を待っていてくれた篤志の姿を見つけて、その理由がすぐにわかった。僕はあんぐりと口を開け、目をパチパチとしばたかせた。 「篤志……その頭……」 そうつぶやいたきり言葉がでない。だってそこにいた篤志の頭は、見事に坊主刈りになってたんだ。 あのサラサラと柔らかく流れる長い髪は跡形もなく刈られ、形の良い頭が剥き出しになっていた。とは言っても長めのスポーツ刈りというか、お坊さんみたいにつるっぱげってわけではなかったけれど、それでも以前の長髪が印象深かっただけに、ものすごく衝撃的だった。 僕はたっぷりニ・三分無言で眺め、そしておずおずと尋ねた。 「どう……したの、その髪? なんで切っちゃったの?」 篤志は案外ケロリとして、すっきりした頭に手をやりながら真面目な口調で答えた。 「んー、まあ、なんて言うか……、俺なりにな、けじめをつけたかったんだ。……くだらないかなとは思ったんだけど」 「それで坊主にしたわけ?」 「ああ」 彼はあっけらかんと答えた。 ……けじめをつけるのに坊主……。なんて体育会系な思考なんだろう。僕はちょっと呆れながらも、しげしげと見つめていた。 そのうち、篤志がボソリと話し始めた。 「昨日な……理香と会ったんだ」 僕は一瞬どきりとしたけれど、耳を塞ぐことなく真剣に聞いた。 「もう一度ちゃんと話さなきゃならないと思ってな。俺のあいつに対する気持ち、おまえに対する気持ち、全部言わなきゃいけないと思ったんだ。中途半端じゃなく。だからおまえのことも全部話した」 胸がドキドキした。 「理香さん……なんて?」 「結構、しっかりしてたよ。なんか……俺が本気じゃないってのは漠然と感じてたらしい。だから別に好きな相手がいるって聞いた時も、ああ、そうか、ぐらいに思ったって。……もっとも、相手が男だったのは多少ショックではあったみたいだけどな」 篤志はちょっと自嘲するように笑った。 「でも、そういうのもひっくるめて、わかったって言ってたよ。それに……本気なら絶対に手放すなって発破かけられた。俺が熱くなれる相手なんて、そう現れやしないんだからってさ」 僕はそれを聞いてなんだか胸が痛くなった。篤志の彼女に対する気持ちがどうであれ、やっぱり理香さんは本気で篤志のことが好きだったんだと思う。だって好きじゃなくっちゃ、そんなに篤志のことを理解なんてできない。 なんとなく気持ちが暗くなってうつむいていたら、篤志が慰めるみたいに軽い口調で話した。 「あいつさ、この頭見て呆れてたんだぜ。全っ然似合わねえって。それに……坊主頭の彼氏なんて欲しくないから、こっちからふってやるとまで言われたぜ。ひでえよな、そこまで言うほどじゃないだろうによ」 篤志はちょっと唇を尖らせてブツブツと文句を言っていた。だけど彼にだってわかっているのだろう。それは理香さんが篤志に気をつかわせまいとする最後の思いやりだって言うことは。 だから僕も黙って聞いていた。そしてやっぱり彼女に対して、申し訳ない気持ちを感じずにはいられなかった。だって本当に良い子なんだもの。朗らかで、優しくて、そしてとっても芯の強い、僕なんかよりずっと良くできた女の子。僕がいなければ、篤志と幸せになれたかもしれないのに……。 ふと篤志を見たら、いつもの無愛想な顔で飄々とはしていたけれど、なんとなく眼差しが心配そうだった。僕の気持ちを推し量ってるみたいに。 そんな彼を見て僕は思いなおした。僕がいなければなんて考えるのは、篤志にも理香さんに対しても失礼だ。僕は僕を愛してくれる篤志のためにも、僕たちを認めてくれた彼女の為にも、しっかり自分を見つめて生きていかなきゃならないんだ。逃げてちゃだめなんだ。せっかくいろんな人が、いろんな思いが、僕にもう一度彼と歩くチャンスを与えてくれたのだから。 篤志はしばらく無言で僕を見つめていたけれど、そのうちポツリとつぶやいた。 「なあ、そんなに似合わねえか、この頭?」 僕は一瞬目を真ん丸くし、そしてすぐに笑って答えた。 「うん、全然」 篤志はうーんと唸って、難しそうに顔をしかめた。困ったような憮然としたような様子で、唇をヘの字に曲げている。 僕はくすりと笑って、そして彼に顔を寄せ、そっとささやきかけた。 「ねえ、今度は僕のために伸ばしてくれるかな? その髪」 篤志はちらりと横目で見て、いっそう不機嫌そうに顔を歪めた。 「……まあ、無精したら伸びるかもな」 そう言い捨てながらも、なんとなく照れくさそうに顔をそむける。僕はくすくすと笑った。 そうしているうちに、いつのまにか電車は僕の降りる駅に近づいていた。僕は慌ててドアへ向かおうと歩きかけたが、そんな僕を引きとめて、篤志が耳元でそっとつぶやいた。 「あとでな、夕日」 僕はニッコリと笑顔で応え返して、急いで人並みをかき分け、到着して開いたドアからホームへと降り立った。振りかえると電車は満員で、篤志の顔は見えなかった。 だけど僕は見えない彼に向かって小声で言った。 「うん、待っててよね。絶対に行くから」 電車が風を立てて走り去っていく。僕の髪をふわりとなびかせて。 朝のホームに、少し冷たくなった風が爽やかに吹きすぎていった。 ≪ 終 ≫ |