フェンスの向こうに

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6 約束                       
 
 テーブルに置かれたコーヒーカップから,真っ白な湯気が立ち昇っていた。
 僕はそっと手を伸ばし,その熱い液体をそろそろとすすった。ほろ苦くて、だけど優しい味が口の中に広がっていく。入れたばかりのコーヒーはすごく熱くて,舌の先をほんのちょっぴり火傷した。
 僕がゆっくりゆっくりとそれを味わっていると,篤志が静かな声で言った。
「落ちついたか?」
 僕はちらりと彼に視線を投げかけ,無言のままこっくりとうなづいた。
 本当は,まだ胸の奥がさざなみのように震えていた。身も心も緊張しているのがわかる。ちょっとでも気を抜いたならばすぐに先ほどの光景が頭の中に甦ってきて、その苦しさにうめき声をあげて身悶えしてしまいそうだった。
 だけど僕は必死に耐えていた。耐えて,落ちついたふりをしていた。
 だって、篤志の苦痛も痛いほど感じていたから。
 ソファに腰掛けてる僕の目の前の床に、テーブルを挟んで腰を下ろし、篤志はじっと僕を見つめていた。
 彼が後悔し,自分を責めているのがわかった。どうしてあんなに乱暴に僕を傷つけてしまったのかと、哀しいくらい悔やんでる。出るはずのない答えを、虚しい言い訳を、自分の中に探ってる。決して許されないことだったと知りながら。
 長い時間がたった。ようやく少し心が静まってきた僕がひとつ大きなため息をついたら、彼がそれを待っていたかのようにそっと話しかけてきた。
「ほんとにもう……だめなのか?」
 それは、すがるような声だった。
 僕はうなずくことも首を振ることもできなくて、黙ってカップを握った手を見つめていた。
 答えが出てこなかった。うなずいて、このまま終わらせてしまうには、あまりにも辛い最後の夜だった。こんな形でピリオドを打つのは哀しすぎる。こんな風に別れてしまったら、僕は永遠に苦い思い出の中でしか彼を思い出せなくなってしまう。
 そんなのはあまりにもせつないじゃないか。僕たちが作り上げてきた時間がなにもかも否定されてしまうなんて、そんなの……残酷だ。だってこんなにまだ彼を愛しているのに。こんなに彼が好きなのに……。
「もう……俺といるのがいやか?」
 篤志がぼそりとつぶやいた。僕は顔を上げて彼を見た。むっつりとした顔に、苦しげな表情が隠れてる。哀しそうに瞳が揺れてる。
「……もう、俺のこと、嫌いか……?」
 僕はゆっくりと首を振って答えた。
「ううん、嫌いじゃない……。嫌いになんかならない。絶対に」
「じゃあ、どうして?」
 彼は激しそうになる感情を必死で抑えるように、努めて静かな口調で聞いてきた。だけど食い入るように僕を見つめる眼差しが、どうにもせつなげに震えていた。僕はじっとその瞳を見返しながら、言った。
「僕はただ……辛いんだ。きみを見てることが」
「なんで? なにが辛い? 俺が……理香といるのがいやなのか? でもそれは、おまえの思ってるようなことじゃない。俺は本当に、あいつのことは妹ぐらいにしか感じてない。おまえとは全然違うんだ。俺はおまえしか」
「そうじゃなくって……!」
 僕は悲鳴のように叫んで彼の言葉を遮った。
「違う……理香さんのことだけじゃなくって……」
 どんな風に自分の心を彼に伝えらよいのかわからなかった。いや……自分自身の心が、言葉にできなかった。それはずっと白く煙った霧みたいに、僕の胸の中にあったもの。いつも、幸せだと感じていた時ですら、もやもやと僕の想いを包んでいた。
 彼との愛を信じきれない自分。そんな自分を責める自分。情けなくって、頼りなくって、いっそすべてを失ってしまったほうがどんなに楽だろうかとすら思った。だけど僕はやっぱり彼を愛していて、だからこそ頼りのない自分が不安で、彼を失うのが恐ろしかった。そんな感情を抱いてしまう自分が、どうしようもなくいやだった。
 想いはいつも、自分の中をぐるぐると回っていた……。
「僕……わかんないんだ、自分の気持ちが。どう……すればいいのか、わかんない……」
 唇からこぼれていく僕の声は、消え入りそうなほど力なくかすれていた。
「僕、篤志のこと好きだ。誰よりも誰よりも愛してる。だけど……自信がないんだ。僕には、なにもかも吹き飛ばしてきみとつきあっていける自信がない。僕はいつも、きみを取り巻くものの外からしかきみを見ていられない。きみが走るコースをフェンスの外からでしか見られなかったみたいに、きみと同じ世界に立てないんだ。そして……そんな自分がどうしようもなく惨めなんだ。ちっぽけな、つまらないものみたいに思えるんだ。でもって……いつか……そんなつまんない僕が、いつかきみに飽きられる、きみに必要ないって捨てられるのが……すごく怖いんだよ。僕はずうっときみの傍にい続ける自信が持てないんだ」
 最後の方の言葉は、まるで泣いてるみたいに震えていた。
「いろんな篤志を見て、いろんな篤志を知って、僕、きみのことがどんどん好きになっていった。だけど、そうなればなるほど、その思いもまた強くなっていくんだ。きみと離れたくないけど、傍にいるのが怖い。苦しさばかりが増えていく……」
 僕は言葉をとぎり、唇を噛み締めて、泣きだしそうになるのを必死でこらえていた。
 篤志は黙って僕の話すのを聞いていた。しばらく眉をひそめた難しそうな顔でじっとなにかを考え込んでいたけれど、やがてポツリと口を開いた。
「……わからない。おまえの気持ちは」
 僕は顔をあげて彼を見た。彼は膝の上に組んだ自分の手をじっと見つめながら、ゆっくりと話した。
「俺は……おまえを愛してきた。俺のできる精一杯の範囲の中で、おまえにそれを示そうと努力してきたつもりだった。だけど、それでもおまえは、俺がおまえを捨てるかもしれないと疑ってる。俺がどんなに愛しても、おまえは自分に自信がないとあとずさっていく。なら……俺はいったいどうしたらいいんだ? 俺はどうしたら、おまえを安心させてやれるんだ? おまえはどうして欲しいんだ、夕日?」
 訴えるような彼の言葉が、僕の胸に深く突き刺さる。僕は目を細め、首を振った。
「その答が、わからないんだ、僕にだって……」
 篤志が僕を見る。僕たちは正面から互いを見つめあった。
 なにも語り合わず、背中をむけあってつきあっていたあの時とは違って、なにもかも打ち明けあった上での、二人の遠い距離がそこにあった。目に見えないフェンスのようだった。
 僕は哀しい気持ちで彼を見つめ、口元にかすかに笑みを浮かべた。あきらめることを自分に納得させるような、惨めな微笑みだった。
「真正面から向きあって、それでも気持ちがすれ違ってるなら、もう……離れるしかないだろ、僕たち?」
 だが篤志は決して納得せず、きゅっと唇を曲げてつぶやいた。
「俺はいやだ……」
 キツイ目をして僕をにらみつけ、握り拳でドンと大きく床を叩いて叫んだ。
「いやだからな、おまえと別れるのは!」
 僕はそんな彼をじっと見つめた。
(篤志……)
 彼の気持ちは、今の僕には辛いだけだった。わかった……って、あっさり納得してくれたほうが、どれだけ楽だったろう。たとえ、あとでどんなに後悔し、泣いたとしても。
 僕たちはしばらくの間どちらも無言で座っていた。静寂の部屋に壁にかけられている時計の音だけが、規則正しく響いてる。僕は大きくひとつため息をつき、ソファから立ちあがった。
「……帰るよ、僕」
 いつまでも、出ない結論を前にしてここにいるわけにはいかなかった。篤志も今はこうしていても始まらないと思ったのか、引きとめることもなく低くつぶやいた。
「送ってくから」
 僕は一瞬いい、と断りかけたけど、その言葉を咽の奥で飲み込んだ。だってこれが最後になるかもしれないんだもの。
 僕たちが揃って部屋をでようとした時、篤志の皮ジャンの胸ポケットで甲高い電子音が鳴り響いた。僕はちょっとドキリとした。もしまた以前みたいに理香さんからの電話だとしたら、今の僕はどんな顔をしてここにいればよいのかわからなかった。
 篤志も同様に感じたのか、少し戸惑うような表情を浮かべ、それでもしかたなさそうに電話に出た。
「……はい?」
 不機嫌そうに返事をする。だが幸いにもそれは理香さんからではなかったようで、すぐに表情が安堵の色へと変わった。
「ああ、店長……、ええ、はい、わかりました。六時ですね。はい、わかってます。じゃあ……」
 どうやらオートショップの店長さんからのようだった。彼は電話を切ると、しばらく黙って突っ立っていたが、やがて僕に顔を向けてゆっくりと言った。
「夕日、俺、再来週Sサーキットでレースなんだ。それで、いろいろ忙しくなるし、しばらく逢えなくなると思う……。朝も、きっちりいつもの電車に乗れるかどうかわからない。ここに寝泊りするかもしれねえし……」
 僕は無言だった。別れると話をして、それでも認めようとせずに逢えなくなる言い訳を僕に告げる彼が、どうしようもなく胸に痛かった。
 もういいんだ、篤志。どうせもう終わりなんだから……。
 そんな言葉が頭の中に浮かぶ。だけど、さすがに口にすることはできなかった。必死に僕をつなぎとめようとする彼を、どうしようもなく傷つけてしまいそうで。
 その後なにも交わす言葉もなく、僕たちは沈黙したままマンションを出、彼のバイクに乗って帰路についた。
 家に着いて、僕がパイクを降りてさよならを告げようとした時、それまでそっぽを向いていた篤志がふいに僕に顔を向けた。
「今度のレースな……」
 じっと見つめたまま、彼はぼそりと口を開いた。
「全日本ロードレースの第9戦で……といっても、おまえにはよくわかんねえだろうけど……まあつまり、でかいレースなんだ。日本の早いレーサーが全部集まってる、すごいレースなんだ。そこに俺、スポット参戦する。今までの結果が認められて出場権を手に入れたんだ。次の試合だけ」
 彼はなにかを訴えるように、熱い目をして語った。
「格上のレースだし、俺なんかより数段早くて上手い選手ばかりが出場する試合だけど、でも勝てる可能性が全然ないわけじゃない。俺は自分の力を信じてる。運さえ悪くなければ、優勝できると信じてる。そして、それぐらいの自信がなけりゃレースなんてやってられない」
 篤志の手が、メットを差し出していた僕の手をがっしりと握りしめた。突然のことに慌てた僕は思わずメットを落としてしまい、それが高い音を立ててアスファルトの上に転がった。
 茫然としている僕に向かって、篤志は燃えるような瞳をして言った。
「もし、もしおまえが自分に自信がもてないといじけてるんなら、俺がその自信を分けてやる。俺は、おまえのために優勝してやる。今度のレース、おまえのためだけに走ってやる!」
 僕は驚いて彼を凝視した。
 そんな映画みたいなドラマチックなセリフを突然つきつけられて、一瞬返す言葉を失ってしまう。ましてや、この無愛想でクールな彼がそんなことを言うとはとても信じられなくって、僕はまざまざと彼を見つめた。
 篤志は握った手にさらにギュッと力を込め、低く、脅すように言った。
「だから……俺が勝ったら、別れるなんて言葉を撤回しろ」
 瞳が真剣だった。
 キザなせりふは、決して形だけのものではなかった。
 それは彼の本心、本当の気持ちなのだ。篤志は本気で、僕を思いとどまらせようと、僕のために自分の大切なレースをかけてくれようとしているのだ。
(篤志……)
 僕はバイクのレースが、篤志にとってどれだけ重要で大切な世界であるのかを知っている。だからこそ、そこに僕というものを介在させて僕のために走るということが、どんな意味を持っているのかもよくわかる。本当なら、それは誰のためでもない、自分自身の戦いだ。彼が彼として生きているという証しなのだ。
 そのなによりも大切なものを、彼は僕に預けてくれたのだ。僕の愛をつなぎとめるために。
 僕はしばし彼を見、そしてゆっくりと口を開いた。
「……いいよ」
 彼の情熱に応えるように、僕もまた熱っぽく語った。それは僕自身にとっても、彼を愛することへの最後の望みをかけた、賭けのようなものだった。
「僕のために走って。僕のために優勝して。そうしたら僕はきみを信じる。きみを優勝させた僕の力を信じるよ。きみをあきらめたりしないよ!」
 篤志は熱い瞳をきらめかせて、力強く言った。
「約束だ、夕日」
 

 その日は、朝からどんよりと雲が厚くたちこめ、空気がじっとりと重く湿っていた。まるで今にも泣き出しそうな空模様だ。じっさい、何度かパラリと冷たいものが落ちてきては頬を濡らし、それでもすぐにあがってはまた時折降ってくるといったような、なんとも曖昧な天気が続いていた。
 それはレースをするには最悪の天気だと悟は言った。
 晴れるか降るか、どちらとも推測できない中途半端な状態は厄介なのだそうだ。レースに勝つにはタイヤも重要な要素となるのであり、特に晴れて乾いた路面と雨に濡れた路面ではまるっきり性能の違うものを使うのだそうで、その選択によってタイムに大きく差が出てくるらしい。最初から皆が同じ条件で始まり、それで終わるのなら良いのだが、どちらを選ぶかをチームごとに判断しなければいけないようなこんな天気は、チームクルー泣かせの、難しい状況なのだと悟は説明してくれ
た。
 だがそんな暗い空模様とは裏腹に、サーキットは全体が異様な熱気と興奮に包まれていた。
 全日本ロードレースの第9戦であるという今日のレースは、以前僕が見た小さなお遊びレースとはまるっきり規模も雰囲気も違っていて、足を踏み入れた時からその凄さに圧倒される思いだった。
 驚くほど人がいっぱい見に来ていて、しかも観戦する側にまで不思議な緊張感が漂っていた。お祭りはお祭りなのだけれど、勝利といったものが強烈に意識されている。それは出ているだけで楽しかった、観戦するだけで楽しかった前のレースとは異なり、出場する側もそれを見守る側も、優勝のための強い期待と覚悟を持っているといった感じであった。
 もちろん、出ているチームもお遊びでやっているようなところはひとつもなかった。出場しているのは「プライベート」という個人またはショップが運営するチームが大半をしめていたけれどーー篤志のいる『チーム・ライトニング』もこのプライベートというやつだーー、なかには「ワークス」と呼ばれる強力なチームも幾つか参戦していた。ワークスというのはメーカーが直接運営をしているチームのことで、当然ながら本格的にレースをやるために作り上げられたところだ。そこにはメーカーの最高技術が常に反映されているので、つまるところ、お金も時間もたっぷりつぎ込まれた強くて当たり前って言うチームなんである。
 そんな中で、篤志のいるチーム・ライトニングはちっぽけな一チームでしかなかった。いくら格下のエリア選手権で良い成績をおさめてきているとはいえ、それがそのまま全日本で通じるわけではない。確かに天と地ほどの差があるとまでは言いきれないものの、チーム状況としてはそれに近いものがあった。メーカーからなんのサポートも受けられないで市販のキットパーツを使っているようなプライベートチームでは、たとえどれだけ腕の良いクルーがいようとも、技術的にもマシン自体にも限界が出てくるのはしょうがないことだった。
 実際、僕は篤志とあんな約束をしてしまったことを、深く後悔しつつあった。
 彼は僕のために優勝するといい、僕もそれを望んだ。もしきみが勝ったなら、もう一度やりなおしてみようと彼に告げた。だけどあの時の僕はあまりにも無知だったのだ。僕は、彼の走るこのレースが、それほどまでに彼にとって厳しい状況であることを理解していなかった。そうであるが故に、あんなムチャクチャな約束をしてしまったのだ。
 篤志は間違いなく早いのかもしれない。きっと将来を嘱望された、腕の良いレーサーなのだろう。だけど全日本に年間通して出場しているレーサーたちに比べたら、まだまだ駆け出しのヒヨッコなんだ。優勝するなんてすごく難しくって、本当に最高の運の良さと奇跡を掻き集めなければ、とても手に入れることの出来ないものなんだということを、僕は後で知って深く悔やんだのだ。彼にそんな無茶な目標をいだかせてしまったことを。
 もちろん、レースというものはある意味水物で、蓋を開けてみなければどこが優勝するかなんて誰にもわかりはしない。思いもがけないチームが勝利をさらっていってしまうことだって珍しくはないらしい。だけどそれはあくまでも可能性があるということなのであって、確立というものから考えると、どうしたって強いと評されるチームが強いのが当たり前で、そうでないところは劣ってしまうのが現状だった。そしてそんな確立から言えば、一試合だけ参戦を許された篤志のようなチームは、勝利のチャンスはかなり低いものであるのは間違いなかった。
 僕は正面スタンドのちょっと左の端の方に座って、少し離れたところにあるスタート付近を見つめていた。この間のお遊びレースとは違って、今日のレースはちゃんとピットクルーとして登録された関係者以外はピットに出入りすることはできないからだ。だから僕は、悟と一緒に一般の観戦者たちに混じってスタンドから見ていた。
 コース上のスタート地点には、もう出場するレーサーたちとそのマシンがすでに待機していて、彼らを囲んだクルーが最後の点検やらなんやらを行っているところだった。
 僕が目を凝らしてその様子をうかがっていると、悟が準備周到に小さな双眼鏡を出して僕に貸してくれた。僕はありがたく受けとって、たくさんのレーサーたちの中から篤志を探した。黒い車体に黄色い切り替えのついた車体。そしてそれとお揃いの模様をしたライダースーツに身を包んでいる彼。
 篤志は最前列から二番目の列の端っこにいた。スターティンググリッドで言うと、5番目の位置。今日の試合は、スタートの順位を決めるために前日予選走行があって、タイムを計測して早い順番から前から並んでいくのだそうで、悟に聞いたら、それはなかなか満足できるポジションなんだと教えてくれた。もちろん前であればあるほど有利なのは間違いないが、スポット参戦で出場している選手にしては、予選で五番目というのはたいしたものらしい。スタートの具合によっては、充分前に出ることを狙っていける場所なのだそうだ。
 遠目に見る篤志は、見た目こそいつもと変わらない無表情だったけれど、なんだかピリピリと神経質になっているような雰囲気に感じられた。もっとも、彼だけではない。彼を囲んでる他の人たちの顔も緊張で固く厳しかったし、周りにいる他のチームの選手やスタッフたちも同様だった。皆がスタートを直前にして、とても緊張しているのだ。それはつまり、それだけこの試合が厳しいものなのだと言うことなんだろう。
 篤志は、なにやら話しかけている店長さんに一言二言短く応え、そしてまたきりりと口を結んでじっと前方を見つめていた。まるでこれから走るそのコースを、頭の中で征服しようとしているみたいだった。
 彼のそばには理香さんの姿はなかった。それは彼女がこの場に来ていないからなのか、それともピットで見守っているからなのか、僕にはわからなかった。
 アナウンサーが試合前のチームの紹介や、予選の結果などを軽快な喋りで説明して、サーキット内はいやがおうにも興奮が高まっていった。音楽が鳴ったり、ちょっとしたアトラクションがあったりで、見る側の熱気もどんどん膨れ上がっていく。それはクルーたちが皆ピットに戻っていき、最後にコースに残されたライダーたちがウォーミングアップランという、スタート前の一周の走行を始めた時に、最高潮に達した。
 わああっとどよめくような歓声があがって、皆が走り出したライダーたちを送りだした。いよいよ祭りの始まりだ。スタンド前方のスクリーンに大きく彼らの姿が映し出され、目の前を駆けぬけてスタンドの向こう側に戦い挑んでいく戦士たちの姿を僕たちに届けてくれる。右に左にと曲がりくねるコースを軽やかに、だが鋭いナイフみたいに鋭角に走って行くライダーたちは、誰もがとてつもなく早く見えた。
 タイヤを暖めながらコースを確認するようにじっくりと走っていた彼らが、前のほうから一人また一人とスタート地点に戻ってくる。前列の4人にくっつくようにして、篤志も帰ってきた。止まっているマシンのエンジン音が、ブルンブルンとお腹に響くような重低音を奏でている。やがてそれは数を増し、すべてのライダーたちがそろってスタート地点についた時には、まるでこれから始まるイベントの壮大な序曲のように思えた。
 縦に長く並んだランプに赤い火が灯る。いよいよスタートだ。サーキット全体がしんと静まって、ライダーも、ピットにいるクルーたちも、そしてすべての観客までもが皆息を飲んでその炎を見つめていた。
 レッドランプがグリーンに変わる。と同時に凄まじいほどの爆音がサーキットを包んで、居並ぶマシンがいっせいにスタートした。
 すごい音だった。マシンの一台一台はそれほど大きくはないし、排気量も125CCという一番軽いクラスのレースなのだけど、さすがにレース仕様とあって並のエンジン音ではなかった。
 そしてそれとともに、大きな歓声が観客席から沸き起こった。それはレースが始まった喜びと、そして素晴らしいスタートパフォーマンスを演じてくれた何台かのマシンに向けて発せられたものだった。
 その中の1台――それは篤志だった。
 篤志は前回のレース同様、素晴らしいロケットスタートを決めて果敢にトップに迫った。前列にいる4台と後ろから駆け上がってきた何台かのマシンを相手に、負けじとするするっと前に出ていく。だがさすがに百戦錬磨のつわものたちは簡単には抜かせてくれず、スタンド前の直線で束の間の競り合いを演じた。
 前に行こうとする者、行かせまいとする者の壮絶な攻めぎあいがあり、すぐにそれは最初のコーナーで頂点を極める。第1コーナーの比較的ゆったりとしたカーブで、たくさんのマシンがブレーキングとコーナリングのテクニックを競って、息の詰まるようなバトルを演じた。
 ギリギリまで倒される車体。ライダースーツの膝につけられたニーセンサーが、アスファルトに接して火花が散らす。何十台というマシンが団子になって、今にもぶつかりそうなほどくっつきあってコーナーを抜けていく様子は、物凄い迫力と興奮を生み出すと同時に、背筋を震えあがらせるような緊張感を僕に与えた。
 マシンとマシンに囲まれながらも少しもひるむことなく、いや、逆に無謀とも思えるほどの強引さで前に出ようとする篤志の姿に、全身が総毛立つほどの恐怖をおぼえる。そしてまた、恍惚とするような快感も感じた。
 危険と隣りわせの迫力と興奮。それこそが魔法のようなレースの魅力だ。そんなものにとりつかれて、皆がレースを愛するのだ。
 僕は声ひとつ出せずに、食い入るように篤志の姿を目で追っていた。大型スクリーンの中に現れるライダーたちを目を凝らして凝視し、コーナーでバトルを演じるたびに、ぎゅっと拳を固く握った。ハッと気づくと、てのひらが汗で濡れていた。文字通り、手に汗握るとはこのことだ。
 やがて最初の一周を走り終えて、彼らがスタンド前に戻ってきた。ホームストレッチをぐんと加速していくマシンたちは、凄まじい爆音にひゅんひゅん風切る音を混じらせながら、歓声をあげる僕たちの前を爽快に駆けぬけていった。篤志はひとつ順位を上げ、4位で走りすぎていった。
 アナウンサーが一周目を走り終えたライダーたちの順位を紹介する。それぞれの名が読み上げられるたびに、その選手を贔屓とする観客たちの中から声が上がった。
 篤志の名も呼ばれて、歓声が沸き起こった。それは不思議な感覚だった。
 自分がよく知っている者を応援されて、すごくいい気持ちがして、そして密かな優越感があった。と同時に、まるで自分の知らない誰かを見ているような不安と寂しさも感じた。彼は僕だけの篤志ではないのだと、こんなところでもひしひしと実感してしまう。こんな時、理香さんはどんな風に自分の気持ちを納得させていたんだろう。それとも、そんな風に感じることなんてなかったんだろうか。これって、僕だけが、なんの取り絵もない、つまんない僕だけが感じる気持ちなんだろうか。
 そんな僕の思惑をよそに、レースは順調に進んでいた。
 篤志は上位集団に遅れを取ることなく、ぴったりとトップグループに食らいついていたけれど、前の時みたいに簡単に先頭に出ることはできなかった。むしろ、かなり無理して走っているのが、素人の僕の目からもうかがえた。
 コーナーを迎えるたびに、無謀とも思えるようなブレーキングで追い越しをかけ、時には順位を上げたりするのだが、直線に来てそれぞれのマシンが加速すると、途端に遅れをとって抜かれるという繰り返しだった。それはマシンの性能の違いだと悟が教えてくれた。プライベートチームのチーム・ライトニングは、どうしても他のワークスから比べると、エンジンの馬力やらなんやらで劣ってしまうのだ。それは仕方のないことだけれど、それでも負けじと無理して走ってる篤志の姿には、そんな優劣をふっ飛ばしてしまいそうな熱い期待を抱かせた。
 しかし時折タイヤがフラフラっと揺れて車体がぐらついたりすると、転倒するのではないかとヒヤリと背筋が冷たくなった。だがもちこらえてすぐまたトップに追いすがっていく様子は、僕だけではなくほかの観客たちをも興奮させるらしく、そんな光景が訪れるたびに、わあっと大きな歓声があがった。篤志の走りには、なにか凄いことをしでかすのではないかという、燃えるような魂が感じられた。
 そんな風に七・八周ほど走っただろうか。
 先頭集団は篤志を含めた五台だけにしぼられ、その五台が抜きつ抜かれつのバトルを演じていたところだった。
 ふっと頬に冷たい滴を感じたと思ったら、見る間に黒い雲がムクムクと張り出してきて、あっという間に雨となって落ちてきた。最初はぱらぱらと小降りだったのだけれど、そのうち本格的に音を立てて降り始める。観客たちはざわざとざわめき、スタンド前のピットではにわかに慌ただしさを増していた。
 皆が表情険しく額を寄せて話し合い、奥へ入り口へと出たり入ったりを繰り返している。突然降り始めた雨に、どう対処すべきか騒然となっていた。
 そんな中、雨はいったん少し収まり、あがるかと思われて誰もが一瞬ホッと息をついた。だがそんな期待は見事に裏切られ、今度は一転し、いっそう激しくザーザーと落ち始めた。さすがにその頃になると、チームの中には雨用のタイヤに交換しようとするところが出始めて、クルーが、サインボードという走るライダーたちに指示を出すための小さな黒板みたいなもので、ピットインするようサインを送る光景が見られだした。
 もちろん、そのタイミングも重要なポイントだ。タイヤ交換には時間がかかる。だから、余分に回数を重ねるなんてことは勝利を捨てたも同じことだ。交換をするかしないか、するとすればいつやるのが最適なのか、それを見極めるのはひとえにチームクルーの腕と勘の見せ所なのだった。
 もしかしたらまた雨は上がるかもしれないし、逆に雨脚を強めるかもしれない。前者なら今のまま粘って粘ってこらえていれば、もしかしたらそのまま走りつづけられるかもしれない。また後者ならば、どの段階で決断し交換に踏み切ればもっとも効率良く、かつ最高のスピードをもって走れるのか、その判断は重要になる。また雨の中を普通のタイヤで走ることには、とんでもない危険が伴なうので、必死で走るライダーたちのためにも、そのタイミングを見誤るのは許されないことだった。
 トップで走るチームは、さらに互いの駆け引きが絡んでくるため、その判断はいっそう困難を極めていた。彼らはどこも最後まで普通のタイヤで我慢して走り続けていたが、さすがにそれも厳しくなって、一台、また一台とピットインし始めた。
 見ていると、篤志のチームもまた、ピットインの指示を書いたボードを持ったチームクルーの姿が見うけられた。それでなくても無理して走っている篤志のタイヤは、雨で濡れてグリップを失うと、いっそう厳しいことになるらしいのだ。
 しかし――ピットに向かうための細い入り口の前に来ても、篤志のマシンはそこに入ることを拒んで走りぬけていった。最初は誰もがそれを見逃した。怪訝に思ったのはチームクルーたちだけだっただろう。彼らとて、その時はサインの見落としかとそれほど深く考えることはなかったに違いない。
 しかし次の周、そしてさらに次の周もピットインする気配もなく走りすぎていく篤志のマシンを、やがて誰もが気づき始めた。篤志は明かに指示を無視して、自分の意志で走り続けていた。
 アナウンサーの人が驚愕の声で彼の行動をはやしたてた。
 雨はかなり強く降っていて、コース上にはあちこちに水溜りができ始めていた。だがそれでも、相当な部分はまだまだ路面がむき出していて、普通のタイヤでも充分走行が可能な状態だ。そして、そうであればレインタイヤより普通のタイヤで走ったほうが、タイムは絶対に良いのである。篤志はそれをわかっていたからこそ、無理してタイヤ交換をせずに走りつづけているのだ。皆がレインタイヤを履いてタイムを落とすこの機に、少しでも時間を稼ぐために。
 しかし、その行為は当然のことながら高いリスクをはらんでいた。ひとつ間違えれば、水溜りに足を取られて転倒する可能性が高い。だから篤志のチームの人たちは、そんな彼の無謀な走りを決して誉めるようなことはしないで、怒りと心配をこめて何度も何度もサインを出し続けていた。
 だけど篤志は、まるで限界に挑戦するようにサインを無視して走りつづけた。雨の中、時折ふらふらとマシンをぐらつかせながら、それでも必死になって走るその姿は、なんだか鬼気迫るものがあった。
 そのまま何周走っただろうか。ようやく篤志はピットロードに入っていった。他の選手達はすでに皆交換を終えていて、彼が一番最後だった。
 彼を出迎えた仲間たちは、一言も発せずに作業に没頭した。篤志もまた、ひたすら前を見つめたままじっとそれが終わるのを待っていた。多分店長さんも他のクルーの人たちも、指示を無視した彼の行為には腹を立てていたに違いない。だけどレースの真っ只中で余計な感情を挟むことは危険なことだと知っているので、誰も叱りつけたり文句を言ったりするものはいなかった。
 ほどなく作業が終わり、篤志は待ちわびていたかのように、すぐさまコースに戻っていった。コース上には、すでに交換を済ませていた外の選手達が、遅れを取りもどさんとして必死になって走っていた。そんな中に篤志のマシンが入り込む。かなり無理して時間を稼いでおいたため、コースに戻った時も順位を落とすことなく、トップを競う二台のマシンのすぐ目の前に踊りでた。観客席からわあっと大きく歓声があがる。タイヤ交換を終え、皆が同じ条件となった今、篤志はまごうこととなきトップの座にいるのである。
 強い選手達を押しのけての、堂々の一位。しかもスポット参戦で参加しているライダーが。
 それは見ている皆にとっても胸のすくような思いらしく、誰もがそのパフォーマンスを賞賛し、勇気をたたえ、熱く応援した。
 しかし他の選手達にとっても、絶対に安易には譲れないのが頂点の座なのだ。すぐさま後ろについていた二台が猛然とスピードをあげ、篤志を抜きにかかった。コーナーですかさず隙をつくように内側から迫っていく。篤志はその進路を塞ぐように、車体を倒してインへと寄せる。マシンとマシンがこすれ合いそうなほど狭まる距離。そして抑えたかと思ったら、すぐさま次のコーナーでまたも勝負をかけてくる。息をつく暇もないほどの壮絶なバトルが演じられた。
 興奮と心配で心臓がドクドクと高鳴っていた。
 それは本当に凄いシーンだったけれど、同時に胸のしめつけられるような危機感があった。危険と隣り合わせなんてもんじゃない。危険と知りながら、自分からそこに飛び込んでいっているような、異常なほどの執念が感じられる。僕は思わず横にいた悟の腕をぎゅっと掴んだ。
 悟がその手の上に自分の手を重ね、強く握りかえしてきた。僕が不安そうな顔を向けると、彼もまた緊張した面持ちで僕を見返した。
「……あいつ、どうしたんだ? あれ、普通じゃねえよ」
 彼が心配そうな声でつぶやいた。
「すげえ根性だけど、やべえよ、あれ。攻め過ぎだ」
「ど、どうして……?」
「だってあいつ、タイヤ変えたばっかしなんだぜ。新しい奴ってのは滑るんだ。だから交換後の何周かは無理しないってのが基本なのに。ましてやこの雨の中でよ」
 それを聞いて、僕はいっそう震えあがった。
(篤志、もういい。そんなに無理しなくていいよ。優勝なんてしなくていいから……篤志)
 だけど今更それは、遅すぎる望みだった。
 篤志と二台のマシンが相変わらず抜きつ抜かれつの攻めぎあいを演じている。ヘアピンからスプーンカーブを抜けてバックストレッチにさしかかった時、突然それは起こった。
 カーブをすぎて立ちあがり加速した篤志のマシンのリアタイヤが、急に大きく横にスライドした。じょじょにあちこちに現れ出していた水溜まりに、足を取られてスリップしたのだ。
 それはあっという間もなくマシンをなぎ倒し、乗っている篤志ごともの凄い勢いでコース上を滑っていった。コースの中では最高速で駆け抜けるというその長い直線。ちょうどスピードを上げて走っていたために、マシンは転倒してもスピードを緩めることもなく、そのままアスファルトの上を滑走して激しくタイヤバリヤに激突した。
「篤志っ!」
 バリアに激突した瞬間、マシンは大きくはね跳び、一回転して地面に転がった。篤志の体は暴れ馬から振り落とされるように、マシンから弾き飛ばされてごろんごろんと大地の上を凄い勢いで回転した。そして数回まわったところでようやく止まって、そのままぐったりと大地の上に転がった。
『森川、転倒だ! バックストレッチで転倒! タイヤバリアに激突したぁ!』
 アナウンサーが悲鳴のように絶叫する。サーキットが騒然と色めき立った。
 スクリーンに大きくその光景が映し出される。転がって地面に倒れ伏したままの篤志のもとに、係員たちが慌てて駆け寄っていくのが見えた。
「あ……」
 僕は唖然として大きく口を開けたまま、身動きひとつ叶わず硬直した。
 目の前で起こった光景が、まるで悪夢のようだった。
 人間って、本当に巡り会いたくない事実に出会った時には、すぐにそれを受けいれ、信じることができない。その時の僕も、眼前のスクリーンを食い入るように見つめ、瞬きも忘れるほどに凝視していながら、どこかそれが遠い世界の絵空事みたいに思えて、頭の中にぼんやりと霧がかかっているような感じだった。
 スクリーンでは、倒れた篤志の周りにたくさんの人たちが集まって、彼の様子をうかがっているところが映った。大きな画面の真ん中で力なく横たわっている篤志の体は、ピクリとも動かなかった。メットをつけたまま、冷たく濡れた草の上にうつ伏せになって転がったままだ。メットの下の唇からは、うめき声ひとつ聞こえてこない気がした。
(篤……志……)
 一瞬ふうっと目の前が暗くなる。騒々しい周りの音がすーっと薄れていって、世界がまっさらになった。
「夕日!」
 悟の声で、僕は我に帰った。気がついたら彼の腕が僕の体をしっかりと抱えて支えていた。僕は無表情に彼を見つめ、つぶやいた。
「……篤志は?」
 悟が困惑したようにスクリーンに視線を移す。僕もまた、再びそこを凝視した。
 相変わらず篤志は身動きひとつせずに横たわったままで、そこに担架が運ばれてきて、たくさんの係員たちの手で乗せられ、運ばれていくところだった。
 コース上ではそのままレースが続行されていて、映像はすぐに走るマシンの姿に切り替わって、アナウンサーの中継もレースの状況に戻っていた。
 僕は愕然としてその場に凍り付いていた。大地に転がった篤志の姿が、目に焼き付いて離れない。なにがどうなったのか、どうしてよいのかわからなくて、只々目を見開いたままそこに座っていた。
 その時悟の手が僕の手首を捕まえて、ぐいと引っ張った。
「来い、夕日」
 そのまま僕を引っ張って観客席から離れ、どこかへと連れていかれた。僕は考えることもできずに、ぼうっと人形みたいに従った。
 スタンドを降りて車両入り口のほうに向かっていく。ハッと気づいたら、まだ遠いそこに一台の救急車が止まっていて、今まさに篤志を乗せた担架が運び込まれようとしていた。
「篤志……」
 僕は力なく彼の名を口にし、その光景を見つめた。救急車には篤志が乗せられたあとに、店長さんと、そして……理香さんが乗り込むところが目に入った。
 バタンと後ろのドアが閉じられ、救急車は赤いランプを点灯させながらすぐさま走り出していった。僕は一人取り残されて、その場でそれを見送った。そぼ降る雨の中、びしゃびしゃに濡れながら、甲高いサイレンの音が遠くかすれて聞こえなくなるまで、ずっとずっとそこに立ち尽くしていた。
 全身ががくがくと震えていた……。

 
     
                                            ≪続く≫
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