フェンスの向こうに |
5 僕たちが泣いた夜 |
月曜の朝、僕が学校に着くと、生徒玄関で、まるで待ちわびていたかのような悟に出迎えられ、そのまま廊下の端っこに連れて行かれた。悟は声を潜めて、恐る恐る僕に尋ねた。 「なあ、あいつ、なんか言ってたか? やっぱ、怒ってた?」 「誰が、だって?」 僕がいぶかしげに問い返すと、彼はじれったそうに答えた。 「あいつだってば。あの……バイクのレーサーだよ。森川ったっけ?」 「ああ……」 僕はすぐに納得し、そしてうつむいた。 「……あれから会ってないから」 「え? だっておまえら、毎朝電車で会うって言ってなかったか?」 僕は唇を結び、無言の返事を返した。ただならぬ雰囲気を察してか、悟までもが続く言葉を失って、沈黙して立ちつくす。 僕は今朝、わざと電車の時間を一本遅くずらして乗った。理由なんていうまでもない。篤志に会いたくなかったからだ。 僕は彼に会うのが怖かった。彼が怒っているとか、なにか言われるとか、そんなことを恐れたわけじゃない。僕は、自分の中で答を出すのが怖かったのだ。彼に会って、彼に言ってしまうかもしれないその一言が、ただひたすらに恐ろしかったのだ。 今はただ漠然と心の奥に引っ掛かっている迷いだけど、いつかそれが、なにかのきっかけでちゃんとした形になって自分自身につきつけられるかもしれないと考えると、どうしようもなくそれに脅えた。 僕は篤志が好きだ。誰よりも愛してる。なのに……僕には、それを貫くだけの自信がない。そしてその自信のなさが、いっそう僕を小さく封じ込めて迷いを抱かせているように思えた。 僕が暗い顔をしてうつむいていると、悟が申し訳なさそうにつぶやいた。 「……ごめん。俺があんなこと言わなけりゃ……」 ふと彼を見ると、なんだか僕よりもずっと深く落ち込んだ顔をして、今にも泣き出しそうなほど情けない表情を浮かべていた。無理もない。彼としては、一昨日あんな風に自分勝手に口を挟んでしまったことを、ずっと気にかけていたに違いないのだ。 いくら僕のことを思ってしてしまったこととはいえ、それは結果的に僕と篤志の間にくっきりと溝をつける羽目になってしまったのだから。 だけど彼は責められない。責める気なんて毛頭ない。だってあの時の悟の言葉は、紛れもない僕の本心だったから。 僕は無理矢理口元に笑みを浮かべて、彼の肩にそっと手を置いた。 「別に悟のせいじゃないよ。気にしないで」 「でも……」 「いつかは、はっきリしなきゃならないことなんだから。悟だって言ってただろ? 三角関係なんてよくない、不自然だって」 悟はそれでも不安いっぱいに僕を見つめた。まるで、その三角からはじき出されるのが僕だということを、わかってでもいるかのように。 僕は下を向いて、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 「ちゃんと答えを……ださなくっちゃね」 それは本当に、自分に対する言葉だった。 翌日、僕はいつもの電車に乗った。 そしていつもの特等席へと向かう。前から三両目の車両の、前側のドアの横、見知った顔が待つあの場所へと歩いていった。 そこには篤志がいて、僕が乗り込んできたのを見て、ちょっとホッとしたような表情をうかべてみせた。そしてすぐに、今度は少しすねたように唇の端が不機嫌そうに歪む。だけど言葉に出して責めるようなことはしなかった。 「おはよう」 僕がそう声をかけると、篤志はちょっと間をおいてから、低く応えた。 「おはよう」 それきりしばしお互いに黙り込む。僕たちの間に、妙な気まずさというか、ぎこちなさが漂っていた。それぞれ胸に秘めているものがなんであれ、確かに僕と彼との間には以前とは違うなにかが横たわっている感じだった。 僕はしばらく黙って考えていたけれど、やがて意を決して口を開いた。 「ね、今日逢える……」 「今日だめだから」 それは二人して同時に発した言葉だった。 示し合わせたように一緒に、そのくせ正反対のことを口にした僕たちは、しばし意表をつかれて驚いて顔を見合わせた。 少しの間、僕たちは言葉もなく見つめあった。お互い、なにをどう返してよいのかわからなくて、困惑して凝視する。先に口を開いたほうがより深く傷口を広げてしまう気がして、僕たちはためらいと迷いの中で沈黙したまま見つめあい続けていた。 そのうち篤志が、根負けしたように瞳をそらして、口ごもりながら言い訳した。 「ちょっと……理香に、買い物につきあうよう頼まれちまって……」 僕の胸がドキンと強く打つ。一瞬こらえる余裕すらなく顔がひきつり、だけどそれを押し隠すように僕はうつむいて相槌を打った。 「……そう。わかった……」 それっきり言葉をなくした。なにを言えばいいのかわからなかった。 篤志はしばらく困ったように僕を見つめていたが、そのうちおずおずとつぶやいた。 「……いや、いい。あっちは、どうにでもなるから」 思いもがけぬ一言に、僕は眉をひそめて顔をあげた。篤志はやけに力を込めて、押し付けるように言った。 「逢おう、今日。おまえ、そうしたいんだろ? 夕日?」 僕はなんだかカチンと来て、まじまじと篤志を凝視した。 そうしたいんだろうって、そりゃあ確かに僕だって篤志と逢っていたい。だけど、僕の願望だけでどうにかなるって問題じゃあないだろう? だいたい、そんな簡単に反故にしていい約束なら、どうして最初から交わしたりするんだ? どうにでもなるって……どうにも断れないことだったからこそ、僕とのデートをふいにして引き受けてきたんじゃなかったの? 篤志にとって、僕も理香さんも、そんなに簡単に行ったり来たりできるほどの軽い存在なわけ? 僕は、きみにとっていったいなんなんだよ! それまで胸に溜まっていたイライラや憤りがこみあげてきて、僕は思わず爆発しそうになり、それをこらえるように視線をそらしてうつむいた。そして足元をにらみつけながら首を振った。 「いいよ。篤志、ちゃんと理香さんにつきあってあげて。僕は別に……いい」 「だけど」 「いいんだってば。どうせ特に用事なんてないんだからさ。別に逢えなくったってどうってことない……」 そう口にしかけて、その言葉のもつ意味の残酷さに気がつき、僕はハッとして押し黙った。 ピリッと僕たちの間の空気が冷たく凍ったのを感じた。恐る恐る視線を上げると、篤志が憮然とした顔をして僕を見つめていた。 僕たちが二人きりで会うことの意味を僕自身の口から否定されて、瞳が憤ったように震えていた。きゅっと強く結んだ唇がやがてかすかに開いて、ボソリとつぶやいた。 「そうかよ」 それっきり向こうを向いて黙り込む。わざとらしく向けた横顔が、彼の怒りを語っていた。 僕は言葉もなく立ちつくした。 彼を怒らせてしまった。僕の不用意な一言が、僕たちがこれまでつくりあげてきた二人きりの時間を、価値のないものへと卑しめてしまった。 彼が怒るのは当たり前だ。僕は言ってはいけないことを言ってしまった。 ……だけど、それじゃあ僕はどうすればいいんだ? 篤志の気まぐれに振りまわされて、喜んだり哀しんだり、落ち込んだり浮かれたり、そんな残酷な存在であることを我慢しろっていうの? 僕には意地を張ることさえ許されないって言うのか? 僕は、ずうっと惨めな気持ちで、きみを愛していかなければいけないの? ねえ、篤志……? 鼻の奥がツーンとしびれた。まずい、泣いてしまいそう。だけど、まさかこんな朝のラッシュの電車の中で、高校生の男がポロポロと涙をこぼすわけにもいかない。僕は唇を噛み締めて、必死になってこらえた。 耳元でボソッと低い声がする。 「おい、乗り越す気か?」 ハッとして顔を上げると、そこはもう僕の降りる駅だった。僕は慌てて開いたドアに向かって人ごみを掻き分けて進み、なんとかドアが閉まる直前に電車から飛び降りた。 すぐに後ろでドアが閉まる。振り向いた時には、もう電車は走り出してホームから出て行こうとするところだった。 風が強く吹きつけて僕の顔を乱暴に叩いていく。走り去って行く電車を見つめる僕の瞳から、さっきこらえていた透明な滴が、ぽろりとひとつ流れて落ちていった。 その夜、僕は久しぶりに早く帰宅した火曜の夜を、持て余し気味にすごしていた。 食事を済ませ、時間つぶしにくだらないテレビを眺め、それにも飽きて自分の部屋に戻って明日の予習でもしようかなと思った頃、突然チャイムが鳴って遅い来客の訪れを告げた。僕は出ていこうとする母を止めて、玄関へと向かった。父が帰ってくるには早過ぎるし、いったいこんな時間に誰だろうといぶかしみながら、玄関のドアを開ける。そして言葉もなく立ち尽くした。 そこには、篤志が立っていた。 いつもの皮ジャンにメットを小脇に抱え、むっつりした無愛想な顔で突っ立ってる。僕が出てきたのを見てほんの少し顔を緩め、小さく言った。 「よお」 あまりの突然の訪問に返す言葉もなく見つめていると、彼は低く声を潜めるようにしてつぶやいた。 「出てこれるか?」 僕は一瞬迷ったけど、それでもうなずいて応えた。いったん中へと戻って母になんとか言い訳をつくろうと、ジャンパーと財布だけ持って家を出た。外には少し離れたところにバイクが止めてあって、彼は当然のように僕に後ろに乗るよう指示をし、自分もマシンに跨った。 慣れた動作で僕が後部座席について彼の腰に手を回すと、篤志はためらうことなく発進させた。冷たい夜の風の中を、僕たちは走りぬけた。もう何回こうして走ってきたことだろうか。まだ篤志の名前も知らなかったあの頃から、僕は彼の背中でひゅんひゅんと吹きすぎて行く風の音を、メットの中で聞いていたのだ。 それは時には冷たく心を刻むナイフの風切り音であったり、時には限られた幸福の世界へと連れていってくれる歌のようでもあったり、様々に意味を変えて僕の耳に響いてきた。そして、それらはいつも、ぴったりと身を寄せた篤志の背中から伝わってくる彼の鼓動の音と共にあった。 (篤志……) 僕は腰にまわした手にギュッと力を込めた。 誰よりも、誰よりも愛しい者。そして……誰よりも誰よりも遠い人。いつまでたっても、なかなか縮まらない僕たちの距離。 バイクは混雑する道路をするすると通りぬけ、あのいつものマンションへと到着した。結局、僕らに許されているのはこの部屋だけなんだなと思うと、少し哀しいような気持ちになる。僕たちは、身体だけでつきあってたあの頃から、本当は少しも進んでいないのかもしれない。 部屋に入ると、篤志はキーと皮ジャンをソファーに放り出して、深くため息をついた。突っ立ったまま、ちらりと僕の方を見る。僕もまた部屋の隅に立ったまま、彼を見つめた。 「もう買い物終わったの?」 僕が尋ねると、篤志は随分間をおいてから、そっけなく応えた。 「ああ」 愛想のない返事。ちょっと怒っているような、突き放したような口調。なんだか初めて会った頃の彼みたいだ。 彼の声が聞こえなくって、もやもやとしていたあの頃、僕は彼と別れる決心をして最後のつもりでここに来た。身体だけでつきあうことの虚しさに耐えかねて、僕は彼にさよならを言った。それから思いもよらず彼から「好き」という言葉をもらって、有頂天になって舞いあがった。彼に愛してもらえるのなら、それだけでいい、他にはなんにも要らないと……そう思ってた。 だけど、実際はそうじゃなかった。人を好きになるって、なんて欲張りなことなんだろう。その人を自分だけのものにしたいし、他の誰にも渡したくない。自分だけを一番に愛してもらいたいと思ってしまう。 それがどんなにワガママで不遜なことだとわかっていても、心がそれを望んでしまう。そして現実との狭間で苦しむんだ。 篤志は僕独りのものじゃない。彼には彼の世界があって、そこにはたくさんの別の人がいて、それぞれに深く関わってる。僕だけが彼の特別な訳じゃない。 篤志が僕を愛していてくれてるのはわかってる。だけど、だからといって彼を独占するわけにはいかないんだ。そしてそれを理解しているからこそ、ワガママな自分の気持ちがどうにも苦しくて、辛いのだ。 不条理な嫉妬や羨望に自分がどんどんイヤな奴になっていくのがわかる。せつなくて、哀しい。どうしたらいいのかわからない。それに、彼を知れば知るほど、僕なんかよりもっとふさわしい相手がいるのだと思い知って、なおさら自分が見えなくなる。そうして僕はどんどん惨めになって、彼といる意味を見失ってしまいそうになるんだ。 彼を愛してる。誰よりも篤志が好きだ。だからこそ……僕は篤志と一緒にいるべきじゃないのかもしれない。 別れたほうがいいんだろうか。そのほうが、篤志だって僕に気づかうことなくこれまで通りやっていけるし、理香さんとだって今までのようにつきあっていける。それに僕だって……これ以上傷つかなくてすむのかもしれない。少なくとも、目を背けたくなるほど醜い自分にため息をつくことはなくなるだろう。 だけど……その決断をくだすのは、あまりにも痛かった。 僕は話を切り出す勇気が持てぬまま、床をにらんでぽそりとつぶやいた。 「僕、あまり長くいられないから。もう時間も遅いし」 きっとその時の僕は、逃げたかったのかもしれない。早く彼の前から逃げ出して、いつまでも本当のさよならの時を引き伸ばしたかったのかもしれない。僕はやっぱりまだ彼が好きで、彼と別れたくなかった。最後のピリオドをうつには、彼を愛しすぎていたのだ。 だが、そんな僕の迷いは思いも寄らぬ一言でこなごなにうち砕かれた。 篤志がちらりと僕を見、低い声で言った。 「……俺、理香とは別れたから」 「……え?」 呆気にとられて顔をあげた僕に向かって、篤志はキッパリと言いきった。 「ちゃんとあいつに言ったから。別に好きな奴がいるって」 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。 理香さんと……別れた? どうして? 今朝会った時までは、そんなこと一言だって言ってなかった。そんな素振りすらなかったのに。なんで急にそんなことを言い出すんだ? 篤志は、僕を残して理香さんとデートしてたんじゃなかったのか? 「……なんで? なんでそんなことを言ったの?」 僕は茫然として尋ねた。突然の展開に考えがついていかない。篤志が何を考えてるのか、まるでわからなかった。 篤志は憮然とした様子で応えた。 「なんでって……ほんとのことだろ?」 「だけど……どうして急に……」 「だっておまえ……いやだったんだろ? 理香がべたつくの。それなら、ちゃんと言わねえとあいつわかんないし、いつまでもごまかしてるより、さっさとはっきりさせたほうがいいと思って。おまえだってそのほうが気が楽だろ?」 篤志はまるで当然のことのように喋った。まるでそれが、僕のためであるかのように。僕を思ってしてくれたことのように。……いや、実際そうだったんだろう。彼は、僕を気づかってそうしたに違いないんだ。 だけど僕にはその想いは伝わらなかった。むしろ僕は、どうしようもない怒りを感じた。 あまりに無神経な行為。それは理香さんに対しても、僕に対してもだ。 突然一方的に別れを切り出された理香さんの気持ちも、あんなに独り思い悩んでいた僕の苦しみも、そこには全然介在してない。篤志はなんにもわかってない。 いったい僕がどんな思いで二人を見ていたか、どんなに葛藤しながら別れまでも考えていたのか、まるっきりわかってないんだ、こいつは! 僕は震える手を強く握り締め、かすれた声でうめくように言った。 「誰が……誰がいつそんなこと頼んだんだよ? 別れろだなんて……」 僕は下からにらみつけるように彼を見つめた。 「……僕は、一言も言ってないよ……。きみと理香さんに別れてほしいだなんて。そんなこと、いつ言ったっていうんだ? 勝手になんでも決めつけて、それが全部僕のためだなんて顔をするな!」 「夕日……」 篤志がビックリしたように僕を見る。当たり前だ。彼には少しも罪の意識なんかない。僕がなにを怒っているかなんて、きっと想像もつかないだろう。 僕はそんな篤志を見ながら、たった今までどうしても口に出せなかった一言を言葉にした。 「僕は……別れなきゃいけないのは僕たちのほうだと思ってた。さよならを言うつもりで、きみについてきたのに……」 篤志の顔に信じられないといった驚愕の色が浮かんだ。 それはこんなきっかけでもなければ、もっとずっと先送りされていた結末かもしれなかった。 口にする勇気を持てぬまま、いつまでも僕たちはずるずると中途半端な関係を続けていたのかもしれなかった。 だけど、僕は自分の中ではっきりとその答えを見つけてしまった。このまま進んでいくことの虚しさ、三角形の不自然さ、そして……その中で自分が一番不必要でそぐわない存在なのだということ。僕なんか篤志の世界にはいらないのだと、気がついてしまったんだ。 しばらく茫然として立ち尽くしていた篤志だったが、やがて怒ったように眉をひそめて、冷たい声で言った。 「なんだよ、それ?」 鋭い眼差しが、食い入るように僕を見つめる。僕は震えながらその瞳を見返し、かすれた声で応えた。 「言葉……通りだよ」 篤志の顔が困惑するように歪んだ。どうしても理解できない僕の言葉に、どんな風に言い返せぱよいのかわからないといった様子だ。 彼にしてみれば、理香さんと別れて、それですべてが丸くおさまる、僕が喜ぶのだと信じて僕に逢いに来たのだろう。それを逆になじられ別れを切り出され、いったいなんでこんなことになってしまったのか考えられないといったところか。 それでも彼は、必死になって切れそうな糸をつなぎとめるように僕の言葉を否定した。 「どうして別れなきゃならないんだ? わけのわかんねーこと言うな」 「わけははっきりしてるよ」 「なにがだよ?」 「もうきみについていけないからだよ!」 僕は悲鳴のように叫んだ。一瞬篤志がぴくりと震えたのがわかった。残酷に振り下ろされた言葉のナイフに、愕然として彼は立ち尽くしていた。長い間身動きひとつしない。そのうち、ゆっくりと眉をひそめ、歪んだ唇を開いた。 「……どうして?」 僕を見つめる瞳が怒りに震えていた。すぐにそれは、怒声となって僕につきつけられた。 「どう言う意味なんだ? わかんねえよ!」 篤志は大きな声で叫ぶと、壁際に立っていた僕を追い詰めるように、僕の両脇の壁に向かって激しく手をついた。耳元でパンと大きな音が響いた。 「夕日!」 彼の声がとどろく。僕は彼の怒りに脅えながらも、負けないくらいの声で叫び返した。 「どうせわかんないよ、篤志には! 僕がどんな気持ちでいたかなんてわかんない! いつもいつも遠くで見ているしかできなかった僕の苦しさなんて、わかるわけない! きみと理香さんを目の前にして、僕がどんなに惨めだったかなんて気づいてもいなかったくせに!」 それは僕の心の悲鳴だった。ずっと長い間胸に溜めていた苦痛の叫びだった。だけど篤志はどうしてと言うように、顔をしかめ、ゆっくりと首を振った。 「俺は……おまえが好きだと言ったはずだ。おまえだけが俺にとっての特別なんだと、そう話しただろ?」 「そんなの……違うよ。きみにとっての特別は、僕だけじゃない。それはきみが気づいてないだけだ。きみにとっては、僕も理香さんも、おんなじなんだよ、篤志」 突然篤志の手が伸びてきて、僕の胸倉を掴むと、激しく壁に押しつけた。ドスンと大きく音がして、背中に強い痛みが走る。篤志はそのまま僕の襟首を締め上げて、低く震えるような声でつぶやいた。 「……くだらないこと言うな」 咽の奥から搾り出すような声が、苦しげに喘いでいた。 「どうして……そんなこと言うんだ? 俺が……どんなに……。どれだけおまえのことを……」 途切れ途切れに紡がれた言葉が最後まで語られることなくかすれて消えた。しばし無言で凝視していたかと思うと、ふいに篤志は僕を引き寄せて荒々しくくちづけた。 「ん……!」 乱暴なキスだった。優しさの欠片もなく、ただ奪うように激しく唇を押しつけ、強引に歯を割って舌を押し入れてくる。あまりにも激しすぎて、彼の歯が僕の唇に強く当たって傷をつけた。僕は鋭い痛みに思わず逃れようと顔を引き、両手で彼の体を押し返した。 しかし逆にそれを拒むように、篤志はいっそうきつく僕を抱き寄せ、荒っぽく髪の中に手を突っ込んでは逃れようとする僕の頭をしっかりと押さえ込んでしまった。僕はふさがれた口でうめき声をあげながら、必死になって抵抗した。 「ん……、んん……!」 押しても押しても離れようとしない彼の胸の中で、僕は精一杯もがいた。そのうち、振り上げた手が篤志の頬を直撃し、パシリと激しい音を立てた。一瞬篤志の手から力が抜ける。その隙に僕は反射的にあとずさって、そこから逃れ出た。 心臓がドクドクと早鐘のようにうっていた。震えながら篤志を見ると、その顔は氷のように冷たく凍り付き、そして炎みたいに熱く燃えていた。キツイ瞳が僕を食い入るように凝視し、まっすぐに結んだ唇の端がわずかに歪んで、彼の秘めた怒りを物語っていた。 一瞬後、篤志が突然つかみかかってきたかと思うと、僕は両肩を掴まれて押し倒され、あっという間に冷たい床に転がされた。そしてその上に彼が有無を言わさずのしかかってくる。僕は顔を引きつらせながら叫んだ。 「や……いやだっ!」 慌てて逃げようと、彼の体を突きはなした。だけど小柄な僕の力はレースで鍛えた篤志の比ではなく、情けなくもまるっきり歯が立たない。それでも必死になって両手を振り上げては、メチャクチャに篤志の背中を拳で叩いた。篤志の顔が苦痛に歪み、一瞬押さえている力が緩んだ。僕はすかさず強く彼を突き飛ばして、彼の胸の下から這いずるようにして逃げだした。 しかし篤志は容赦しなかった。情けなく這いずる僕の足首を掴み止めると、ぐいっと力一杯引きずり寄せて、床の上にうつぶせに這いつくばらせてしまった。そして腰の上に乗っかり、体重をかけて押さえつけると、半分脱げかけていたジャンパーをはぎ取って、乱暴にシャツをたくしあげ脱がせようとしてきた。 僕は必死になって体をひねり、なんとかそれに抵抗した。彼が僕をどうしたいのかはわかっていた。だけど絶対に応えたくなかった。 こんな乱暴なセックスなんて死んでもいやだ。いくら相手が篤志だって、これではレイプと変わらない。こんなの愛じゃない! 心も体も無視した力づくの関係なんて、そんなの僕は知りたくない! 「やだ! やめて! 篤志!」 「うるさい!」 一声大きく怒声が響いて、同時に激しい衝撃を顔面に感じた。左の頬がジンとしびれて、頭がクラクラと揺れてまわった。 篤志の大きな手が、僕の顔を力任せにひっぱたいたのだ。 僕は一瞬あまりのショックに、すべての抵抗を忘れた。特に甘やかされて育ったわけじゃないけれど、僕は両親にすら手をあげられた記憶がない。暴力とは無縁の世界で生きてきて、生まれて初めて頭がふらつくほどに殴られ、その衝撃に心も体も脅え、ひるんだ。 その時本気で彼が怖いと思った。 力の抜けた僕の体から、彼が衣服を乱暴に剥ぎ取っていく。シャツを脱がされ、ジーンズを引き下ろされて、それでも僕はなんとか逃れようとして、恐怖に脅えながらもずるずると床を這った。膝下にずり下がったジーンズを絡ませながら、必死になって逃げた。しかしそれは虚しい抵抗だった。 篤志の体が上から覆いかぶさってきたかと思うと、苦もなくひっくり返されて仰向けにされた。そして息をつく間もなく右足を高く持ち上げられ、足と足の間に篤志が割り込んできたかと思うと、一瞬の暇もなしに僕に押し入ろうとしてきた。 「いや……いやだ! いや!」 僕は懸命に四肢をばたつかせて抵抗した。一瞬膝を抱え込まれていた手が離れ、束縛の力が緩む。だがその直後に、僕は再びビンタを食らった。 先ほどのものほど強烈ではなかったが、それは脅える僕を静かにさせるには十分だった。恐怖にヒクッと息が詰まる。緊張して硬直した僕の体を、篤志はもう一度押さえつけて強引に奪った。 彼のものが、ナイフみたいに僕の体につきたてられた。 「ああああっ!」 壮絶な悲鳴が唇から漏れた。 たとえようのない苦痛が全身を駆け抜ける。なんの準備もされてない、まだなんの愛撫すら与えられていないあそこに、力任せに押し入ってきた篤志のもの。しかも、そこにはなんの優しさもいたわりもなかった。愛情すらもなかった。 あるのはただ、怒りと苛立ちと、そして征服しようとする荒々しさだけ。有無を言わさず僕を従わせようとする、乱暴な欲望だけ。 篤志はあまりの苦痛に身を強張らせる僕をしりめに、情け容赦なく深く深く押し入ってきては激しく抱いた。まるでなにかにとりつかれたように、ひたすら強く突きまくる。僕は息ができぬほどの痛みの中で、かすれた悲鳴をあげ続けた。 「あああっ、ああっ、うあああっ!」 快楽なんて微塵もなかった。ただもう痛くて、恐ろしくて、そして哀しかった。僕はその時初めて、感情の介在しないセックスがどれほど辛く苦しいものであるかを思い知ったのだった。 いったいどのくらいの時間そうされていたのかわからない。永遠のように長くもあり、そして悪夢みたいに一瞬だった気もする。短い篤志のうめき声とともに、体の中に熱いものが放たれたのを感じた。僕は恐怖の中で、ほんの少し安堵した。これでようやく解放されるのだと、そう思ってホッとした。 だけどそれはあっけない幻想だった。しばし篤志の動きが止まったかと思うと、今度はくるりと反転させられ、うつ伏せにされた。篤志のものはまだ僕の中にあり、僕が戸惑い不安に震える中、彼の手が僕のものに伸びてきて、それを愛撫し始めた。 僕はしゃがれた声で拒絶した。 「や……やだ、やめて。篤志、いや……」 ただ肉体を奪われるだけではなく、僕の意志すらをも陵辱される気がして、僕はその行為を怖れた。その先にあるものを嫌悪した。 「やだ……お願い、もう……助けて。許して……篤志」 しかし彼の手は止まることなく、僕のものの上を撫でさする。苦しくて哀しくても、僕の体はその愛撫に反応し、ゆっくりと頭をもたげた。 彼の手の中で、自分の意志に反して膨れ上がっていく淫らな欲望。あっさりと快感のという魔物に支配された自分が、吐き気がするほどおぞましくて、泣きたくなるほど情けなかった。 「んあっ、ああっ、あ、やだぁ……いやぁ、もうやめ……あああっ!」 体の中で、再び篤志のものが固く張り詰めてくるのがわかった。そしてそれに耐えきれぬよう動き始められると、もう僕にも我慢ができないほどの快感が全身を襲った。 「ああっ! やあっ、あっあっ、うああっ、はあっ!」 どんなに心が拒んでも、体はそれを許さなかった。体中が炎に包まれたように熱くなり、目の前がちかちかするほどの快楽がわきあがる。僕は泣きじゃくり、乱れ、狂った。ポロポロと涙がこぼれ、絶え間なく嬌声をあげ、獣のように咆哮した。だけどおぞましく乱れ続けながら、心だけはどうしようもないほど冷たく凍りついていくのを感じていた。 僕の中の篤志がいっそう激しさを増して動きまわる。それと一緒に手も強く荒々しさを増して、僕を無理矢理絶頂へと引きずり上げた。頭の中に真っ白な閃光が走った。 「あ、いや! やああっ!」 絶叫とともに僕はいった。篤志の手の中に、自分の熱いものをぶちまけて。 なんて虚しいエクスタシー。なんて惨めな一瞬なんだろう……。 ガックリと脱力した僕の体に、篤志が二度目のものを放って果てた。小さなうめき声とともに、荒い息使いが背中ごしに響いてくる。いつもは幸福な気持ちを持って聞くそれも、今はただひとつの欲望が満たされたことの証しにしか過ぎなかった。 しばらくの間疲れた体を僕にもたせかけていた篤志だったが、やがてゆっくりと起きあがると、僕から離れていった。彼のものがするりと僕の中から抜け出ていく。それに伴ない、熱い液体が僕の体からこぼれて流れていった。そのおぞましい感覚に、僕はようやく解放されたことを知って、ほんの少しだけ緊張をといた。 篤志は僕の横に座ったまま、ハアハアと荒い息をついていた。なにも言わなかった。僕もまた、一言も発しなかった。 僕は情けなくだらりと床に転がったまま、ぼんやりとどこか遠くを見ていた。頭が真っ白で、なんにも考えられない。感じる心がどこかにいってしまったよう。壊れて捨てられた人形みたいに、身動きひとつしないで横たわっていた。 部屋のどこかで、カチャンと小さな音がした。積み上げられたコップかなにかが、ずれて動いたような音だった。 僕は無意識にそれに反応し、かすかに体をうごめかした。と同時に、一瞬あそこに強烈な痛みが走って、声も出せずにのけぞった。ズキンと電気が走ったような苦痛が駆け抜ける。それは、乱暴に犯されたのだという事実を、残酷なまでにまざまざと物語っていた。 (あ……) 麻痺していた感情がいっきに甦って、心の中に膨れ上がった。 見る見るうちに目頭が熱くなり、こらえきれぬ悲しみが湧きあがってきた。涙がポロポロと流れて、頬をつたった。それはこれまでに流したどんな涙よりも、哀しくて、冷たかった。 僕は床に突っ伏したまま、声をあげて泣きじゃくった。 「あ、ああ、……んっく、うああぅ、ひっく……あああぅ」 こらえようがなかった。苦しくて哀しくて、体中がバラバラになってしまいそう。どうして……どうしてこんな目にあわなきゃならないんだ? 僕たちは、愛しあっていたんじゃないのか? こんな……こんな残酷なつながりを持たなければいけないほど、僕たちの関係は不確かなものだったの? 僕たちは、いったいなにを間違ってしまったんだ……? 「夕日……」 篤志が戸惑うように僕の名をつぶやいて、そっと僕の背に触れてきた。彼の手が触れた途端ピクリと大きく全身が痙攣し、僕は必死の形相でその手から逃れようと這いずった。篤志が困惑したように僕を見つめる。僕は脅えた瞳でそれを見返し、震える声で嘆願した。 「いや……もう、許して……お願い」 彼が怖かった。もう一度やられるのかと思って恐ろしかった。 冷たく乾いた唇がぶるぶると震える。泣くことすらもできなくて、小さな子供みたいにただしゃくりあげた。 篤志は愕然として僕を見つめた。自分のしてしまったことの罪の大きさと、僕につけた傷の深さを思い知り、言葉もなく見つめている。やがて苦しげに目を細め、消え入りそうな声でぶやいた。 「夕日……」 そっと手を伸ばし、もう一度僕に触れた。ぴくっと身を震わせて無意識に逃げようとする僕の体を、篤志は優しく引き止め、そっとその腕で抱きしめて胸の中に包み込んだ。汗に濡れた彼の体から、熱い体温と規則正しい鼓動が伝わってきた。 僕はしゃくりあげながらその音を聞いていた。いつもいつも耳にしていた、暖かな音だった。幸福に抱かれたあとに聞こえてきた篤志の命の鼓動。穏やかな子守唄。愛しているとささやきかけるような、篤志の優しい心の声……。 緊張で固く強張っていた体が、ゆっくりと解放され、緩んでいくのを感じた。 耳元で、小さく声がした。 「ごめん……、ごめん、夕日……」 泣いて……いるのかと思った。 それほどに哀しい声だった。 僕の瞳からまたポロポロと涙が零れ落ちる。その夜、僕たちは二人して泣いた。 だけど静寂の部屋に響いているのは僕のすすり泣く声だけで、僕は彼の胸に抱かれながら、いつまでもいつまでも泣き続けていたのだった。 ≪続く≫ |