フェンスの向こうに

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4 金網の向こう側                       
 
 ふわりとなにかが額に触れた気がして、僕は目を覚ました。
 いまだ朦朧として、頭に霞がかかったみたいに思考が曖昧だった。ここはどこで、僕は今どうしているのかもすぐにはわからないまま、ぼんやりと周りを見る。すぐにその視界に篤志がうつった。
「篤志……」
 なんで彼が隣にいるのか、一瞬理解できなかった。ただキツイけれど優しい瞳がじっと僕を見つめているのだけが目に入る。僕はしばらく無言のまま彼を見返し、そして突然自分の置かれていた状況を思い出して、慌てて飛び起きた。
「今何時?」
 思わずそう叫んで、辺りをきょろきょろと見回した。ベッド脇のサイドテーブルにデジタルの目覚し時計があって、数字が深夜の十二時半を示している。僕はそれを知ってギョッとした。
「大変だ! こんな時間。帰らなきゃ」
 焦って起きようとする僕の手を、篤志がふいに握り締めて引き止める。すっかり慌てふためいている僕を見つめながら、彼はボソリと言った。
「帰るなよ」
「……え?」
「泊まってけよ、ここに」
 一瞬返す言葉もなくして呆然とする僕を、篤志はぐいと引っ張り寄せて、その胸に抱き入れた。細いけれど筋肉の張った腕が、僕をがっちりと捕まえて離さない。低い声で、すがるみたいに彼は言った。
「帰したくない。泊まってけ、今夜は」
「篤志……」
 僕は当惑してつぶやいた。それはとても嬉しかったけど、同じくらいに困惑する言葉だった。
 そりゃあ、できることなら僕もこのまま彼の胸に抱かれて、彼の傍に朝までいたい。篤志の寝息と鼓動に耳を傾けながら、それを子守唄にして幸福な気持ちで眠りにつきたい。だけど、僕は家を空けるわけにはいかないんだ。母はとても心配性で、そしてとても体が弱い。無断外泊なんかしてハラハラドキドキさせたものなら、絶対すぐに寝込んでしまうに決まっているのだ。
 僕はしばらく黙って篤志の胸に抱かれていたが、そのうちおずおずと押し返して言った。
「帰らなきゃ。家族が心配するから」
「夕日」
 小さな子供がタダをこねるみたいに、怒った顔をして篤志がにらむ。だけど僕もまた譲らず、真正面から彼の目を見つめて、ゆっくりと首を振った。
「帰らなきゃ……」
 二人して沈黙したまま互いをみつめあう。やがて篤志が折れて、ほうっと大きく吐息をついた。
「送ってやるよ。服を着ろ」
 いつになく力のない声。僕は心底申し訳なく思って謝罪した。
「ごめん……」
 篤志は口元にかすかに自嘲するような笑みを浮かべて応えた。
「いや、俺のほうこそ無理言った……悪い」
 そう言って、自ら立ってリビングの方へと歩いて行った。後ろ姿がなんだか凄く寂しそうで、僕は思わず駆け寄って抱きしめてあげたい気持ちになった。
 制服を着た僕に、篤志はタンスから薄いウィンドブレーカーを出して手渡した。
「着ろよ。夜の風は冷たいから」
「うん。ありがと」
 その夜、僕は初めて彼のバイクで自宅まで送ってもらった。電車はとうになかったし、もしタクシーで帰るからと言っても、きっと彼は聞きはしなかっただろう。篤志は、どうあっても僕を自分の手で送っていきたかったのだと思う。
 夜の街を、ぴったりと体をつけあって僕らは走った。借りた大き目のウィンドブレーカーがパタパタと風になびく。さすがに真夜中の風は冷たく、さっきまでぬくぬくとベッドの中でまどろんでいた身には骨まで染みて辛かった。篤志の腰にまわした両手が、凍えてジンとしびれていた。
 それでも僕は、不思議な安堵感を感じ、とても幸福だった。
 二人きりでいる時間。二人きりの世界。今ここには、誰もなにも存在しない。今こうして風を切って走っているのは、僕と篤志だけなんだ。僕たちは一つになって街を走り抜ける。その一体感は、まるでセックスしている時みたいに強い感覚で僕を包み込んだ。
 その時僕は初めて、もう二度と誰にもこの場所をこの世界を、明け渡したくはないと痛烈に感じたのだった。
 やがてたくさんの道を走り、たくさんの角を曲がって僕の家に到着した。とは言っても、さすがにこの時間家の前でブルンブルンとバイクのエンジン音を立てるわけにもいかなかったので、少し手前の小さな公園の前で降ろしてもらった。
 寝静まった住宅街に、騒々しく響くエンジンがやけにうるさく感じる。篤志はいったんエンジンを切って、僕を見た。僕は借りてたヘルメットを差し出しながら言った。
「ありがとう。送ってくれて」
 篤志はちょっとてれたみたいにうつむいて視線をそらした。そして地面をにらんだまま、ぼそぼそと喋った。
「大丈夫か? こんな時間に帰って」
 それってなんだか妙な気づかいだ。だって遅くなってしまったことはもう取り返しがつかないんだし、それに、だからと言って帰らないわけにもいかない。だいたい責任の半分は篤志にもあるってのに。
 僕はちょっぴりおかしくて、思わず口元をほころばせた。
「叱られるとは思うけど、でも仕方ないよ。大丈夫、なんとかなるから」
 篤志はちらりと視線を上げて僕を見、そしてまた目を伏せた。つま先はコツコツと地面を蹴って、ハンドルを握る手はスロットルの上をくるくる空回りばかりさせている。いつまでたっても帰る気配がなかった。
 なんとなくいつもの篤志らしくない。いつもなら、「またな」って一言言い残して、軽快にエンジン音を響かせて僕の前から走り去っていってしまう。それを名残惜しく見送るのは僕の役目だっていうのに。
 これじゃいつになっても僕は家に帰れない。ちょっと困って、しかたなく自分からさよならを言おうと思った矢先に、篤志が低い声でつぶやいた。
「今週中、もう朝逢えないかもしれない。バイクで通うかもしれないから」
 僕は小さくうなづいた。
「うん、わかった」
 なんだ、それを言いたくてなかなか帰ろうとしなかったのかって思ったけれど、どうやらそれだけではないようだった。相変わらず篤志ったら、いつになくはっきりしない態度で居残ってる。いったいどうしたんだろうと思っていたら、やがて意を決したように口を開いた。
「夕日……、俺、今度の日曜日、レースに出るんだ。その、試し走行を兼ねたちょっとしたミニレースなんだけど」
 彼はいったん言葉をとぎり、そして切れ長の瞳を横にすっと流して、僕を見た。
「おまえ、見に……来ないか?」
 ドキンと胸が鳴った。それは僕と篤志が初めて電車で会った時、彼が僕に向けてきたのと同じ眼差しだったから。
 きつくて、だけど深く心に刺さるような熱いなにかがあって、そしてちょっとだけ探るような色を含んでる。ふらふらっと心が揺れて即座にうなづいてしまいそうだったけど、たったひとつ心に残る思いが、僕を迷わせた。僕はおずおずと尋ねた。
「日曜日? 何時から?」
「予選なしのぶっつけで、午後の1時スタート」
(それ、理香さんも来るの?)
 その一言が咽まで出かかったけど、僕は必死になって飲みこんだ。それは決して口に出してはいけない言葉のように思え、そして答えを聞くのが何よりも怖かった。
 いや……答えなんて、聞かなくてもなんとなくわかってる。僕はただ、それを当然のように口にする篤志を見たくなかったのだ。醜い嫉妬に、心を痛めたくなかったのだ。
「予定がなかったら……行くよ」
 僕は曖昧に答えた。篤志の走る姿を見たい気持ちはいっぱいだったし、何を置いても飛んでいきたいのは山々だった。もしそれが、僕に許される世界であったとしたらだ。だけどやっぱり僕は迷ったのだ。
 それでも篤志は一応納得したのか、口元をわずかにほころばせると、手を伸ばして僕の首をつかみ、自分の傍に引っ張り寄せた。よろけたように近づいた僕の唇に、すっと顔を伸ばしてくちづける。ひんやりと冷たい感触に胸がジンとしびれた。
 ただ触れ合うだけの慎ましやかなくちづけの後、彼はそっと僕を離し、ささやいた。
「じゃあな。待ってるから」
 そう告げて、満足したように篤志はメットをかぶり、バイクを発進させて帰っていった。僕は独りその場に立ち、彼の姿や、走るエンジン音が遠く聞こえなくなるまで見送っていた。最後にくちづけていった唇にそっと指で触れてみる。そこから漏れたのは、ちっぽけな一言だった。
「ばか……」
 それが誰に向けて言ったものなのかは、自分でもわからなかった。


 日曜日は、抜けるような青空がいっぱいに広がっていた。
 初めて訪れたサーキットはいろいろと物珍しくって、僕はキョロキョロと辺りを見回しながらあちこちを歩き回っていた。
 まだようやく午後をまわったばかりで、レースが始まるという1時にはもう少し時間があった。だけどすでにサーキットの中ではたくさんのバイクが走っていて、すさまじい爆音が辺り中に響いている。それはあの篤志に連れられて行ったガレージで聞いた音よりも、遥かにすごいものだった。
 見物人らしき人たちも結構集まっていた。皆、楽しそうな顔をしている。若い男の人達から、結構年配のおじさん方、カップルの姿などもチラホラと見かける。だけど誰もがバイクが大好きって顔をしてる。きっと、ろくにそれがなんであるかも知らないで、のこのこやってきているのは僕だけなんじゃなかろうか。
 それでも、今日のレースは販売店が主催する小さなレースと言うことで、それほどピリピリした雰囲気はなかった。なんとなくお祭りみたいな楽しいムードが漂っていて、見て回っていても緊張が伝わってくるって感じではなかった。
「おい、夕日。うろうろしてないで、こっちこっち」
 悟に呼ばれて、のんびりフェンス越しに走るバイクを見ていた僕は、慌てて彼の元へと駆けていった。
 そう、今日は悟と一緒なんだ。
 彼と一緒に来た理由は二つ。ひとつは、僕がポロリとレースのことを漏らしたら、バイク好きの彼がめちゃくちゃ見に来たがったからだ。以前悟は、自分はバイクで走ること自体が好きなのであって、レースや競争にはあまり興味はないのだと言っていた。けれど、そこはそれ、やっぱり実際に話を聞くと好奇心がツンツン刺激されるらしくって、僕よりもよほどワクワクした様子で今日を心待ちにし、今もまた目の色をキラキラさせている。そして、なんにも知らない僕に、楽しそうにいろいろと説明してくれた。
 彼を連れてきたもうひとつの理由は……、それは僕の弱さゆえだった。
 僕は独りでここに来ることがとても心細かったのだ。僕だけが違う世界の、取り残された存在になるのが怖かった。
 前に何度かお父さんに連れられてここに来たことがあるといった悟は、慣れた様子で僕を引き連れてどんどん進んでいった。僕は一緒にくっついて歩きながら、いったいどこに向かっているのか尋ねた。
「どこ行くの? 悟?」
 悟はちょっと呆れたような顔をして応えた。
「どこって、ほら。ピットだよ。おまえ、あの男に会いたいんだろ?」
「え? いや……そう、だけど……でも」
「大丈夫だよ。おまえ、あいつに招待されたんだし、それに小さなお遊びレースだから、黙って入ってっても叱られる事ないって」
 悟はそう言うと、怖気づいてる僕を引っ張って歩いていった。
 メインスタンドの向かい側にピットは並んでいた。ピットっていうのは、レースに出場する車を整備したり待機させたりする場所のことで、それぞれのチームごとにひとつ、小さな部屋が割り当てられる。そこでレースまでの時間を、いろいろセッティングの最終調整をしたりタイヤを暖めたりして待っているのだ。レースの最中も、走ってるライダーたちにいろいろと指示を与えたり、時には故障やトラブルで戻ってきた車を直したりすることもある。ようは、チームごとの楽屋って感じだろうか。
 ピットにはたくさんのチームが入っていて、さすがに皆見物人たちとは違う緊張した面持ちでそれぞれの作業をしていた。中には、やっぱりお祭りみたいなのんびりした雰囲気で楽しそうにやってるところもあったけれど、幾つかのチームにはマジで真剣な空気が漂っていて、ビンビン痛いほど張り詰めた緊張感が伝わってくる。そして、そのうちのひとつが、篤志のいるチームだった。
 『チーム・LIGHTNING』って描かれた看板が入り口近くに立て掛けられていて、なかでは十人くらいの人たちがいろいろと忙しそうに立ちまわっていた。あの時店のガレージで会った人たちは勿論、見たことのない男の人たちも何人か集まっていた。
 そして、その中に篤志がいた。
 胸元に白い切り替えのある真っ黒なライダースーツを着て、バイクの傍で店長さんと話をしていた。
 初めて見るレーサー姿の彼は、なんだかものすごくかっこよく見えた。黒いスーツには、横にある車体とお揃いみたいに腕と脚に黄色いラインが入っており、あちこちにいろいろなメーカーやらなんやらのロゴがいっぱいついていた。レース用のライダースーツってのは、多少転んでも大丈夫なように肩やら肘やらにがっしりと固いパッドが入っているそうで、それを来た篤志は、いつもよりずっとたくましそうで、そして精悍な感じがした。
 話している横顔もいつになく真剣で厳しい。まるで今から戦いに行く戦士みたいな顔をしてる。
 僕はとてもじゃないけれど声をかけることなど出来なくて、ただ黙ってつっ立って、その様子を眺めていた。
 ふと、僕たちの横を誰かが通りすぎて、ピットの中へと入っていく。その人はなんら臆することなく中にいる人たちに向かって声をかけた。
「ゴメンねー、遅くなっちゃった。はい、飲み物で―す」
 それは、理香さんだった。
 彼女はスタッフと同じジャンパーを着、腕にいっぱいの飲み物の缶を抱えて、明るく笑っていた。仕事をしていた人たちが、皆ホッとしたように表情を緩め、彼女の手から飲み物を受け取っている。理香さんは篤志の番まで行くと、小首を傾げて申し訳なさそうに言った。
「ごめん、あっちゃん。ポカリどこの自販も売り切れ。似たようなの買ってきたんだけど、それでいーい?」
 篤志はいやな顔ひとつ見せずに、素直に受け取った。
「ああ、いいよ。スポーツドリンクならなんでも」
 そう言って、彼女の目の前でそれを飲んでみせる。
 それは……とても自然な光景だった。昨日や今日に始まったものじゃない、ずっと以前から続いてきた、深くつながった関係。しかも二人は今同じ世界に立っているのだ。僕の入りこめない、篤志の世界に……。
 僕がぼんやりと黙って見ていると、横で悟が遠慮がちに肘で小突いた。
「おい、声かけないのか?」
 僕はちらりと彼を見、首を振った。とてもそんな雰囲気じゃないような気がした。
 だが、そんな僕の気持ちに反して、中の一人が僕に気づいて声をあげた。
「あれぇ? 篤志の友達っていう子じゃないか? 観戦に来たのかい?」
 その声に、篤志がハッとしたように顔を向けた。すぐに僕を見つけて、こちらに向かって歩いてきた。と同時に、僕の横にいる悟にも気づいて、ちょっと訝しげな眼差しを向ける。それでも、僕の前まで来たら、なんとなく嬉しそうにつぶやいた。
「来たんだ?」
 僕は小さくうなづいた。
「うん」
 篤志は満足そうに表情を緩め、それからちらりと悟をうかがった。どうやら、初めて会う彼が気になるらしい。僕は急いで紹介した。
「あ、彼ね、僕の友達で、桑田悟っていうんだ。前に話したろ? 親戚で幼なじみの友達がいるって。バイクが好きで、レース見たいって言うから一緒に来たんだ」
 悟は口元に人懐っこい笑みを浮かべて、頭を下げた。
「どうも。いつも夕日がお世話になってるそうで」
 それを聞いて、僕は顔から火が出るほど赤くなった。だってその言い方じゃ、悟が僕たちのことをなにもかも承知の上だってのは、明々白々じゃないか。しかもなんだかひどく意味深に。
 僕はドキドキしながら篤志をそっと見上げた。だが彼のほうは、そんなことは気にする風もなく、ただなんとなしに不機嫌そうに眉をひそめ、それでも一応軽く会釈を返して挨拶した。
「どうも」
 声が低く冷たい。やっぱりどこか不機嫌だ。僕は悟を連れてきちゃいけなかったのかな、なんて思いながら、おずおずと話しかけた。
「あの……篤志、頑張ってね。それから、気をつけて」
 篤志はすぐに口元をゆるめ、自信ありげに微笑した。
「ああ、今日のレースは全然楽勝だ。出てる連中にもたいしたのはいないし、こっちもどうせ足慣らしみたいなもんだから」
「そうなの?」
「ああ。ポイントにもならないローカルレースだからな。もっとも、出るからには絶対勝つけど」
 そう言った篤志の顔は、今まで見たどんな彼よりも、強く、そしてキツイものだった。ふてぶてしいくらいに自信が溢れてる。新しい彼に僕が声もなく見入っていると、奥から誰かが声をかけた。
「篤志、そろそろエンジンかけるぞ」
 篤志は降り返って合図をし、そして僕に言った。
「ピットで見てていいぜ。いいか、ちゃんと見てろよ。誰もついて来れないくらいにぶっちぎってくるからな」
 僕の応えも聞かずに、彼は身を翻して戻っていった。彼が行ってしまった後、悟がぽつんとつぶやいた。
「すっげえ自信」
 僕はチラッと悟を見た。本当にその通りだ。あんな彼は初めて見る。いつもはきついけれど自分から己をアピールするようなタイプじゃない。どちらかというと、控えめなくらいに自分のことは語らない。黙って人にやられてるタイプでもないけれど、自分から喧嘩を売るような人間では決してない。
 だけど今の彼は、ゾクゾクするほど攻撃的な感じがした。
 やがてバイクに本格的にエンジンがかけられた。バウンとお腹が震えるような轟音がして、レーサー独特の低く地を揺るがすような排気音が広がる。悟が興奮したようにつぶやいた。
「うはっ、すげぇ。たまんねーな、このエキゾーストノート。しびれるぜ」
 悟ったら、すっかりのめりこんで、目をキラキラさせながら食い入るように凝視していた。だけどその気持ちはよくわかる。それは、バイクにまるっきり無知の僕ですら興奮させるような、魂を揺さぶる音だった。それに魅了され、引きこまれてのめり込む彼らの心情はとてもよく理解できた。
 そのうち、あちこちのピットでも似たような音が響き出す。そろそろスタートの時間が近いのだ。ここのピットでもにわかに慌ただしくなって、辺りを包んでいる緊張感が倍増した。
「おい、タイヤウォーマー外せ。そろそろ出るぞ」
「篤志、走り始めは5000から7000くらいの間で少し頭打ちがあるかもしれん。ヘアピンではなるべく回転を落とすなよ」
「誰かコース状況を聞いてこい。さっきどっかのチームが転倒してたらしいぞ。オイルでも零れてたらやっかいだ」
 エンジンの轟音に負けないほどの大声が、あちこちで飛び交っている。バタバタと忙しく走りまわる人たち。ピンと張り詰めた空気。いよいよ戦いが始まるのだ。どんなに小さな規模であれ、レースはレース。勝つ者と負ける者が必ず存在する。そして参加する誰もが、その頂点を狙って走る。
 レースでは結果がすべてなのだと以前篤志が言った。厳しい言葉だけど、その通りなのかもしれない。一緒に走って一緒にゴールする仲の良さなんて、必要とされない世界なのだ。
 篤志は開けていたスーツの前をキリリとしめ、両手にレーシンググローブをはめた。顔つきがいっそう険しく、まるで尖ったナイフみたいにきらめいてる。
 理香さんがすかさずメットを手渡した。
「はい、あっちゃん」
 篤志は無言のまま受け取った。ありがとうも何もない、それが当然であるかのごとくの行為だった。きっと、いつもいつもレースで、準備をする篤志に最後にメットを手渡すのは彼女の役目なんだろう。
 篤志は右手で髪をかきあげると、兵士が鎧を身につけるようにすっぽりとメットをかぶった。そしてしばらく天を仰ぐみたいに天井を見上げていた。やがてひとつ大きく深呼吸したように肩を上下し、きっぱりと言った。
「行きます」
 そうして仲間の人たちが押さえていたバイクにまたがり、ハンドルを握り締める。店長さんが、横から大きな声で指示を出した。
「いいか、篤志。今日のレースはあくまでも試し走行だからな。間違っても熱くなって危ない真似はするなよ。絶対にマシンを壊すな」
「はい」
「A・ファクトリーとレッドゾーンの2チームだけチェックしろ。あとはゴミだ。へんなトラブルに巻き込まれないようにだけ気をつけりゃいい」
「はい」
 そして最後に、彼の肩を店長さんがポンと大きく叩いた。
「よし、勝ってこい」
 その言葉を合図に、篤志を載せたバイクが滑るようにピットを出て行った。オイルの焼ける匂いがそこいら中に残って、名残惜しそうに行ってしまったマシンを見送っていた。
 ピットの中は、無事に送り出したことに一瞬だけ安堵の空気が漂う。だがすぐに、これから始まる戦いに向けて、新たな緊張に包まれた。
 後ろでぼうっと立って見ていた僕たちに、前にガレージであった男の人が親切に声をかけてくれた。
「おい、きみたち。もっとこっちに来て見ていいぜ。どうせ今日のレースは、途中の作業もないだろうから」
 だけど僕はゆっくりと首を振った。
「いえ……、僕、スタンドの方で見てますから」
「いいの? かまわないんだぜ?」
 心優しく薦めてくれる言葉を丁寧に辞退して、僕と悟はピットを離れてスタンド方向へと戻っていった。途中、歩きながら悟がつぶやいた。
「なあ、いいのか? ピットで見てろって言われてたんじゃねーの?」
 僕はアスファルトの地面を見つめながら、ぼそぼそと応えた。
「いいんだ。あそこにいたら邪魔だろ? どうせ僕たちにできることなんてなんにもないし」
「そりゃそーだけど……でもなぁ」
 悟は未練がましそうに振り返って、ちらちらと後ろを見た。悟としては、滅多に機会のないピットからの観戦という美味しいチャンスを、逃したくなかったに違いない。だけど僕は、あそこにいるのが辛かった。あのピットの出入り口の間際から、中に1歩踏みいることが出来なかった。どうしてもも見えない壁があるようで。
 メインスタンドに着いた時には、ちょうどウォーミングアップ・ランが終わって、各マシンがそれぞれのグリッドについたところだった。小さなレースと言うことで、予選のない、くじ引きで決められたグリッドだ。篤志のマシンを探したら、ずいぶん後ろの方だった。
 それぞれの車体がバウンバウンと低い轟音を響かせている。サーキット場ではアナウンサーみたいな人が、軽快な喋りで中継を始めだしていた。
 皆が見守る中、コース脇の縦に並んだランプが赤に染まる。それがひとつづつ消えて行き、最後のランプが消えたと同時に、すべてがグリーンに点灯する。そしてマシンは轟音一発スタートした。
 わあっとスタンドから歓声があがった。戦いであり、カーニバルであるレースが始まったのだ。
 スタート直後に、後方から物凄い勢いで飛び出して、あっという間に先頭集団に迫ったマシンがあった。
 黄色いカウルに黒の車体――篤志だ。
 篤志はゴチャゴチャひしめく後方集団から一挙に飛び出し、第1コーナーを曲がる頃には、すでに五番目の位置まであがってきていた。とんでもないスピードだ。見事なロケットスタートにおおおっとどよめきが起こる中、グイッと車体を倒し、地面にこすりつけるように斜めになってコーナーへと進入する。そして切れ味のいいブレーキングで、一瞬のうちにインから入って目の前の2台を抜き去った。
 素晴らしいパフォーマンスに、観客達が大喜びで沸き立った。アナウンサーがあおるように褒め称え、絶叫している。レースは序盤から、おおいに盛りあがっていた。
 僕は言葉をなくし、茫然として見つめていた。初めて見る生のレースは、考えていた以上に迫力があって、僕を圧倒した。いや、なによりも、僕は篤志に圧倒されたんだ。
 かっこいいなんて言葉じゃ表現できない。それは、僕が知ってる篤志じゃなかった。一人のレーサー。しかも、素晴らしい腕を持つ才能あるレーサーだ。僕は素人だけど、今走ってる彼がまわりのどんな人たちも足元に及ばないほど、桁外れに速いのだということはよくわかった。
 確かに、レベルの違うレースだと彼自身も言っていた。だけど、それだけじゃない。彼は速い。速くて上手い。きっと彼が以前聞かせてくれた彼の夢も、決してただの夢物語ではないのだ。それは頑張れば手に入れられるほど、現実に近いものなのだ。
 悟が横で、感嘆の声をあげていた。
「すげぇ……。あいつ、メチャクチャ速いな。ほんとにぶっちぎってるぜ」
 僕には返す言葉もなかった。誰が見ても、篤志は速いのだ。僕のひいきめだけじゃないのだ。
 レースは順調に進み、篤志はすでに三周目にしてあっさりとトップに踊り出ると、追随を許さなかった。悟が言うには、それほど厳しく攻めているわけではなく、かなり余裕を持った走り方だそうだけど、それでも彼の後方に追いかけてくる者の姿はなく、完全に一人舞台だった。
 僕たちの前に座っていた若い人たちが、大きな声で話し合っていた。
「あの黄色いの、すげぇ速いな。なに、森川っての? あいつ、出るとこ間違って出てんじゃねーのか?」
 どうやら篤志のことを話してるようだった。隣の人が、呆れたように応えた。
「まあ、そんなようなもんだよ。あいつ、エリアに出てる奴だぜ。しかも総合でトップ狙ってる一人だろ?」
「そーなの? なんでそんな奴が、こんなお遊びレースに出てんだ?」
「なんかさ、再来週Sサーキットで全日本の第9戦やるだろ? それにスポットで出るって噂だぜ。それに向けて、マシンの慣らし走行でもしてるんじゃねーのか?」
「うわ、嫌味―。んじゃ、最初っから勝ちは決まってるみたいなもんじゃないか。他の奴ら、可哀相になぁ」
 はははと大きな声で笑い会う。話してる内容の半分くらいはよくわからないものだったけど、どうやら人の噂に立つほど、篤志はそれなりに名の知れたライダーらしかった。
 悟が、こつんと肘で小突いて、意味ありげににやりと笑った。
「すごいじゃん。あいつ、結構有名人なんだ」
 自慢だろ、とでも言いたげに、悟は笑っていた。だけど僕は、口元に浮かべて返した笑みが心の底から沸いて出たものじゃないのを知っていた。僕はかっこいい篤志をこの目で見れたことに感激していたけれど、その倍以上うちのめされていた。
 フェンスの向こう、サーキットの黒いコースの上を弾丸みたいに駆けぬけて行く彼。それをスタンドから見ている僕。その世界は、あまりにも遠く隔たっていた。
 フェンスの向こうにいるのは、僕になどとても手の届かない篤志だった。かっこよくて、素晴らしい才能を秘めた、期待のレーサー。なんの取り柄もない僕なんかが、傍にいる必要などない人。そしてそんな彼を受けいれているのは、金網の向こうで一緒に立っている人たちだ。黙ってこちらで観戦しているしか能のない僕なんかじゃない。
 僕は彼には似合わない。
(凄い……、凄い、篤志。かっこいい……)
 興奮に胸が震えた。感動と一緒にどうしようもない寂しさが沸きあがってきて、目頭がじわりと熱くなる。流れ落ちそうになる涙をパチパチと瞬きして、僕は必死に押しとどめた。
 やがて、圧倒的な強さを持って篤志が一位でフィニッシュした。スタンドから大きな拍手と歓声がわきおこり、それに応えるように篤志が右手でガッツポーズをしてみせる。そんな姿も、いつもの彼からは想像もできないのに、だけど物凄くさまになっていた。
 後続車がまだ走っているコースをゆっくりと一周し、最後にピットに戻っていった。ピットでは仲間の人たちが満面に笑みを浮かべて、大喜びで彼を出迎えていた。どんなに小さなレースだって、一位をとるのはやっぱり彼らにとってもライダーにとっても嬉しいのだ。
 篤志がメットを脱いで彼らに応える。遠くからだったけど、彼もすごく喜んでるのがよくわかった。居並ぶ人たちにハイタッチで挨拶し、一番最後に店長さんと握手したあと、グシャグシャと荒っぽく頭を撫でられていた。
 それはいつもの彼らの風景だった。バイクレースという世界で共に戦う、理解と信頼をわかちあった仲間たちの風景。そして……その中には理香さんもいる。これ以上はないっていうくらい嬉しそうに笑って、篤志の横で幸せそうにはしゃいでる。 
 僕は黙って彼らを見ていた。ピット正面のスタンドに立ち、金網のフェンス一枚隔てたこちらの世界で、じっと篤志を見つめていた。おめでとうって、心から素直に喜んであげられない、そんな自分をなによりも嫌悪しながら、惨めな思いにとらわれて……。
 そのうちレースが終わって、すぐに簡単な表彰式が始まった。
 正式な大会とかじゃないので、とても簡易な式だったけれど、それはそれなりにアットホームで楽しげな雰囲気に満ちていた。アナウンサーの人が軽やかなお喋りで盛り上げている。コースの脇に急場で作られた簡単な表彰台に、紹介されたライダーたちが登っていく。もちろん、一番高い所にいるのが篤志だった。
 ちっちゃなトロフィーが渡され、そしてなんだかわからないけれど大きな箱の商品が手渡されて、篤志は腕いっぱいにそれらを抱えて、嬉しそうに笑っていた。
 あんな篤志の笑顔ってそうそう見られるもんじゃない。僕といる時にだって滅多に見せてはくれない表情だ。心の底から喜んで、それをてらいなくさらけだしている。僕はそんな彼を見ていて、胸がツンと痛くなった。
 もし……もし僕が彼らの仲間だったら……、僕はきっと、あの笑顔を見るためにすべてを投げ出してもいいと思うだろう。あの笑顔のためならなんだってする。どんな作業も、どんな辛い仕事もかまわない。もし僕があの世界にいられたのなら、僕だって彼のためになにかをしてあげることができたんだ。そして、一緒になってその喜びを感じていられたのに。
 だけどやっぱり僕は、こうして金網のこちら側から見ているしかなくて、共に手をとりあって勝利に狂喜することは許されていないのだった。
「おおっと、可愛いレースクィーンの登場だぁ。ここは一発、優勝した彼に勝利のキスってやつかなぁ?」
 ふいにそんなアナウンサーの声が聞こえて、僕はハッとした。
 見ると、チームの仲間や他のチームの人たちに後押しされて、理香さんが照れくさそうに表彰台のほうに向かって行くところだった。周りの観客がワイワイとはやしたてる中、えー、やだぁ、なんて可愛い声を漏らしながら、手に小さな花束を持ってしかたなさそうに歩いていく。それでも、その顔はとっても嬉しそうで、決して嫌がってはいなかった。
 表彰台まで行くと、ニッコリ笑って篤志に花を手渡した。後ろで皆が騒ぎ立てるのを困ったように唇を尖らせて振り返り、それでもしかたなさそうに、かがんだ篤志の顔に唇を近づけ、そっと頬にキスをした。
 わあっと歓声やら野次やらがあがって、盛大に拍手が沸き起こる。照れくさそうにペロッと舌を出して笑ってる理香さん。
 そして……そんな彼女を、篤志は手を差し出しかと思うと、ぐいと表彰台の上にひっぱりあげ、自分の横に立たせた。
 いっそう高く歓声があがる。それはまるで、外国のレースの表彰式を見ているような、キザで、だけどカッコイイ光景だった。見る者すべてを楽しいお祭り気分にさせるようなパフォーマンスだった。
 だけど、僕だけはそれを見て笑うことはできなかった。
 ふと、横にいた悟が低い声でつぶやいた。
「……なんだよ、あれ」
 ちらりと彼をうかがうと、悟は怒ったように険しい顔をして、不満げに唇を結んでいた。なんだか、今にも飛び出していきそうな雰囲気だ。
 僕は悟の服の袖を小さく引っ張って、ささやきかけた。
「行こ、悟」
「夕日……」
 僕はそのままレース場に背中を向けて、出口に向かって歩き出した。すぐについてきた悟が僕の手をとって引き止め、憤然とした様子で言った。
「おまえ、いいのかよ、あれで?」
「なにが?」
「なにがって……!」
 僕は興奮している悟を冷めた目で見つめながら応えた。
「いいもなにも、どうこう言うようなものじゃないだろ? 篤志は勝って、それをお祝いしてるんだから」
「そうじゃなくて、あの女……」
「彼女だって仲間だもん。一緒に表彰台に立ったって不思議じゃないよ。別におかしくなんか……」
 そう言いながら、胸がぎゅっと握りつぶされたように痛くなる。自分で口にしておきながら、心との食い違いに押しつぶされそうだった。
 僕は思わず言葉をとぎらせ、そのまま黙ってうつむいた。きっと今の僕はすごく醜い顔をしてる。嫉妬やら羨望やら、敗北感やら、それにどうしようもない自己嫌悪と惨めさが、胸のうちでグルグルと回ってる。口を開いたら汚い言葉が出てきそうで、ぐっと固く唇をかみしめた。
 悟はしばし難しい顔で僕を見つめていたけれど、やがてひとつため息をついて、そっと肩に手を触れた。
「帰るか……」
 そう言ってくれた彼の優しさが嬉しかった。
 僕たちは無言のまま並んで歩き出した。が、少し歩いたところで、突然うしろから呼びとめられた。
「夕日!」
 心臓がドクンと高鳴って、一瞬息が詰まった。
 篤志の声だ。
 僕はゆっくりと振り向いた。
 向こうから、篤志がライダースーツのまま走ってくるのが目に入った。優勝の興奮がいまだ冷めやらぬ感じで、高揚した表情で駆けてくる。篤志は僕たちの傍まで来ると、横にいる悟は無視するように、僕だけを見て口を開いた。
「なにやってんだ、夕日。探したぜ」
 僕はちょっと戸惑いながらも、唇に無理矢理笑みを作ってみせた。
「優勝おめでとう、篤志。すごかったね」
 篤志はニッコリと笑った。
「ああ、まあな、格下相手の負けるわけにはいかないレースだったし」
 勝って当たり前って感じで応えてはいたけれど、それでもやはり嬉しそうな雰囲気がにじみ出ていた。僕が黙って見つめていると、篤志はちょっと不服そうに眉をひそめ、文句を言った。
「それよりおまえ、どうしてピットで見てなかったんだ? あそこにいろってさっき言って……」
 その時篤志の言葉を遮って、横に立っていた悟が憮然とした表情で口を開いた。
「あんたさ、いったいなに考えてるわけ?」
「え?」
 突然口を挟まれて、篤志はビックリしたように悟に目を向けた。その時初めてちゃんと彼を意識したみたいに、キツイ瞳を向けてにらむ。だが悟も負けずに、キッとにらみ返して話しだした。
「森川さんだっけ? あんた、確かにカッコイイよな。速いし、上手いしさ。俺が見てても惚れ惚れするぐらいすごいよ。見てくれだって良いし、もてるのも無理ないよな。だけどさ、だからと言って、あっちこっちでいい顔して許されるってもんじゃないんだぜ」
 篤志は急にそんな話を出されて、当然のように当惑していた。なに言ってるんだって顔で、憮然として悟を見返している。言い返すことすら忘れたみたいに。
 だけどそれは僕も同じだった。僕も突然悟がそんなことを言い出したのに驚いて、かける言葉すらなくしていた。そんな僕たちの視線の中で、悟は憤然として言葉を続けた。
「あんた、夕日がどんな気持ちでさっきの表彰シーン見てたかわかってんのか? あんた、こいつの痛みがわかってんのかよ?」
 まるで今にもつかみかかっていきそうなほどの勢いで、悟は篤志にくってかかった。
 さきほど僕に見せた不満を、今度は胸のうちにしまうことなく敢然とさらけだす。僕はどうしてよいかわからず、ただおろおろと小さくつぶやくだけだった。
「悟……やめて」
 だがそんな願いは悟の耳には入らなかった。悟はなんら躊躇することなく、感情のままに思うところをぶちまけた。
「なんだよ、あの女。アレがあんたの彼女なら、こいつはなんだよ? あんた、夕日とつきあってんだろ? 本気だって言ったんだろ? なら、どうしてあんな女とベタベタすんだよ? それもこいつの目の前で、こいつがいることを知っててさ……。あんた、こいつが平気だとでも思ってるのか? 夕日がいつもなんにも言わないで黙ってるから、それで許されてると思ってるのか? え?」
 それは悟の素直な怒りだった。悟はさっき目にして感じた憤りを、僕に対する同情を、そのまま口にしたのだった。
 だが突然それを受け取った篤志は、ひどく驚いたみたいに唖然として聞きいっていた。一言も言い返すことなく、ただ黙って立ち尽くしている。そんな篤志の前に、悟は僕を隠すように立ちはだかって叫んだ。
「俺……別にあんたら邪魔する気は全然ない。だけどな、夕日を泣かせるようなことは許さねえ。 そんな奴に、こいつはやらない! 絶対に!」
「さ……」
「行くぞ! 夕日!」
 悟はそう言い残すと、僕の腕をつかんでさっさと出口に向かって歩きだした。
 僕は腕を引かれて歩きながら、顔だけ振り返って篤志を見た。篤志はいまだ呆然とした様子で、黙ってその場に立っていた。
 僕を引き止めようともしない。そしてまた、僕も悟の手を振り払って足を止めようとはしなかった。
 僕はもう一度篤志のほうに視線を向けた。一瞬目があい、篤志が僕を呼びとめようとするようにかすかに口を開くのが見えた。だけど僕は、黙ってそれを見流した。
 応えられなかった。悟をふりきって、彼の元へ戻ることはできなかった。だって、悟がさっき言ったのは紛れもない僕の本心だったからだ。僕が自分自身の心にすら口に出して言えなかった気持ちを、悟がそっくり言ってしまったから。
 もう自分にすらごまかすことはできないんだ。僕がどんなにドロドロした感情を持って篤志と理香さんを見ていたのかを。
 篤志を置いて、僕たちは無言のまま歩いた。
 大きな門を出て外の道に入ったところで、ふいに悟が足を止め、うつむいた。そして苦しそうに顔を歪めて、ぽつんとつぶやいた。
「……ごめん。俺、勝手に熱くなって……」
 手首をつかんでいた手をいったん緩め、そして謝るみたいにまたぎゅっと強く握り締める。僕はしばしそんな彼を見つめ、ゆっくりと首を振った。
「いいよ……」
 僕は掴まれた手で悟の手を握り返し、そっとつぶやいた。
「帰ろう、悟」
 悟が顔をあげ、せつなそうに僕を見る。僕はかすかに微笑んで、そして彼を促して歩きだした。
 言葉もなく歩く僕たちの背中に、翳りはじめた夕刻の日差しが惜しげもなくふりそそいでいた。

 
     
                                            ≪続く≫
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